2016年4月23日土曜日

映画『無伴奏』評text長谷部 友子

「はじめて恋に落ちたとき」


1969年、反戦運動や全共闘運動に揺れた政治の季節。杜の都仙台で、高校3年生の野間響子(成海璃子)は、友人と制服廃止闘争委員会を結成し革命を訴えるも、ベトナムにも安保にも沖縄にも強い思いはなく、学園闘争の真似事をしているだけの自分に気づき、そんな自分にうんざりしている。ある日、響子は友人に連れられて入ったバロック喫茶「無伴奏」で、大学生の渉(池松壮亮)、渉の親友の祐之介(斎藤工)、祐之介の恋人エマ(遠藤新菜)の3人に出会い、優しく微笑みながらも秘密の匂いのする渉に惹かれていく。初めてのキス、初めてのセックス。“革命”以上のひりひりとした圧倒的なリアル。響子が恋に落ちる中、思いもよらない衝撃的な事件が起こる。

直木賞作家である小池真理子の半自叙伝的同名小説を矢崎仁司監督が映画化した本作は、政治の季節を背景に、多感な恋に揺れ動く男女の姿を繊細かつ大胆に描いている。矢崎仁司監督は同じく直木賞作家である江國香織の『スイートリトルライズ』も映画化している。静謐な恐ろしさと絶望的な空気感で形成される愛というものを、原作に対する深い敬意を示すと同時に、映像として成立させた圧倒的力量が、本作でも余すことなく発揮されている。
常に優しい笑顔を浮かべながら翳りを含み、この世にその実体の半分がないような渉を演じる池松壮亮は、ナイーブで複雑な心情を体現している。一方、響子を演じる成海璃子はスクリーン初となる大胆な官能シーンが取り沙汰されているが、それ以上に、若さゆえの未熟さと苛立ちを抱えながらも不確かな渉に惹かれ、渉を受け止めようと過渡期にいながらも否応なく成長しなければならない心情を演じきったことこそ一見の価値がある。

はじめて恋に落ちたとき、ある人に言われたことがある。人を救えるなどということはゆめゆめ思うな。人に人を救うことはできない。もしできることがあるとするならば、明るい場所で待ち続けることだけである。暗闇から人を引き上げられるなどと思うなと。
そしてもう一つ。この先も不安定で弱い人を好きになり続けるのであれば、強くなりなさい。その強さとは精神的な強さも、肉体の健康も、経済的自立もすべてが含まれている。そんな道をあなたに望んでいるわけではないし、あなたを支えようとする善良な人を好きなった方がいいと思うけれど、あなたは生まれてこのかた、人の言うことを聞いたことがないのだから、もしもその選択を続けると言うのなら強くなりなさい。かなり昔に言われた言葉だが、なかなか正しい言葉だとは思う。そしてこの映画を見て、その言葉を思い出した。

どこかここにあらずで繊細に揺れ動く渉の質量と、倒れ落ちそうなほどの衝撃に傷つきながらも静かに起立する響子の確かさとその見事さを目撃し、人を恋うるために、私はあとどのくらい強くならなければならないのだろうと今でもくらくらする。

(text:長谷部友子)






映画『無伴奏』
2015年/132分/日本

作品解説
直木賞作家・小池真理子による半自伝的恋愛小説を成海璃子の主演で映画化。実在した喫茶店「無伴奏」を舞台に、時代に流されて学園紛争に関っていた多感な女子高校生の成長を描く。日本中の学生たちが学生運動を起こしていた1969年の仙台。同級生とともに学園紛争を行っていた女子高校生の響子は、友人に連れられて足を運んだ喫茶店「無伴奏」で、大学生の渉とその仲間たちと出会う。

キャスト
成海璃子:野間響子
池松壮亮:堂本渉
斎藤工:関祐之介
遠藤新菜:高宮エマ
松本若菜:堂本勢津子

スタッフ
監督:矢崎仁司
原作:小池真理子
脚本:武田知愛、朝西真砂
製作:重村博文

公式サイト

劇場情報
新宿シネマカリテ他、全国劇場公開中

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子:Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2016年4月19日火曜日

映画『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』評text高橋 雄太

「映画の遅れに向き合うこと 〜『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』〜」


ドキュメンタリーは現実のありのままの記録ではない。この一文によって言いたいことは、ドキュメンタリーには制作者の意図が介入しているという一般的な事実だけではない。無論のこと、今は亡き佐藤真監督の映画『阿賀に生きる』(1992年)などが、佐藤真の意図により構成されたものであることは確かであろう。これに加え、『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』(2004年)からは、時間の側面において、ドキュメンタリー映画が単なる現実の記録でないことが見えてくる。

