2016年5月24日火曜日

映画『ヴィクトリア』評text井河澤 智子

「Show must go on! 」


ベルリン、明け方4時。
 激しい光の明滅の中、踊る人々の姿がぼんやりと浮かび上がってくる。
 やがて一人の女性にピントが合う。彼女の名はヴィクトリア。 お酒を頼み、間違ったものが出てきても普通に飲んでいる。どうやらドイツ語が話せないらしい。

 自転車で帰宅しようとする彼女に声をかけてくる若者たち。
 他人の車を勝手にこじ開け「乗って行けよ」としつこく誘う姿はどう見てもチンピラのナンパであり、若い女子としてはご遠慮しておいたほうがいいのではないか、と思うのだが、ヴィクトリアはにこやかに断りつつも別に避ける様子はない。こんな連中は珍しくもないのだろうか。ドイツ語はわからないが、英語はかなり流暢な彼女にとって、その中に一人でも英語が通じる者がいるということが安心だったのかもしれない。
 生粋のベルリンっ子だという彼らは、ヴィクトリアに言った。
「君が見たいなら、本当のベルリンを見せてあげるよ」
 スペインから移住してきて3ヶ月。寂しい彼女に、はじめて友達ができた瞬間。
 それから2時間14分。彼女は絶叫マシンに乗ってしまった。

 さて、この映画はなんとワンカットで撮影されている。映画の中での時間の流れと、我々が体感する時間の流れが一致しているのである。全くそんな気がしない。この大胆な試みは、どれだけ綿密に計画立てられ、どれだけ大雑把であれば成功するのだろうかと想像すると震えるばかりである。
 始まってしまったら止めることはできない。

 ふと思い出した。筆者はささやかながら舞台に関わっていた時期があった。
 一旦幕が上がってしまったら止まることはできない。どんなアクシデントがあっても突っ走るしかない。Show must go on!

 しかし、考えてみたらノンストップなのは舞台裏だけであり、お客様にご覧いただいているものは暗転もあれば場面転換もある。基本的に物語は「その舞台の上」だけで展開し、役者が見せるものは「声も含めた全身での感情表現」である。
 この映画は全く違う。比較の対象ではないことに気がついた。

 まず舞台はベルリンの街であり、役者もカメラも縦横無尽に走り回る。
 街で撮影するということは、予期せぬトラブルも乗り切らなければならないということである。
 時間帯は明け方のみ。美しい夜明けが必要だとすると、どこかで何らかの理由で撮影が途切れてしまったら、役者のみならず天候待ちも含めて撮り直しが必要だ。
 カメラは役者の表情も容赦なく映し出す。場面のアングルも全て異なる。
 また、要所要所に、撮る者あるいは撮られる者を試すような、あえてアクシデントを誘うような仕掛けも施されている。
 共通するのは「走り出したら止まれない」ということだけ、それ以外は舞台とは全く異なるものであった。筆者は自らの経験に基づく思考を放棄した。

 この映画は非常に人物の造形がうまくできている。
 ヴィクトリア。彼女は素晴らしい特技を持っていながら、ふらりとマドリードからやってきて、わずかな賃金で働いている。

 このことを示す場面は素晴らしかった。彼女の鬱屈、不満、挫折感が溢れてくる。
 彼女は、ある時ふと居場所を失ったのだろうか、マドリードからベルリンに来て3ヶ月。しかし友人は出来ず言葉もわからず、クラブで踊ることが唯一の楽しみだったのかもしれない。

 ベルリンで生まれ育った若者たちにとっても、生きることは決して容易いものではないようだ。ここに描かれる4人の若者たちにも、かつて刑務所に入っていたという経験を持つ者がいる。悪人ではなくとも、生活のために裏社会と関わりを持たざるをえない者もいるのかもしれない。外見はどう見てもあまり近寄りたくない類の青年が、無邪気なヴィクトリアに問われ、口ごもりながらその過去を語る場面がある。しかしそこには彼を「家族同然」といって受け入れる仲間たちがいる。密な人間関係。ヴィクトリアはそこに迎え入れられて嬉しかったのではないだろうか。

