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2015年10月18日日曜日

映画『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』text井河澤 智子

「親密な、しかし少し恥ずかしげな」


乱雑に散らかった部屋に、そのおじいちゃんは背中を丸めて座る。

口を開くと、ぼそぼそ人を煙に巻くような言葉を漏らす。少し照れくさそうでもある。 

誰が彼を、かつて華やかなファッションフォトの最前線で活躍した写真家だと思うだろうか。
ソール・ライター。 

1940年代から、濃密な色彩でニューヨークの街角を撮影したカラー写真の先駆者。 

「ライフ」誌や「ハーパーズ バザー」「ヴォーグ」誌など、フォトジャーナリズム誌から有名ファッション誌のグラビアまで、幅広く活躍した写真家。

同時期に、ユージン・スミス、リチャード・アヴェドン、ダイアン・アーバス、ジャンルー・シーフなど錚々たる面子が集っていた、ニューヨークの写真界。彼もその一員だった。

60年もの間この倉庫のような部屋に暮らしている、自らを「大した存在じゃない」と言い切るこのおじいちゃんが?

この映画は、そんな彼、ソール・ライターの、どこか口ごもるような、しかし別に他人を拒絶するところのないような、ぽつりぽつりと語る諸々を、「おじいちゃんの知恵袋が13個」というようなやわらかな感覚で描く。字幕翻訳は米文学研究者・翻訳家の柴田元幸氏による。やわらかな印象はこの字幕によるところも大きい。音楽も温かな、親密な雰囲気で、観る者を引き込む。 

LUMIX。日本のご家庭でもおなじみのこのカメラ。おじいちゃんがこの薄い紫のデジカメを弄びながらぼそぼそと喋る場面もある。(機材にこだわりはないのか?) 

おじいちゃんはそんな普通のデジカメをぶらさげて、ご近所の人たちをふらりふらりと撮って歩く。ご近所のみんなはごく普通の顔でファインダーに収まる。いや、デジカメだから、液晶画面に収まる、と言うほうが適切か。一見、写真好きのご隠居、といった風情で、おじいちゃんは人々の間にごく普通に溶け込んでいる。 

そんなおじいちゃんの若き日の作品の数々が映画の中に写し出される。

50年代のニューヨークの街角。写っているのは街の普通の人々の日常である。それは(知らずに被写体となっているであろう彼らにとって)生活であり、労働である。しかし、色彩は美しく鮮やかで、構図はすこぶる大胆である。一度見たら忘れられない、ストリートスナップの芸術である。

この美しい写真の数々が日の目を見ることになったのは、映画『世界一美しい本を作る男 ~シュタイデルとの旅~』(2010)により、その本づくりへのこだわりが映画ファンにも知れ渡ったドイツ・シュタイデル社から、2006年、写真集『Early Color』が発行されたことによる。40年代からの長いキャリアを持つというのに、これが初の写真集である。その後、2008年にはアンリ・カルティエ・ブレッソン財団で個展が開催されるが、これもまた初の個展だという。念を押すようだが、彼は著名な写真家である。

「忘れられたいと 思ってたのに
 重要でなくあろうと願った 
 それが……まあ仕方ない」 

しかし、(意に反してかもしれないが)彼は「再発見」された。 

「人生で大切なことは、何を手に入れるかじゃない。何を捨てるかということだ」こう語る彼が住む部屋は、彼が捨てられずにいる(あるいは、捨てずにいる)物の数々に溢れている。それらひとつひとつが、彼の歴史だ。その物語にはずっしりと重いものもあったが、その歴史に埋もれるように、慈しむように、彼は暮らしている。片づけなければ、と言いながら片づけられずにあるそれらは、彼、ソール・ライターが、とても愛情深い人間であることを表しているようである。

その愛情(すなわち、捨てなかった個人的なフィルム)が、時を超え、一冊の美しい作品集へと結実したのだ。捨てないでいてくれてありがとうございます、と感謝の言葉を述べたい。

この映画には、主にソール・ライターが個人的に撮影した写真が取り上げられている。では、ファッション写真家としての彼はどんな写真を撮っていたのか。50年代の「ハーパーズ バザー」誌を探してみた。幸い、何部か彼の写真が掲載されたものが見つかった。

被写体とフレームの間になにか遮蔽物があり、被写体の一部が隠れているものが多い。また、その遮蔽物のせいか、被写体がカメラに視線を送っていない写真もある。 


時を経てくすんだ写真ではあるが、想像させる往時の色彩、また、被写体とカメラの間に漂う、親密なような、同時にどこか恥ずかしげな距離感に、あぁ、ソール・ライターの写真なんだ、と、ふと感じさせられた。

街のご隠居は実は凄いのだ度:★★★★★
(text:井河澤 智子)






『写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと』
原題:In No Great Hurry: 13 Lessons in Life with Saul Leiter
2012年/イギリス・アメリカ合作/75分/カラー/日本語字幕:柴田元幸

作品解説
2006年に写真集で定評のあるドイツのシュタイデル社から初の作品集が出版され話題を集めたライターは、1940年代からニューヨークを撮影したカラー写真の先駆者で、一流ファッション誌の表紙を手がけていた。しかし、80年代からあえて名声から距離を置き、表舞台から消えていった。本作はそんな写真家の晩年に、英国人の監督トーマス・リーチ監督が密着した作品である。

スタッフ
監督・撮影:トーマス・リーチ
編集:ジョニー・レイナー、ケイト・ベアード、トーマス・リーチ
音楽:マーク・ラスティマイアー
製作:マーギット・アーブ、トーマス・リーチ
協力:Saul Leiter Foundation / Howard Greenberg Gallery 
イラスト:Ritsuko Hirai
配給協力・宣伝:プレイタイム
配給:テレビマンユニオン
公式ホームページ

劇場情報
11月下旬、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開!

