2018年12月30日日曜日

映画『ペンギン・ハイウェイ』評text岡村 亜紀子

「約束の地」


 アオヤマくんは賢い小学生だ。彼は毎日研究をする。子供である自分を見詰めながら大人になっていく時間を大切に、とても真剣に生きている。そんな彼が描く未来は希望に満ち、大好きな歯科助手のお姉さんと結婚する将来設計をしたりして、彼が「どれだけ偉くなるのか想像もつかない」自分を想像する未来は少年らしい夢でもある。
 彼が過ごしたひと夏を描くストーリーは、奇想天外なことが起こり続けるファンタジーでありながら“無重力感”を伴うことで、わたしたちの日常から逸脱しない世界のあらましを捉えて昇華し、物語の終わりに、白紙のようにまっさらとしていながら、それがこれからさき様々なことが書き加えられていくページであることを予感する“重力”を捉えている。それがわたしには淡く輝く生命力に思え、ひとすじの光が道を射してくれたかのように思えた。

 映像で美術部が組み立てた建物をみた時に、それが「本当に立っている」と観客に感じさせたなら、それはよいセットだという。そこには、先に“無重力感”と表現した、観客だれしもが持っているフィクションと現実の間の壁をとっぱらい観客が作品世界に抵抗感なく入っていく要素が生まれている。本作『ペンギン・ハイウェイ』におけるアニメーションは、軽快なリズムとハイテンションな演出に溢れているが、そのリズムの背後にはヴィヴィッドに刻まれる時間の経過かつ積み重ねと、ハイテンションな演出を支える自らの目を通した光景に通じるような、アニメーションでありながら透明感をたたえたタッチの映像が軸としてあり、ファンタジーと日常が抵抗なく軽く解け合うのである。簡潔に表現するとすれば、計算され構築された「盛っていない映像」と「はぶかずにいて冗長ではない時間経過」が、現実から逸脱した出来事を物語の住人と観客に同じ温度で伝えている。そのことが本作にとっては、とても重要であると感じる。
 ある日、アオヤマくんの住む街にたくさんのペンギンが現れたことを皮切りに、次々と不思議な現象が起こりはじめる。アオヤマくんはペンギンについて研究を開始するのだが、草原に現れた巨大な水の球体である「海」、森に蠢く「怪物」までも現れ、毎日あたりまえに続くかに感じられたアオヤマくんの世界から日常が逸脱し、周りにいる人々、お姉さん、自分自身を揺るがしてしまう。
 アオヤマくんがそれらの出来事と対峙したとき、彼は常日頃行っているように対象を研究し、答えを導きだそうとする。未発達の少年の体に備わった行動力と頭脳で当たり前のようにベストを尽くす。そして正解かどうかは別として、彼は答えをはじき出し、解決に向けてお姉さんと行動を起こす。そして解決と引き換えに大きな喪失に出会う。選べなかった、どうにも出来なかったその出来事に際して彼が一心に祈ったのと同じことを、今までどれほどの人々が願ってきただろう。いま現在も願っているだろう。失われた存在のかけらを探し求めて、心が迷子になってしまうことだろう。
 アオヤマくんの妹が泣きながら「お母さんいつか死んじゃうの?」と彼に聞いた時、彼は「それは、いつかそうなるだろうね」と答える。知ってしまった妹を抱きしめながら。アオヤマくんは賢い。いつか来るその瞬間を経験する前からその現実の重みをまるで経験した重みと同じように受け止めるほどに。そして、彼の大切な存在が物語の終わりに本当に触れられないほど遠くに行ってしまった後も、彼はこれまでしていたように未来を想像する。彼の頭脳は明快さを失わず、これから歩んでいく彼の道がその存在と共にあるのだと考える。それはまるで「北極でペンギンたちが海から陸に上がるときに決まってたどるルート」を歩むペンギン達のように迷いなく。これからどんなことが突然起こるかわからないというこの世のことわりも、ベストを尽くしても変えられない現実があることも、この夏の経験によって賢いアオヤマくんの頭脳は理解しているはずだ。しかし、彼の想像する自分の未来に陰りがなく迷いもない様子に、淡い光がまとう空白に、どんな時も光は失われることがないのだと教えてもらったような気がした。海から上がったペンギン達が約束の地を目指すように、アオヤマくんが未来に描いたのは「約束」なのだろう。
 あくまでアオヤマくんの想いである空白に根拠も結果もいまだないのに拘らず、それが力を持つのは、無重力感から物語にとけ込んだ観客の心に、物語を信じる力=重力が宿っていたからに依るのだと思う。そして、ラストシーンでアオヤマくんは賢いけれど小学生の男の子であるという、映画の始まりの無重力感に立ち戻り、映画は終わる。

