2018年4月24日火曜日

映画『女神の見えざる手』評 text今泉 健

「映画と現実の追いかけっこ」 


 今年の第90回アカデミー賞、下馬評では『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)か『シェイプ・オブ・ウォーター』(監督:ギレルモ・デル・トロ)が有力とされている中、反トランプ政権の動きで「ビバ メヒコ!」の流れに乗り、どちらかというとデル・トロ監督に軍配が上がった形になりました。昨年や今年の諸々のアカデミー賞の受賞結果は「時代の節目、転換点だった」と後世で語られるのでしょう。昨年のアカデミー賞が黒人達にスポットライトを当てたということなら、今年は「オタク」な人達が脚光を浴びたともいえます。一方女優が脚光を浴びていたのも事実。『スリー・ビルボード』の主演女優フランシス・マクドーマンドは「男おばさん」ならぬ、「女おじさん」という風体、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンズは最上級の不思議ちゃんといずれも超個性派女優、この2本がアカデミー賞の話題をけん引していました。マクドーマンドの受賞スピーチは同性に向けての応援演説であり、アカデミー賞の名場面の仲間入りは必至です。

 昨年は、女性が主人公の映画が印象深い1年でした。特に後半、イザベル・ユペール主演の『エル ELLE』(監督ポール・ヴァ―ホーヴェン)、1950年代の話ですがマーキュリー計画で頭角を現す黒人女性たち、 タラジ・Pヘンソン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイ主演の『ドリーム』(監督セオドア・メルフィ)、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(監督デヴィッド・リーチ)など筆頭に、エイミー・アダムス主演の『メッセージ』(監督ドゥニ・ビルヌーブ)も、ガル・ガドット主演のあの『ワンダーウーマン』(監督パティ・ジェンキンス)が公開になりました。『マイティー・ソー バトルロイヤル』(監督:タイカ・ワイティティ)のケイト・ブランシェット演じる敵役も、そもそも筋肉ムキムキなクリス・ヘムズワースのソーよりタイマンで強いという設定になっています。共通しているのは、「強い女性」というより、「女性こそが強い」ということです。女性があくまで女性のまま、逞しく生きていること。男社会が舞台でも人種偏見に晒されても、男勝りとは違って女性であるまま強いことなのです。そしてそんな中でも際だっていたのが、ジェシカ・チャスティン主演の『女神の見えざる手』(監督ジョン・マッデン:原題:Miss Sloane)でした。
 この作品は、アメリカの政界が舞台の女性ロビイストの話です。ロビイストとは、「ロビー活動」をする人たちのことで、ロビー活動とは、政界、官界で根回しをすることです。特定の企業や団体の利益のために、政治家や官僚に対して働きかけ、有利な政策を立案、実行させる仕事です。その団体が政治献金などですでに代議員と一体化しているので、直接議員からオファーがきたりします。法人形態を取っていて、様々な規模で専門分野を持つ事務所があり、職業として確立しています。活動を規制する法律、例えばロビイストが無料で政治家を招いて旅行をしてはいけない等も定められています。
