2018年12月30日日曜日

映画『ペンギン・ハイウェイ』評text岡村 亜紀子

「約束の地」


 アオヤマくんは賢い小学生だ。彼は毎日研究をする。子供である自分を見詰めながら大人になっていく時間を大切に、とても真剣に生きている。そんな彼が描く未来は希望に満ち、大好きな歯科助手のお姉さんと結婚する将来設計をしたりして、彼が「どれだけ偉くなるのか想像もつかない」自分を想像する未来は少年らしい夢でもある。
 彼が過ごしたひと夏を描くストーリーは、奇想天外なことが起こり続けるファンタジーでありながら“無重力感”を伴うことで、わたしたちの日常から逸脱しない世界のあらましを捉えて昇華し、物語の終わりに、白紙のようにまっさらとしていながら、それがこれからさき様々なことが書き加えられていくページであることを予感する“重力”を捉えている。それがわたしには淡く輝く生命力に思え、ひとすじの光が道を射してくれたかのように思えた。

 映像で美術部が組み立てた建物をみた時に、それが「本当に立っている」と観客に感じさせたなら、それはよいセットだという。そこには、先に“無重力感”と表現した、観客だれしもが持っているフィクションと現実の間の壁をとっぱらい観客が作品世界に抵抗感なく入っていく要素が生まれている。本作『ペンギン・ハイウェイ』におけるアニメーションは、軽快なリズムとハイテンションな演出に溢れているが、そのリズムの背後にはヴィヴィッドに刻まれる時間の経過かつ積み重ねと、ハイテンションな演出を支える自らの目を通した光景に通じるような、アニメーションでありながら透明感をたたえたタッチの映像が軸としてあり、ファンタジーと日常が抵抗なく軽く解け合うのである。簡潔に表現するとすれば、計算され構築された「盛っていない映像」と「はぶかずにいて冗長ではない時間経過」が、現実から逸脱した出来事を物語の住人と観客に同じ温度で伝えている。そのことが本作にとっては、とても重要であると感じる。
 ある日、アオヤマくんの住む街にたくさんのペンギンが現れたことを皮切りに、次々と不思議な現象が起こりはじめる。アオヤマくんはペンギンについて研究を開始するのだが、草原に現れた巨大な水の球体である「海」、森に蠢く「怪物」までも現れ、毎日あたりまえに続くかに感じられたアオヤマくんの世界から日常が逸脱し、周りにいる人々、お姉さん、自分自身を揺るがしてしまう。
 アオヤマくんがそれらの出来事と対峙したとき、彼は常日頃行っているように対象を研究し、答えを導きだそうとする。未発達の少年の体に備わった行動力と頭脳で当たり前のようにベストを尽くす。そして正解かどうかは別として、彼は答えをはじき出し、解決に向けてお姉さんと行動を起こす。そして解決と引き換えに大きな喪失に出会う。選べなかった、どうにも出来なかったその出来事に際して彼が一心に祈ったのと同じことを、今までどれほどの人々が願ってきただろう。いま現在も願っているだろう。失われた存在のかけらを探し求めて、心が迷子になってしまうことだろう。
 アオヤマくんの妹が泣きながら「お母さんいつか死んじゃうの?」と彼に聞いた時、彼は「それは、いつかそうなるだろうね」と答える。知ってしまった妹を抱きしめながら。アオヤマくんは賢い。いつか来るその瞬間を経験する前からその現実の重みをまるで経験した重みと同じように受け止めるほどに。そして、彼の大切な存在が物語の終わりに本当に触れられないほど遠くに行ってしまった後も、彼はこれまでしていたように未来を想像する。彼の頭脳は明快さを失わず、これから歩んでいく彼の道がその存在と共にあるのだと考える。それはまるで「北極でペンギンたちが海から陸に上がるときに決まってたどるルート」を歩むペンギン達のように迷いなく。これからどんなことが突然起こるかわからないというこの世のことわりも、ベストを尽くしても変えられない現実があることも、この夏の経験によって賢いアオヤマくんの頭脳は理解しているはずだ。しかし、彼の想像する自分の未来に陰りがなく迷いもない様子に、淡い光がまとう空白に、どんな時も光は失われることがないのだと教えてもらったような気がした。海から上がったペンギン達が約束の地を目指すように、アオヤマくんが未来に描いたのは「約束」なのだろう。
 あくまでアオヤマくんの想いである空白に根拠も結果もいまだないのに拘らず、それが力を持つのは、無重力感から物語にとけ込んだ観客の心に、物語を信じる力=重力が宿っていたからに依るのだと思う。そして、ラストシーンでアオヤマくんは賢いけれど小学生の男の子であるという、映画の始まりの無重力感に立ち戻り、映画は終わる。

