2017年2月21日火曜日

映画『エリザのために』評text成宮 秋洋

「“我が子のために”という親の無関心」


 ある朝、ルーマニア・クルージュの静かな団地の一角に住む医師ロメオの自宅の窓を何者かが石を投げて割った。辺りは静々としており、割れた窓の破裂音だけが強烈に響いた。ロメオは犯人を捜索するも見つけられず断念する。

 この映画の出だしは、こんな不穏な気配を画面に漂わせながら始まる。

 その後、ロメオは娘のエリザを学校まで車で送っていくが、途中でエリザを車から降ろし歩いて登校させる。ロメオには愛人である英語教師のサンドラがいて、エリザを車から降ろしたのはサンドラと密会するためだった。

 ロメオがサンドラとの密かな関係を楽しむ中、衝撃の連絡が届いた。エリザが暴漢に襲われ怪我を負ったというのだ。ロメオが病院に着くと、先に着いていた妻のマグダからどうしてエリザを途中で車から降ろしたのか詰問される。二人の夫婦仲は前々から芳しくなかった。

 奇跡的に重症を免れたエリザだったが、強姦未遂という出来事にショックを隠しきれず失意に陥る。エリザはイギリス留学を控えており、留学を確定するには学校の卒業試験に合格しなくてはならなかった。試験は翌日。しかし彼女はとても試験を受けられる精神状態とはいえなかった。

 エリザのイギリス留学を望むロメオは、なんとしてもエリザを試験に合格させようと、あの手この手と自らのコネやツテを利用し卒業試験に関係する人物たちを説き伏せていくが……。

 物語の流れだけを辿っていくと、心に傷を負ってしまった娘のために父親が奔走する話に見える。表面だけをなぞれば素直な感動を呼ぶ物語に思えるだろう。しかし、実際に映画を観ながら物語を辿っていくと、どうにも素直に感動できない。ロメオのエリザに対する感情に娘への愛以上に親としてのエゴを強く感じたからだ。

 そもそも娘の卒業試験を合格させるために汚職に走る主人公に共感を覚える人はそれほどいないのではないだろうか。卒業試験を受けるか受けないかを決めるのはエリザ次第であり、ロメオに決定権はない。

 しかし、本作ではエリザの方にこそ決定権がないように描かれている。ロメオとエリザの会話は常にロメオ主体でエリザは受け身のままである。この場面があまりに自然に描かれている様子からして、強姦未遂に遭う前からすでにロメオの家庭ではエリザに何かを選ぶ権利はなかったのだと推量できる。

 本作は、“我が子のために”という親の無関心を描いている。

 映画は、ロメオの主観によって進行していく。ロメオは、エリザを試験に合格させるため、副市長や試験管、警察署長、さらには仲の悪い妻のマグダや愛人のサンドラ、そしてエリザに将来の選択肢を与えるように諭す自身の母親に至るまで、理屈を詰めて説き伏せていく。

 その危うい情熱を秘めた弁舌ぶりには、エリザへの愛とは異なる何かに取り憑かれたような執念を感じる。そこにはエリザを含め、他人への関心はないのだ。実際に、愛人のサンドラの息子のマテイを初めて見た時もロメオは無関心を示し冷たく対応してしまい、サンドラの顰蹙を買ってしまう。

 こうした“我が子のために”という動機で起こしたロメオの一連の行動には、真の動機が存在するのは明らかである。それは娘への愛を隠れ蓑に、ロメオ自身の不安を解消しようとする個人的な動機である。それは祖国ルーマニアへの絶望から来る将来の不安である。

 第二次世界大戦後、ソビエト連邦の圧力を受け共産化したルーマニアは、ニコラエ・チャウシェスクによる長い独裁政権が続いた。1966年に妊娠中絶を禁止した法律をチャウシェスクが作ったことで、子どもが増え続け、経済的な支援が困難となった多くの子どもたちは路頭に迷い、治安が悪化。彼らは物乞いや買春などによって日々の生活を凌いだ。

