2017年1月28日土曜日

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』評text今泉 健

「肝っ玉母さん」なのは訳がある


 この文章は物語の結末など作品の核心部分に触れている記述があります。

 女性の社会進出が定着している国では、離婚を含め、独り暮らし世帯が増え、共同体としての家族という単位が崩れつつあるらしい。以前より女性が家庭に関心をもたなくなったからとのことだ。であれば、男性が代役を果たせばいいのだろうが、残念ながら男性は既して、家族をつなぎ止めることが不得手らしく、というか女性の方が遥にその能力に長けているそうだ。思えば昭和の頃は女性、とりわけ母親が家庭の要石=「家内安全の象徴」になっているドラマが流行っていた。現代のロールモデルとは別だろうが、例えば『肝っ玉母さん』(1968-72)の主役、京塚昌子はお茶漬けのCMで「母さんは、東大の家政学部卒だから 」というギャグを言えたくらい母親イメージが定着していた人だったし、銭湯を舞台にした『時間ですよ』(1965-90)では、あの「伝繰り返りの」森光子も皆さんご存じの通りお母さんキャラだった。また、『岸辺のアルバム』(1977)で家庭を揺るがした最大要因が、八千草薫演じる母親の不倫だったというのも、母親が要石のドラマだった。

 映画『湯を沸かすほどの熱い愛』では、まず家業が富士山の絵のある銭湯ということからして、昭和の雰囲気がそこかしこに見られる。宮沢りえ演じる母親は一昔前のタイプで、子供の揉め事には口も手も出さず、嫌なことがあっても学校には何がなんでも行けと言い、教師には文句を言わず、子供にはいちいち理由や事情を逐一説明しない。あと、非があると認識している人は責め立てないとか、五里霧中にある人はそっと励ますなど、おせっかい焼きな面があり、突然姿を消した夫が隠れるように住むアパートに単身乗り込む大胆さも備えている。人生の停滞期にこういう人に出会えればどれだけ幸運なことだろうか。夫の蒸発で休業していた家業を再興させるあたりは、まさに平成の「肝っ玉母さん」である。
 それにしても話の進め方が巧みである。各登場人物の持つ状況や抱えている問題が、話が進むにつれ明らかになり、取っていた行動、ちょっと不思議に思っていたことなど、得心がいくように仕組んである。話の節々に仕込まれた仕掛けが動き出す度にドラマが新たに展開するので、次は何が飛び出すのか、楽しみになってくる。主人公は、余命を宣告されてから家族の再生を試みる。女性ならではあるが、彼女だからこそ、着実に成果は上がる。彼女は、命は繋ぐもので親から子供へバトンを渡すようなものだと感覚的に理解しているようだ。自分が受けた仕打ちの矛先を他に向けることなく、少しずつ善行を重ねながら次の代へ繋ぐ。子供の行く末を慮り、為になることを学ばせるなど、自ずと橋渡し役だった上に、余命を宣告され時間が極端に限られたのだろう。橋渡し役というのは、既婚未婚問わず大人には誰にでも課されているとも思える。

 昨今は舞台女優としても存在感を放っている宮沢りえだが、最初は住宅のCMが評判になり注目された。ドラマで初めて見たのは『青春オーロラ・スピン スワンの涙』(1989)というシンクロナイズドスイミングのスポ根もの大映ドラマだった。ほんとに可愛かった。ライバル役は「貝殻」の武田久美子、目の保養も兼ねて見ていた程度で、果たして女優を続けていくかも不明だった。その後はバラエティ番組で見る程度で、出演ドラマは覚えていない。久しぶりに見たのは倉本聰のテレビドラマ『北の国から ‘95 秘密』(続いて『北の国から ‘98時代』)。ご本人の発言とかインタビューとか読んでいるわけではないが、このドラマの出演が、役者として転機になったと勝手に思っている。彼女は「シュウ」という明るいが物悲しげなヒロインを見事に演じた。見方によっては自身の昔日を投影している役柄でもあり、真正面から真摯に役に取り組んでいる感じが溢れていた。かつて訪ねた富良野の≪※「北の国から」資料館≫には、宮沢りえが役作りをした痕跡が残されていた。当時倉本聰の指示もあり、役柄の気持ちで書いていた絵日記が残されていたのだ。この経験は役に立っているはずだ。テレビドラマ『北の国から』は映像で見えない部分の人物設定が詳細で、主役格ともなると生まれてからのイベント(入学、卒業、職業遍歴、私的大事など)の年表があるのだ。この映画でも話が進むにつれ、(宮沢りえ演じる)母親がどういった人生を送ってきたのか垣間見えてきて、表情やセリフの口調や言葉の端々に人生の来し方が見てとれるようになる。また実際の母親「りえママ」とは絆も強そうで役作りにも影響はあるはずだ。そしてその宮沢りえが、平成版「肝っ玉母さん」を演じるというのは感慨深いものがある。