 アメリカの政界もまだまだ男性社会というのが現実のようで、政界のロビーは実弾が飛び交ってないだけで戦場さながら、一寸先は闇のもっとも熾烈な職場のように作品から窺えます。この辺りは、女性フィクサーが主人公の米ドラマ『スキャンダル 託された秘密』(製作:ションダ・ライムズ)も同じようなイメージです。『スキャンダル』は主演ケリー・ワシントンで、政治家の「身の下」問題などプライベートな件も扱う点が違いますが、マスコミに印象操作を行うことなどは同じです。そして「スキャンダル」のオリビア・ポープ以上にこの作品の主人公エリザベス・スローンは「エグい人」でした。結果が全てなので手段を選びません。使えるものは何でも使います。部下からの信頼とか気遣いとか倫理観とかギリギリの線どころか大きく踏みだしても勝とうとします。この様子はまさに肉食獣。女性としての性欲も抑えません。彼女の仕事の根源的な動機、今回は銃規制の推進ですが、個人的動機は明確になりません。話を追うにつれ、そんなものは明確にしたら諸刃の剣、いや、そもそも個人的な感情などないのかもしれません。そんなのはあったとしても、目標完遂には不要だから観客にすら見せていないかのように思います。彼女は何重にも作戦を巡らし、最後は自分の境遇でさえも切り札で使います。まさに「肉を切らして骨を断つ」ですが、この戦法は男性ではここまでの度胸がなくて難しいかなと思えてきます。作品自体も銃規制を取り上げているので特に現政権の政策に反する内容です。銃の問題はアメリカがアメリカたる所以でもあり、現状維持か規制か実際に意見も割れています。そこに女性が半ば1人で挑戦状を叩きつけるという展開は、やはり「女性こそが強い」、「女性こそが世の中を変える」と主張しているように思いました。
 キャストは米ドラマ『ニュースルーム』(製作:アーロン・ソーキン)という政局を扱うニュース番組の米ドラマに出演した、主要レギュラー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキーの2人と、弁護士の米ドラマ『グッド・ワイフ 彼女の評決』(製作:ロバート・キング、ミシェル・キング)のレギュラー、クリスティーン・バランスキーもカメオみたいに出演。ポリティカルドラマの雰囲気づくりに貢献しています。また、アメリカの国内問題ですが、製作はEUからも加わっていて、それだけにアメリカという国に対する客観性が強いのでしょう。
 そして、この「女性こそが強い」は、昨年のアカデミー賞を賑わせた『ラ・ラ・ランド』(監督:デイミアン・チャゼル)で既に始まっていたように思います。エマ・ストーン演じるミアが故郷アメリカを離れ単身フランスへ、そしてライアン・ゴズリング演じるセバスチャンが地元のLAでお店を持つ展開というのは、ちょっと昔のミュージカル風な作品で意外に思いました。男性が残り女性が去るという流れは印象的であり、ステレオタイプな概念とは真逆でした。
 