 また、チャウシェスクは西側諸国からの対外債務を返済するために憲法を改正し、自国の生産品や工業品の強引な大量輸出を行い、物資不足を招いた。そのため、1980年代のルーマニアでは飢餓が発生し、多くの人々が貧困に喘ぐことになった。

 本作の監督を務めたクリスティアン・ムンジウが2007年に手掛けた代表作である、妊娠中絶をテーマとした『4ヶ月、3週と2日』は、このチャウシェスク独裁政権によって混乱に陥った1980年代のルーマニアを舞台としている。

 やがて、チャウシェスク独裁政権は1989年12月に勃発したルーマニア革命により崩壊し、チャウシェスクは処刑され、非共産党政権が樹立、民主化が進むことになった。ロメオは、このルーマニア革命後に祖国に戻ってきた人々の一人であり、チャウシェスク独裁政権以後のルーマニアを生きる人々の一人でもある。

 ロメオが祖国であるルーマニアに抱く絶望は、結局のところルーマニアが血で血を洗う革命を経た後も根本的な変化がなかったことにあると思える。ある調査によると、ルーマニアはEU加盟国の中でも汚職が蔓延しているとされ、失業率も高く賃金も低い。前述したチャウシェスク独裁政権時代の課題も残り続け、ある意味でルーマニアは未だ混乱した状態にあるとロメオには見えたのかもしれない。

 ロメオは、副市長や警察署長、試験官など公的な組織に属する人たちにエリザが試験を合格できるように説き伏せていくのだが、個々のこれといった葛藤もなく自然にあっさり話が通ってしまうのも汚職が蔓延したルーマニアの実態を明らかにしているといえる。

 表面的には見えることのないこのルーマニアの実態はロメオ自身も間違いなく見てきた実態であり、深い絶望の証といえる。そのため、自分の家族であっても堂々と自分の想いや考えが正しい(今回の場合は、“やむを得ない時は不正を行ってもいい”)と理屈を詰めて説き伏せられるのだ。

 しかし、世の中は絶えず変化するものである。ロメオの生き方や価値観も同じだ。その変化のきっかけはロメオ自身が招いたものだった。彼が行ったエリザの卒業試験を有利に進めるための一連の裏工作が順調に進んでいく最中、協力者だった副市長宛に検察官の捜査が入った。

 ロメオは焦った。自らが行った汚職行為が露見するかもしれないという恐怖を覚えた。しかし、ロメオの恐怖は自分が守ろうとしていたエリザのおかげで辛うじて免れた。エリザは卒業試験で不正を行わなかったのだ。この行為は、間違いなく彼女自身が選んだことである。

 本作は、子どもに対する親の無関心の他、もう一つテーマがあるように思う。“子どもの親への抵抗”である。これは推測に過ぎないが、子どもの親への抵抗の兆しは、冒頭で描かれたロメオの自宅の窓に石が投げ込まれる場面にある種の暗喩として込められていたのではないだろうか。

 石を投げたのは、“我が子のために”という親の想いによって抑圧された子どもの家庭からの解放を意味している。追いかけても石を投げた犯人が見つからないのは、子どもは親が知らない間に大きく成長していくためである。やがて羽ばたいていくから、見つけられるはずがないのだ。

 人は、一人では生きていけない。そして、人に無関心でも生きていけない。自らの汚職行為を通じて、エリザの変化を感じ取ったロメオは次第に他者に関心を示していく。マグダに家を追い出されたロメオは、暗い面持ちでサンドラの家に泊まらせてもらう。

 翌朝、ロメオは無関心を示していたサンドラの息子のマテイと公園に遊びに行く。そこでマテイは遊具の列に並ばない子供に石を投げつけてしまう。彼は冷静にマテイを諭す。この場面に他者に関心を示し始める彼の心理的な変化がうかがえた。つまり、彼は“人を傷つけてはいけない”という正しい説得をしているのである。

