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2021年1月23日土曜日

映画『ミッドナイト・ファミリー』評text今泉 健

 「パワフル、タフ、生命力≠幸福」
 
© Family Ambulance Film LLC

 私営の救急車ビジネスという驚きドキュメンタリーがあると聞いて、すぐに思い浮かんだのは、アメリカンドラマ『サード・ウォッチ』。ニューヨーク市の救急隊員のドラマでした。タイトルの意味は「第3勤務シフト」、PM3時~11時が最も事件事故が多発する救急車が大忙しの時間帯ということです。放映の時期は9.11を挟んでいて、エンタメ故に家族はもちろん恋も友情もあるとはいえ3Kで安月給、精神衛生上も良くない時もある過酷な職場で、働く人の職業倫理が支えている体でした。
 人口900万人に45台未満の救急車しかないメキシコシティ。営利目的の私営の救急車をビジネスにしている人たちがいて、いわば、救急車版の白タク、決定的な社会インフラ不足社会のニッチな生業(なりわい)。オチョア一家は90年代末からこの仕事、アメリカのオクラホマから中古の救急車を買いました。医療崩壊どころか慢性的に不足が当たり前の異常な状態が放置されていることになります。主な登場人物は男性4人、若きハイティーンのオチョア家の当主的存在ホアン、朴訥な父フェル、やんちゃなホアンの9歳の弟ホセ、助手的なマヌエル・エルナンデスです。救命士の資格があるわけでもなく当然公的な許可もなく、主な稼働時間帯もサードウォッチの後半から深夜という文字通りのいわゆる「闇営業」。なのに料金表があったり、必要な装備の情報が入ったりで、行政から表向きではなくても事実上認められた必要悪的な商売と捉えられているのでしょう。

© Family Ambulance Film LLC

 撮影クルーはオチョア一家の救急車に6か月も同乗しているので、家族の視線からみたメキシコシティの状況が映されることになり、犯罪や暴力や汚職や賄賂やドラッグやネグレクトや様々な社会状況が垣間見えます。駆けつける現場の情報は車中で賄賂で確保した警察関係のネットワークからとりますが、地理的状況、自分たちの手に負える負えないとか、お金になるか判断を含めて、自分たちの家計状況、周囲との競争を加味して自然と取捨選択しているのでしょう。上手くいくいかないに関わらずAIでも到底無理なようなスピーディーにえらく高度な判断を要求されるような気がします。商売としての難しさは上手くいかなくても料金を請求しないといけないこと。安い公立病院は混んでいるし、通報される恐れもあるから、たぶん付き合いのある、(どうやら彼らに料金の立て替え払いをしてくれる)私立の病院に運ぶことが多く、時間がかかることもあるのでしょう。それが極限状態の「お客様」でも半ばクレームの不満な点になります。強みは、実際待っていても行政の救急車はまず来ないと言い切れること。なんとこの一家、職業倫理観を持っていて、この街には自分たちが必要という考えもあるから、お金を持っていなさそうな人も助けてボランティアみたいな仕事が続くこともあり、そうなれば途端に家計は逼迫するようです。もっとも、当然ながら同業者にはドライに割り切っている人たちもいて、悲しいことですが、オチョア一家の方が少数派なんだろうと思います。
 
 
© Family Ambulance Film LLC

 作品から社会問題が垣間見えはしますが、それを浮き出して、問題として捉えるというより、そこで懸命に生きる家族を追っています。まさにタイトル通りで、あくまで深夜帯の暗闇での必要悪的仕事を生業にする家族の物語です。訓練も受けていないのに、エグイけが人を見たら卒倒しないのかとか、けが人の血液を浴びて何らかの感染症にならないかとか、様々なギモンや懸念は浮かびますが、この一家、基本、なんかタフでパワフルで感心してしまいます。現場に向かったりする時はほんとに同業者と、病院に向かうときもカーチェイスしていて、これは迫力があって撮影クルーも命がけです。オチョア一家を取り巻く状況はどうみても厳しく余裕などなさそうで、心がくじけたら待っているのは自滅、でもホアンもカノジョと思われる人物とスマホで話している様子も映っていて将来なんか考えている雰囲気もあって、このあたりに生きる上での力強さ、逞しさ、生命力を感じます。目の前で起きていることが正しいだとか間違いだとかで頭がいっぱいになったり、将来を悲観して不安に思い悩んだりするのは、今、それなりに得ている満足があるからと改めて気づかされます。食べるのに汲汲として考える時間も余裕もなく、大して良かったあの頃という戻りたい昔もなければ、希望は未来にしかないから自ずと前だけを見て生きることになるのかしれません。ただし、それは幸福からはかけ離れ過ぎで、とてもあるべき姿とはいえないのも事実、そもそも本人達も現状が幸福とは思っていないでしょう。

 

 (text:今泉 健)



 

『ミッドナイト・ファミリー』
原題:Midnight Family
2019年/81分/カラー/アメリカ、メキシコ

サンダンス映画祭 米国ドキュメンタリー審査委員賞受賞

◉ あらすじ
メキシコ・シティには、人口 900 万人に対して公共の救急車が 45 台未満しかない。そのため、救急救命にあたる闇救急車の需要がある。オチョア家族も同業 の救急救命士らと競い合って急患の搬送にあたる私営救急隊だ。この熾烈なビ ジネスで生計を立てるため、オチョア家族は救助を求める患者から何とか日銭 を稼ごうと奮闘する。しかし、闇営業を取り締る名目で汚職警官に賄賂を要求 されるようになり、さらに家族は金銭的にも追い詰められていく。倫理的に疑 問視されるオチョア家族の稼業をヒューマニズムにあふれる視点で捉えつつ、 医療事情、行政機能の停滞、自己責任の複雑さといった差し迫った課題を描い たドキュメンタリー映画。

◉ キャスト
監督:ルーク・ローレンツェン
企画制作:ケレン・クイン、ルーク・ローレンツェン
プロデューサー:ダニエラ・アラトーレ、エレナ・フォルテス
撮影・編集:ルーク・ローレンツェン
共同編集:パロマ・ロペス・カリーリョ
編集協力:マリー・ランプソン
音響デザイン:マティアス・バルベリス
音楽:ロス・シャハトス

◉ 出演
ホアン・オチョア
フェル・オチョア
ホセ・オチョア
アンドレス・サンチェス

◉ 配給:MadeGood. Films

◉ 公式ホームページ

◉ 劇場情報
1月16日(土)より渋谷ユーロスペースにて上映中。他全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Takeshi Imaizumi

会社員 1966年生 東京在住 名古屋出身

映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ等受講。青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラム修了。映画館を作りたいという野望あり。


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2019年8月12日月曜日

映画『アマンダと僕』評 text今泉 健


「リアリティとは何か」


「怒れる人間はまだ幸せだ」というのは最近のテレビドラマで聞いた印象に残るセリフです。2019年上期のNHK朝ドラ『なつぞら』で開拓民一世の柴田泰樹(演:草刈正雄)が言いました。戦災孤児で柴田家で世話になることになった主人公なつ(演:粟野咲莉のちに広瀬すず)は冷たいことを言われたり、からかわれても笑っていたり感情を露わにしないので、そのことでさらに周囲の子供達、大人までもイラつかせることになります。泰樹はそんな、なつを見て、「不幸で追いつめられると不安感しかなく、生きるのに精一杯で怒ることすら忘れる」というようなことを語ります。そしてなつが「なんで私には家族がいないの!」と自分の境遇について感情を爆発させたら、「もっと怒れ」と抱きしめたのです。何か行き詰まった状況を越えるには怒りも必要だと言いたかったのかもしれません。
 映画『アマンダと僕』はテロリズムという行為ではなく、あくまで、それに影響を受け翻弄される、被害者である庶民の目線で描いています。犯人について描写はほとんどなく、それがかえってテロリズムの無情さ非情さ理不尽さを感じさせます。欧米の映画では衝撃的な実話ベースの『ウトヤ島、7月22日』監督:エリック・ポッペなど被害者目線の作品もありますが、これはフィクション。テロリストを中心に取り上げればどうしても彼らに人間味を与えたくなりますが、被害者目線ならどう考えても彼らは悪魔にしか見えないでしょう。そんな彼らの理屈を公開されたって傷つくだけのように思えますし、そもそも見ないと思います。もちろん様々な視点の作品は必要なので、だからこそ必要不可欠な視点に思えます。伏線的に実行犯が町にいる様子ですとか、テロの予兆のようなことを匂わせそうなものですが、このような一般人の被害者を描く場合は、むしろそれはフィクションの世界だと気づかされました。現実は何の前触れもなく巻き込まれていくものなのでしょう。また、事件後も葬式など非日常なドラマティックなセレモニーではなく、あくまで日常生活に焦点を当てて感情のうねり、起伏を描いてているのが効果的です。セレモニーの場面もあっていいのですが、実際儀式で必ず心の整理が着くものではないですし、最中は緊張もあったり気も張っていたりで、感情を表す余裕はないものだ思いますから、やはり、悲しみなどの感情は日常不意を突いて顔を出すものだと思います。この辺がフィクションでありながら、いや、だからこそ描き出せる現実味を感じます。
 舞台は初夏のパリ、「僕」ダヴィッドは24歳の男性。乱射テロでそれまでささやかに築いていた日常は崩れ去り、姉は亡くなり付き合い始めたばかりの恋人は負傷をして故郷に去ってしまいます。当たり前に会えると思っていた人に急に会えなくなることの虚無感。何の報復だか知りませんが、そこにどんな大儀があろうとやはり理不尽という言葉しか浮かびません。庶民のささやかな幸せを奪う権利は誰にもなく、見ている方は怒りを覚えますが、この主人公は憎しみや怒りの感覚がないように見えます。冷静でただ懸命に生きるだけ、だから時に感情がこみ上げたり爆発する場面を見ると心を大きく揺さぶられ、彼に感情移入してしまうのです。そしてこれが凄いのですが、彼は自分を憐れむ様子がありません。自分が彼の境遇なら、自分にと考えるなど卑近ではありますが、やはり不運を嘆き、憎しみも湧いてしまうだろうと思います。しかし憎しみの心より、ただ姉の死と恋人が去ったことを正面から悲しみ、悩みもがき苦しみながらも、自分の幸せを取り返そうととにかく諦めません。彼の場合、(たぶん)無神論者であることが大きな要素だとあるとして、でももう一つ、むしろこれがメインである大きな要素があります。原題の”AMANDA”、 シングルマザーの姉の忘れ形見で1人娘、彼からすると姪っ子の「アマンダ」、7歳の女の子の存在がとても大きいのだとわかります。この姉弟は身寄りといえる人がほとんど近くにいません。というのも今はパリ在住ですが、幼い頃離婚した実の母親はイギリス人で家を出て、現在はウインブルドン辺りに在住です。姉弟は父親とパリで暮らしてましたが、父親は既に鬼籍に入ってます。アマンダの父親とも疎遠、パリ在住の叔母は良い人ですが、ただ小学生の子供を引き取るには少し年齢が行き過ぎていて、ということで「僕」が面倒を見るのが妥当ということになります。急にそんな覚悟を決められるシングルの20代男子は古今東西そんなにいないでしょう。アマンダももちろんお母さんの死を受け入れられず、「僕」を振り回しますが、わがまま具合が絶妙で心の葛藤が見て取れて、気持ちを理解できます。そんなアマンダは「僕」にとって悩みの種ですが、彼女の存在が「僕」を自己憐憫へ向かわないような防波堤になっていると思えるのです。アマンダのことを考えると怒っているような余裕がないのかもしれません。何も世話をされる側のみが恩恵に預かるわけではなく、精神的に共助の関係だとわかります。
 NHKの朝ドラ『なつぞら』でも行き詰まった現状、諦めや自己憐憫を乗り越える手段としてまず怒ることは必要だと語っているように思います。とにかくこの手の感情が残ったままだと人は前向きになれないということではないでしょうか。「僕」ダヴィッドはめったに怒りませんが、無音になって感情を露わにした場面がありました。それこそ怒りの爆発だったのかもしれません。こうしてみると、自分はなんて不幸なんだという自己憐憫に陥ることこそ諸悪の根源なのかと思えてきます。この負の感情に浸らず、断ち切ることこそが人を前向きにして、憎しみの連鎖を切る処方箋なのかなんて、私の勝手な感想ですが、そう思えます。そして同時に、もう賞賛するのみですが、人は苦境に立った時でも日常のちょっとしたことで前向きになることもあるでしょう、とそんなことも示唆しています。日常に焦点を当てたことが奏功しています。笑顔こそが大切で、日頃悲しみや不安がある状況でも、笑顔になれる可能性は大いにあると伝えているわけです。
 作り手は考えているかどうかわからないことも見る側に想像させて、かといって、すべてを見る側に投げるわけではない。これこそ映画です。だって自己憐憫を断ち切った先まで示しているのですから。それが表情や感情が豊かなアマンダの存在、言ってしまえば彼女の笑顔です。この笑顔が明るい未来の象徴であり、日常のちょっとした風向きの変化で生まれるものだからこそ、実は探せば様々な場所、場面に出会えそうに思えてきます。まさに「希望」がリアリティを持って感じられるのです。

(text:今泉 健)



『アマンダと僕』
(2018 / フランス / 107分 / 仏語)

作品情報
監督、脚本:ミカエル・アース
出演:
バンサン・ラコスト
イゾール・ミュルトリエ
ステイシー・マーティン
オフェリア・コルブ
マリアンヌ・バスレール

受賞歴
第75回ベネチア国際映画祭(2018年)オリゾンティ部門マジック・ランタン賞
第31回東京国際映画祭(2018年) 最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をW受賞