2015年9月7日月曜日

映画『チャルラータ』試写text佐藤 奈緒子

※文章の一部で結末に触れている箇所があります。

「美しい刺繍のような映画」


サタジット・レイ監督作は『大地のうた』(1955年)しか観たことがなかった。本作も『ダージリン急行』(2007年)の特典映像でウェス・アンダーソン監督が「大好きな『チャルラータ』(1964年)の音楽をふんだんに使用した」と語っていたことで、題名だけが頭に残っていたぐらいだ。なので始まってすぐに聞こえてきた音楽に郷愁が押し寄せてきたのも無理はないだろう。しかしそれはオリジナルよりも先にオマージュと出会ってしまった逆回転の懐かしさだけではなく、50年前に作られた美しい旋律から、“失われた時代”、“二度と取り戻せない時間”を感じ取って胸が締めつけられたからのような気もする。

冒頭、白いハンカチの隅に丹念にイニシャルを刺繍していく手元から物語は始まる。若く美しい妻チャルラータ(マドビ・ムカージー)が夫ブパチ(ショイレン・ムカージー)のために針仕事をするこの長いワンショットで既に、この夫婦関係の一端が窺い知れる。19世紀後半のカルカッタ、夫は新聞社の社長兼編集長、インドの独立を夢見て奔走する忙しい日々だ。一方、子供もおらず家事労働も使用人任せにできるチャルラータは、刺繍や読書で時間を埋める寂しい毎日を送っていた。そんな折、夫の従弟アマル(ショウミットロ・チャタージ)が休暇で訪ねてくる。年の離れた夫と違い、同年代で同じく文学を愛する彼にチャルラータは徐々に惹かれていく。次第にアマルも彼女の思いを感じ取るが、チャルラータの兄が新聞社の金を持ち逃げしたことで、二人の淡い恋は唐突に終わりを迎える……。

チャルラータは有閑マダムだ。贅沢な家で退屈しながら、物売りの声が聞こえると広い屋敷の中の窓から窓へ移動してオペラグラスで外の通りをのぞく。その寂しくも可憐な姿は、劇中何度も登場する“カゴの鳥”そのもの。彼女が思いをよせるアマルは、詩や文学を愛し、歌ったり踊ったり、とにかく周りを明るくする魅力的な若者だ。嵐と共に登場し嵐と共に退場する、まさに“嵐を呼ぶ男”と言える。舞台は女性が芸術的才能を発揮することも自由に恋愛することもままならなかったイギリス統治下のインド。ここで描かれるチャルラータの悲哀は、世界中のあらゆる地域、あらゆる時代で起こった無数の女性の悲しみにも通じる。しかし彼女はただ淡い恋心に翻弄される女性ではなく、文学の才能と激しい情熱を秘めていた。アマルの文章が雑誌に掲載されたのを知ると、負けじと格上の雑誌に投稿して掲載を勝ち取ったりする。この時のチャルラータの黒く大きな瞳には以前にはなかった、燃えるような闘志がみなぎっている。いつしか彼女は、小さなカゴには収まりきらない、強い意志と自我を持つ大人の女性に成長していたのだ。

貧農の少年を描いた『大地のうた』の民話のようなイメージで見始めたせいだろうか。可愛らしいメロドラマである本作に、初めは少し戸惑った。しかもカメラワークがなんだか楽しい。たとえばチャルラータがアマルの言動にハッとする瞬間に多用されるズーム。それはまるで少女漫画の「ドキン!」という擬態語だ。庭のブランコでチャルラータが歌う美しい場面でも、ブランコに固定されたカメラがめまぐるしく動く木々を、視界に入っては消えるアマルの寝顔を、まるで揺れに揺れる乙女心そのままに映し出す。みずみずしい彼女の感性が画面からこぼれ落ちるかのようだ。

ラストシーンは特に印象深い。チャルラータの思いを知ってしまった夫が失意の中、帰宅する。戸口で待つ妻は彼を招き入れ、見つめ合う二人が手を取り合うかに見えたその瞬間、突然画面が静止するのだ。チャルラータ、夫、そして廊下の奥にいる使用人の老人、それぞれのアップのあと、三人のショットでこの映画は終わる。老人の持つランプの光が今後の二人の明るい未来を暗示しているのだろうか。しかし、二度と動くことのない静止した画面からは“二度と取り戻せない時間”を感じずにはいられない。それはレイ監督が手がけた美しい旋律がもたらす郷愁にも通じる。どんな道をたどるにせよ、この夫婦が元の二人に戻ることは決してない。さらに言うと、唐突な使用人の登場は私に別の印象を残した。裕福に暮らす主人公たちは恵まれた階級であり、彼らのすぐそばには意見を言うことも持つことも許されない階級の人々がいる。突如広げられた視野によって、この夫婦の危機もまた上流階級というカゴの中の出来事でしかないように思われてくる。後世の観客である自分が感じることが監督の意図どおりとは限らない。実はまったく意味などないのかもしれない。それでも、この謎めいたラストはあらゆる解釈を可能にし、観る者の心を惹きつけてやまない。

