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2016年12月14日水曜日

アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016 アンコール!



<2016アピチャッポン・イヤー>を締めくくる、アピチャッポン・ウィーラセタクンの特集上映がアンコール開催!

その名も「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016 アンコール!」

(2016年12月17日よりシアター・イメージフォーラムにて開催されます)

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<2016アピチャッポン・イヤー>のラストを飾る特集上映。

『ブンミおじさんの森』(2010)で2010年カンヌ国際映画祭・パルムドール(最高賞)に輝いたタイの天才監督にして美術作家でもあるアピチャッポン・ウィーラセタクン。今年は1月に幻の傑作『世紀の光』(2006)初公開と特集上映<アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>が開催され、3月には最新作『光りの墓』(2015)の公開、また、各地での展覧会やワークショップや「さいたまトリエンナーレ2016」への参加、きたる12月13日からは東京都写真美術館での個展スタートと、映画に美術にまさに<アピチャッポン・イヤー>。そしてそのラストを飾るのが本特集上映<アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016アンコール!>です。


全長編作と貴重な共同監督作や関連作も上映し、さらに多面的に。

今回は、これまでの全劇場長編作とともに、単独監督作とはまったく違う異色の共同監督作であるモンド西部劇ミュージカルコメディ『アイアン・プッシーの大冒険』(2003)を上映。さらに関連作として、アピチャッポンの故郷でありその映画の主な舞台であるタイ東北部イサーン地方を描いたタイ映画史に輝く名作『トーンパーン』(1976)、『東北タイの子』(1982)も上映。全9作を上映し、より多面的により深く、アピチャッポンの映画世界に触れることができます。



アピチャッポン監督も来場。何回見ても発見がある作品群をぜひスクリーンで。

また、開催期間中には監督本人が来場し、舞台挨拶やQ&Aも予定。上映作品を網羅したパンフレットも販売される。映画館の闇は、アピチャッポンが繰り返し描くタイ東北部イサーン地方の森へとつながるタイムマシーン。闇の中に身を沈め、ふと目を覚ませばアピチャッポンと森を彷徨っている、そんなスリリングな体験を映画館でぜひ!

12/13からは東京都写真美術館の個展。12/17からは本特集上映。美術を見てから映画を見るか、映画を見てから美術を見るか。<2016年アピチャッポン・イヤー>のラストにふさわしくたっぷりとお楽しみください。

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上映作品解説


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①『真昼の不思議な物体』 

原題:Mysterious Object at Noon

2000年|タイ|83分|モノクロ|35mm

山形国際ドキュメンタリー映画祭インターナショナル・コンペティション 最優秀&NETPAC特別賞受賞/全州国際映画祭グランプリ受賞


©Kick the Machine Films  提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭


タイ東北部の村で行商人の女性が、撮影クルーに促され、一つの架空の物語を語り始める。その続きを象使いの少年たち、伝統演劇の劇団員たちなど、様々な人々がリレー形式で即興的に語り継ぎ、物語は二転、三転しながら思わぬ方向に進んでいく。驚くほどの自由なイマジネーションと同時に緻密に考えられた構成で、世界を仰天させた記念すべき長編初監督作品。

提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭 
協力:一般社団法人コミュニティシネマセンター


奥平 詩野
映画『真昼の不思議な物体』評 

今泉 健
映画『真昼の不思議な物体』評 

井河澤 智子
映画『真昼の不思議な物体』評

長谷部 友子
映画『真昼の不思議な物体』評 

髙橋 雄太
映画『真昼の不思議な物体』評


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②『ブリスフリー・ユアーズ』 

原題:Blissfully Yours

2002年|タイ|125分|カラー|35mm

カンヌ国際映画祭ある視点賞/東京フィルメックス映画祭最優秀作品賞/テサロニキ映画祭グランプリ/ブエノスアイレス国際インディペンデント映画祭監督賞&国際批評家連盟賞ほか

©Kick the Machine Films  提供:Kick the Machine Films

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーンは姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』にもたとえられた至福の映画。

提供:Kick the Machine Films 
協力:一般社団法人コミュニティシネマセンター


高橋 秀弘
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評

井河澤 智子
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 

大久保 渉
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 

岡村 亜紀子
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 


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③ 『アイアン・プッシーの大冒険』

原題:The Adventure of Iron Pussy

2003年|タイ|90分|カラー|デジタル

監督:マイケル・シャオワナーサイ、アピチャッポン・ウィーラセタクン


©Kick the Machine Films  提供:GMM GRAMMY Public Company Limited

フィラデルフィア生まれのタイ人現代美術アーティスト、マイケル・シャオワナーサイとの共同監督作。シャオワナーサイ扮する女装のスパイ“アイアン・プッシー”は、怪しい富豪の屋敷にメイドとして潜入。大騒動をまきおこす。他のアピチャッポン作とは全く違う、ツッコミどころ満載の“モンド西部劇ミュージカルコメディ”。自身は、ビデオアート・プロジェクトの一つと位置づけ、要所要所のショットにアピチャッポンらしさを発見するのも楽しい。

提供:GMM GRAMMY Public Company Limited
協力:boid

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④『トロピカル・マラディ』 

原題:Tropical Malady

2004年|タイ、フランス、イタリア、ドイツ|118分|カラー|35mm

カンヌ国際映画祭審査員賞/東京フィルメックス映画祭最優秀作品賞/サンパウロ国際映画祭批評家賞/カイエ・デュ・シネマ2004年ベスト1ほか


©Kick the Machine Films  提供:Tamasa Distribution

愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト1にも輝いた傑作。

提供:Tamasa Distribution 
協力:一般社団法人コミュニティシネマセンター

長谷部 友子
映画『トロピカル・マラディ』評

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⑤『世紀の光』 

原題:Syndromes and a Century

2006年|タイ、フランス、オーストリア|105分|カラー|DCP

ヴェネチア国際映画祭公式出品/ドーヴィル・アジア映画祭グランプリ/フリブール国際映画祭スペシャル・メンションほか


©Kick the Machine Films  提供・配給:ムヴィオラ

今年日本で初公開された、ファンの間で特に人気が高い作品。映画は2つのパートに分かれ、前半は地方の緑豊かな病院、後半は近代的な白い病院が舞台となる。登場人物の多くも重なり、医師の恋の芽生えなどのエピソードは2つのパートで反復され、夢見ているような奇妙な感覚に誘われる。撮影中に多くのスタッフが恋に落ちたというエピソードを持つ、“微笑み”と“驚き”の傑作。