 前半1時間はそれぞれの事情をほのめかせつつ、特に何も起きないだらだらとした展開である。それを全く退屈に見せないのは、人物の描写のうまさとカメラワークの臨場感であろう。しかし、一転して後半は畳み掛けるように物語が進んでいく。
 青年たちが巻き込まれた犯罪に加担する羽目に陥ったヴィクトリア。彼女は必死で車を走らせるが、車内で交わされる会話がほとんど理解できない。時折思い出したように飛んでくる英語だけが彼女の頼りである。
 周囲で起こっている諸々の事態を瞬時に把握できない。一体何が起きているのか。彼女の表情と叫び声が、その不安と焦燥感を観客に訴えてくる。

 ヴィクトリアは別に彼らについていく必要はなかったし、彼らとて、すったもんだの挙句にコトが成功したのなら、ひとまず解散してほとぼりを覚ませばいいのだが、そこで彼らはクラブに立ち寄りバカ騒ぎに興じる。早く帰れよ。観ている方はジリジリする。危ない。
 ここで、彼らはこの直前「コカイン」を嗅がされている、ということを思い返してみる。聞いた話によると、ベルリンにおいてコカインは非常に歴史の深い薬物であるという。クラブでかかるテクノミュージックとも関係が深いとも聞く。詳しいことはわからないが。
 若者のひとりはコカインを嗅いだ直後、発作を起こし、死にかける。コトを無事に終えた後、異常なハイテンションになりクラブに突入し、羽目を外してつまみ出される。
 繰り返すが、この映画は物事を時間通りに映し出している。コカインを嗅がされ、死にかけ、なんとかコトを成し遂げ、逃走する。その間は数十分である。
 異常な緊張、その後の解放感。薬物の与える多幸感。この場面はやはり必要だったのだ。  

 多幸感に満ちたクラブから一歩外に出ると、そこは地獄であった。ここまでジェットコースター的展開だとむしろ観ている方の心臓によろしくない。延々と映し出されるヴィクトリアの表情の緊張感は全く途切れない。どうやら彼女、どこかでタガが外れたようである。その肝の座りぶりはそこらのチンピラなど軽く凌駕している。
 途中で披露する芸といい、数十分のアップに耐えうる表情の緊張感といい、一瞬にして爆発する感情表現といい、監督は大変な女優を見つけたものである。

 この映画はワンカットで撮影されており、しかも台本などはなく、たった12ページのプロットのみが用意されていたと聞く。かなりの機転が要求されたであろう、そして役者及び製作陣がそれに見事に対応した、それ自体驚嘆に値する。初見では筆者はそのことに思いが至らなかった。ただ、全編を貫く疾走感が心地よい疲れを誘った。
 しかし、このレビューを書くために2回この作品を観て、そのところどころに見られる危なっかしさ、リカバリーの見事さに気づいた。もし可能なら、2度ご覧いただきたいところである。

 そして、この映画は、「ドイツにおける移民」あるいは「移民文化の中のドイツ」についても言及する。
 若者のリーダー格であるゾンネ。彼は生粋のベルリンっ子であるが、英語ができる。
 彼はヴィクトリアにこう言う。
「ベルリンは他所者が多いから、多文化だな」
 勿論、ヴィクトリアも「他所者」である。

 聞いた話によると、ドイツには、古くはトルコやギリシャから、最近は中東から、欧州に限らずあちこちから人々が集まってくるらしい。ベルリンではないが、ハンブルグが舞台となった、ファティ・アキン監督『ソウル・キッチン』(2009)においてもその移民社会ぶりは存分に描写されている。また、最近何かの折に聞いた話によると、ベルリンは生活費が安く、治安も比較的良く、日本人もビザも取りやすいのだという。筆者はうっかり移住したくなったくらいである。EU内ではさらに気軽に行ける範囲なのであろう。
 すぐそばには当たり前のように他国からの移民がいる、彼はそんな感覚でいるらしい。

 ゾンネは一見若者には見えない(申し訳ないが)。ジャージを着たおっさんにしか見えない(申し訳ないが)。
 しかし、頼りない、情けない幼馴染たちの面倒を見、よそ者を当たり前のように受け入れ、知り合いの店から酒を万引きしておいて「後で払うから」とケロリと言ってのける、ゆるく深い懐を持つ彼、ひょっとしたら「彼こそがベルリン」なのかもしれない。
 また、その場所に生きている人々それぞれにドラマがあるということを思わせるような人物描写と、そのことにより起きる物語が、しっかりと描写されていた。決してワンカットという実験的な手段を目的とした映画ではないような、そんな感覚がある。

