2020年12月29日火曜日

東京国際映画祭2020〜映画『私は決して泣かない』TIFFトークサロンレポートtext藤野 みさき

© Akson Studios

映画を観ていて一番大切なことというのは、目の前のスクリーンで観ているひとが「本当にこの人生を生きているのだ」と、納得できること。それが私にとっては映画の感動につながるのです。——ピョートル・ドマレフスキ


  本年度の東京国際映画祭で「ユース(TIFF ティーンズ)」部門はもちろんのこと、上映された作品のなかでも最も評判の良かったポーランド映画『私は決して泣かない』。出稼ぎに出ていた父親の訃報を受け、ポーランドからアイルランドに遺体を引き取りにゆく主人公の17歳の少女、オラの成長と青春を描いた作品です。ひとり祖国を離れ、亡き父親の出稼ぎ先であるアイルランドへと渡り、そこで様々なひとを通じて彼女が成長してゆく姿に、多くの観客が胸をうたれました。

 今回のTIFFトークサロンの司会進行役は、東京国際映画祭シニア・プログラマーの矢田部吉彦さん。新型コロナウイルスで来日が叶わなかった、ピョートル・ドマレフスキ監督をオンラインでお迎えし、約一時間にわたり、本作に込めた想いや作品の背景・撮影のエピソードを語っていただきました。ここに、トークの模様の全文を記します。


(東京国際映画祭2020 TIFFトークサロンアーカイヴより。構成・文:藤野 みさき)


Q.  TIFF Talk Salonとは?

A. 新型コロナウィルスで来日の叶わない海外のゲストとオンラインを通じて作品の話を伺ったり質疑応答をおこなうところです。

 

* *  * 


Ⅰ ピョートル・ドマレフスキ監督のキャリアについて


矢田部吉彦さん(以下矢田部):今回のゲストをお招きしたいと思います。『私は決して泣かない』のピョートル・ドマレフスキ監督です。ピョートルさん、どうぞ!

 

※ 監督が画面に映しだされます。

 

矢田部:(笑顔で手を振って)Hello!こんにちは。ようやくお逢いできて嬉しいです。

 

ピョートル・ドマレフスキ監督(以下PD):(笑顔で手を振りながら)Hello!こんにちは。私こそこの場に立ちあうことができて大変光栄に思っております。実際に東京にゆけたらそれに越したことはなかったのですが……残念です。私にとって日本は大変美しい国で、是非とも伺いたいと願っておりました。しかし、この状況下では仕方がございません。この状態を乗り越えてから伺いたいと思います。

 

矢田部:ありがとうございます。まず私から感謝のことばをお伝えしたいと思うのですけれども、この作品は観た瞬間にこころに突き刺さるすばらしいストレートなものがたりで、十代のヒロインの生き方に勇気をあたえられるすばらしい青春映画だと思いました。この作品を日本の若者たちを中心に映画祭で紹介できることを光栄に思っております。まず「本当にありがとうございます」とお伝えさせてください。

 

PD:ありがとうございます。

 

矢田部:本作品にはいる前に、すこしピョートルさんのキャリアについてをお伺いしたいと思います。監督は1983年ポーランドのポドラシェ県ウォムジャ生まれでいらっしゃいます。初長編監督作品『サイレントナイト』を2017年に撮られているのですが、もともと監督を志したのは何歳くらいのときだったのでしょうか?

 

PD:実は私は6人兄弟の長男なのです。妹が4人、弟が1人おります。ですから、6人兄弟の長男というのは、生まれながれにして監督をせざるをえない状態でした。

実は私は監督ではなく、まず脚本から書き始めました。そのきっかけとなったのが、学生時代に学校で芝居をすることがありまして、それで私が脚本を書くことになりました。脚本を書きたいから書くのではなく、私が脚本を書き、みんなをまとめ、練習させて芝居をさせる。それが一番手っ取り早かったのです。でも学生ですから他のこともしたい。ですから「この学校のお芝居をどう早く片付けたらいいのか」を考えたとき、自分でやるのが一番早いと思ったのです。

 

矢田部:映画をやろうと思ったときに、好きだった映画監督や作品がありましたら教えてください。

 

PD:そうですね。私はポーランド人ですので、やはりクシシュトフ・キェシロフスキ監督を大変尊敬しております。しかし、私はすこし変わったテイストを持っておりまして、海外の監督さんで言えば唯一誰かひとり、ということはありません。強いて言えばトルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督にとても惹かれます。


Ⅱ ものがたりが生まれるまで


矢田部:ありがとうございます。では具体的に『私は決して泣かない』についてお話しをお伺いしたいのですが、2017年に第一作品目を撮られて、約三年が経ち二作目ということだと思うのですが、このものがたりはそもそもどのように着想を得られたのか。そこを伺うところから始めてもよろしいでしょうか。

 

PD:はい。実はこのものがたりの核となる「父親が外国で亡くなり、遺体をポーランドに引き取らなければならない」というできごとは実際に私の友人に起きたことなのです。ただ、この映画でご覧いただいたものがたりというのはそれだけで、他の細かい部分は全て変えました。彼らが置かれている状況や家族が置かれている社会的な階級なども変えましたし、移民の問題を付け加えたりですとか、主人公もだいぶ変えて描いております。

 

Ⅲ 劇中の街 監督がポーランドの街に込める想い


矢田部:なるほど。いま色々変えられたと仰られましたが、映画のなかで主人公のヒロインが実際に暮している街というのは、ポーランドのなかではどのような場所なのでしょうか? あの場所を設定したことにポーランド人であれば何かわかることがあるのかどうか。もしもありましたら、私たちに教えていただけますか。

 

PD:あの街には特別な意味があります。その特別な意味といいますのは、典型的なポーランドの街だということです。なぜ典型的な街を選んだのかといいますと、「ああ、この街知っている。僕が住んでいる街だ」という風に、映画を観ているポーランド人の誰もが共感できる・共鳴することができる街にしたかったのです。ワルシャワでしたり、クラクフでしたり、そのような街をすこし彷彿とさせるようにしました。そして何といっても、私の国ポーランドは元共産主義の国です。ですからその時代の傷跡というものが、街の建物を始め、至るところにまだ残っております。そのような部分も出しつつ、誰もが共感できる街を選びました。


Ⅳ 父親の出稼ぎ先にアイルランドを選んだ理由と社会的な背景


矢田部:(深くうなずき)なるほど……。とてもよくわかります。ありがとうございます。そして、父親の出稼ぎ先として、アイルランドという設定にされたのは、どのような理由があるのかを教えていただけますか?