提供・配給:ムヴィオラ


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⑥『ブンミおじさんの森』 

原題:Uncle Boonmee Who Can Recall His Past Lives

2010年|イギリス、タイ、ドイツ、フランス、スペイン|114分|カラー|35mm

カンヌ国際映画祭パルムドール/アジア・フィルム・アワード最優秀作品賞/カイエ・デュ・シネマ2010年ベスト1ほか

©Kick the Machine Films  提供:シネマライズ 配給:ムヴィオラ

腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部の自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがて、ブンミは愛するものたちとともに森に入っていく。美しく斬新なイマジネーションで世界に驚きを与えた、カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞作。

提供:シネマライズ 配給:ムヴィオラ



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⑦『光りの墓』 

原題:Cemetery of Splendour

2015年|タイ、イギリス、フランス、ドイツ、マレーシア|122分|カラー|DCP

カンヌ国際映画祭<ある視点>部門出品/アジア太平洋映画賞最優秀作品賞/国際シネフィル協会賞最優秀未公開映画賞ほか


© Kick The Machine Films / Illuminations Films (Past Lives) / 
Anna Sanders Films / Geißendörfer Film-und Fernsehproduktion /
Match Factory Productions / Astro Shaw (2015) 

提供・配給:ムヴィオラ


タイ東北部。かつて学校だった仮設病院。原因不明の“眠り病”にかかった兵士たち。ある日、病院を訪れたジェンは、前世や過去の記憶を見る力を持った若い女性と知り合い、その病院の場所が、はるか昔に王の墓であったと知り、兵士たちの眠り病に関係があると気づく。映画作家としてのさらなる進化を感じさせ、またタイの政治状況に対する想いも込められた傑作。

提供・配給:ムヴィオラ


長谷部 友子(寄稿・neoneoWEB)
映画『光りの墓』評

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関連上映作品


アピチャッポン映画にとって、その故郷タイ東北部イサーン地方は特権的な場所。かつてカンボジアとラオスという異なる帝国から成り立ち、バンコクとは全く違う文化を持っていたイサーン。貧しい地域であり、60〜70年代にはその森に共産主義が逃げ込み、共産主義者狩りの舞台ともなった場所。
アピチャッポンの土地の記憶を掘り下げる為に、ぜひとも見ておきたいタイ映画史の名作2本が上映されます。


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⑧『トーンパーン』

原題:Tongpan

1976年|タイ|63分|モノクロ|デジタル

監督:スラチャイ・ジャンティマートン、パイジョン・ライサグン、ユッタナー・ムクダーサニット


© The Isan Film Group  提供:Multimedia Thailand


75年に実際にあったダム建設問題をドラマ化したドキュ・ドラマ的な白黒16mm作品。ダム建設で土地を失った農夫のトーンパーンは妻と2人の息子を抱え、ムエタイの試合に出たり、サムロー(人力三輪車)の運転手をして何とか暮らしていたが……。民主化運動が高まった当時、共産主義者が逃げ込んだイサーンが舞台なので、政府により上映が禁止になったという問題作だが、イサーン農民の貧しさ、町の風俗などのリアルで詩情ある描写は必見。後年、『メナムの残照』などを残した巨匠ユッタナー・ムクダーサニットの貴重な初期作でもある。

提供:Multimedia Thailand 
協力:boid

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⑨『東北タイの子』

原題:A Son of the Northeast

1982年|タイ|130分|デジタル

監督:ウィチット・クナーウット 原作:カムプーン・ブンタウィー


© Five Star Production Co., Ltd.  提供:Five Star Production

東北タイに生まれ、行商人、日雇い労働、刑務所の獄吏など様々な職を経て作家となり、晩年は国民的作家となったカムプーン・ブンタウィーの同名小説の映画化。当時タイで大ヒットし、映画賞も独占した。干上がった地で貧しく暮らすイサーン農民が、遠く離れた川まで魚を獲りに牛車のキャラバンで旅に出る姿を描く。見所は何と言ってもイサーンの知られざる生活風景、日本の伝承話にも通じる大らかな性の描写も素晴らしい。83年にマニラ映画祭で審査員だった大島渚が絶賛したのも納得の傑作。

提供:Five Star Production 
協力:boid

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アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016アンコール!

開催日程
2016年12月17日(土)~1月13日(金)<4週間>

会場
シアター・イメージフォーラム 
(東京都渋谷区渋谷2-10-2)

上映作品
『真昼の不思議な物体』『ブリスフリー・ユアーズ』『アイアン・プッシーの大冒険』
『トロピカル・マラディ』『世紀の光』『ブンミおじさんの森』『光りの墓』(以上アピチャッポン監督作)

関連上映
『トーンパーン』(ユッタナー・ムクダーサニットほか監督)、『東北タイの子』(ウィチット・クナーウット監督)

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/api2016/woods2/index.html

監督トークイベント
12月19日(月)15:30の回『光りの墓』上映後&18:30の回『世紀の光』上映前
*トークの日時はやむを得ぬ事情により変更となる場合があります。

配給
ムヴィオラ:http://www.moviola.jp

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【ことばの映画館の批評家による<アピチャッポン監督作品>映画評一覧】


井河澤 智子
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 
映画『真昼の不思議な物体』評 

今泉 健
映画『真昼の不思議な物体』評 

大久保 渉
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 

岡村 亜紀子
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 

奥平 詩野
映画『真昼の不思議な物体』評 

佐藤 奈緒子
映画『世紀の光』評 
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評

高橋 秀弘
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評

高橋 雄太
映画『世紀の光』評 
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 
映画『ブンミおじさんの森』評
映画 アートプログラム<中・短編集>評
映画『真昼の不思議な物体』評