 この映画の真の主人公は、ひょっとしたら、「ベルリン」という街そのもの、あるいはベルリンで生活する、すべての人々なのではないだろうか。

クラブに自転車で行けるっていいなぁ度:★★★★☆
カメラマンさんお疲れ様!度:★★★★★


『ヴィクトリア』レビューを書くにあたって

 昨年秋、東京国際映画祭についての軽いエッセイを書いた際、この『ヴィクトリア』についてレビューを書きたい、と思っていたのだが、その後いっこうに手をつけることができなかった。
そうこうしているうちに時間は流れ、だんだんと記憶も薄れ、ただ「書くことができなかった」という口惜しさだけが残ろうとしたところ、この作品が一般公開される、ということを知った。
 これはまた観よう。観てから書こう。
 そう思って寝かせておいた。やっと書くことが叶った。もう思い残すことはない(ウソ)。

(text:井河澤智子)

関連記事:秋の映画祭シーズンを勤め人として過ごすという記録text井河澤 智子





『ヴィクトリア』
2015年/140分/ドイツ

作品解説
ベルリンの街で出会ったスペイン人女性と4人の青年に降りかかる悪夢のような一夜を、全編140分ワンカットで描いた新感覚クライムサスペンス。わずか12ページの脚本をもとに俳優たちが即興でセリフを発し、撮影中に発生したハプニングもカメラに収めながら、ベルリンの街を疾走する登場人物たちの姿をリアルタイムで追う。3カ月前に母国スペインからドイツにやって来たビクトリアは、クラブで踊り疲れて帰宅する途中、地元の若者4人組に声をかけられる。まだドイツ語が喋れず寂しい思いをしていた彼女は4人と楽しい時間を過ごすが、実は彼らは裏社会の人物への借りを返すため、ある仕事を命じられていた。

キャスト
ビクトリア:ライア・コスタ
ゾンネ:フレデリック・ラウ

スタッフ
監督・製作:セバスチャン・シッパー
脚本:セバスチャン・シッパー、オリビア・ネールガード=ホルム、アイケ・フレデリーケ・シュルツ
撮影:シュトゥールラ・ブラント・グレーブレン

劇場情報
5/7~シアター・イメージフォーラム
5/28~シネマジャック&ベティ
ほか全国公開

公式ホームページ
http://www.victoria-movie.jp/


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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

 昔住んでいたところには、自転車で行けるクラブがありました。
 狭い場所に、いろいろ揃っていて、どこにいっても知り合いがいて、
 人間関係も良くも悪くも密接で、
 でも、基本的によそ者の吹き溜まり。
 『ヴィクトリア』を観て、その頃のことを思い出したりしました。
 そのクラブで、トイレに自転車の鍵を落っことしたことがありますが、
 そのとき思い浮かんだのは『トレインスポッティング』の一場面でした。
 あのときはどうしたんだっけかな? あの鍵?

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2016年5月21日土曜日

映画『ルーム』評text今泉 健

「希望潰えども」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 人が失望したり絶望したりするのはどんな時だろうか。先日、熊本で大地震が起こった。多くの方が亡くなり痛ましい限りだ。余震も収まらず家にも戻れないとか、半壊、全壊してしまったのでは暗然たる気分に陥りそうだ。東北の震災でも阪神の震災でも、多くの被災者がいて、肉親も失う方もいて、それでも避難生活を懸命に送っていた。天災だから自らの意思とは関係ない。その後仮設住宅も用意されたが、絶望して自殺を図る人がいると聞いたことがある。あの甚大な災害を生き残ったのに、という気持ちは正直あるが、ご冥福を祈るだけである。現実が自分の希望や想像とかけ離れていたのだろう。甚大な災害では大切な人や物を一緒に失うことが原因で、価値観を変えてしまうことがあるそうだ。字面だけなら想像がつきそうな説明だが、これまで幸運にも被災した経験がないので実際の気持ちがわかるなど傲慢なことは言えない。いずれにせよ以前と同じ心持ちではいられなくなるのだろう。