 東京国際映画祭「Japan Now」部門で本作が上映された際に、プログラミング・アドバイザーの安藤紘平氏と石田祐康監督によるトークショーが催され、この不思議な物語の世界観について様々な考察や質問が飛び交い、製作にまつわる実話を聞くことが出来た。それは「正解はこれ」というような答え合わせではなく、この作品を愛する観客の熱意や初鑑賞の観客の新鮮な反応が感じられ監督との暖かく楽しい場となっていた。本作で現れる様々な不思議な現象については、フィクションにおける常ではあるが、様々な感じ方があり様々な解釈が可能だということが印象に残っている。映画は観客の人生経験や心理状態に影響して様々なものを映すと、再認識したひとときだった。

(text:岡村亜紀子)





『ペンギン・ハイウェイ
2018年/日本/118分

監督:石井祐康
原作:森見登美彦
脚本:上田 誠

キャスト:北 香那
     蒼井 優

公式ホームページ:http://penguin-highway.com/

第31回 東京国際映画祭「Japan Now」部門 上映作品

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子(Okamura Akiko)
某レンタル店スタッフ。

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2018年12月21日金曜日

映画『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』評text成宮 秋祥

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』に見る成瀬巳喜男の面影

 
感動は、後からついてくる。
 多くの場合、映画は感情を揺さぶる役割を担っている。映画を観始めてから、終わるまで、人は、その映画から無数の感情を引き出される。劇場を去る頃には、ある種の満足感を感じていることだろう。
 しかし、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、観ている間ずっと何かしらの感情が揺さぶられることはなかった。どちらかというと、ストーリーがどこに進んでいくのか、そこにばかり気を取られてしまい、映画が終わった瞬間には、まるで映画そのものから突き放されてしまったような途方もない状態だった。
 この映画を観て、感動したところはいったい何だったのだろうか? 実は、何も感動なんてしていなかったのかもしれない。何かしら、感情を揺さぶられるような場面を一切用意していなかったのかもしれない。では、この映画は失敗作だったのか? 決して、そうではない。
 鑑賞してから、数日が経過していくと、少しずつだが映画のイメージを思い出すようになった。そして、映画のストーリーが頭の中で何度も繰り返し映写されていき、暗い街に灯がともるように、映画を観ていた時に感じていた無数の感情を、今になって感じ始めたのである。まるで、失われた記憶を取り戻していくような独特な感覚を体験した。
 このような体験は、実は他にもある。成瀬巳喜男の『乱れる』(1964)で似たような体験をしたことがある。高峰秀子が演じる主人公は、加山雄三が演じる義弟に愛を告白されるが、亡夫のことが忘れられず、最終的には拒んでしまう。その夜、酒場で飲んだくれた加山は、電話で高峰に別れを告げる。翌朝、高峰は町人から加山が事故で死んだことを知らされる。運ばれていく加山の遺体を呆然とした表情で眺める高峰の顔を写したカットを最後に映画は唐突に幕を下ろしてしまう。
『乱れる』は、ある男女の許されぬ恋愛を描いている。そのため、この男女が愛し合い、憎み合い、付き添ったり、離れたりを繰り返していく過程を見守りつつ、最終的に結ばれるのか、それとも別れるのかを我々は目撃して、その間に感じていた感情に一応の決着をつけるのである。
 しかし、加山が死ぬ場面すら映さず唐突に死んでしまうので、我々はここにいたるまでの間に感じていた無数の感情を見いだせぬまま、劇中の高峰のようにただ呆然とすることしかできない。すると何か納得できない気持ちが起きて、この映画を観て感じていた無数の感情を、まるでなかったかのように記憶から忘れ去ってしまい、さもあの映画は何だったろうか? 何を描いた映画だったのだろうか? と自らに聞き返してしまうのだ。
 それでも、やはり数日も経てば、我々は『乱れる』が、ある男女の許されぬ恋愛の果てに待ち受ける悲劇を描いた映画なのだと納得するにいたる。それは例えば、気にかけていた義弟の加山を一人の男として認識してしまった高峰の心の揺れ動きや、高峰の愛欲しさに放蕩息子をやめて真面目に働こうとする加山の変化が、頭の中で何度も繰り返し映写されたことで、改めてその時に味わった無数の感情を思い出し、この二人の恋愛の果てには、逃げ場のない悲劇が待っていたことを、ようやく理解したためである。
 あまりに良い映画だったからこそ、『乱れる』のこの唐突な幕切れは大きなショックだったのだ。実のところ、このまま終わらなければいいという密かな思いを抱くほど、ストーリーにも映像にもどっぷりはまって観ていたのに、それが絶たれてしまった時の物悲しさが、映画を観ていた時に感じていたはずの感情を忘れさせていたのかもしれない。