 先のアメリカ合衆国大統領選でドナルド・トランプ氏の当選に憤慨、落胆する人たちの報道の中でハリウッド周りの人たちの姿が印象的でした。もちろんトランプ氏を推す著名人もいましたが、ハリウッドでは全体的にヒラリー・クリントンを待望していたような印象です。列挙した各作品の撮影時期は当然、大統領選が決する前の作品ばかりです。各々の企画意図まで吟味したわけではないですが、ある程度作品数が揃っていることもあり、アメリカ初の女性大統領誕生の予感が、女性が際立つ作品たちを作らせたような気がしてならないのです。「女性大統領の誕生=女性の強さの覚醒」という刷り込みが、意識的か無意識的か作品に投影されたのではないでしょうか。『ELLE』はフランス映画ですが、米国の一般公開日が2016年11月11日(Fri)、大統領選の一般投開票日、スーパーチューズデーが11月8日なので、女性大統領の誕生を目論んだ公開日とも思えるのです。 
 当初ヒラリー・クリントンが出馬を表明した後には対抗馬に大した候補も出ず、最終的に共和党候補がドナルド・トランプになった時、殆どの人がヒラリーを次期大統領だと思ったのではないでしょうか。ちょっと前なら泡沫候補の体であり、野放図で差別的な発言を繰り返すトランプの方をアメリカ人が推すと信じていた人は数少ないと思います。しかし、その一方でイギリスがEU離脱を国民投票で決めてしまうなど、今までの予定調和は成立しないという流れもありました。またヒラリー・クリントンの私用メールサーバー疑惑の発火点の張本人たちが出てくるドキュメンタリー『ウィーナー  懲りない男の選挙ウォーズ』(監督:ジョシュ・クリーグマン、エリース・スタインバーク)を見る限り、民主党陣営の運営には脇の甘さが目立ち、ひとりで勝手にこけた部分もあります。トランプ氏は目の前にいる聴衆が何を望んでいるか察知して言葉に出来る能力に長けている優秀なビジネスマンのように見えます。ただ現政権にもロシアの選挙介入疑惑なんてものが燻っていて、当選を一番驚いたのはトランプ氏自身だったというブラックジョークのような話がまことしやかに囁かれているくらいです。やはり様々な立場の人にとってもこの結果が衝撃だったという表れでしょう。
 今年2018年になっても新しい動きがでています。アメリカで大ヒットの『ブラックパンサー』(監督:ライアン・クーグラー)はブラックムービーですが、オープニング1週間の興業成績が『スターウォーズ 最後のジェダイ」(監督:ライアン・ジョンソン)並という勢いです。主演は映画『42 世界を変えた男』(監督:ブライアン・ヘルゲランド)で、伝説の黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソン役が印象的だったチャドウィック・ボーズマン。その国王を支える人達、近衛兵までもがほぼ女性だという、「女性こそが強い」という昨年来の流れも踏襲しています。ヒットが難しいと言われるブラックムービーで大ヒットが続けば、これまた節目になるのでしょうか。確かに出演者は『ゲット・アウト』のダニエル・カルーヤ、『クリード チャンプを継ぐ男』のマイケル・B・ジョーダン、大人気のテレビドラマ『THIS IS  US 36歳、これから』(脚本:ダン・フォーゲルマン)のスターリング・K・ブラウンやルピタ・ニョンゴ、アンジェラ・バセットなど旬な黒人俳優を起用したのが勝因かと思います。中にはギャラが上がる前にスケジュールを押さえられた人もいるのじゃないでしょうか。 
 アカデミー賞の前哨戦、ゴールデングローブ賞では、女優が皆、黒色のドレスを纏い「Me Too」や「Time's Up」のワッペンをつけて、セクハラ追放を訴えました。映画は現実社会の映し鏡です。ただ、映画が社会現象となり現実社会に大きく影響を与えることばかりなら、それはそれで諸手を挙げて賛成とは言い難い面もあります。時に誰かの偏った思想の宣伝に利用されかねない危うさもあるからです。
 アメリカの女性大統領が主役の作品といえば、15年ほど前に、あの『テルマ&ルイーズ』(監督:リドリー・スコット)のジーナ・デイビス主演ドラマ『マダム・プレジデント~星条旗をまとった女神』(原題:Commander in Chief)(製作:ロッド・ルーリー)がありましたが、人気がなく1シーズンのみで打ち切りなったのは有名です。しかし当時とは状況が違います。期が熟しているなら、シットコム『VEEP/ヴィープ』(脚本:アーマンド・イヌアッチ)のような女性副大統領が主役の作品が当たっている分けですから、いずれ女性大統領が主演のドラマや映画が頭をもたげてくるということしょうか。映画なら主演の第1候補はメリル・ストリープですね。 
 近年のハリウッドにおける女優の地位の問題、男優と女優の待遇格差の事実が明らかになりました。追放者まで出した昨年のセクハラ事件の表出は、反トランプ政権的な流れと重なって、あの超大国の中で、トレンドなどという軽い言葉では語れない、相反する、マグマのような大きなうねりが生じているようにも見えます。映画は現実を越え、例えば少し先の価値観を植え付けるものなのか、映し鏡として、例えば、やがて知れ渡る小さな現実の萌芽をクローズアップして世に伝えるものなのか、映画と現実世界の追いかけっこは今年も目が離せません。