 クリスティアン監督は、インタビューにおいて、本作がルーマニア・ブカレストで実際に起きた女性強姦事件から影響されていることを語っている。その女性は白昼に襲われ30分以上も市中を引きずり回されていたという。この時、現場に居合わせた人々は誰もその女性を助けようとしなかった。クリスティアン監督は、この事件から現代人の他者への無関心を感じ、これからの未来のため、そして次代を担う子どもたちのために、人が人に関心を寄せ合い助け合える社会とは何かを、我々に考えさせるために本作を作り上げた。

 本作の会話場面はとにかくリアルである。二人の登場人物の姿を会話中ずっと撮り続ける。画面の変化がその間まったくないため空気が張り詰め、画面は重い緊張感を表出している。また、会話中ずっと人の気配が辺りにあることが、会話の生々しさを引き立てている。完全な密室ではない場所で行われる密談により一層のリアリティを感じてしまう。それだけにロメオの心理的変化やエリザの勇気のある選択にも強いリアリティが感じられ、最後には清々しい風が肌を撫でるような心地よさに満たされた。

(text:成宮秋洋)


『エリザのために』
2016/128分/ルーマニア、フランス、ベルギー

作品解説
医師ロメオの娘エリザはイギリス留学を控えている。しかしロメオには愛人がいて、家庭は決してうまくいっているとは言えない。ある朝ロメオは娘を車で学校へ送るが、校内に入る手前で降ろした後、娘は暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったが、翌日の留学を決める卒業試験に控えていた娘は大きく動揺する。ロメオはツテとコネを駆使し、娘を試験に合格させるために奔走するが……。

キャスト
ロメオ・アルデア:アドリアン・ティティエニ
エリザ:マリア・ドラグシ
警察所長:ヴラド・イヴァノフ

スタッフ
監督/脚本/製作:クリスティアン・ムンジウ
共同製作:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
撮影:トゥドル・ブラディミール・パンドゥル
美術:シモナ・パドゥレツ

劇場情報
シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、公開中

公式ホームページ
http://www.finefilms.co.jp/eliza/

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【執筆者プロフィール】

成宮秋祥:Akihiro Narumiya

1989年生。東京在住。本職は介護福祉士。「キネマ旬報」(読者の映画評)に2年間で掲載5回。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」(neoneo web)や「映画みちゃお!」に映画記事を寄稿。映画交流会「映画の”ある視点”について語ろう会」主催。

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2017年2月19日日曜日

映画『パリ、恋人たちの影』評text奥平 詩野

『パリ、恋人たちの影』/フィリップ・ガレル


男女の関係の中から取り出し得る無数のテーマのうち、たった一つを描こうと思えば、それは容易に愛についての物語としての権威を私達に示してくれるように思うが、フィリップ・ガレルの今作で私たち観客が投げ入れられるのは、ある愛への一つの解釈ではなく、物語として存在することも未だに出来ていないような、混乱して整理されていない体験そのものである。この映画は、物語的に一つの結果や解釈に向かって状況を直線的進行で表現するのではなく、時間がたつほど全ての無意味にすら見える状況が折り重なって、実感はあるが得体の知れない、いつかは誰かが物語にするかも知れない、自分が今生きている人生の全体の印象を増幅させ続けるものなのである。そして物語られる以前の男女の関係の中に見出し得るのは、愛の勝利や敗北でも愛への理解でもなく、ただ一人の男と一人の女が自らの欠陥を背負ったり投げ出したりしながら個人の内の不安定な足場に頼って手探りで立っていようとする様子のリアリティといった意味での残酷さではないだろうか。

映画の隅から隅までこの残酷な視線は注がれているように思う。日々が自分の手を逃れて勝手に進んで行ってしまっている漠然とした生活の営みの状況から逃れることなく、愛の容態も日々勝手に流れてしまって行き、なす術もない自分の人生を前に登場人物たちは辛うじて遅れないようについて行っているかのように、穏やかに、しかし慢性的に混乱し、解釈や物語といった精神的に自分の人生の歩みを支えてくれる足場を必死に探し求めているのである。