長谷部 友子
映画『トロピカル・マラディ』評
アートプログラム『国歌』評 
映画『真昼の不思議な物体』評 
映画『世紀の光』評 
映画『ブンミおじさんの森』評
映画『ブリスフリー・ユアーズ』評

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【寄稿・ドキュメンタリーマガジンneoneo・ウェブサイト「neoneo web」】

長谷部 友子
「あなたに起きていてほしい」-アピチャッポン・ウィーラセタクン監督『光りの墓』

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2016年3月2日水曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text岡村 亜紀子

ある午後に車で出かけたミンとルン、そして男とはぐれたオーンが森で出会う。
そんなある一日の物語だ。三人の森でのひと時の様子は、わたしに現在というものが、いかに不安定で、脆く儚いものかを感じさせた。


物語は日々の出来事を語りながら、仕事をエスケープしてミンと出かけるルンや、森で肌をあらわに男と身体を重ねるオーンを映して、日常の範疇にありながら少し特別な様子を描いているようでもある。
物語に出てくる人物たちは色んな表情……笑顔も険しい顔も、涙も見せる。
物語の舞台が市街から離れて自然へ向かうと、その表情は段々素直になるようだ。
そして三人の登場人物——不法滞在者の青年ミン、そのガールフレンドであるルン、彼らの知人のおばさんオーンの、内面が現れてくる。

森へと分け入りミンがルンに見せたかった場所(眺めのいい崖の近く)で二人は敷物を拡げ、食べ物を並べたり、木々の中でじゃれたり、午後のまどろみの中で好意を交わし、時にルンがそれを躱しながら戯れる。

一方オーンはミンを誘っていた男と木陰で獣のように濃厚に交わっていたが、男は盗まれたバイクを追って消え、森に一人残されてしまう。

「友達はルンとオーンだけだ」(ミン)
「オーンなんて居なくなればいい」(ルン)
「何故?」(ミン)
「クソばばあだから」(ルン)

という会話がミンとルンで交わされていたところへ、オーンが現れる。
突然現れたオーンに彼らは怪訝な表情を向けながら、ルンはいままでのオーンに対するどの態度より優しく、険しい顔をしたオーンを川に誘って気持ちを和ませようとする。


この作品で登場人物によって語られる色々な噓と、そのようなもの。
病院でオーンとルンが、ミンの「健康証明書」を発行してもらう為に存在しないIDがあると言ったり、ルンはミンの診察のため仕事に遅れるが、遅刻の理由を「マラリア」と言ったりする。
オーンは夫に医者に子作りを進められたと言ってみたり、皮膚につけるクリームを刻んだ野菜と混ぜ合わせ夫に食べさせてみたりする。
森で夫の会社の部下と思われる男に一糸纏わず組みしかれていたオーンが、行為の後に満ち足りた表情で男に寄り添う姿さえ、男に対するサービスのようだ。
どこかセクシャルな空気を醸し出すミンは、終止穏やかな佇まいのなかに、シベリアンハスキーのような野生の残った大型犬を思わせる。


©Kick the Machine Films


中盤以降、映画は森と三人だけを映し続ける。
オーンとルンとミンが森で邂逅を果たしてから、ミンが見せた強ばった顔、オーンの張りつめた表情や、ルンがオーンに対して見せた優しさは、どれも偽りやかりそめの姿ではなく本当らしく感じられた。
それなのに、スクリーンに対するわたしの体感温度はどんどん失われているように思われた。
わたしの母の田舎には大きな川があり、飽きる事無く川で遊んでいた子供だったので、川に入ったルンとオーンが、身を浸すその水の冷たさも、冷えた身体に感じる陽の暖かさも、わたしは知っている。
意識はむしろそういったことを感じるよりも、三人の不思議なちぐはぐ感へと強く惹き付けられていく。

ミンの描いたミンのイラストや郷里の家族への手紙の文字が映像に重なり、ミンの眼差がここでは無い彼方へ向いていたことを思うと同時に、恋人に暴力を振るわれたというルンがミンやオーンと過ごす時間の中に安らぎを見つけている、そんな現代的な現実への姿勢が浮かぶ。
オーンの繰り返す支離滅裂にも思える言動、川縁で慟哭する姿は、どこへ向かえば良いかわからない迷子のように見える。
彼女は「家に帰りたい」とも言っていた。

別々の次元に意識を置きながら、同じ方向を向いていない、三人の現在が確かに重なっている場所の存在。
その光景はとても普通でありながら特別なものとして映り、それを観るわたしがわたし自身に何事か囁きはじめる。
それは映画がある事柄を浮かべるように示唆されて作られているというよりも、鑑賞した個人の内側にあるものが映画に依って浮かび上がるような現象のように感じた。

ミンがドライブ中に、「昔ここで日本兵がたくさん死んだ」と呟いた。
その一言に「タイには道路にそのような記憶があるのか」と感じて、日本のことを思った。
そして、アピチャッポン監督の『世紀の光』(2006)で、一枚の写真に映っていた工事現場の日本人に面差しが似ていた男は、やっぱり日本人なのかも知れないと思う。


この作品では病院でミンが診察を受けているシーンから始まって、画面に映る人物が次第に減って行く。
最後まで映っていた三人、ミン、ルン、オーンのその後の消息がエンドロールで文字として現れる。

ミンを診察していた女医とその助手、オーンの夫、オーンと森で交わっていた男、ルンの上司などの彼らは、おのおのその人となりを想像させながら、あくまで三人にそれぞれ関わりのある人物として、三人をわたしたちに紹介するような「場」のような存在だろうか。
彼らはミンがオーンを待っていた間、そこに映っていたTVの映像のようにも思える。その「場」とはなんだろうか。
ミンにとって、ルンにとって、オーンにとってそれは全部違う。

三人の現在が重なる「場」が、とても普通でありながら特別なものとして映ったのは、この映画が積み重ねて来た瞬間瞬間の「場」が、ただ表現していることの空間の中に、この映画のようではないけれど、わたしの普通な、あるいは特別な日々を重ねられる「場」、静止した時間と共に動いて行く時間、それを成立させる現在が存在しているからではないだろうか。