 

PD:大変重要な意味があります。実は2000年に移民や出稼ぎなどが大変大きな運動としてポピュラーになったのです。その行き先が主に英国またはアイルランドでした。私は正確な人数は覚えていないのですが、約150万人の方々が、5年から10年の間に、これらの国に渡ったということです。そこで自ずとポーランド人の大きなコミュニティもできましたし、大変大きな社会的なムーヴメントとしてポーランドでは評価されております。その結果、悲しいことにこの映画でも描かれていた出稼ぎ孤児と言いますか、出稼ぎに行った親たちの残されたこどもたちがあたかも孤児のように暮らさなければいけないという現象が起きました。

 

Ⅴ 主人公オラについて 少女の内面を描くために


矢田部:なるほど。なので主人公のオラのようなこどもたちは普通に存在し得たということですね。そして、オラ(ゾフィア・スタフィエイさん)のヒロインがすばらしくて、本当に人間像がすばらしく描かれていると思うのです。とは言いましても、まだ17歳の少女です。この17歳の少女の内面を掘りさげるために監督がなされた工夫や、どのようにアプローチされたのかを教えていただけますか。

 

PD:先ほども申しましたが、私には4人の妹がおります。ですので私自身の経験を生かしてこの脚本を書いていたのですが、4人の妹たちに囲まれて育った環境というのはかなり女性に囲まれた環境でありまして、もう直に自分の肌で感じているのです。女性がどのようなことを考えるのか、あのような若い女の子たちが何を考えるのか。ですので、強いて言えば私の4人の妹たちの生き方・性格、それらをすべてあわせて、この「オラ」という役を書きあげました。そして、私の家族は大家族でした。その大家族のなかで若い女の子たちが、いかに自分を表現するのか、いかにひとりの人間として独立をしてゆくのか、そのことに彼女たちは大変苦労をしていたのです。そのような様子を私も目にしていたものですから、そういった部分も書きいれました。また、私も同じような街で育地ましたので、とにかくこの脚本を書くにあたりましては、できる限り現実的に、そして現実に直したものを書こうと努力いたしました。


Ⅵ ひとりの少女が過酷な現実から自らを守るために


矢田部:監督わかりやすいお答えを本当にありがとうございます。視聴者の方からの質問です。

Q1. 主役のオラはすぐに感情的になる一方で、兄に対してとても優しかったのが印象的でした。玄関のごみもきちんと捨てていました。あの環境で彼女の心の奥が優しいままでいられた理由は何でしょうか?

 

PD:私は逆に考えておりました。つまり彼女はもともと大変心の優しい感受性の強い女性なのです。ですが、彼女が置かれている状況や周りの環境によって、自分に鎧を着せなければいけない状況になったのです。その鎧をまとうことにより、彼女の短気な部分、または怒りやすい部分が出てしまう。でもそれは彼女にとっては鎧の部分だと考えております。


Ⅶ 監督が描きたかったポーランドの現在


矢田部:Q2. 17歳で一家を背負うことになる少女の姿を通じて観客に勇気を与えることのできる映画だと思うのですが、一方でポーランドの社会福祉政策の不備のようなものを告発するような目的は監督のこの脚本に意図としてありましたでしょうか。

 

PD:私がこの映画のなかで描いた生活というものはとても現実的なものです。この状況がいまポーランドで起きているのです。このことを私はみなさまにお見せしたいと思いました。まさにポーランドではこうだということを。世の中は常に変化しております。しかし、それは誰にとってもではないのです。我々はいわゆる取り残された国だという気持ちが強くあります。世界中の国々が、そして人々が、より豊かな生活を享受できるようになってきております。技術的な発展もあります。だけれども、それがどこの国でもなくポーランドではその変化に乗じることができず、次のステップにジャンプすることもできず、動くこともできずにそこに置き去りにされているのです。

 

Ⅷ 長年抱いていた父親との願い


矢田部:ありがとうございます。

Q3. オラは出稼ぎ先で様々なひとから父の話を聞くうちに父の人生をすこしずつ理解し、最終的にヘアサロンの彼女に貯金を渡したシーンで、娘がひとりの人間として父親と彼女の人生を肯定できるまでに成長した思いました。そこで質問です。脚本段階でお金をポーランドの実のお母さんに渡す結末もあったのでしょうか?

 

PD:いいえ、そのようなアイディアはまったくありませんでした。それはまさにポーランド人がよくやることだからです。ポーランド人はそのようなお金があれば両親に渡します。ですからあえて私はオラにポーランド人ぽくないことをしてもらいたいと思ったのです。そして、オラと父親の関係についてすこしお話しさせていただきたいのですが、お父さんは不在でした。ですので、オラはアイルランドにゆくことによって、父親との存在しなかった関係を清算したい。という思いがあったのです。そして映画の最後では父親と念願であったドライヴをします。悲しいかな、父親はもう亡くなっています。彼女は(父親の棺の乗っていない)霊柩車で亡き父親と一緒にドライヴをするのです。そして彼女の夢を彼女なりに果たします。彼女は他の夢もそのようなかたちで実現しているように思えるのです。お金をサラに返したこともそうです。彼女にとってサラというのは、自分と同じように屈強に立たされている、とても困っている女性です。ですから、「自分と似ているな」という親近感も感じたのでしょう。そして自分が「いつも誰かに助けてもらいたい」と思っているのと同じように、「自分は彼女を助けてあげたい」と思いました。自分が初めてひとを助ける側になってみようと思ったのです。そこには先ほども申しました彼女の優しさがありますし、内心「良いひとになりたい」という希望も持っているのだと思います。


© Akson Studios

Ⅸ 主人公オラを演じたゾフィアさんについて オーディション時の逸話


矢田部:うん……。監督、本当にいい脚本ですね!

いままでオラのことを話してきましたが、そろそろ(主役のオラを演じられた)ゾフィア・スタフィエイさんについてお話しをしなければいけませんね。すばらしい女優さんで、この映画を引っ張ってくれました。ゾフィアさんをどのようにしてキャスティングをなされたのか、その経緯を教えてください。

 

PD:オラを演じてくれる女優さんを見つけることは大変難しい道のりでした。これは私の個人的なことなのですが、私はかねがね有名な女優さんを起用したいとは思わなかったのです。テレビ、コマーシャル、またはインスタグラムで顔の売れている方々……。これは私が映画を観ていて自分が思うことなのですが、映画を観ていて一番大切なことというのは、目の前のスクリーンで観ているひとが「本当にこの人生を生きているのだ」と、納得できること。それが私にとっては映画の感動につながるのです。ですから、現実感のある、説得力のある女優さんを求めました。そして何をしたかといいますと、通常のオーディションです。多くの女優さんたちにデモ・テープを送っていただきまして、演技を見、審査をしてゆきました。