(text:今泉健)


『女神の見えざる手』
2016年/132分/フランス、アメリカ合作

監督:ジョン・マッデン

製作総指揮:クロード・レジェ

脚本:ジョナサン・ペレラ

撮影:セバスチャン・ブレンコー

キャスト:ジェシカ・チャステイン、マーク・ストロング、ググ・バサ=ロー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキー

あらすじ
大手ロビー会社の花形ロビイストとして活躍してきたエリザベス・スローンは、銃の所持を支持する仕事を断り、銃規制派の小さな会社に移籍する。卓越したアイデアと大胆な決断力で難局を乗り越え、勝利を目前にした矢先、彼女の赤裸々なプライベートが露呈してしまう。さらに、予想外の事件によって事態はますます悪化していく。

(C)2016 EUROPACORP - FRANCE 2 CINEMA

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【筆者プロフィール

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身、男性、東京在住、会社員、
映画好きが高じてNCWディストリビューターコース、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2018年4月13日金曜日

東京国際映画祭2017〜映画『イスマエルの亡霊たち』アルノー・デプレシャン監督上映後トークショーtext藤野 みさき

© 2017 TIFF

フィクションの役割は人生を修復してくれることにあると私は信じているのです——アルノー・デプレシャン

  
 誰しもが忘れられない大切な劇場があるように、TOHOシネマズ六本木ヒルズのスクリーン7は、私にとって特別な想いを抱く場所である。アルノー・デプレシャン監督が、この劇場にふたたび戻ってきてくれたことが、私にとても大きな感動をもたらしてくれた。
いまから遡ること、8年前。当時の最新作である『クリスマス・ストーリー』の上映にともない、アルノー・デプレシャン監督、主演をつとめたマチュー・アマルリックとアンヌ・コンシニが来日をなさり、大きなスクリーンを背景に、上映後にトークをなされていたことを私はついこの間のことのように、懐かしく思いだす。当時17歳だった私が、8年後にこの東京国際映画祭という舞台でデプレシャン監督と「再会」できたこと。そして監督のことばを伝えることができることが、いま、すなおにとてもうれしい。

『イスマエルの亡霊たち』は、『あの頃エッフェル塔の下で』以来、2年ぶりのアルノー・デプレシャン監督の最新作である。20年前に失踪した妻カルロッタ(マリオン・コティヤール)が、傷の癒えぬまま暮らしていた映画監督の夫、イスマエル(マチュー・アマルリック)のもとへ突如帰ってくるところからものがたりは始まる。イスマエルの現在の恋人であるシルヴィア役にシャルロット・ゲンズブールを迎え、イポリット・ジラルド、ルイ・ガレル、そしてラースロー・サボーらフランス映画界を代表する俳優たちが、さらに映画を豊かなものへと昇華している。
 デプレシャン監督にとってまさに「夢のようでした」と語る、マリオン・コティヤールとシャルロット・ゲンズブールのすばらしさ、そして「フィクションの役割とは人生を修復することにある」という、デプレシャン監督の、力強く、胸をうたれることばたち……。本作に込められた想いを、全文掲載というかたちでここに記します。
(2017年10月28日(土)TOHOシネマズ六本木ヒルズSCREEN7にて 取材・構成・文:藤野 みさき)

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© 2017 TIFF

Ⅰ 10のものがたりをひとつの映画として語るために


矢田部吉彦(以下矢田部):デプレシャン監督、すばらしい作品を東京に届けてくださって本当にありがとうございます。まずは私から幾つかの質問をお伺いしたいのですけれども、冒頭でデプレシャン監督が10のものがたりがひとつの流れになっていると、おっしゃっておりましたね。この10のものがたりは新たにこの映画のために作られたものなのか、それぞれ監督の頭にあったイメージが長い時間をかけてこの映画になっていったのか。その辺りから、お話しをお伺いできますでしょうか。

アルノー・デプレシャン(以下AD):10のものがたり、と言いましたけれども、最初は断片的なままで存在しているだけでした。その断片をストーリーにしてゆこうと思ったのです。それはイヴァンをめぐるものがたりで、ウディ・アレンの撮った『ブロードウェイのダニー・ローズ』(1984)のように断片が繋がったものがたりにしようと思ったのです。ですがあるとき、“イヴァンのものがたりを監督が語る”という構造を思いつきました。私はいままで映画監督を主人公にしたことはありません。初めて自分で映画監督を主人公にした映画を作ろうと、そのような自由を自分自身に対して許すことにしました。しかし、私が描こうとする監督はいったいどのような人物であるのかまだわからなかったのです。そのときに頭に思い浮かんだのが海辺のシーンです。ひとりの女がいて、もうひとりの女が近寄ってくる。彼女は「イスマエルは相変わらず泳ぐことが嫌いなの?」と訊くのです。そうすると、「どうしてそのことを知っているの?」という答えが返ってきて、そこで「私はイスマエルの妻だからよ」と言うのです。この3つの台詞が浮かびました。20年前にいなくなった女性が戻ってくる、その3つの台詞、そのイメージから、このものがたり、映画の全体が分泌されていったのです。

矢田部:そして、どちらかというとイヴァンのものがたりというよりも、イスマエルのものがたりのほうが大きくなってゆく……。それは自然な流れでしょうか。

AD:そうですね。この映画は寧ろイスマエルのポートレイトという映画になっています。変わった映画監督のものがたりです。そうして、その監督は消えてしまった弟、イヴァンについての夢を見ています。イヴァンの方は小さなモチーフであって、それを膨らませていると大きなスパイ映画を作らなくてはいけないのですが、私にはそれができません。きっと退屈してしまうだろうと思ったからです。寧ろ別のところをさまよい、他のものがたりを語りました。

矢田部:ありがとうございます。それでは、お待たせしました。観客の皆さまよりご感想、あるいはご質問をお受けしたいと思います。如何でしょうか。アルノー・デプレシャン監督に質問するのは緊張するかと思いますが、とても貴重な機会です。

 ここから、矢田部さんより観客の方々へと質問が引き継がれてゆきます。

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筆者撮影

Ⅱ 映画監督という役割に投影させる意味


Q1. ありがとうございます。映画監督を主人公に映画を撮られると、監督ご自身が映画の中に反映される、ということがよくあるかと思います。今回主人公であるイスマエルにデプレシャン監督ご自身が反映されているのかということと、デプレシャン監督と従来にわたって仕事をなされているマチュー・アマルリックにこの役を演じていただくにあたって、どのような要望・希望をなされたのかを教えていただけますか。

AD:マチュー・アマルリックも私も「イスマエル」という監督には絶対になれないと思います。即ちイスマエルは、マチュー・アマルリックにも、私自身にも、とてもできないようなことを自らに許しています。とても過激で、そして失礼でさえあります。そのうえに気まぐれで、極端でもあり、撮影現場から逃げることまでします。そのようなことはマチュー・アマルリックも私も絶対にできません。マチューと私はより慎重で、そのようなことができないタイプなのです。私たちはイスマエルほど薬を飲んだりもしませんし、健康に注意をしています。

会場:(笑)。

AD:私はこの映画を撮るとき、マチューに要求をしたことがふたつあります。それはイスマエルという人物の中にあるふたつの特徴です。イスマエルは風変わりで身勝手であるにもかかわらず、謙虚なところがあります。彼は自分のことを絶対に“映画監督”とは言わない。フィルムメイカー、即ち、“映画をつくるひと”だと言っているのです。マチューはまさにそうした謙虚なところを持っています。そして女性の前になると、たとえばシャルロット・ゲンズブール(シルヴィア)に逢うと、実に深い感銘を受けて、とても謙虚になります。ですので、イスマエルは過激な男性であり、男性に対しては極端なことができるのですが、女性に対しては実に謙虚に慎ましくなることができるのです。

© 2017 Why Not Productions - France 2 Cinéma


Ⅲ 映画の夢 ふたりのミューズ マリオン・コティヤールとシャルロット・ゲンズブールについて


矢田部:ありがとうございます。いまちょうど、シャルロット・ゲンズブールさんのお名前がでましたが、シャルロット・ゲンズブールさんとマリオン・コティヤールさんを、私たちは同時に拝見できるという幸福を味わうことができます。このふたりの女優さんの選定についてはどのようにおこなわれたのでしょうか。

AD:私にとって、それはまるで夢のようでした。
皆さま、“カルロッタ”という役を思ってみてください。彼女はとても神話的なところのある登場人物です。カルロッタは一旦失踪しますが、20年のときをへてまた戻ってくるのです。そこで、マリオン・コティヤールのもっている「神話を自らで創りだす力」を考えました。そして、神話的な存在になることができるのに、実際は単純であることができる。ただの少女、ただの子犬のようになることもできるのです。彼女が踊るシーンを考えますと、彼女は“ただ生きている”だけであり、神話というものは、そこにはまったく関係がありません。マリオン・コティヤールがもっている「自分で神話をつくる力」、そして、自らが創作することのできるその神話を壊し、「ただ生きている存在」になれる力を考えました。

AD:シャルロット・ゲンズブールの演じたシルヴィアですが、彼女は女性として“生きることへの傍観者”です。傍に逸れて観察をしているタイプです。また同時に彼女は灰の中の燠火(おきび)のようでもあります。しかし、その燠火からでて燃えあがってほしい、と思います。シルヴィアをみると「灰を落として炎になれ! そして本当の人生を生きろ!」と言いたくなります。そして、この映画のなかのシャルロット・ゲンズブールは、ラース・フォン・トリアー監督の映画とはまったく違った役を演じていらっしゃいます。実に生命力に満ちた役を演じています。また同時に彼女の中には慎みがある。それが起用の理由です。

Ⅳ 選曲の定義 マリオン・コティヤールの踊るボブ・ディランの『悲しきベイブ』


Q2. 10個のストーリーというものをいま拝見させていただいて、その流れを自分の中で咀嚼するのは少々時間が掛かるかもしれませんが、もう一度観返してみたいなと思える作品でした。そう思える作品というのはなかなか出逢えないからです。ありがとうございます。質問なのですが、今作も音楽の使い方が大変印象的で、ロックから弦楽まで色々なジャンルの、その場に合った音楽というものが使用されていてこだわりを感じました。そのあたりの選曲の定義をお伺いできたらと思います。

AD:ご感想とご質問をどうもありがとうございます。私が音楽を選ぶのは、編集をしているときです。私が好きなのは、音楽と音楽、曲と曲とをぶつからせること。ヒップホップの曲をクラシックのスコアとぶつからせる。ヴェートーヴェンとジャズをぶつからせる。そうしたことが好きです。そのような意味において私にとって崇高な存在は、マーティン・スコセッシです。

しかし一曲だけ、編集をする前から決まっていた曲があります。それはマリオン・コティヤールが踊る場面でかけた、ボブ・ディランの『悲しきベイブ』です。この曲は権利を得なくてはなりませんでしたし、マリオン・コティヤールに振付けをして踊ってもらうためには、あらかじめ曲を決めていなければならなかったからです。そこで、踊る場面の練習を始め、マリオン・コティヤールの振付けをしてリハーサルをしたとき、私はうまくいくかどうかを心配していました。そして彼女に対して「この曲をグルーヴにできる?」と訊いたのです。そうすると彼女は「わからないけれどやってみるからとにかくかけてみて」と答えてくれました。そして彼女はこの曲をとてもロックンロールにしてくれたと思います。

筆者撮影


Ⅴ ビガー・ザン・ライフ フィクションの役割は人生を修復してくれることにある


Q3. (質問者である女性がアルノー・デプレシャン監督へ)昨日の夜はありがとうございました。

矢田部:何があったんですか!?

会場:(笑)。

質問者の女性:本にサインをいただきました。ありがとうございます。
デプレシャン監督が、本の中でお書きになられていたこと——「フィクションには起源も真実もない。フィクションは至るところで埃のように舞い上がる」(※1)——という表現が私はとても好きです。お伺いしたいことというのは、どこからアイディアを思いつかれるのか。ということです。日常生活の中で思いつかれるのか、それとも、映画をご覧になっているときアイディアを思い浮かばれるのでしょうか。

AD:私の考えでは、フィクションは私たち周囲のいたるところに存在すると思っております。そしてフィクションの役割は、私たちの人生を修復すること、人生をよりよいものへと導いてくれるものです。
ふたつの例をあげたいと思います。最初の例はこの映画から取った例です。イスマエルは、(ルイ・ガレル演じる)外交官である弟のイヴァンに対してひどい関係をもっています。(イスマエルは)彼のことが嫌いなのです。そこでイスマエルはイヴァンの人生の夢をみて、イヴァンの冒険譚をつくります。そうすることによって、不器用であった自分と弟の関係を、敵意を修復しようとしているのです。もうひとつの例をあげますと、この映画の脚本を書いているときに、パリで同時多発テロ事件が起きました。一連のテロ事件があったために、もう私は脚本を書けなくなってしまったのです。なぜならば、このテロ事件が起こったことによって、フランス人は自らの中にある新たな脆弱さ、もろさを知ったからです。私の書いていた登場人物たちはその脆弱さをまだ知らない人たちでした。そこで、私はフィクションをつくりました。それがテルアビブへ行く飛行機の中でアンリ・ブルーム(ラースロー・サボー)が客室乗務員と喧嘩をし、言い争いをするところです。この場面はコメディでもありますが、同時に悲劇でもあります。結局はイスマエルもアンリも、牢獄で手錠をはめられてしまいます。この場面は私にとって「私たちは新たな危険のある世界に生きている」という事実を受け入れる方法でした。

Ⅵ あなたの不在は私の魂にもたれて眠る 不在がもたらす愛するひとへの想い


Q4. とてもロマンスが多く、主人公(のイスマエル)は悪夢をみて苦しんでいる印象がありました。質問はふたつあるのですが、ひとつめは主人公であるイスマエルが陥っている悪夢、これは(カルロッタの)お父さんであるアンリも悪夢をみていらっしゃったと思うのですが、デプレシャン監督ご自身も悪夢をみられたり、そのことを作品に落とし込んだりすることがあるのかということがひとつめの質問です。ふたつめは、よくある映画では“傍にいるひとがいなくなったことで、その大切さに気がつく”ということが多いと思うのですが、本作の場合は逆にいなくなったひとが戻ってくることによって、主人公は混乱してしまうということがあったかと思います。そのような部分のご説明などがありましたらお聞かせください。

AD:私は人生の中で悪夢をみることが多くあります。そして、夢にみた悪夢を映画の中でつかうこともあります。しかし、その悪夢というのは「ここからとったのだろうな」と皆さんが想像する場面ではありません。例えば、この映画では2枚の絵画を使ってイスマエルが遠近法の説明をする場面があります。実はあのお話しというのは、ある美術史家の本からきているのですが、私は悪夢をみたとき、それはとてもひどいものでした。けれども、その素材をつかってむしろ生き生きとした変な場面にしようと思ったのです。
不在のひとが戻ってくるということについて、私がとても美しいと思うのは、イスマエルはずっと妻を失った寡夫のように生きてきました。妻のことを埋葬することができなかったからです。そして、その妻であるカルロッタは亡霊のような存在として、ずっと彼の傍にいました。ある日突然、彼の元を去ってしまったにも拘わらず、です。そして、カルロッタの父であるアンリは娘の失踪を嘆くばかりであり、イスマエルとアンリは喪に服すことができませんでした。ところが、ある日彼女が戻ってきます。彼女が戻ってきたのは、イスマエルが第二の人生を歩もうとしている、まさにそのときでした。かつての人生をつづけるのか、新しい人生を築きあげてゆくのか。どちらが良いのか、という答えは絶対にありません。それがとても良い答えになっていると思います。

矢田部:ありがとうございます。以上をもちまして質疑応答を終了させていただきたく思いますが、最後にデプレシャン監督から一言締めのご挨拶をいただけますでしょうか。

AD:私から皆さまに申し上げたいことがございます。初めて日本に来たのは私の2本目の作品である『魂を救え!』のときでした。そして、そのとき以来、日本の観客の方々は、私の監督としての人生にとってとても大切な存在になっております。もしもあのとき以来、年を経ていまでもつづけている日本の方々との対話がなかったとしたら、いまつくっている作品はつくられていないと思います。それゆえに、上映前のご挨拶のとき「ここに来られたことを感動しています」と申しあげました。

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筆者撮影

《あとがき》

 上映後の質疑応答は、矢田部吉彦氏の司会のもと、会場と観客が一体となったように、あたたかな雰囲気に包まれながら進行した。福崎裕子氏の的確かつ、美しい通訳を通じて語られるデプレシャン監督のことばに、時間を忘れて聴き入ってしまったのは、きっと私だけではないと信じている。

『キングス&クイーン』や『クリスマス・ストーリー』でも語られているように、人生とは厳しいものである。『キングス&クイーン』で、ノラは末期癌の父を抱えながら、きっと、まだ愛している元恋人のイスマエルに逢いにゆき、『クリスマス・ストーリー』では一家の母であるジュノンが癌だと宣告される。しかし、ノラはおとずれる不運にひとりで立ちむかい、ジュノンは癌だと言われても悲観せず、家族はどうしたら生きられるのかと可能性をさがす。私はこの二作を通じて、デプレシャン監督の目指そうとしている高みを感じていた。試練とは、乗り越えられる人間のもとにおとずれることであり、試練を越えたさきにはさらに大きく、偉大な存在になってゆく輝きを秘めているのだと。だから私はデプレシャン監督の希望に溢れたこの一節がとても好きだ。
「『キングス&クイーン』では、男女のすべてを逆にしました。男の子(イスマエル)はいままでに恐ろしい経験をしたことがなく、いつもブツブツと不平を言っています。しかし女の子(ノラ)は、最低のことが次々と起きているのに決して泣き言を言わないのです。本当に恐ろしいこと、最悪な生活を知っている女の子は、すべてがうまくいくように、すべてが太陽で輝くようにする力強さを持っているのです」(※2)と。

『イスマエルの亡霊たち』でも、デプレシャン監督の、登場人物にそそがれる希望のまなざしは変わらない。「交際するのは既婚者ばかり。それに私には障害をもった弟ジョゼフがいる。だからこどもは持たないわ」——人生の傍観者として生き、愛すること(傷つくこと)を恐れていたシルヴィアが、イスマエルとのこどもを授かることにより、本当の意味で自分の人生を享受し、歩もうとしてゆく。その姿は、私の瞳にとても感動的に映った。
 人生は多くの困難や恐れがある。しかし、それらの感情やできごとは、常にあなたを人間としての高みへと導く通過点にすぎない。『キングス&クイーン』でイスマエルが「想像するよりもっと刺激的で意外なのが人生なのだから」と言っているように。デプレシャン監督は映画を通じて、私たちに人生の輝きを語りかけてくれる。
 最後にマチュー・アマルリックが述べていた、とても美しいことばでこの文章を結びたい。
「アルノーとの撮影は本当に楽しいし刺激的だ。刺激的以上だよ。それは世界と人生との感じ方を変えてくれるんだ。ものごとや人生に対する喜びを与えてくれる。人々や世界、ものごとに対する意欲を十倍にしてくれる。きっとこれからもそうだ。美しいプレゼントだよね」(※3)。

*1:『すべては映画のために! アルノー・デプレシャン発言集』『キングス&クイーン』シナリオ・ブックのために書かれた序文 P11より 福崎裕子氏訳
*2:『すべては映画のために! アルノー・デプレシャン発言集』第2章 アルノーデプレシャン、映画を語る P59より
*3:「nobody」issue34 P13 取材・構成:結城秀勇氏

(text:藤野みさき)


『イスマエルの亡霊たち』
Les Fantômes d'Ismaël /Ismael’s Ghosts フランス語 | 2017年 フランス | 135分(ディレクターズ・カット版) カラー

◉ 作品解説

撮影入り直前、死んだと思われていた前妻が姿を現す…。

A・デプレシャン監督の新作は、期せずして奇妙な三角関係に陥った映画監督の日常と、彼の創造する映画とがモザイク状に組み合わさった愛のドラマである。若き外交官のイヴァンは世界中を飛び回るが、その意味を理解していない。イヴァンの物語を映画にするイスマエルは、自分の人生の意味を理解していない。死んだと思っていた妻が20年ぶりに帰ってきたのだから。イスマエルは動揺し、執筆する脚本も混乱していくが、それでも物語の断片をひとつにしようともがく…。
デプレシャン監督はひとつひとつのシークエンスに力を込め、その繋がりよりも全体の強度に重きを置き、いくつかの死の形を通じて強く生を肯定する。マチュー・アマルリック、シャルロット・ゲンズブール、マリオン・コティヤールら人気俳優の共演もさることながら、虚実のコラージュから紡がれる命の実感を堪能したい。カンヌ映画祭のオープニング作品(カンヌでは114分の短縮バージョンが上映されたが、TIFFでは134分の「ディレクターズ版」を上映)。

出演
マチュー・アマルリック
マリオン・コティヤール
シャルロット・ゲンズブール
ルイ・ガレル
アルバ・ロルヴァケル
ラースロー・サボー
イポリット・ジラルド
ジャック・ノロ

スタッフ
監督/脚本 : アルノー・デプレシャン
脚本 : ジュリー・ペール
脚本 : レア・ミシウス
撮影監督 : イリナ・ルブチャンスキー
セット・デザイン : トマ・バクニ
プロデューサー : パスカル・コーシュトゥー
プロデューサー : ヴァンサン・マラヴァル

第30回東京国際映画祭
期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)※会期終了
会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)ほか都内の各劇場および施設・ホール
公式ホームページ:http://2017.tiff-jp.net/ja/

本年度の第31回東京国際映画祭は、2018年10月25日(木)~11月3日(土・祝)に開催決定!

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。昨年の終わりより休養に時間をあてているので、本年は無理をせず、大好きな映画とともに、自分を大切にすることが目標です。
そして、このたび、敬愛するアルノー・デプレシャン監督の記事を執筆できたことを本当に嬉しく思っています。

Twitter:@cherrytree813

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