佐藤真の長編第一作『阿賀に生きる』は、阿賀野川流域の集落を舞台としたドキュメンタリーである。昭和電工は阿賀野川に水銀を流出させ、その影響により集落の人々は新潟水俣病と呼ばれる公害病を患っている。村人の指は病気によって硬直し、一部の人々は公害病の患者認定を求めて訴訟を起こす。村人たちにとっては公害との戦いが続いているのだ。だが本作は社会派映画ではない。裁判所に入っていく村人たちの背中を遠目に捉えるショットに象徴されるように、映画は社会問題と距離を置いている。

本作が至近距離で描くもの、それはタイトル通り「阿賀に生きる」人々である。佐藤監督ら撮影チームは、集落の近くに「阿賀の家」を構え、村人たちと生活を共にし、三年をかけて本作を撮影したという。彼らは生活者として、「阿賀に生きる」者として、村人たちの中に入り込んだ。病気の苦しさや法廷闘争ではなく、日常に注目すること。それが佐藤真らの意図であり、本作はありのままの記録ではなく彼らの意図に沿った記録である。

泥に足を取られながらの田植え。音楽のようにリズミカルな方言。屈託のない笑顔。囲炉裏で火にかけられた鍋とペヤングが共存する食事風景。そこには、「かわいそうな被害者」や「のどかな田舎の人々」という類型におさまらない、現実に生きている人々が存在している。被写体の老人たちは、「いま撮ってる?」とカメラマンに問いかけ、撮影されていることに気づくと照れ笑いを浮かべる。日常と撮影、カメラのこちら側とあちら側とが一続きである。生きることと撮ることを一致させた撮影チーム、生きることと撮られることが一致していった阿賀の人々。本作は、彼らの生きることの結晶なのだ。

だが、ここで疑問が生じる。『阿賀に生きる』の人々は、果たして「いまここ」に生きているのだろうか。この疑問が大きくなるのは、引退した二人の人物、船大工の遠藤と漁師・長谷川のエピソードにおいてである。遠藤は船作りの工房を閉鎖しており、道具を手に取ることもない。その彼が弟子を取ることになり、船作りを再開する。遠藤は弟子の作業を見守り、ときには自ら道具を使い、久しぶりに船を作る。本作には完成後の祝宴や進水式の様子も捉えられている。一方、現役時代の長谷川は、川に鉤を沈める鉤流し漁という方法で、鮭などを獲っていたという。彼は近隣の漁師と協力し、特別に漁をやることになった。最初は肥料袋を引き上げてしまうものの、見事に魚を捕まえる。

撮影当時の彼らにとって、久しぶりの船作りや漁、それを達成した喜びは、「生きる」ことであったろう。だが、それは現役当時のものではない。佐藤真らのカメラは、現役時代の遠藤らを記録することはできず、過去の再現を記録するのみである。すなわち、『阿賀に生きる』が捉えるのは、いまここに「生きる」ことでありながら、実は過去において「生きた」ことの再現でもあるのだ。言い換えれば、本作は、阿賀の人々の生きた現実に遅れており、その現実を後追いしたものである。

佐藤真らが再び阿賀を訪れて制作した『阿賀の記憶』は、現実からさらに遅れている。『阿賀に生きる』から20年以上の時を経ており、老人たちの多くは既に亡くなっている。田植えも漁も『阿賀の記憶』の画面には現れない。野外スクリーンに『阿賀に生きる』らしき映像が映写されている。「阿賀に生きる」ことは、もはや目の前の現実ではない。記録することすらできない、映像として残された記憶でしかない。

『阿賀の記憶』が捉えるのは、閑散とした集落、廃墟にすら見える家、漁師のいない阿賀野川などである。村人たちの生が感じられた前作とはあまりにも違っている。『阿賀に生きる』で老婆が、「あんまり撮られると、影が薄くなって消える(死ぬ)」という意味の言葉を残している。この言葉通り、『阿賀に生きる』で存在感を誇示していた生と対照的に、『阿賀の記憶』の画面には死と不在が漂っている。