しかし、残酷さは物語の確固たる所有を終始一貫して認めない。何らかの愛についての法則を物語ってくれる神話は、たいてい、状況の渦中にある時に一人の誰かによって知覚されたものではなく、事の終わりに、いわばもはや関係者が一人もいない時に初めて、かつての関係者も含む他者の眼差しによって物語れ得るものではないだろうか。そういった機能を映画は担うことができるために、私たちも、何が物語られるかにいつも眼を開いて聞き耳を立てているように思う。しかし、一人の女と男が渦中にあって自らの物語を解釈しようとするとき、もう一方の中にある物語と相容れない状況が一時の休みもなく継続するため正しい物語を持つことができない彼らのリアルタイムに寄り添うように、本作も、決まった目的地も決まった教訓も持たず、まるで状況をどのように装飾して良いか分からないかのように、静かに、地味に、断固として判断的にならない、色味の無い視線を二人の男女の関係に注ぎ続けている。

本作は、どこにも向かうところのない彼らのように、物語る以前であるがために配分関係なく訪れる前触れのない物語上の起伏の平坦さをもって進行して行き、彼らから、そして私たちから、しがみつくべき物語を常に奪い、不安定さと惰性と混乱の中に投げ入れ続ける無慈悲な描き方している。最初からいきなりアパートを追い出されたかと思えばもう数分後にそのシーンが物語の筋とは何の関係もないと分かるほどいつも通りらしい暮らしに戻っているし、夫の浮気も唐突に、何の気無しに始まり、妻と愛人との別れさえ親しげだった割には、ただのことの次第と言うほど安易に静かに何の波風もたてずに行われるのである。しかし意に反してもっと事件性の少ない事が鮮烈に描かれている場合もあり、夫が出かける予定を無気力を理由に断る時や、妻と母親とのランチの描写などはもっと重要な腹の中の何かを顕現させそうなほどの緊張感を持っている。出来事としての一大事と感情としての一大事が合致してない様子が全編に渡ってところどころあり、それが物語られ得るものを物語性から遠く引き離しストーリーへの肉付けという意味では平坦さを与えるが、その代わりに掴みきれない心理的なものの機敏な迷える動きを豊潤に捉え続けている。そして揺れ動く感情の記録は、静かな漠然とした混乱の中で毎日を送る彼らの、凭れかかる場所もなく、愛というものが一般的に言われる行き着く先というものも存在しないかも知れないという、開け放たれた保証もない手探りの関係の途方もなさと虚しさと諦めきれないものへの諦めへの、迷いに満ちた抵抗を痛切に表現し続けている。

大家の不寛容でアパートを追い出される時、彼女が泣いているのは、これからの生活苦を思い、他人の不寛容な態度に傷付き、自分の生活状態が惨めに思った中で、生活というものの報われなさや他人や人生への当ての無さを感じたからではないだろうか。このちょっと出てくる大家という一般的には敵対的である他人の中にある、自分と決して融合する事の無い不寛容な残忍さが、結婚している男女の間でも永遠に拭えないかも知れないと思う時、それはより一層残酷に映るだろう。二人の別れのシーンでは、確かに結婚生活の終焉の危機だから話が盛り上がるだろうが、愛が傷付いた事への悲しみと言うよりは、選択してきたことが自分の期待を裏切り続ける理不尽な報酬を与え続ける状況をとうとう無視出来ずに、希望をもって無視してきた他人との軋轢がその存在をはっきり見せつけてしまう、日々の抵抗を無に帰してしまうような混乱も絶望も極まるただでさえ残酷なシーンだが、そこでも、男女関係にもがく彼らへの労いも慈悲も教訓もはっきりした理由も示さない無判断的で俯瞰的な視線が貫かれているので、より一層冷淡に感じられる。