 そういう意味でいえば、『乱れる』は観る者の心を打つ素晴らしく良い映画である。だからこそ、これと似た体験をした『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』も紛れもない素晴らしく良い映画であったといえる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』のストーリーはいたって単純である。
アメリカの田舎町にある一軒家に一組の夫婦が住んでいた。作曲家の夫C(ケイシー・アフレック)はこの家を気に入っていたが、妻M(ルーニー・マーラ)は別に街に移りたがっていた。ある日、Cが事故で亡くなってしまい、Mは悲しみに暮れる。Cは幽霊となってMの元に帰っていくのだが……。
 この映画は、幽霊を描いた映画である、と同時に、変化を望まない男と変化を望む女の愛と確執を描いた映画でもある。Mを愛するCは、幽霊となってC自身が気に入っていた家で悲しみに沈むMに寄り添い続ける。幽霊となったCの役割は、Mへの愛と、家への思いを守り続けることである。反対にいえば、この二つがCに残っているからこそ、幽霊で在り続けているのだといえる。
 しかし、変化を望むMはいつまでも悲しみ続けてはいられない。ある日、新しい恋人と出会った彼女は、壁の隙間に手紙を残して家を出ていってしまう。家に取り残されたCはただひたすら虚しく時間が過ぎていくのを待つことになる。
 ここで幽霊となったCの役割の一つであるMへの愛を守り続けることができなくなってしまった。もう一つの役割である家への思いを守ることも居住者が何度も移り変わっていく光景を目の当たりにし、次第に虚しさを感じ始めていく。
 いわゆる超常現象的な描写には、Cの苛立ちや怒りの感情が混在していると思われる。
例えば、新たに居住してきたヒスパニック系一家の団らんの席でCは心乱れたようにキッチンの食器類を破壊してまわる。ヒスパニック系一家の視点からすれば、超常現象による恐怖体験をしたと感じるだろうが、Cの視点からすれば、自分とMだけの家に別の居住者がいるという事実に対する苛立ちと怒りの感情が伝わってくる。しかし、Cの元にMが戻ってくることはない。居住者は変わり続け、時間はどんどん過ぎていき、やがて家は取り壊されてしまう。ついに家をなくしたCは幽霊となって果たすべき役割を全て失い、完全なる空虚感を味わう。
 愛するMと家を失ったCは、次第に時空を飛び越え、未来に、過去に、飛んでいき、そして再び現代に、CとMが家に住み始めた頃に飛んでいく。
 この時間旅行の場面は、Mと家という自分の心の拠り所を失ったCがあてもなく時間の流れをさまよっていくという悲しい場面に見える。しかし、Mと家を守ろうとしていたCは、Mと家に対する思いに自ら囚われていたともとれて、見方を変えれば、彼は自分自身の思いから自由になったとも見える。幽霊という特殊な存在になっても、時間の流れには逆らえないという現実的な残酷さが彼の思いを壊し、同時にその思いから解き放ったともいえる。
 CとMが家に住み始めた頃の時代に戻った幽霊は、まるでお別れでもするかのように、じっくりと静かに二人の様子を見守っていく。幽霊にとって、二人が過ごす日々は、かけがえのない思い出そのものである。その全てを再確認した時、彼はMが壁の隙間に隠した手紙を取り出し、読み上げ、消えていってしまう――映画はここで終わる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』と、冒頭で紹介した『乱れる』の結末には、決定的な違いがある。
『乱れる』は、加山雄三という男の死によって終わる映画だ。そして加山が死んだことで、我々は加山の遺体の前で呆然と立ち尽くす高峰秀子と同じように、加山の唐突な最期を理解しきれないまま、複雑な思いを体験することになる。その後になって、じわじわと、加山が死んだことで、高峰と加山の男女の関係が完全に終わってしまったことを理解し、『乱れる』が真に悲劇的な映画だったことを受け入れざるを得なくなる。
反対に、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、Cという男の死によって始まる映画である。死んだCが幽霊となって愛するMと家に対する思いに囚われ、執着しながらも、やがて解き放たれ、そして自らの思いに決着をつけることで、幕を下ろしている。この幽霊の消失と、『乱れる』の加山の死とは意味合いが異なる。加山の死は、高峰との関係性の完全な断絶を意味する。だからこそ、悲劇的なのである。しかし、幽霊の消失には、多様な可能性を見出すことが可能である。悲しみの視点で見れば、無に帰ったかもしれないと捉えることも可能だが、前向きな視点で見れば、新しい命として生まれ変わっていったのかもしれないと捉えることも可能である。
 だからこそ、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、悲劇的なストーリーであると同時に、多様な可能性を見出すことが可能な素晴らしく感動的なストーリーである――という事実を、我々は時の流れとともに理解していくだろう。