顔の識別に苦戦度:★★★★☆



『チャルラータ』

1964年/インド/119分/B&W/ベンガル語/DCPリマスター
★ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞(1965年)

ストーリー

1880年、インド・カルカッタ。若く美しい妻チャルラータは、新聞社の代表兼社長であるブパチを夫にもち、何ひとつ不自由ない生活を送っていた。しかし、夫は年中多忙で、ほとんど妻とともに過ごそうとしない。そんな中、大学の休暇で夫の従弟であるアマルが訪ねて来る。快活な性格で、詩吟を楽しみ、文学に詳しいアマルの出現は、次第にチャルラータの退屈な日常を彩っていく…。 

出演

マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージ、ほか

スタッフ

原題:CHARULATA
原作:ラビンドラナート・タゴール
監督・脚色・音楽:サタジット・レイ
撮影:シュブラト・ミットロ
美術:ボンシ・チャンドログプタ
出演:マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージほか
配給:ノーム、サンリス
配給協力・宣伝:プレイタイム


公式ホームページ:http://www.season-ray.com/

劇場情報:9月12日よりシアター・イメージフォーラム、ほか全国順次公開

2015年9月3日木曜日

映画『チャルラータ』試写 text井河澤 智子

※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

「奥様の成長物語」


 インドの名監督、サタジット・レイが、自らの最高傑作であると言った『チャルラータ』。
 具体的に全てを語る映画ではない。互いに交わす会話、独りになったときの表情、それらから物語を読み取るしかない。観る者によって、異なる表情を見せる映画であろう。


 19世紀末カルカッタ。
 新聞社の社長として多忙な夫ブパチとその妻チャルラータ。夫は政治ジャーナリズムに没頭し、妻は読書や刺繍などをして、何不自由なく日々を過ごしていた。
 ある日、夫の従弟アマルが訪ねてくる。ブパチは、文学に詳しいアマルにチャルラータの相手を頼み、そして妻の隠れた文才を引き出してくれるよう頼むのであった。アマルはあの手この手でチャルラータに文学的な駆け引きを仕掛ける。
 チャルラータは自らの複雑な感情を持て余しているようである。多忙な夫ブパチはほとんど彼女の相手をしてくれない。代わりに相手をしてくれるアマルには、夫には見せないような楽しそうな姿を見せるが、アマルの書いた小説が雑誌に掲載されたとなると、なぜかどこか悔しそうに涙を流す。そして自らも秘かに小説を書き上げ、雑誌に投稿する。彼女の作品は見事に掲載され、作家への道も開けたかに思えた。
 アマルはカルカッタ滞在中に条件のよい縁談を持ちかけられるが、はぐらかし続ける。しかし、チャルラータの作品が認められると、彼女の文才が今後も生かされることを願いつつ、ひっそり夫婦のもとを去る。チャルラータはなぜかひどく嘆き悲しむ。アマルは縁談を受けたのか、受けなかったのか。
 ブパチの新聞社が経営の危機に陥った時、彼女はそれまでの彼女とは違う、決意に満ちた表情を見せる。彼女にどんな心境の変化があったのか。


    チャルラータは当初どうもはっきりしない、ただ退屈そうな人妻として現れる。屋敷には人もいて孤独ではない。なにより、多忙ながら妻の才能を認め、育もうとする夫がいる。なぜこんなに退屈そうで、そして不満そうなのだろう。
 つまりこういうことではないのか。
 当初チャルラータは自分の意思らしい意思を持っていなかった。ただ寂しく、しかしそれを解決する術を知らなかった。
 ブパチは、インドが英国の支配下に入り、急激に西洋の思想が流入してきた時代の知識人であり、従来の価値観から一歩踏み出した考えを持っていたと推測できる。おそらくその考えは、「夫婦とはどのようなものか」ということにまで影響を与えていたであろう。ブパチはチャルラータを、自分の妻である前に一人の人間と認め、だからこそ彼女の才能を存分に花開かせたいと願った。
 また、アマルは従兄ブパチに認められる教養があり、そして将来を考える猶予期間を楽しむような軽やかさがあった。年若い彼の前には選択肢はいくつもあり、どれを選んでも前途は洋々と思われる。


