2017年11月23日木曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『シャーマンの村』Q&A text岡村 亜紀子

 11月21日の上映がワールド・プレミアとなった『シャーマンの村』のQ&Aの模様をお届けします。司会は「ユー・グァンイー監督の作品が本当に大好き」だという林加奈子ディレクターです。

 始めに監督からのご挨拶があり、
「皆さん、こんにちは(日本語で)。
今日はこの映画を観て下さって本当に有難うございます。
この映画は2007年に、私自身の故郷である黒龍江省の五常県というところで撮影を開始して、撮影を続けて編集して完成し、今日こうして観て頂くまで10年の歳月がかかりました。
今回の東京フィルメックスにこうしてお招き頂いたことに心から感謝しています。フィルメックスに来るということは外国に出るような感じではなく、親戚のお宅にお邪魔したような感じがして、とても親しみを感じます。」
とお話されました。

 ユー・グァンイー監督作品の東京フィルメックスでの上映は、第8回の上映作品『最後の木こりたち』(2007)、第9回の『サバイバル・ソング』(2008)、第12回の『独り者の山』(2011)に続き、本作で4回目となります。

『シャーマンの村』

林ディレクター
今、私たちを親戚といって下さいましたけれども、画の中のシャーマンの村の方達が、カメラに対して凄くfamiliarというか親しい感じがします。
10年密着して撮ったというのはこういうことなのだなと感じたのですが、シャーマンの村の人々との出会いのきっかけについて、監督からご説明頂けますでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この場所は中国の北方にあるハルピンから230キロ離れたところにあります。
26歳以前はこの辺りでずっと過ごしていました。
私の故郷の村は映画の中の村から8キロほど離れたところにあります。
この人達と知り合ったのは『最後の木こりたち』を撮っていた2004年の頃です。
それから彼らとお付合いするようになり、2007年の秋にこの作品を撮影することになりました。

(ここからは、会場からの質問となります。一部抜粋してお伝えします。)

Q.1
おそらく出演していた子供たちが貼ったのだと思いますが、シュー(出演したシャーマン)の家の中に台湾のポスターが貼ってあったのが、子供が去った後として映り、私にはとても印象に残りました。
監督の(故郷の)お近くの村にシャーマンの方が居たそうですけれども、中国には今もこうしたシャーマニズム的なことが沢山あるのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
アリガト(日本語で)。
中国には他の地域にもこうした村が割とあります。
なかなか医療を受ける環境が十分に整っておらず、医療費も高い為、医者にかかれない時には彼らのようなシャーマンに頼んで病気を治してもらうという風習がまだ数多く残っております。
そういったわけで、シャーマンは村の人々にとって精神的な拠りどころとなっています。
私はこの映画の中で、神の導きに従って、人間がどう生きるかを表現したいと思いました。

Q.2
大学で映画を学んでいて、この夏ドキュメンタリーを撮りました。
カメラを動かすことがドキュメンタリーだと自由なので、対象が左右に動くと(カメラを)動かしてしまうことがあります。
また、光量などを考えて動かせなかったり、外へ出て行くことを回避したりもするのですが、監督の映画を観ていると光量などを超えて映す対象を追っているように感じました。
カメラを動かす決断はどういったところでしていますか?

ユー・グァンイー監督
映画が誕生して100年以上経ちますが、みんな映画を学ぶ為に古典的な名作を観て、映画に関する基礎的な本を読んできたわけでしょうけれども、私としては、テクニックはあまり重視をしていません。
映画を撮る上でより重要だと思うことは、撮る人の誠意であって、何を撮りたいかをいかに強烈に心の中に持っているかだと思います。