 この作品を語るにあたり主人公だけ触れるのでは不十分である。まず、これから自分のいない家庭を瓦解させないよう、一人娘(杉咲 花)には、試練を課す。娘は学校でつらい目に遭うが、直接、手助けはせず、学校を休むことを許さない。そして、解決のために娘が取った行動は、母親譲りの大胆で意表を突くものだった。また、夫(オダギリジョー)は、突然蒸発したが、妻に連れ戻される。すました顔で戻ってきて、しかも連れ子(伊東蒼)までいる。当然娘は憤慨するが、母親は間に入らず二人に任せる。自分たちで関係を直せるようでなければならないからだ。もっとも娘は子供には当たったりするようなことはしない。夫は弱っていく妻を看ることもできない気の弱さだが、罪の意識と責任感はある。この見限られるかどうかギリギリのお人好しなところが絶妙だ。妻に家族を支えるように難しい宿題を出され、ある答えにたどり着く。連れ子も普段はクールを装っていても、幼い心では到底抱え切れそうもない寂しさを持つ優しい子だとわかり、徐々に馴染んでいく。その他のちょっと訳ありな面々も加わり以前とは違う様相の家族が出来上がって行く。
 主人公の行動は何故感動を呼ぶのか、それは「無私」だからだが、基本的に人間、自分の身内への信頼感がある。自分の体調は後回しで家族のために尽くす。ちょっと思いが通じないくらいではへこたれない。壊れた人間関係は繋ぎ直され、目論見どおり幸せそうな家庭ができていくのだが、そこを達観して微笑むのではなく、もっと生きたいと悔しがって泣くところは、切ないが人間味溢れている。病床の傍らにはすっかり成長した娘の姿があった。締めくくりは昭和風に言えば「アッと驚く為五郎」、でも銭湯ならではの快心のエンディングだった。

※北の国から資料館-富良野市を舞台にしたドラマ「北の国から」の足跡を残すために、富良野駅前で1995年より数回の期間限定の展示会を開催、その後常設展示となるが、2016年8月末老朽化の為閉館

「りえ」母さんの肝っ玉度:★★★★★
(text:今泉健)




『湯を沸かすほどの熱い愛』
2016年/日本/125

作品解説
持ち前の明るさと強さで娘を育てている双葉が、突然の余命宣告を受けてしまう。双葉は残酷な現実を受け入れ、1年前に突然家出した夫を連れ帰り休業中の銭湯を再開させることや、気が優しすぎる娘を独り立ちさせることなど、4つの「絶対にやっておくべきこと」を実行していく。

キャスト
幸野双葉:宮沢りえ
幸野安澄:杉咲花
幸野一浩:オダギリジョー
向井拓海:松坂桃李
片瀬鮎子:伊東蒼
酒巻君江:篠原ゆき子
滝本:駿河太郎

スタッフ
監督、脚本中野量太
撮影:池内義浩
照明:谷本幸治
美術:黒川通利
録音:久連石由文
音楽:渡邊崇

配給
クロックワークス

劇場情報
新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町、キネカ大森ほかにて公開中

公式ホームページ
http://atsui-ai.com/

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2017年1月24日火曜日

映画『タンジェリン』評textミ・ナミ

「ネオン・ガール、タンジェリン・ウーマン」


うす汚れたドーナツ店「DONUTS TIME」で、カラースプレーがまぶされたドーナッツを分け合う、トランスジェンダーの娼婦が二人。28日間の拘留を終えたシンディ(キタナ・キキ・ロドリゲス)は、大親友アレクサンドラ(マイヤ・テイラー)から、出所早々最悪な事実を聞かされる。恋人チェスター(ジェームズ・ラーソン)が、彼女の居ぬ間に浮気をしていたのだ。しかも「正真正銘」のオンナと! 怒り狂ったシンディは、チェスターとその相手、“D”から始まるイニシャルの金髪クソ女をシメるべく血眼で徘徊する。アレクサンドラはシンディをなだめるのを諦め、夜には自分のステージを見に来るよう伝えると、彼女を遠巻きに歩き出す。一方その頃、アルメニア移民のタクシー運転手ラズミック(カレン・カラグリアン)は、何か品定めでもするように、ゆっくり街を流している。夕陽に照らされるLAで、3人の刺激的な時間がこうして幕を開けてゆく。

シンディたちがけたたましく繰り出す下ネタは容赦なく、汚れ物はきちんとしたヨゴレとして表されるし、チェスターを寝取ったダイナだってハクいオネエチャンじゃなく、モーテルで売春しながら日銭を稼いでいる、鶏ガラみたいな女だった。現実社会は、誰にとっても冷たくしょっぱく出来ている。そうした汚さやえげつなさを「キレイ」で飾ることがないのが、この映画の誠実さだ。

LGBTQの間では、男性優位主義に引きづられて抑圧側に立つ白人のゲイが少なくないことや、白人のゲイ、白人のレズビアン、黒人のゲイ、黒人のレズビアン、トランスジェンダーの順で立場が弱くなるということを、耳にしたことがある。女性/男性、白人/黒人という複合的な差別の構造に組み込まれて、トランスジェンダーがより強い閉塞感の中で生きているというのは、想像に難くない。この映画はコメディであるけれど、少数の人々に対する、物見高さといけ好かなさが見当たらない。劇中から一例を挙げると、トランスジェンダーが、心に合致した性の衣裳を解く時というのは、おしなべてギャグとして物語に挿入されることで、観客の娯楽として消費されてきたように思う。だが考えてみれば、「それが自分らしいから」という理由があるからこそ女性の姿をしているシンディとアレクサンドラにとっては、衣裳は舫い綱なのではないか。マジョリティから嗤われるその瞬間を、監督は友情が最も表れる一幕として、胸がじんとなる仕掛けで見せてくれている。タンジェリンとは、オレンジよりもやや暖色にころんだ色だ。彼女たちはLAのネオンのようでもあり、タンジェリンカラーの夕陽そのものでもあった。

身体に悪そうだけどドーナツ食べたくなるね度:★★★★★(text:ミ・ナミ)




『タンジェリン』

2015年/88分/アメリカ

作品解説
超低予算を逆手にとった創意工夫と綿密なリサーチ、確かな技術力で疾走感あふれる刺激的な映像世界を作り上げたのは、監督、脚本、編集、プロデュースまでもこなすアメリカン・インディ界の気鋭ショーン・ベイカー。リサーチ中に出会ったトランスジェンダーの女性たちを役者として起用し、厳しい現実を描くと同時に下ネタ満載の爆笑コメディに仕上げている。実生活でも親友同士の二人ならではの爽快なマシンガン・トークと絶妙な掛け合いに痺れ、最後に待ち受ける切なく美しい友情のかたちに、誰もがホロッとさせられるだろう。

