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2016年6月13日月曜日

映画『オオカミ少女と黒王子』評text加賀谷 健

「オオカミ少女と黒王子〜空前のラブコメ装置として」
 
 少女マンガが原作で、内容が恋愛ものとくれば、映画を未見のうちにもうすでに主人公の男女が、最終的には結ばれるということが容易に想像される。そして、それが空前のマンガ実写化ラッシュの中で「再現」されたのなら、もちろん感情を高ぶらせて、大泣きする者もいれば、出来すぎた結末を「きれいごと」として回収してしまう、穿った見方をする者も必ずいることだろう。どうもこの類いの映画作品がある一部の層からしか支持されないのも自ずと合点がゆく。がしかし、それはそれで、「ラブコメ」というジャンルに何だか不当な評価を与えてしまっている気もしてくるのだ。そろそろ、ラブコメ映画を歴史的に俯瞰した時に、批評的文脈が意識されて論じられるべき決定的な作品はないものだろうか。そんなことを思っていると、この度公開された『オオカミ少女と黒王子』(2016)がとうとうその煮え切らぬ感を拭い去ってくれたのだった。

 監督は、廣木隆一。主演は、二階堂ふみと山崎賢人。これが面白くならないはずもない。廣木監督は、マンガ実写化に際して、原作のキャラクターが持つ記号性を見事に消化して、主人公たちを「現実存在」として画面上に生々しく刻み付けている。例えば、冒頭で彼氏をすぐにでも「でっち上げ」なければならない二階堂がカフェから飛び出して、周りがイケメン、イケメンと騒ぎ立てる、その人(山崎)をスマホにパシャりとおさめるまでの長回しや、二階堂と山崎がいよいよ「主従関係」を結び、雨の中を下校する時、二階堂に傘を持たせる山崎が突然、走り始める、何か青春の情動がぱっと花開くような遊び心に溢れたワン・ショットなど、忘れがたい瞬間はいたるところに散りばめられている。

 だが、何よりこの映画で興味深いのは、監督である廣木隆一の「抑制」の利いた演出である。それは、ついつい「悲劇的」な側面を強調しがちな恋愛譚をあまり「深刻」に描こうとはしないことであり、『L・DK』(2014)、『ヒロイン失格』(2015)、『orange-オレンジ-』(2015)と続くマンガ原作ものの中で、「過去に何かを背負った男」というキャラクター設定を常に付与されてきた山崎賢人の、その「過去性」も、ここでは深刻な方向へと傾斜することなく、ほどよいバランスが保たれている。今までの作品には、山崎演ずる主人公にヒロインが愛の告白でもしたものなら、男は、たちまち態度を翻して、女を拒絶するという流れがあったが、『オオカミ少女〜』では、二階堂が素直な気持ちを伝えても、山崎がそれに怒り、感情的に退けるということはない。それどころか、劇的展開での観客たちの過剰な感情移入をはねつけでもするかのように、キャメラは、突然、かなりの引きの位置に据えられたりする徹底ぶりである。この「抑制」は、観客に対する感動の「押し売り」と、その地続き上で結果的に拵えられてしまう「きれいごと」を巧みに回避するだけでなく、映画全体に、ある「品格」を纏わせることにも成功している。

 とは言うものの、この二人の「蜜月関係」の平衡は、一度とりあえずは崩されなければならない。しかし、それはあくまでも「抑制」を利かせてである。黒王子の相も変わらぬ冗談と戯れが、乙女の心を遂に傷つける。けれども乙女は、涙一つ流すことなく、目の前に置かれたコップをほとんど無意識的につかみ取り、黒王子めがけて水を浴びせかける。胸をしめつけられるどころか、一種爽快とも言える場面である。飼犬にはじめて手を噛まれた主人(黒王子)は、ここにきて、かけがえのない「愛犬」の存在を実感する。それは、山崎のことをライバル視している、同じバスケ部員の鈴木伸之との女性観の違いとしても示される。鈴木にとって周囲にいる女性は、皆、自分に好意を持つ者たちであるが、それは全て、他と代置(交換)可能な存在でしかない。だが、山崎にとって、「愛犬」は、他と代置不可能、交換不可能な「かけがえのない」、唯一無二の存在なのである。そうして、ラスト近く、フランソワ・トリュフォーの映画さながらに、プリミティブな躍動の軌跡が息づいた、黒王子の疾走シーンを目にして、わたしたちは、深いため息を漏らしつつ、これまで目撃してきた画面上の「抑制」の数々を、もはや「意味」へと回収せずにはいられなくなっている。