審査は5段階にわけて行いました。それぞれの段階でどんどん人数も少なくなってゆきまして、最終審査のなかで3人が残ったのです。ゾフィアもそのうちのひとりでした。そして私は彼女だと確信を持っていたのですけれども、プロデューサー、そしてこの映画の関係者たちが「まったく演技経験のない彼女にこの映画を任せることはできない」と反対をしたのです。「この役を演じられないだろう」という意見が主でした。そこで私は彼らに問うたのです。「ABC、という女優さんがいたとしましょう。では、Aさんがいなくてもこの映画は作れると思いますか?」と。みんな「作れる」と言いました。「では、Bさんはどうですか?」と問いかけましたところ、同じ答えでした。残ったCさん、つまり「ゾフィアなしでこの映画を作れますか?」と問いましたら、みんな首を横に振ったのです。そこで、最終的にゾフィアに決定いたしました。

 

PD:ちょっとひとつだけ付け加えさせてください。

生でオーディションをしたときの話しなのですけれども、ゾフィアはふたつのE-mailを受け取っておりました。ひとつは私たちプロダクションから、もうひとつはもう一作オーディションをすることになっていたスラップスティックのロマンティック・コメディ映画だったのです。彼女はその作品にあまり興味はなかったのですけれども、演技経験もなかったので経験も積むためにも違うオーディションも受けようと思ったのです。ただ、彼女は我々のオーディションを、その出たくないロマンティック・コメディだと勘違いをしてしまったのです。ですから、来たさなかから不機嫌で、「このシーンをもう一度やっていただけますか?」と言ったところ、「もういいでしょ?」という感じで、全然やる気がなかったのです。そして彼女が帰って気がついたところ、「あっ、作品を間違えていた!」と彼女は思ったそうです(笑)。ただ幸いなことに彼女がオーディションで演じなければならなかったシーンというのは「考えてみれば、ロマンティック・コメディにしてはちょっと悲しいシーンだったな」とあとから気がついたそうなのです。けれども結果的には彼女の不機嫌でちょっと角の立った部分を、図らずしも私たちは見ることができたので、結果としては大変良かったです。


Ⅹ よりリアリティのある演技を目指して


矢田部:とはいえ演技経験のない彼女をあそこまでのすばらしい演技を引き出されたところには、監督の指導や演出があったの思うのですが、監督は準備段階、あるいは現場で、どのようなディレクションをされたのでしょうか。

 

PD:ふたつのアプローチがありました。ひとつめは技術的な部分です。先程も申しましたように彼女は演技経験がありませんでした。ですのでリハーサルの段階で、私はあえてこの映画に使った脚本または場面をリハーサルするのではなく、まったく違う映画の脚本や場面をあえて彼女に練習させました。それはなぜかと言いますと、キャメラに慣れさせるためです。俳優というのは常にキャメラが自分を映していると意識をしながら演技をしますが、それを意識していないが如く演じなくてはいけません。それを彼女に習得してもらいたかったのです。ですから、レンズは自分に向いているけれども、それを彼女がストレスに感じないようにするためにリハーサルをいたしました。

ふたつめのアプローチというのは、彼女の才能・感情を引き出す部分なのですが、彼女にはとにかく自然な部分を出してもらいたいと思いました。そのために僕が説明したことは、実際にオラに起きていることが自分に起きていると想定をして色々物事を感じてほしい。と伝えました。演技というのはそもそもまったくの別人に、演じる俳優さん・女優さんがなるのではなく、そのキャラクターに起きていることが、あたかも自分自身に起きているかの如く行動をすることが大切なことだと、私は思っております。そこでよりリアルなものが撮れると私は信じているのです。ですから自分自身を表現するにあたって、(自分が演じる)登場人物ではなく、自分がその状態に置かれていると思って表現しなさい、と言ったのです。


Ⅺ ラストシーン 溢れる涙の理由


矢田部:それが私たちに伝わるということだと思います。そしてもっと色々なシーンについてをお伺いしたいのですが、時間がありませんので、やはり最後にラストシーンのことをお聞かせください。

Q4. すばらしい映画をありがとうございました。オラの持っていた夢や父親への想いが一体となったラストシーンが本当にお気に入りになりました。最後にオラが流した涙は無事に任務を完了した涙でしょうか。それとも、自分たち家族のことを一番に愛してくれていなかった父の秘密を家族に言えない辛さの涙でしょうか。

 

PD:あれは私にとっては安堵の涙です。彼女はアイルランドである種の冒険を経験しました。そしてその間ずっと彼女の気は張りつめたままでした。そこで彼女は自分の本当の感情を放つことができなかったのです。彼女が怒ったり、短気な行動をするというのは表現であり、本当の彼女の感情ではないのです。ですから彼女は自分の本当の感情を表現することができませんでした。あの車のなかで彼女は初めてこどもに帰って、いままで感じていた悲しみや痛みといったものを涙という表現で自分から放出したのです。そして考えてみますと、こどもに戻ると申しあげましたが、彼女はこどもでありながら、ずっと周囲からは大人扱いをされてきました。大人にならざるをえなかったのです。お母さんですら彼女を頼って彼女を大人扱いしていました。これは私のひとつの告白なのですが、ああいったことを私自身も経験しています。それは私が自分の初監督作品を撮り終えたあとに流した涙と同じなのです。私の初監督作品というのは本当に作るのが大変で、苦労や辛いこともたくさんありました。とても長い時間がかかり、自分の感情を抑えてつくらなければいけないことも多々ありました。それで出来上がったとき、喜びの涙でもあったのですが、それまで感じていた辛さや悲しさ、そういったものを泣くことによって自分のなかから出したと思うのです。これは個人的なことなのですが、そういった自分の経験をあのシーンに投影しています。

 

矢田部:どのお答えも非常にすばらしかったです。本当にありがとうございました。監督、最後にひとことお願いいたします。

 

PD:今回お招きいただいたことは、私にとって本当に光栄なことでした。東京にゆけなかったことは大変残念なことですが、この場を設けていただいて、このようなかたちでお話しさせていただいたことを大変ありがたく思っております。そしてみなさまが私の作品をとてもパーソナルなもの、自分のものがたりとして感じていただけたら幸いです。

* *  


 トークは終始穏やかに進み、矢田部さん・観客の方々より寄せられた質問に対して、ひとつひとつを丁寧に的確に、ことばを選びながら答えていた、ピョートル・ドマレフスキ監督。なかでも、映画に対してリアリティを追求する監督の想いが非常に印象的でした。次回作を楽しみにするとともに、近い将来、本作『私は決して泣かない』の日本での一般公開が決定し、より多くの方々のこころに届くことを願っています。


(text:藤野 みさき)


【私は決して泣かない】
原題: I Never Cry /Jak najdalej stąd
2020年/100分/カラー/ポーランド・アイルランド/英語・ポーランド語/アジアン・プレミア
© Akson Studios