何度か映画に現れる車に乗るシーンでは、前の景色が遠ざかって行く、または後方の景色が近づいてくる映像が繰り返される。

「進んでいるのか? 戻っているのか? それともその二つは同じたりえるのか?」(もちろん映像が表すのは車が前に走っているという同じ風景である)

と、そんな疑問が頭をかすめる。

進んでいても、戻っているように見えても、留まろうとしてみても、時間が止まらない限り、その居合わせた「場」において同じ次元で異なる方向へと進み続いて行くことは、きっとルンとミンとオーンと同じように日々のなかにある。

そしてそんな普通で特別な時間に起こる、他者が居るからゆえの脆く儚い交差した一点のように静止しながら連続する「場」として動いている相対した現象に、わたしのなにかしらが感応した。

川縁でミンに寄り添って目を閉じているルンの頬に羽虫が止まっている。
彼女の手はルンに触れるために動き、ミンの身体には陽の光がさしている、穏やかなその光景のただ中にあるルンの微笑みに、正反対の体感の伴わない“死”をイメージさせるなにかが静止したように宿っていた。

そのなにかに、スクリーンを観ているときには背筋がヒヤっとするくらいの衝撃を受けたのに、私が思い出すあの午後にミンの頬にとまった羽虫の映像は暖かい体感さえ伴っている不思議さ。


「blissfully yours」というこの映画の英題は、英語の「God bless you」という言葉に響きが少し似ている。
「God bless you」には相手に「大丈夫」と言っているような意味が感じられる。

「blissfully yours」という言葉を調べると、なんだか遠くて近い感覚があった。
その言葉の持つ意味と相反するようなこの胸の中に手を突っ込まれて心臓に穴を空けられたような衝撃は「大丈夫」とは言わないけれど。

この物語は、ただそこにある。
そっと語りかけてくるのは、映画の中でわたしが出会った「場」ではないだろうか。
一瞬を写し取るのが写真なら、あの時あの空間で、ある一日の連続を映し続けたこの映画の中にあったものは、暖かい体感を伴ったわたしの回想などではなく、衝撃を感じたヒヤリとする何か——決して静止しないもの——「場」によって変化し続けるなにかである。

そのなにかに、あの陽光の中ミンにただ触れていたルンのように、今ひととき触れていたい。

(text:岡村亜紀子)

『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説
ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月17日水曜日

【アピチャッポン特集】映画『トロピカル・マラディ』評 text長谷部 友子

「孤独な魂の行方」


一瞬の油断もなくそれを見終えた。
鮮烈な映画だ。うねるような暑さ、体液の匂い、息遣い。どれもが生々しすぎる。

「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。」

『トロピカル・マラディ』の冒頭で引用される中島敦の『山月記』の一節。主人公の李徴は自らが虎になった理由をそのように説明した。

山間の小さな村、兵士のケンと村の青年トンは、出会い、恋に落ちながらも静かな日々を過ごしている。突如、劇中劇といった形式で「魂の通り道」という、呪いにより人間が虎に変身するタイの民間伝承が語られる。この劇中劇を境に、淡々と描かれる前半から、同じ映画とは思えないほどに一転する。牛が次々と殺されてゆく事件を調べるため、残された足跡をたどって森の奥深くに分け入った兵士は、全身に刺青を施した不思議な男の姿を目にする。刺青の男は咆哮を上げ、虎に変身しているようだ。前半でケンとトンとされた人物が演じてはいるものの、後半では「兵士」と「虎」としか語られない。

『山月記』において虎になった理由は尊大な羞恥心とされ、「人間ならざるものになる」ということを中島敦は近代的な自我のありようと結びつけて考えている。しかし『トロピカル・マラディ』においては、虎になることは過剰な自意識や不遜さといった近代的な自我のありように下される罰などではない。太古の昔に遡り、私たちは既に虎になっているような錯覚に陥ってしまう。

兵士は虎に対峙したとき、その虎が誰なのかを問うことになる。
見ず知らずの刺青を施した男が変身した後の姿なのか、それとも前半で恋人として描かれたトンなのか。兵士は言う。「ここで会っているのは自分自身」だと。さらに「ここでお前を殺したら、互いに動物でも人間でもないものになる」と続ける。
この凄まじい緊迫感の対峙。虎に対峙している。しかしその虎とは一体何者なのだろう。虎を追って森に入ったはずなのに、私自身が虎だったのか。いや私だけが虎なのではない。絶えず誰かが虎になり、虎の自分と対峙する。森の中、猿は兵士に「お前は奴の獲物であると同時に友なのだ」と告げる。


©Kick the Machine Films

この作品に漂い続ける暴力的なエロティシズム。
ジョルジュ・バタイユによれば、エロティシズムとは有限な個体に対してのみ現れるものである。有限な個体は自己中心的であるが、我知らず他者との共同へと促され、自己を失う危険を冒しつつ他者との共同へと誘われる。
森に誘われ、分け入っていく兵士。そこにある圧倒的な誘惑と、拒絶と、孤独の衝突。虎は闇に潜み兵士を誘惑しながらも、決して交わることのない孤独を、咆哮を上げて訴える。ここに描かれているのは、生の根源的な哀しさである。
映画を見終えて大きく息を吐く。深呼吸を繰り返し、自分がひどく動揺していることに、疲れ果てていることに気づいた。この倦怠は、あなただけはと思う人と、多くの時間と言葉を尽くし語り合い、それでも届いていないのだという、もどかしさを越えた怒りと悲しみに似ている。

優れた作品は孤独に効く。
私を理解する者はいない。世界中に現存すると言われる七十億の人間をあたって試したわけでもないけれど、そんなことは試す前から無駄だと思っている。自分がたった一人、凄まじい孤独にさらされているという圧倒的な感覚に支配されている。
作品に対峙するとき、これを考え、直面し、取り組んだ者がいたのだと思い知らされる。芸術はどれほど孤独を描ききろうと、孤独に陥ることを許さない。その作品を受領する者が存在し続ける。そしてそれは下手な慰めなどではなく、自分が決して孤独に陥れないことを了解させられる。