9.11アメリカ同時多発テロの映像を見たとき、我々は「映画のようだ」とつぶやいた。東日本大震災の津波の映像を見て「現実とは思えない」とも言った。現実が映画を追い越したと言われることもある。佐藤真の映画は、こうした信じがたい出来事を扱ったものではなく、日常に取材しており、現実に密着しているはずである。だが、時間の観点において現実に追いついていない。むしろ意図的に現実から遅れているのかもしれない。佐藤真の他の作品『SELF AND OTHERS』(2000年)は写真家の牛腸茂雄、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(2005年)は思想家エドワード・サイードをそれぞれ取り上げており、いずれも彼らの死後に制作されたものである。これらも、やはり生きる者たちの現実から遅延し、彼らの不在を見つめている。

ゼノンのパラドクスにおけるアキレスと亀のように、映画は現実を追いかけるが、既に過ぎ去った現実に追いつくことができない。遠藤の船作り、長谷川の漁、老人たちの死などの現実にことごとく立ち会えず、映画は不在を提示し続ける。無論のこと、映画の観客である我々も、現実という亀から遅れたアキレスであり、常に不在を見ることになる。

不在が極限に達した特異点とも言える場面が『阿賀の記憶』にある。畑に一人たたずむ老人がカメラを見つめながら唄う。カメラは老人の顔から空に眼差しを向け、太陽を直視する。スクリーンからは物体も人も消え去り、色彩もなくなり、白い光が満ち溢れる。もはや見る対象すら消失した究極の不在の画面。

だが私たちは、被写体を失った画面を見なければならない。あらゆる波長を含む白色光を青や赤の光に分光するプリズムのように、白い不在の画面から色を見出すことが要求されている。そのとき映画は、一気に現実に追いつき、いまここにある対象として浮かび上がる。

2016年現在、災害や人口減少により、多くの「不在」が発生しており、今後も増えていくと思われる。映画はそうした現実を追い、現実から遅れ、映画を見る我々も遅れる。亀に追いつけないアキレスたらざるを得ない私たちは、その遅れとどのように向き合うのか。不在の佐藤真が残した問いは、「いまここ」に生きる我々の問題である。

参考文献:『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(里山社 2016年)

アキレスと亀度:★★★★★

(text:高橋雄太)


『阿賀に生きる』
1992年/115分/日本/16mm



作品解説

かつては鮭漁の名人で田んぼを守り続ける長谷川芳男さんとミヤエさん、200隻以上の川舟を造ってきた誇り高き舟大工・遠藤武さんとミキさん、餅つき職人で仲良し夫婦の加藤作ニさんとキソさん。生きる喜びに溢れた豊かな暮らしが映し撮られた生の記録は、全国から支持を得て1400人余りのカンパを集めて完成。日本全国で上映され、自らの人生と風土を見直す賛辞がうずまき一大ブームを巻き起こした。

キャスト
長谷川 芳男
長谷川 ミヤエ
遠藤 武
遠藤 ミキ
加藤 作二
加藤 キソ
旗野 秀人

スタッフ

監督・編集 :佐藤 真
撮影:小林茂
録音:鈴木 彰二
撮影助手:山崎 修
録音助手:石田 芳英
助監督:熊倉 克久
スチール:村井 勇
整音:久保田 幸雄
録音協力:菊池 信之
音楽:経麻朗

『阿賀の記憶』

2004年/55分/日本/16mm


作品解説
新潟県に流れる阿賀野川のほとりに暮らす人々を3年間に渡って撮影した『阿賀に生きる』から10年、映画に登場した愛すべき人たちの多くがこの世を去ってしまった。佐藤真監督と小林茂キャメラマンは再び阿賀の地に赴くことを決意する。今は荒れてしまった田んぼや、主を失った囲炉裏などにキャメラを向け、人々が残した痕跡に10年前の映画づくりの記憶を重ねていく。そして、時間とは無関係であるかのように、阿賀野川はいつまでも雄大に流れる。人々と土地をめぐる記憶と痕跡に、『阿賀に生きる』という映画の記憶が交差し、過去と現在を繊細かつ大胆に見つめた作品の誕生である。

スタッフ
監督:佐藤 真
撮影:小林 茂
音楽:経麻朗
録音・音構成:菊池 信之
助監督:山岡 央


公式サイト
『阿賀に生きる』
http://kasamafilm.com/aga/
『阿賀の記憶』
http://www.mmjp.or.jp/pole2/aganokioku.htm