あらすじ
パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。

公式ホームページ
http://www.bitters.co.jp/amanda/

劇場情報
YEBISU GARDEN CINEMA
シネスイッチ銀座でアンコール上映を予定

2018年4月24日火曜日

映画『女神の見えざる手』評 text今泉 健

「映画と現実の追いかけっこ」 


 今年の第90回アカデミー賞、下馬評では『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)か『シェイプ・オブ・ウォーター』(監督:ギレルモ・デル・トロ)が有力とされている中、反トランプ政権の動きで「ビバ メヒコ!」の流れに乗り、どちらかというとデル・トロ監督に軍配が上がった形になりました。昨年や今年の諸々のアカデミー賞の受賞結果は「時代の節目、転換点だった」と後世で語られるのでしょう。昨年のアカデミー賞が黒人達にスポットライトを当てたということなら、今年は「オタク」な人達が脚光を浴びたともいえます。一方女優が脚光を浴びていたのも事実。『スリー・ビルボード』の主演女優フランシス・マクドーマンドは「男おばさん」ならぬ、「女おじさん」という風体、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンズは最上級の不思議ちゃんといずれも超個性派女優、この2本がアカデミー賞の話題をけん引していました。マクドーマンドの受賞スピーチは同性に向けての応援演説であり、アカデミー賞の名場面の仲間入りは必至です。

 昨年は、女性が主人公の映画が印象深い1年でした。特に後半、イザベル・ユペール主演の『エル ELLE』(監督ポール・ヴァ―ホーヴェン)、1950年代の話ですがマーキュリー計画で頭角を現す黒人女性たち、 タラジ・Pヘンソン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイ主演の『ドリーム』(監督セオドア・メルフィ)、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(監督デヴィッド・リーチ)など筆頭に、エイミー・アダムス主演の『メッセージ』(監督ドゥニ・ビルヌーブ)も、ガル・ガドット主演のあの『ワンダーウーマン』(監督パティ・ジェンキンス)が公開になりました。『マイティー・ソー バトルロイヤル』(監督:タイカ・ワイティティ)のケイト・ブランシェット演じる敵役も、そもそも筋肉ムキムキなクリス・ヘムズワースのソーよりタイマンで強いという設定になっています。共通しているのは、「強い女性」というより、「女性こそが強い」ということです。女性があくまで女性のまま、逞しく生きていること。男社会が舞台でも人種偏見に晒されても、男勝りとは違って女性であるまま強いことなのです。そしてそんな中でも際だっていたのが、ジェシカ・チャスティン主演の『女神の見えざる手』(監督ジョン・マッデン:原題:Miss Sloane)でした。
 この作品は、アメリカの政界が舞台の女性ロビイストの話です。ロビイストとは、「ロビー活動」をする人たちのことで、ロビー活動とは、政界、官界で根回しをすることです。特定の企業や団体の利益のために、政治家や官僚に対して働きかけ、有利な政策を立案、実行させる仕事です。その団体が政治献金などですでに代議員と一体化しているので、直接議員からオファーがきたりします。法人形態を取っていて、様々な規模で専門分野を持つ事務所があり、職業として確立しています。活動を規制する法律、例えばロビイストが無料で政治家を招いて旅行をしてはいけない等も定められています。
 アメリカの政界もまだまだ男性社会というのが現実のようで、政界のロビーは実弾が飛び交ってないだけで戦場さながら、一寸先は闇のもっとも熾烈な職場のように作品から窺えます。この辺りは、女性フィクサーが主人公の米ドラマ『スキャンダル 託された秘密』(製作:ションダ・ライムズ)も同じようなイメージです。『スキャンダル』は主演ケリー・ワシントンで、政治家の「身の下」問題などプライベートな件も扱う点が違いますが、マスコミに印象操作を行うことなどは同じです。そして「スキャンダル」のオリビア・ポープ以上にこの作品の主人公エリザベス・スローンは「エグい人」でした。結果が全てなので手段を選びません。使えるものは何でも使います。部下からの信頼とか気遣いとか倫理観とかギリギリの線どころか大きく踏みだしても勝とうとします。この様子はまさに肉食獣。女性としての性欲も抑えません。彼女の仕事の根源的な動機、今回は銃規制の推進ですが、個人的動機は明確になりません。話を追うにつれ、そんなものは明確にしたら諸刃の剣、いや、そもそも個人的な感情などないのかもしれません。そんなのはあったとしても、目標完遂には不要だから観客にすら見せていないかのように思います。彼女は何重にも作戦を巡らし、最後は自分の境遇でさえも切り札で使います。まさに「肉を切らして骨を断つ」ですが、この戦法は男性ではここまでの度胸がなくて難しいかなと思えてきます。作品自体も銃規制を取り上げているので特に現政権の政策に反する内容です。銃の問題はアメリカがアメリカたる所以でもあり、現状維持か規制か実際に意見も割れています。そこに女性が半ば1人で挑戦状を叩きつけるという展開は、やはり「女性こそが強い」、「女性こそが世の中を変える」と主張しているように思いました。
 キャストは米ドラマ『ニュースルーム』(製作:アーロン・ソーキン)という政局を扱うニュース番組の米ドラマに出演した、主要レギュラー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキーの2人と、弁護士の米ドラマ『グッド・ワイフ 彼女の評決』(製作:ロバート・キング、ミシェル・キング)のレギュラー、クリスティーン・バランスキーもカメオみたいに出演。ポリティカルドラマの雰囲気づくりに貢献しています。また、アメリカの国内問題ですが、製作はEUからも加わっていて、それだけにアメリカという国に対する客観性が強いのでしょう。
 そして、この「女性こそが強い」は、昨年のアカデミー賞を賑わせた『ラ・ラ・ランド』(監督:デイミアン・チャゼル)で既に始まっていたように思います。エマ・ストーン演じるミアが故郷アメリカを離れ単身フランスへ、そしてライアン・ゴズリング演じるセバスチャンが地元のLAでお店を持つ展開というのは、ちょっと昔のミュージカル風な作品で意外に思いました。男性が残り女性が去るという流れは印象的であり、ステレオタイプな概念とは真逆でした。
 
 先のアメリカ合衆国大統領選でドナルド・トランプ氏の当選に憤慨、落胆する人たちの報道の中でハリウッド周りの人たちの姿が印象的でした。もちろんトランプ氏を推す著名人もいましたが、ハリウッドでは全体的にヒラリー・クリントンを待望していたような印象です。列挙した各作品の撮影時期は当然、大統領選が決する前の作品ばかりです。各々の企画意図まで吟味したわけではないですが、ある程度作品数が揃っていることもあり、アメリカ初の女性大統領誕生の予感が、女性が際立つ作品たちを作らせたような気がしてならないのです。「女性大統領の誕生=女性の強さの覚醒」という刷り込みが、意識的か無意識的か作品に投影されたのではないでしょうか。『ELLE』はフランス映画ですが、米国の一般公開日が2016年11月11日(Fri)、大統領選の一般投開票日、スーパーチューズデーが11月8日なので、女性大統領の誕生を目論んだ公開日とも思えるのです。 
 当初ヒラリー・クリントンが出馬を表明した後には対抗馬に大した候補も出ず、最終的に共和党候補がドナルド・トランプになった時、殆どの人がヒラリーを次期大統領だと思ったのではないでしょうか。ちょっと前なら泡沫候補の体であり、野放図で差別的な発言を繰り返すトランプの方をアメリカ人が推すと信じていた人は数少ないと思います。しかし、その一方でイギリスがEU離脱を国民投票で決めてしまうなど、今までの予定調和は成立しないという流れもありました。またヒラリー・クリントンの私用メールサーバー疑惑の発火点の張本人たちが出てくるドキュメンタリー『ウィーナー  懲りない男の選挙ウォーズ』(監督:ジョシュ・クリーグマン、エリース・スタインバーク)を見る限り、民主党陣営の運営には脇の甘さが目立ち、ひとりで勝手にこけた部分もあります。トランプ氏は目の前にいる聴衆が何を望んでいるか察知して言葉に出来る能力に長けている優秀なビジネスマンのように見えます。ただ現政権にもロシアの選挙介入疑惑なんてものが燻っていて、当選を一番驚いたのはトランプ氏自身だったというブラックジョークのような話がまことしやかに囁かれているくらいです。やはり様々な立場の人にとってもこの結果が衝撃だったという表れでしょう。
 今年2018年になっても新しい動きがでています。アメリカで大ヒットの『ブラックパンサー』(監督:ライアン・クーグラー)はブラックムービーですが、オープニング1週間の興業成績が『スターウォーズ 最後のジェダイ」(監督:ライアン・ジョンソン)並という勢いです。主演は映画『42 世界を変えた男』(監督:ブライアン・ヘルゲランド)で、伝説の黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソン役が印象的だったチャドウィック・ボーズマン。その国王を支える人達、近衛兵までもがほぼ女性だという、「女性こそが強い」という昨年来の流れも踏襲しています。ヒットが難しいと言われるブラックムービーで大ヒットが続けば、これまた節目になるのでしょうか。確かに出演者は『ゲット・アウト』のダニエル・カルーヤ、『クリード チャンプを継ぐ男』のマイケル・B・ジョーダン、大人気のテレビドラマ『THIS IS  US 36歳、これから』(脚本:ダン・フォーゲルマン)のスターリング・K・ブラウンやルピタ・ニョンゴ、アンジェラ・バセットなど旬な黒人俳優を起用したのが勝因かと思います。中にはギャラが上がる前にスケジュールを押さえられた人もいるのじゃないでしょうか。 
 アカデミー賞の前哨戦、ゴールデングローブ賞では、女優が皆、黒色のドレスを纏い「Me Too」や「Time's Up」のワッペンをつけて、セクハラ追放を訴えました。映画は現実社会の映し鏡です。ただ、映画が社会現象となり現実社会に大きく影響を与えることばかりなら、それはそれで諸手を挙げて賛成とは言い難い面もあります。時に誰かの偏った思想の宣伝に利用されかねない危うさもあるからです。
 アメリカの女性大統領が主役の作品といえば、15年ほど前に、あの『テルマ&ルイーズ』(監督:リドリー・スコット)のジーナ・デイビス主演ドラマ『マダム・プレジデント~星条旗をまとった女神』(原題:Commander in Chief)(製作:ロッド・ルーリー)がありましたが、人気がなく1シーズンのみで打ち切りなったのは有名です。しかし当時とは状況が違います。期が熟しているなら、シットコム『VEEP/ヴィープ』(脚本:アーマンド・イヌアッチ)のような女性副大統領が主役の作品が当たっている分けですから、いずれ女性大統領が主演のドラマや映画が頭をもたげてくるということしょうか。映画なら主演の第1候補はメリル・ストリープですね。 
 近年のハリウッドにおける女優の地位の問題、男優と女優の待遇格差の事実が明らかになりました。追放者まで出した昨年のセクハラ事件の表出は、反トランプ政権的な流れと重なって、あの超大国の中で、トレンドなどという軽い言葉では語れない、相反する、マグマのような大きなうねりが生じているようにも見えます。映画は現実を越え、例えば少し先の価値観を植え付けるものなのか、映し鏡として、例えば、やがて知れ渡る小さな現実の萌芽をクローズアップして世に伝えるものなのか、映画と現実世界の追いかけっこは今年も目が離せません。

(text:今泉健)


『女神の見えざる手』
2016年/132分/フランス、アメリカ合作

監督:ジョン・マッデン

製作総指揮:クロード・レジェ

脚本:ジョナサン・ペレラ

撮影:セバスチャン・ブレンコー

キャスト:ジェシカ・チャステイン、マーク・ストロング、ググ・バサ=ロー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキー

あらすじ
大手ロビー会社の花形ロビイストとして活躍してきたエリザベス・スローンは、銃の所持を支持する仕事を断り、銃規制派の小さな会社に移籍する。卓越したアイデアと大胆な決断力で難局を乗り越え、勝利を目前にした矢先、彼女の赤裸々なプライベートが露呈してしまう。さらに、予想外の事件によって事態はますます悪化していく。

(C)2016 EUROPACORP - FRANCE 2 CINEMA

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【筆者プロフィール

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身、男性、東京在住、会社員、
映画好きが高じてNCWディストリビューターコース、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2017年4月4日火曜日

映画『永い言い訳』評text今泉 健

「The Long And Winding Road」



 涙を流すのがストレス解消になるというのはよく聞く話である。個人差はいうまでもないが、大人になれば子供の頃程は泣かなくなるのが普通だ。赤ん坊が泣く理由もストレス解消という説もあり、大人とさほど変わらないかもしれない。筆者のことで恐縮だが、いつからか悲しいことや辛いこと悔しいことがあると夢で泣くようになっていた。精神がバランスを取ろうとしているのだろう。とにかく泣いた夢の後は、感情がリセットされ、すっきりした気持ちになる。もっとも40代以降は明らかに以前より涙もろくなって、夢で泣くことはほとんどなくなった。


 映画『永い言い訳』はバス事故の被害者の遺族の話であるが、残された家族に焦点を当てている。いや、むしろ、遺族というより対照的な家族、夫(役名 衣笠幸夫:本木雅弘)がやや落ち目だが売れっ子作家で、妻(役名 衣笠夏子:深津絵里)が美容室経営という子供のいない、世間的には成功者の夫婦と、夫(役名 大宮洋一:竹原ピストル)がトラック運転手で妻(役名 大宮ゆき:堀内敬子)の手狭な感じのする団地住まい。小学六年生と保育園児の一男一女の子供がいる対照的な家族の話だ。たまたま妻が同級生の親友で同じバス事故で亡くなり、男達も関わりをもつようになった。しかし生者を語る時に死者に触れずに語ることは不可能なので、ほんとうに自然と遺族感情の話になっていく。この二つの家庭の対比は『そして父になる』(2013)(是枝裕和監督)と似ている。場面々々の中身は実にきめ細かに描いているが、場面毎の時間差が明確なので、実に良い具合にメリハリがついている、西川監督の手腕だろう。