映画の冒頭、前半のケンとトンの恋愛が語られはじめようとする前、一人の青年が裸で走りさる一瞬のカットがあった。あれは誰なのだろう。
生々しく、原始的なあの場所で、彷徨い続ける孤独な魂の行方を案じずにはいられない。
青年は、これから虎になるのか、すでに虎になっているのか。虎になることが恐ろしいのだろうか。いや人であることが、人に戻ることこそが恐ろしい。あらゆることはおこる。とどまれというのか、超えろというのか。変容し、変容こそが生である。
この先、何度だって森に潜るだろう。生ある限り、そこにあるものを見ないわけにはいかない。

(text:長谷部友子)

関連記事:アピチャッポン特集





『トロピカル・マラディ』
英語題:
Tropical Malady
2004年/タイ、フランス、イタリア、ドイツ/カラー/35mm/118 分

作品解説
愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作 家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著 に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト 1 にも輝 いた傑作。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月14日日曜日

【アピチャッポン特集】映画 アートプログラム『国歌』評 text長谷部 友子

「エアロビとエネルギー」


一時期、新人賞を獲った小説ばかり読んでいたことがある。処女作は、概して完成度は低いし、練られておらず、雑さが目立つ。しかしその分と言っては何だが、粗削りの勢いがあり、切れ味がよく、その後総合力を身につけ、見えにくくなってしまう作者の本質をざっくりと表出させる。それが面白かった。
アートプログラムにおいて上映された『国歌』は、アピチャッポンの初期の作品というわけではないが、なぜか新人賞の作品たちを思い出した。長編では隠されてしまうアピチャッポンのエッセンスともいうべきものが、五分というこの短い作品には凝縮されている。

女性たちが水辺のベランダのような場所で話している。今一つ話は噛み合わず、突如ラジカセの音楽が大きくなり、体育館のバドミントンコートが映し出される。バドミントンが行われる体育館を360度カメラがゆっくりとすべるように回っていく。この唐突な場面転換。バドミントンのラリーは続かない。まるで先程の噛み合わない会話のように。そしてバドミントンの隣では激しいエアロビのようなダンスが繰り広げられる。

アピチャッポン映画の十八番ともいえる、このエアロビ。『世紀の光』の音楽とエアロビからなる多幸感溢れるラストシーン。『トロピカル・マラディ』でもエアロビのダンサーにウインクする場面がある。タイにおいてエアロビは一般的なのかもしれないが、それにしてもアピチャッポンの映画におけるこのエアロビのシーンは、きらきらとした軽やかさを映しながらも、一抹のもの悲しさと切なさを感じさせる。動き出してしまうということ。そこに運動があり、エネルギーがある。エアロビのダンスは、世界が動き出してしまっているという仕様もなさを思わせる。

同じ事象を見ていても、こちら側から見ると単調な会話をする女性たちに見える。けれど、そちら側から見れば続かないバドミントンのラリーと、激しく踊るエアロビ、そう分子が運動しあうようなエネルギーの流れに見える。

アピチャッポン映画のテーマでもある境界。境界の中で運動しあうエネルギー、それらは境界を越え、侵食しあおうとしながらも、寸前のところで境界内にとどまり共存しあう。境界と浸食と共存を、エアロビとエネルギーを、つまりアピチャッポンの世界観が思う存分盛り込まれた五分間だ。

(text:長谷部友子)

 

作品解説

アートプログラム<中・短編集> 
104分/台詞のある作品はすべて日本語字幕付きで上映

 『国歌』(The Anthem) 
2006年/5 分 
タイの映画館では、本編上映前に国歌が流れる慣習を独自にアレンジした短編作品。

*その他、アートプログラム〈中・短編集〉で上映された作品☟

『Worldly Desires』  
2005年/42分32秒
韓国チョンジュ映画祭の企画『三人三色』で制作した映画内映画。

 『エメラルド』(Emerald) 
2007年/11分
80 年代バンコクで隆盛を極めるが、閉館してしまったエメラルド・ホテル。その場所の記録と記憶。

 『My Mother’s Garden』 
2007年/6分42秒
 仏・ディオール社のジュエリー・デザイナーの宝石コレクションを撮影。アピチャッポンの母が蘭を育てた庭をイメ ージ。

『ヴァンパイア』(Vampire)
2008年/19分 
ルイ・ヴィトンに“旅”をテーマにした映像作品を依頼され、自らタイとミャンマーの国境付近へ。そこにはヴァンパイア鳥の伝承があり......。 

『ナブアの亡霊』(Phantoms of Nabua)
2009年/10分43秒
 映像インスタレーション「プリミティブ」プロジェクト(09)と同時制作。タイ・ナブア村で少年らが燃やすものは?
“Phantoms of Nabua” 2009 ⓒ Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.

©Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE

『木を丸ごと飲み込んだ男』(A Man Who Ate an Entire Tree)
2010年/9分 
タイの野生林で伐採を始めた男は、やがて、自然のドラッグ作用で自分をコントロールできない状態に......。

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月12日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『世紀の光』評 text佐藤 奈緒子

「名もなき魂の幸せな記憶」


アピチャッポン監督はこれまでも前後半が明確に分かれた映画を撮っているが、この作品で特徴的なのは、舞台が切り替わっても同じことが繰り返される点だ。「同じ」と言っても単純な複製やループとは違い、変わったことと変わらないことが微妙に入り混じった「似て非なる」ことが繰り返される。舞台は時代を遡った田舎から現代の都会へと切り替わり、恋愛の主人公は過去の恋を回想するターイから、現在の恋を楽しむノーンへと切り替わる。年老いた僧侶の場面は構図が逆転し、ジェンおばさんの不自由な足は左右が変わる。このように反転して思える部分があるかと思えば、全く同じに思える部分もあり、またそのどちらとも言えない部分もあるのだ。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