 チャルラータにとって、アマルの軽やかさは新鮮なものであり、彼と過ごす時間はブパチと過ごすそれとは違うものだったのだろう。人によってはそこに芽生えた感情を「恋」と呼ぶかもしれない。
 が、チャルラータの心の動きは、「恋」と一言で言うより「異なるものを知ったが故の葛藤」であると、捉えることはできないだろうか。
 おそらくアマルがいなければ、チャルラータは葛藤を知らず、ただ寂しいだけであっただろう。アマルのおかげで、満たされない想いや、他人の才能への嫉妬を知り、自らを試し、夫を裏切るような感情を覚え、そしてそれらの葛藤の結果、「自らの才能をもって夫に尽くす」良き妻であることを選んだ、と言えるのではないだろうか。勿論、ひょっとしたら夫を裏切る選択もありえたかもしれない。しかし彼女はそうしなかった。それは、チャルラータ本人の選択である。
 ここで筆者は幾度か「選ぶ」「決める」、あるいはそれに類する言葉を用いていることに気付いた。人がなにかを選択し、決定することは、「どれかを選ぶべき対象」があることに気付かなければ出来ない。選択するとき、そこに葛藤が生まれる。そのうえでなにかを決定するというプロセスは、実は非常に高度な心の働きであり、「それによって人は意思を持つ」あるいはもっと簡単に「成長する」と言うことができるのではないか。
 この『チャルラータ』に描かれているのは、インドにおいて女性のあり方が大きく変わろうとする時代の情景である。しかし、チャルラータの心の動き、そして成長の過程は実は時代や国、あるいは男女の隔てなく普遍的なものではないだろうか。たとえ彼女の決定が「夫を支える妻となる」という、伝統的な価値観に基づいたものであっても、一人の人間が意思を持ち成長する物語であるという点で、この映画は非常に普遍的なテーマを描いていると感じられるのである。

深読み度:★★★★☆
(text:井河澤 智子)

関連レビュー:
映画『チャルラータ』試写text 大久保 渉



『チャルラータ』

1964年/インド/119分/B&W/ベンガル語/DCPリマスター
★ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞(1965年)

ストーリー

1880年、インド・カルカッタ。若く美しい妻チャルラータは、新聞社の代表兼社長であるブパチを夫にもち、何ひとつ不自由ない生活を送っていた。しかし、夫は年中多忙で、ほとんど妻とともに過ごそうとしない。そんな中、大学の休暇で夫の従弟であるアマルが訪ねて来る。快活な性格で、詩吟を楽しみ、文学に詳しいアマルの出現は、次第にチャルラータの退屈な日常を彩っていく…。 

出演

マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージ、ほか

スタッフ

原題:CHARULATA
原作:ラビンドラナート・タゴール
監督・脚色・音楽:サタジット・レイ
撮影:シュブラト・ミットロ
美術:ボンシ・チャンドログプタ
出演:マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージほか
配給:ノーム、サンリス
配給協力・宣伝:プレイタイム


公式ホームページ:http://www.season-ray.com/

劇場情報:9月12日よりシアター・イメージフォーラム、ほか全国順次公開

2015年9月2日水曜日

映画『チャルラータ』試写text 大久保 渉

「心の奥底にふっと迫ってくる」


画面に映ったすべての瞳の奥底に、ことばにできない想いが込められていた。

憂いを帯びた瞳には、ことばにできない哀しみが。活気に満ちた瞳には、ことばにできない喜びが。鋭く光った瞳には、ことばにできない憤りが。一言で言いあらわすことができない感情の数々。想いをただひたすら瞳で訴えかけてくる登場人物たち。それは舞台となったイギリス植民地時代末期のインドという、自身の気持ちを軽々しく口にすることが憚られた慣習が関係していたことではあるのだろうけれども、ただそれ以上に、今この瞬間の気持ちが何なのか、この感情をどのようにしてことばにすることができるのか、溢れる想いが口から出てこない、そんな誰しも抱えたことのある感情の高ぶりが繊細な構図と詩的な映像によって表現されていたところに、私は心打たれてしまった。



「愛している」「ありがとう」「ごめんなさい」、そうしたことばだけでは伝えきれない想いがある。あるいは、そんな一言さえも口にすることができない瞬間がある。そんなときに、お互いが通じ合うためにはどうしたらいいのか。その答えの一片が、今作の中で描かれていた。

仕事で忙しい夫と徒然なるその妻。そしてそこにやってきた、奔放な性格をした夫の従弟。お互いがお互いを見やり、あるいは目をそらしながら日々を過ごしていく。妻と従弟、ふたりの間に生まれた気持ちは友情なのか、愛なのか。そんなふたりを見つめる夫に生じた感情は、果たして嫉妬なのか、無関心なのか。彼らがその時々に何を思っていたのか。カメラは台詞を拾うのではなく、彼らの日常的な振舞いを、表情を、その瞳をただじっくりと映していく。

そして、映画の最後に、画面に映し出された男と女が、お互いに近づきあって手をとりあい、想いを通わせるようにたたずんでいる姿を見ては、ことばにできない感動を覚えた。映画が心の奥底にふっと迫ってきて、思わず涙が溢れ出てしまったのである。

ことばにできない感動!度:★★★★★
(text:大久保 渉)




『チャルラータ』

1964年/インド/119分/B&W/ベンガル語/DCPリマスター
★ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞(1965年)

ストーリー

1880年、インド・カルカッタ。若く美しい妻チャルラータは、新聞社の代表兼社長であるブパチを夫にもち、何ひとつ不自由ない生活を送っていた。しかし、夫は年中多忙で、ほとんど妻とともに過ごそうとしない。そんな中、大学の休暇で夫の従弟であるアマルが訪ねて来る。快活な性格で、詩吟を楽しみ、文学に詳しいアマルの出現は、次第にチャルラータの退屈な日常を彩っていく…。