 元々髪結いの亭主というのは妻を働かせ遊んで暮らす者の総称である。幸夫は成功者だがやはり人格者ではなく、むしろその逆だ。作家を目指したのも結婚前に夏子の後押しがあったからで、実は肝心なことは自分で何も決められないダメ男。多分、不遇な時代は妻に世話になっていたはずだ。今では妻に悪態をつき、プライドの高い子供のようなもので自己正当化も目に付く。葬儀も妻の部下に配慮せず自分勝手に進め、この時点で幸夫が立ち直ることの価値は示されていない。亡くなった妻があまりに不憫だからというくらいだ。この夫を最低な振舞いの人間にまで仕立てたのは罪悪感だ。妻が亡くなったとき自宅で浮気相手と懇ろだったことは、自分を正当化できるはずもなく、重荷となる。やがて浮気相手にすら見限られ、精神的に転落していく。罪悪感によって人間性が蝕まれるというのは実に説得力がある。
 もう一つの家庭の夫、陽一はすぐに泣く。考える前に感情がむき出しになり、「目は口ほどにものを言う」タイプである。幸夫との対比で人間味を持った印象だ。いわゆる「学」はないが、そんなのは生きる為には必要ないと言わんばかりで、中学受験をしようとする息子とは折り合いが悪くなる。

 バス会社の遺族への説明会で初対面の二人だが、ちょっとした事件もあり、幸夫が大宮家の子供の面倒を(週2日)申し出るのも「さもありなん」なのだ。幸夫の心境は「すがりたい誰かを失うたびに誰かを守りたい私になるの」という昔聴いた歌の一節そのままであり、妻に精神的に依存していた証拠だが、この時点で本人にその自覚は全くない。誰かを守るかもしくは世話をすることで恩恵に与るのは、何も受手側だけではなく、為手側も救われることもある。無意識にその辺りを感じた行動ということだろう。出版社の担当者(役名:岸本 池松壮亮)に子育ては免罪符と言われても、まだピンと来ていない。この家族と浜辺に行く場面はまるでゲイのカップルみたいで面白く、ゲイでなくとも『「ツー」メンズ&リトルベイビー』である。もっともそんなささやかな幸せが長続きしないのも、これまた「さもありなん」である。

 主人公幸夫は最後まで泣かない。最初は陽一の涙もろさを揶揄するが、泣けない自分の大きく欠けた何かに気づかされる。自分を正当化する言い訳ばかりではダメ。辛いことがあればちゃんと向き合って悲しまないと精神がバランスを崩す。ただ、あまりも突然大きなものを失うと自分の心の喪失感にすら気づけないのも想像できる。しかし幸夫もやがて泣く日は来るだろう。予兆は示されている。それは妻の死の直後は荒れ放題だった部屋が徐々に片付き、遺品を整理するところまできたからだ。そして、たぶん泣くのは不意をつかれた時ではないか。台湾映画『父の初七日』(2009 )(監督:ワン・ユーリン、エッセイ・リウ)では主人公が葬儀の帰路の空港で父親が好きだった煙草のカートンBOXを見かけた瞬間、しゃがみ込んで泣いてしまう。実に納得の場面で、哀しみはこんな風に胸をつくものだと思う。幸夫も団地の家族と引き合わせたのが妻だと感謝できるようになれば、「言い訳のネタ」もまもなく尽きる頃合いだ。涙までの長く曲がりくねった道のりも残すところあと少しだろう。


(text:今泉健)




『永い言い訳』
2016年/124分/日本 

作品解説 
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、突然のバス事故により、長年連れ添った妻を失うが、妻の間にはすでに愛情と呼べるようなものは存在せず、悲しみにくれる夫を演じることしかできなかった。そんなある時、幸夫は同じ事故で亡くなった妻の親友の遺族と出会う。幸夫と同じように妻を亡くしたトラック運転手の大宮は、幼い2人の子どもを遺して旅立った妻の死に憔悴していた。その様子を目にした幸夫は、大宮家へ通い、兄妹の面倒を見ることを申し出る。

キャスト
本木雅弘
深津絵里
竹原ピストル
堀内敬子
池松壮亮
黒木華

スタッフ
監督、原作、脚本: 西川美和
製作:川城和実、中江康人
プロデューサー:西川朝子、代情明彦
撮影:山崎裕
照明:山本浩資

配給:アスミックエース

劇場情報
2016年10月14日公開

公式ホームページ 
http://nagai-iiwake.com/

発売情報
Blue- Ray、DVD、2017年4月21日発売決定

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2017年1月28日土曜日

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』評text今泉 健

「肝っ玉母さん」なのは訳がある


 この文章は物語の結末など作品の核心部分に触れている記述があります。

 女性の社会進出が定着している国では、離婚を含め、独り暮らし世帯が増え、共同体としての家族という単位が崩れつつあるらしい。以前より女性が家庭に関心をもたなくなったからとのことだ。であれば、男性が代役を果たせばいいのだろうが、残念ながら男性は既して、家族をつなぎ止めることが不得手らしく、というか女性の方が遥にその能力に長けているそうだ。思えば昭和の頃は女性、とりわけ母親が家庭の要石=「家内安全の象徴」になっているドラマが流行っていた。現代のロールモデルとは別だろうが、例えば『肝っ玉母さん』(1968-72)の主役、京塚昌子はお茶漬けのCMで「母さんは、東大の家政学部卒だから 」というギャグを言えたくらい母親イメージが定着していた人だったし、銭湯を舞台にした『時間ですよ』(1965-90)では、あの「伝繰り返りの」森光子も皆さんご存じの通りお母さんキャラだった。また、『岸辺のアルバム』(1977)で家庭を揺るがした最大要因が、八千草薫演じる母親の不倫だったというのも、母親が要石のドラマだった。

 映画『湯を沸かすほどの熱い愛』では、まず家業が富士山の絵のある銭湯ということからして、昭和の雰囲気がそこかしこに見られる。宮沢りえ演じる母親は一昔前のタイプで、子供の揉め事には口も手も出さず、嫌なことがあっても学校には何がなんでも行けと言い、教師には文句を言わず、子供にはいちいち理由や事情を逐一説明しない。あと、非があると認識している人は責め立てないとか、五里霧中にある人はそっと励ますなど、おせっかい焼きな面があり、突然姿を消した夫が隠れるように住むアパートに単身乗り込む大胆さも備えている。人生の停滞期にこういう人に出会えればどれだけ幸運なことだろうか。夫の蒸発で休業していた家業を再興させるあたりは、まさに平成の「肝っ玉母さん」である。
 それにしても話の進め方が巧みである。各登場人物の持つ状況や抱えている問題が、話が進むにつれ明らかになり、取っていた行動、ちょっと不思議に思っていたことなど、得心がいくように仕組んである。話の節々に仕込まれた仕掛けが動き出す度にドラマが新たに展開するので、次は何が飛び出すのか、楽しみになってくる。主人公は、余命を宣告されてから家族の再生を試みる。女性ならではあるが、彼女だからこそ、着実に成果は上がる。彼女は、命は繋ぐもので親から子供へバトンを渡すようなものだと感覚的に理解しているようだ。自分が受けた仕打ちの矛先を他に向けることなく、少しずつ善行を重ねながら次の代へ繋ぐ。子供の行く末を慮り、為になることを学ばせるなど、自ずと橋渡し役だった上に、余命を宣告され時間が極端に限られたのだろう。橋渡し役というのは、既婚未婚問わず大人には誰にでも課されているとも思える。

 昨今は舞台女優としても存在感を放っている宮沢りえだが、最初は住宅のCMが評判になり注目された。ドラマで初めて見たのは『青春オーロラ・スピン スワンの涙』(1989)というシンクロナイズドスイミングのスポ根もの大映ドラマだった。ほんとに可愛かった。ライバル役は「貝殻」の武田久美子、目の保養も兼ねて見ていた程度で、果たして女優を続けていくかも不明だった。その後はバラエティ番組で見る程度で、出演ドラマは覚えていない。久しぶりに見たのは倉本聰のテレビドラマ『北の国から ‘95 秘密』(続いて『北の国から ‘98時代』)。ご本人の発言とかインタビューとか読んでいるわけではないが、このドラマの出演が、役者として転機になったと勝手に思っている。彼女は「シュウ」という明るいが物悲しげなヒロインを見事に演じた。見方によっては自身の昔日を投影している役柄でもあり、真正面から真摯に役に取り組んでいる感じが溢れていた。かつて訪ねた富良野の≪※「北の国から」資料館≫には、宮沢りえが役作りをした痕跡が残されていた。当時倉本聰の指示もあり、役柄の気持ちで書いていた絵日記が残されていたのだ。この経験は役に立っているはずだ。テレビドラマ『北の国から』は映像で見えない部分の人物設定が詳細で、主役格ともなると生まれてからのイベント(入学、卒業、職業遍歴、私的大事など)の年表があるのだ。この映画でも話が進むにつれ、(宮沢りえ演じる)母親がどういった人生を送ってきたのか垣間見えてきて、表情やセリフの口調や言葉の端々に人生の来し方が見てとれるようになる。また実際の母親「りえママ」とは絆も強そうで役作りにも影響はあるはずだ。そしてその宮沢りえが、平成版「肝っ玉母さん」を演じるというのは感慨深いものがある。

 この作品を語るにあたり主人公だけ触れるのでは不十分である。まず、これから自分のいない家庭を瓦解させないよう、一人娘(杉咲 花)には、試練を課す。娘は学校でつらい目に遭うが、直接、手助けはせず、学校を休むことを許さない。そして、解決のために娘が取った行動は、母親譲りの大胆で意表を突くものだった。また、夫(オダギリジョー)は、突然蒸発したが、妻に連れ戻される。すました顔で戻ってきて、しかも連れ子(伊東蒼)までいる。当然娘は憤慨するが、母親は間に入らず二人に任せる。自分たちで関係を直せるようでなければならないからだ。もっとも娘は子供には当たったりするようなことはしない。夫は弱っていく妻を看ることもできない気の弱さだが、罪の意識と責任感はある。この見限られるかどうかギリギリのお人好しなところが絶妙だ。妻に家族を支えるように難しい宿題を出され、ある答えにたどり着く。連れ子も普段はクールを装っていても、幼い心では到底抱え切れそうもない寂しさを持つ優しい子だとわかり、徐々に馴染んでいく。その他のちょっと訳ありな面々も加わり以前とは違う様相の家族が出来上がって行く。
 主人公の行動は何故感動を呼ぶのか、それは「無私」だからだが、基本的に人間、自分の身内への信頼感がある。自分の体調は後回しで家族のために尽くす。ちょっと思いが通じないくらいではへこたれない。壊れた人間関係は繋ぎ直され、目論見どおり幸せそうな家庭ができていくのだが、そこを達観して微笑むのではなく、もっと生きたいと悔しがって泣くところは、切ないが人間味溢れている。病床の傍らにはすっかり成長した娘の姿があった。締めくくりは昭和風に言えば「アッと驚く為五郎」、でも銭湯ならではの快心のエンディングだった。

※北の国から資料館-富良野市を舞台にしたドラマ「北の国から」の足跡を残すために、富良野駅前で1995年より数回の期間限定の展示会を開催、その後常設展示となるが、2016年8月末老朽化の為閉館

「りえ」母さんの肝っ玉度:★★★★★
(text:今泉健)




『湯を沸かすほどの熱い愛』
2016年/日本/125

作品解説
持ち前の明るさと強さで娘を育てている双葉が、突然の余命宣告を受けてしまう。双葉は残酷な現実を受け入れ、1年前に突然家出した夫を連れ帰り休業中の銭湯を再開させることや、気が優しすぎる娘を独り立ちさせることなど、4つの「絶対にやっておくべきこと」を実行していく。

キャスト
幸野双葉:宮沢りえ
幸野安澄:杉咲花
幸野一浩:オダギリジョー
向井拓海:松坂桃李
片瀬鮎子:伊東蒼
酒巻君江:篠原ゆき子
滝本:駿河太郎

スタッフ
監督、脚本中野量太
撮影:池内義浩
照明:谷本幸治
美術:黒川通利
録音:久連石由文
音楽:渡邊崇

配給
クロックワークス

劇場情報
新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、キネカ大森ほかにて公開中

公式ホームページ
http://atsui-ai.com/

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2017年1月13日金曜日

映画『ブラインド・マッサージ』評text長谷部 友子、今泉 健、井河澤 智子、佐藤 奈緒子


「揺れる欲望」


揺れるのだ。ゆらゆらと。ロウ・イエ監督の映画はいつも画面が揺れる。見ると船酔いのような気分になる。それなのに今回は揺れない。奇妙な確かさをもって南京の盲人マッサージ院を舞台に巻き起こる人間模様を描いている。そして代わりと言ってはなんだが、めまいのような光のグラデーションが画面を支配している。
盲人というと一律に目が見えないと思いがちだが、生まれながらに見えない者、事故で見えなくなった者、病気でこれから見えなくなる者と様々だ。そして盲人たちのひそやかな欲望の行方もそれぞれだ。見えなくなる前に伴侶を得ようとする者、自身が盲人でありながら全盲の人との結婚を両親に反対され駆け落ち同然で家を出た者、盲人であるため自らは見ることができないのに美人と言われる女性に執心する者。
獲得したい、敬意を払われたい、安心したい、愛されたい。懸命に日々を生きる彼らの喜びと悲しみ、善意と悪意。彼らの欲望は大それたものではなく、ひそやかなものなのかもしれないが、それゆえに切実で苛烈だ。
在るか在らぬかを私たちは気にする。見えるか見えないか。けれど多くは二者択一でも二項対立でもなく、グラデーションなのかもしれない。各々が抱える事情も、欲望も、そして決断する勇気すらもグラデーションだ。何かが圧倒的に在って、何かが圧倒的にないのではなく、そのグラデーションの中で弱く惑い、時に大胆に人生を賭す。
見えるものと見えないものの狭間を泳ぐ。ゆらゆらとけれど苛烈に。やはりロウ・イエ監督の映画は揺れている。揺れ続ける生は苦しい。

