ザ・バンド 左から、リヴォン・ヘルム、ガース・ハドソン、ロビー・ロバートソン、 リック・ダンコ、リチャード・マニュエル © Robbie Documentary Productions Inc. 2019 |
冒頭。ひとり佇むレコーディング室で、椅子に腰掛けながらキャメラをみつめるロビー・ロバートソン。かれは語る。
“「ワンス・ワー・ブラザーズ」を聴くと、ザ・バンドのことが胸に溢れかえってくる。ザ・バンドと同じストーリーをたどった、どんなミュージシャンの仲間も知らない。それは美しかった。美しすぎて、燃え尽きてしまったんだ”——と。
そう言って、ロビーは静かに瞳をとじる。まるですぐ傍にザ・バンドのメンバーの面影があるかのように。私たちには想像ができないほどのたくさんの想い出がよみがえってきているかのように。
美しすぎて、燃え尽きてしまったほどの、ザ・バンドの兄弟さながらの愛。
映画は、ザ・バンドが兄弟のような愛情で結ばれていた頃から、ボブ・ディランとの出逢い、そして5人で最後にステージに立った伝説のライヴ「ラスト・ワルツ」までを、当時のライヴ映像や写真、ブルース・スプリングスティーンやエリック・クラプトンを始めとするミュージシャンたちのインタヴューを織りまぜながらその足跡を辿ってゆく。
© Robbie Documentary Productions Inc. 2019 |
私事になるのだが、私がザ・バンドに出逢ったのは11歳の頃だった。
ちょうどその頃にビートルズやボブ・ディランを始めとする洋楽にふれていたからだった。いまでも当時劇団のレッスンで通っていた、大宮駅の西口駅前のいまはなきレコードショップのことを想いだす。初めて手にとったアルバムは『南十字星』だった。「禁断の木の実」「同じことさ!」に「オフィリア」……。ザ・バンドと聴けば、まっさきにこのアルバムをくちずさむ。
そんな私に、当時ボブ・ディランが大好きなおばさんが一枚のCDを手渡してくれた。モンキーズのグレイテスト・ヒッツだった。おばさんは私に言った。「モンキーズというのはビートルズとは違って、オーディションによって選ばれたアイドル・グループだったの。つまりはつくられたグループだった。だからあまり長い間活動はできなかった」のだと……。ずっと心に残っていた、おばさんのことば。ザ・バンドの“兄弟愛”を聴くと、私はこのことばを思い出さずにはいられない。たとえどれほどの逸材が揃っていても、そこに結ばれた友情や愛情がなければ、音楽はもろく崩れ去ってしまうのだということを。
ボブ・ディランとロビー・ロバートソン © Robbie Documentary Productions Inc. 2019 |
ロビー・ロバートソンが、ザ・バンドの前身ともよべるロニー・ホーキンス&ホークスに加入したのは、かれがまだ16歳の頃。ところはカナダのトロント、ときは1959年だった。加入前、リーダーのロニー・ホーキンスの演奏技術をみてたいそう驚いたロビーは、瞳を輝かせながら当時のことを振り返る。「僕はただ立ち尽くしていた。僕はこれが身につくならなんでもしようと思った。この音楽、この才能、この南部らしさ。もうぞっこんだった!」と。
そしてロビー・ロバートソンがホークスに加入し、音楽活動をつづけていたあるとき、のちの人生を変える人物と出逢う。その人物こそが、ボブ・ディランであった。ボブ・ディランはロビー・ロバートソンたちを気にいり、かれらを自身のバックバンドとして指名しツアーをはじめた。それは、ロビー・ロバートソンをはじめメンバーのおおきな転機であっただろう。なんといっても、「ザ・バンド」といえば、いまでも多くの人々が“ボブ・ディランのバックバンド”と、答えるのだから!