 では、最終的に、オオカミ少女と黒王子が結ばれたとして、人はそれをどのように受け止めるのだろうか。それはあくまでも「ラブコメ」に忠実であろうとした当然の結果であるし、物語への安易な「同化」に対して警鐘を鳴らす、「異化」のプロセスが踏まれていることももう一度強調しておきたい。この映画の裡に、何か「ブレヒト的」なものを見出すことも辞さないのは、「ラブコメ」というジャンルが、いよいよ映画史の文脈の中で、その歴史と拮抗して行けるだけの可能性を、今強く感じているからである。興奮冷めやらぬとは言え、わたしとしては、ひとまずほっと胸を撫で下ろすばかりだ。

やっと、やってくれた。度:★★★★★

(text:加賀谷健)




『オオカミ少女と黒王子』
 2016年/日本/116分

作品解説

八田鮎子の同名人気コミックを、廣木隆一監督が実写映画化。恋愛経験ゼロだが見栄を張り、友達に架空の彼氏との恋愛話を語る「オオカミ少女」の篠原エリカ。街で見かけたイケメンの盗撮写真を彼氏だと偽ってしまうが、なんと彼は女子から絶大な人気を集めている同級生・佐田恭也だった。エリカは恭也に事情を打ち明け、彼氏のフリをすることを承諾してもらうのだが、条件は恭也の「犬」となることで……。人気者で人当たりのいい恭也の本性は、腹黒で超がつくドSの「黒王子」だったのだ。

キャスト
篠原エリカ:二階堂ふみ
佐田恭也:山崎賢人
神谷望:鈴木伸之
三田亜由美:門脇麦
日比谷健:横浜流星

スタッフ
監督:廣木隆一
原作:八田鮎子『オオカミ少女と黒王子』
脚本:まなべゆきこ
製作:福田太一、中山良夫

主題歌:back nunber『僕の名前を』

配給 ワーナー・ブラザース映画

公式ホームページ

劇場情報
5月28日よりTOHOシネマズ系列他にて全国公開中
http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=485

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【執筆者プロフィール】

加賀谷 健  Ken Kagaya

1995年生まれ。北海道札幌市出身。
日本大学芸術学部映画学科監督コース在学中。
最近は、映画制作より映画批評の日々。
「渋谷でもゴダール」から「シネフィルでもラブコメ」にシフト。
Twitterアカウント:@1895cu

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2016年3月4日金曜日

映画『不屈の男 アンブロークン』評text:加賀谷 健

「不屈の行動原理」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 戦時中の日本兵による外国人捕虜への虐待の残虐性を描いたことから、日本での配給がなかなか決まらなかったという『不屈の男 アンブロークン』(2014)。だが、実際、その全編を通して「反日」が頭をよぎることなど一度もなかった。それどころか、一種の「温かみ」さえ感じてしまうほどだった。監督デビューを果たしたアンジェリーナ・ジョリーは、その監督第2作で、戦場に駆り出された一人のオリンピック選手の実話を単なる歴史的事象として描こうとはしない。アメリカ人として、また一人の演出家として、遥か日本を見据えながら、主人公の「不屈の男」に、他者へ「視線」を投げかけつづける事を条件にことの次第を委ねようとする。言うまでもなく、その代弁者は与えられた使命に忠実であろうとし、彼の運命はその「視線」の浮遊によって決定づけられてしまうのである。