(text:長谷部友子)


「「昼メロ」な「ソープ・オペラ」」


群像劇でエロ・グロ・ナンセンスとくれば、ソープ・オペラである。米国には放送50年超のドラマもあるが、近年の日本でも知られてそうなのは、『デスパレートな妻たち』だろうか。基本はコメディタッチで、時に社会事象も絡めながら、だいたい不倫とか殺人事件がご近所を「ハイテンション」に巻き込んでいく。一方日本では「昼メロ」である。日本はシリアスを装い男女や人間関係のドロドロに重きを置く。かつては、東海テレビ制作の『華の嵐』等のシリーズが人気を呼んだが、放送枠自体が終了している。最近の『昼顔』はこの類だ。なお、韓流ドラマは因果応報が重視される。
ロウ・イエ監督の『ブラインド・マッサージ』は、日米の中間、「昼メロ」な「ソープ・オペラ」ともいうべきか。設定に大きな特徴があり、南京のマッサージ院を舞台にしているが、主要出演者はマッサージ師を中心に一人を除き盲人である。盲人独特の生活習慣がドラマのアクセントになっており、(たぶん)狙ってないのに笑えるシーンもある反面、重みのあるセリフが飛び出す上質感も併せ持つ。
盲人といっても様々で先天的か後天的かだけでも、人生のスタンスに違いが出てくる。健常者との距離感、関係のとり方などもある。盲人にとって美貌は意味を持つかという興味深い問いかけもある。最大関心事はやはり恋愛であり、カノジョがいる、いない等様々だが、そこは健常者となんら変わりはない。また一人っ子政策の影が垣間見える展開もあり、西島秀俊似の先生のピンチの切り抜け方は必見で、果たしてこれが通用するのか興味深かった。時に絡み合いながらも各人の物語がオムニバス的に進み続けるが、終盤の展開はあっと驚く唐突な事件の連続だ。さあこれからどうなるの? と思っていると、突然の幕引き。まるで、ワケありで急遽打ち切りが決まった連続ドラマみたいに「えーっ」というカットアウトで話は終わる。でも後日談でしっかりフォローされる。絶望して、自暴自棄になり風俗嬢に入れ込んだ若者のその後は必見の物語だ。人生一寸先は闇、思いもよらぬことで躓いたり、その逆もある。何が奏功するか分からない、まさに、「上質な」ソープ・オペラで、映画序盤の重さとは予想もつかない気分の良さで劇終となる。登場人物の人間模様を描きながら、物足りなさもなく、飽きることもなく、良い具合に締めくくられた115分だった。

(text:今泉健)


「ひとことで言えば、官能」


視覚に障害がある人が「色彩」について語るのを、聴いたことがある。空の青さ。水の透き通った色のない色。
彼は5歳の頃に視覚を失った。彼は「視えていた」経験を持つ人であった。

この『ブラインド・マッサージ』で「美しい」と評される女性には、視えていた経験がない。そもそも美という概念がないので自らの美しさなど無価値である。しかし、同じく視えた経験がほとんどない、診療所の若き院長は、彼女によって「美には価値がある」ことを理解した。
視えなくなることに絶望し、自殺を試み、生き残った者がいる。子供のような彼の衝動を癒す「場所」へ誘う陽気な男がいる。そして、駆け落ちのように彼らのもとにたどり着いたカップルがいる。
「五感」のひとつが欠けている人々が集う場所。彼らは「匂い」に心を動かされ、あるいは誰かの異変を察知し、「触れる」ことによって生計を立て、あるいは美の形を知り、「食べる」ことによって共同体の形を強固にする(それは擬似家族的でもある)。声、会話、賑やかな(時には喧嘩にもなる)食卓、呼ばれる名前、それらを「聴く」。
特筆すべきは「触れる」−−触覚−−であろう。触覚は雄弁である。診療所を訪れる人々の身体に、的確に触れることが彼らの仕事だ。また、若者の衝動を受け入れるのは娼婦の仕事だ。「からだに触れることを生業とする人々」の物語がここにある。
「君の美しさを知りたい」、その手段は「指先で撫でること」。愛し合うことも文字通り真の闇の中では肌の感覚が頼りだ。時折パチンパチンとクリップで指先を挟む仕草は、痛覚を通し、自らの触覚を研ぎ澄ませるようにも思える。あるいは痛覚によって自らがそこに「在る」ことを確認するようにも。
触れられる肌。しっとりと湿り気を帯びた肌。とにかくよく雨が降る。雨の音に包まれる。映画に湿度は関係するのだろうか? 
そういえば、ロウ・イエ監督の映画では、よく雨が降り、水が流れる、そんなイメージがある。
彼らの世界ははっきりとした形をとって立ち現れることはない。映像は彼らに寄り添うように、にじみ、揺らぎ、ぼける。彼らに「視えている」世界は曖昧なものである。匂い、指先の感覚、共に食べるご飯の味、すぐに消えてしまう声。
しかし、それを傍観している私たちの世界は明確なのだろうか?
彼らに視えている世界より明確であると、誰が言えるのだろうか?

(text:井河澤智子)


「(意外にも)素直に感動 」


ロウ・イエの映画を見るともやもやする。愛の渇望や性衝動があまりに自分本位で浅はかで不器用、そんなちっとも共感できない人達の織りなすメロドラマを見せられたあげくサラっと終わって肩すかしを食らうのだ。フランス映画ばりのややこしい恋愛模様にはくたびれてしまう。そんな心のねじくれた私にとって、新作『ブラインド・マッサージ』は期待を裏切る快作だった。
舞台は南京のマッサージ院。そこで働く目の見えないマッサージ師たちはそれぞれの事情や思いを抱えながら、愛を求めては打ち砕かれ、それでも前を向いて生きている。職業選択の余地がない彼らにとって、愛という目に見えないものだけは小さな夢を見させてくれる。声を聞き分け、触れ合い、においを嗅ぐ行為が優位にある世界。相手を求めまさぐり合う人間達が直接的に訴えかけてくるのは、見ているうちに自然と感性が研ぎすまされるからなのか。盲人の心の中で健常者は「一級上の目を持った動物」だとナレーションは言う。これが残酷な現実だとしても、取り立て屋の前で自身の体を斬りつける行為や暴漢に挑んで殺されかけることには、見える者と見えない者の力関係を無にする激情と暴力がある。金銭を介在した逢瀬や不確かな未来しかないカップルには、盲目的な官能と依存がある。それらはみな『春琴抄』にも似た美しい狂気だ。見たことのない「美」にとらわれ、見ることのない記念写真を撮り続ける、“見えないもの”を求める衝動は光への執着であり、愛への渇望と同義とも言える。
脇のキャストはみな実際の盲人が演じているが、メインキャストではコン役のみ、目の不自由なチャン・レイが演じている。素朴すぎるルックスの割に幼い色香を放ち意外なほど男慣れしている。おそらくそれは演じる彼女自身がまとっている空気であり、ごく普通の女達の持つ神秘であろう。コンの存在こそがこの映画の説得力を格段に引き上げ、愛のごたごたを人間のひたむきな営みに昇華させているのだ。
焦点のあわないショットはぼんやりと明滅しながら、まるで視覚に頼る観客を試すかのように予測不能に移ろう。それはロウ・イエの描くたゆたう人々そのものでもあり、心もとない人間関係や先の見えない社会と重なる。その粗い粒子の光と影に目を凝らすと何かが浮かび上がってくる。そう思いたいと思わせるものが見えるのだ。その感覚の後にくるラストには確かなものが見える。その不確かで確かな結末を信じる自分を信じられそうになる。
たゆたう人々がようやく地に足をつける瞬間の絶望を超えた人間讃歌。それを勝手に自己肯定にすりかえて素直に感動していいのではないだろうか。 

(text:佐藤奈緒子)




『ブラインド・マッサージ』
原題:推拿
2014年/中国、フランス/115分

作品紹介
シャーとチャンが経営する南京のマッサージ院では多くの盲人が働いている。若手のシャオマーは、幼い頃に交通事故で視力を失った。医師の診断は「いつか回復する」というものだったが、その日は一向にやってこない。
生まれつき目の見えない院長のシャーは結婚を夢見て見合いを繰り返すが、視覚障害者であることが理由で破談してしまう。それでも懲りずにパートナーを探し続ける明るい男だ。客から「美人すぎる」と評判の新人ドゥ・ホンもまた、生まれつき目が見えない。彼女は自分にとって、何の意味のもたない“美”に嫌気がさしていた。そのことを耳にしたシャーは、彼女の“美”が一体どんなものか知りたくて仕方がなくなる。
そんなマッサージ院に、シャーの同級生ワンと恋人のコンが駆け落ち同然で転がり込んできた。まだ幼さの残るシャオマーは、コンの色香に感じたことのない強い欲望を覚えはじめる。
ある日、爆発寸前の欲望を抱えたシャオマーを見かねた同僚が風俗店へと誘った。そこで働くマンと出会いによって、 大きく動き出した運命の歯車。己を見失いもがき苦しむ中で見つけた一筋の光とは……。

キャスト
シャオマー:ホアン・シュエン 【『空海-KU-KAI-』2018公開】
シャー ・フーミン:チン・ハオ【 『 二重生活 』 、『 スプリング・フィーバー』】
ワン:グオ・シャオトン【『天安門、恋人たち』】
ドゥ・ホン:メイ・ティン
マン:ホアン・ルー
コン:チャン・レイ

スタッフ
監督:ロウ・イエ
脚本:マ ー・インリ ー
原作:ビー・フェイユィ著「ブラインド・マッサージ」(飯塚容訳/白水社 刊)
撮影監督:ツォン・ジエン【『二重生活』『スプリング・フィーバー』】
録音:フー・カン
作曲:ヨハン・ヨハンソン
編集:コン・ジンレイ、ジュー・リン
衣装:チャン・ディンムー
メークアップ:シー・ホイリン
美術:ドゥ・アイリン

配給・宣伝
アップリンク

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/blind/

劇場情報
2017年1月14日(土)より、アップリンク渋谷、新宿K’s cinemaほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。


今泉健 Takeshi Imaizumi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じて関連の講座を受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。2016年のベスト1は『スポットライト~世紀のスクープ~』。


井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
初詣、みなさま行かれましたか?
神社仏閣に、よく「形代」ってございますね、紙のヒトガタに体のよくないところを移して水に流す、と。あたしもこの際どっか悪いところを流していこうかね、と何の気なしにヒトガタ取ったら、うっかり2枚取っちゃった。まぁ、いけないところは1箇所じゃないわな、てんでオデコにしっかり当てて、水に流してきたんですが、あれですかね、2枚のヒトガタの内訳は、どえらい寝つきの悪さと酒の飲みすぎでしょうかね。
なんの話でしたっけね。
あ、ロウ・イエ監督の作品は『ふたりの人魚』が一番好きですな。


佐藤奈緒子 Naoko Sato

映画を通して世界を学びながら少しずつ大人になっています。2016年に見た映画のマイベストは『怒りのキューバ』です。

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2016年10月16日日曜日

映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』評text今泉 健

「実はこんな話……かも」


 高畑勲監督の『かぐや姫の物語』(2013)では、かぐや姫が天に昇る前に着物を羽織ると、地上での記憶はリセットされ天に昇っていった(ただしうっすらと感情は残っていた)。まさに「忘れの衣」(※注1)というべきだろう。衣を1枚纏うことでこの世のモードではなくなる。どうやらこういった発想には国境はないようである。

 初見のアニメ作品にあまり興味はわかない方だが、予告編をみて興味を惹かれた。海外のアニメだがキャラクターが可愛い。大人向けなのか子供向けなのかわからなかったが、素朴かつ何か懐かしい感じがした。映像も綺麗でオーロラも出てくる。音楽がなんとも幻想的で心地よい。アイルランドの神話に伝わる妖精、セルキー(海ではアザラシ、陸では人間)の母親と人間の父親の間に生まれた兄妹の冒険が描かれる。父親の仕事は灯台守。優しい母親は妹を身籠もるが、妹を大切に、という言葉を残し出産後姿を消す。実は妹も母親同様セルキーである。セルキーには、まとう布、白衣が特長的なアイテムとなる。白衣を纏って初めて役割を果たし、本領を発揮できる存在なのだ。それだけに布の存在とそれを纏う行為が重要だということになる。

『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』公式MV

 同時に、実際はこんな話だったのではと透けて見えてくる。

 アイルランドの海辺で優しい父親と母親とまだ幼稚園児くらいの男の子が、仲良く家族3人で暮らしている。ところが妹が生まれたとき母親が亡くなった。兄は妹が大好きな母親を奪ったと思い、妹を大切に、という母親の生前言葉の記憶にも素直になれず邪険にする。妹の誕生日がお母さんの命日という皮肉。以来父親は悲嘆にくれる毎日。妹は声が出ず、病弱気味。その後心配した祖母の勧めもあり、子供と祖母で都会で暮らすことになる。しかし妹が都会でもさらに衰弱し、ある晩生死の境をさまようまでになる。その時兄は不思議な夢を見る。朝になると妹は……。と言う具合である。

 童話や伝承は現実の話をモチーフにしていることがある。兄妹の冒険中に登場する神様や妖精や魔物は現実にいる人たちに似せている。母親が毎晩読み聞かせてくれた話、教えてくれた歌も登場する。実際の話が透けて見える、いや敢えて透かして見せることで、いかにも子供の自由な発想で生まれた物語だとわかる。妖精たちとの会話は子供らしさが溢れ返っているのだ。また小さい頃の、特に男子にとっては、母親が絶対的存在であることは説得力を持つ。嫌いだと思い込もうとしていた妹への本当の思いに、自ら気づける素直さ、ささやかではあるが、確実な心の成長の証し、そして何より純真さに溢れていて、なんとも心地よい気持ちになれるのだ。

