2018年9月1日土曜日

映画『野いちご』評text奥平 詩野

『野いちご』イングマール・ベルイマン


 時計の秒針が重々しく響き渡る部屋で一人の老人が自分語りをするシーンで始まる本作は、老いのもたらす死への切迫したイメージと、悲しくも極度に瑞々しい若かりし日々の回想との対立と絡み合いが、自己嫌悪や怠惰の入り混じった複雑な感情をもたらすと同時に甘美さと切なさに満ちている。
 この老人の回想は野いちごから始まる。懐かしい場所に生えている野いちごとの再会は、若かりし日々の中でかつての恋人がつむ野いちごへ、老人を引き戻す。若い恋人は本当に若く、軽薄で、その気軽さは、老人にとっては切ない記憶であるはずの彼女と弟との浮気にも存分に流れ込み、 家族の時間にも発揮されている。兄弟喧嘩も、叔母の厳格さも、恋の悩みも、個人の感情を超越した状況の総体として回想になったものは、楽しみや明るさといった幸福の情景を全身に帯びているのだ。それ故、この幸福な日々となった過去の中では、野いちごを含む自然さえも心優しく一家に調和し、全ての失われたものは愛しいものとして回想されている。
 しかし、失われたものへの愛惜は、死にゆく老人の現在の残酷さをより強調する。その残酷さは、現実を通して彼に意識されるというよりは、いくつもの悪夢を通して彼を圧迫するのだが、 夢の中で彼は孤独で不安であり、彼の愛した者は彼を苦しめる者となる。彼の夢は、暗い空の陰鬱な朽木や決して笑わない人々、死の存在や彼の孤独を決定的にし、彼を断罪し、人生の清算を促すイメージに埋め尽くされている。

   その悪夢のもたらす諸々の不安は、現実における彼を断罪するものであり、彼は実際に周囲から孤立し、根本的な態度としての冷酷さの面で息子の妻に非難されている。しかし彼は最初の野いちごから始まる甘美な回想と何度か訪れる多様で無慈悲な悪夢に揉まれて初めて、現実の自己について省みるのである。
 名誉博士の授与式に向かう道のりに起こった、回想と悪夢の現実の心理上での絡み合いや、回想であり同時に悪夢であるような母親との再会、現実であり同時に回想であるような三人の若者との出会い、また、現実であり同時に悪夢であるような夫婦との出会いは、その一日のうちに、 彼が冒頭で語った、孤独や仕事にだけ価値や意味を与えて生きてきたという申告への裏切りをこの老人にもたらした。黒い服に身を包んだ老人達が一糸乱れぬ行進を左右に揺れながらのろのろと進んで行く事で流れる黒い川を沢山の生きた人々が対照的に明るさで取り囲んでいるのを見ると、それはもはや死人の行進のように見える。名誉博士の戴帽は、どことなく罪の判決のように見えるし、孤独と知識と老いを死因とする死者にのみ与えられる功労のようにも思える。そしてこうした一日の後に、彼は孤独である事を捨て去る決心をするのである。
 しかし、最後に見る回想が、決して戻らない日々への恋しさを余計に今までよりも痛烈に感じさせるのはなぜだろうか。この最後の回想は若い日々の美しい幸福で満ちているし、この疲れて悔い改めた老人を、心底慰めている。それにも関わらず、失われたものへの深い悲しみや切なさの 印象を観客に強く与えるのは、それが純粋に懐かしさの表現であるからである。最初の回想とは違い、もはや回想は老人に何かを訴える必要が無く、現実の人生には慰め以外何の役にも立たな いものだからである。その回想の持つ悲しみは、反省や後悔とは何一つ関わらず、逆にそれが完全な幸福のイメージであるが故に、取り戻せないというその絶対的距離のために悲しいのであって、 まさにその距離を、私達観客は老人の一日の旅の中に、つまりこの映画全体の回想と悪夢と現実の混合物の中に、発見するのである。


(text:奥平詩野)

©1957 AB Svensk Filmindustri

『野いちご』
1957年/スウェーデン/スタンダード/91分

監督/脚本:イングマール・ベルイマン
出演:ヴィクトル・シェーストレム、イングリッド・チューリン
撮影:グンナール・フィッシェル

タルコフスキーがオールタイム・ベストとして挙げた名作であり、青春時代の失恋を野いちごに託した叙情的な一編。
名誉博士号を授与されることになった老教授が車で授与会場へ向かう一日が、人間の老いや死、家族などをテーマに夢や追想を織り交ぜながら語られる。
老教授を演じるのはサイレント映画の名監督として知られるヴィクトル・シェーストレムで、本作が遺作となった。女性を描く名手ベルイマンのミューズ、ビビ・アンデションとイングリット・チューリンが艶やかに競演。

第8回ベルリン国際映画祭 金熊賞
1962年度キネマ旬報外国語映画ベスト・テン第1位


劇場情報
「ベルイマン生誕100年映画祭〜デジタル・リマスター版〜」開催中
アップリンク渋谷:9/8(土)~21(金)
キネマ旬報シアター:9/8(土)~10/5(金)
下高井戸シネマ:10/6(土)~19(金)
ほか全国順次上映予定

公式ホームページ
http://www.zaziefilms.com/bergman100/index.html


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【筆者プロフィール

奥平 詩野:Okuhira Shino

1992年生まれ、国際基督教大学除籍、慶応義塾大学在学中。
映画論述。

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