 主人公の名は、ルイス・ザンペリーニ。彼は、1936年、ナチス・ドイツによって開催されたベルリン・オリンピックに陸上競技アメリカ代表として出場し、5000メートル走の最終ラップで記録的タイムを打ち出した。次の東京五輪を夢見たルイであったが、空軍入隊とともに彼の運命は大きく悲劇的な方向へ堕ちていくこととなり、気がつけば、日本軍の捕虜として東京の大森収容所に入れられてしまっている。こうして東京への「夢」を叶えたルイは、そこで「バード」と呼ばれている鬼伍長ワタナベに出逢う。ワタナベは、新入りの捕虜たちの顔を一人一人入念に確認していく。捕虜たちの誰一人として動く素振りも見せない中、唯一人、ワタナベをちらと一瞥してみせるルイ。恐れを知らぬかに見えるルイに目をつけたワタナベは、ルイの額を手にしている竹刀で思い切り殴りつけ、血も凍るような声で「Don’t look at me」とだけ囁く。だが、そこに故のない「エロティシズム」が漂っていることは指摘しておかなければならない。ここから、鬼伍長による執拗なまでの「イジメ」が始まるのである。

 ルイがオリンピック選手であることは収容所の誰もが知っている。ワタナベは日々の労役で疲れ切っているルイの身体にさらにムチ打って、部下の日本兵を相手に競争させる。ルイはワタナベの底知れぬ「サディズム」に屈することなくヨロヨロしながらも走りつづけるのだが、彼の身体は悲鳴を上げ、はかなくも地面に崩れ落ちてしまう。その姿を見たワタナベは口元に笑みを絶やすことなくじっとルイを見つめるばかりである。その後も残虐性を極めた「イジメ」がつづくが、ワタナベは自身の「エロティシズム」を震わせることを忘れない。それは、ある日、アメリカ兵たちがほんの休息に芝居に興じる場面なのだが、客席に座るルイの隣にワタナベがそっと腰掛け、彼は、良い知らせと悪い知らせがあると言う。一方は彼が昇進することで、もう一方はそれによってこの収容所を去らなければならないことなのだが、ルイは吐息をもらすかのような口調で自分の昇進が嬉しくないのかと聞くワタナベの顔を静かに見つめ返す。目の前で演じられている「オール・メール劇」が二人の関係性を象徴づける。ワタナベの「イジメ」を「マゾヒスティック」に受けつづけるルイは、彼に恋心を抱いているのか、それとも彼が去っていくという知らせに安堵し切っているのか。だが、いずれにしても彼らが「再会」する日は近いだろう。

 終戦が迫る中、捕虜たちは別の収容所へ移送される。そこは、雪国である。固唾を呑むアメリカ兵たちは、寒空の下に整列させられている。何者かが凍てつく階段を降りてくる、その鈍い音の響きが辺りに不吉さを漂わせる。彼らの前に現れたのは、昇進したワタナベである。早速列の中にルイの姿を見つけたワタナベは、「大日本帝国の敵だ!」と言い放ち、大森の時と同じように彼の身体に一撃をくらわせる。はたして、ワタナベとルイによる「サド=マゾ」的な往復はこのまま際限なくつづいて行くのだろうか。

 ここまで寡黙ながらも反抗的態度をとりつづけてきたルイス・ザンペリーニ。そんな彼にワタナベは、最後の「使命」を与える。収容所全体が敗戦ムードに包まれつつも、日本兵は最後の悪あがきをするかのように捕虜たちへのムチを一層強める。そこでもワタナベの「視線」は、ルイ唯一人にそそがれている。彼は、煤まみれなったルイを呼びつけ、目の前に置かれている大木を持ち上げろと命じる。さらに、それを落とせば銃殺するとまで言う。絶望的状況として周りの捕虜たちも作業の手をとめ、これを見守る。危うく大木を落としかけるルイ。ワタナベは声を荒げ、部下の日本兵は、銃を握る手を固くする。この地獄はいつまでつづくのだろうか、誰もがそう思う。だが、監視され、見られつづけながらも、決して相手を「見返す」ことを忘れなかったルイは、ここでもその美しい瞳の輝きを絶やそうとはしない。彼は、垂れた頭をもたげ、大木を天めがめて一気に持ち上げる。そのルイの「不屈」が、今、目の前にいるワタナベの武装を解き、「見る」存在から「見られる」存在へと代置せしめる。「Don’t look at me」とわめきたてるワタナベは、地面に崩れる他なく、そこで「オルガスムス」に至る。「死」と隣接すことで得られる至上の快楽。だが、その臨界は、すでに踏み越えられてしまっている。