(※注1) 忘れの衣:中島みゆきの夜会、「山椒大夫」をモチーフにした「今晩屋」シリーズ書き下ろしの楽曲、「都の灯り」の歌詞に出てくる言葉

兄妹の純真度:★★★★★
(text:今泉健)




『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』
2014年/93分/アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク合作

作品解説
アイルランドに伝わる神話をもとに、海ではアザラシ、陸では人間の女性の姿をとる妖精と人間との間に生まれた兄弟の冒険を描き、第87回アカデミー賞で長編アニメーション賞にノミネートされたアイルランド映画。セルキーの母親と人間の父親の間に生まれた幼い兄妹のベンとシアーシャ。ある日、妹のシアーシャがフクロウの魔女に連れ去られてしまい、兄のベンは妹を救うため、魔法世界へと旅立っていく。

キャスト(声の出演)/吹き替え
ベン:デヴィッド・ロウル/本上まなみ
コナー:ブレンダン・グリーソン/リリー・フランキー
マカ:フィオヌラ・フラナガン/磯辺万砂子
ブロナー:リサ・ハニガン/中納良恵(EGO-WRAPPIN')

スタッフ
監督:トム・ムーア
製作:ロス・マレー、ポール・ヤング、ステファン・ルランツ

劇場情報

恵比寿ガーデンシネマほかにて全国公開中
10/8〜10/21、ユジク阿佐ヶ谷にて公開

公式サイト


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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2016年10月4日火曜日

【IFFJ2016特集】映画『ファン』評text今泉 健



©Yash Raj Films


「我儘VS傲慢」


 「俺の人生だ、5秒すら君にやる義務はない」

 この言葉を吐き捨てたのは大スター、アールヤン・カンナー、相手の「君」は熱烈すぎるファン、ゴウラヴ・チャンドナー。物語前半のこの台詞を境に両者の生活、人生は一変する。世に言うバディムービーは大抵、対照的な二人を揃えるがこの二人はどうか。そもそも実際の大スター、舞踊が本当に見事なシャールク・カーンの一人二役で、外見や内面の相違点と共通点を見事に演じている。相違点は、孤高の大スターとその大スター中毒のファンであること。しかも症状は深刻だ。共通点は自分の意思は絶対に曲げない頑固さと、攻撃に転じると容赦ないことだろう。対照的かつ似通った二人、大スターと熱烈すぎる「狂気」のファンの、まさに「逆バディムービー」だ。

 狂気のファン、ゴウラヴは我儘である。「たった5分会って写真を撮れれば幸せ」という欲求を満たすためなら、人として許されない一線を超える。情報収集能力は諜報機関並ではないだろうか。結果、家族の様になりたいと思っていた大スターに嫌がらせをして執拗に追い回す。一方、大スター、アールヤンは「ファン無しではただの男です」という言葉が上っすべりに思えるくらい傲慢である。新進気鋭の後輩の役者を憤慨させるし、釈明会見でさえ上から目線、筋は通しているし間違ってはいないが、大スターはそれでは足らないということだろう。

  こうなると、どっちもどっちのトンデモ話のようだが、それは違う。この事態に至る、各々の事の次第と経過が、丁寧に描かれているから、必ずどちらかに肩入れしたくなる。後半、ゴウラヴがアールヤンを追い詰めていく姿はまさにサスペンス、そしてアールヤンもやられてばかりではいない、情報や資料を収集される立場の大スターは、受け身にならざるを得ず不利だ。しかし、攻勢に転ずれば立場は逆となり、「自分」を敵に回していることがお互いにとって諸刃の剣となる。アクションも見事で、一人二役の追っかけっこは、逃げるのも追うのも闘う迫力も香港映画に負けず劣らずだ。

  ゴウラヴの場合は、愛情というか執着であるが、こういった感情が極まると相手が異性でも同性でもスターでも同じような境地に達するのかもしれない。かつて、「ナイフならあなたを傷つけながら折れてしまいたい」というフレーズの歌詞があったが、まさにそれである。男性だけかもしれないが失恋は忘れ難いものだ。人の心に自分を深く意識づけるには、相手の心を傷つけるのが手っ取り早い方法と言わんばかりである。

 我儘か傲慢か、観客は後半必ずどちらかに肩入れしている自分に気づくだろう。友達、家族、パートナーいずれにせよ誰かと見るのをお薦めする。それはきっと、他の人の感想を聞きたくなるからである。

(text:今泉健)

 


『ファン』

原題:Fan
2016/ インド/ 138分

作品解説 

最高のファンが最悪の敵に!「ボリウッド・キング」シャールク・カーンが、自身の投影のようなスーパースターと、特殊メイクでその狂信的な「ファン」の二役を演じるスリラー。二人のどちらに感情移入するかで、作品の見方が大きく変わる。
デリーの下町に暮らす青年ゴウラヴは、映画界のスーパースター、アーリヤン・カンナーの熱狂的ファン。ある出来事をきっかけに、ゴウラヴはアーリヤンと念願の対面を果たすが、アーリヤンに「お前は俺のファンなんかじゃない」と拒絶される。その日からゴウラヴはアーリヤンを狙うストーカーへと変貌していく。

キャスト 

シャールク・カーン
ワルーシャー・デスーザ
シュリヤー・ピルガオーンカル
サヤーニー・グプター


スタッフ

監督:マニーシュ・シャルマー

©Indian Film Festival Japan 2016

日本未公開の最新インド映画を上映。インドと日本、両国の人々の交流と友好を深めることを目的とした映画祭。東京会場は、2016年10月7日(金)~10月21日(金)まで、ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催。大阪会場は、2016年10月8日(土)~10月21日(金)まで、シネ・リーブル梅田にて開催。


開催期日/場所

東京:10月7日(金)~10月21日(金)/ ヒューマントラストシネマ渋谷
大阪:10月8日(土)~10月21日(金)/シネ・リーブル梅田


公式ホームページ

http://www.indianfilmfestivaljapan.com/index.html

タイムテーブル

©Indian Film Festival Japan 2016

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【執筆者プロフィール】
今泉健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2016年9月1日木曜日

映画『64 −ロクヨン− 前編/後編』評text今泉 健

「“昭和”in平成 」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 昭和の終わり、その当時のことはまだ記憶に残っている。昭和63年の年末、確か11月前後から昭和天皇の健康状態の報道一色になっていて、プロ野球のビールかけや優勝パレードも中止になった程だった。そして松が明ける頃平成になった。テレビは通常の番組が一切なく、4月から社会人生活が控えていた正月で友人たちと街に出たが、商店やデパート、映画館も喪に服して営業を控えていたのを覚えている。東北の大震災直後に似ているかもしれない。昭和元年も年の瀬の7日間だったそうで、元号の切り替わりは、カウントダウンの出来るミレニアムと違い、やはり突然やってくる感は否めない。だから心に何かが残る。長い間病床にいる身内が亡くなっても親族には突然なのだが、この感覚に近いのではないか。
 
 映画『64-ロクヨン-』は、フィクションであり昭和64年1月の7日間のうちに、群馬県(名前はD県)で未解決少女誘拐殺人事件が起きたことに端を発する話である。事件を作品内では通称「ロクヨン」と呼ぶ。正月であり且つ世間やマスコミの関心が陛下の崩御一色になっていたあの時に誘拐を企てるのは、犯人は余程追い詰められているか、すこぶる頭が切れるかどちらかである。ストーリーの主なタイムラインは平成14年にもかかわらずドラマからは昭和の香りが漂っている。家父長制的な家庭環境、公衆電話BOX、電話帳の登場等もあるが、背景に「時効」があるからだろう。当時の法律ではこの事件の時効は15年である。つまりあと1年後には刑事訴追はできなくなる。時効は昭和のドラマ、映画にも使われるが、平成22年に死刑になる殺人であれば時効はなくなった。米ドラマの「コールドケース」(2003-2010)のような未解決殺人事件捜査のドラマが日本で可能になったわけだ。この場合15年という想定なら、現行法でも時効は存在する。事件自体が地方の群馬県警では稀な凶悪犯罪であったが、結果は散々で、犯人も逃し、被害者も殺されたとなれば大失態だ。従って被害者のみならず警察関係者も含めて15年前の昭和の頃で心の中の一部の時間が止まってしまっている。さらに主人公の県警広報官は娘の家出、引きこもり気味の妻という家庭内の問題も抱えているので、なおさらだろう。
 
 作品はほぼ2時間ずつの前後編で計4時間、テレビドラマは5話で計5時間、NHKは1話正味57~8分はあるので密度が濃い。テレビドラマと比べて1時間短いと考えると丁度良いのかもしれない。前編は「事件は現場で起きているんです」と言わんばかりに、「組織あるある」で一つ終わればまた一つことが起こり、息つく間もなく仕事に追われる感じだ。前編の締めくくりはロクヨンを模したような誘拐事件が発生したところで終わる。そして後編はこの誘拐事件が中心の展開になり、さらに人物描写に重きが置かれる。この作品はじっくり事の成り行きを描いているが、決して余すところなくではない。テレビドラマ編でも同様だが、パズルのピースを埋めるには観客が想像で補わないといけない。また多くの事象は独立しておらず、時に密接に結びつく。実に映画的であり、かつ連続ドラマ的でもある稀有な作品だ。4時間も詳細に人物描写をした上に、観客に想像の余地が残るのである。映画版を前後編に分けたことは、映画の要素とテレビドラマ的要素の表現に効果的だと思う。
 仕事面のみならず私生活も含めフックの多い作品である。組織・ポストと対立、キャリア・ノンキャリア、職業としての刑事、刑事のもつ業(ごう)、職責、犯罪被害者、記者クラブなどのマスコミ、被害者と加害者の匿名報道、隠蔽工作、仇討(復讐)、親子・夫婦関係、など事象が多岐に渡る。後編のエンディングに向かうにつれて、ロクヨンの真犯人を捜査に見せかけ、刑事や当時の捜査関係者皆で追い詰める展開になる。鑑識職員でも捜査現場にいる者はハンターなのだ。時に人生を棒に振った仲間を思い、時に肉親の境遇に重ね合わせて、義憤にかられながら、新たな仇討ち的誘拐事件を追う。主人公はロクヨンの犯人と対峙した時、堰が切れたかのように刑事の本性が剥き出しになる。こうして14年ぶりにケリが付き、関係者の心の時計も動き出す。主人公の心はやはり娘への思いに帰結するが、希望を含んだジエンドとなる。

 かつての日本軍の評価で、兵隊は一流、士官は普通、将校は三流という分析を外国が行っていた。これは指揮官不在でも統制を乱さないかららしい。隠ぺいは断罪されるべき行為だが、組織を守ろうとして歪んだ結末とも言える。あのキャリア組という最低の指揮官を仰ぎながら、統率が乱れない優秀さこそ、警察組織が一兵卒たちの頑張りでもっている、という昭和の発想である。平成に存在する「昭和」を見出せるのだ。またエピソードの密接なつながりと切り口の多さ故に、様々なエンディングを想起させる。これだけ人物設定がしっかりしていながら、いかようにもできそうなのは興味深い。実際に映画版とテレビドラマ版はエンディングが全く違う。だが違和感はなく、どちらも視点の違いでアリだと思えるのだ。

※NHKテレビドラマ「64(ロクヨン)」
 全5回1話58分 放送日:2015年4月18日(土)~5月16日(土)

刑事たちの暑苦しさ度:★★★★☆
(text:今泉健)



『64 -ロクヨン- 前編/後編』
2016年/前編:121分、後編:119分/日本

作品解説
『半落ち』『クライマーズ・ハイ』などの傑作で知られる、横山秀夫の7年ぶりの衝撃作『64(ロクヨン)』が、前後編2部作のエンタテインメント大作として、映画化。『ヘヴンズ ストーリー』(2010年)で「第61回ベルリン国際映画祭」国際批評家連盟賞を受賞するなど世界的にもその実力が評価されている瀬々敬久がメガホンをとった。
かつては刑事部の刑事、現在は警務部の広報官として、昭和64年に発生した未解決の少女誘拐殺人事件、通称「ロクヨン」に挑む主人公・三上義信(佐藤浩市)。事件は未解決のまま14年の時が流れ、平成14年、時効が目前に迫っていた。三上は、広報官として働き、記者クラブとの確執や、刑事部と警務部の対立などに神経をすり減らす日々を送っていた。そんなある日、ロクヨンを模したかのような新たな誘拐事件が発生する。

キャスト
三上 義信:佐藤 浩市
諏訪:綾野 剛
美雲:榮倉 奈々
三上 美那子:夏川 結衣
日吉 浩一郎:窪田 正孝
雨宮 芳男:永瀬 正敏

スタッフ
監督:瀬々 敬久
原作:横山 秀夫『64(ロクヨン)』発行元:文藝春秋
脚本:久松 真一/瀬々 敬久
脚本協力:井土 紀州
撮影:斉藤 幸一

主題歌:小田 和正「風は止んだ」(アリオラジャパン)

配給:東宝

劇場情報
有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサ、他にて公開中

公式ホームページ
http://64-movie.jp/

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは『ブルース・ブラザーズ』(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは『激戦 ハート・オブ・ファイト』(ダンテ・ラム)、『海賊じいちゃんの贈りもの』(ガイ・ジェンキン)と『アリスのままで』(リチャード・グラッツアー)。

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2016年7月17日日曜日

【映画イベント紹介】「ムビハイ16」text今泉 健

「ムビハイ16」


今年もまたこの季節がやってきました。16回目です。ここ3年お手伝いしております。

新宿K's cinemaにて、7月16日(土)~22日(金)までの7日間、NCW(ニューシネマワークショップ)のクエリエイターコースの実習作品からOBの監督作品まで、計40本の作品が上映されます。

精選されていますが、玉石混交ともいえる楽しさがあります。

私のイチ推しは7月18日(月・祝)19:00~の野本梢監督特集。6作品上映されます。

中でも『青三十二才』は小田原映画祭早雲賞受賞、『私は渦の底から』は昨年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でグランプリを受賞となっています。

また1週間ロードショーとして2作品が連日上映されます。

『彦とベガ』と『野生のなまはげ』はそれぞれ連日13:00~と15:00~の上映です。

『彦とベガ』(谷口未央監督)は伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞(中編の部)受賞。『野生のなまはげ』は横浜、静岡、大阪、福岡等で上映が決定しています。

新井健市監督は『おっさんスケボー』で2013下町コメディ映画祭の短編コンペティション準グランプリを受賞した監督です。

5分弱の作品でネット上で観られますので是非ご覧ください。

ドラマとコメディーと実に対照的な2作品です。

「ムビハイ16」スケジュール


(text:今泉健)



「ムビハイ16」
2016年、20 年目を迎えたニューシネマワークショップ。その[つくる]コースの成果を披露する恒例の映画祭イベント「ムビハイ」も16回目。映画クリエイターコースの実習作品から制作部&OBの監督作品まで、今年は40本を精選しました。この「ムビハイ」から、日本映画の明日がきっと見えてくるはずです!