(text:成宮秋祥


『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
2017年/アメリカ/92分

監督/脚本/編集:デビッド・ロウリー
撮影:アンドリュー・D・パレルモ

キャスト:ケイシー・アフレック
     ルーニー・マーラ

公式ホームページ:http://www.ags-movie.jp/

劇場情報:新宿シネマカリテ他にて上映中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥(Akihiro Narimiya)

映画好きです。職業は介護福祉士です。映画ライターもしています。ことばの映画館、neoneo web、THE RIVERなどに寄稿しています。 2017年まで映画オフ会、映画を語る会を主催してました。

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2018年10月21日日曜日

東京国際映画祭ラインナップ発表会~東京グランプリの行方2018〜text 藤野 みさき

© 2018 TIFF

 東京国際映画祭は本年度で32回目を迎える。本映画祭はアジア最大の映画祭として、毎年さまざまな映画を上映し続けてきた。「映画は世界の窓である」ということばとおり、日本ではなかなか観ることのできない映画との邂逅が、本年も私を六本木という映画の夢の世界へと誘ってくれる。

本年度の東京国際映画祭のアンバサダーを務める松岡茉優さん © 2018 TIFF

 東京国際映画祭の中でも、毎年最も注目をあつめるのが、東京グランプリを授与されるコンペティション部門である。本年度は109の国と地域から合計1829本もの映画があつまり、厳正なる審査のもと、16本もの映画が選出された。本年度のコンペティション部門は、社会派ドラマから心温まる人間ドラマ・コメディ・ホラーと、東京国際映画祭のめざす多様性に富んだジャンルの映画が出揃ったことも非常に楽しみな要素となっている。
「秋の新作」という主題をもとに邁進してきた本部門。社会問題を扱った映画が多く出揃った一昨年、それとは対照的に個人の人生に焦点を当てた去年。本年度は「例年にも増して、作家性・個性を重視しました」と、プログラミング・ディレクターの矢田部氏は述べる。本年度はどのような映画たちがコンペティション部門を彩るのだろうか? ここでは、その作品のひとつひとつをみつめる。


『アマンダ』© Nord-Quest Films

 まずはフランスより、『アマンダ』。人間の喪失が胸をしめつけるのは、どうして春でも秋でもなく、夏なのだろう。30歳の若さでこの世界を去ることを選んだ恋人の死を、夏の陽光とともにみつめた、前作『サマー・フィーリング』。本作の『アマンダ』もそんな前作を想起するような、ひとりの青年と姪におとずれる突然のできごとを主軸に、悲しみを乗り越えようとする人々を描いた作品である。太陽はいつも私たちを照らしながら、またいつかその心に笑顔が灯るようにと願っている。監督のミカエル・アースは、本作でも人間の繊細な感受性を、表情を、夏の陽光とともに紡いだ。
 隣国イタリアからは『墜ちた希望』が選出。監督のエドアルド・デ・アンジェリスは本作が長編5作品目となる。2017年のイタリア映画祭では、長編3作品目にあたる『切り離せないふたり』が上映されたことも記憶にあたらしい。本作『堕ちた希望』では、人身売買をする組織のもとで働くマリアという女性が主人公。あるとき、自らのお腹に生命が宿っていることがわかり、この荒れ狂う無法地帯と生活から這いあがることを決意する。ナポリの荒れ果てた海辺を舞台に、ひとりの若く美しい主人公が希望をみいだすまでを追う。