出演

マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージ、ほか

スタッフ

原題:CHARULATA
原作:ラビンドラナート・タゴール
監督・脚色・音楽:サタジット・レイ
撮影:シュブラト・ミットロ
美術:ボンシ・チャンドログプタ
出演:マドビ・ムカージー、ショウミットロ・チャタージほか
配給:ノーム、サンリス
配給協力・宣伝:プレイタイム


公式ホームページ:http://www.season-ray.com/

劇場情報:9月12日よりシアター・イメージフォーラム、ほか全国順次公開

【執筆者情報】

大久保渉(Wataru Okubo)

ライター・編集者・映画宣伝。フリーで色々。執筆・編集「映画芸術」「ことばの映画館」「neoneo」「FILMAGA」ほか。東京ろう映画祭スタッフほか。邦画とインド映画を応援中。でも米も仏も何でも好き。BLANKEY JET CITYの『水色』が好き。桃と味噌汁が好き。

2015年8月15日土曜日

映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』text落合 尚之



『未来をなぞる』―― この詩的で想像力に富んだタイトルが全てを語っていると思います。未来は未だ来らざるもの。その到来が予想されながら眼前に見ることは叶わず、望んだような形で現れるとも限らない。多くの場合、希望と同義のように語られるが、そこに勿論不安というニュアンスを嗅ぎ取ることもできるでしょう。今いるこの場所からは見ることも触れることもできないものを、暗闇で手探りするように、砂場に埋もれた小さな欠片を探り当てようとするように、わずかな手がかりを、微かな感触を求めて指を這わせる。その輪郭を心に描こうとする。この映画に収められているのは、そのような気が遠くなる作業に根気強く取り組む、一人の芸術家の姿です。

 写真家・畠山直哉氏は岩手県・陸前高田市出身。都市と自然の関係などをテーマにした作品群で世界的に評価の高い芸術家です。しかし2011年3月の東日本大震災で故郷の実家と母を失ったことが、彼の創作活動に転機をもたらします。この映画は、2012年3月から2014年4月までの2年間、津波にさらわれた故郷の写真を撮り続ける畠山氏の姿を追ったドキュメンタリー作品です。


 映像中に都度差し挟まれる畠山氏へのインタビュー。一言一言慎重に言葉を選び、最も適切な表現を正確に探り当てようとするかのような氏の語り口が印象に残ります。そこから伝わって来るのは、彼が作品を作る時、あるいは芸術家として生きる上で、何か確たる思想なり哲学といったものを常に心に置いていて、自分の創作がその哲学に忠実であるかを常に自分に問い続けているのだろうということです。彼が震災以前に行なった数々の講演が本にまとめられ出版されていますが(*)、それによれば畠山氏は自らを「写真術は自然科学が生んだ技法である、と信じる者」だと言っています。そして「科学者が『世界をもっと知りたい』と思うのと同じような気持ちで」写真を撮っているとも。映画の中でも一部紹介されますが、彼が長いキャリアを通じて取り組んで来た様々な題材、石灰石鉱山やそこで行なわれる爆破作業の様子、大都市の俯瞰図や街中を流れる川などの写真には、情緒を排した非常に透徹した視線が見て取れます。世間一般に流布している「写真には心が写る」といった言説に対して、氏はナイーブに過ぎると苦言を呈します。「写真に心は写らない。心の動く方向を指し示す何かが写っているだけだ」と。

 一方畠山氏は、作品として発表するつもりのないごくパーソナルな写真を撮りためていました。故郷の陸前高田市の風物とそこに暮らす人々を写したスナップ写真。これらは本来作品と呼べるようなものではなかったと語る氏の言葉から察するに、これらの写真を撮った時の彼は、作家として作品を作る時のようには、コンセプトを突き詰めたり、自分を追い込んだりはしていなかったのだろうと思われます。それでもやはりプロの技術と美意識が介在しているため、どの写真も大変美しいのですが。そしてそれらは、科学者的な視点で撮ったクールな作品群に比べて、ずっと親密で情緒的な表現になっているように思えます。その中の一枚、畠山氏のお母さんが川辺の道で、川面に向けたカメラのファインダーを覗いている姿を捉えた写真には、特に見る人の心を打つ何かがあるような気がします。画面の中央に横を向いて立っている老母の半身。撮影者はその姿を少し距離を置いた立ち位置から捉えている。ピントは母の姿にだけ合っていて、母までの距離も、その向こうの遠景も、かすかに輪郭を甘くして小さな母の姿を包み込んでいる。この写真に被写体である母への思慕や追憶が写っている、つまり作者の心が写っていると我々素人が単純に思い込んでしまったとしても、無理はないように思えます。

 しかし、今それを見る我々がそこに何らかの情緒を見出してしまうのは、そこに写っている街や人がその後どうなってしまったかを知っているからなのかもしれません。地震が引き起こした津波によって、そこに写っていた何もかもが押し流され、失われてしまったことを我々は知っているからです。津波はこれらの写真の意味を全く別のものに変えてしまった。畠山氏の私的なコレクションに過ぎなかった一連の写真が、かつてそこに存在し、しかし一瞬にして歴史の外に奪い去られてしまった街と人々の、他に替えようのない重要な記録物になった。作家が本来意図しなかった意味が外部の出来事によって付け加えられ、同じ写真の見え方が全く変わってしまう。勿論そういった変質は大なり小なり日常的にも起こり得ることではありますが、このように劇的な形でそれが突きつけられることは、恐ろしく稀な事態だと言っていいでしょう。作品が作者を裏切るように、ふいに思いがけない相貌を帯びる。そんなことがあり得るのなら、作品にとって作者とは何なのか?また作家が作品を作るとはどういうことなのか?