『日常と不在を見つめてードキュメンタリー映画作家・佐藤真の哲学』
佐藤真の単行本未収録原稿、関係者インタビューなどを収録した書籍が里山社より発売中。

劇場情報
4/29~5/3、特集上映「佐藤真の不在を見つめて」@神戸映画資料館
http://satoyamasha.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道生。映画好きの会社員。仕事で文章を書くことが多く、映画と文章の足し算で現在に至る。映画の他にサッカー、読書、旅行が好き。
2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。

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2016年4月14日木曜日

映画『ジョギング渡り鳥』評text今泉 健

「No spoilers, but」


 映画のタイトルが重要なのは言うまでも無い。短かければ短いほど良いという話もあるくらいだが、あえて説明的にする場合もある。『ジョギング渡り鳥』。このタイトルは意外な言葉の組み合わせで過不足無くどちらも満たしているようだ。最初に聞いたときは、木枯らし紋次郎(みたいな人)がジョギングしている画が浮かぶなど色々勝手に想像していたが、まずその時点で作り手の勝ちだろう。

 ちなみに全くそんな話ではない。異星人モコモコ星人を乗せたアダムスキー型UFOが思わぬ形で日本の入鳥野(にゅうとりの)町(ロケ地:埼玉県深谷市)に墜落。脱出ポットで命からがら助かったあとは、帰還の目的の為と好奇心の強さもあって地球人の観察を、映画の撮影をするかように始める。ちなみに話の主人公たちは地元の地球人である。役名は独特で、ソビエト、ウクライナ、チェルノブイリ、スリーマイル、シーベルト、ベクレルなど原発事故を想起させるものとなっていて、制作者たちの意図が込めれられているようだ。

 設定にSF的要素が盛り込まれているのが特徴で、人間には見えないモコモコ星人は反物質で地球人(物質)のドッペルゲンガーが触れあうとお互いの姿が消えてしまうとか、町の名の入鳥野(にゅうとりの)も宇宙の暗黒物質の1つと言われていたり、UFOは縮尺が不明だが、カラスに襲われ?揺れる船内は、さながらTOS(スタートレックのオリジナルシリーズ)のようであったりする。モコモコ星人の話し言葉は意味不明でSF作品の異星人言語(例:スタートレックのクリンゴン語)のように一定の規則性はない。時折日本語も飛び出すのでアジア圏の言葉みたいに聞こえて、テレパシーに近い形で話をしているように思える。

 タイトルにジョギングと付くだけあって、走ることが習慣の人々が多く登場する。しかし汗は、さ程感じない。張り合っているのではなく、皆思い思いにマイペースで走り続ける感じだ。走ることにより、疾走する波動や各々の鼓動が廻りに影響を与えているかのようだ。相互間のバタフライエフェクトというべきか。走っている人達の思いは様々だが、とにかく走り続けていれば再びチャンスを与えられることがある。さらに次のステージへと行ける可能性も広がって、別の風景が見られるかもしれないということだ。1等賞をとったことがあってもそれは同じである。小休止もハーフタイムもOK、それはあくまで走ることを前提としているからだ。人生をマラソンに例えるとまではいかないが、やめないことが大切であり、必ずしも汗水をだらだら掻く必要はないというのが良い。話の過程で、片思いの数珠つなぎが起こるが、片思いと追いかけることをリンクさせている。皆が全て成就しない恋愛を追い続けるこの集団は、ある意味熱い愛情に溢れていて素敵だ。また、ラストに近い場面で、追い抜かれた人が後方から、ギアチェンジしたかのように、颯爽と追い抜く場面が映る。人を追い抜く姿は画的にかっこいい。これは単なる感想に過ぎないが、まさに捲土重来で一時は後方に後れをとっても、あきらめずに続けていればこそ得られるチャンスもあると訴えているように見えた。それは宇宙を渡り歩くモコモコ星人にもあてはまる。

「渡り鳥たちは家族でしょうか、たまたまの集まりでしょうか」という問いかけが冒頭からされるが、私は仲間だと思う。目的を一つにして何かに取り組むのは仲間(クルー)である。まさにこの映画を作るために集まることになったこの制作クルーそのものを指すのは言うまでも無い。彼女は恋愛対象、友人は特別な相談の出来る人、でも常に仲間とは限らない。パートナーや家族は運命共同体で仲間的な側面もあるが、全くイコールではない。ランナーたちも思い思いに走っているが給水所で一緒になってウクライナさんから渡されたお茶を飲むときは、皆仲間のような感覚になっているのではないか。エンドロールで流れるテーマ曲は仲間で仕上げた感じで、とても心地よい。そして撮影現場が時折顔を覗かせることで一体感は増幅する。メイキングと本編その中の劇中劇が合いまみえているのだ。現場の良さと作品の良さがリンクするかは正直分からない。ただ、フィクションでありながら、意図しない見物人や監督を始めとしたスタッフも映り込むので、撮影現場に愛着がある人にはさらに楽しい映画だろう。