 東京国際映画祭「Japan Now」部門で本作が上映された際に、プログラミング・アドバイザーの安藤紘平氏と石田祐康監督によるトークショーが催され、この不思議な物語の世界観について様々な考察や質問が飛び交い、製作にまつわる実話を聞くことが出来た。それは「正解はこれ」というような答え合わせではなく、この作品を愛する観客の熱意や初鑑賞の観客の新鮮な反応が感じられ監督との暖かく楽しい場となっていた。本作で現れる様々な不思議な現象については、フィクションにおける常ではあるが、様々な感じ方があり様々な解釈が可能だということが印象に残っている。映画は観客の人生経験や心理状態に影響して様々なものを映すと、再認識したひとときだった。

(text:岡村亜紀子)





『ペンギン・ハイウェイ
2018年/日本/118分

監督:石井祐康
原作:森見登美彦
脚本:上田 誠

キャスト:北 香那
     蒼井 優

公式ホームページ:http://penguin-highway.com/

第31回 東京国際映画祭「Japan Now」部門 上映作品

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子(Okamura Akiko)
某レンタル店スタッフ。

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2018年12月21日金曜日

映画『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』評text成宮 秋祥

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』に見る成瀬巳喜男の面影

 
感動は、後からついてくる。
 多くの場合、映画は感情を揺さぶる役割を担っている。映画を観始めてから、終わるまで、人は、その映画から無数の感情を引き出される。劇場を去る頃には、ある種の満足感を感じていることだろう。
 しかし、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、観ている間ずっと何かしらの感情が揺さぶられることはなかった。どちらかというと、ストーリーがどこに進んでいくのか、そこにばかり気を取られてしまい、映画が終わった瞬間には、まるで映画そのものから突き放されてしまったような途方もない状態だった。
 この映画を観て、感動したところはいったい何だったのだろうか? 実は、何も感動なんてしていなかったのかもしれない。何かしら、感情を揺さぶられるような場面を一切用意していなかったのかもしれない。では、この映画は失敗作だったのか? 決して、そうではない。
 鑑賞してから、数日が経過していくと、少しずつだが映画のイメージを思い出すようになった。そして、映画のストーリーが頭の中で何度も繰り返し映写されていき、暗い街に灯がともるように、映画を観ていた時に感じていた無数の感情を、今になって感じ始めたのである。まるで、失われた記憶を取り戻していくような独特な感覚を体験した。
 このような体験は、実は他にもある。成瀬巳喜男の『乱れる』(1964)で似たような体験をしたことがある。高峰秀子が演じる主人公は、加山雄三が演じる義弟に愛を告白されるが、亡夫のことが忘れられず、最終的には拒んでしまう。その夜、酒場で飲んだくれた加山は、電話で高峰に別れを告げる。翌朝、高峰は町人から加山が事故で死んだことを知らされる。運ばれていく加山の遺体を呆然とした表情で眺める高峰の顔を写したカットを最後に映画は唐突に幕を下ろしてしまう。
『乱れる』は、ある男女の許されぬ恋愛を描いている。そのため、この男女が愛し合い、憎み合い、付き添ったり、離れたりを繰り返していく過程を見守りつつ、最終的に結ばれるのか、それとも別れるのかを我々は目撃して、その間に感じていた感情に一応の決着をつけるのである。
 しかし、加山が死ぬ場面すら映さず唐突に死んでしまうので、我々はここにいたるまでの間に感じていた無数の感情を見いだせぬまま、劇中の高峰のようにただ呆然とすることしかできない。すると何か納得できない気持ちが起きて、この映画を観て感じていた無数の感情を、まるでなかったかのように記憶から忘れ去ってしまい、さもあの映画は何だったろうか? 何を描いた映画だったのだろうか? と自らに聞き返してしまうのだ。
 それでも、やはり数日も経てば、我々は『乱れる』が、ある男女の許されぬ恋愛の果てに待ち受ける悲劇を描いた映画なのだと納得するにいたる。それは例えば、気にかけていた義弟の加山を一人の男として認識してしまった高峰の心の揺れ動きや、高峰の愛欲しさに放蕩息子をやめて真面目に働こうとする加山の変化が、頭の中で何度も繰り返し映写されたことで、改めてその時に味わった無数の感情を思い出し、この二人の恋愛の果てには、逃げ場のない悲劇が待っていたことを、ようやく理解したためである。
 あまりに良い映画だったからこそ、『乱れる』のこの唐突な幕切れは大きなショックだったのだ。実のところ、このまま終わらなければいいという密かな思いを抱くほど、ストーリーにも映像にもどっぷりはまって観ていたのに、それが絶たれてしまった時の物悲しさが、映画を観ていた時に感じていたはずの感情を忘れさせていたのかもしれない。
 そういう意味でいえば、『乱れる』は観る者の心を打つ素晴らしく良い映画である。だからこそ、これと似た体験をした『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』も紛れもない素晴らしく良い映画であったといえる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』のストーリーはいたって単純である。