『ブラ物語』© Ilkin Huseynov

『ブルーム・オブ・イエスタデイ』『さようなら、ニック』と近年も秀作がならぶ実力派国、ドイツ。そんなドイツから届いたのは、全編にせりふのない、まるでサイレント映画を想起させる、現代のあたたかな寓話『ブラ物語』。列車に引っ掛るひとつのブラジャーの持ちぬしを探すものがたり。出演は『パパは出張中!』『アンダーグラウンド』と、エミール・クストリッツァ監督の映画でも主演をつとめた、名優ミキ・マノイロヴィッチ、『ルシアとSEX』のパス・ベガ、ご存知の方も多いであろう、レオス・カラックス監督の映画には欠かすことのできない、ドニ・ラヴァン。国際色豊かな俳優たちがどのようなものがたりを魅せてくれるのだろうと、いまからとても楽しみな作品である。
 イギリスからは、名優レイフ・ファインズが監督をつとめた長編第二作品目の『ホワイト・クロウ』が到着。“ニジンスキーの再来” とも評されたロシアの天才バレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフの生涯を描いた伝記映画である。ヌレエフを演じるのは、現役バレエ・ダンサーのオレグ・イヴェンコ。激情の時代を生きた、ひとりの天才の素顔をみつめる。


『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』© KMH Film

 北欧、デンマークからは『氷の季節』。2010年代から若手が台頭するなか、その中心にいる人物が、マイケル・ノアー監督であると矢田部氏は述べている。ときは、19世紀。貧しい農村地の農家の主人は、娘を裕福な地主との結婚により、この貧困の生活から逃れようともがく人々を描きだず。非常に厳しいリアリズムに定評のある監督の手腕に期待がかかる作品である。
 お次は、待っていました! ハンガリーの大鬼才、パールフィ・ジョルジ。監督の最新作『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』が本年度のコンペティション部門で世界初上映となる。幼いころに失踪した父親の行方を追う兄弟の前に見え隠れする、米国の国家秘密とその陰謀の影。
「一言では表すことのできませんが、映像を全身で受けとめていただきたい」と矢田部氏も熱く語った。『ハックル』『タクシデルミア ある剥製師の遺言』と、常に私たちを驚かせ、独特の映像世界を創りあげてきた、パールフィ・ジョルジ。最新作の『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』では、どのような世界を魅せてくれるのだろうと、いまから非常に楽しみだ。


『ヒストリー・レッスン』

 北米のカナダから届いたのは、ダークスリラーの『大いなる闇の日々』。第二次世界大戦中のさなか、チャップリンのものまねをしながら生活をする芸人の男。かれの故郷であるカナダに帰ろうとするとき、親切な男に声を掛けられ、悪夢がはじまる……。まるでヒッチコック監督の映画を想起するようなあらすじが印象的であるが、ファシズムの隠喩などに映画は溢れている。レダ・カテブ、ロマン・デュリスのフランスの人気実力派俳優ふたりが、この作品の脇を固める。
 紫色の明るい写真がひときわ輝くのは、南米メキシコより選ばれた『ヒストリー・レッスン』という作品だ。引退をひかえた歴史を教える女講師のもとに、ある反抗的な女子生徒が転校してくる。この歳も立場も違う女性ふたりが、さまざまなことを通じて心を通わせてゆくもようを描く。とても素直な、爽やかな女性ドラマとなっている。
 母を亡くした少女のまじないは叶うのだろうか?
 ブラジルから届いた、ホラー『翳りゆく父』。近年のブラジル映画はホラーとスピリチュアルな要素を芸術映画に融合させる、というあたらしい動きがある。その系譜をひっぱるひとりが、このガブリエラ・アマラウ・アウメイダ監督です。と矢田部氏は自信をもち、その名前を紹介した。母を亡くした少女はおまじないをつかって、なんとかお母さんに生き返ってほしいと願い、父は妻を喪う悲しみに心が満ちてゆく。奇妙なものがたりでありながら、やがては家族のものがたりが語られる。ホラーの要素がありながらも、人間ドラマへと収束してゆく注目の一作である。