◉ 作品解説
17歳のオラは、母と障害者の兄の3人で暮らしている。外国に出稼ぎ中の父の訃報が届き、オラが遺体を引き取りに行くはめになる。逆境をはねのけ、前進するタフなヒロイン像に魅了されるストレートな青春映画。(東京国際映画祭 公式サイトより)

キャスト
監督:ピョートル・ドマレフスキ
キャスト:ゾフィア・スタフィエイ、キンガ・プレイス、アルカディウシュ・ヤクビク


【第33回東京国際映画祭】

2020年10月31日(土)〜11月9日(月)10日間 会期終了

開催会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)、東京ミッドタウン日比谷 日比谷ステップ広場(千代田区)、東京国際フォーラム(千代田区)ほか 都内の各劇場及び施設・ホールを使用
公式ホームページ:https://2020.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。
映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。
最近は月に一度の髪のスペシャルトリートメントに癒されています。

Twitter:cherrytree813

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2020年12月10日木曜日

映画『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』評text藤野 みさき

「眼差しのさきに」


Arena, Miami, 1978

© Foto Helmut Newton, Helmut Newton Estate Courtesy Helmut Newton Foundation


 ネオンライトがひかり輝くハリウッドのビルの屋上。

 一糸まとわぬ姿で脚を組んでポーズをとり、するどい瞳でキャメラをみつめるひとりのモデル。照明がハリウッドの夜景と彼女の長身で一切無駄のない裸体を鮮明に浮かびあがらせる。

「優しいまなざしは要らない。あごをひき、まっすぐ前をむいて。貧相な表情ではなくもっと堂々と!」そうモデルに指示をだす、ヘルムート・ニュートン。冒頭に映し出される、かれの撮影現場の一幕である。ヘルムート・ニュートンはブロンドで長身の女性を好み、堂々とつよくそしてたくましい女性像をつくりあげる名手であった。

 

 本作『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』は、伝説的なファッション・フォトグラファー、ヘルムート・ニュートンのキャリアと生涯を、かれとともに作品をつくりあげた、モデル・女優たちのインタヴューを交えながら、ときにスキャンダラスでもあった、ヘルムート・ニュートンというひとりの人物像をみつめたドキュメンタリー映画である。

 出演者には、女優のイザベラ・ロッセリーニ、シャーロット・ランプリング、マリアンヌ・フェイスフル他、トップモデルのクラウディア・シファー、ナジャ・アウアマン、ヴォーグ編集長のアナ・ウィンター、ドイツの伝説的な女優のハンナ・シグラと、実に豪華な著名人たちが名を連ね、ヘルムート・ニュートンとのそれぞれの逸話が語られてゆく。



Helmut at home, Monte Carlo, 1987
© Foto Alice Springs, Helmut Newton Estate Courtesy Helmut Newton Foundation


 ヘルムート・ニュートンは、1920年、ドイツの首都ベルリンに生まれる。

 ユダヤ人の両親をもち、生涯ベルリンという街をこよなく愛した。母国語のドイツ語に加えて、英語、フランス語の三ヶ国語を話す。子どもの頃から写真をこよなく愛し、ヴォーグのようなファッション雑誌に憧れを抱いていたという。

 彼は世界で初めての女性のファッションフォトグラファーである、イーヴァのもとで働き、彼女からおおきな影響を受けた。「彼女から写真の基礎を教わった。弟子としてネガのレタッチの方法や、ライティングについてを学んだ。そして、いかにフィルムが大切なのかということも……」かれはイーヴァについてをこのように振り返る。しかし、1942年、イーヴァはナチスの強制収容所で命をおとす。ヒトラー政権さなかのできごとであった。やがてヘルムート・ニュートンはドイツから逃亡、シンガポール、オーストラリアと国を転々とし、やがてはロンドン、パリと活動拠点を広げていった。2004年、晩年の不慮の交通事故で亡くなるまで、ヘルムート・ニュートンは写真を撮り、世界を挑発しつづけた。偉大なる、最も著名で世界的なファッションフォトグラファーのひとりである。

 

 ヘルムート・ニュートンの写真は、ひとめでわかるほどの力強さがある。

 モノクロームと完璧なコントラスト。美しく削ぎ落とされた肉体、ハイヒール、意思を感じる瞳と真っ赤な唇。モデルたちは、常に堂々としており、挑発的な表情を浮かべている。私の思うヘルムート・ニュートンの写す女性たちは、他者に媚びず、自らの意思で人生を力強く歩んでゆく、現代的で自立した女性像だ。

 

David Lynch and Isabelle Rossellini, Los Angeles, 1988
© Foto Helmut Newton, Helmut Newton Estate Courtesy Helmut Newton Foundation

 しかし、称賛を受ける裏側で、かれの挑戦的な写真はしばし物議を醸し、「女性差別」「ポルノまがい」と批判されることも多かった。なかでも、劇中のアーカイヴ映像で、作家・批評家のスーザン・ソンタグが鋭くヘルムート・ニュートンを批判しているやりとりは強烈だ。

「あなたの写真は女性蔑視もいいとこよ。女性として不快だわ。かれ本人ではなく作品がね」ヘルムート・ニュートンが「私は女性が好きだ。何よりも好きだよ」というと、「女性差別をする男性は皆そう言うわ」と、すかさず彼女から厳しいことばが返ってくる。

 スーザン・ソンタグのこの発言は、いまや世界的な運動となっている#MeToo、さらには#KuTooや「デートDV」ということばがようやく浸透してきた現在だからこそ、私もひとりの女性として、その意味をよりいっそう深く考えさせられる。

 ヘルムート・ニュートンの女性観について、イザベラ・ロッセリーニはこのように分析をする。

「ヘルムートの写真は男性的なだけでなくもっと複雑よ。女性を性の対象としてあつかい、同時に女性に対して魅力と怒りを感じている。女性に惹かれながら、弱みを握られて腹をたてているの」と。

 

 世の中ではヘルムート・ニュートンの写真を批判する者もいるが、一概にそれだけが真実だとはいえない。劇中の写真のなかで、とりわけ印象に残った写真がある。

 それは、雲ひとつない美しい青空を背景に、ブロンドのショートヘアに真っ赤な口紅をひいた女性が、白いテーラードのジャケットをまとい、同系色のショーツをはき、左手に杖をついた写真である。彼女のまっすぐに伸びた長く脚があらわになり、黒のハイヒールが美しい右脚をさらに引きたてる。しかし、彼女の左脚には足首から太ももまで、まるで金属で作られたギプスのような、先の尖った金具が張りめぐらされているのだ。

 女性がハイヒールを履く姿はとても美しいが、同時に他者にみえないところでは、走ることもままならず常に痛みがともなうものでもある、というメッセージをもつ写真であると思う。この写真は現代の#KuTooにも充分に通じると感じた。女性の美しさとは、ときとしてみえない「痛み」とともにあることを、ヘルムート・ニュートンはこの写真で視覚化し、表現したかったのではないだろうか。