 映画『ルーム』は希望と絶望を克明に描いた作品である。ティーンエイジャーの時に誘拐された女性、ジョイが7年も自らの意に反して監禁された続けた部屋で犯人の子供を生み、策を練りながら、子供を使い脱出を図る。目的を果たしたその後が話の肝と言えるだろう。フィクションだが、まるで犯罪被害者の実録映画のような迫力があった。ストックホルム症候群は否定できないが、あの状況下で正気を保てるというのは、精神的に強い、それも愛情の深さに裏打ちされた強さである。しかし彼女が部屋から出た後の生活に過度な期待を持つのは誰にも責められない。脱出できればすべて元通り、と思わなければ耐えられるはずなどないからだ。そして、脱出を果たした後に思いもよらぬ試練に遭遇する。不在中に変化してしまった家庭環境、マスコミは無慈悲としか思えない正論を振りかざし彼女を責め立てる。憎まれるべきは犯人だけのはずだが、これが洋の東西を問わず「マスコミあるある」だったとは……。7年間で共有できるはずだった肉親や友達との大切な思い出、楽しいことも辛いことも経験しながら育む筈だった人間関係等を、自らの意に反して突然奪われ、失ったことは取り返しがつかない。彼女も身内を含めた周囲も歪んだ状況下で価値観が変わっていたのだ。そして孤独感に襲われた彼女は完全に参ってしまい自殺まで図る。やはり人が絶望するのは、辛い状況下ではなく希望が大きく損なわれた時ということ示唆しているように思う。
 一方、子供のジャックはどうか。この男の子は5歳で聡明で健気で素直。脱出を図る際は母親の言いつけを守り、他人に親切そうな大人や勘の良い警官に会えたこともあり救われる。彼が部屋を出る場面はまるで2度目の出産のようだ。そして初めての外界で目に映った「リアル」、緑の木々に息を呑み、目を丸くする様子がとても自然だった。彼は外界で、〈部屋の中の空想入りの産物〉=「リアル」と〈テレビに映る偽物〉=「フィクション」が大逆転するという、価値観の激変、脳内のパラダイムシフトを経験する。だから、すんなりではないが、受け入れた祖母(主人公である彼女の母親)達が献身的なこともあり徐々に馴染んでいく。母親が不在になっても寂しくても耐えながら、親を慮るところまで成長するのは持ち前の人間性の現れである。この子も精神的に強さを持ち合わせているのだ。ただ、部屋での生活は苦境以外の何物でもなくて外界に希望をもっていた母親と、部屋の生活が全てで外界に希望など持ちえない子供では脱出後の周囲への順応が違っており、対照的に見えてしまうのが興味深い。

 エンディングは、明るい兆しを感じた。それは子供の存在である。別に子供が生きがいだからというだけではない。この子は5歳まで母親しか大人と接することはなかったが、社会性を持ち、人の心を思いやることができるし、優しくされることに素直である。あの極限状況下で男に対する憎悪の感情は子供に伝えず、こんな良い子に育てたのは彼女に他ならないからだ。彼女はまっとうな人間であり、その生き写しが子供ということなのだ。彼女は自分で自分を救ったと言えなくもない。ただ、子供が成長し少年になり、自分の生い立ちが気になり始めた時は試練を迎えるだろう。無責任な世間が聞いてもてもいないのに、父親のことを教えるかもしれない。その時は彼女や周りの大人が彼を救う番である。

 物語は予想以上に子供の露出が多い。原作の小説が子供目線の作品らしいが、この子役が巧くはまり込んでいる。それは彼の演技力、表現力があってこそなのは、言うまでもない。しかし母親役のブリー・ラーソンも存在感がハンパない。成り切りタイプのようだが演技がナチュラルで、役柄がすぅーっと憑依しているようにみえる。ルックスが良いとかスタイルが抜群とかではないのに、26歳でビッグチャンスを得ることができたのも納得である。

 人が絶望するのは必死にならざるを得ない苦境の下ではなく、むしろそこを一旦乗り切った後だと伝えたいのではないか。苦境の中身にもよるし、自分はさておき、期待や希望を持てば、それが損なわれたとき精神的な試練を迎える。希望がなければ絶望もしないというのは、悟りの境地で、そこまで達観できる人はそういない。特に理不尽ともいえる環境下、犯罪被害者や被災者のように、希望を胸に気張れば反動が出るのもやむを得ない。映画では周囲の身内が注意深く、我慢強く見守り、本人の立ち直る力を信じて必要そうな時は手を差し延べており、その様子から、主人公の強さ、愛情の深さが特に祖母由来だと思えるくらいなのだ。被害者が元々備えている人間性がものを言うのは承知だが、むしろ周囲がどれだけ援助し続けられるかが大切なように思えた。本人の希望が潰えたとしても、周囲が救いの手を差し延べ続ければ、事態は好転し得るということだ。現実はさらに厳しいのだろうが、あるべき姿を示すことも監督のメッセージとなる。
 この作品は対照的な要素、例えば、希望と絶望、本物と偽物、部屋と外界、で構成されていて、それらが時に交錯しながら、物語が展開し、メリハリが効いた印象を受ける。事件中の描写から犯罪被害者の心理的葛藤までテンポもバランスも実に良く、フィクションならではの良さが存分に発揮されている。後日談的な部分に重きを置いたのは、ありそうでなかった新鮮さだった。