映画学校・ニューシネマワークショップとは
1997年、東京都新宿区早稲田町にて、新しい映画人養成機関として開設。仕事等で忙しい社会人や学生も無理なく通えるよう、カリキュラムが組まれています。映画監督・クリエイター等を養成する「映画クリエイターコース」(つくる)、配給・宣伝等映画業界への就職・転職のための「映画ディストリ ビューターコース」(みせる)の2つでスタート。その後、映画俳優養成のための「映画アクターズワークショップ」を加え、2016年に20年目を迎えました。従来の映画学校とは全く異なる映画学校(スクール)として様々な実績を重ね、これまでに数多くの終了者(卒業生)が映画業界に入り、今も第一線で活躍を続けています。(公式ホームページより抜粋)

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)。

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2016年7月5日火曜日

映画『スポットライト 世紀のスクープ』評 text今泉 建

「犠牲は報われるか」


 NHKの大河ドラマで人気がある題材は戦国時代と幕末。実際の作品ローテーションも戦国-幕末-その他の時代になっているそうだ。今年は戦国の『真田丸』。戦国時代というと宗教(武装)勢力のことが何らかの形で出てくるが、当時の天下人たちにより武装解除されたことで、その手段が特に現代人には受容できないとしても、日本では戦国時代以降大規模な宗教戦争は起きていない。結果論だが世界でも奇跡的で稀有なことなので感謝すべきだろう。おかげで日本人は他国に比べて宗教に囚われず暮らしているが、反面、宗教的認識を疎くさせた遠因でもあり、未だ宗教対立が続く世界を読み解くには不便である。実際、宗教を感覚として分っておらず、見聞きしたことで恐縮だが、宗教と信仰は一体ではなく別ものという考え方がある。宗教はあくまで教義であり哲学でもあるが、信仰は教義を理屈抜きで信じる人間の思考や正当化する行為を示す。例えば教義上は唯一神だとしても、現実に他の神様を排除する行動をさせてしまうのが信仰なのかもしれない。信仰が宗教に要素として加わると、教義をその時々の都合で解釈したり、信者同志の関係を歪めたり、教義自体を変容させる時もある。もちろん信仰で救われることはあるだろうし、信仰なしに宗教活動は維持できないだろうが、一方、人間の活動なので数々の問題も引き起こされ得る。

『スポットライト 世紀のスクープ』(2015年 監督トム・マッカーシー)は、2002年1月にカトリック教会の大不祥事を最初に暴いた、ボストンの地元紙の実話がベースだ。神父による児童への性的虐待と教会の隠ぺい工作の調査へ最初に指示を出した編集長は、マイアミから赴任したばかりのユダヤ人だが、「SPOTLIGHT」というコラムで実際に役所の汚職などを題材に長期連載企画を作ってきた記者たちは地元民である。編集長の指示があったときはこんなことやってもいいのかな? という雰囲気だったが、被害者、加害者の数の多さが判明すると、見て見ぬ振りをしていた問題がやはり大事だと気付き、さらに取材に身が入るようになった。自分達の生まれ故郷だからこそ自分たちで守る、まさにこれぞ自浄作用だ。米国ではカトリック教徒は人口比約2割を占める一大勢力であり、記者の彼らもカトリック教徒で周囲の目など考えると、それは並大抵のことではない。ちなみにアメリカ合衆国の最大勢力は人口比5割のプロテスタントである。監督自身はアイルランド系移民のカトッリクであり、出身がニュージャージーのプロヴィデンスということは、大括りでは、ボストンと同じ地域であるので、記者たちの目線に近いということだろう。また、時代背景がインターネットの普及し始めの頃で記事の資料が新聞の切り抜きであったり、超アナログなのが良い。パソコンの操作で簡単にできそうなデータの抽出も人力だと時間がかかるのだ。そしてアメリカ的な良さが表出している。正しいと思うことは、基本躊躇しない単純明快さ、この思想は、はた迷惑なことも多いがこのドラマの状況ではとても上手く作用している。

 主演の3人はマイケル・キートン、マーク・ラファロ、レイチェル・マクアダムスと、今ノッている感じの俳優陣で超豪華だ。脇役が実際各テレビドラマの主役や名脇役たちで、「MADMEN」のロジャー(ジョン・スラッテリー)や「CSI」のブラス警部(ポール・ギルフォイル)や「HOMELAND」の副大統領(ジェイミー・シェリダン)、「ER」にも出演していた弁護士役のスタンリー・トゥッチ、「レイ・ドノバン」の主演、リーブ・シュレイバーは映画の人でもある。その他、4人目の記者ブライアン・ダーシー・ジェームズは舞台やドラマの人であり、映画『君の生きた証』(2014年)の父親役、ビリー・クラダップもいて、どの場面を切り取っても皆上手い。ストーリーに没頭させる安定した脇役陣がこの落着きの源である。マーク・ラファロは演技派で助演的な役が多い。今回は思い立ったら居ても立っても居られなくなる、衝動的な部分もある役どころだったが、特に素晴らしかった。あくまでイメージだが、これまでは主演や相手役に合わせながら演じていて、それはそれで上手いのだが、今回はこの面々に安心して、バランスや調和は周りに委ね、自分の役作りに没頭しているような印象を受けた。
 また、名脇役の顔ぶれが示すのは、テレビドラマ風に仕上げていることだ。あたかも「SPOTRIGHT」という連続ドラマがあって、今回は「新編集長登場!!」というシーズンフィナーレストーリーから新シーズンプレミアまで、1話45分程度のクリフハンガーを3話分一挙に観られたお得感が漂っている。このドラマの視聴者でキャラクターを知っているなら当然意味わかるよね、という具合に装ったセリフも面白い。何と言っても場面転換で流れるジングルがいかにも‘70~’80年代のドラマ風で心憎いのだ。

 一方、このドラマは意外と淡々としている。スクープの裏が取れた! やったぜー!! という皆で勝鬨を挙げるシーンもなく、輪転機が回る場面や、特設の電話が鳴りやまない場面が映される。コツコツとした落ち着きさえ感じるこの雰囲気は何なのか。実際の仕事はそういうものなら、淡々としているのが悪いわけではないが、その後に引き起こされた結末を知るにつけわかったような気がした。とにかくこの後とてつもない大事になった。アメリカ国内で被害者が声を上げ始め、ボストンだけで600の記事を上げた。アメリカばかりではなく他国にも広がり、最終的には2002年の報告で児童ばかりでなく大人も含めて、世界各国ヨーロッパや南米の国々でレイプ4000件、神父800人が資格はく奪、2600人が停職、賠償額は2012年26億ドルを超え、アメリカのいくつかの教区は破産、300万人も信者が離れ、ついには時のローマ教皇まで生前退位となってしまった。成し遂げた事、風穴を空けたことは快挙なのだが、あの電話が鳴り響く場面がファーストデイで、この作品は前日談であり結果的に序章、きっかけに過ぎないことになってしまった。つまりこの後の展開こそが本番なので、ここでは過度にドラマチックにせず、敢えて淡々とさせたのではないだろうか。実際の記者たちもここまでの事態になるとは予想しなかったらしい。

 宗教に疎い者としては、なぜ事態がここに至るまで本格的に誰も手を付けなかったのか等、神父と信者の関係性でピンと来ないところは多い。神父は組織的に一般教徒より上位とのことで、ほとんどの場合、結婚ができない(プロテスタントの牧師は一般教徒と同じ立場で結婚可)。精神的に未熟であればあるほど禁欲のストレスのはけ口がない。それはカトリック独特の制度、ヒエラルキー組織等の構造問題とまで作品内で説いている。しかし記者たちはあくまで教義や宗教の存在を否定したのではない。彼らはこれまで教会が隠蔽し世間が目を伏せていたことに光を当てただけ、反応したり騒いだりしたのはむしろ世間だった。スキャンダラスに煽ることなく、誠実に真摯に、時には蛮勇も振るいながら、信仰に関わる人々の不届きな行為にコツコツと焦点を当て、白日の下にさらしたのだ。カトリックの教区長は町の名士で権力者でもあるのでプレッシャーも受けるし、心から信じていた人には恨まれるかもしれない。新聞の部数が伸びたとしても、公私に渡り彼らもそれだけの代償を払っていることは容易に想像がつく。故に、その犠牲が報われてほしいと願うばかりだ。

俳優たちの激ウマ度:★★★★★
(text:今泉建)




『スポットライト 世紀のスクープ』
原題:SPOTLIGHT
2015/アメリカ/128分

作品解説
カトリック教会が長年隠蔽してきた児童虐待スキャンダルを暴き出し、ピュリツァー賞に輝いた調査報道チームを巡る実話を基に、巨大な権力に立ち向かった新聞記者たち姿を描き第88回アカデミー賞で作品賞と脚本賞の2冠に輝いたサスペンスドラマ。2001年の夏、ボストンの地元新聞“ボストン・グローブ”の新任編集局長としてマイアミからマーティ・バロンがやって来る。彼は神父による子どもへの性的虐待事件に着目し、これを追跡調査する方針を打ち出すが、ボストン・グローブの読者は半数以上がカトリック教徒。難色を示す古参幹部をバロンは強気に押し切り、特集記事欄《スポットライト》を担当する4人の記者たちが調査を開始、次第に事件の背後に隠された巨大な疑惑の核心へと迫っていく……。

キャスト
マイク・レゼンデス:マーク・ラファロ
ウォルター・“ロビー”・ロビンソン:マイケル・キートン
サーシャ・ファイファー:レイチェル・マクアダムス
マーティ・バロン:リーヴ・シュレイバー
ベン・ブラッドリー・Jr.:ジョン・スラッテリー
マット・キャロル:ブライアン・ダーシー・ジェームズ

スタッフ
監督/脚本:トム・マッカーシー
脚本:ジョフ・シンガー
撮影監督:マサノブ・タカヤナギ
編集:トム・マカードル

配給:ロングライド

公式ホームページ
http://www.spotlight-scoop.com/

劇場情報
4月15日より公開、TOHOシネマズ系列他にて上映中
http://www.spotlight-scoop.com/theaters.php

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)。

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2016年5月21日土曜日

映画『ルーム』評text今泉 健

「希望潰えども」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 人が失望したり絶望したりするのはどんな時だろうか。先日、熊本で大地震が起こった。多くの方が亡くなり痛ましい限りだ。余震も収まらず家にも戻れないとか、半壊、全壊してしまったのでは暗然たる気分に陥りそうだ。東北の震災でも阪神の震災でも、多くの被災者がいて、肉親も失う方もいて、それでも避難生活を懸命に送っていた。天災だから自らの意思とは関係ない。その後仮設住宅も用意されたが、絶望して自殺を図る人がいると聞いたことがある。あの甚大な災害を生き残ったのに、という気持ちは正直あるが、ご冥福を祈るだけである。現実が自分の希望や想像とかけ離れていたのだろう。甚大な災害では大切な人や物を一緒に失うことが原因で、価値観を変えてしまうことがあるそうだ。字面だけなら想像がつきそうな説明だが、これまで幸運にも被災した経験がないので実際の気持ちがわかるなど傲慢なことは言えない。いずれにせよ以前と同じ心持ちではいられなくなるのだろう。

 映画『ルーム』は希望と絶望を克明に描いた作品である。ティーンエイジャーの時に誘拐された女性、ジョイが7年も自らの意に反して監禁された続けた部屋で犯人の子供を生み、策を練りながら、子供を使い脱出を図る。目的を果たしたその後が話の肝と言えるだろう。フィクションだが、まるで犯罪被害者の実録映画のような迫力があった。ストックホルム症候群は否定できないが、あの状況下で正気を保てるというのは、精神的に強い、それも愛情の深さに裏打ちされた強さである。しかし彼女が部屋から出た後の生活に過度な期待を持つのは誰にも責められない。脱出できればすべて元通り、と思わなければ耐えられるはずなどないからだ。そして、脱出を果たした後に思いもよらぬ試練に遭遇する。不在中に変化してしまった家庭環境、マスコミは無慈悲としか思えない正論を振りかざし彼女を責め立てる。憎まれるべきは犯人だけのはずだが、これが洋の東西を問わず「マスコミあるある」だったとは……。7年間で共有できるはずだった肉親や友達との大切な思い出、楽しいことも辛いことも経験しながら育む筈だった人間関係等を、自らの意に反して突然奪われ、失ったことは取り返しがつかない。彼女も身内を含めた周囲も歪んだ状況下で価値観が変わっていたのだ。そして孤独感に襲われた彼女は完全に参ってしまい自殺まで図る。やはり人が絶望するのは、辛い状況下ではなく希望が大きく損なわれた時ということ示唆しているように思う。
 一方、子供のジャックはどうか。この男の子は5歳で聡明で健気で素直。脱出を図る際は母親の言いつけを守り、他人に親切そうな大人や勘の良い警官に会えたこともあり救われる。彼が部屋を出る場面はまるで2度目の出産のようだ。そして初めての外界で目に映った「リアル」、緑の木々に息を呑み、目を丸くする様子がとても自然だった。彼は外界で、〈部屋の中の空想入りの産物〉=「リアル」と〈テレビに映る偽物〉=「フィクション」が大逆転するという、価値観の激変、脳内のパラダイムシフトを経験する。だから、すんなりではないが、受け入れた祖母(主人公である彼女の母親)達が献身的なこともあり徐々に馴染んでいく。母親が不在になっても寂しくても耐えながら、親を慮るところまで成長するのは持ち前の人間性の現れである。この子も精神的に強さを持ち合わせているのだ。ただ、部屋での生活は苦境以外の何物でもなくて外界に希望をもっていた母親と、部屋の生活が全てで外界に希望など持ちえない子供では脱出後の周囲への順応が違っており、対照的に見えてしまうのが興味深い。