アメリカの田舎町にある一軒家に一組の夫婦が住んでいた。作曲家の夫C(ケイシー・アフレック)はこの家を気に入っていたが、妻M(ルーニー・マーラ)は別に街に移りたがっていた。ある日、Cが事故で亡くなってしまい、Mは悲しみに暮れる。Cは幽霊となってMの元に帰っていくのだが……。
 この映画は、幽霊を描いた映画である、と同時に、変化を望まない男と変化を望む女の愛と確執を描いた映画でもある。Mを愛するCは、幽霊となってC自身が気に入っていた家で悲しみに沈むMに寄り添い続ける。幽霊となったCの役割は、Mへの愛と、家への思いを守り続けることである。反対にいえば、この二つがCに残っているからこそ、幽霊で在り続けているのだといえる。
 しかし、変化を望むMはいつまでも悲しみ続けてはいられない。ある日、新しい恋人と出会った彼女は、壁の隙間に手紙を残して家を出ていってしまう。家に取り残されたCはただひたすら虚しく時間が過ぎていくのを待つことになる。
 ここで幽霊となったCの役割の一つであるMへの愛を守り続けることができなくなってしまった。もう一つの役割である家への思いを守ることも居住者が何度も移り変わっていく光景を目の当たりにし、次第に虚しさを感じ始めていく。
 いわゆる超常現象的な描写には、Cの苛立ちや怒りの感情が混在していると思われる。
例えば、新たに居住してきたヒスパニック系一家の団らんの席でCは心乱れたようにキッチンの食器類を破壊してまわる。ヒスパニック系一家の視点からすれば、超常現象による恐怖体験をしたと感じるだろうが、Cの視点からすれば、自分とMだけの家に別の居住者がいるという事実に対する苛立ちと怒りの感情が伝わってくる。しかし、Cの元にMが戻ってくることはない。居住者は変わり続け、時間はどんどん過ぎていき、やがて家は取り壊されてしまう。ついに家をなくしたCは幽霊となって果たすべき役割を全て失い、完全なる空虚感を味わう。
 愛するMと家を失ったCは、次第に時空を飛び越え、未来に、過去に、飛んでいき、そして再び現代に、CとMが家に住み始めた頃に飛んでいく。
 この時間旅行の場面は、Mと家という自分の心の拠り所を失ったCがあてもなく時間の流れをさまよっていくという悲しい場面に見える。しかし、Mと家を守ろうとしていたCは、Mと家に対する思いに自ら囚われていたともとれて、見方を変えれば、彼は自分自身の思いから自由になったとも見える。幽霊という特殊な存在になっても、時間の流れには逆らえないという現実的な残酷さが彼の思いを壊し、同時にその思いから解き放ったともいえる。
 CとMが家に住み始めた頃の時代に戻った幽霊は、まるでお別れでもするかのように、じっくりと静かに二人の様子を見守っていく。幽霊にとって、二人が過ごす日々は、かけがえのない思い出そのものである。その全てを再確認した時、彼はMが壁の隙間に隠した手紙を取り出し、読み上げ、消えていってしまう――映画はここで終わる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』と、冒頭で紹介した『乱れる』の結末には、決定的な違いがある。
『乱れる』は、加山雄三という男の死によって終わる映画だ。そして加山が死んだことで、我々は加山の遺体の前で呆然と立ち尽くす高峰秀子と同じように、加山の唐突な最期を理解しきれないまま、複雑な思いを体験することになる。その後になって、じわじわと、加山が死んだことで、高峰と加山の男女の関係が完全に終わってしまったことを理解し、『乱れる』が真に悲劇的な映画だったことを受け入れざるを得なくなる。
反対に、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、Cという男の死によって始まる映画である。死んだCが幽霊となって愛するMと家に対する思いに囚われ、執着しながらも、やがて解き放たれ、そして自らの思いに決着をつけることで、幕を下ろしている。この幽霊の消失と、『乱れる』の加山の死とは意味合いが異なる。加山の死は、高峰との関係性の完全な断絶を意味する。だからこそ、悲劇的なのである。しかし、幽霊の消失には、多様な可能性を見出すことが可能である。悲しみの視点で見れば、無に帰ったかもしれないと捉えることも可能だが、前向きな視点で見れば、新しい命として生まれ変わっていったのかもしれないと捉えることも可能である。
 だからこそ、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、悲劇的なストーリーであると同時に、多様な可能性を見出すことが可能な素晴らしく感動的なストーリーである――という事実を、我々は時の流れとともに理解していくだろう。

(text:成宮秋祥


『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
2017年/アメリカ/92分

監督/脚本/編集:デビッド・ロウリー
撮影:アンドリュー・D・パレルモ

キャスト:ケイシー・アフレック
     ルーニー・マーラ

公式ホームページ:http://www.ags-movie.jp/

劇場情報:新宿シネマカリテ他にて上映中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥(Akihiro Narimiya)

映画好きです。職業は介護福祉士です。映画ライターもしています。ことばの映画館、neoneo web、THE RIVERなどに寄稿しています。 2017年まで映画オフ会、映画を語る会を主催してました。

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