 

Charlotte Rampling © Pierre Nativel, LUPA FILM

 かれは多くの著名人との仕事のなかで、モデルを務めた人物にあたらしい発見や勇気を与えることもあった。

 シャーロット・ランプリングは28歳のとき、上半身裸のサスペンダー姿で、リリアーナ・カヴァーニ監督の『愛の嵐』(1974年)で主役のルチア役を熱演。ナチスの将校たちの前でドイツ語の歌を歌いあげるシーンは、いまでも名場面として語り継がれている。

 そんなシャーロット・ランプリングがヘルムート・ニュートンと出逢ったのは、ちょうど『愛の嵐』のあとのこと。

「ノール・ピニュホテルで撮影したヌードは、私の写真のなかでも最高傑作だと思う」と、彼女は当時を語る。二十代も後半にはいり、すこし反抗的な頃だったという。「私に近づかないで。干渉しないでよ。あなたは撮影、私はモデル。好きにさせて」という風に。ヘルムート・ニュートンは、そんな繊細で気難しかった彼女の胸に、撮影を通じて「ときめき」を与えた。

「突然イメージのもつ力に気づかされたの。ヘルムートがあのホテルで作りあげたイメージで、スタートを切ることができた。(中略)想像もしなかったイメージが生まれた。いまでは定着したけれど、当時は自分のイメージを模索していた時期だったの」と。

 高級ホテルのテーブルに腰掛け、振りむくように一点を鋭くみつめた写真。そこにはシャーロット・ランプリング自身のもつ気品や気高さ、意志の強さが、しっかりとおさめられている。一枚の写真を一緒に作りあげるとき、その写真がモデルとなる人物に発見や自信をもたらすことがあることを、あたらめて教えてくれる逸話である。

 

 茶目っ気があり、つねに読者の反応を楽しみにしていたという、ヘルムート・ニュートン。

 ヘルムート・ニュートンは本年2020年で生誕100周年を迎えた。かれは時代を先取りしたのではないかと思えるほど、いまみてもかれの写真は色褪せることなくあたらしい。どんなときも自身のスタイルを貫き、挑戦的な写真を、独自の美を、追求しつづけた。かれの写真は時代を越えて、私たちみる者につねに問いかけている。

「あなたは、この写真をみて、どうおもい、どう感じるのか?」と。


(text:藤野 みさき)




『ヘルムート・ニュートンと12人の女たち』
原題:HELMUT NEWTON THE BAD AND THE BEAUTIFUL
2020年/93分/カラー/1.78:1/ドイツ/英語・フランス語・ドイツ語

作品解説
2004年にロサンゼルスで自動車事故により不慮の死を遂げた後も、長く人々の記憶に残り続けている写真家のひとりだ。
1920年にドイツ・ベルリンに生まれ、映画やラジオなどの大衆文化が広まったワイマール文化の中で育ったニュートンは、50年代半ばから各国版の「ヴォーグ」誌をはじめとするファッション誌にユニークかつ衝撃的な作品を次々と発表。それまでの着せ替え人形のようなモードを見慣れていた読者に強烈なインパクトを与えた。だが、その作品は「ポルノまがい」「女性嫌悪主義」との議論も巻き起こし、「20世紀を最も騒がせた写真家」とも呼ばれた。
本作は2020年にニュートンの生誕100年を記念して制作されたドキュメンタリー(ニュートンは2020年10月31日生まれ)。
シャーロット・ランプリングやイザベラ・ロッセリーニ、ハンナ・シグラといった女優たちに加え、米国版「ヴォーグ」編集長のアナ・ウィンター、モデルのクラウディア・シファーらの貴重なインタビューを収録。さらに、ニュートンを鋭く批判した批評家スーザン・ソンタグとのTV討論のアーカイブ映像なども紹介する。稀代の才能の作品世界を、ニュートンにインスピレーションを与えた12人の女性たちの視点から捉え直した。

キャスト
監督:ゲロ・フォン・べーム

出演:
シャーロット・ランプリング
イザベラ・ロッセリーニ
グレイス・ジョーンズ
アナ・ウィンター
クラウディア・シファー
マリアンヌ・フェイスフル
ハンナ・シグラ
シルヴィア・ゴベル
ナジャ・アウアマン
アリヤ・トゥールラ
ジューン・ニュートン
スーザン・ソンタグ(アーカイブ出演)
カトリーヌ・ドヌーヴ(アーカイブ出演)
シガニー・ウィーバー(アーカイブ出演)
ヘルムート・ニュートン(アーカイブ出演)

配給:彩プロ

宣伝:プレイタイム

公式ホームページ
https://helmutnewton.ayapro.ne.jp

劇場情報
12月11日(金)よりBunkamuraル・シネマ、新宿ピカデリーほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。
映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。
最近は月に一度の髪のスペシャルトリートメントに癒されています。

Twitter:cherrytree813

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2020年11月19日木曜日

映画『日子』評text井河澤智子

「なにごともおこらない中でおきる出来事」

 
 蔡明亮監督の最新作『日子』(2020)。
『郊遊<ピクニック>』(2013)以来久々に手掛けた劇映画である。
 第70回ベルリン国際映画祭コンペティションでテディ賞を受賞し、2020台北電影節のクロージングを飾るなど、その評価の高さが伝えられてきた。
 郊外の邸宅に住む中年男性と、街の片隅で生きる若者、対照的な境遇の孤独な男たちの刹那的な触れ合いを描く作品である。

 蔡明亮監督は、最も身近な人が病に苦しむ姿を、題材に選んだ。
 この作品は、彼の映画で一貫して主演を務めてきた俳優、李康生が、長年悩まされている首の痛みに加え、数々の体調不良に苦しめられる様子が記録されている。病に冒され、それでもなお続く「日常生活」が、映し出されている。
「日子」とは「日々の記録」のこと。

 筆者はなぜか、写真家・荒木経惟が、妻・洋子を、彼女との日常生活から永遠の別れに至るまで(そしてその亡骸も)撮影し続けたことを思い出した。
 彼女との暮らし、食事、情事、その病、衰え、死。荒木経惟が「撮ることにそうさせられた」と述べる「受動性」にも似たものがあるのだろうか。
 蔡監督は、「撮らざるを得なかった」のかもしれない。

 冒頭、刈り込んだ坊主頭の男性がぼんやりと窓の外を見やる表情が映し出される。
 窓に映る緑の草木、雨の音。
 全く表情を変えず、顔色はすぐれず、精気の抜けたその男性の顔。
 映像は彼の「抜け殻」のようなすがたを見せ続ける。湯に浸り、肩から背中に灸を据えられる、痛みを堪えながら雑然とした街を歩く、そんなすがたを見せ続ける。