林ディレクター
有難うございます。
映画、お待ちしています。

Q.3
この辺りに住んでいるシャーマンの伝統を持つ人々は、何の民族なのでしょうか?
漢民族なのか、それとも他の民族でしょうか?
また精霊でキツネが出てきましたけれども、他の動物の精霊もよく出てくるのでしょうか?
基本的にはキツネだけなのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この村に住んでいる方達はみんな漢民族で、私自身も漢民族です。
シャーマンは漢民族よりも少数民族において歴史・風習があり、漢民族に伝わったのは後年になります。
もともとシャーマンは山東省や河北省で非常に多かったのですが、黒龍江省に入ってきたのはここ100年くらいのことになるかと思います。
シャーマンというのは動物の精霊と非常に関わりがあります。
映画の中に出てきたキツネや、そしてオオカミですね。
そのような精霊と交信することがあります。

Q.4
文化大革命の時に宗教はかなり弾圧されたかと思いますが、人間にはこういうものが非常に必要だと理解しています。
文革の時に、シャーマンはどのような扱いを受けたのでしょうか?
必要だから今のように(シャーマンの風習が)復活してきたのでしょうか?
それともずっと残っていたのでしょうか?
その辺りを文革という歴史と絡めてお聞きしたいです。

ユー・グァンイー監督
有難うございます。
中国に大変詳しいご質問ですね。
文革の時は、このようなものは一切禁止されていて絶対にあってはならないものでした。
当時のことは、あまりにも暗い時代だったのでもうあまり語りたくないですね……。
現在のところ、政府としてはシャーマンの存在や行いについては見て見ぬ振りで、そんなに反対も禁止もしないけれども奨励もしないという態度をとっています。
実際問題として若い人がどんどん都会に出て行き、村に残っている比較的お年をめしたシャーマンの方達もいまや少数になってきています。
それが現状です。
この映画を撮る時に、本当に色んな村の様子を目にしたわけですけれども、老人が段々と少なくなっていて、そして子供たちも(映画の中で)ああやってシャーマンの風習を見ています。
そういう風に子供たちによく見せて、大切にしていく風習であることも考えました。
様々なことが変わっていく中で、かろうじてシャーマンの風習があのように残っている、それをこの映画の中で描いたわけです。

Q.5
この村の人達はこの映画を観たのでしょうか?
観たとしたらどういった感想を持たれたのでしょうか?

ユー・グァンイー監督
この映画自体はまだ村の人達は観ていません。
以前の私の映画を観た村の人達は、非常に村の生活がリアルに撮られていることで、こうした生活を映像で記録することで、これからの子孫も観ることが出来て、代々受け継いでいくことが出来るととても喜んでいます。
彼らにとっては、映画というのは国の指導者のような偉い方達が観るものであり、都会に住む素敵な人達が観るものだと思っているようです。

林ディレクター
英語のタイトルが『Immortals in the Village』といいまして、最初DVDを送ってもらった時に「不死の村」と書いてあるけれど、(映画の中では)人がどんどん亡くなっていって……なんてアイニカルというか絶妙なタイトルだなと思ってシビレました。
後から、第17回東京フィルメックスの審査委員長を務めたトニー・レインズさんが(英語のタイトルを)つけたとお聞きして、「ああ、やっぱり」と思いました。
もう一つ舞台裏で聞いたお話で、「次回作について何か構想がおありになるんでしょうか?」とお聞きしたところ、驚きのニュースがあります。
ユー・グァンイー監督からお差し支えのない範囲で次回作について少しお話しして頂けたらと思います。

ユー・グァンイー監督
今(会場に)いらっしゃるトニー・レインズさんは私の本当にいい友人ですけれども、この映画の為に素敵な英語のタイトルをつけて下さって心から感謝します。
有難うございます。
トニーさん立ち上がって頂けますか?

(場内から暖かい拍手がおこりましたが、トニー・レインズ氏は笑顔で手を振るに留めていました。会場がとても和やかな空気で溢れました。)

林ディレクター
意外とシャイですね…!