キャスト
シンディ:キタナ・キキ・ロドリゲス
アレクサンドラ:マイヤ・テイラー
ラズミック:カレン・カラグリアン
チェスター:ジェームズ・ランソン

スタッフ
監督/編集/共同プロデューサー:ショーン・ベイカー
脚本:ショーン・ベイカー、クリス・バーゴッチ
撮影:ショーン・ベイカー、ラディウム・チャン
製作総指揮:マーク・デュプラス、ジェイ・デュプラス

配給

ミッドシップ

劇場情報
1月28日(土)シアター・イメージフォーラムにて公開


公式ホームページ
www.tangerinefilm.jp/

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【執筆者プロフィール】
ミ・ナミ:Mi nami

架空の居酒屋「ミナミの小部屋」店主にして映画記者、もしくは映画館映写係。
「韓国映画で学ぶ社会と歴史」(2015年、キネマ旬報社)に寄稿。
韓国映画の情報サイト「シネマコリア」でも定期的に執筆中。@33mi99http://twitter.com/@33mi99


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【イベントのご紹介】neoneo8号刊行記念イベント


アジアのドキュメンタリー上映会【台湾篇】+トーク


ことばの映画館ライターも多数執筆してきたドキュメンタリーマガジンneoneoが、昨年12月に発売した最新刊の刊行記念イベントを開催します。今回は「アジアのドキュメンタリー」総特集。ワン・ビン、リティ・パン、ジャ・ジャンクーから知る人ぞ知る作品まで幅広く取り上げています。イベントではneoneo編集室・藤田修平がプロデュースし、NHKBSでもオンエアされたドキュメンタリー映画『緑の海平線〜台湾少年工の物語〜』(07年、60分)と、NDU(日本ドキュメンタリーユニオン)が台湾のタイヤル族を撮った『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』(05年、120分)の2本を上映。貴重な機会ですので、ぜひ足をお運びください。


チケット予約:http://www.uplink.co.jp/event/2016/47254

neoneo HP:http://webneo.org/archives/41391

〈上映作品解説〉

『出草之歌 台湾原住民の吶喊 背山一戦』
(120分/2005年/日本)

撮影・編集:井上修 企画・制作:NDU 
出演:高金素梅、飛魚雲豹音楽工団ほか

靖国神社に合祀された高砂義勇隊の魂の返還を求める、タイヤル族の立法議員・高金素梅(チワスアリ)。彼女と連携する飛魚雲豹音楽工団は、音楽活動を通して社会的弱者である台湾原住民を支援する。元来文字を持たない台湾原住民は、歌によって彼らの文化・習俗を伝承してきた。彼らの歌をふんだんに取り入れることで、彼ら台湾原住民の文化・風俗習慣、歩んできた道を描く。(文=稲見久仁子)

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『緑の海平線 ~台湾少年工の物語~』
(60分/2006年/台湾、日本)

監督:郭亮吟 プロデューサー:藤田修平

第二次世界大戦中、日本の労働力不足を補うために台湾で海軍工員の募集が行なわれた。仕事をしながら勉強できるという条件で約8千名の台湾の子供たちが、故郷を離れて、神奈川県大和市にあった海軍空C廠にやってきた。子供たちは日本各地の軍需工場に派遣され、さまざまな軍用機の生産に従事した。戦況が悪化するなか、空襲によって多くの子供たちが犠牲となり、その後、彼らは困難に直面しながら波乱に満ちた人生を送ることになる……。

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2017年1月14日土曜日

【第17回東京フィルメックス】個人的評〜『仁光の受難』『マンダレーへの道』を中心にtext井河澤 智子

(本記事は2016年12月に執筆された原稿を掲載しております)

第17回東京フィルメックスが、無事閉幕しました。
受賞結果の詳細は公式サイトをご覧ください。
http://filmex.net/2016/

公式サイトには、受賞結果とともに審査過程の掲載もあります。
http://filmex.net/2016/news/kisha_kaiken
これだけ多様な映画を揃えていると、審査にも諸々の事情を鑑みなければならないのだな、と、頭が下がる思いと同時に、「えっそういう理由……」と少々首をひねるところもあります。
これは「大岡裁き」と言っていいのでしょうか……?

コンペ作は10本中9本観ることができました。どれも観る者に訴える力を持つ素晴らしい作品でしたが、私が特に気に入ったものを挙げてみます。
『仁光の受難』
『マンダレーへの道』
紙幅の関係で上記2本にとどめますが、コンペ外も含めると他にもたくさんあったんですよ……。

まず、庭月野議啓監督『仁光の受難』について。
フィルメックスのコンペ部門において、1本だけものすごく毛色の変わった作品だったんです。アニメーションやイラストを多用した時代劇、しかもちょっとオトナなコメディ。アダルトな日本むかし話。落語で言うと破礼話。昔々そのむかし、「志村けんのバカ殿様」なんかでは、普通にお茶の間でもおっぱいポロリを拝めていたものだったなぁ、などと古き良きのどかな時代を彷彿とさせます。しかしそんなのんきなことを思わせつつ、とんでもなくクオリティが高い!