 病葉。
 中年男性カンを演じる李康生に、こんな言葉が思い浮かぶ。
 蔡明亮監督の長編デビュー作『青春神話』(1992)以来全作品、30年に及ぶ月日を「小康」として生きてきた彼。われわれは観ている。彼が鬱屈した稚気を持て余す姿を、その幼さをどこかに残したまま大人になる様を。そして『ヴィザージュ』(2009)では映画監督を、『郊遊<ピクニック>』(2013)で子どもが2人いる父親を演じ、彼はようやく年相応の男性へと変貌を遂げた。
 その後一時蔡監督は劇映画を離れ、アートフィルムやドキュメンタリー作品の製作を経て再び劇映画に戻ってきたが、そのためか、この『日子』は「劇」をつくるために撮られた映像というより、「素材」としての映像といった雰囲気を強く残している。
 そのカメラが映し出した彼。ほとんど無作為とも思える表情に、当然のことながら、しかし残酷にも、こう感じた。
彼は、確実に老いた。

 かたや青年の生活。丁寧に野菜を洗い、魚の切り身の血を流し、米を炊き、鍋で調味料を調える、つつましくも豊かな食の場面が、ほとんど切れ目なく描かれる。
 食事をし、シャワーを浴び、街を歩く。夜の屋台村で佇む。
 彼の動作は、流れるように美しい。「日常」の動きを映すカメラは、その美しさを際立たせるようにも思える。

 舞台ははっきりとは明示されない。「そこがどこであるか」に焦点は当たらない。
 男たちが誰であるか。それもまた問題ではない。
 日付すら曖昧である。おそらく、長い年月にわたって記録されたであろうカンの日常。彼の髪は、丸坊主のときもあれば伸び放題の蓬髪のときもある。
 長回しが特徴の蔡監督の作品にしては比較的カットが細かい、とつい錯覚するが、それは『愛情萬歳』(1994)や『楽日』(2003)、あるいは『郊遊<ピクニック>』において印象的な、フィックスで見つめ続けられるひとつのシーンに「比べて」細かいのであって、それぞれの生活を送るふたりの人物の暮らしに没入するには十分な長さだ。われわれは彼らの生活を生きるような錯覚に陥る。ほとんど同化するように。
 この作品には脚本はない。静かにつつましく生きる青年の暮らしと、ほとんど表情を変えることのない男の暮らしを、交互に映し出す。時にはフィックスで、時には手持ち撮影と思われる手法で。
 彼らの住まう部屋の中の光景。カメラは正面から彼らを捉える。
 彼らが歩く雑多な街の光景。その後ろから、手持ちカメラのブレた映像が追いかける。

 大きなスーツケースが置かれたホテルの部屋。
 カンの居場所が変わるとともに、彼は動き出す。
 大きなベッドの掛け布団を外し、丁寧にたたみ、シーツを整える。
 しかしカットが切り替わるとともに、彼の動きは止まる。

 そこに在るのはうつ伏せに横たわったカンの全裸である。
 ごろりと横たわった彼の身体は、「物体」として映し出されているようにも思える。
 その部屋にはもうひとり誰か別の人間がいる音がする。彼が画面に入ってくる。
 われわれは気づく。先ほどから「それぞれの場所で」生活者として観察されてきた青年と、カンが、ようやく関わりを持つということを。
 生活を営む動作と同様の流麗さで、青年はカンに触れる。その手の動き、指の動きに合わせて、カンは「物体」から「肉体」へと変容する。
  病葉が、「肉体」を取り戻していく。カメラは緩やかにズームし、彼の表情の変化を見せる。その一部始終を見せ続ける。
 このシーンは『河』(1997)におけるハイライトの場面に対する鏡像と考えるのは軽率か。薄暗い中行われる実父と(それとは知らずに)交わる、あのシーン。病に苦しみ、どんな治療を受けてもはかばかしくない中での「癒し」がここに繰り返される。蔡監督作にはこのように執拗な粘度をもって表現される場面がしばしばあらわれるが、しかしそこに「美」をも見出せるのは、なぜだろうか。

 年月は背中にあらわれる。
『河』のラストシーン、華奢だった彼の背中。
『西瓜』(2005)でAV男優を演じた彼の、鍛え上げられた背中。
 ややゆるみ、腰回りに肉の付いた、この作品の中の彼の背中。
蔡明亮が撮り続けた李康生の背中は、流れる時間の経過と、そして彼は「劇の」中では「常に演技している」という、忘れがちなことをも思い出させる。

 蔡明亮監督と李の仕事は常に「李康生=小康」の二重性を孕んでいることは間違いなく、あまりに佇まいが自然、というか「策を講じていない」というか、つい同一視してしまうが、劇映画の中では「彼は常に演じている」のだ。本作も同様である。
 この作品は李康生の生活を追うドキュメンタリーではない。
 あくまで「カン」という男性と、彼とは別に生活を営む青年の、「一瞬の交わり」を描いた物語なのだ。
 マッサージを受けた後、カンは青年に金を払い、オルゴールを渡す。そして、優しく青年の手を取り、部屋から出てゆく。
 ゆっくりと、時間をかけて流れるオルゴールの旋律は、チャップリンの「ライムライト」。この場面に漂う抒情性は、ふたりの別れの後、なにが起きるか(なにも起きなくても、そ の小物がどのような意味を持つか)を示す。
 −−青年はオルゴールを奏でその音を聴くたびに、カンとの一瞬の交わりを想い出すだろう−−
 この作品には音楽も台詞もない。雨音の静寂、風の音、街のざわめき、特に意味を持たせられることのない会話などによる「日常の音」に満ちた中、はっきりと浮かび上がる「ライムライト」の旋律。
 全ては選択され、計算され尽くしているのだ。ふたりの生活を映し出すカメラの切り替えのリズムも、ひとつの音を浮かび上がらせるための仕掛けも。そしてその「物語」も。
 


 ドキュメンタリー的な手法と、極めて映画的に美しく収斂していく物語性、そして「選択」の巧みさ。この作品は、蔡監督と李康生の長年にわたる共同作の「最新作」であり、また「集大成」(いつ更新されるかわからないが)と言えるだろう。
 しかし、身近な人の病ですら、映画という「作品」に昇華させなくてはおさまらないとう、芸術家の「業」の深さをも見せつけられる思いがする。
 表現者と、「ミューズ」の関係性とは、そういうものなのだろう。残酷な共犯関係である。
(text:井河澤 智子)

『日子』
Days/台湾、フランス/2020/127

監督:ツァイ・ミンリャン

21回東京フィルメックス特別招待作品

作品解説
郊外の瀟洒な住宅に暮らすカンは首の痛みをいやすために街に出てマッサージ師を呼ぶ。やがて一人の移民労働者がカンが宿泊するホテルを訪れる……。対照的な境遇の二人の男の出会いを描いたツァイ・ミンリャンの最新作。ベルリン映画祭でテディ審査員賞を受賞。