 常に理性的な態度で主体として写真と関わって来た畠山氏にとって、このように自分の与り知らぬところで作品の価値が変質し、作者としての主体性を奪われるような事態は、作家としての思想・哲学を揺さぶられる出来事だったのではないでしょうか。震災以降、畠山氏は、それまで長年取り組んで来た都市と自然をテーマとする一連の仕事を中断し、失われた故郷のその後の姿を写真に収めるという作業に取り組んでいきます。それは決して単なる復興の記録などというものではないでしょう。失われた人と生活の面影をファインダー越しに探しながら、変わり果てた故郷の姿を見つめ、フィルムに定着させること。それは震災をきっかけに見知らぬ貌を顕した写真という表現形式と自分との関係を測り直し、再構築し、再び自分の掌中に取り戻すための手探りの試みでもあったのではないか。寡黙な探索者のように荒れ地を歩き、写真を撮り続ける畠山氏の姿から、あるいはきかん気の子供のようにいつも何か納得がいかないと言いたげなその表情から、そんなことを考えさせられます。




 監督・撮影・編集を一人で務めたのは畠山容平氏。同姓ですが直哉氏の縁者ではありません。父方が東北の同じ地域の出身で、この地方には多い名字だとのこと。手持ちのビデオカメラ一台で直哉氏の姿を追い続けています。直哉氏と共に被災した陸前高田の街を歩きますが、主に直哉氏の姿に注視し続け、自分のカメラで風景を捉えることはあまりありません。普通の映画で風景に語らせるような場面がある場合には、直哉氏の撮った写真を挿入して見せています。機材的にも技術的にも直哉氏の写真とでは勝負にならないという理由もあったかもしれませんが、写真を通じて直哉氏と主観を共有しているような感覚を見る者に起こさせるという意味において、非常に効果的だったと思います。またそんな中で、移動中の車窓の風景と共に直哉氏の故郷に対する思いが語られる下りなどが、ふと心に残る場面になってもいます。

 この映画は東日本大震災を題材の一部としながら、被災地の現状や復興支援を直接に訴えるような内容ではありません。一人の芸術家の創作の現場に寄り添い、その思想や哲学を掘り下げることに主眼があり、またその芸術家の視線を通して、家族を失った者、故郷を失った者の心の有り様に触れ、改めてあの震災がどういうものだったかを見る者に考えさせもするという作りになっています。この視点の持ち方は、直哉氏の語る「あまりに性急な言論や映像は、例え肯定的なものであっても、複雑になってしまった心をほぐしてくれない」という言葉にも呼応するものだと思います。震災後、多くのメディアが「頑張ろうニッポン」と言い「前を向こう」と言い、奪われた未来が今すぐにでも取り戻されねばならないとでも言うかのように、必死に人々を鼓舞して来ました。しかし当たり前のことですが、被災地の回復には気の遠くなるような時間が必要であり、そして以前と同じ姿に戻すことは決して出来ません。

 未来は未だ来らざるもの。今いるこの場所からは見ることも触れることも出来ず、どのくらい遠くにあるかも分からない。生き残った人間がこの状況で何か出来ることがあるとすれば、変わり果ててしまった大地にあり得たかもしれない未来の痕跡を探すこと、またゆっくりと、しかし確実に変わっていく風景の中に新しい未来の気配を嗅ぎ当てること、それしかないのではないか。三脚を担いで歩く足をふと止めて、じっと立ち止まって何かを考え込む。そしてまた歩き出す。陸前高田の町を往く直哉氏の足取りは、我々にそんな感慨を抱かせます。容平監督が『未来をなぞる』というタイトルに込めた思いもまた、そのようなものだったのではないでしょうか。

*)『話す写真 見えないものに向かって』畠山直哉/小学館

(text:落合 尚之)


映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』 

2015年/日本/87分

作品解説
写真家・畠山直哉。石灰石鉱山や炭鉱、密集したビルの隙間を流れる川や、都市の地下空間を写した写真などで知られ、2001年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表の1人にも選ばれた、世界的な写真家だ。2011年の東日本大震災で岩手県・陸前高田市の実家が流され、母を亡くして以来、彼は頻繁に故郷に戻り、変貌する風景を撮影するようになった。まもなく震災から4年。カメラを手に被災地を歩く者の姿も少なくなってきたが、畠山は変わらず風景写真を撮り続けている。誰の為に何の為に、なぜ撮り続けるのか? これはある1人のアーティストが、故郷の山河を前に、否応なく震災と向き合わざるを得なかった長い記録の断片をまとめたドキュメンタリー。被災のはてに1人の写真家が見た未来への希望とは、なんだったのか?