『仁光の受難』(c)TRICYCLE FILM

これは監督自身がQ&Aで笑いまじりに語っていらっしゃいましたが、相当戦略を練って作られた映画なんだそうです。国際マーケットでウケを取るために、時代劇という題材を選び、出すつもりはなかった浪人(サムライ)を出し、浮世絵や曼荼羅を多用したヴィジュアルを用いるなど。
また、自称「構図マニア」という監督。この作品を、商業ベースの映画と並べ引けを取らないものにするために、4年もの歳月をかけてコツコツと磨き上げたという、その根気にも頭が下がります。お金かかったでしょうねぇ……
そして出来上がったものは「女性にモテまくるお坊さんの悲喜劇」!

この作品、絵の作り方や画面の進行がとってもアイディアに満ちていて面白いんです。モーリス・ベジャールのバレエ「ボレロ」がこんなふうに使われるなんてジョルジュ・ドンすら思わなかったでしょう。当人たちは大真面目、けど傍観者たちにとっては面白くてしょうがないという状況にピッタリの使われ方でした。ベジャールに怒られないかどうかが心配ですが。

お坊さんは、なぜこんなに望まぬ女難の数々に見舞われるのか、その理由を探す修行の旅に出ます。そして延々自分と向き合い、色々な(羨ましくもけしからん)試練を乗り越えた結果、ひとつの結論に至ります。自らを肯定せざるをえない。仕方ないけど、本当に仕方ないんだけど、
「いたしかたなし」と。

今回の上映作には「ナショナルジオグラフィックの番組です」と言われたら納得するような、世界の辺境の美しい生活を描いた作品、また民族・宗教・貧困などの問題にコミットした作品が多く選ばれました。そして、監督自らの厳しい経験に基づき、製作された作品も数々ありました。その熱量は、「当事者」として我々を圧倒するように迫ってきます。自分たちの社会には、こういう問題がある。これを私は、訴えたい。しかしその熱は、時に「客観視」という大事なものを損なうのではないか、という懸念を私に感じさせました。私は「映画というものは芸術であり、娯楽である」とも考えますが(それは当たり前だろう、というツッコミを期待しつつ)、芸術であり娯楽であるためには「離見の見」とでもいうべき視点が必要です。すべてにそれがあったかというと少し疑問です。若手の監督が多いコンペでは、なおのこと。
『仁光の受難』には徹底してその視点がありました。あった、と感じました。だからこそ、この1本が絶対必要だったんだな、と私は感じました。

今回、評価は高かったものの受賞を逃したという作品の一つ、ミディ・ジー監督『マンダレーへの道』は、ミャンマーの貧しい華人コミュニティの不法就労問題という、監督の身近な問題(かつ、極めてフィルメックス的なテーマ)に基づきながら、「それだけじゃない」面白さがありました。
主人公の若い女性は、働き口を求め、故郷ミャンマーの貧しい華人コミュニティを離れタイに不法入国します。行き着いた先は、皆、彼女と同じ出自の不法移民コミュニティ。彼らはどんなに働いても働いても、彼らを食い物にする人々に搾り取られます。しかし、彼女は「なんとかまっとうな働き口を見つけ、もっとマシな生活をしたい」という希望と目標を持っています(その希望は矛盾したものであり−−手にしようとしているものが偽造パスポートである以上、まっとうな移民として認められることはないでしょう、ただバレにくいだけで−−ゆえに、怪しげな役人や業者に度々毟り取られる羽目に陥るのですが……)。

『マンダレーへの道』場面写真

そんな彼女を、恋愛が阻みます。そう、この映画は「恋愛もの」の側面も持っているのです。スリル満点の越境車両に乗り合わせ、親しくなった青年がいます。不安定な者同士、時に助け合い時に喧嘩し、いつの間にか彼氏彼女の関係である、と誰もが認める間柄になりますが……さて彼らの気持ちは通じ合っていたのでしょうか。重なり合わない視線に、はっきりと不安が漂います。驚愕のラストは……うーん、日本公開が未定である現状、ネタバレも何もないかな。悲劇的な結末を迎える、とのみ言っておきましょう。個人的には、この結末の処理の仕方がちょっと辛かったかな、と。もう少し余白が欲しかったかもしれません。

この映画の出演者たちには、撮影に際し8ヶ月ほど役作りの時間が設けられたのだそうです。甲斐あって、ふとした仕草や役者たちの距離の取り方に、「不法滞在の労働者」「異国で不安定に過ごす若い男女」としてのリアリティが漂います。そして、とにかく稼ぎたい彼らを引きずり込んでしまう沼が、そこここに水を湛えていることが示唆されます……。


彼らはどれだけ搾取されるのでしょうか!弱者からの搾取は、この作品に限らず度々描かれていました。切羽詰まった女性が自らのカラダを……という場面も多々ありました。しかし、この手の問題はここ日本においても普通に存在するのです。それはなにも「貧困ビジネス」「外国人技能実習生」などの違法すれすれのものばかりではありません。我々の身近に確実に存在する、しかしまだ顕在化していないそれらの問題は、ひょっとしたら近々、日本映画にとって「フクシマ」に続く大きなトピックになるかもしれないな、と個人的に思いますが、それはさておき。