この二部構成は何を意味するのだろう。歌う歯科医が若い僧侶に向かって、死んだ弟の生まれ変わりではないかと言う場面がある。時代を置いて瓜二つの人間が生まれると誰でもそう思いたくなるだろう。だが僧侶は自分の前世は人間ではないとあっさり否定する。同じ容姿に生まれ変わるというのは輪廻転生の趣旨には反するのか。瓜二つのところもあれば、まるで似てないところもあり、時代に応じて変わっていく……。それは「生まれ変わり」というよりももっと確かな連鎖である「遺伝」に近いような気がする。前後半の人物に遺伝的なつながりを感じるだけでなく、映画の前後半そのものの関係にも言える。だからといって同じことを親と子が繰り返すはずもないのだが……。いや、果たしてそうだろうか。太古からの記憶を連綿と受け継いできたのが、長い長い人類の歴史だ。でももし、両親のささやかな、なんでもない記憶さえもDNAに刻まれているとしたら。太陽が降り注ぎ、緑が輝き、見つめ合って笑い転げる。名もない人生における幸せな瞬間が無意識下の記憶となって受け継がれていくこと、それが遺伝というものならば、こんな美しい奇跡はないじゃないか。たびたび映る並んだ窓や長い廊下が「繋がっていくもの」を連想させ、病院という舞台が「遺伝」という妄想を補強する。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

とはいえ、義肢の転がる部屋でチャクラを開くおばさんや、公園の集団エアロビなど、なんなのかさっぱり分からない場面もたくさんある。「記憶」の映画だと監督は明言しているけれど、そろそろ正直に言おう。実はところどころ記憶がない。いや、記憶がないかどうかも定かではない。同じ映画を見た人も似たようなモヤモヤをかかえていたらしいことが救いだ。だが面白いことに、互いに記憶の抜けを埋め合って補完しようとしても、設定や場面を少しずつ違った風に記憶しているために正解が見えてこない。これぞまさに藪の中。この「似て非なる」記憶が重なり合うミステリアスな体験こそが、アピチャッポン作品の醍醐味なのかもしれない。

バナナの葉っぱいいね!度:★★★★★
(text:佐藤奈緒子)



『世紀の光』
原題:แสงศตวรรษ(世紀の光)/英語題:SYNDROMES AND A CENTURY
2006年/タイ、フランス、オーストリア/105分/Dolby SRD|/DCP
字幕:寺尾次郎 字幕協力:吉岡憲彦 

作品解説
『世紀の光』は、1月9日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。また同館にて特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」が同時開催されるほか、監督最新作「光りの墓」が3月より劇場公開される。

出演
ターイ先生:ナンタラット・サワッディクン
ノーン先生:ジャールチャイ・イアムアラーム
ヌム:ソーポン・プーカノック
ジェンおばさん:ジェンチラー・ポンパス
サクダー(僧侶):サックダー・ケァウブアディー

スタッフ
製作・監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:エーカラット・ホームロー
録音:アクリットチャルーム・カンヤーナミット
編集・ポスト・プロダクション監修:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット
挿入曲:「スマイル」カーンティ・アナンタカーン作曲
    「Fez (Men Working)」 NEIL&IRAIZA 
配給:ムヴィオラ

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

公式ホームページ

劇場情報
2016年1月9日:渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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※同時開催 <アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月9日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『世紀の光』評 text高橋 雄太

「光と影」 


光があれば影ができる。影が光に付き従うのではなく、光の入射と同時に影ができる。両者は対等なものとしてある。『世紀の光』が示す複数の世界も、光と影のように対等に存在する。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

本作の前半の舞台は、タイ東北部の古い病院である。屋内は、壁や床の白で覆われ、窓枠や廊下の直線で囲まれている。屋外には緑の田園風景が広がり、風が草木を揺らす。太陽の光が降り注ぎ、光と影の強烈なコントラストが生じる。ランを育てる男性ヌムに恋をした過去を語る女医ターイ、弟の死について語る歯医者など、人々は過去の記憶を抱えている。ヌムによれば、ランは日陰を好み暗闇で発光するという。日光が射し込むことで日陰ができ、人々はランのように日光を避けて日陰に集まる。ここは、光と影が混在し、人工物と自然物、過去と現在が折り重なる世界である。

これに対し、後半の舞台は近代的な病院であり、登場人物は前半と共通している。工場の生産ラインのように、治療台が整然と並ぶ。病院は前半以上に真っ白い壁や床に覆われており、照明の光がその白い表面に反射する。影がほとんど存在しないほどに光が溢れている。後半において、ノーンの恋人は、彼女の未来の職場になるであろう社屋の建設現場の写真をノーンに見せる。その写真には、大地を埋め尽くす巨大な建造物が並んでいる。人々は過去ではなく未来を語り、日陰に集まることもなく人工の光にさらされる。光と人工物に満たされ、過去の記憶の痕跡がない世界である。

女医ターイによるノーンの面接、僧侶の診察など、前後半で共通する部分もあるのだが、セリフや人物の配置にもやはり違いがある。例えば診察のシーンは、前半では僧侶の後頭部からのショット、後半では僧侶の正面からのショットとして描かれる。二つの世界は鏡合わせのように対照をなしているのだ。
先に述べたように、前半には光と影があり、それと呼応するように現在と過去がある。その一方で、後半の病院は光に満たされている。だが、全てが光のもとにあるわけではない。ノーンは薄暗い地下室へと降りていく。ほとんどのシーンで絵画的な美しい構図の画面を撮ってきたカメラが、ドキュメンタリータッチでノーンを追いかける。この場面は、『トロピカル・マラディ』後半の森へ入り込むシーンを思わせる。地下室はアピチャッポン作品に頻出する森=人知を超えた世界であろうか。

地下室では、義足の製造と装着、さらにチャクラを使った怪しげな治療が行われている。旋盤とドリルで製造される義足は、人間が作る人工物である。一方、チャクラは人間に自然に備わっているものらしい。しかし医師たちはチャクラの位置すら把握していない。光に満ちた近代的な病院にも、人間の目では捉えることのできないもの、光の届かないものが存在しているようだ。