しかし、現実はとても厳しかった。
結果はブーイングにつぐブーイングであった。私は当時の映像を観るまで、ここまで大変なことだとは想像もできなかった。ヨーロッパ・ツアーでもブーイングがあびせられ、当時のライブ映像が痛々しく胸に突きささる。そんなまるで戦火のなかを戦うように演奏し、きずなを固くしていったボブ・ディランとロビー・ロバートソンたち。ロビーは演奏をつづけることを「これは正しい」と信じ、ボブ・ディランもかれらを「僕を支える勇敢な騎士たちだ」と称えた。
めまぐるしいツアーの日々が過ぎさると、かれらはウッドストックの田舎にあるピンク色に塗られた三角屋根の家をみつける。その場所こそが「ザ・バンド」の原点となった。かれらは「ホークス」ではなく、自分たちのバンド名をあらたに「ザ・バンド」と名づけた。「どこにいっても『ボブ・ディランのバンドだ』と言われていたから」という逸話も実に面白い。ザ・バンドとして最初に出したのが、1968年の『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』というアルバムだった。こうしてかれらはあらたに、ザ・バンドとして、音楽の歴史を歩んでゆく。
© Robbie Documentary Productions Inc. 2019 |
この映画では、ザ・バンドがどのような活動をしたのか、ホークスの時代はどうであったのか、当時のミュージシャンたちにどのような影響を与えたのか、どのような環境で曲をつくりレコーティングをしていたのか、ということが当時のたくさんの写真や映像を織りまぜながら細やかに描かれている。だが、ザ・バンドという音楽の歴史にのこるバンドを描く一方で、この映画はロビー・ロバートソンの目線で語られるひとりの人生そのものでもあるのだ。ザ・バンドのフロントマンとして活動し、ザ・バンドと音楽、自然と、妻と子どもを愛したひとりの男のものがたり。
パリでのちの奥さんとなるドミニックと出逢ってから、ロビーが深く奥さんと子どもを愛する様子が伝わってくる。スクリーンに映し出されるたくさんの奥さんとの写真、妊娠したときの診断書、そして子どもを抱きかかえて笑顔でふたりで写る写真……。そこには真面目で温厚なひとりの穏やかな人間としてのかれが描かれており、胸があたたかくなる。
そんな本作のなかでも最もこころにのこるのは、やはりザ・バンドの兄弟愛だ。
それは本当に尊いものだった。ザ・バンドのメンバーたちに逢った写真家のエリオット・ランディはこう述べる。「とても強くて、しっかりしていて、田舎の人達のようにこころがこもっていて、音楽も、仲間も、こころから愛していた。口喧嘩も聞いたことがない。助け合い、お互いに大好きな5人の兄弟だ」と。このなによりも固く強く結ばれた兄弟愛があったからこそ、ザ・バンドは多くの困難を乗り越え、すばらしいアルバムをのこし、こうしていまもなお世界中の人々に愛される存在になりえたのだろう。
© Robbie Documentary Productions Inc. 2019 |
しかし、ときが経つにつれて、ザ・バンドのどれほど固く結ばれた兄弟愛もやがては終りをつげるのだと示される。ドラッグがメンバーの身もこころも蝕みはじめていた。私はこころから、愛や友情はどんな闇をも照らすひかりになると信じたい。しかしそれは理想論であり、現実はそうではないことが数多く存在する。ときは70年代。ザ・バンドのメンバーだけでなく、多くのミュージシャンがドラッグに苦しんだことは言うまでもない。ロビー・ロバートソンがその闇にのまれなかったのは、かれの真面目な性格はもちろんのこと、なにより愛する妻子の存在があったからだと信じたい。
かれは、かつての眩いほどに輝いていたあの頃の自分たちに戻るためにあるライヴを企画する。それがのちに語りつがれることとなった伝説のライヴの「ラスト・ワルツ」。ザ・バンドのメンバー5人でステージに立った最後の日であった。
過去を回想するなかで、ロビー・ロバートソンは言う。
「いまでも僕は、リヴォンやリック、ガースやリチャードを想っている。なにをするにも一緒で、あの特別な日々はなににも代えがたい……」と。疎遠になったひと、死を看とったひと、人生をともに生きた仲間たちに寄り添い想いをはせるロビー。いまでも兄弟のように仲間を想いつづけるかれのこころに、私の頬にも涙がつたう。
「ラスト・ワルツ」を想いだすなかで、かれは瞳を輝かせながらこのように述べた。「すばらしい旅をさせてくれて感謝します」と。私もロビー・ロバートソンが「ラスト・ワルツ」に贈ったことばを、この映画に、そしてザ・バンドに贈りたい。
「すばらしい旅を、そして美しい青春をみせてくれて感謝します」。あなたたちのすばらしい兄弟愛と友情からつくられた楽曲の数々にこころからの“ありがとう”を。私のちいさな心臓がビートをうつかぎり、ザ・バンドの奏でる音楽はずっと私の胸をうつだろう。
【執筆者プロフィール】
藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。拙いながらも、自分自身に素直な文章を書けるようにと心掛けています。
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