『仁光の受難』Q&Aにて、林加奈子ディレクターが「フィルメックスは貧困にあえぐ人々の映画ばかりじゃないんですよ」とおっしゃって満場の笑いをさらっていらっしゃいました。しかし、今回の作品セレクトから強く感じたことは、この映画祭が行われた「現在の東京」から遠く離れた場所に、異なる生活、異なる価値観がある、ということでした。抑圧され、怒りを持て余す人々がいる、隔絶されたような土地で慎ましく美しく生活する人々がいる。
それらの作品において、描かれる対象は、あくまでも「社会」−−例えばソーシャルイシューであったり、コミュニティを描くことであったり、あるいはもっと大きなものかもしれません−−である、と私は感じました。
今回の授賞から、日本からの出品作は漏れました。それは、ひょっとしたら「社会を描く」という要求に応えていなかったからなのかもしれない、と私は穿った見方をしてしまいました。評を書いてみたらあまりに長くなりすぎてカットせざるをえなかった、内田伸輝監督『ぼくらの亡命』も、本物の亡命や迫害を描いた映画に挟まれると、これだから日本は甘い、と思われても仕方がない題材です。
しかし、映画は社会を描くべきものなのでしょうか? 物語を語り、人間の心の微妙なあやを描くものでもあるのではないでしょうか? 『ぼくらの亡命』は、非常に狭い人間関係を描きながらも、その心理を突き詰めることにかけては他を圧倒していました。また、韓国から出品された『私たち』『恋物語』も、人と人の関係性を優しく描いたものでした。決して、良い映画を作ることに「社会」あるいは「社会への怒り」は大前提ではありません。

映画は時にジャーナリズムで、また時に芸術で、時に、大きな娯楽でもあります。その采配は監督に委ねられています。
初監督作が多かった今回のコンペティション。数年後、数十年後が楽しみです。
これから、どんな映画を観せてくれるのでしょうか。期待しています。


(text : 井河澤智子)


第17回東京フィルメックス

公式サイト
http://filmex.net/2016/

開催情報
2016年11月19日(土)~2016年11月27日(日)

開催会場
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇 

上映作品一覧
・東京フィルメックス コンペティション 
http://filmex.net/2016/program/competition
・特別招待作品
http://filmex.net/2016/program/specialscreenings
・特集上映 イスラエル映画の現在
http://filmex.net/2016/program/sp1


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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

今回のコンペで最優秀作品賞を受賞した1本について言及することができませんでした。
この映画、実はあまり印象に残っていないのです。
亡き妻が息子に憑依し、しばらく夫と過ごす、という筋立ては「アピチャッポンを想起させる」という意見も聞くことができますが、そういう設定の映画は即座にいくらでも思いつきますよね?『秘密』なんていう映画もありましたし。
輪廻転生もの、として観てしまうと、そんなに珍しい題材ではないし、怪異譚としてもあまりに日常的。
何度思い返してみても、印象に残っていないのです。
寝落ちしていたわけはありません。私はどんな状況でも寝落ちできない悲しい体質なのです……。
コンペ外で語りたい作品もたくさんあります。
また、いつか、次の機会に……。

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2017年1月13日金曜日

映画『ブラインド・マッサージ』評text長谷部 友子、今泉 健、井河澤 智子、佐藤 奈緒子


「揺れる欲望」


揺れるのだ。ゆらゆらと。ロウ・イエ監督の映画はいつも画面が揺れる。見ると船酔いのような気分になる。それなのに今回は揺れない。奇妙な確かさをもって南京の盲人マッサージ院を舞台に巻き起こる人間模様を描いている。そして代わりと言ってはなんだが、めまいのような光のグラデーションが画面を支配している。
盲人というと一律に目が見えないと思いがちだが、生まれながらに見えない者、事故で見えなくなった者、病気でこれから見えなくなる者と様々だ。そして盲人たちのひそやかな欲望の行方もそれぞれだ。見えなくなる前に伴侶を得ようとする者、自身が盲人でありながら全盲の人との結婚を両親に反対され駆け落ち同然で家を出た者、盲人であるため自らは見ることができないのに美人と言われる女性に執心する者。
獲得したい、敬意を払われたい、安心したい、愛されたい。懸命に日々を生きる彼らの喜びと悲しみ、善意と悪意。彼らの欲望は大それたものではなく、ひそやかなものなのかもしれないが、それゆえに切実で苛烈だ。
在るか在らぬかを私たちは気にする。見えるか見えないか。けれど多くは二者択一でも二項対立でもなく、グラデーションなのかもしれない。各々が抱える事情も、欲望も、そして決断する勇気すらもグラデーションだ。何かが圧倒的に在って、何かが圧倒的にないのではなく、そのグラデーションの中で弱く惑い、時に大胆に人生を賭す。
見えるものと見えないものの狭間を泳ぐ。ゆらゆらとけれど苛烈に。やはりロウ・イエ監督の映画は揺れている。揺れ続ける生は苦しい。

(text:長谷部友子)


「「昼メロ」な「ソープ・オペラ」」


群像劇でエロ・グロ・ナンセンスとくれば、ソープ・オペラである。米国には放送50年超のドラマもあるが、近年の日本でも知られてそうなのは、『デスパレートな妻たち』だろうか。基本はコメディタッチで、時に社会事象も絡めながら、だいたい不倫とか殺人事件がご近所を「ハイテンション」に巻き込んでいく。一方日本では「昼メロ」である。日本はシリアスを装い男女や人間関係のドロドロに重きを置く。かつては、東海テレビ制作の『華の嵐』等のシリーズが人気を呼んだが、放送枠自体が終了している。最近の『昼顔』はこの類だ。なお、韓流ドラマは因果応報が重視される。
ロウ・イエ監督の『ブラインド・マッサージ』は、日米の中間、「昼メロ」な「ソープ・オペラ」ともいうべきか。設定に大きな特徴があり、南京のマッサージ院を舞台にしているが、主要出演者はマッサージ師を中心に一人を除き盲人である。盲人独特の生活習慣がドラマのアクセントになっており、(たぶん)狙ってないのに笑えるシーンもある反面、重みのあるセリフが飛び出す上質感も併せ持つ。
盲人といっても様々で先天的か後天的かだけでも、人生のスタンスに違いが出てくる。健常者との距離感、関係のとり方などもある。盲人にとって美貌は意味を持つかという興味深い問いかけもある。最大関心事はやはり恋愛であり、カノジョがいる、いない等様々だが、そこは健常者となんら変わりはない。また一人っ子政策の影が垣間見える展開もあり、西島秀俊似の先生のピンチの切り抜け方は必見で、果たしてこれが通用するのか興味深かった。時に絡み合いながらも各人の物語がオムニバス的に進み続けるが、終盤の展開はあっと驚く唐突な事件の連続だ。さあこれからどうなるの? と思っていると、突然の幕引き。まるで、ワケありで急遽打ち切りが決まった連続ドラマみたいに「えーっ」というカットアウトで話は終わる。でも後日談でしっかりフォローされる。絶望して、自暴自棄になり風俗嬢に入れ込んだ若者のその後は必見の物語だ。人生一寸先は闇、思いもよらぬことで躓いたり、その逆もある。何が奏功するか分からない、まさに、「上質な」ソープ・オペラで、映画序盤の重さとは予想もつかない気分の良さで劇終となる。登場人物の人間模様を描きながら、物足りなさもなく、飽きることもなく、良い具合に締めくくられた115分だった。