『シレンズ・コール』

 去年、セミフ・カプランオール監督の『グレイン』が東京グランプリを受賞したトルコ。ここ数年間をみても毎年必ずノミネートされている実力派の国のひとつであるが、本年は『シレンズ・コール』が選ばれた。都会をぬけだしたくてもぬけだせない、という筋書きは、まるで出たくてもなぜか出られないという、ルイス・ブニュエル監督の不条理劇の傑作『皆殺しの天使』を想起させる。スマートフォンに代表される、現代の世界を生きる私たちが逃れることのできない闇を、本作は炙りだす。必見のブラックコメディである。
 イスラエルからは『テルアビブ・オン・ファイア』が選出。60年代が舞台の、パレスチナ人の女性スパイとイスラエル人の将校が恋に落ちる。という禁じられた愛を描くドラマが、現在のイスラエルで大ヒットをしている。という設定をもとに、その映画を製作する人々たちのもようを描く。「複雑な政治問題をコメディで伝えることは非常に難しいのですが、成功すると非常に大きな効果をもたらすことがあります。この『テルアビブ・オン・ファイア』はそのすばらしい成功例のひとつです」と、賞賛のことばとともに、矢田部氏は自信をもって本作を紹介した。
 カザフスタンからは『ザ・リバー』がノミネート。カザフスタンというと、去年の同部門で上映された『スヴェタ』が記憶にあたらしいひとも多いのではないだろうか。監督のエミール・バイガジンは、29歳のとき、長編第一作目の『ハーモニー・レッスン』がベルリン国際映画祭の銀熊賞を受賞した実力のある若手監督である。本作の『ザ・リバー』は、辺境の地で暮らす仲の良い五人兄弟のもとに、都会からきた少年の存在を境に崩れゆく様子を、美しい映像美とともに描きだす。崩壊する危うい少年たちの心理と、それとは対照的に美しい映像との対比。胸にせまるコントラストに注目があつまる作品である。


『三人の夫』© Nicetop Independent Limited

 続いて、中国からは『詩人』という映画が選ばれる。深く愛しあう詩人の夫と、夫を支える妻のものがたりである。中国の激動の時代を描き、変わりゆく世界のなかで翻弄されてゆくさまを描いている。監督のリウ・ハオ監督は、中国の第六世代(ジャ・ジャンクー、ワン・ビン、ロウ・イエなど)に属する監督のひとり。壮大なスケールで描かれる自然の映像美と、念密に計算された室内のショットのコントラストもみどころである。
『メイド・イン・ホンコン/香港製造』(デジタル・リマスター版)が記憶にあたらしい、フルーツ・チャン監督。香港からは、そんなチャン監督の最新作『三人の夫』が満を持してコンペティション部門で上映される。舞台は香港のとある港。船の上で生活をする娼婦は、三人の夫に愛されながら、セックスに明け暮れる日々を送る……。映画の大半はセックス・シーンが描かれており、このセックスを、彼女を通じて、映画はなにを訴えようとしているのだろうか? その作風・メッセージを全身で体感したい。


愛がなんだ』© 2019映画「愛がなんだ」製作委員会

 最後に、日本からは二本の映画が選ばれた。
 一本目は、今泉力哉監督の『愛がなんだ』。原作、角田光代氏の同名小説『愛がなんだ』を映画化した作品である。人間たるもの、一生にいちどは、命がけの恋たる恋があっていい。それがたとえ一方通行の片思いであったとしても。片思いのマモルを愛そうとし、全身でぶつかってゆくテルコの恋を、恋愛映画を得意とする今泉監督が描きだす。男性も女性も感情移入ができ、やがては恋愛映画の枠を超えてゆくという本作のゆくえを、最後の最後まで見届けたいと願う。
 二本目は、阪本順治監督の『半世界』という作品だ。とても個人的な回想になるのだが、私が子どものころ「SmaSTATION!!」という番組のなかで「月1ゴロー」というコーナーがあった。その頃から、稲垣吾郎氏の映画好きは幼いながらも印象的であり、楽しみにしていた連載のひとつだったことを懐かしく思いだす。本作はそんな稲垣吾郎氏を主演に迎えた、40歳を目前とした男たち三人を通じて、世界との関係を描く作品である。主人公は家族や友人には恵まれているものの、非常に不器用であり、世界からはすこし隔離されたところでひとり仕事をしている。そんな主人公の生きる世界は、どのようなものであるのかを本作は描きだしている。
「本年度のコンペティション部門は、世界との距離をはかる監督のコンペであると申しあげましたが、まさにこの作品はタイトルからしても今年の本部門を象徴する作品の一本であると思っております」と、矢田部氏は本作を讃えながら、本年度のコンペティション部門のすべての作品を心を込めて紹介した。