息子ジャックの健気度:★★★★★
(text:今泉健)




映画『ルーム ROOM』
原題:Room
2015年/118分/アイルランド・カナダ合作

作品解説
アイルランド出身の作家エマ・ドナヒューのベストセラー小説「部屋」を映画化。監禁された女性と、そこで生まれ育った息子が、長らく断絶されていた外界へと脱出し、社会へ適応していく過程で生じる葛藤や苦悩を描いたドラマ。

キャスト
ジョイ:ブリー・ラーソン
ジャック:
ジェイコブ・トレンブレイ
ナンシー:
ジョアン・アレン
オールド・ニック:
ショーン・ブリジャース
ロバート:
ウィリアム・H・メイシー

スタッフ
監督:レニー・アブラハムソン
製作エド・ギニー、デビッド・グロス
製作総指揮アンドリュー・ロウ、エマ・ドナヒュー

配給:ギャガ

公式サイト

劇場情報
新宿シネマカリテ他、全国劇場公開中

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)。

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2016年5月20日金曜日

映画『光りの墓』text高橋 雄太

「浮かび上がる世界」


『光りの墓』は3D映画である。といっても、3D方式で上映されているわけではなく、コーンケンの風景や主演女優ジェンジラー・ポンパット・ワイドナーが飛び出して見えるわけでもない。それにも関わらず、この作品からはいくつもの世界が浮かび上がるのだ。

タイ東北部のコーンケン、多くの兵士たちが「眠り病」にかかり入院している。コーンケンに暮らす女性ジェンは、眠る兵士の一人イットの世話をすることになる。彼女は、一時的に目覚めるイットを息子のように扱い、彼が眠るとベッドの傍らで見守る。ジェンは、眠る者たちと交信できるという女性ケンと知り合う。ケンによれば、過去にこの地にあった王国の兵士たちが今も戦争を繰り広げており、彼らによって現代の兵士たちの魂が吸い取られることで、眠り病になっているという。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの過去作には二部構成のものが多い。それらの作品には、都市と森(『ブリスフリー・ユアーズ』、『トロピカル・マラディ』)、田舎と都会(『世紀の光』)のように二つの世界が含まれており、映画の前半・後半に対応して世界間で水平移動が行われていた。一方、『光りの墓』は二部構成ではなく、映画の舞台は一貫して病院とその周辺である。しかし、本作も過去作と同様に複数の世界を含んでいる。一箇所に局在する映画と多世界の存在、これらの両立を可能にするのは重ね合わせである。

冒頭、カメラは病院の開かれた窓から外を眺め、重機とそれに掘り返された大地を映す。地下の王国と地上との通路がつながり、兵士たちの魂が地下の戦争に駆り出される。水辺に生息するはずのゾウリムシは空に浮かぶ。地下・地上・空中という上下の世界が重なり合い、下にあるものが上に現れ、上にあるものが下に現れる。ケンに憑依したイットはジェンを導き、病院周辺を案内する。イットによれば、そこは王宮だという。私たち観客やジェンにとっては森の中、だがイットにとっては王宮。空間も時間も開放され、上〜下、過去〜現在の行き来が行われる。3D映画では、左右の目に入力される異なる映像が重なることで立体映像が生み出される。『光りの墓』では、異なる時空間が重なることで、見えない世界が浮かび上がる。

前述のように、『光りの墓』は二部構成ではなく、『ブンミおじさんの森』(2010)のような挿話もない。アピチャッポンの作品の中で、劇映画としての完成度が最も高いと言えるだろう。だが本作は、ファーストシーンで始まりラストシーンで終わる閉じられた映画ではない。ケン(実はイット)とジェン、彼女の前に現れる二人の王女らのフレームへの出入りは、本作が映画の外部に対して開かれていることを示している。