ユー・グァンイー監督
私は故郷の村の周辺で、既に13年かけて4本の映画を製作してきましたが、村の人達を記録するという映画製作は、ここで一段落つけようと思っています。
今ご紹介に預かりましたけれども、次回作は劇映画で少し商業的な作品になるかと思います。
寒冷地で過ごす人達の苦しみや喜び……というみんなが持っている心の世界を描こうと考えています。
ある村で殺人事件が起こり、一人の人が殺されて、その殺人の真相が明るみに出るにつれ、最終的には……様々な非常にごちゃごちゃした事件がそこで一挙にバーっと爆発して起きる、というような映画です。

林ディレクター
新作が10年後ではなくて数年後に拝見出来るように楽しみにお待ちしたいと思います。
ユー・グァンイー監督、本当にどうも有難うございました。

 以上、和やかなムードで進んだQ&Aの模様をお伝えしました。
『シャーマンの村』は中国の寒村に住むシャーマン達とその周辺の人々の生活を、4年以上に渡って追ったドキュメンタリーです。映画の中で、シャーマンたちは歌と踊りを用いて精霊を呼び出し、ある時は病気になった村人の為に精霊の伝令役となって治療法を伝え、またある時は幼子の厄払いを行うなどする姿が映画に映っています。
 映画の中でたびたび映るシャーマンの風習は、多くの観客にとって馴染みの無いものであるでしょう。霊的なものを信じるかどうかや、本作への感じ方も人によって様々だと思います。
 一見別世界の出来事に思えますが、本作はシャーマニズムを通して、あくまで村の人々の生活というものを記録しているのだと思います。そこに、自分の環境とは違うかもしれないけれど、壁に貼られたポスターのようにどこか感覚的に繋がるところがあると感じました。また、現代に残っているシャーマンの風習を同時代に観ることにやはり意味があり、鑑賞を通して、自分の価値観や考え方の一端を感じることが出来るのではないでしょうか?
 

会場ロビーに飾ってあったポスター
 
(取材/文:岡村亜紀子)

『シャーマンの村』
Immortals in the Village / 跳大神 
中国 / 2017 / 109分 

監督:ユー・グァンイー(YU Guangyi) 

作品解説
中国東北地区の山間部の人々を一貫して記録し続けてきたユー・グァンイーが、寒村のシャーマンたちの生活を4年以上にわたって追った画期的ドキュメンタリー。それは人々が精霊たちと密接に暮らしていた時代の、近いうちに消滅してしまう文化の記録でもある。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/competition/fc07



〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

某レンタル店の深夜帯スタッフ。

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2017年11月15日水曜日

映画『エクス・リブリス−ニューヨーク公共図書館』評text井河澤 智子

「余談だらけの図書館概論」


アメリカ、そして世界を代表する図書館、ニューヨーク公共図書館。
3館の中央図書館、市内各所に80を超える分館、2館の提携図書館を擁し、年間1800万人以上の来館者を数える世界屈指の規模を誇る機関であります。
※2012年。http://current.ndl.go.jp/node/23104
さて、皆さんは、図書館やそこで働く人々に対し、どんなイメージを持ってらっしゃいますか?映画好きにとっては『スパイダーマン』(2002)や『ゴーストバスターズ』(1984)、『ティファニーで朝食を』(1961)などにも登場する場所でもあります。豪奢な建築がたいそう目を引く、本好き建築好き映画好きにとっては是非訪れてみたい場所でしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=WJdEXb8bRQ0&feature=youtu.be


https://www.amazon.com/Nancy-Pearl-Librarian-Action-Figure/dp/B0006FU9EG

いるいるこんなおばちゃん!