 兎にも角にも、映画というメディアに対する何らかのシンパシーがあるなら「四の五の言わずとにかく観てください」と言いたい。まだ観ていない方なら、ゴタクのような拙文は忘れた上で観ていただくのが良い。受け手により感じ方が変わると思われるからだ。

 映画はあまり予断をもって観るものではないと思うし、この文章もネタバレはしないようにしているつもりだ。ただ、作品未見の方に言いたいのは、(当り前なら申し訳ないが)1場面1場面に目を凝らして集中を切らせないこと。骨太なストーリーがある作品ではなく、切り貼りされた感のある場面で展開するので、集中力を失いかけることもあるやも知れないが、それでは作品に散らばる素敵なカットを見逃しかねない。同じ映画を観た人と話をしたりすれば、「ええっ? もう1回観なくては」と思う羽目になるだろう。もっとも、そうなったら流れに抗わず再度観たら良いだけのことであり、それだけの価値のある作品だと思う。やはり、観る前には読まなくていいということには変わりないようだ。

ランナーたちの頑張り度:★★★☆☆(text:今泉健)




『ジョギング渡り鳥』
2015年/157分/日本

作品解説
俳優としても活躍する鈴木卓爾監督が、講師を務めた映画美学校のアクターズ・コース第1期高等科の実習作品として、3年がかりで生徒たちと作り上げた初のオリジナル長編作品。遠い星から神を探して長い旅を続けてきたモコモコ星人が、地球へとたどり着く。母船が壊れて帰れなくなった彼らは、とある町の人々をカメラとマイクを使って観察しはじめる。しかし、モコモコ星人には人間のような「わたし」と「あなた」という概念がなく……。

キャスト
地絵流乃 純子:中川 ゆかり
山田 学:古屋 利雄
留山 羽位菜:永山 由里恵
留山 聳得斗:古川 博巳
走咲 蘭:坂口 真由美
麩寺野 どん兵衛:矢野 昌幸
摺毎 ルル:茶円 茜
海部路戸 珍蔵:小田 篤
瀬士産 松太郎:柏原 隆介
背名山 真美貴:古内 啓子
部暮路 寿康:小田原 直也
海部路戸 ノブ:吉田 庸
郵便局員:佐藤 駿
瀬士産 仁:山内 健司
ジョガーの女:兵藤公美
ハンター 入皆茶:古澤 健

スタッフ
監督:鈴木 卓爾
場面構成:鈴木 卓爾
撮影監督:中瀬 慧
音響:川口 陽一
照明応援:玉川 直人
助監督/制作:佐野 真規、石川 貴雄
編集:鈴木 歓
ロケーションコーディネート:強瀬 誠
宣伝デザイン:三行 英登
宣伝統括:吉川 正文
製作:映画美学校、Migrant Birds Association
宣伝・配給:Migrant Birds Association、カプリコンフィルム

公式サイト
劇場情報
新宿K’s cinemaにて3月19日(土)より公開中
大阪 第七藝術劇場にて公開決定!


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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは「ブルース・ブラザーズ」(1980 ジョンランディス)
昨年の映画ベストは「激戦 ハート・オブ・ファイト」(ダンテ・ラム)、「海賊じいちゃんの贈りもの」(ガイ・ジェンキン)と「アリスのままで」(リチャード・グラッツアー)

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映画『SELF AND OTHERS』text長谷部 友子

「やさしくないまなざし」 


何も調べずに、これを書きたい。なにがしかを書こうというのだから、本来であれば、牛腸茂雄という写真家と佐藤真という映画監督についてつぶさに調べるべきだと思う。けれど、どうしても何も調べずに映画を見たままの状況でこれを書きたい。