 このワタナベの「絶頂」は、そのまま日本軍の凋落を意味し、物語は、終戦へ向かって加速度的に収束を見せる。解放されたアメリカ兵たちは歓喜し、ルイは無事、家族のもとに生還する。が、ここで見逃してはならないのは、監督のアンジェリーナ・ジョリーの「視線」が最終的に家族と再会するという感動的な結末よりも「不屈の男」の一貫した行動(=視線)に向けられていることである。というのも、ルイが戦地で最後に目にしたものが、一枚の写真だったからであり、軍服姿の男性と写る幼い少年が他ならぬワタナベの姿だからである。ルイは、部屋の片隅にぽつりと置かれた竹刀を横にして座り、一心にその写真を見つめつづめる。今、彼は、何を思ってその熱い視線を対象へと投げかけつづけているのだろうか。一つ確かなのは、ルイス・ザンペリーニの「不屈」が彼の精神性の意味付けではなく、彼が他者を「見返す」という、その貫徹された行為への忠実性を表しているということであり、それに突き動かされた我々観客たちもまた、一心にその対象へ等しく「視線」をそそぐ「権利」が与えられていることである。さて、そうして得た「恩赦」は、我々日本人の未来に一体どんなことをもたらすのだろうか。


ルイの不屈度:
(text:加賀谷健)






『不屈の男 アンブロークン』
原題:Unbroken
2014年/137分/アメリカ

作品解説
アンジェリーナ・ジョリーの監督第2作。ローラ・ヒレンブランド著のノンフィクションを原作に、1936年のベルリンオリンピックに出場した陸上選手で、第2次世界大戦中に日本軍の捕虜になった米軍パイロット、ルイス・ザンペリーニの体験を描いた。

キャスト
ジャック・オコンネル:ルイ・ザンペリーニ
MIYAVI:渡辺
ドーナル・グリーソン:フィル
ギャレット・ヘドランド:フィッツジェラルド
フィン・ウィットロック:マック

スタッフ
監督:アンジェリーナ・ジョリー

脚本:ジョエル・コーエン&イーサン・コーエン、リチャード・ラグラヴェネーズ、ウィリアム・ニコルソン
製作:クレイトン・タウンゼント、マシュー・ベア、アーウィン・ストフ

配給
ビターズ・エンド

公式ホームページ
http://unbroken-movie.com

劇場情報
2月6日〜全国順次ロードショー

2015年12月8日火曜日

第16回東京フィルメックス《特別招待作品》 映画『昼も夜も』レビュー text加賀谷 健

「昼も夜も~その一点のまがまがしさによって~」


今、一人の青年が両腕を左右へ大きく広げながら自転車をこいでいる。青年の名は良介。彼は、心の中で誰かに呼びかけている。それが誰へのものなのか、我々観客には全く想像もつかない。だが、その青年を演じる瀬戸康史が驚くべき「美声」と言い知れぬ「存在感」を兼ね備えている事は確かである。

 実際、亡くなった父親の後を継いだという中古車店の経営者としての瀬戸は、説得力がないようでいて妙な説得力のある姿で画面にちゃんとおさまっているのだ。そこには、彼をただ「イケメン」にはとどめておかない何かがある。おそらくそれは、瀬戸康史という役者の徹底して透明な表情の演技によるものなのだろう。

 ある日、中古車店に一台の赤い車が乗りつけ、しおりという名の女が置き去りにされる。バスの本数が少ない事を知ったしおりは、1000円の手付金で強引に一台の中古車に乗り込み、勝手にその中で眠り始めてしまう。初めは無視していた良介であったが、段々と放っておけなくなり、その晩、彼女を車で送っていくことにする。車内でしおりは、昔死んだ犬の話を始める。良介は、聞いているのか聞いていないのか、まるで時が止まったかのように一点を見つめている。その時の彼の表情の素晴らしさは言うまでもない。それは、無表情故の「豊かさ」である。二人の間には、何か不思議な繋がりが出来始めている。この中編は、監督自身が語る通り、「小さなロマンティックな話」なのだろうか。
 