 エンディングは、明るい兆しを感じた。それは子供の存在である。別に子供が生きがいだからというだけではない。この子は5歳まで母親しか大人と接することはなかったが、社会性を持ち、人の心を思いやることができるし、優しくされることに素直である。あの極限状況下で男に対する憎悪の感情は子供に伝えず、こんな良い子に育てたのは彼女に他ならないからだ。彼女はまっとうな人間であり、その生き写しが子供ということなのだ。彼女は自分で自分を救ったと言えなくもない。ただ、子供が成長し少年になり、自分の生い立ちが気になり始めた時は試練を迎えるだろう。無責任な世間が聞いてもてもいないのに、父親のことを教えるかもしれない。その時は彼女や周りの大人が彼を救う番である。

 物語は予想以上に子供の露出が多い。原作の小説が子供目線の作品らしいが、この子役が巧くはまり込んでいる。それは彼の演技力、表現力があってこそなのは、言うまでもない。しかし母親役のブリー・ラーソンも存在感がハンパない。成り切りタイプのようだが演技がナチュラルで、役柄がすぅーっと憑依しているようにみえる。ルックスが良いとかスタイルが抜群とかではないのに、26歳でビッグチャンスを得ることができたのも納得である。

 人が絶望するのは必死にならざるを得ない苦境の下ではなく、むしろそこを一旦乗り切った後だと伝えたいのではないか。苦境の中身にもよるし、自分はさておき、期待や希望を持てば、それが損なわれたとき精神的な試練を迎える。希望がなければ絶望もしないというのは、悟りの境地で、そこまで達観できる人はそういない。特に理不尽ともいえる環境下、犯罪被害者や被災者のように、希望を胸に気張れば反動が出るのもやむを得ない。映画では周囲の身内が注意深く、我慢強く見守り、本人の立ち直る力を信じて必要そうな時は手を差し延べており、その様子から、主人公の強さ、愛情の深さが特に祖母由来だと思えるくらいなのだ。被害者が元々備えている人間性がものを言うのは承知だが、むしろ周囲がどれだけ援助し続けられるかが大切なように思えた。本人の希望が潰えたとしても、周囲が救いの手を差し延べ続ければ、事態は好転し得るということだ。現実はさらに厳しいのだろうが、あるべき姿を示すことも監督のメッセージとなる。
 この作品は対照的な要素、例えば、希望と絶望、本物と偽物、部屋と外界、で構成されていて、それらが時に交錯しながら、物語が展開し、メリハリが効いた印象を受ける。事件中の描写から犯罪被害者の心理的葛藤までテンポもバランスも実に良く、フィクションならではの良さが存分に発揮されている。後日談的な部分に重きを置いたのは、ありそうでなかった新鮮さだった。

息子ジャックの健気度:★★★★★
(text:今泉健)




映画『ルーム ROOM』
原題:Room
2015年/118分/アイルランド・カナダ合作

作品解説
アイルランド出身の作家エマ・ドナヒューのベストセラー小説「部屋」を映画化。監禁された女性と、そこで生まれ育った息子が、長らく断絶されていた外界へと脱出し、社会へ適応していく過程で生じる葛藤や苦悩を描いたドラマ。

キャスト
ジョイ:ブリー・ラーソン
ジャック:
ジェイコブ・トレンブレイ
ナンシー:
ジョアン・アレン
オールド・ニック:
ショーン・ブリジャース
ロバート:
ウィリアム・H・メイシー

スタッフ
監督:レニー・アブラハムソン
製作エド・ギニー、デビッド・グロス
製作総指揮アンドリュー・ロウ、エマ・ドナヒュー

配給:ギャガ

公式サイト

劇場情報
新宿シネマカリテ他、全国劇場公開中

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)。

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2016年4月14日木曜日

映画『ジョギング渡り鳥』評text今泉 健

「No spoilers, but」


 映画のタイトルが重要なのは言うまでも無い。短かければ短いほど良いという話もあるくらいだが、あえて説明的にする場合もある。『ジョギング渡り鳥』。このタイトルは意外な言葉の組み合わせで過不足無くどちらも満たしているようだ。最初に聞いたときは、木枯らし紋次郎(みたいな人)がジョギングしている画が浮かぶなど色々勝手に想像していたが、まずその時点で作り手の勝ちだろう。

 ちなみに全くそんな話ではない。異星人モコモコ星人を乗せたアダムスキー型UFOが思わぬ形で日本の入鳥野(にゅうとりの)町(ロケ地:埼玉県深谷市)に墜落。脱出ポットで命からがら助かったあとは、帰還の目的の為と好奇心の強さもあって地球人の観察を、映画の撮影をするかように始める。ちなみに話の主人公たちは地元の地球人である。役名は独特で、ソビエト、ウクライナ、チェルノブイリ、スリーマイル、シーベルト、ベクレルなど原発事故を想起させるものとなっていて、制作者たちの意図が込めれられているようだ。

 設定にSF的要素が盛り込まれているのが特徴で、人間には見えないモコモコ星人は反物質で地球人(物質)のドッペルゲンガーが触れあうとお互いの姿が消えてしまうとか、町の名の入鳥野(にゅうとりの)も宇宙の暗黒物質の1つと言われていたり、UFOは縮尺が不明だが、カラスに襲われ?揺れる船内は、さながらTOS(スタートレックのオリジナルシリーズ)のようであったりする。モコモコ星人の話し言葉は意味不明でSF作品の異星人言語(例:スタートレックのクリンゴン語)のように一定の規則性はない。時折日本語も飛び出すのでアジア圏の言葉みたいに聞こえて、テレパシーに近い形で話をしているように思える。

 タイトルにジョギングと付くだけあって、走ることが習慣の人々が多く登場する。しかし汗は、さ程感じない。張り合っているのではなく、皆思い思いにマイペースで走り続ける感じだ。走ることにより、疾走する波動や各々の鼓動が廻りに影響を与えているかのようだ。相互間のバタフライエフェクトというべきか。走っている人達の思いは様々だが、とにかく走り続けていれば再びチャンスを与えられることがある。さらに次のステージへと行ける可能性も広がって、別の風景が見られるかもしれないということだ。1等賞をとったことがあってもそれは同じである。小休止もハーフタイムもOK、それはあくまで走ることを前提としているからだ。人生をマラソンに例えるとまではいかないが、やめないことが大切であり、必ずしも汗水をだらだら掻く必要はないというのが良い。話の過程で、片思いの数珠つなぎが起こるが、片思いと追いかけることをリンクさせている。皆が全て成就しない恋愛を追い続けるこの集団は、ある意味熱い愛情に溢れていて素敵だ。また、ラストに近い場面で、追い抜かれた人が後方から、ギアチェンジしたかのように、颯爽と追い抜く場面が映る。人を追い抜く姿は画的にかっこいい。これは単なる感想に過ぎないが、まさに捲土重来で一時は後方に後れをとっても、あきらめずに続けていればこそ得られるチャンスもあると訴えているように見えた。それは宇宙を渡り歩くモコモコ星人にもあてはまる。

「渡り鳥たちは家族でしょうか、たまたまの集まりでしょうか」という問いかけが冒頭からされるが、私は仲間だと思う。目的を一つにして何かに取り組むのは仲間(クルー)である。まさにこの映画を作るために集まることになったこの制作クルーそのものを指すのは言うまでも無い。彼女は恋愛対象、友人は特別な相談の出来る人、でも常に仲間とは限らない。パートナーや家族は運命共同体で仲間的な側面もあるが、全くイコールではない。ランナーたちも思い思いに走っているが給水所で一緒になってウクライナさんから渡されたお茶を飲むときは、皆仲間のような感覚になっているのではないか。エンドロールで流れるテーマ曲は仲間で仕上げた感じで、とても心地よい。そして撮影現場が時折顔を覗かせることで一体感は増幅する。メイキングと本編その中の劇中劇が合いまみえているのだ。現場の良さと作品の良さがリンクするかは正直分からない。ただ、フィクションでありながら、意図しない見物人や監督を始めとしたスタッフも映り込むので、撮影現場に愛着がある人にはさらに楽しい映画だろう。

 兎にも角にも、映画というメディアに対する何らかのシンパシーがあるなら「四の五の言わずとにかく観てください」と言いたい。まだ観ていない方なら、ゴタクのような拙文は忘れた上で観ていただくのが良い。受け手により感じ方が変わると思われるからだ。

 映画はあまり予断をもって観るものではないと思うし、この文章もネタバレはしないようにしているつもりだ。ただ、作品未見の方に言いたいのは、(当り前なら申し訳ないが)1場面1場面に目を凝らして集中を切らせないこと。骨太なストーリーがある作品ではなく、切り貼りされた感のある場面で展開するので、集中力を失いかけることもあるやも知れないが、それでは作品に散らばる素敵なカットを見逃しかねない。同じ映画を観た人と話をしたりすれば、「ええっ? もう1回観なくては」と思う羽目になるだろう。もっとも、そうなったら流れに抗わず再度観たら良いだけのことであり、それだけの価値のある作品だと思う。やはり、観る前には読まなくていいということには変わりないようだ。

ランナーたちの頑張り度:★★★☆☆(text:今泉健)




『ジョギング渡り鳥』
2015年/157分/日本

作品解説
俳優としても活躍する鈴木卓爾監督が、講師を務めた映画美学校のアクターズ・コース第1期高等科の実習作品として、3年がかりで生徒たちと作り上げた初のオリジナル長編作品。遠い星から神を探して長い旅を続けてきたモコモコ星人が、地球へとたどり着く。母船が壊れて帰れなくなった彼らは、とある町の人々をカメラとマイクを使って観察しはじめる。しかし、モコモコ星人には人間のような「わたし」と「あなた」という概念がなく……。

キャスト
地絵流乃 純子:中川 ゆかり
山田 学:古屋 利雄
留山 羽位菜:永山 由里恵
留山 聳得斗:古川 博巳
走咲 蘭:坂口 真由美
麩寺野 どん兵衛:矢野 昌幸
摺毎 ルル:茶円 茜
海部路戸 珍蔵:小田 篤
瀬士産 松太郎:柏原 隆介
背名山 真美貴:古内 啓子
部暮路 寿康:小田原 直也
海部路戸 ノブ:吉田 庸
郵便局員:佐藤 駿
瀬士産 仁:山内 健司
ジョガーの女:兵藤公美
ハンター 入皆茶:古澤 健

スタッフ
監督:鈴木 卓爾
場面構成:鈴木 卓爾
撮影監督:中瀬 慧
音響:川口 陽一
照明応援:玉川 直人
助監督/制作:佐野 真規、石川 貴雄
編集:鈴木 歓
ロケーションコーディネート:強瀬 誠
宣伝デザイン:三行 英登
宣伝統括:吉川 正文
製作:映画美学校、Migrant Birds Association
宣伝・配給:Migrant Birds Association、カプリコンフィルム

公式サイト
劇場情報
新宿K’s cinemaにて3月19日(土)より公開中
大阪 第七藝術劇場にて公開決定!