「牛腸茂雄という写真家がいた。」 仰々しい名前。その言葉が二度繰り返される。

牛腸茂雄という写真家がいた。身の回りのありふれた人々の日常的な写真を撮り、1983年にわずか36歳で早世した。
ドキュメンタリー映画と言うには不思議な作品だ。牛腸が何者で何を成したかということはよくわからない。おそらく牛腸が見たであろう景色を追いながら、彼の数冊しかない写真集(『日々』(1971)、『SELF AND OTHERS』(1977)、『見慣れた街の中で』(1981))、そして彼が撮った短編映画が流される。ドキュメンタリー映画によくあるように、関係者のインタビュー映像が使われることはなく、中途半端な客観性や批評的な視線から逃れ、写真集の中の写真がひとつひとつ静かに映し出される。そこに牛腸が姉へ宛てた手紙を朗読する声がかぶさる。

美しい音楽、静かな風景。それらに反するように違和感の固まりのような音が時折挿入される。
「もしもし、聞こえますか。これらの声はどのように聞こえているんだろうか。」
牛腸自身がテープレコーダーに吹き込んだと思われる肉声。ざらざらとしたこの声は、どこか人を不安にさせ苛立たせる。この言葉はどこから聞こえてくるのだろう。死後に自分の映画が製作されるとわかっていて準備されていたものなのか、それともあの世から聞こえてくるものなのか。そんなことあるはずもないのに。

『SELF AND OTHERS』の写真集で、双子の女の子として被写体になった女性は、当時この写真が好きではなかったと言う。むっとした表情、真一文字の口、どうしてこんな写真を使ったのだろうと。
確かに牛腸茂雄の写真集に出てくる人たちは、みな不思議な表情をしている。笑っているわけではなく、感情を激しく吐露しているものもない。気負わぬ、いや不思議そうにこちらをのぞきこむとでも言うのか。しかしなぜかいい表情だと思う。その人らしいというか、人間らしいというか。それを佐藤真は「透明なまなざしに見返されている」と形容する。

映像というものに含まれてしまう暴力性。撮ることにより暴こうとする、あの残酷な行い。写真においても、その一瞬を切り取り、映し出そうとするそれは撮るというより獲るとでも言うような搾取ではなかろうか。
しかし牛腸茂雄の写真たちは、さざ波に揺れる水面に何かを映し出すような、そんなひっそりとした瞬間がある。それは彼が3歳で胸椎カリエスを患い、石膏ベッドに寝たきりとなり天井以外見ることができない時分に、鏡によって外の世界を垣間見ていたことと関係があるのかもしれない。対峙することは叶わず、のぞき見ることでしか、世界を見ることができない。

牛腸茂雄にしろ佐藤真にしろ、そのまなざしをやさしさという言葉で語られることが何とも不思議だ。彼らのそれは慈愛に満ちたやさしさなどではなく、境界を泳ぐ目だ。決してどこにも所属できず彷徨い続けるその透徹とした目。見たくないものを見せる。それも首根っこを掴みほれ見ろと、露悪趣味につきあわされるような強引さではなく、ふらふらと連れ出され、寸前のところで突き放される。こんなところでどうして置いてけぼりにしようとするのだろう。
そのまなざしは私たちを不安にさせる。けれど、あと一滴で溢れてしまうコップの水の表面張力から目が離せないように、それを見続ける。そしてその表面張力は破られることはない。永遠の緊張を静やかに持続される。

彼らは見たいのだろう。どうしても、それを見たいのだろう。

適切に世界を見てみたい。この歪んだ色眼鏡を割り捨てて、過剰も矮小もなく、世界の真のあり様を見てみたい。真摯な輪郭を。誠実に。だから私は彼らのまなざしの先に焦がれる。そしてそれを見る覚悟があるのかと今一度自らに問う。こたえはとうの昔に出ていることに気づき、少し微笑む。

(text:長谷部友子)


『SELF AND OTHERS』
2000年/53分/カラー/16ミリ

作品解説
1983年、3冊の作品集を残し36歳で夭逝した写真家、牛腸茂雄。残された草稿や手紙と写真、肉声をコラージュし、写真家の評伝でも作家論でもない新しいイメージが提示される。様々な視点から、牛腸茂雄の世界を見つめる短編ドキュメンタリー。

キャスト
声:西島 秀俊
声:牛腸 茂雄

スタッフ
監督:佐藤 真
撮影:田村 正毅
録音:菊池 信之
音楽: 経麻朗
編集:宮城 重夫

配給
ユーロスペース

作品ホームページ

劇場情報

特集上映「佐藤真の不在を見つめて」
日時:2016年4月29日(金)〜5月3日(火)
会場:神戸映画資料館
公式ホームページ:http://satoyamasha.com/?p=777

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子:Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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