前半の日光、後半の人工照明に加え、もう一つ強烈な光が存在している。映画館の映写機からスクリーンに投影される光だ。我々は、光の生み出す映像を目にすることはできるが、スクリーンの裏側にできる影は見ることができない。しかし本作には、裏側の世界を示唆する場面がある。

病院の地下室において、ダクトが煙を吸い込んでいる。クローズアップされたダクトの口は、我々まで飲み込んでしまいそうなほどに黒い。スクリーンに開いた黒い穴、文字通りのブラックホール。ブラックホールに生じる事象の地平面が認識の限界であるように、我々はダクトの向こう側を、スクリーンの裏側を見ることはできない。だが、穴が開いているということは、その奥が存在することに他ならない。見ることはできなくとも、裏側の世界は存在しているようだ。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

映像を受け止めるスクリーンの裏側を意識させることは、映像が全てではないこと、目に見えるものだけが全てではないことを意味しているのではないか。『トロピカル・マラディ』(2004)などに登場する森、本作における過去の記憶と地下室、スクリーンの裏側……我々の理解が及ばない世界。医師ターイと僧侶とが互いに診察し合っていたように、複数の世界に優劣・主従といった関係はないのかもしれない。光があれば影ができることと同じく、一つの世界があれば、ブラックホールでつながった別の世界も存在する。アピチャッポンの映画を観れば、その存在を感じることができる。

光に目がくらむ度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

関連記事:アピチャッポン特集





『世紀の光』
原題:แสงศตวรรษ(世紀の光)/英語題:SYNDROMES AND A CENTURY
2006年/タイ、フランス、オーストリア/105分/Dolby SRD|/DCP
字幕:寺尾次郎 字幕協力:吉岡憲彦 

作品解説
『世紀の光』は、1月9日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。また同館にて特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」が同時開催されるほか、監督最新作「光りの墓」が3月より劇場公開される。

出演
ターイ先生:ナンタラット・サワッディクン
ノーン先生:ジャールチャイ・イアムアラーム
ヌム:ソーポン・プーカノック
ジェンおばさん:ジェンチラー・ポンパス
サクダー(僧侶):サックダー・ケァウブアディー

スタッフ
製作・監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:エーカラット・ホームロー
録音:アクリットチャルーム・カンヤーナミット
編集・ポスト・プロダクション監修:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット
挿入曲:「スマイル」カーンティ・アナンタカーン作曲
    「Fez (Men Working)」 NEIL&IRAIZA 
配給:ムヴィオラ

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

公式ホームページ

劇場情報
2016年1月9日:渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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※同時開催 <アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月5日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text奥平 詩野

「真昼の不思議な物体」


あまりにもきつい明暗のコントラストに眩しくなった目は、光景を光と闇、白いものと黒いものに二分し、その二つのもののうごめきが互いに寄り添いつつ反発しながらそれ自体がひとつの生命体の動きであるかのように息づき、そしてその動きが更に言葉の物語と寄り添いつつ反発するかたちで、またあるひとつの言葉無き物語を語っている。それは丁度、本作が物語の作られてゆくのを撮ると同時に作られる物語を撮るがために、まるで今私が撮っているかのように感じられるまでに観る事それ自体の行為の自由や生命力が強調され続ける本編の内容全体が与えるショックと通じている。観る者は物の自由の中で、物は観る者の自由の中であてもない散歩をしている。

空想が立ち現れるのはどこかと言うと、今でしかない。空想シーンと語りのシーンの場所や時代が違うからと言ってそれらが分かたれた次元のものであるのでは決して無い。魚売りの車のスピーカーや村の自然音は空想シーンでも途切れず、その事は今話している状況から空想が逃れ出ているのを表現していると言うよりはむしろ、逆にその生活音のリアリティが空想シーンの二色しかない画面の後ろで鳴り続けている事で、その平坦さに奥行きを与え、ある種の開かれた場を示唆し、空想も依然その場所における出来事なのだと感じさせている。劇団員は物語を話す代わりに、そしてそれを後に他者が演じる代わりに、自分達で演じて見せてしまうし、空想を再現する劇の中で役を得ていた人々さえも結局演技をしていないところを撮られている。

そういった場で私達が観ているのは物語だろうか、それともただの偶然の出来事だろうか、あるいは複雑にそれらが入り組んだ作為と偶然の混合物だろうか。私はどの質問も否定で返す事は出来ないが、しかし私が一番に観せられたものは、現実の時間、現実の場所に無限にある事物の持つ、もしくはそれらに私達が与える、物語性や物語の可能性である。それが誰々のこんな空想だというラベルを張れないからと言って無視できるものも、反対にこれは誰々の空想だといってそれ故に完全に意味を硬直させているものも、何一つこの映画には映っていない。もちろんある人が語る物語にはその人と分かちがたい個人性があるのだが、丁度手話で話す女子学生の空想と話している手の動作を一つの音楽で統合してしまうように、物語の性質(メロドラマ的だとか)と個人(劇団員だとか)を結びつけ、その関連性に新たなドラマ性を感じる観る側の能動的な物語制作意欲も、常に映画の音と映像の上に目を光らせているのを感じるだろう。この場合は劇団員だから「せいぜい楽しむがいいわ、覚えてらっしゃい」といったような演劇的なセリフと展開が生まれたのだなと想像させ、その物語が観客を喜ばせるだろうが、観客はいつも筋の通った言語的な物語ばかりを発見できるわけではない。