(text:今泉健)


「ひとことで言えば、官能」


視覚に障害がある人が「色彩」について語るのを、聴いたことがある。空の青さ。水の透き通った色のない色。
彼は5歳の頃に視覚を失った。彼は「視えていた」経験を持つ人であった。

この『ブラインド・マッサージ』で「美しい」と評される女性には、視えていた経験がない。そもそも美という概念がないので自らの美しさなど無価値である。しかし、同じく視えた経験がほとんどない、診療所の若き院長は、彼女によって「美には価値がある」ことを理解した。
視えなくなることに絶望し、自殺を試み、生き残った者がいる。子供のような彼の衝動を癒す「場所」へ誘う陽気な男がいる。そして、駆け落ちのように彼らのもとにたどり着いたカップルがいる。
「五感」のひとつが欠けている人々が集う場所。彼らは「匂い」に心を動かされ、あるいは誰かの異変を察知し、「触れる」ことによって生計を立て、あるいは美の形を知り、「食べる」ことによって共同体の形を強固にする(それは擬似家族的でもある)。声、会話、賑やかな(時には喧嘩にもなる)食卓、呼ばれる名前、それらを「聴く」。
特筆すべきは「触れる」−−触覚−−であろう。触覚は雄弁である。診療所を訪れる人々の身体に、的確に触れることが彼らの仕事だ。また、若者の衝動を受け入れるのは娼婦の仕事だ。「からだに触れることを生業とする人々」の物語がここにある。
「君の美しさを知りたい」、その手段は「指先で撫でること」。愛し合うことも文字通り真の闇の中では肌の感覚が頼りだ。時折パチンパチンとクリップで指先を挟む仕草は、痛覚を通し、自らの触覚を研ぎ澄ませるようにも思える。あるいは痛覚によって自らがそこに「在る」ことを確認するようにも。
触れられる肌。しっとりと湿り気を帯びた肌。とにかくよく雨が降る。雨の音に包まれる。映画に湿度は関係するのだろうか? 
そういえば、ロウ・イエ監督の映画では、よく雨が降り、水が流れる、そんなイメージがある。
彼らの世界ははっきりとした形をとって立ち現れることはない。映像は彼らに寄り添うように、にじみ、揺らぎ、ぼける。彼らに「視えている」世界は曖昧なものである。匂い、指先の感覚、共に食べるご飯の味、すぐに消えてしまう声。
しかし、それを傍観している私たちの世界は明確なのだろうか?
彼らに視えている世界より明確であると、誰が言えるのだろうか?

(text:井河澤智子)


「(意外にも)素直に感動 」


ロウ・イエの映画を見るともやもやする。愛の渇望や性衝動があまりに自分本位で浅はかで不器用、そんなちっとも共感できない人達の織りなすメロドラマを見せられたあげくサラっと終わって肩すかしを食らうのだ。フランス映画ばりのややこしい恋愛模様にはくたびれてしまう。そんな心のねじくれた私にとって、新作『ブラインド・マッサージ』は期待を裏切る快作だった。
舞台は南京のマッサージ院。そこで働く目の見えないマッサージ師たちはそれぞれの事情や思いを抱えながら、愛を求めては打ち砕かれ、それでも前を向いて生きている。職業選択の余地がない彼らにとって、愛という目に見えないものだけは小さな夢を見させてくれる。声を聞き分け、触れ合い、においを嗅ぐ行為が優位にある世界。相手を求めまさぐり合う人間達が直接的に訴えかけてくるのは、見ているうちに自然と感性が研ぎすまされるからなのか。盲人の心の中で健常者は「一級上の目を持った動物」だとナレーションは言う。これが残酷な現実だとしても、取り立て屋の前で自身の体を斬りつける行為や暴漢に挑んで殺されかけることには、見える者と見えない者の力関係を無にする激情と暴力がある。金銭を介在した逢瀬や不確かな未来しかないカップルには、盲目的な官能と依存がある。それらはみな『春琴抄』にも似た美しい狂気だ。見たことのない「美」にとらわれ、見ることのない記念写真を撮り続ける、“見えないもの”を求める衝動は光への執着であり、愛への渇望と同義とも言える。
脇のキャストはみな実際の盲人が演じているが、メインキャストではコン役のみ、目の不自由なチャン・レイが演じている。素朴すぎるルックスの割に幼い色香を放ち意外なほど男慣れしている。おそらくそれは演じる彼女自身がまとっている空気であり、ごく普通の女達の持つ神秘であろう。コンの存在こそがこの映画の説得力を格段に引き上げ、愛のごたごたを人間のひたむきな営みに昇華させているのだ。
焦点のあわないショットはぼんやりと明滅しながら、まるで視覚に頼る観客を試すかのように予測不能に移ろう。それはロウ・イエの描くたゆたう人々そのものでもあり、心もとない人間関係や先の見えない社会と重なる。その粗い粒子の光と影に目を凝らすと何かが浮かび上がってくる。そう思いたいと思わせるものが見えるのだ。その感覚の後にくるラストには確かなものが見える。その不確かで確かな結末を信じる自分を信じられそうになる。
たゆたう人々がようやく地に足をつける瞬間の絶望を超えた人間讃歌。それを勝手に自己肯定にすりかえて素直に感動していいのではないだろうか。 