 東京国際映画祭は、いよいよ来週の25日(木)より始まる。
 映画をもっとも身近に感じることのできる場所である、東京国際映画祭。「今年はどんな作品と出逢えるのだろう?」と、毎年映画との出逢いに思いをはせながら、映画の式典をこころから楽しみたいと願っている。六本木の、風に吹かれながら。

(text:藤野 みさき)

【コンペティション部門作品解説】
※ 各作品をクリックすると公式サイトの作品紹介ページに移ります。

◉ ヨーロッパ

『アマンダ(原題)』
107分 カラー フランス語 | 2018年 フランス

『堕ちた希望』
100分 カラー イタリア語 | 2018年 イタリア

『ブラ物語』
90分 カラー せりふなし |  2018年 ドイツ/アゼルバイジャン

『ホワイト・クロウ』
127分 カラー 英語 | 2018年 イギリス

『氷の季節』
104分 カラー デンマーク語 | 2018年 デンマーク

『ヒズ・マスターズ・ヴォイス』
108分 カラー 英語・ハンガリー語 | 2018年 ハンガリー、カナダ


◉ 北米・南米

『大いなる闇の日々』
94分 カラー フランス語・英語 | 2018年 カナダ

『ヒストリー・レッスン』
105分 カラー スペイン語 | 2018年 メキシコ

『翳りゆく父』
92分 カラー ポルトガル語 | 2018年 ブラジル


◉ アジア

『シレンズ・コール』
93分 カラー トルコ語 | 2018年 トルコ

『テルアビブ・オン・ファイア』
97分 カラー アラビア語・ヘブライ語 | 2018年 ルクセンブルク/フランス/イスラエル/ベルギー

『ザ・リバー』
113分 カラー カザフ語 | 2018年 カザフスタン/ポーランド/ノルウェー

『詩人』
123分 カラー 北京語 | 2018年 中国

『三人の夫』
101分 カラー&モノクローム 広東語 | 2018年 香港

◉ 日本

『愛がなんだ』
123分 カラー 日本語 | 2018年 日本 配給:株式会社エレファントハウス

『半世界』
120分 カラー 日本語 | 2018年 日本 配給:キノフィルムズ


第31回 東京国際映画祭
期間:2018年10月25日(木)〜11月3日(土・祝)
会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)ほか都内の各劇場および施設・ホール
公式ホームページ: https://2018.tiff-jp.net/ja/


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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自分磨き・お掃除・断捨離・自然・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。最近は心の深呼吸を大切に、ひとつひとつのことに丁寧に向きあうことを目標としています。

Twitter:@cherrytree813

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2018年9月1日土曜日

映画『野いちご』評text奥平 詩野

『野いちご』イングマール・ベルイマン


 時計の秒針が重々しく響き渡る部屋で一人の老人が自分語りをするシーンで始まる本作は、老いのもたらす死への切迫したイメージと、悲しくも極度に瑞々しい若かりし日々の回想との対立と絡み合いが、自己嫌悪や怠惰の入り混じった複雑な感情をもたらすと同時に甘美さと切なさに満ちている。
 この老人の回想は野いちごから始まる。懐かしい場所に生えている野いちごとの再会は、若かりし日々の中でかつての恋人がつむ野いちごへ、老人を引き戻す。若い恋人は本当に若く、軽薄で、その気軽さは、老人にとっては切ない記憶であるはずの彼女と弟との浮気にも存分に流れ込み、 家族の時間にも発揮されている。兄弟喧嘩も、叔母の厳格さも、恋の悩みも、個人の感情を超越した状況の総体として回想になったものは、楽しみや明るさといった幸福の情景を全身に帯びているのだ。それ故、この幸福な日々となった過去の中では、野いちごを含む自然さえも心優しく一家に調和し、全ての失われたものは愛しいものとして回想されている。
 しかし、失われたものへの愛惜は、死にゆく老人の現在の残酷さをより強調する。その残酷さは、現実を通して彼に意識されるというよりは、いくつもの悪夢を通して彼を圧迫するのだが、 夢の中で彼は孤独で不安であり、彼の愛した者は彼を苦しめる者となる。彼の夢は、暗い空の陰鬱な朽木や決して笑わない人々、死の存在や彼の孤独を決定的にし、彼を断罪し、人生の清算を促すイメージに埋め尽くされている。