作品紹介ページ(第21回東京フィルメックス 公式ホームページより)
https://filmex.jp/2020/program/specialscreenings/ss6

21回東京フィルメックス〉
 


期間
20201030日(金)~117日(土)

会場
TOHOシネマズ シャンテ/ヒューマントラストシネマ有楽町/有楽町朝日ホール/
アンスティチュ・フランセ東京/アテネ・フランセ文化センターにて
公式サイト
https://filmex.jp/2020/

東京フィルメックス・オンライン配信について
今年の第21回東京フィルメックスで上映された作品の中から、12作品をオンラインでも配信致します。配信は特設サイトよりご覧頂けます。
https://filmex.jp/2020/online2020
実施期間
11月21日(土)午前0 1130日(月)午後2359分まで
料金
1作品1,500円均一
視聴方法・諸注意
・配信は特設サイトよりご覧頂けます(1121日よりアクセス可能)
・日本国内からの視聴可能となります。海外からのご利用はできません。
・各作品には視聴可能者数制限があり、視聴可能者数は作品ごとに異なります。
・対象作品は1116日(月)現在での予定です。急な変更の可能性がありますので、予めご了承下さい。
「マイルストーン」は作品権利者側の都合により、配信はキャンセルとなりました。

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【執筆者プロフィール】
井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

このコロナ禍の中においても、映画祭は、
オンラインではなくフィジカルで開催されました。
並大抵のことではなかったことでしょう。
ご尽力された皆様に深くお礼を申し上げます。
東京フィルメックスと東京国際映画祭の相乗効果も見えてくれば
ひとつの大きな成果になることでしょう。
しかし……
来年は、ちょっとだけでもいいですから、
ずらしていただくことはできませんか?
観たい作品がかぶってしまって、もう!
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2020年10月22日木曜日

映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』評text藤野 みさき

「過去を越えていった人々」

ザ・バンド

左から、リヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、ロビー・ロバートソン、

リック・ダンコ、リチャード・マニュエル

© Robbie Documentary Productions Inc. 2019


 かつてボブ・ディランのバックバンドをつとめたミュージシャンのなかで、私が最も印象に残っているバンドがふたつある。ひとつは、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、そしてもうひとつが、ロビー・ロバートソンひきいる「ザ・バンド」である。

 本作『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』は「ザ・バンド」がどのようにして生まれたのかといういきさつから伝説のライヴ「ラスト・ワルツ」に至るまでを丁寧に描きだすドキュメンタリー映画である。淡々と事実をなぞる一方、全編を支えるロビー・ロバートソンのインタヴューがちから強く美しい。

 冒頭。ひとり佇むレコーディング室で、椅子に腰掛けながらキャメラをみつめるロビー・ロバートソン。かれは語る。

“「ワンス・ワー・ブラザーズ」を聴くと、ザ・バンドのことが胸に溢れかえってくる。ザ・バンドと同じストーリーをたどった、どんなミュージシャンの仲間も知らない。それは美しかった。美しすぎて、燃え尽きてしまったんだ”——と。

 そう言って、ロビーは静かに瞳をとじる。まるですぐ傍にザ・バンドのメンバーの面影があるかのように。私たちには想像ができないほどのたくさんの想い出がよみがえってきているかのように。

 美しすぎて、燃え尽きてしまったほどの、ザ・バンドの兄弟さながらの愛。

 映画は、ザ・バンドが兄弟のような愛情で結ばれていた頃から、ボブ・ディランとの出逢い、そして5人で最後にステージに立った伝説のライヴ「ラスト・ワルツ」までを、当時のライヴ映像や写真、ブルース・スプリングスティーンやエリック・クラプトンを始めとするミュージシャンたちのインタヴューを織りまぜながらその足跡を辿ってゆく。


 

© Robbie Documentary Productions Inc. 2019


 私事になるのだが、私がザ・バンドに出逢ったのは11歳の頃だった。

 ちょうどその頃にビートルズやボブ・ディランを始めとする洋楽にふれていたからだった。いまでも当時劇団のレッスンで通っていた、大宮駅の西口駅前のいまはなきレコードショップのことを想いだす。初めて手にとったアルバムは『南十字星』だった。「禁断の木の実」「同じことさ!」に「オフィリア」……。ザ・バンドと聴けば、まっさきにこのアルバムをくちずさむ。

 そんな私に、当時ボブ・ディランが大好きなおばさんが一枚のCDを手渡してくれた。モンキーズのグレイテスト・ヒッツだった。おばさんは私に言った。「モンキーズというのはビートルズとは違って、オーディションによって選ばれたアイドル・グループだったの。つまりはつくられたグループだった。だからあまり長い間活動はできなかった」のだと……。ずっと心に残っていた、おばさんのことば。ザ・バンドの“兄弟愛を聴くと、私はこのことばを思い出さずにはいられない。たとえどれほどの逸材が揃っていても、そこに結ばれた友情や愛情がなければ、音楽はもろく崩れ去ってしまうのだということを。


 

ボブ・ディランとロビー・ロバートソン
© Robbie Documentary Productions Inc. 2019


 ロビー・ロバートソンが、ザ・バンドの前身ともよべるロニー・ホーキンス&ホークスに加入したのは、かれがまだ16歳の頃。ところはカナダのトロント、ときは1959年だった。加入前、リーダーのロニー・ホーキンスの演奏技術をみてたいそう驚いたロビーは、瞳を輝かせながら当時のことを振り返る。「僕はただ立ち尽くしていた。僕はこれが身につくならなんでもしようと思った。この音楽、この才能、この南部らしさ。もうぞっこんだった!」と。

 そしてロビー・ロバートソンがホークスに加入し、音楽活動をつづけていたあるとき、のちの人生を変える人物と出逢う。その人物こそが、ボブ・ディランであった。ボブ・ディランはロビー・ロバートソンたちを気にいり、かれらを自身のバックバンドとして指名しツアーをはじめた。それは、ロビー・ロバートソンをはじめメンバーのおおきな転機であっただろう。なんといっても、「ザ・バンド」といえば、いまでも多くの人々がボブ・ディランのバックバンドと、答えるのだから!