 映画の後半で二人は車で海へ行く。ここでも良介は見事な表情をしてみせるのだが、それを断ち切るかのような「2014.3.11」の字幕が海のショットを前にして挿入される。劇中、しおりの「腐った魚の匂い」という呟きを何度も耳にしていた我々は、ここにきてやっと全てを理解することになる。
 良介としおりは、無言の内に「震災」の想いを共有する。雨が激しく車を打ちつける。外の世界の現状は未だ厳しいままなのだ。しおりは姿を消し、良介は車を売り払う。

 3ヶ月後、良介のもとにしおりから電話がかかってくる。彼女は自転車で日本中を回っているという。「呼びかけ」が届いた良介は、今は幸せだと返す。映画は、このまま瀬戸の「美声」とともに文字通り美しい終幕を迎えるかにみえる。だが、エンド・ロールの後、黒みの画面に響き渡るのは、ヘリコプターのまがまがしい音、ただそれだけである。「映画はキレイに終わりすぎてはいけない」、そう語る塩田明彦は、やはりどこまでも「残酷な」映画作家であった。

作家の残酷度:★★★★☆
(text:加賀谷 健)


11/24 有楽町朝日ホールで行われた『約束』『昼も夜も』塩田明彦監督Q&A


『昼も夜も』

日本 / 2014 / 69分

作品解説

塩田明彦監督がウェブサイトのために監督した2本の短編の内の一編。第16回東京フィルメックスでスクリーン上映され、もう1本の『約束』(日本 / 2011 / 15分)も同時上映された。
両作品を作るにあたり、ラフな脚本を元に少しづつ肉付けしてゆくという自主映画時代の方法論を適用したという塩田明彦監督の、原点回帰とも言える作品である。

出演

良介:瀬戸康史
しおり:吉永淳


スタッフ

監督:塩田明彦

第16回東京フィルメックス

2015年11月21日(土)〜29日(日)まで開催(会期終了)。「映画の未来へ」--いま世界が最も注目する作品をいち早く上映する国際映画祭。アジアの若手によるコンペ部門、最先端の注目作が並ぶ特別招待作品の上映。特集上映のひとつはフランスのピエール・エテックス作品。

公式ホームページ

http://filmex.net/2015/


2015年8月7日金曜日

映画『この国の空』試写text加賀谷 健

「この国の空 荒井晴彦的野心に感動!」


「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」

 終戦70周年を迎えた今年2015年、終戦の知らせとなった昭和天皇の「玉音」を心にとどめている者も数少なになりつつも、多くの戦争映画、戦争ドラマが8月15日に向け制作された。そのどれもが「反戦」を謳うものであったが、日本を代表する脚本家である荒井晴彦の18年ぶりの監督作である『この国の空』では、「反戦」が叫ばれるどころか、「非戦争体験者」である作家の様々な戦争問題との「戯れ」さえ感じられた。

 結核で父親を亡くし、母親と二人で暮らす里子(二階堂ふみ)が、隣に住む妻子を疎開させ一人暮らしをする銀行家の市毛(長谷川博己)と近しくなり、しまいには体をあずけてしまい、女としての目覚めを戦時下に経験する。『この国の空』の物語をかなり大雑把に説明するとこんな感じになるだろうか。上映後、『共喰い』でタッグを組んだ青山真治監督と共にスクリーン前に登壇した荒井監督は、「ある女が隣の男とできちゃう。安倍批判でもなんでもない。ある意味で不謹慎な作品」と自作を短く説明されていた。

 長谷川博己が二階堂ふみからもらったトマトを頬張るシーンに同行したという青山監督は、冗談まじりに荒井晴彦の現場での監督ぶりを語って会場をわかせつつ、「これは、大変珍しい映画。ヴィシー政権の頃を描いたフランス映画のようで、あまり日本では、戦争はこういう描かれ方はされていない」と、この映画の「不謹慎さ」を肯定的に評価する。