なんだか春風亭昇太師匠に似たこのフィギュアですが、”libraryanlike”というと「ひっつめ髪で眼鏡をかけた女性」という意味になるそうです。
また、『スノーデン・ファイル 地球上で最も追われている男の真実』(日経BP社,2014)の原著301ページには「四角い、黒縁の眼鏡をかけ、もじゃもじゃの黒い髪の毛を耳のところまで伸ばしている。ライブラリアンで通るかもしれない風貌。」と表現された文章があるそうです。
※山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015年)p.20.
見た目もそうですが、ドラマや映画の中にあらわれる図書館職員は、おとなしかったり、融通が利かなかったり、人より本が好きだったり、影があったり、どこからステレオタイプが出来上がったのかはわかりませんがそんな描かれ方がされがちです。図書館という施設そのものに対するイメージは……昨今の図書館をめぐる流れを観察する限り、言わぬが花でしょう。
※佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139
 山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

さて。
「New York Public Library」。しばしば「ニューヨーク市立図書館」と称されますが、市立ではなく、私立です。法人であり、主な財源は民間からの寄付です。「Public」とは「一般に開かれた」という方のパブリック。私立なのにパブリックスクール、というような使い方ですね。

しんとした静けさ。黴くさい本の匂い。ページをめくる音。
そのような光景を脳裏に描きつつ、フレデリック・ワイズマン『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』を観ると驚くと思います。
ワイズマンの作品には、「ナレーション」「テロップ」「インタビュー」「音楽」はありません。『エクス・リブリス− ニューヨーク公共図書館』も例外ではなく、我々観客は、なんの説明もないまま図書館の日常に放り込まれ、ただ観察し、体験することを強いられます。そして次第に観客の目には「図書館という場」に集う人々、そして彼らの現状が浮かび上がってくるのです。

利用者からの電話質問に答える職員。質問の内容は相当難しく、これを口頭で的確に回答するには高度な知識が要求されるでしょう。
子どもの学習支援クラスがあります。
仕事の探し方をレクチャーする就職支援。仕事を求める人々と、人材を求める人々とのマッチングも行われています。
英語が得意ではない利用者にパソコンの使い方を教える職員がいます。
作家を招いての講演会があります(大盛況!)
素晴らしい演奏会も行われます。(行きたい!)
お年寄りへのダンスレッスンクラスがあります。
美術学生に、写真資料の探し方を教える講座も。写真なんてどうやって分類するんだと思いましたが、確実にルールに則って分類され、検索しやすくなっています。
そして、「いかにして予算を獲得するか」について熱く討論する職員たちがいます。運営予算というものは「存在価値をアピールして、全力でもぎ取ってくる」ものなのです。死活問題です。プレゼン能力が問われます。まさにTEDです。図書館はおとなしくては生き抜いていけません。

図書館は、人々が生活するための情報を手に入れるインフラを提供しています。具体的に言えばパソコンやインターネット、外でも利用できるWi-Fi。ハードとソフト両方を提供しているのです。それは学習のため、仕事を探すため、目的はさまざまです。
図書館は子どもたちの保育を担い、読み書きを教えます。子どもたちへのサービスと同じように、お年寄りへのサービスも欠かせません。
もちろん、読書の機会も提供します。なんだかんだ言っても書籍の形はなかなか変わりません。古い新聞や雑誌など、劣化して失われやすい資料は、マイクロフィルム……いや、もはやマイクロフィルムすら古いメディアと言えるでしょう……デジタル化され、オンラインで利用できるようになりつつあります。その作業に従事する職員の姿も映し出されます。

現在、アメリカの公共図書館には、従来の図書館の役割を超え、地域に必要なサービスを総合的に提供することが求められています。
学習塾、職業安定所、保育所、公民館、文化施設、文書館。地域に暮らす人々に必要な機能がすべてここに集約されているかのようです。
たまたまニューヨーク公共図書館は、「担う地域」が大きいので求められる機能も多岐にわたりますが、これはどうやらアメリカの公共図書館界に共通する流れであるようです。このような図書館の機能の変化を、関係者は合言葉のように「図書館は成長する有機体である」(インド図書館学の父ランガナタン「図書館学五原則」の5)と呼びます。
元々、図書館の機能は資料の保存・収集が主なものでした。資料がどんどん増え、整理され、体系化されることをこのように表していたのですが、施設に求められる機能が変わりつつあることを受け、再定義を模索されている言葉です。
※佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.
 