しかし、眼差しが無判断的で物語的でなく、俯瞰的であるということは、観客を映画の中の出来事から感情面において分離するというのではなく、最後がハッピーエンドなのかどうかは物語性という意味では語れないこの映画に関してはあまり意味がないことだとは思うが、物語がないというまさにその点において、記録された男女も観客も誰一人、不快なまでに映画内の状況から逃れ出ているわけにはいかず、彼らが行き着く場所のない関係の中に未だにいる事の、結局物語られないまま終わる営みに、私達は虚しさと不安とそれへの迷える抵抗がまた続いてゆくのをただ、いずれ語り得る何かを期待して見つめるのだと思う。物語が未だに生み出されない、結末とは無縁の状況で、知らず知らずのうちに物語を何とかして選び取ろうと、そして意味を見つけ理解しようと、あるいは偽レジスタンスの兵士のように拠り所にしようする、人生そのものの中で誰もが行っている努力を、そのまま映画に映し取ってしまうフィリップ・ガレルによって、私たちは物語無き事実というリアリティを『パリ、恋人たちの影』において発見せざるを得ないのではないだろうか。

(text:奥平詩野)




『パリ、恋人たちの影』
2015年/73分/フランス

キャスト
マノン:クロチルド・クロ
ピエール:スタニスラス・メラール
エリザベット:レナ・ポーガム

スタッフ
監督:フィリップ・ガレル
製作:サイード・ベン・サイード、ミヒェル・メルクト
脚本:ジャン=クロード・カリエール、カロリーヌ・ドゥリュアス=ガレル

劇場情報
2月18日(土)~横浜シネマ・ジャック&ベティ
2月25日(土)〜シネマテークたかさき

公式ホームページ
http://www.bitters.co.jp/koibito/

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【執筆者プロフィール】

奥平詩野 Shino Okuhira
1992年生。国際基督教大学除籍。映画論述。

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2017年2月15日水曜日

映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』評text長谷部 友子

洞窟に響く拍手



真っ赤なドレスを着て激しくステップを踏むことをイメージしているとしたら、少し違う。サクロモンテのフラメンコはそのような高速の激しさはなく、緩やかに腕を回す。けれどそこには情動がある。
みな口を揃えて言う。自力で学んだ、教えてもらったりはしない、見ることは簡単で、そこから受け取ったのだと。そしてそれは自然と生まれてくるものだと。
芸術とはなんだろう。身体芸術、舞踊など特にそうだが、ストイックな肉体維持が不可欠で、その厳格さや禁欲が称揚される。
「踊れたら心が穏やかになる。」ある男性が言っていた言葉が印象的だった。彼は病ゆえに手足が震え、今は踊ることはできないのだけれど。
日常からかけ離れた場所にではなく、今の穏やかな生活の中に芸術があると彼らは知っている。生活において踊りを愛し、みなが互いの踊りを見る。互いを讃え拍手を送る。それは何も踊りに限ったことではないだろう。サクロモンテの人たちは水害により故郷を失い、住む場所を追われ、檜舞台すら失くしてしまった。どれほど厳しく貧しい状況でも、他者を讃え拍手を送ることのできる人間の人生は豊かだ。

(text:長谷部友子)




『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』
原題:Sacromonte: los sabios
2014年/94分/スペイン/カラー/スペイン語/ドキュメンタリー/16:9/ステレオ

作品解説
スペイン・アンダルシア地方・グラナダ県サクロモンテ地区。
この地には、かつて迫害を受けたロマたちが集い、独自の文化が形成されていった。ロマたちが洞窟で暮らしていたことから洞窟フラメンコが生まれ、その力強く情熱的な踊りや歌に、世界中が熱狂した。隆盛をきわめたサクロモンテだが、1963年の水害により全てを失い、人々は住む場所を追われた――。
本作は、伝説のフラメンコ・コミュニティに深く入り込み、激動の時代を生き抜いてきたダンサー、歌い手、ギタリストなどのインタビュー、そしてアンダルシアの乾いた大地を舞台に繰り広げられる詩の朗読、そして力強い舞の数々を通して、大地に根付く魂が紡がれ、代々引き継がれていくさまを描く。