映画の外部として、軍事政権下で映画が検閲されるタイの情勢、ラオスやカンボジアに属していたというコーンケンの歴史が思い出されるが、これらについて述べることは私の手に余る。以下では、アピチャッポンの他の作品と『光りの墓』との関係から話を進めたい。

本作の主演ジェンジラーはアピチャッポン作品の常連であり、イット役のバンロップ・ロームノーイは『トロピカル・マラディ』(2004)にも出演していた。病院やエアロビクスもアピチャッポン作品でおなじみである。さらに、肌に塗るクリームは『ブリスフリー・ユアーズ』(2002)に、蘭の花は『世紀の光』に使われていた。『世紀の光』の前後半でほぼ同一の登場人物やエピソードが描かれたことと同様に、『光りの墓』ではアピチャッポン作品の要素が繰り返されている。本作は、一本の映画でありながら、アピチャッポンの作品群の一話でもあるのだ。

回転するファンのように物事が回帰するアピチャッポンの作品群において、時間は単線的ではなく円環的である。時間が円を描くなら、『光りの墓』のエンディングは終わりではなく、果てしなく続く円環の一部であろう。エンドクレジットでは劇中の少年たちの声が流れているのだが、いつの間にか撮影機材の後片付けのような音が聞こえてくる。エンドクレジットが終わると、当然ではあるが、映画館の照明が点灯し、空白のスクリーンや前の座席が目に入る。観客の意識は、映画の中から、映画と現実の中間を経て、現実へと推移する。ついさっきまで見えていた世界=映画とは別の世界=現実が浮かび上がる。可視光と不可視光とが連続したスペクトルに配列されるように、見える世界と見えない世界、映画と現実とは連続している。

世界は重ね合わせでできている。私が見ているこの世界にも見えないものが重なっており、突然目の前に現れるのではないかと思える。別の世界とは何か。過去か、未来か、あるいは夢か。見えない世界のことなどわからない。だがわからなくとも、その存在を予感することはできる。ジェンは見えない王宮を歩いた。私たちも映画を見ながら、見えない現実世界のことを了解している。ならば、現実の中にいながら、見えない世界を信じることも不可能ではないはずだ。

水辺のプロペラが一瞬だけ水に触れ、公園のカップルが次々と相手を変えて座るように、世界と世界との出会いは一瞬の邂逅かもしれない。ジェンとイットの触れ合いも、彼が起きている短い時間のものだった。それでも、時間が回帰する限りいずれ出会えるだろう。

クリームが皮膚に浸透し、食物は身体に取り込まれ、排泄物として排泄される。人間は孤立系ではなく、外部に開かれた開放系である。『光りの墓』が作品の外とつながっていたように、私たち自身が世界と世界との媒介となれるかもしれない。「息をさせてあげて」。ビニール袋に包まれた蘭を見て、イットはそう言う。言われるままに息をしよう。目を見開くのだ。浮かび上がる世界を見るために。

3D度:★★★★★

(text:高橋雄太)





『光りの墓』
英語題:CEMETARY OF SPLENDOUR
2015年/122分/タイ・イギリス・フランス・ドイツ・マレーシア合作

作品解説
「ブンミおじさんの森」でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が、原因不明の「眠り病」に陥った兵士たちと古代の王の墓をめぐる謎を、ユーモアと優しさあふれるタッチで描いた異色ドラマ。
タイ東北部イサーンに建てられた仮設病院。かつて学校だったこの病院には、謎の眠り病にかかった兵士たちが収容され、色と光による療法が施されていた。病院にやって来た女性ジェンは、身寄りのない兵士イットの世話をはじめる。病院には眠る兵士たちの魂と交信できる特殊能力を持った若い女性ケンがおり、ジェンは彼女と親しくなる。やがてジェンは、病院のある場所がはるか昔に王様たちの墓だったことが、兵士たちの眠り病に関係していることに気づく。

キャスト
ジェン:ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー
ケン:ジャリンパッタラー・ルアンラム
イット:バンロップ・ロームノーイ

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影監督:ディエゴ・ガルシア
音響デザイン:アックリットチャルーム・カンラヤーナミット
編集:リー・チャータメーティークン


劇場情報
4/30~ シネマジャック&ベティ 
5/21~6/3 川崎市アートセンター
ほか全国公開中

公式ホームページ
http://moviola.jp/api2016/haka/

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執筆者プロフィール

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。最近うれしかった出来事はレスター・シティのプレミアリーグ優勝。

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