ここで、「図書館で働く人々」について少しだけ説明をしたいと思います。なぜなら、ここに映し出される図書館の職員は、日本で「司書さん」と呼ばれる人々とは少し背景が異なるためです。
まず、日本で「司書」とひとくくりにされている資格ですが、アメリカではいくつかの階層に分かれています(厳密には、日本にも司書の補助として「司書補」という資格も存在するのですが、司書補の資格で図書館で働く人々は現状それほど多くはないと思います)。
アメリカの場合、(専門職)ライブラリアンに要求されるのは、修士の学位、さらにアメリカ図書館協会認定のライブラリースクールを修了していることが求められます。また、ライブラリアンを支援する一般的図書館職員(ライブラリーテクニシャンまたはアシスタント)にも修士の学位が求められます。
日本の司書資格は、大学で司書課程の単位を履修し卒業するか、司書講習を受講することで取得できます。司書講習の場合は短期間でかなりの勉強量を要求されますが、ほとんどは大学で資格が取れるため、大学ごとにかなりばらつきはありますが、概ね「取りやすい」資格だと思われます。
このように、「ライブラリアン」と「司書」はイコールではありません。
アメリカのライブラリアンまたはアシスタントには、それぞれ研究分野があるのです。そのため、例えば「19世紀、ある人物がどの船でアメリカに渡ってきたのか」というような難題にも適切なヒントを与えられますし、古く脆い資料の修復・デジタル化にも当たることができるのです(実際のところは州によってはその辺りは柔軟に対応されているのかもしれません。なぜならアメリカの場合、かなりの地域差があり、条件に合致する人材がそもそもいない、ということもあるからです)。
さらに、「図書館友の会」に会費を納め、無償あるいは低報酬のボランティアとして運営に参加する人々も多いようです。
※山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(『情報の科学と技術』第66巻2号,2016年)
http://current.ndl.go.jp/series/no40

従来の図書館の範囲を超えた様々なサービスは、もちろん保育士や、教員、介護士など、従来の「ライブラリアン」とは違った職能が求められることでしょう。文献の調査が間に合いませんでしたが、従来、図書館には「より専門的な機関を利用者に紹介する」といった機能もありましたので、ひょっとしたらそれらが発展した協力体制をとっているのかもしれません。この映画からはそれらのことはうかがえません。
また、図書館が提供するサービスのうち、未だ最も大きな役割を占めるのは「資料の貸し出し」です。返却されてきた大量の資料は、機械によって振り分けられ、最終的には人間の手で元の位置に戻されます。資料の返却処理とは、様々な図書館サービスの下支え、最も基本的な部分。そこを担うのは、画面で見る限り移民と思しき男性です。
先ほど、図書館で働く人々の高度な専門性について述べました。しかし、この「貸し出し返却」などの地味な作業は誰が行っているのか。簡単に探した程度ですが、それについての研究は見つかりませんでした。

そして利用者たちはどうでしょうか。
例えばパソコンのレクチャーを受けたり、Wi-Fiを借りに来たり、仕事を探したりなど、それらのサービスを受ける人々は、画面を見る限りアジア系、アフリカ系などが多いのではないか、と感じました。もちろん、英語が不得意な利用者に対しては、彼らの言語がわかる職員が対応し、スペイン語での質問には、スペイン語が出来る職員がいました。そして、子どもたちへの学習支援は、子どもたちはおそらくヒスパニックやアフリカ系。指導する職員もそうでした。学ぶためのインフラを自力で用意することが困難な人々の受け口として、図書館は求められ、機能しているとも考えられます。
これが、現状かもしれません。図書館は社会からこぼれ落ちそうな人々のために様々なプログラムを用意します。そして、その図書館の精力的な仕事の裏で最も地味な仕事を担うのは、現在のところ彼ら移民たちなのかもしれません。
ここに、ワイズマンの目を通した、ニューヨーク公共図書館の現在があります。

