2019年8月12日月曜日

映画『アマンダと僕』評 text今泉 健


「リアリティとは何か」


「怒れる人間はまだ幸せだ」というのは最近のテレビドラマで聞いた印象に残るセリフです。2019年上期のNHK朝ドラ『なつぞら』で開拓民一世の柴田泰樹(演:草刈正雄)が言いました。戦災孤児で柴田家で世話になることになった主人公なつ(演:粟野咲莉のちに広瀬すず)は冷たいことを言われたり、からかわれても笑っていたり感情を露わにしないので、そのことでさらに周囲の子供達、大人までもイラつかせることになります。泰樹はそんな、なつを見て、「不幸で追いつめられると不安感しかなく、生きるのに精一杯で怒ることすら忘れる」というようなことを語ります。そしてなつが「なんで私には家族がいないの!」と自分の境遇について感情を爆発させたら、「もっと怒れ」と抱きしめたのです。何か行き詰まった状況を越えるには怒りも必要だと言いたかったのかもしれません。
 映画『アマンダと僕』はテロリズムという行為ではなく、あくまで、それに影響を受け翻弄される、被害者である庶民の目線で描いています。犯人について描写はほとんどなく、それがかえってテロリズムの無情さ非情さ理不尽さを感じさせます。欧米の映画では衝撃的な実話ベースの『ウトヤ島、7月22日』監督:エリック・ポッペなど被害者目線の作品もありますが、これはフィクション。テロリストを中心に取り上げればどうしても彼らに人間味を与えたくなりますが、被害者目線ならどう考えても彼らは悪魔にしか見えないでしょう。そんな彼らの理屈を公開されたって傷つくだけのように思えますし、そもそも見ないと思います。もちろん様々な視点の作品は必要なので、だからこそ必要不可欠な視点に思えます。伏線的に実行犯が町にいる様子ですとか、テロの予兆のようなことを匂わせそうなものですが、このような一般人の被害者を描く場合は、むしろそれはフィクションの世界だと気づかされました。現実は何の前触れもなく巻き込まれていくものなのでしょう。また、事件後も葬式など非日常なドラマティックなセレモニーではなく、あくまで日常生活に焦点を当てて感情のうねり、起伏を描いてているのが効果的です。セレモニーの場面もあっていいのですが、実際儀式で必ず心の整理が着くものではないですし、最中は緊張もあったり気も張っていたりで、感情を表す余裕はないものだ思いますから、やはり、悲しみなどの感情は日常不意を突いて顔を出すものだと思います。この辺がフィクションでありながら、いや、だからこそ描き出せる現実味を感じます。
 舞台は初夏のパリ、「僕」ダヴィッドは24歳の男性。乱射テロでそれまでささやかに築いていた日常は崩れ去り、姉は亡くなり付き合い始めたばかりの恋人は負傷をして故郷に去ってしまいます。当たり前に会えると思っていた人に急に会えなくなることの虚無感。何の報復だか知りませんが、そこにどんな大儀があろうとやはり理不尽という言葉しか浮かびません。庶民のささやかな幸せを奪う権利は誰にもなく、見ている方は怒りを覚えますが、この主人公は憎しみや怒りの感覚がないように見えます。冷静でただ懸命に生きるだけ、だから時に感情がこみ上げたり爆発する場面を見ると心を大きく揺さぶられ、彼に感情移入してしまうのです。そしてこれが凄いのですが、彼は自分を憐れむ様子がありません。自分が彼の境遇なら、自分にと考えるなど卑近ではありますが、やはり不運を嘆き、憎しみも湧いてしまうだろうと思います。しかし憎しみの心より、ただ姉の死と恋人が去ったことを正面から悲しみ、悩みもがき苦しみながらも、自分の幸せを取り返そうととにかく諦めません。彼の場合、(たぶん)無神論者であることが大きな要素だとあるとして、でももう一つ、むしろこれがメインである大きな要素があります。原題の”AMANDA”、 シングルマザーの姉の忘れ形見で1人娘、彼からすると姪っ子の「アマンダ」、7歳の女の子の存在がとても大きいのだとわかります。この姉弟は身寄りといえる人がほとんど近くにいません。というのも今はパリ在住ですが、幼い頃離婚した実の母親はイギリス人で家を出て、現在はウインブルドン辺りに在住です。姉弟は父親とパリで暮らしてましたが、父親は既に鬼籍に入ってます。アマンダの父親とも疎遠、パリ在住の叔母は良い人ですが、ただ小学生の子供を引き取るには少し年齢が行き過ぎていて、ということで「僕」が面倒を見るのが妥当ということになります。急にそんな覚悟を決められるシングルの20代男子は古今東西そんなにいないでしょう。アマンダももちろんお母さんの死を受け入れられず、「僕」を振り回しますが、わがまま具合が絶妙で心の葛藤が見て取れて、気持ちを理解できます。そんなアマンダは「僕」にとって悩みの種ですが、彼女の存在が「僕」を自己憐憫へ向かわないような防波堤になっていると思えるのです。アマンダのことを考えると怒っているような余裕がないのかもしれません。何も世話をされる側のみが恩恵に預かるわけではなく、精神的に共助の関係だとわかります。
 NHKの朝ドラ『なつぞら』でも行き詰まった現状、諦めや自己憐憫を乗り越える手段としてまず怒ることは必要だと語っているように思います。とにかくこの手の感情が残ったままだと人は前向きになれないということではないでしょうか。「僕」ダヴィッドはめったに怒りませんが、無音になって感情を露わにした場面がありました。それこそ怒りの爆発だったのかもしれません。こうしてみると、自分はなんて不幸なんだという自己憐憫に陥ることこそ諸悪の根源なのかと思えてきます。この負の感情に浸らず、断ち切ることこそが人を前向きにして、憎しみの連鎖を切る処方箋なのかなんて、私の勝手な感想ですが、そう思えます。そして同時に、もう賞賛するのみですが、人は苦境に立った時でも日常のちょっとしたことで前向きになることもあるでしょう、とそんなことも示唆しています。日常に焦点を当てたことが奏功しています。笑顔こそが大切で、日頃悲しみや不安がある状況でも、笑顔になれる可能性は大いにあると伝えているわけです。
 作り手は考えているかどうかわからないことも見る側に想像させて、かといって、すべてを見る側に投げるわけではない。これこそ映画です。だって自己憐憫を断ち切った先まで示しているのですから。それが表情や感情が豊かなアマンダの存在、言ってしまえば彼女の笑顔です。この笑顔が明るい未来の象徴であり、日常のちょっとした風向きの変化で生まれるものだからこそ、実は探せば様々な場所、場面に出会えそうに思えてきます。まさに「希望」がリアリティを持って感じられるのです。

(text:今泉 健)



『アマンダと僕』
(2018 / フランス / 107分 / 仏語)

作品情報
監督、脚本:ミカエル・アース
出演:
バンサン・ラコスト
イゾール・ミュルトリエ
ステイシー・マーティン
オフェリア・コルブ
マリアンヌ・バスレール

受賞歴
第75回ベネチア国際映画祭(2018年)オリゾンティ部門マジック・ランタン賞
第31回東京国際映画祭(2018年) 最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をW受賞

あらすじ
パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。

公式ホームページ
http://www.bitters.co.jp/amanda/

劇場情報
YEBISU GARDEN CINEMA
シネスイッチ銀座でアンコール上映を予定