スタッフ
監督:チュス・グティエレス
参加アーティスト:クーロ・アルバイシン、ライムンド・エレディア、ペペ・アビチュエラ、ハイメ・エル・パロン、フアン・アンドレス・マジャ、チョンチ・エレディア、マノレーテ他多数

配給・宣伝
提供:アップリンク、ピカフィルム 
配給:アップリンク 
宣伝:アップリンク、ピカフィルム
後援:スペイン大使館、セルバンテス文化センター東京、一般社団法人日本フラメンコ協会

劇場情報
2017年2月18日(土)より有楽町スバル座、アップリンク渋谷ほか全国順次公開

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/sacromonte/

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2017年2月2日木曜日

映画『The NET 網に囚われた男』評text岡村 亜紀子

「体感という映画に張られた網」


 物語は北朝鮮のある朝から始まる。簡素な自宅で漁師である男とその妻と娘が迎えた日常的な風景のはずだった。しかし漁にでかけた男は、船のエンジンが故障し禁止区域へと流されてしまう。監視員から逃亡を疑われて射殺されそうになるものの、故障を訴える様子に監視員も引き金を引くのをためらいそのまま韓国へと流される。「南」で身に覚えのないスパイ容疑をかけられ監視対象として囚われ、容赦のない取り調べを受ける男。そして街中に放たれた男は、何も見ないように自ら目をふさぐ。故国に帰れないことを恐れて……。

 この作品を観る以前に、昨年秋に開催された第29回東京国際映画祭で『ヘヴン・ウィル・ウェイト』(監督:マリー=カスティーユ・マンシオン=シャール、2016年、フランス)を観て感じた、今作と似たようでいてこうして文字にしてみるとやや異なる感触についてもすこし触れたい。『ヘヴン・ウィル・ウェイト』では、ある少女がSNSを通じて知り合ったムスリムの男性との恋愛感情を絡めたやりとりによってイスラム過激主義に心酔していく。彼女は次第に男によって行動を制限されていき、ついには自らの意志でイスラム国側へと足を踏み入れそうになるまでが描かれていく。観た時に感じた衝撃は「映画が現実に迫っている」感覚であり、それは映画として観客へ届けられるまでの速度でもあった。
 事態そのものに警鐘を鳴らすという視座としてよりも、事態に迫っていくようにして……少女の母親、過激分子として逮捕され自宅で監視される別の少女、イスラム国へ憧れる少年少女の家族と彼らに対するセラピストなど……様々な視点から物語は紡がれていた。現実の事態に追いつけない五里霧中の中にいる人々からの認識を主軸として、その向こう側(SNSや電話に出る勧誘者の側)の世界からの視点を描かない点に、物語の登場人物同様、怖さや不安を覚えた。

 そして『The NET 網に囚われた男』(以下、『The NET』)では、主人公を北朝鮮(北)の男にし、彼に北と韓国(南)を行き来させる。物語は北と南を移動しながら双方に位置する登場人物たちの姿を描いていく。主人公の男は南でも北でも取り調べられ手荒く扱われる場面がある。この物語は北と南の人物が彼らの視点を通して描かれているが、最終的にはどちらの立場にも立っていない。韓国映画では、北と南を描いた作品がいくつもある。時にその物語の登場人物がスパイや警察や史実に基づいたものであることは、韓国の観客が映画として物語と距離を保って観ることが出来るとしても、やはり繊細な背景となるのではないだろうか。センシティブやセンセーショナルな題材(それは多くの観客にとって想像と感性で補完することを必要とする題材、でもあるかもしれない)は時に色物扱いをも受けるし、それが史実手前の現状を描いているときには、現状に対する認識のたよりなさゆえか、観客との温度差ーー事実ではなく架空の出来事として物語を追いかけてしまうような意識ーーをどこか生じさせるように思う。登場人物たちの感情や表情がなにかを示唆したり、その行動が物語の舵を変えるような時に、それが演出されたものであり、物語にある筋書きであることによって、受け止める側のわたしの意識に戸惑いや距離が生まれるのである。

© 2016 KIM Ki-duk Film. All Rights Reserved.