出演:畠山直哉

スタッフ
監督/撮影/編集:畠山容平
プロデューサー:石橋秀彦

公式ホームページ:http://www.mirai-nazoru.com/

劇場情報:8月15日(土)〜シアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開

2015年8月14日金曜日

映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』試写text水野友美子

「未来をなぞる 写真家・畠山直哉」




 一枚の写真。曇り空の下、静かな海に面した道路の向こうに家並みが見える。中央に、女性がひとり。堤防に肘をついてカメラを両手で支え、レンズ越しに海を見ているようだ。白髪まじりの髪にまるい肩をした彼女がレンズを覗き込む様子は、少女のような初々しさを感じさせる。この写真は、写真家・畠山直哉氏が、実家のある岩手県・陸前高田で震災前に撮影したスナップである。女性は、畠山氏の母で、撮影当時畠山氏が少年時代を過ごした実家でひとり暮らしをしていた。彼女が手にしたカメラは、畠山氏がプレゼントしたものだったという。息子である写真家は、母と同じようにカメラを覗き込んでこの写真を撮影したのだろう。写真のイメージには写らないが、そこには母を愛しく想うまなざしがある。

 畠山直哉氏は、石灰採石場やセメント工場、密集したビルの隙間を流れる川、都市の地下空間など風景写真を中心に、都市と自然、人間の営み、現代世界のありようを問う作品で世界的に高い評価をうける写真家のひとりである。東日本大震災で実家が流され、母は帰らぬ人となった。畠山氏は、震災発生から現在に至るまで、故郷を足繁く訪れては変貌する風景を撮影し続けている。この映画は、2012年3月からの2年間、畠山氏の活動に同行した監督が、その断片を丁寧に繋ぎ合わせたドキュメンタリーである。

 映画のなかで畠山氏は故郷の町のあちこちを訪ね、人々と会い、話にじっと耳を傾ける。問われれば職業は「カメラマン」と答え、三脚をかついで方々を歩き、黙々と風景を撮影し始める。彼を知る町の人たちは、「直哉さん」と親しげに呼んでいた。自然、都市、近代、写真、芸術……変わり果てた故郷の地を歩きながら、写真家は何を思うのか。映画は、東京のスタジオでの作業風景、美術館などでの展示や講演の様子に加え、畠山氏自身と周囲の人々のインタビューを織り交ぜながら震災後の畠山氏の創作の現場を旅してゆく。

 畠山氏が、震災後の展覧会や写真集で、震災以前に撮っていた故郷の風景のスナップを作品の一部として発表することを決めるくだりがある。写真に映るのは、実家の近所で撮影した小川の清らかな水面、鮮やかな緑色の草原、祭りで笛を吹く少女の表情……その中の一枚が冒頭の母を写した写真である。身近な人々の姿をとらえた情緒的な光景の数々は、かつての作品群と趣が異なるように見えるかもしれない。例えば、震災以前の代表作のひとつ『ライムワークス』(1996)には、日本各地の石灰採石場やセメント工場など、通常一般人が立ち入ることができない場所を構想と緻密な計画の上に撮影した、巨大なスケールの風景写真がおさめられている。それらの風景は、まぎれもない人間の営みの跡でありながら、人の姿を認めることができない、どこか廃墟にも似た雰囲気を漂わせている。畠山氏は、以前ならプライベートな写真を人に見せることはしなかっただろうと語る。しかし、震災がそれらの写真の意味を変えてしまった。牧歌的で夢見るように美しい風景が存在したことを証する写真は、今や喪失のあまりの大きさを見る者の心に想像させる。

 

「僕には、自分の記憶を助けるために写真を撮るという習慣がない。僕は自分の住む世界をもっとよく知ることのために、写真を撮ってきたつもりだ。」(『ライムワークス』謝辞)

 映画のなかでとりわけ印象深かったのは、インタビューや講演の際に畠山氏がどこか遠くを見るようにして慎重に言葉を選びながら話す様子である。震災によって変わらざるを得なかった写真家は、もやもやとした想いから眼を逸らさずにじっと向き合いつづけているようだった。この映画が伝える彼の誠実な言葉や態度は、写真と同様に見る者ひとりひとりに「自分の住む世界をもっとよく知ることのため」に開かれている。

(text:水野友美子)



映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』 

2015年/日本/87分

作品解説
写真家・畠山直哉。石灰石鉱山や炭鉱、密集したビルの隙間を流れる川や、都市の地下空間を写した写真などで知られ、2001年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表の1人にも選ばれた、世界的な写真家だ。2011年の東日本大震災で岩手県・陸前高田市の実家が流され、母を亡くして以来、彼は頻繁に故郷に戻り、変貌する風景を撮影するようになった。まもなく震災から4年。カメラを手に被災地を歩く者の姿も少なくなってきたが、畠山は変わらず風景写真を撮り続けている。誰の為に何の為に、なぜ撮り続けるのか? これはある1人のアーティストが、故郷の山河を前に、否応なく震災と向き合わざるを得なかった長い記録の断片をまとめたドキュメンタリー。被災のはてに1人の写真家が見た未来への希望とは、なんだったのか?