(text:佐藤奈緒子)




『ブラインド・マッサージ』
原題:推拿
2014年/中国、フランス/115分

作品紹介
シャーとチャンが経営する南京のマッサージ院では多くの盲人が働いている。若手のシャオマーは、幼い頃に交通事故で視力を失った。医師の診断は「いつか回復する」というものだったが、その日は一向にやってこない。
生まれつき目の見えない院長のシャーは結婚を夢見て見合いを繰り返すが、視覚障害者であることが理由で破談してしまう。それでも懲りずにパートナーを探し続ける明るい男だ。客から「美人すぎる」と評判の新人ドゥ・ホンもまた、生まれつき目が見えない。彼女は自分にとって、何の意味のもたない“美”に嫌気がさしていた。そのことを耳にしたシャーは、彼女の“美”が一体どんなものか知りたくて仕方がなくなる。
そんなマッサージ院に、シャーの同級生ワンと恋人のコンが駆け落ち同然で転がり込んできた。まだ幼さの残るシャオマーは、コンの色香に感じたことのない強い欲望を覚えはじめる。
ある日、爆発寸前の欲望を抱えたシャオマーを見かねた同僚が風俗店へと誘った。そこで働くマンと出会いによって、 大きく動き出した運命の歯車。己を見失いもがき苦しむ中で見つけた一筋の光とは……。

キャスト
シャオマー:ホアン・シュエン 【『空海-KU-KAI-』2018公開】
シャー ・フーミン:チン・ハオ【 『 二重生活 』 、『 スプリング・フィーバー』】
ワン:グオ・シャオトン【『天安門、恋人たち』】
ドゥ・ホン:メイ・ティン
マン:ホアン・ルー
コン:チャン・レイ

スタッフ
監督:ロウ・イエ
脚本:マ ー・インリ ー
原作:ビー・フェイユィ著「ブラインド・マッサージ」(飯塚容訳/白水社 刊)
撮影監督:ツォン・ジエン【『二重生活』『スプリング・フィーバー』】
録音:フー・カン
作曲:ヨハン・ヨハンソン
編集:コン・ジンレイ、ジュー・リン
衣装:チャン・ディンムー
メークアップ:シー・ホイリン
美術:ドゥ・アイリン

配給・宣伝
アップリンク

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/blind/

劇場情報
2017年1月14日(土)より、アップリンク渋谷、新宿K’s cinemaほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。


今泉健 Takeshi Imaizumi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じて関連の講座を受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。2016年のベスト1は『スポットライト~世紀のスクープ~』。


井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
初詣、みなさま行かれましたか?
神社仏閣に、よく「形代」ってございますね、紙のヒトガタに体のよくないところを移して水に流す、と。あたしもこの際どっか悪いところを流していこうかね、と何の気なしにヒトガタ取ったら、うっかり2枚取っちゃった。まぁ、いけないところは1箇所じゃないわな、てんでオデコにしっかり当てて、水に流してきたんですが、あれですかね、2枚のヒトガタの内訳は、どえらい寝つきの悪さと酒の飲みすぎでしょうかね。
なんの話でしたっけね。
あ、ロウ・イエ監督の作品は『ふたりの人魚』が一番好きですな。


佐藤奈緒子 Naoko Sato

映画を通して世界を学びながら少しずつ大人になっています。2016年に見た映画のマイベストは『怒りのキューバ』です。

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2017年1月6日金曜日

特集上映『エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ』text高橋雄太

「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る〜映像百科事典の世界〜」


エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ(EC:Encyclopaedia Cinematographica、ECフィルム)は、ドイツの国立科学映画研究所が始めた映像百科事典プロジェクトである。世界各地にカメラマンを派遣し、民俗学、生物学、技術科学における映像を記録した3000タイトル強のフィルムアーカイブで構成されている。日本では下中記念財団により管理され、少しずつデジタル化が行われているという。2016年11月19~25日、ポレポレ東中野にてゲストを迎えての特集上映「エンサイクロペディア・シネマトグラフを見る」が行われた。残念ながら、私が参加できたのは全7回のうち4回(11/19,20,21,25)だけであるが、興味深いイベントであった。

特集上映の内容は以下の通り(日付 テーマ ゲストの順、敬称略)。

11/19 一から自分で作る暮らし 関野吉晴
11/20 異形のモノがやってくる 世界の祭 赤坂憲雄
11/21 生きものの驚異と不思議 荒俣宏
11/22 糸、世界の植物を紡ぐ 眞田岳彦
11/23 世界音楽入門 U-zhaan、長嶋りかこ
11/24 食べているのは生きものだ 森枝卓士、高田ゆみ子
11/25 自然へのまなざし、その歩み 中村佳子、石原あえか

まず、ECフィルムの特徴を説明しよう。今回の上映作品の長さは1分程度から15分程度。画面はモノクロもカラーもあり、音声はサイレントもトーキーもある。スローモーション、早送りを利用した作品もある。特筆すべきは、作品の内容についての説明がほとんどないことである。作品中に字幕はほとんどなく、ナレーションに至っては皆無である。作品の一部にはドイツ語の解説論文もあるとのことだが、今回の上映に特別な解説などはなかった。

次にイベントのスタイルについても述べておく。今回のイベントは、上映中にゲストがトークをするという、弁士付き上映のような形式で行われた(なお、関野吉晴氏は劇場でアシ舟作りの実演まで行った)。前述のように作品には説明がほとんどないため、何が行われているかわからず、ゲストの方々も私たち観客も、疑問や感嘆の声、ときに笑い声をあげながら作品を鑑賞した。

さて、作品のタイトルをいくつか見ていただたきたい。『アシ舟カバリトづくり 北ペルー 西海岸』、『夜の仮面の登場 赤道アフリカ カメルーン草原(ティカール族)』、『農家の夕食 中央ヨーロッパ チロル』、『テマリクラゲ(クシクラゲ類)行動様』、『エキノステリウムの一種 アメーバ相』。映像による百科事典を目指していただけのことはあり、様々な地域の祭式から日常、さらに人間以外までカバーしている。

個々の作品に注目してみる。『丸太を持っての儀礼的駅伝競走 ブラジル トカンティンス地方』は、半裸の人々が丸太のような物体を抱えて走るだけという、アクション映画のように面白いのだが、意味不明の作品である。わからなさで言えば『農家の夕食 中央ヨーロッパ チロル』も相当なものである。子だくさんの家族が大皿の料理をスプーンでひたすら食べる様子が16分続く。人の名前も、何を食べているのかもわからない。大勢で一皿を共通に食べるのがこの地方の風習なのか、それともこの一家だけの習慣なのかも不明である。わけのわからない映像を説明なしで見続けることが、本イベントの魅力であった。

中村佳子氏と石原あえか氏とのトークにおいて言及のあった「驚異の部屋」は、ECフィルムの性質を表す言葉であろう。驚異の部屋、ドイツ語で「ヴンダーカンマー」または「クンストカンマー」。ヨーロッパの王侯貴族らが世界中から収集した珍品を展示した部屋であり、博物館の原型ともされている。珍しいもの、よくわからないもののアーカイブであるECフィルムは、映像による百科事典であり、驚異の部屋とも言える。

よく知られていることであるが、映画の創始者とされるリミュエール兄弟も、映画の誕生直後に世界各地のアーカイブを残すためにカメラマンを派遣している。未知の世界への好奇心、その世界を手元に置きたいという収集癖と支配欲、見ることへの欲望。それが驚異の部屋からリミュエール、ECフィルムにまで共通するモチベーション、人間の性質なのかもしれない。

さて、生物系の作品を手掛かりとして、この百科事典が「映像」であることの意味を述べていこう。『オランウータン 地上での移動』と『アメリカダチョウ 走行』は、スローモーションを利用することで動物の運動をじっくりと観察したものである。これらとは反対に、『ヨーロッパアカガエル 卵割と胚発生』における美しい細胞分裂や、『エキノステリウム』の粘菌の躍動は、早送りによって人間のタイムスケールでも一連の動きとして見ることが可能となっている。また後者2作品は、肉眼には小さすぎる生物を高倍率で撮影した作品であることは言うまでもない。

これらの作品は、映画誕生以前のことを思い起こさせる。写真家のエドワード・マイブリッジ(1830-1904)は馬の疾走の連続写真を撮影した。この写真によって、人間の目には速すぎる馬の走行の様子を正確に理解することができるようになったという。マイブリッジからさらに遡ること数百年、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が望遠鏡を用いて観察した月のクレーター、木星の衛星、太陽の黒点などは、地動説を後押しする根拠になった。見ることのできなかったものが見えるようになり、人間は世界への理解を促進させたのだ。

最近は拡張現実(AR:Augmented Reality)という言葉もよく聞かれるが、そもそも視覚メディアや光学機器は現実を拡張させる手段だったのであろう。そしてECフィルムは、現実を収集した百科事典であり、同時に現実を拡張させるメディアであると言える。

2017年現在、すでにECフィルムプロジェクトは終了してしまったとのことだ。だが、TV、YouTubeなどの映像が私たちの見る範囲を拡張し、また誰もが映像アーカイブを残すことが可能になった現代は、映像による百科事典の時代であろう。いまだからこそ、先達であるECフィルムを見る意義がある。
(text:高橋雄太)



エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ


作品解説
エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ(EC:Encyclopaedia Cinematographica、ECフィルム)は、1952年にドイツの国立科学映画研究所で始まった映像による百科事典プロジェクトである。開始から約30年間の歳月を費やして世界各地に研究者・カメラマンを派遣し、3000タイトル強の映像を収集した。日本では下中記念財団がECフィルムの管理・運用をしている。

プロジェクトメンバー
●下中邦彦記念映像活用委員会
委員長/下中弘(下中記念財団理事)委員/飯塚利一(下中記念財団理事)下中菜穂(エクスプランテ)
川瀬慈(国立民族学博物館)丹羽朋子(人間文化研究機構、NPO FENICS)浜崎友子(記録映画保存センター)
●クリエイティブチーム
佐藤有美(cotoconton)林澄里(旅音)中植きさら・石川雄三(ポレポレタイムス社) 津田啓仁 下中桑太郎

公式ホームページ
http://ecfilm.net/
※デジタル化済(DVD)上映素材を有料で借りることができます
個人での視聴も可能。


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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。2016年、よかった映画は『光りの墓』『シン・ゴジラ』。ミュージアムはロンドンの大英博物館、自然史博物館。

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