 戸惑いや距離感という意味での温度差に、『The NET』では物語の主人公が身を差し出している。彼は南へ流れ着き、右も左もわからず、見たこともない光景を見せられ、捜査官から向けられる憎しみ、通りがかりの女との邂逅から生まれたなごやかなひととき、結果として彼が窮地に陥ることとなったある捜査官からの温情……といった彼が出会うあらゆるものは、すべて彼の感じる温度差を通過して初めてその身体に蓄えられていく。映画を観る観客が物語から感情をもたらされるようにして、見聞きしたことに対して彼の感情が現れる様子は、おそるおそる戸惑いながらを繰り返し、迷路の中で絶えず出口を探しているような緊張を伴っていた。『The NET』が迎えた衝撃的な結末は、もうすこし時間が、彼の意識下の堆積した温度差を意識的に更新する自由があったなら、舵を変えたかもしれない。時間は変化する現実に即するときに必要なものであると思う。それが否応無く与えられない筋に、いつしかわたしは物語から現実を想起するというより、自身の持つ感覚によって現実に呼び覚まされていく。ループするように、物語のなかにあるその姿に、観客であるわたし自身が重なり、どこにも立てなくなった主人公の姿に観客であるわたしが重なることに衝撃を得たように思う。

 前述した『ヘヴン・ウィル・ウェイト』と異なるのは、客観的に捕えた物語の持つ衝撃がカウンターパンチのようにガツンと来たのに対して、『The NET』では物語の主人公が感じる主観によってじわじわと……というよりもいつのまにか、わたしにわたしの現実そのものが接近するような感覚が現象として起きていた点にある。いずれもそれは体感ともいうべきものであり、似たようでありながらすこし異なる感触とは同じところから来ていたのかと思う。
 2つの物語は警鐘を与える内容であるとともに、現実に在る警鐘を意識させる。ショッキングな物語を多く描いて来たキム・ギドク監督が、映画ならではの「体感」の手法を用いたことは温故知新ともとれるが、2つの作品が持つどこか観客に寄り添うようなありように、ギドク監督の、そして映画の、新たな在り方が予感される。

(text:岡村亜紀子)



『The NET 網に囚われた男』
2016年/112分/韓国

作品解説
北朝鮮の漁師ナム・チョルは、いつものようにモーターボートで漁に出るが、魚網がエンジンに絡まりボートが故障。意に反して韓国に流されてしまう。韓国の警察に拘束されたチョルは、身に覚えのないスパイ容疑で、情け容赦ない取り調べを受ける。加えて、ひたすら妻子の元に帰りたい一心の彼に、執拗に持ちかけられる韓国への亡命。しかも、ようやく北に戻された彼を待ち受けていたのは、より苛酷な運命だった。第17回東京フィルメックスオープニング作品。

キャスト
ナム・チョル:リュ・スンボム
オ・ジヌ:イ・ウォングン
取り調べ官:キム・ヨンミン
室長:チェ・グィファ
チョルの妻:イ・ウヌ

スタッフ
監督/脚本/撮影/製作:キム・ギドク
照明:チョン・ヨンサム
美術:アン・ジヘ
編集:パク・ミンソン
録音:チョン・ヨンギ
衣装:イ・ジンスク
音楽:パク・ヨンミン

配給
クレストインターナショナル

公式ホームページ
http://www.thenet-ami.com/

劇場情報
2017年1月7日(土)よりシネマカリテほか、全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。

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