出演:畠山直哉

スタッフ
監督/撮影/編集:畠山容平
プロデューサー:石橋秀彦

公式ホームページ:http://www.mirai-nazoru.com/

劇場情報:8月15日(土)〜シアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開

2015年8月7日金曜日

映画『この国の空』試写text加賀谷 健

「この国の空 荒井晴彦的野心に感動!」


「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」

 終戦70周年を迎えた今年2015年、終戦の知らせとなった昭和天皇の「玉音」を心にとどめている者も数少なになりつつも、多くの戦争映画、戦争ドラマが8月15日に向け制作された。そのどれもが「反戦」を謳うものであったが、日本を代表する脚本家である荒井晴彦の18年ぶりの監督作である『この国の空』では、「反戦」が叫ばれるどころか、「非戦争体験者」である作家の様々な戦争問題との「戯れ」さえ感じられた。

 結核で父親を亡くし、母親と二人で暮らす里子(二階堂ふみ)が、隣に住む妻子を疎開させ一人暮らしをする銀行家の市毛(長谷川博己)と近しくなり、しまいには体をあずけてしまい、女としての目覚めを戦時下に経験する。『この国の空』の物語をかなり大雑把に説明するとこんな感じになるだろうか。上映後、『共喰い』でタッグを組んだ青山真治監督と共にスクリーン前に登壇した荒井監督は、「ある女が隣の男とできちゃう。安倍批判でもなんでもない。ある意味で不謹慎な作品」と自作を短く説明されていた。

 長谷川博己が二階堂ふみからもらったトマトを頬張るシーンに同行したという青山監督は、冗談まじりに荒井晴彦の現場での監督ぶりを語って会場をわかせつつ、「これは、大変珍しい映画。ヴィシー政権の頃を描いたフランス映画のようで、あまり日本では、戦争はこういう描かれ方はされていない」と、この映画の「不謹慎さ」を肯定的に評価する。

 試写会終了後、外で青山監督と煙草をふかす荒井監督に「反戦映画」について伺ったところ、「反戦映画はやりたくない。いつも思うのは、そのたぐいの映画って誰に責任があるのって思っちゃう。で、いつも感動の悲劇みたいになってしまう。だから、そういう事はやりたくなかった」と、「戦争責任」に触れながら、終戦後から現在までの「天皇問題」について熱く語っていただけた。

 『この国の空』は、「8月15日」を描く事なく終わる。「反戦」の象徴とも言える「玉音放送」はやりたくなかったと言う荒井監督は、映画のラストに終戦前夜、夜雨に顔を濡らす里子のクロース・アップを選ぶ。それもただのクロース・アップではない。トリュフォーの『大人は判ってくれない』と見まがうほどの、ストップ・モーションへのゆるやかなズーム・アップなのだ。「映画だなという素晴らしい雨。雨を降らしたなという美しい雨」と、青山監督は静かな口調でラストシーンに触れ、トークショーのしめくくりとした。
 
 被写体に最後まで粘り強く向き合い続ける事。多くの演出家が戦争映画を作る時にその事を忘れてしまい、ついつい政治的イデオロギーに走ってしまう中で、「反戦」の一文字に縛られる事なく、「映画的なまなましさ」を露呈させる「映画作家」としての荒井晴彦の野心と強い意志を映画館で是非感じ取ってもらいたい。そして、劇場から出た後、その感動を「声高に」語ってもらいたいと切に思う。

(text:加賀谷 健)


映画『この国の空』

2015/日本/130分

作品解説
『さよなら歌舞伎町』『海を感じる時』『共喰い』などの脚本を手がけたベテラン脚本家・荒井晴彦の18年ぶりにメガホンをとった監督作。谷崎潤一郎賞を受賞した高井有一による同名小説を原作に、戦時下を生きる男女の許されない恋を、二階堂ふみと長谷川博己の主演で描いた。終戦も近い昭和20年。東京・杉並の住宅に母と暮らす19歳の里子は、度重なる空襲におびえながらも、健気に生活していた。隣家には妻子を疎開させた銀行支店長の市毛が暮らしており、里子は彼の身の回りの世話をしている。日に日に戦況が悪化し、自分は男性と結ばれることのないまま死ぬのだろうかという不安を覚えた里子は、次第に女として目覚めていくが……。

出演
二階堂ふみ
長谷川博己
富田靖子
利重剛
上田耕一

スタッフ
監督/脚本:荒井晴彦
原作:高井有一『この国の空』(新潮社)
ゼネラルプロデューサー:奥山和由
プロデューサー:森重晃
撮影: 川上皓市
美術: 松宮敏之
照明: 川井稔
録音: 照井康政
編集: 洲崎千恵子
助監督: 野本史生
制作担当: 森洋亮
ラインプロデューサー: 近藤貴彦
制作:『この国の空』製作委員会
制作プロダクション:ステューディオスリー
製作幹事・配給:KATSU-do
協賛:大和ハウス工業
配給:ファントム・フィルム

公式ホームページ:http://kuni-sora.com/index.html

劇場情報:8月8日(土)よりテアトル新宿ほかにて全国ロードショー