 

 しかし、現実はとても厳しかった。

 結果はブーイングにつぐブーイングであった。私は当時の映像を観るまで、ここまで大変なことだとは想像もできなかった。ヨーロッパ・ツアーでもブーイングがあびせられ、当時のライブ映像が痛々しく胸に突きささる。そんなまるで戦火のなかを戦うように演奏し、きずなを固くしていったボブ・ディランとロビー・ロバートソンたち。ロビーは演奏をつづけることを「これは正しい」と信じ、ボブ・ディランもかれらを「僕を支える勇敢な騎士たちだ」と称えた。

 めまぐるしいツアーの日々が過ぎさると、かれらはウッドストックの田舎にあるピンク色に塗られた三角屋根の家をみつける。その場所こそが「ザ・バンド」の原点となった。かれらは「ホークス」ではなく、自分たちのバンド名をあらたに「ザ・バンド」と名づけた。「どこにいっても『ボブ・ディランのバンドだ』と言われていたから」という逸話も実に面白い。ザ・バンドとして最初に出したのが、1968年の『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』というアルバムだった。こうしてかれらはあらたに、ザ・バンドとして、音楽の歴史を歩んでゆく。


 

© Robbie Documentary Productions Inc. 2019


 この映画では、ザ・バンドがどのような活動をしたのか、ホークスの時代はどうであったのか、当時のミュージシャンたちにどのような影響を与えたのか、どのような環境で曲をつくりレコーティングをしていたのか、ということが当時のたくさんの写真や映像を織りまぜながら細やかに描かれている。だが、ザ・バンドという音楽の歴史にのこるバンドを描く一方で、この映画はロビー・ロバートソンの目線で語られるひとりの人生そのものでもあるのだ。ザ・バンドのフロントマンとして活動し、ザ・バンドと音楽、自然と、妻と子どもを愛したひとりの男のものがたり。

 パリでのちの奥さんとなるドミニックと出逢ってから、ロビーが深く奥さんと子どもを愛する様子が伝わってくる。スクリーンに映し出されるたくさんの奥さんとの写真、妊娠したときの診断書、そして子どもを抱きかかえて笑顔でふたりで写る写真…。そこには真面目で温厚なひとりの穏やかな人間としてのかれが描かれており、胸があたたかくなる。

 

 そんな本作のなかでも最もこころにのこるのは、やはりザ・バンドの兄弟愛だ。

 それは本当に尊いものだった。ザ・バンドのメンバーたちに逢った写真家のエリオット・ランディはこう述べる。「とても強くて、しっかりしていて、田舎の人達のようにこころがこもっていて、音楽も、仲間も、こころから愛していた。口喧嘩も聞いたことがない。助け合い、お互いに大好きな5人の兄弟だ」と。このなによりも固く強く結ばれた兄弟愛があったからこそ、ザ・バンドは多くの困難を乗り越え、すばらしいアルバムをのこし、こうしていまもなお世界中の人々に愛される存在になりえたのだろう。


 

© Robbie Documentary Productions Inc. 2019


 しかし、ときが経つにつれて、ザ・バンドのどれほど固く結ばれた兄弟愛もやがては終りをつげるのだと示される。ドラッグがメンバーの身もこころも蝕みはじめていた。私はこころから、愛や友情はどんな闇をも照らすひかりになると信じたい。しかしそれは理想論であり、現実はそうではないことが数多く存在する。ときは70年代。ザ・バンドのメンバーだけでなく、多くのミュージシャンがドラッグに苦しんだことは言うまでもない。ロビー・ロバートソンがその闇にのまれなかったのは、かれの真面目な性格はもちろんのこと、なにより愛する妻子の存在があったからだと信じたい。

 かれは、かつての眩いほどに輝いていたあの頃の自分たちに戻るためにあるライヴを企画する。それがのちに語りつがれることとなった伝説のライヴの「ラスト・ワルツ」。ザ・バンドのメンバー5人でステージに立った最後の日であった。

 

 過去を回想するなかで、ロビー・ロバートソンは言う。

「いまでも僕は、リヴォンやリック、ガースやリチャードを想っている。なにをするにも一緒で、あの特別な日々はなににも代えがたい……」と。疎遠になったひと、死を看とったひと、人生をともに生きた仲間たちに寄り添い想いをはせるロビー。いまでも兄弟のように仲間を想いつづけるかれのこころに、私の頬にも涙がつたう。

「ラスト・ワルツ」を想いだすなかで、かれは瞳を輝かせながらこのように述べた。「すばらしい旅をさせてくれて感謝します」と。私もロビー・ロバートソンが「ラスト・ワルツ」に贈ったことばを、この映画に、そしてザ・バンドに贈りたい。

「すばらしい旅を、そして美しい青春をみせてくれて感謝します」。あなたたちのすばらしい兄弟愛と友情からつくられた楽曲の数々にこころからの“ありがとう”を。私のちいさな心臓がビートをうつかぎり、ザ・バンドの奏でる音楽はずっと私の胸をうつだろう。


(text:藤野 みさき)




『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』
原題:「ONCE WERE BROTHERS:ROBBIE ROBERTSON AND THE BAND」
2019年/カナダ、アメリカ/英語/カラー・モノクロ/アメリカンビスタ/5.1ch/101分
後援:カナダ大使館
字幕翻訳:菊地浩司
字幕監修:萩原健太
© Robbie Documentary Productions Inc. 2019

作品解説
1976年11月25日、サンフランシスコのウィンターランド・ボールルーム。激動の70年代後半に、一つのバンドがその活動に終止符を打った。彼らの名は「ザ・バンド」。ボブ・ディランをはじめ、音楽史に偉大な足跡を残したミュージシャンたちから尊敬される、ロック史上最も重要なバンドの一つである。 本作はギターのロビー・ロバートソンが2016年に綴った自伝を元に、バンドの誕生から“ビッグピンク”でのレコーディング、メンバー達の熱い友情と軋轢、そして伝説的解散ライブ「ラスト・ワルツ」まで−−才能、幸運、苦悩、狂気が横溢する創造の旅路を追ったドキュメンタリー。製作総指揮をマーティン・スコセッシ、ロン・ハワードが担当し、ブルース・スプリングスティーン、エリック・クラプトンら音楽界の超大物たちも次々に登場。世代を超えて全ての音楽ファンの心に響く感動作だ。

2019年トロント国際映画祭オープニング作品

キャスト
出演:ザ・バンド<ロビー・ロバートソン、リック・ダンコ、リヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、リチャード・マニュエル、マーティン・スコセッシ、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーン、エリック・クラプトン、ピーター・ガブリエル、ジョージ・ハリスン、ロニー・ホーキンス、ヴァン・モリソン、タジ・マハール

配給:彩プロ

宣伝:プレイタイム、スリーピン

公式ホームページ
https://theband.ayapro.ne.jp

劇場情報
10月23日(金)より角川シネマ有楽町、渋谷WHITE CINE QUINTOほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。拙いながらも、自分自身に素直な文章を書けるようにと心掛けています。
最近は月に一度の髪のスペシャルトリートメントに癒されています。

♪ザ・バンドのお気に入りの一曲:「Ophelia」

Twitter:cherrytree813

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