「ファセット」という言葉が思い浮かびました。
多義的な言葉ですが、「物事の、ある面」または「宝石のカット面」などの意味があります。図書館という巨大な塊をさまざまな面から執拗に観察したその視線。まさに、ひとつの「成長する有機体」としての質量感がまざまざと感じられた、この作品。

実は「ファセット」は図書館用語としての意味もあるのでした。偶然にも。

(text:井河澤智子)

参考文献

・山本順一『アメリカの公共図書館のひとつのイメージ − コミュニティに寄り添う図書館』(桃山学院大学経済経営論集』第56巻3号,2015)

・山本順一「公共図書館の課題と展望−日米比較図書館情報学的視点から−」
(『桃山学院大学経済経営論集』第56巻4号,2015)p.17-41.

・山本順一『日米比較にうかがえる社会的制度としての公共図書館の現在と近未来の盛衰』(情報の科学と技術』第66巻2号,2016)p.13-35.

・カレントアウェアネス・ポータル『米国の図書館事情2007−2006年度 国立国会図書館調査研究報告書』(図書館研究シリーズNo.40) 
http://current.ndl.go.jp/series/no40

・佐藤毅彦「2015年:図書館をめぐるメディアでの扱いとテレビドラマ『偽装の夫婦』」
(『甲南国文』第63号,2016年)p.152-139.

・山口真也「漫画作品にみる大学図書館員のイメージ 〜「図書館の自由」を中心に〜」」
(沖縄県大学図書館協議会配布資料,2002年)

・佐藤和代「図書館再考」(『情報管理』第58巻11号,2016年)p.849−852.




『エクス・リブリス − ニューヨーク公共図書館』
原題:Ex Libris - The New York Public Library
2016年/205分/アメリカ/英語

監督:フレデリック・ワイズマン

作品紹介ページ(山形国際ドキュメンタリー映画祭ホームページより)
https://www.yidff.jp/2017/ic/17ic05.html

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

この作品を観るために山形へ行ってきました。
図書館員のタマゴと思しき、ちょっと「映画マニア」とは雰囲気の違う若者がたくさんいた気がするのですが、
あの熱さをもって図書館員になってしまったら早々に燃え尽きてしまうのではなかろうか。
なにごともほどほどが肝心。
まぁ司書資格の講義にはこの映画観せて2単位でいいと思います。
「本好きだね」と言われることが多い仕事ですが、本好きには絶対お勧めしない仕事です。
われながら身も蓋もないことを言うね!

ちなみにアメリカ最大の図書館は、アメリカ議会図書館(Library of Congress)です。
もっとどうでもいいことを言いますと、大英図書館(British Library)の略称は BL です。
慣れないうちはちょっとそわそわする略称です。

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2017年11月9日木曜日

映画『女神の見えざる手』評text長谷部 友子

「自らを救った女」


エリザベス・スローン。天才ロビイスト。真っ赤な口紅、一流ブランドの服とハイヒールがよく似合う完璧な美貌。彼女は眠りたくない。毎日深夜まで営業する質素な中華料理屋で食事をし(本当は錠剤で済ませたい)、プライベートの時間をもたず、恋愛はエスコートサービス。 すべての時間とエネルギーを仕事に注ぎこむ。つまり勝つことに。

大手ロビー会社に身を置くエリザベス・スローンは、銃擁護派団体から女性の銃保持を認めるロビー活動で、新たな銃規制法案を廃案に持ち込む仕事を依頼されるが、自らの信念に反すると断る。上司は大口顧客の要求に応じないのであればクビだと告げるが、エリザベスは銃規制に賛成の立場をとる小さなロビー会社に移籍し、かつての同僚と銃規制法案をめぐって熾烈な駆け引きを繰り広げる。

ロビイストとは世論を動かし、マスコミを操作し、国を動かす政治的決断に関与する戦略のプロだ。彼らの至上命題は勝つことで、モラルや常識を求めることは無意味だ。中でもエリザベスは徹底している。勝つために裏の裏を読み、敵のみならず味方をも騙し、仲間の命を危険に晒す冷徹な仕事ぶりだ。