 試写会終了後、外で青山監督と煙草をふかす荒井監督に「反戦映画」について伺ったところ、「反戦映画はやりたくない。いつも思うのは、そのたぐいの映画って誰に責任があるのって思っちゃう。で、いつも感動の悲劇みたいになってしまう。だから、そういう事はやりたくなかった」と、「戦争責任」に触れながら、終戦後から現在までの「天皇問題」について熱く語っていただけた。

 『この国の空』は、「8月15日」を描く事なく終わる。「反戦」の象徴とも言える「玉音放送」はやりたくなかったと言う荒井監督は、映画のラストに終戦前夜、夜雨に顔を濡らす里子のクロース・アップを選ぶ。それもただのクロース・アップではない。トリュフォーの『大人は判ってくれない』と見まがうほどの、ストップ・モーションへのゆるやかなズーム・アップなのだ。「映画だなという素晴らしい雨。雨を降らしたなという美しい雨」と、青山監督は静かな口調でラストシーンに触れ、トークショーのしめくくりとした。
 
 被写体に最後まで粘り強く向き合い続ける事。多くの演出家が戦争映画を作る時にその事を忘れてしまい、ついつい政治的イデオロギーに走ってしまう中で、「反戦」の一文字に縛られる事なく、「映画的なまなましさ」を露呈させる「映画作家」としての荒井晴彦の野心と強い意志を映画館で是非感じ取ってもらいたい。そして、劇場から出た後、その感動を「声高に」語ってもらいたいと切に思う。

(text:加賀谷 健)


映画『この国の空』

2015/日本/130分

作品解説
『さよなら歌舞伎町』『海を感じる時』『共喰い』などの脚本を手がけたベテラン脚本家・荒井晴彦の18年ぶりにメガホンをとった監督作。谷崎潤一郎賞を受賞した高井有一による同名小説を原作に、戦時下を生きる男女の許されない恋を、二階堂ふみと長谷川博己の主演で描いた。終戦も近い昭和20年。東京・杉並の住宅に母と暮らす19歳の里子は、度重なる空襲におびえながらも、健気に生活していた。隣家には妻子を疎開させた銀行支店長の市毛が暮らしており、里子は彼の身の回りの世話をしている。日に日に戦況が悪化し、自分は男性と結ばれることのないまま死ぬのだろうかという不安を覚えた里子は、次第に女として目覚めていくが……。

出演
二階堂ふみ
長谷川博己
富田靖子
利重剛
上田耕一

スタッフ
監督/脚本:荒井晴彦
原作:高井有一『この国の空』(新潮社)
ゼネラルプロデューサー:奥山和由
プロデューサー:森重晃
撮影: 川上皓市
美術: 松宮敏之
照明: 川井稔
録音: 照井康政
編集: 洲崎千恵子
助監督: 野本史生
制作担当: 森洋亮
ラインプロデューサー: 近藤貴彦
制作:『この国の空』製作委員会
制作プロダクション:ステューディオスリー
製作幹事・配給:KATSU-do
協賛:大和ハウス工業
配給:ファントム・フィルム

公式ホームページ:http://kuni-sora.com/index.html

劇場情報:8月8日(土)よりテアトル新宿ほかにて全国ロードショー

2015年6月19日金曜日

映画『サンドラの週末』text加賀谷 健

「サンドラに魅せられて」


 映画は、ベッドに身を沈める一人の女性の寝顔を捉えたショットから始まる。携帯電話が鳴り出すと、その女性は気だるそうな表情を浮かべながらも起き上がり、電話を片手にキッチンで子どものためだというタルトの焼き具合を確認する。だが、その様子を捉えたロング・ショットはどこか不吉な雰囲気を漂わせている。女は、電話先の相手から職場を解雇されるかもしれないという報せを受け、再びベッドに身を沈める事となる。すると、家の中には夫らしき男性が慌ただしく駆け込んでくる。男は、鍵のかけられた部屋のドアをノックしながら「サンドラ」と何度もその名を呼び続ける。日常の中にふと訪れる環境の変化。ダルデンヌ兄弟の作品に相応しい導入部である。