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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)

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2016年1月16日土曜日

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text 今泉 健

「観察誘引映画」


 一般人風の人たちがリレー方式で物語をつないでいく展開で、タイの地方のロードムービーっぽくなっている。語り部をどういった基準で選んでいるかは不明だが、独りで語る者、複数で語る者、芝居仕立てにする者、歌にする者まで様々登場する。傾向として子供は魔法、特に男子はSF絡み、大人は人間関係やメロドラマ的展開まで豊富なバリエーションがあるが、物語の核となる劇的展開のきっかけは子供。やはり奇想天外な発想をするのだ。まず人のスカートの中から金属のような小さな固形物が出てきて(!!)、後にこの無生物がいきなり人になって物語が展開していく。なんてSF的な展開、質量保存の法則など全く無視、まさに魔法である。また先生だった人が街に行って、ショーダンサーになってしまうという、地上波の昼ドラでのドロドロ愛憎劇顔負けの展開もある。ちなみに子供が魔法好きなのは日本も同じで、以前、中学生が脚本作りから取り組んで映像作品作るワークショップの話を聞いたことがあるのだが、学生たちは皆揃って「魔法」が好きなそうだ。そして、ドロドロなソープオペラ的展開、これは全世界共通なのだろう。

©Kick the Machine Films

 あれこれと書いたが、物語の内容、表現方法、スタッフの様子や、さらにどこまで作為的かというのも気になるところだった。しかしやはり重要なのはそこではない。(だから物語の内容に触れたのであるが、)大切なのは「物語る人たち」の表情だろう。大人も子供もおじいさんもおばあさんも何故あんなに楽しそうなのか。あの嬉しそうな表情は紛れもない真実ではないだろうか。とにかく人は皆、老若男女、物語りたいということだ。暗い身の上話をしていた女性が、作り話でも良いからと言われて話し出すと、次第に元気になっていく様子が映されていたが、メンタル面のケアにも役立つのではと思えるほどだった。いずれにせよアピチャッポンが提示したこのポイントが当を得ていたということだ、拍手喝采ものである。

 またこの作品には境目がない。物語っていたと思ったら、それが物語をなぞる映像になったり、いきなり別の場面に切り替わったりで、他の作品なら困惑しそうなこともある。しかし、イラッとくることもなくて不思議と心地良くさえある。やっぱり物語る人たちの生き生きとした表情がなせる技かはわからないが、監督も魔法を使っているかのように思えるのだ。

 こうして、いつしか、アピチャッポンが演出する混沌(カオス)に飲み込まれていた自分がいた。この混沌は冒頭に近いところの映像で、スラム街のような場所を進むうちに、突然、巨大な人工物として超高層ビルが出現するシーンが示す混沌ともオーバーラップしている。自分の中では映画は鑑賞するものであったが、この90分程の作品では映画鑑賞というより登場人物の観察、映っている人の様子を探ることに終始してしまった。言い換えればアピチャッポンの「実験」を観察することに注力してしまっていたのだ。「実験映画」は見たことがあるが、あくまで鑑賞したのであって観察したわけではなかった。「観察映画」といえば想田和弘監督だが、観客の立場で観察させられてしまった作品となると自分は他に思い浮かばない。適当な表現が見つからないが……「観察誘引映画」ともいうべきだろうか。

物語る人たちのニッコリ度:★★★★★
(text:今泉健)





『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon

2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン



配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月10日日曜日

映画『独裁者と小さな孫』text今泉健

「続編の条件」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 独裁者は英語で「Dictator」、この作品の原題は「The President」だが、「独裁者と小さな孫」としているのが、言いえて妙な印象を受ける邦題だ。話はシンプルで政権が崩壊した大統領が国外脱出の為、孫を連れて陸路逃亡を図ろうとする話である。ただこの大統領を独裁者と呼ぶには少し脇が甘い。
 
 独裁者は極度に臆病な人が多いと聞いた事がある。政敵がいれば強引な方法で排除するし、非常手段にも出るだろうから必然的に多くの恨みを買っていると自覚がある。従って疑い深くなり、影武者を置いたりすることになる。自分の行動論理から、権力から引き摺り降ろされる=死という考え方になるのだろう。しかし、この大統領には影武者はいない。せっかく無事に着いた空港から孫がゴネたのを口実に逃げ出さないのも思えば奇妙なシーンだ。冷酷で他人を信用せず、自分勝手なところはサイコパス的だし、食事はお毒味の後とか象徴的なシーンはあるが、楽観的な面もあり独裁者というより「お山の大将」という方が適当かもしれない。やはり原題の「The President」の方が収まりの良い役どころではないだろうか。とは言うものの、映っている物事に現実感はあるし、「おとぎ話」としての独裁者を描きつつ、映画らしく何かを示唆したり、映像的に印象に残るシーンもあり、それでいて時折コミカルさが覗くという、極上のフィクションに仕上がっているのは間違いない。
 
 自分の威厳を高めるために国中にばらまいた肖像画が、追われる立場になるともっとも効果的な指名手配写真になるという皮肉たっぷりの展開がうまい。推測するにたぶん、王政を倒した軍事政権の二代目だろうか。初代ならもっと周囲の状況に敏感なはずだが、若い頃から、一(いち)軍人から大統領になった親の背中は見ているはずだ。また、逃亡中に見せた警戒心の強さ、状況対応能力、拳銃の使用、夜間に車の運転など、優秀な兵士で指揮官(コマンダー)の才能はあるように思える。宮殿では至れり尽くせりの生活のようだが、娼婦のマリアの件など若い時は現場に「修行」に出ていた時もあったのだと思える。ただ、街中の電気をつけたり消したりするのも先代譲りなのか、とても幼稚に思える。逃亡の道すがら映る街や国土も、農業や畜産以外のさしたる産業はない様子で、国家を振興をさせようとする政策や思想を感じない。そもそも(明らかに)軍事政権なのに軍も掌握せず、肝心の兵士たちさえ飢えさせているようでは、政権の維持など不可である。一般に三代目は身上をつぶすといわれ、そこまで繋ぐのが難しい。特に世襲組織においては三代目が重要でそこを乗り越えれば長く続く。理屈は簡単で、三代目は生まれたときから全く苦労をせずに大人になる可能性が高く、躓きやすいのだ。やはり三代目になるはずだった息子夫婦がテロで殺害されたのが大きな誤算か。息子も世間一般の常識や節度を持ち合わせておらず、一線を超えてしまったのだろうか。そして後継者といってもあの孫になってしまうわけだから政権も揺らぐはずだ。しかし大統領にしてみれば、逃亡の同士である孫の目線こそ自分が忘れていた視点で、心の中のもう一人の自分なのだ。無事に二人で逃げ切るために、不自然と思われぬよう民衆の中に入り込む選択をしたのだと思うが、孫との触れ合いの結果少しではあるが自らの人間性に気づき始めることになる。
 
 そして、この話の眼目は身をやつす姿としてギター片手の旅芸人を選ぶところだろう。ラストシーンへのつながりだけではない。実際の政権でも、多分、肝心な情報は面従腹背の、空港にいた元帥のような部下たちに遮られ利用されていたように思われる。末期に近づくにつれ、もっと甘い汁を吸いたい部下達に利用され踊らされていたのではないだろうか。本人も気付かないうちに踊らされ続ける大統領。大方スイス銀行の公金の不正蓄財でもやっていたことが発覚してテロの対象になった息子夫婦が暗殺された時に逃亡の手を打つべきだった。彼らは自業自得だとしても孫に罪はないのだ。しかし、旅芸人姿が板についているおかげで大統領は孫と共に自分が指示した所業の結末、住民の心が劣化している様や絆が分断されている様を、うんざりするほど見せつけられる羽目になる。
 
 大統領は最後、民衆に囲まれたとき、一切命乞いもせず、孫も助けようともせず、弁解しなかったが、それは彼が臆病者だからか、観念したからか。監督の真意はわからないが、あの場面で、彼がどんな言葉を発したとしても、住民たちの怒りを爆発をするきっかけを与えるだけで、二人とも殺されていただろう。だからある意味、なすがままにしたのは自分と孫を守るための高等戦術だったととれなくもない。しかしこの混乱ぶりを見るにつけ政権奪取をあきらめていない様子なのはさすがお山の大将である。最後に出てくる男は唐突な感があるが、彼の言動は情緒的だけでなく、本質的にも正しい。つまり、この国の将来は大統領の処刑では良くならない。憎しみを呼ぶだけでなく、ほんとの困窮の原因、甘い汁を吸い、大統領に尻尾を振っていた者達を要職から外さなければ、主原因を排除できないのだ。いずれ宦官共は第二の大統領を祭り上げるかもしれない。この国の形がどうなろうと、大統領はどのような立場でも「踊り続ける」しか生きる道はない。その時は孫も一緒だろうが、いずれ解放してくれないだろうか。そして何とか生き延びて欲しい。それは彼が生き残ることが続編の条件となるからだ。これだけ妄想が膨らんでしまったので彼が大人になった時、この国がどうなっているかとか、この経験をどう思っているかなど、きっとあるであろう監督の用意した真相が分かる続編も観てみたくなった。

大統領のギター演奏ぶり:★★★★★

(text:今泉健)






『独裁者と小さな孫』

2014年/ジョージア=フランス=イギリス=ドイツ/119分

作品解説

独裁政権が支配する国でクーデターが起きた。これまで国民から搾取した金で贅沢な暮らしを送り、政権維持のため多くの罪なき人々を処刑してきた老齢の独裁者は、幼い孫と共に逃亡生活を送ることに。羊飼いや旅芸人に変装して正体を隠しつつ海を目指す彼らは、その道中で驚くべき光景を目撃する。

出演

大統領:ミシャ・ゴミアシュビリ
孫息子:ダチ・オルウェラシュウィリ
売春婦:ラ・スキタシュヴィリ
歌手の政治犯:グジャ・ブルデュリ
理髪師:ズラ・ベガリシュヴィリ
護衛:ラシャ・ラミシュヴィリ

スタッフ

監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ/マルズィエ・メシュキニ
製作:メイサム・マフマルバフ/マイク・ダウニー/サム・テイラー/ウラジミール・カチャラワ
撮影:コンスタンチン・ミンディア・エサゼ

公式ホームページ

http://dokusaisha.jp/

劇場情報

新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開中
2/6~横浜シネマ・ジャック&ベティにて公開

2015年9月14日月曜日

PFFアワード2015 Cプログラム 〜映画『嘘と汚れ』/『わたしはアーティスト』text今泉 健

「ヒエラルキーはエネルギー源か」


この2作品は対照的に見えて共通点がある。
どちらも集団内のヒエラルキーが話の起点になっているのだ。

『嘘と汚れ』は会社内のヒエラルキーで最下位の二人の話だ。
若い女性と老人はどちらとも立場が弱い。社会問題の縮図のような設定だが、若干女性の方が優位。何かことが起これば全て特定の誰かのせいというのは、よろしくないが人が群れるとありがちだ。これは確実にいじめである。しかし、世の中、完全無欠の人間はいないように、一方的にどちらかが良くてどちらかが悪いというのはまずありえない。苛められる側にも理由はあるが、クビに追い込まれるのは行き過ぎだ。病んだ集団である。こういう集団は1人いなくなれば、また1人標的を作り出す。次は主人公の女性かもしれない。



『わたしはアーティスト』は学級ヒエラルキーに端を発する。この男女二人も学級ヒエラルキーでは最下位かもしれない。
ここで面白いのは男女の行動の対比。似たような立場の二人だが行動が違う。女子は、アーティストだがやはり打算的、現実的だ。寄り添った時、絵的に格好がつかないと客観的に思っても、行けそうなところで手を打とうとする。片や男子は、妥協がない。これは異論もあるだろうが、モテない男子ほど、程良いところで手をうたない。自分の好みに忠実でこだわるのだ。(妙に力が入ってしまう…)。むしろ、こだわらないのはモテる男子だ。モテる分経験値が高く、余裕があり考え方が柔軟でこだわらない場合がある。



 実生活ではヒエラルキーにあまり良いイメージはないが、こと創作については、特に現代日本において発想の源になり得るということか。『桐島、部活やめるってよ』(2012 吉田大八監督)などはその代表例なのだろう。

 また、もう一つ共通点は、偶然が大きく作用して生まれた作品であるということだ。
 そもそも映画は偶然の連続によって作られるという言葉を聞いたことがあるが、幕間の話からこの2作はまさにそれを具現化した作品のようだ。『嘘と汚れ』は制約のある撮影下で、カット割りに時間が避けず、長回しの撮影をせざる得なくなった。このいびつさが猪狩裕子監督の感覚と相まって強烈なインパクトを生んだ。『わたしはアーティスト』は双子の女優との出会い、そして女優といかにもお似合いの男優との巡り合わせが、薮下雷太監督のディレクションで、化学反応を起こし、はじけ飛んだ作品になっている。

 ピンチをチャンスに変えた監督、好機を逃さなかった監督、どちらも次作が楽しみだ。

主人公ゆいのドロドロ度 : ★★★☆☆ (『嘘と汚れ』)  
主人公沙織の自己陶酔度 : ★★★★☆ (『わたしはアーティスト』)
 (text今泉 健)


関連レビュー:PFFアワード2015〜映画『海辺の暮らし』text宮本 匡崇

『嘘と汚れ』 

2015年/92分/カラー

作品詳細
「大道具会社が舞台。冒頭、老人と若い女性が和気あいあいと一緒に作業する長いシーンで幕開けする。その後も続く作業場の光景に観客を引き込んだうえで、小事件が起き、心理劇へと鮮やかに変貌する。」

出演
岡田瑞葉、真実一路、佐藤武史、
青坂 匡、野口 航、高橋基史、戸田 司、
八代定治、重田裕友樹、金子拓史、
亀井史興、前川桃子、三森麻美、
森山愛都子、金子るい、金子ねね、江口 信

スタッフ
監督・脚本・編集:猪狩裕子
撮影:深谷祐次
録音:宇佐希望
助監督:太田達成
制作:高橋基史、中島 光

   

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『わたしはアーティスト』

(PFFアワード2015 プログラムC)
2015年/24分/カラー

作品詳細

「私は2年C組、尾崎沙織。抑圧と孤独を表現するため自分を撮る」。誰もいない教室で机に立って踊る私。自分で髪にハサミを入れる私。誰も私を理解してくれないと思っていたのに、「尾崎さんて変わってるよね」と言われた瞬間、世界は色づく! ひとりよがりを客観視する洞察力に、随所で笑わせられる。

出演
尾崎 紅、高根沢光、尾崎 藍、長岡明美、
安川恵理、小徳彩夏、宮本彩佳

スタッフ
監督・脚本・撮影・編集:籔下雷太
録音:古坂圭佑、小原 誠
美術:村澤綾香、安川恵理
照明:赤坂将史、中川奈月、岡田直哉
音楽:半野喜弘、大石峰生
制作:八重樫亮介、菊竹洋平、今野雅夫、
    赤穂良晃、松本 麗

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PFFアワード2015 受賞結果速報!


ぴあフィルムフェスティバル(PFF)
"映画の新しい才能の発見と育成"をテーマに、1977年にスタートした映画祭。いままでに数々の監督を排出している。現在では、公募した作品から入選作品を選出する映画コンペティション「PFFアワード」を中心に、特集上映や、トークショーなどのイベントも行われている。また、PFFアワードでグランプリ等の賞を受賞した監督はPFFスカラシップの権利を獲得でき、劇場用映画監督デビューへの道が開かれる。

公式ホームページ:http://pff.jp/jp/index.html