大手ロビー会社を辞めてまで銃規制法案の成立に尽力する彼女に対し「親しい人に銃犯罪の被害者がいたのね」と訳知り顔に語りかける面々に、彼女は「そんなものはない」と言う。銃犯罪の生き残りであるとか、誰もが納得するお決まりの過去がなければ信念を持つことは許されないのか。「どんな異常者でも店やネットで銃が買える」。上司に依頼を断る際に言ったその言葉が、それ以上でもそれ以下でもなく、信念とはクリアなシンプルさにこそ宿るものなのに、どうして情緒的な過去のトラウマを必要とするのだろうか。

肉を切らせて骨を断つではないが、自分自身すら道具にした彼女の策略による鮮やかすぎる大どんでん返しは、ややもすれば映画的なご都合主義と言われてしまいそうだが、それでも爽快で見事だ。

それにしても一体彼女は何に勝ったのか?
自分をクビにしたかつての会社か、銃擁護派団体か、愚かな世論か、それとも。
重度の不眠症、30分に3回トイレに立って精神安定剤と思われる薬をフリスクのように飲む彼女は遅かれ早かれ破滅していた。だから本当に破滅するその前に、自らを強制終了させることにより、勝利依存症ともいうべきその生き方を終わらせ、彼女は生きながらえることを選んだのではないだろうか。 彼女は自らを救いたかった。いや救いたかったなんてものではない。誰も救ってくれない自分を自ら救うしかなかった。

狂乱の勝利依存症の季節は終わり、彼女は救われたのか。人間はそう簡単には変わらない。凄まじい刺激と快楽と、それでしか感じられない肉体と精神が容易に順応するはずもない。欲望は何度だって訪れるだろう。あらゆるものを賭して闘い、上り詰めて果てたいというその欲望を前に、けれど彼女はぎりぎりのところで、自らの破滅すらも織込み済みの博打によって生き長らえるのではないだろうか。生きられるのであれば、何回だって破滅すればいい。苛烈に自らを救うエリザベス・スローンの一手は、やはりあまりに鮮やかだ。

(text:長谷部友子)


『女神の見えざる手』
 2016年/132分/フランス、アメリカ

監督:ジョン・マッデン

公式ホームページhttp://miss-sloane.jp/

劇場情報
10月20日よりTOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2017年11月3日金曜日

第30回東京国際映画祭〜映画『ライフ・アンド・ナッシング・モア』評text岡村 亜紀子

「人生の契機」 


 主人公アンドリューの顔は、そのほとんどにおいて表情に乏しい。しかし彼の顔は、シーンと共に雄弁に彼の心情を語り、またある時は感情を隠し、不穏な空気を感じさせる。

 あるアフリカ系アメリカ人の家庭の物語だ。家族はヒップの大きいシングルマザーの母、14歳の息子アンドリューと3歳の小さな妹で構成され、アンドリューの父は服役中である。
 法保護観察中でありながら軽犯罪を犯したアンドリューは、義務であるカウンセリングを受けていないと検察から追求を受ける。そうした彼の姿勢について「知っていましたか?」と問われた母親は、責任を逃れるように「わたしには行っていると言っていた」と答え、彼に対する諦めとも取れるような怒りを表す。
 アンドリューは母が仕事(レストランでのパートタイムジョブ)から帰るまでの間に、妹の食事や風呂の面倒をみて、洗濯をし、妹に絵本を読んでやる。しかし帰宅した母親は、台所を見て、「なんでこんなに洗い物をためたの? 友達でも呼んでパーティーでもやった?」と怒る。アンドリューは小さな声で、「していないと」答えるもイライラとタバコに火をつけた母親は、洗い物をするアンドリューに対してなおも食いつきそうな空気をまとって威圧するかのようだ。
 彼はいつも母に対して気弱であるのに対し、母親はいらだちと怒りを彼にぶつけすぎている。しかし彼女は彼をないがしろにするわけではない。彼がこのままではいつか死ぬような目にあわないか案じ、ストリートから離そうとしているんだと、大人は言う。母と子に欠けているのはコミュニケーションなのである。