©Kick the Machine Films

インタヴューされる人と、その人とを取り巻くインタビューされている状況は、彼らが何かを語るという目的のためにある沈黙した場であるのでは無く、木々や動物や学校の騒めきや羊の群れのようにモコモコした子供の群れの動きそれ自体が、私達に何かを語らせる為に存在しているようなのである。二色のヤギが藪を切り開いて現れたかのようにスクリーンを裂いて現れた時、そのヤギに対する視覚が、ヤギのイメージを急速に捉え、未だいかなる意味も受肉していないヤギそのもののあまりにも透明でそれ故に私達を際限無く期待させる物語の可能性を捉えるのだ。そして空想も依然それと同じ場にあり、だから空想内の出来事や物事も誰かに語られたものであると同時に、多分それ以上に私に何かを語らせようと一瞬一瞬動いているのである。先生を二人の子供が布製の衣装ケースに詰めようとしているシーンは、想像される心境としては、急に死んだ先生を取り敢えず見えない所に隠してしまおうと試みながら、大人の女性の重さに手間取る動転か焦りなのかも知れない。しかし、実際観られる映像はもっと思考的ではない原初的な事の成り行きと、シンプルだからこそ鮮明でエグくさえある印象を与えている。布ごしに黒いぶよぶよしたものの力ない重量感がもたれかけてきたり押し込まれたり時々布の裂け目から飛び出して来たりする気味の悪いイメージそのものが語られているのである。

その言葉無き物語においては、それが私以外の対象から私に向かって語られているのか、それとも私が自分の内で語っているものなのか、もはや定かではない。一瞬一瞬の時間の中に、選びようも無く常に目の前にある物事から何かを紡ぎ出そうとする視線の活動を、普段多くの場合私が映画の言語的物語が指示する視線に同化して任せてしまいがちなその活動を、観客に自分のものとしてありありと意識させる本作は、そうした意識によって逆説的にも明かされる全ての対象物の私からの自由さと、私の全ての対象物からの自由さに気づかせ、だからこそ目前で私の精神活動を占めている映画と私との結びつきを切らない為にほとんど神経質に私が行っている一秒も途切れないような努力を明かしてしまうのである。そしてその努力とは言葉無き物語を発見し続けなくてはならないという、いわばイメージに対する異常な執着なのではないだろうか。

子供は呆気なく「主人公は死にました。」と言ってしまうがやはりそこには悲しげな避難の声があがる。「死んじゃうの?」と不安に駆られて訊く級友のその不安こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。そしてやはり主人公は死なない事になり物語は続くのである。続くと言うよりも、続く可能性を残すのである。最後の虎の話も同じで、魔法の虎はその滅亡によって物語を閉じる事を思い直し、森へ消え去る事で物語の可能性を残す。その可能性が私達の眼差しを強く鋭くスクリーンへ向けさせているのだ。子供達が車のおもちゃを犬の首を括りつけて遊ぶシーンで本作は終わるのだが、犬が困惑しながら走る運動に添って車が転がり跳ねながら引かれているそのままのイメージが子供に歓喜の声を上げさせる。その歓喜こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。


(text:奥平詩野)


『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon

2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン



配給:ムヴィオラ

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「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text高橋 雄太

越境

内と外、都市と自然、虚構と現実……多くの境界を越えていく作品である。

映画は突然始まる。ファーストシーンは病院。中年の女性オーンと若い女性ルンに連れられて、ミンという男性が医師の診察を受けている。次の舞台はルンの働く工場。オーンは白いクリームと野菜とを混ぜ合わせ、タッパーに入れている。その後、ルンとミンは自動車で街を離れて森林へピクニックに向かう。上映開始から30分程が過ぎたこのシーンで、音楽にのってようやくオープニングタイトルが現れる。
前半の病院や工場は、白と直線が目立つ無機質な人工的世界である。後半では、曲がりくねった木、葉の緑と果実の赤、木漏れ日、流れる水の支配する森林が舞台になる。このように本作は、2パート形式の映画であり、都市から森へと入っていく映画とも言える。前後半の変わり目となる道路は、木に囲まれており、都市と森をつなぐトンネルのように見える。

「越境」のテーマは、本作の随所に見られる。
冒頭の病院のシーン。ミンは医師の指示に従い深呼吸をし、身体の内側に空気を吸い込み、外へ吐き出す。また、医師は彼の喉と皮膚を診察する。さらにオーンが作る奇妙なクリーム。オーンの夫らしき男性が一口食べているのだから、食べ物かもしれない。だがミンの肌に塗っていることから、ボディクリームと野菜を混ぜたものにも思える。そしてミン自身、ミャンマーからの不法入国者らしい。国境を越えてきた男ミン。その身体の内外を、空気、診察、クリームがめぐる。また、ミンはシンガポールで働きたいと述べるなど、さらなる「越境」を考えているようだ。

森の中に入ると、なぜかミンは服を脱いで下着一枚になり、露出した身体から皮がポロポロと剥がれ落ちる。身体が服という境界を越え、さらに新しい皮膚が内から外へ越境していく。森への移動中、ルンはクリームでドロドロの手でシフトレバーを握る。終盤の森の中、彼女はミンの男性器に触れる。シフトレバーと男性器、白いクリームと精液との対応。そしてミンの「脱皮」。まるでミンが森と川の中で洗い流され、生まれ変わるようにも思える。だが、彼は何に生まれ変わるのか。その答えは示されない。 


©Kick the Machine Films

越境、その先に何が待つかわからない。だが、越境という行為それ自体が重要なのではないか。その証拠に、観客である私たちにも越境が促されているように思える。木漏れ日の射す森の中、水の流れる音を聞きながら、ルンはミンの横で寝入る。タイトルの「ブリスフリー」が示す通り、自然に囲まれた至福のとき。長回しの映像にはセリフもほとんどなく、何らのドラマもアクションも起きない。観ているこちらも眠気を誘われる。観客も巻き込んで、意識から無意識への越境を意図しているようである。
さらに最終盤、登場人物三人の現実が伝えられる。ここに至って、映画と現実との境界も
越えられ、今まで観たものがフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからなくなる。

この宙ぶらりんの状態に来たところで詮索はやめようと思う。本作とともに虚構と現実、都市と自然など、様々な境界を越えてきたのだ。言葉で定義することで、意味の境界を定めてしまう必要などない。意味づけしてしまうのではなく、謎を謎として残し、それについて考えるべきだろう。前半のミンも言葉を発さなかったではないか。沈黙の越境者ミンのように、境界を定めるよりも「越境」を続けるべきだろう。

ピクニックに行きたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム