2019年10月19日土曜日

東京国際映画祭ラインナップ発表会~東京グランプリの行方2019〜text 藤野 みさき

東京国際映画祭ラインナップ発表記者会見~東京グランプリのゆくえ2019〜text藤野 みさき

© 2019 TIFF

 夏が過ぎ去り、木々たちが街をもみじ色にそめるとき、秋の風がふと、私の頬をなでる。「ああ、また今年も東京国際映画祭にもどってこられたのだな」と、嬉しさと懐かしさを胸に抱きながら、私は本年度も六本木の地へと誘(いざな)われてゆく。いままで出逢ってきた、美しい映画の記憶とともに。

 東京国際映画祭は、アジア最大規模の国際映画祭としてはもちろん、日本を代表する映画祭のひとつとして日本の映画祭を牽引し、邁進しつづけてきた。そんな東京国際映画祭は1985年に幕をあけ、本年度で第32回を迎える。本映画祭には多くの部門があるのだが、ここではそのなかでも毎年最も注目を集め、最高賞である「東京グランプリ」が選ばれるコンペティション部門に焦点をあてる。本年度は115の国と地域、1804本のなかから、厳正なる審査のもとに、計14の作品が出揃った。
 今年のコンペティション部門を表すキーワードは「チャレンジング」「インスパイアリング」そして「エンターテインニング」。「監督が表現として挑戦をしているか。観客が刺激を受けるか。そして、エンターテインさせてくれるのか」。これらを主題としながら、14作品すべてがこの水準を満たしております。と、コンペティション部門を担うプログラミング・ディレクターの矢田部吉彦氏は述べる。通年「世界の秋の新作」を主題とし、今年は個性的な作品を集めてきたという、本部門。本年度はどのような世界を私たちに魅せてくれるのだろうか? そんな胸の期待とともに、ここではひとつひとつの作品を紹介してゆきたい。

『動物だけが知っている』© Jean-Claude Lother

 まずは、常連国フランスより『戦場を探す旅』。19世紀なかば、メキシコの山岳地帯が舞台となる。当時フランスはメキシコで戦争をしていたが、あるとき仏人のカメラマンが戦地におもむく、という筋書きである。19世紀の報道と職業倫理、現地のひととのふれあいが、しっとりと綴られてゆく。監督のオーレリアン・ヴェルネ=レルミュジオーはドキュメンタリー出身の監督で、本作が長編第1作品目となる。戦場におもむくカメラマンを演じるのは、近年『ダゲレオタイプの女』『ゴーギャン タヒチ、楽園への旅』など、日本公開作品も増えてきている注目の俳優、マリック・ジディ。異国の地でどのような人間もようが綴られてゆくのかを期待したい。
 続いて同じくフランスより『動物だけが知っている』が選出。監督のドミニク・モルは、フランスの名門、国立映画学校FEMIS出身の秀才だ。『ハリー、見知らぬ友人』はフランスで大ヒットを記録し、監督にセザール賞の監督賞をもたらした。本作『動物だけが知っている』は、ある雪の降る日に、女が疾走するところから始まる。複数の人物の視点で語られながら、やがて衝撃の事実が発覚する……。サスペンスを得意とするモル監督がどのようなものがたり展開を仕掛けてくるのだろうか? 監督の手腕に注目があつまる一作である。

『ネヴィア』© ARCHIMEDE 2019

 近年コンペティション部門では『ナポリ、輝きの陰で』『堕ちた希望』とナポリが舞台の作品が続いている国、イタリア。本年選出された『ネヴィア』も、ナポリが舞台の作品だ。闇商売の世界で生きる17歳のネヴィアは、とあることからサーカスに興味を抱く。現実を逞しく生きようとする姿、と聴いたとき、私は昨年同部門で上映された『堕ちた希望』のマリアを想起せずにはいられなかった。
 ヌンツィア・デ・ステファノ監督は本作『ネヴィア』が長編第1作品目となるが、プロデューサーをつとめたのが、世界が誇るイタリアの鬼才、マッテオ・ガローネである。ガローネ監督の最新作『ドッグマン』ではすばらしい、息のつまる世界を私たちに魅せてくれたが、『ドッグマン』もまたナポリ屈指の無法地帯であるカステル・ヴォルトゥルノが舞台となっていた。近年ナポリを舞台とした作品が増えているというイタリア。『ナポリ、輝きの陰で』『堕ちた希望』そして本年度の『ネヴィア』と、映画を通じて現在のイタリアが抱える社会問題をみつめてゆきたい。

『ディスコ』© Josefine Frida Photo by Jørgen Nordby, Mer Film

 お次はスペインより『列車旅行のすすめ』が選ばれた。スペイン映画がコンペティション部門に選出されるのは、10年前の2009年にまで遡る。セバスチャン・コルデオ監督の『激情』、マリオ・イグレシアス監督の『ストーリーズ』いらい、10年ぶりのノミネートとなった。メガホンをとったアリツ・モレノ監督は本作が長編第1作品目となる。監督は本作を映画化するのに6年間もの年月を費やしたという。とある列車のなかで主人公の女性に元患者の話をし始める精神科医の男。その男の話しがフラッシュバックとなってものがたりとして描かれてゆく。ものがたりの組み立て方の妙、ジャン・ピエール=ジュネ監督を想起させる奇想天外な世界観、そしてペドロ・アルモドヴァル監督を彷彿とさせる色彩感覚もぜひ堪能したい。
 ノルウェーからは、ディスコダンスを愛する少女を描いた『ディスコ』がノミネート。大会で優勝するほどの実力をもった少女であったが、やがてスランプに陥ってゆく……。その陰にあるのは、敬虔を通り越した、過激なキリスト教徒に傾倒する家族の存在があった。彼女が踊れなくなればなるほどに、家族からの圧力が彼女を苦しめる。研ぎ澄まされた映像とともに語られる、恐ろしい社会派であり、青春映画である。
 もうひとつの北欧、デンマークから届いたのは、心にふと灯をともしてくれる人間ドラマ『わたしの叔父さん』。脚に障がいを抱えながらも、愛する姪と小さな農家を営む主人公。いつも叔父さんを愛しいまなざしで見守る姪であったが、彼女には「獣医になりたい」という、ひとつの夢があった。あらすじ・映像をみるだけでも、叔父さんが大好きな、姪の優しさが充分に伝わってくる。「獣医になりたいけれども、叔父さんの面倒もみたい……。そのジレンマのさきの選択に胸が揺さぶられる、美しい作品です」と、矢田部氏も賞賛の、人間の美しい感情の機微を描いた作品である。

『ラ・ヨローナ伝説』© COPYRIGHT LA CASA DE PRODUCCIÓN - LES FILMS DU VOLCAN 2019

 ウクライナからは『アトランティス』が選ばれる。ときは2025年のウクライナ。冒頭に「終戦直後」という字幕がながれ、私たち観客はウクライナとロシアの戦争があったのだということを悟る。現在から6年後という非常に近い未来を描いた本作。主人公の男は心に傷を抱えているのだが、ひとりの女性との出逢いによってかれは自らの心と向きあえるようになる、というものがたり。本作のみどころは「強烈な美意識に貫かれ、いったいどうやって撮ったんだ! と驚かずにはいられない、ワンシーン・ワンカットにあります」と矢田部氏は述べる。それもそのはず。監督のヴァレンチン・ヴァシャノヴィッチは、2014年に世界はもちろん日本でも大きな話題となった、聾唖者たちを描いた『ザ・トライブ』の撮影監督だからである。『ザ・トライブ』の研ぎ澄まされた、しかし、暴力的で温度の低い画面とロケーション。本作が長編第1作目となるヴァシャノヴィッチ監督が、いったいどのような世界観をみせてくれるのか、非常に楽しみだ。
 続いて、グアテマラ共和国より届いたのは『ラ・ヨローナ伝説』という作品である。タイトルにもある「ラ・ヨローナ」とはメキシコ語で“泣く女”を意味し、数々の怪談話から、歌手たちも「ラ・ヨローナ」を歌いつないできた。話はそれてしまうが、メキシコが誇る伝説の歌手、チャベラ・バルガスも「ラ・ヨローナ」を魂をえぐるかのようなすばらしい歌声で歌っていることも一筆加えておきたい(ぜひ本作とあわせて聴いてみてほしい)。『ラ・ヨローナ伝説』で描かれるのは、1980年代に起きた、グアテマラの虐殺の歴史・その虐殺の指示をした罪で問われる将軍と家族たちである。20万人以上の犠牲者をだしたグアテマラの紛争。その残虐な殺戮の背景に「ラ・ヨローナ」伝説が盛りこまれてゆく、格調高き社会派ドラマである。

『ジャスト6.5© Iranian Independents

「こんなイラン映画、ちょっと観たことない!」
 矢田部氏も大絶賛! イランから届いた、ド迫力エンターテインメント大作『ジャスト6.5』! 警察とドラッグ組織の闘いを描く本作。警察側を演じるのがアスガー・ファルハディ監督の『別離』の夫役のペイマン・モアディ。対するギャング側のトップを演じるのが、近年注目のナヴィド・モハマドザデーだ。このイランの人気俳優のガチンコ勝負がみものである。国は違うが、昨年同部門で上映され、観客賞の呼びごえが高かったイスラエル・パレスチナ映画『テルアビブ・オン・ファイア』のような、興奮と熱狂を期待せずにはいられない。
 一昨年にはセミフ・カプランオール監督の『グレイン』が東京グランプリを受賞し、『ビッグ・ビッグ・ワールド』『シレンズ・コール』と、近年のコンペティション部門に必ずノミネートを果たす実力派国のトルコ。そんなトルコからは『湖上のリンゴ』が選ばれた。伝統楽器の名人になる夢を抱く少年と、舞台となる辺境の地と人々を描いた、あたたかくも美しい寓話である。師匠とともに辺境の地を離れることとなった少年は、少女にりんごをお土産として帰ってくることを約束する。「辺境の地の山々やその土地の伝統文化……。かけがえのない美しさ、大切なものが心に響いてくる、そんな作品です」と、矢田部氏もあたたかな賞賛を送った。

『マニャニータ』©TEN17P Films (Black Cap Pictures, Inc.)

 フィリピンからは凄腕女性スナイパーの心の闇を描いた『マニャニータ』。
 一本の電話が彼女の運命を動かす、という映画らしい導入に胸が高まるのだが、特筆すべきは丁寧に重ねられるショット、静寂でゆったりとしたものがたりの進行でありながらも、一瞬たりとも画面から眼を離すことのできない強度をもっていることである。共同脚本にフィリピンが誇る名匠ラヴ・ディアス監督が加わり、まさに現在のフィリピンの才能を集結した作品がワールドプレミア(世界初公開)となって上映される。
 続いて中国からは『チャクトゥとサルラ』がノミネート。見渡すかぎりの大草原に、車一台走っていない長い道路。そんなモンゴルの大地で暮らす夫婦のチャクトゥとサルラのものがたり。夫であるチャクトゥは都会での生活を夢み、妻のサルラは愛するモンゴルの自然のなかで暮らすことを望む。しかしふたりの暮らすモンゴルにも近代化の足音が聴こえてくる……。深刻な自然破壊という現在の社会問題と、夫婦の愛を描く。ワン・ルイ監督は本作で長編5本目となり、北京電影学院の教授もつとめてめている。

『ばるぼら』© Barbra Film Committee

 最後に、日本からは2本の映画が選出。
 1本目は、手塚眞監督『ばるぼら』。原作に手塚治虫・監督に息子の手塚眞・撮影にクリストファー・ドイルとまさに三拍子のそろった大注目の作品だ。さらに主演には、稲垣吾郎と二階堂ふみのダブルキャスティングである。キャスティングについて手塚監督は「多くの俳優さんたちにお声掛けをしたのですが、みなさま躊躇をされていました。そのようななかで稲垣さんと二階堂さんが答えてくださいました。その勇気に感謝をいたしますと同時に、文字通りふたりが体を張り、大変役になりきって演じていただきました」と感謝の意を述べた。ますます注目のあつまる『ばるぼら』。私たち観客の想像をはるかにうわまわる作品に仕上がっていることを期待をしている。
 そして2本目、今年のコンペティション部門の紹介を締めくくるのは、足立紳監督の『喜劇 愛妻物語』。安藤サクラを主演に迎えて大ヒットを記録した『百円の恋』からはや5年。本作は足立監督みずからの同名自伝的小説を映画化した作品である。売れない小説家役の夫・濱田岳と、そんな夫に悪態をつく恐妻の水川あさみ演じる夫婦の悲喜こもごもをあたたかく描く人生賛歌である。

 以上の14作品が本年度のコンペティション部門で上映される。
 振りかえって印象的であったのが、長編第1作品目・または2作品目となる監督の作品が多く選出されていることである。本年度のコンペティション部門のキーワードのひとつである「チャレンジング」は、映画の未来へと羽ばたいてゆく監督たちの挑戦に加え、ここから世界へとあたらしい映画を輩出してゆきたいという、コンペティション部門の挑戦であり、希望であり、ねがいとも言えるのではないだろうか。瑞々しいあらたな才能を発見するよろこびとともに、本年度のコンペティション部門の作品の魅せる世界観を存分に堪能したい。

(text:藤野 みさき)


【コンペティション部門作品解説】
※ 各作品をクリックすると公式サイトの作品紹介ページに移ります。

◉ ヨーロッパ

89分 カラー フランス語・スペイン語・英語 |2019年 フランス/コロンビア ワールド・プレミア

117分 カラー フランス語・コートジボワール方言 |2019年 フランス アジアン・プレミア

87分 カラー イタリア語 |2019年 イタリア アジアン・プレミア

103分 カラー スペイン語・フランス語 |2019年 スペイン/フランス インターナショナルプレミア

95分 カラー ノルウェー語・英語 |2019年 ノルウェー アジアン・プレミア

106分 デンマーク語 |2019年 デンマーク ワールド・プレミア

108分 ウクライナ語 |2019年 ウクライナ アジアン・プレミア


◉ 中米・中東

96分 カラー スペイン語、カクチケル・マヤ語、イシル・マヤ語 |2019年 グアテマラ/フランス アジアン・プレミア

134分 ペルシア語 |2019年 イラン アジアン・プレミア

◉ アジア

103分 カラー トルコ語 |2019年 トルコ ワールド・プレミア

143分 カラー フィリピン語 |2019年 フィリピン ワールド・プレミア

111分 カラー モンゴル語・北京語 |2019年 中国 ワールド・プレミア


◉ 日本

100分 カラー 日本語 |2019年 日本/イギリス/ドイツ ワールド・プレミア

117分 カラー 日本語 |2019年 日本 ワールド・プレミア
配給:バンダイナムコアーツ/キューテック


【第32回東京国際映画祭】
期間:20191028日(月)〜115日(火)9日間
開催会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)、東京ミッドタウン日比谷日比谷ステップ広場(千代田区)ほか都内の各劇場及び施設・ホール
公式ホームページ:https://2019.tiff-jp.net/ja/


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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、美容・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。心の深呼吸を大切に、ひとつひとつのことに丁寧に向きあうことを目標としています。十代から馴染みの深い東京国際映画祭。開幕が楽しみです!

Twitter@cherrytree813

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2019年8月12日月曜日

映画『アマンダと僕』評 text今泉 健


「リアリティとは何か」


「怒れる人間はまだ幸せだ」というのは最近のテレビドラマで聞いた印象に残るセリフです。2019年上期のNHK朝ドラ『なつぞら』で開拓民一世の柴田泰樹(演:草刈正雄)が言いました。戦災孤児で柴田家で世話になることになった主人公なつ(演:粟野咲莉のちに広瀬すず)は冷たいことを言われたり、からかわれても笑っていたり感情を露わにしないので、そのことでさらに周囲の子供達、大人までもイラつかせることになります。泰樹はそんな、なつを見て、「不幸で追いつめられると不安感しかなく、生きるのに精一杯で怒ることすら忘れる」というようなことを語ります。そしてなつが「なんで私には家族がいないの!」と自分の境遇について感情を爆発させたら、「もっと怒れ」と抱きしめたのです。何か行き詰まった状況を越えるには怒りも必要だと言いたかったのかもしれません。
 映画『アマンダと僕』はテロリズムという行為ではなく、あくまで、それに影響を受け翻弄される、被害者である庶民の目線で描いています。犯人について描写はほとんどなく、それがかえってテロリズムの無情さ非情さ理不尽さを感じさせます。欧米の映画では衝撃的な実話ベースの『ウトヤ島、7月22日』監督:エリック・ポッペなど被害者目線の作品もありますが、これはフィクション。テロリストを中心に取り上げればどうしても彼らに人間味を与えたくなりますが、被害者目線ならどう考えても彼らは悪魔にしか見えないでしょう。そんな彼らの理屈を公開されたって傷つくだけのように思えますし、そもそも見ないと思います。もちろん様々な視点の作品は必要なので、だからこそ必要不可欠な視点に思えます。伏線的に実行犯が町にいる様子ですとか、テロの予兆のようなことを匂わせそうなものですが、このような一般人の被害者を描く場合は、むしろそれはフィクションの世界だと気づかされました。現実は何の前触れもなく巻き込まれていくものなのでしょう。また、事件後も葬式など非日常なドラマティックなセレモニーではなく、あくまで日常生活に焦点を当てて感情のうねり、起伏を描いてているのが効果的です。セレモニーの場面もあっていいのですが、実際儀式で必ず心の整理が着くものではないですし、最中は緊張もあったり気も張っていたりで、感情を表す余裕はないものだ思いますから、やはり、悲しみなどの感情は日常不意を突いて顔を出すものだと思います。この辺がフィクションでありながら、いや、だからこそ描き出せる現実味を感じます。
 舞台は初夏のパリ、「僕」ダヴィッドは24歳の男性。乱射テロでそれまでささやかに築いていた日常は崩れ去り、姉は亡くなり付き合い始めたばかりの恋人は負傷をして故郷に去ってしまいます。当たり前に会えると思っていた人に急に会えなくなることの虚無感。何の報復だか知りませんが、そこにどんな大儀があろうとやはり理不尽という言葉しか浮かびません。庶民のささやかな幸せを奪う権利は誰にもなく、見ている方は怒りを覚えますが、この主人公は憎しみや怒りの感覚がないように見えます。冷静でただ懸命に生きるだけ、だから時に感情がこみ上げたり爆発する場面を見ると心を大きく揺さぶられ、彼に感情移入してしまうのです。そしてこれが凄いのですが、彼は自分を憐れむ様子がありません。自分が彼の境遇なら、自分にと考えるなど卑近ではありますが、やはり不運を嘆き、憎しみも湧いてしまうだろうと思います。しかし憎しみの心より、ただ姉の死と恋人が去ったことを正面から悲しみ、悩みもがき苦しみながらも、自分の幸せを取り返そうととにかく諦めません。彼の場合、(たぶん)無神論者であることが大きな要素だとあるとして、でももう一つ、むしろこれがメインである大きな要素があります。原題の”AMANDA”、 シングルマザーの姉の忘れ形見で1人娘、彼からすると姪っ子の「アマンダ」、7歳の女の子の存在がとても大きいのだとわかります。この姉弟は身寄りといえる人がほとんど近くにいません。というのも今はパリ在住ですが、幼い頃離婚した実の母親はイギリス人で家を出て、現在はウインブルドン辺りに在住です。姉弟は父親とパリで暮らしてましたが、父親は既に鬼籍に入ってます。アマンダの父親とも疎遠、パリ在住の叔母は良い人ですが、ただ小学生の子供を引き取るには少し年齢が行き過ぎていて、ということで「僕」が面倒を見るのが妥当ということになります。急にそんな覚悟を決められるシングルの20代男子は古今東西そんなにいないでしょう。アマンダももちろんお母さんの死を受け入れられず、「僕」を振り回しますが、わがまま具合が絶妙で心の葛藤が見て取れて、気持ちを理解できます。そんなアマンダは「僕」にとって悩みの種ですが、彼女の存在が「僕」を自己憐憫へ向かわないような防波堤になっていると思えるのです。アマンダのことを考えると怒っているような余裕がないのかもしれません。何も世話をされる側のみが恩恵に預かるわけではなく、精神的に共助の関係だとわかります。
 NHKの朝ドラ『なつぞら』でも行き詰まった現状、諦めや自己憐憫を乗り越える手段としてまず怒ることは必要だと語っているように思います。とにかくこの手の感情が残ったままだと人は前向きになれないということではないでしょうか。「僕」ダヴィッドはめったに怒りませんが、無音になって感情を露わにした場面がありました。それこそ怒りの爆発だったのかもしれません。こうしてみると、自分はなんて不幸なんだという自己憐憫に陥ることこそ諸悪の根源なのかと思えてきます。この負の感情に浸らず、断ち切ることこそが人を前向きにして、憎しみの連鎖を切る処方箋なのかなんて、私の勝手な感想ですが、そう思えます。そして同時に、もう賞賛するのみですが、人は苦境に立った時でも日常のちょっとしたことで前向きになることもあるでしょう、とそんなことも示唆しています。日常に焦点を当てたことが奏功しています。笑顔こそが大切で、日頃悲しみや不安がある状況でも、笑顔になれる可能性は大いにあると伝えているわけです。
 作り手は考えているかどうかわからないことも見る側に想像させて、かといって、すべてを見る側に投げるわけではない。これこそ映画です。だって自己憐憫を断ち切った先まで示しているのですから。それが表情や感情が豊かなアマンダの存在、言ってしまえば彼女の笑顔です。この笑顔が明るい未来の象徴であり、日常のちょっとした風向きの変化で生まれるものだからこそ、実は探せば様々な場所、場面に出会えそうに思えてきます。まさに「希望」がリアリティを持って感じられるのです。

(text:今泉 健)



『アマンダと僕』
(2018 / フランス / 107分 / 仏語)

作品情報
監督、脚本:ミカエル・アース
出演:
バンサン・ラコスト
イゾール・ミュルトリエ
ステイシー・マーティン
オフェリア・コルブ
マリアンヌ・バスレール

受賞歴
第75回ベネチア国際映画祭(2018年)オリゾンティ部門マジック・ランタン賞
第31回東京国際映画祭(2018年) 最高賞の東京グランプリと最優秀脚本賞をW受賞

あらすじ
パリに暮らす24歳の青年ダヴィッドは、恋人レナと穏やかで幸せな日々を送っていたが、ある日、突然の悲劇で姉のサンドリーヌが帰らぬ人になってしまう。サンドリーヌには7歳の娘アマンダがおり、残されたアマンダの面倒をダヴィッドが見ることになる。仲良しだった姉を亡くした悲しみに加え、7歳の少女の親代わりという重荷を背負ったダヴィッド。一方の幼いアマンダも、まだ母親の死を受け入れることができずにいた。それぞれに深い悲しみを抱える2人だったが、ともに暮らしていくうちに、次第に絆が生まれていく。

公式ホームページ
http://www.bitters.co.jp/amanda/

劇場情報
YEBISU GARDEN CINEMA
シネスイッチ銀座でアンコール上映を予定

2019年2月14日木曜日

映画『ゴッズ・オウン・カントリー』評text井河澤 智子


「『ゴッズ・オウン・カントリー』をめぐる、雑多なあれこれ 」


・序文
去年の初夏のことである。
私は、同僚と喋りながら、新橋から有楽町までの線路沿いの道をテクテク歩いていた。
ひっきりなしに行き来する電車の音に、話し声はしょっちゅう掻き消された。

彼女はダイバーシティに関心を持ち、その方面で活動している。そして私は映画が好きである。映画の世界ではダイバーシティがトレンドと言っても間違いではなかろう。ここ数年、ろう者やもう者が活躍する映画が取り上げられることも多く、またLGBTQを扱った作品は特別なものではなくなっている。しかし、私はそれらのテーマに特別な関心はない。むしろ、ダイバーシティの概念からこぼれ落ちた自らの状況 ––全てに見放されたロスジェネ、孤独死を心配されるレベルで異性に縁のないヘテロセクシュアル、ワーキングプア量産業種から足を洗った結果の定職なし、これらを扱った映画があったら是非観たいものである。激しく辛気臭い、最強の鬱映画になり得るだろう–– ゆえに、ダイバーシティについては斜め上の解釈や、決して適切ではない感想を覚えることもままある。とあるLGBTQ映画について、彼女に感想を問われ、ざっくりと不適切な感想を述べた時、あまりにも自分は正直すぎるな、と若干後悔した。しかし、やむを得ない。

新橋から有楽町までの、そんなに遠くない道のりでの会話は、まもなく開催される第27回レインボー・リール東京で上映される映画についてであった。パンフレットの表紙は2本の映画が飾っていた。ワン・ユーリン『アリフ、ザ・プリン(セ)ス』(2017)は既に前年の東京国際映画祭で観ていたため、台湾映画においてLGBTQがどれだけ大きなテーマとなっているかについて、ひとくさり偉そうに講釈を垂れてしまった。釈迦に説法である。
彼女は、もう1本の方もかなりの話題作で、是非観たいんだけど……と教えてくれたが、調べたらチケットは既に完売していた。
いつもレインボー・リールの時期は諸々ハマらない。私の仕事は土日がないうえに、春の現場が終わった疲れがドッと吹き出してくる頃なのである。結局レインボー・リールには行けなかった。

彼女が教えてくれた映画は、フランシス・リー『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)だった。

私はその頃、ルカ・グァダニーノ『君の名前で僕を呼んで』(2017)を観たばかりで、どうにもなぜこの作品がこんなに絶賛されるのかさっぱりわからなかったのである。私は「BL」という呼称が市民権を得る前、一部の界隈で「やおい」なるジャンルが密かに隆盛を誇っていた時期を知っている(残念ながらそんなどうでもいい知識だけはあるのだ)。これ、昔ならではの「やおい」じゃねーか、てな感想しか抱けなかった。この違和感は数ヶ月後にその理由がわかる。まぁ後で話すよ。
ものすごく長いマクラだが、『ゴッズ・オウン・カントリー』について語るには、どうしてもこういった記憶がついてくる。

・ベストゲイ映画って!
またとんでもなく直球な惹句である。twitterのハッシュタグに燦然と輝く5文字のカタカナ。
よくよく考えてみたらLGBTQものの映画なんて枚挙に暇がない。ヴィスコンティ『ベニスに死す』なんて1971年の公開、決して「同性愛」要素の強い映画は新しいものではない。バリー・ジェンキンス『ムーンライト』は2016年の公開ではあるが、強く影響を与えたとされる、ウォン・カーウァイ『ブエノスアイレス』は1997年の作品である。「ゲイ映画」なるジャンルは深い。

レインボー・リールで見逃した作品が「のむコレ2018」でかかる、と知った。
私はフッと初夏のあのガード下での会話を思い出し、チケット発売時間には、前売りを抑えるべくネットに張り付くこととなった。

シネマート新宿の混雑ぶりは半端ではなかった。前売りチケットを紙で発券することもままならず、携帯の予約画面を頭上に高々と掲げるだけで入場できるという、どこかで見たことあるなぁこんな光景、と思ったら夏のロックフェスがそんな感じであった。フェス! 
客層はざっと8割以上がフィーメルであった。自分と同世代の女子が大多数を占める劇場で、この中で『モーリス』(1987)に人生を左右された人どれくらいいるんだろう、とぼんやり考えていた。ちなみに私は未見である。

ゴッズ・オウン・カントリーとは、作品の舞台であるイングランド・ヨークシャー州の実際の愛称である。神の恵みの地、とは言っても映し出されるのはうすら寒い曇天と荒涼とした大地である。滴る豊穣さとは程遠いが、神は分かりやすい恵みばかりをを与えるわけではない。
祖母と病身の父に代わり、この地で牧場を切り盛りする若者ジョニー。鬱屈を夜な夜な酒と行きずりのセックスで紛らわす日々である。……毎晩吐くほど飲みながらも毎日きっちり家畜の世話をするジョニーはむしろ偉いのではないか…… 。
羊の出産時期はひとりでは乗り切れないため、季節労働者を募ったところ、来たのはルーマニアからの移民、ゲオルゲだった。むさ苦しい野郎2人の物語。

ヨークシャー州は移民が多く、彼らの働きによって産業が成り立っているという。特に近年急激に東欧からの移民が増加し、彼らに対する住民感情は決して良好なものではないらしいことが伺える。ジョニーもゲオルゲに対して当初それほど友好的ではない。しかし、ジョニーはあらかじめやさぐれた性格として描写されているためか、ゲオルゲへの侮蔑的な扱いは、差別感情からなのかどうかははっきりしない。ジョニーは誰に対しても雑なのだ。
2016年6月に行われたEU加盟における国民投票で、イギリスはブレグジットの問題に直面することとなる。ヨークシャー州は離脱派が優勢であり、移民問題もその一因であるらしい。ゲオルゲがジョニーの元に来るまでどこで働いていたかは、劇中で描写があったかどうか覚えていないが、ジョニー行きつけのバーでの、常連たちのゲオルゲへの態度で、歓迎されざる者であることが描写される。
それでもジョニーはゲオルゲに住居としてトレーラーを貸し与え、「従業員」として迎え入れる。彼は病身の父の面倒も見ているせいか、優しいところもあるようだ。

羊の出産時期の仕事は過酷だ。夜中の仕事なので食料を大量に荷物に詰め、彼らは出かける。そして牧場で過ごす。家畜は彼らにとっての食い扶持であり、おろそかにすることはできない。彼らはそんな中2人きりで過ごす。
普段バーで呑んだくれ、ワンナイトラブの日常を送るジョニー。持て余した「力」はゲオルゲに向けられる。一旦はねじ伏せられるが、再び挑みかかる。男同士のマウントの取り合いはまるで古代のレスリング。そして、ゲオルゲはジョニーを受け入れる。

ゲオルゲはジョニーにとって「導き」であろう。死産の羊の皮を剥ぎ、生き残った羊にかぶせて保護する熟練の技もあり、搾乳した乳をチーズとして高く売る知恵もある。若く粗暴なジョニーに対する柔らかな態度。それは移民として生きていかざるを得ない彼の処世術かもしれないし、本当に心根が美しいのかもしれない。ジョニーが惹かれていくのも当然である。常に鬱屈を抱えてきた青年が、懐深く優しい青年と、過酷さを超えて愛し合うようになるのは、あり得ることだ。
しかし、ここでひとつの疑問点が生じる。

この土地で、「男を愛する男」であることには何か問題はあるのだろうか?

どう見ても狭い世間、ジョニーは臆することもなく男を漁り、しかし別にそのことは彼にとってマイナスになっているとも思えない。
祖母が「その痕跡」を見つけてしまった時の、それほど激しく動揺しているようにも見えない表情と、その始末をする仕草に、孫がゲイである、というショックは「それほど」感じられないのである。
さて、「ゲイ映画」とはなんぞや、という問いが改めて私の中で頭をもたげる。マイノリティが感じる社会の不寛容があるのだとすれば(おそらくそれは「在る」のだろうが)それに対する問題意識を提示する、そういう類の作品もある。しかし。

ひょっとしたらこの作品は、それが友情であれ、愛情であれ、「人と人が心を通じ合わせる」その難しさと、しかし「できるのだ」という肯定、同時に「別の不寛容」を描いているとも考えられるのだ。彼らの暮らす地では「同性愛者より移民への排斥感情」の方が強いのではないか、とも思える。単純に作中で触れられていないだけかもしれないが。
ゲオルゲがジョニーの元を去ったのは、ジョニーの失態もさることながら、地域から受け入れられていないことを察したためもあるのだろう。

ゲオルゲが旅立った先は、従業員の多数が東欧系であった。
長く移民に労働を求めてきたかの地は、「イギリスの独立を取り戻したい」とは言えども、即座に彼らを排除することは不可能なのである。彼らに対するアンビバレントな態度は、あまりにも身勝手と言わざるを得ない。
そしてそれは日本の「外国人労働者受け入れ」が引き起こすであろう問題をも想起させる。 

・神に恵まれた地の羊飼い
『ゴッズ・オウン・カントリー』は、「羊飼い」たちの物語でもある。
「神」に恵まれた地。聖書において、羊飼いという存在は大きい。まず、イエス・キリストが誕生した時、その知らせを最初に知り、礼拝に訪れたのは、夜通し羊の番をしていた羊飼いたちだという。かの時代、羊飼いたちは社会の最下層に置かれ、蔑まれていた貧しい人々であったそうだ。自暴自棄の荒んだ生活を送っていたジョニーと、移民として煙たがられる存在のゲオルゲのようである。2人は、神に恵まれたこの地で、巡り会うべくして巡り会ったのかもしれない。どんよりとした閉塞的な田舎の光景が、2人の関係性が深まっていくにつれ、どんどんと光を増し、美しいものとなっていく様が印象的であった。ゲオルゲはジョニーを救う「御使い」である。マジ天使。

曇天から差す光 ––ヤコブの梯子 –– に照らされた、冬のヨークシャー州の景色が雄大に映える。 

・2018年に話題になったもうひとつの作品について
『ゴッズ・オウン・カントリー』は極めてシンプルで骨太な作品である。ここで、先ほどロングパスを放った『君の名前で僕を呼んで』について、記してみようと思う。
『君の名前で僕を呼んで』は、実はかなり高い教養を観るものに求める作品で、古代ギリシャの少年愛についての知識がなければ、そして劇中のシンボルを読み解くことができなければ、それこそ単なる「やおい」的にしか受け取れないものなのだった。初っ端からあらわれる彫刻から察しろよ自分。
古代ギリシャにおいて、少年愛はむしろ「当たり前」「嗜み」で、成人男性が少年を愛するのはある意味「教育」だったんだそうである。裕福で教養あふれる家庭、学歴の高い男性と美しい少年。「その時代」を現代に翻案しているのではないだろうか。
イタリアの美しい景色に彩られた、この2人のセクシャルな関係は、実に唐突に始まり、一方的な心変わりで終わる。私はその「突然さ」に、なんだよただの「やおい」じゃねーかよ、と思ったのだが、これは古代ギリシャの少年愛が「期間限定」のものであることを踏まえると、納得ができるのである。『ゴッズ・オウン・カントリー』とは別の文脈で考えるべきであろう。どちらが優れている、ということは別である。ただ、”Not for me”ってやつだ。
古代ギリシャの少年愛については、稲垣足穂などの文章を読んだことがあるが、資料の現物が手元にない。それを思い出すまで半年以上かかった自分の頭の悪さを恥じている。

special thanks to・あんずさん
(text:井河澤智子)


『ゴッズ・オウン・カントリー』God’s Own Country
(2017 / イギリス / 104分 / 英語・ルーマニア語)

作品情報
監督:フランシス・リー
出演:ジョシュ・オコナー
   アレック・セカレアヌ 
   ジェマ・ジョーンズ 
   イアン・ハート

あらすじ
ジョニーは老いた祖母と病気の父に代わり、ヨークシャーにある家族の牧場を営んでいる。
日々の孤独な労働を酒と行きずりのセックスで癒すジョニーのもとに、ルーマニア人移民のゲオルゲが手伝いにやってくる。
初めはゲオルゲを受け入れないジョニーだったが、隔絶された荒野で共に働くうちに次第に心を開いていく。英国インディペンデント映画賞、テディ賞のほか、世界中の映画祭で受賞した、2017年のベストゲイ映画。

公式ホームページ
http://finefilms.co.jp/godsowncountry/

劇場情報
2月2日より全国順次公開。シネマート新宿他にて上映中。

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

先ほど『アリフ・ザ・プリン(セ)ス』についてちらっと触れましたが、この作品と似たような内容が、なんとライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『13回の新月のある年に』(1978)に表れているなと感じました。
ファスビンダーすごいな。
マーラー第5番アダージェットが使われているのは『ベニスに死す』へのアンサーかな…… 。
映画と映画の関連を無理やりにも見つけるのは結構楽しいですね。あんまりいいクセではないけれど。

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