 彼にはアドバイスをする黒人の大人が周りにいる。むかし悪さをしていたブラザーは、警察に取り締まりを受けたエピソードをジョークを交えて語った上で、「なんでもいいから好きな事を一生懸命やるんだ」とさとす。一方スクールカウンセラーは、「放っておけばお前は犯罪者になる」と言う。
 染まり易く、多感な10代の少年にとって、彼の置かれた環境は厳しい。ランチタイムに学校で同級生たちがにぎやかに食事をする場面で、林檎をもくもくとかじる彼の姿に、逃げ場のなさを思う。

『ライフ・アンド・ナッシング・モア』

 登場人物の多くが黒人の本作で、彼に向けられる言葉は厳しい家庭環境の黒人の少年がいかに道を踏み外しやすく、危ういかを示している。母のいらだちを受けているアンドリューが、妹がナイフを手にした時に、危ないからと咄嗟にぶってしまうのも、後に彼がナイフを手にし、それを身につけ、結果としてより一層厳しい立場に立つ事になってしまったことも彼だけの責任とは言えないだろう。

 母親の「わたしはそばにいる。けれど生きるのはあなたよ」という言葉も、アンドリューには厳しく突き放されたようにしか聞こえないのかもしれない。彼女は朝と夜、パートタイムで働きながら二人の子供を養っている。仕事が長続きしないらしく安定した暮らしではない。それがいかに不安で大変な事か、そして彼女が働く為には幼い娘の面倒をみる息子の存在が必須だった。母という柱が折れても、息子の存在がなくても立ち行かぬ暮らしの中に母の恋人が入って来て、あることをきっかけに恋人とアンドリューが対立する。母親は息子を恋人から守るが、その時それが彼の救いにはならない。

 彼にはもっと他に、救いの手が必要だったのだろうか? ところで、本作では祈りの場面があり、神の慈悲によって物語がふと好転しそうな、アンドリューと偶然居合わせた白人の男性から救いの手が差差し伸べられるか? と一瞬思わせる場面があるのだが、その人物がきっかけで彼は窮地に陥ることとなる。
 アンドリューが刃を人に向けた行いの結果に、温情が与えられる事はなかった。彼がまだ14歳の少年でもあるに関わらず、その心情は理解や容赦を受けずに、母親の懸命の努力のかいなく、彼の行いは結果として人に刃を向けた事実のみによって、家族にとって厳しい結論がくだされる。しかしその事実が、彼らが現実と向き合い、お互いと向き合うコミュニケーションのきっかけとなっていく。

 本作でキャメラが人物の顔をクローズアップする時、改めて彼ら個々の存在が観客に刻まれるような心地がし、彼らを形成するマインドが感じられた。生活感に満ちた映像と、アンドリューだけではなく彼の家族が置かれた厳しい現実をそのままに紡ぐリアリスティックな物語において印象的に映った。それは、映された顔を通して感じるヒューマンマインドが、状況を変化しうる唯一の可能性であるからであろう。

 ラストシーン、アンドリューが見詰める先にいる観客に背を向けた人物の姿。わたしはその人物の顔をみることが出来ない。しかし、アンドリューの表情の変化に一寸の光を感じる。

(text:岡村亜紀子)


「ライフ・アンド・ナッシング・モア」
原題:Life and Nothing More 113分/カラー/英語/ 2017年/スペイン・アメリカ

監督:アントニオ・メンデス・エスパルサ

作品紹介ページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=121

第30回東京国際映画祭

期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)
会場:六本木ヒルズ、EX-THEATER六本木(港区)他都市内の各劇場及び施設・ホール
公式ホームページhttp://2017.tiff-jp.net/ja/

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【執筆者プロフィール】

 岡村亜紀子:Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。

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