 かくして「サンドラの週末」はこれからの生活を左右する重大な二日間となるのだが、ダルデンヌ兄弟はあらゆる映画的細部を「失業」という現代ベルギーがかかえる社会問題を暴き立てるために構築しようとはしない。専ら、一人の女性の魅力ある姿を捉える事に徹しているのである。

 例えば、サンドラが職場の同僚の住むアパートを訪れる場面。インターフォンを押したサンドラは、アパートの上層へ視線をむける。激しい日光に照らされた彼女の額からは汗が流れ落ちる。その一粒一粒、さらには汗を流す彼女自体が言葉では言い表せぬ感動を観る者に喚起する。サンドラがあちこちを歩き回ったり、水を呑んだり、ふとどこかへ視線をすべらせたりするだけで、我々観客の頭からは、時折、画面をちらつく現代ベルギーの「失業問題」が嘘のように消え去るのである。そう人に思わせる何かが「サンドラ」という美しい響きの名を持つフランス人女性にはあるのだ。

 実際、サンドラが訪ね回る同僚達は皆そろって、その美しい響きを必ず口にする。説得しに行った相手の反応の善し悪しに関わらず、決まって彼らは立ち去ろうとする女性に「サンドラ」と一声かけるのである。呼び止められた彼女は無論、声の主の方へ振り返るのだが、その瞬間の彼女の何気ないかに見える表情は、まるで時が止まり重力に逆らうかのようにして観る者の瞳に肉迫する。ことによったら、それは、この映画で最も感動的と言える瞬間かもしれない。

  だが、冒頭でタルトを焼き上げていた女性は結局の所、その職を失ってしまう。こうなるであろう事は初めから予想しなかったでもないが、映画の終わりで放浪者チャプリンさながらに遠くまでのびる道を進んでゆくサンドラの姿を見て、観客は何を感じるのだろうか。この映画に感動を覚えたのであれば、心の中で「サンドラ」と思わずその名を呟いて、いや叫んでしまうはずである。


サンドラの魅力度:★★★★☆
(text:加賀谷 健)




映画『サンドラの週末』

2014/ベルギー=フランス=イタリア/95分

作品解説
体調を崩し、休職していたサンドラ。回復し、復職する予定であったが、ある金曜日、サンドラは上司から突然解雇を告げられる。 解雇を免れる方法は、同僚16人のうち過半数が自らのボーナスを放棄することに賛成すること。 ボーナスか、サンドラか、翌週の月曜日の投票に向けて、サンドラが家族に支えられながら、週末の二日間、同僚たちにボーナスを諦めてもらうよう、説得しに回る。

出演
サンドラ:マリオン・コティヤール
マニュ:ファブリツィオ・ロンジォーネ
エステル:ピリ・グロワーヌ
マクシム:シモン・コードリ

スタッフ
監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
助監督:カロリーヌ・タンブール
撮影監督:アラン・マルコアン(s.b.c)
カメラマン:ブノワ・デルヴォー
カメラマン助手:アモリ・デュケンヌ
編集:マリ=エレーヌ・ドゾ
音響:ブノワ・ド・クレルク
ミキシング:トマ・ゴデ
美術:イゴール・ガブリエル
衣装:マイラ・ラムダン=レヴィ
メーキャップ:ナタリ・タバロー=ヴュイユ
ロケーション・マネージャー:フィリップ・トゥーサン
ユニット・プロダクション・マネージャー:フィリップ・グロフ
スチール:クリスティーヌ・プレニュヌ

制作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、ドニ・フロイド
エグゼクティヴ・プロデューサー:デルフィーヌ・トムソン
共同製作:ヴァレリオ・デ・パロリス、ピーター・ブッケルト
製作協力:アルレッテ・ジルベルベルク

公式ホームページ:http://www.bitters.co.jp/sandra/

劇場情報:Bunkamura ル・シネマ、他、劇場にて公開中