   その悪夢のもたらす諸々の不安は、現実における彼を断罪するものであり、彼は実際に周囲から孤立し、根本的な態度としての冷酷さの面で息子の妻に非難されている。しかし彼は最初の野いちごから始まる甘美な回想と何度か訪れる多様で無慈悲な悪夢に揉まれて初めて、現実の自己について省みるのである。
 名誉博士の授与式に向かう道のりに起こった、回想と悪夢の現実の心理上での絡み合いや、回想であり同時に悪夢であるような母親との再会、現実であり同時に回想であるような三人の若者との出会い、また、現実であり同時に悪夢であるような夫婦との出会いは、その一日のうちに、 彼が冒頭で語った、孤独や仕事にだけ価値や意味を与えて生きてきたという申告への裏切りをこの老人にもたらした。黒い服に身を包んだ老人達が一糸乱れぬ行進を左右に揺れながらのろのろと進んで行く事で流れる黒い川を沢山の生きた人々が対照的に明るさで取り囲んでいるのを見ると、それはもはや死人の行進のように見える。名誉博士の戴帽は、どことなく罪の判決のように見えるし、孤独と知識と老いを死因とする死者にのみ与えられる功労のようにも思える。そしてこうした一日の後に、彼は孤独である事を捨て去る決心をするのである。
 しかし、最後に見る回想が、決して戻らない日々への恋しさを余計に今までよりも痛烈に感じさせるのはなぜだろうか。この最後の回想は若い日々の美しい幸福で満ちているし、この疲れて悔い改めた老人を、心底慰めている。それにも関わらず、失われたものへの深い悲しみや切なさの 印象を観客に強く与えるのは、それが純粋に懐かしさの表現であるからである。最初の回想とは違い、もはや回想は老人に何かを訴える必要が無く、現実の人生には慰め以外何の役にも立たな いものだからである。その回想の持つ悲しみは、反省や後悔とは何一つ関わらず、逆にそれが完全な幸福のイメージであるが故に、取り戻せないというその絶対的距離のために悲しいのであって、 まさにその距離を、私達観客は老人の一日の旅の中に、つまりこの映画全体の回想と悪夢と現実の混合物の中に、発見するのである。


(text:奥平詩野)

©1957 AB Svensk Filmindustri

『野いちご』
1957年/スウェーデン/スタンダード/91分

監督/脚本:イングマール・ベルイマン
出演:ヴィクトル・シェーストレム、イングリッド・チューリン
撮影:グンナール・フィッシェル

タルコフスキーがオールタイム・ベストとして挙げた名作であり、青春時代の失恋を野いちごに託した叙情的な一編。
名誉博士号を授与されることになった老教授が車で授与会場へ向かう一日が、人間の老いや死、家族などをテーマに夢や追想を織り交ぜながら語られる。
老教授を演じるのはサイレント映画の名監督として知られるヴィクトル・シェーストレムで、本作が遺作となった。女性を描く名手ベルイマンのミューズ、ビビ・アンデションとイングリット・チューリンが艶やかに競演。

第8回ベルリン国際映画祭 金熊賞
1962年度キネマ旬報外国語映画ベスト・テン第1位


劇場情報
「ベルイマン生誕100年映画祭〜デジタル・リマスター版〜」開催中
アップリンク渋谷:9/8(土)~21(金)
キネマ旬報シアター:9/8(土)~10/5(金)
下高井戸シネマ:10/6(土)~19(金)
ほか全国順次上映予定

公式ホームページ
http://www.zaziefilms.com/bergman100/index.html


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【筆者プロフィール

奥平 詩野:Okuhira Shino

1992年生まれ、国際基督教大学除籍、慶応義塾大学在学中。
映画論述。

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2018年8月3日金曜日

映画『東京ノワール』評textミ・ナミ

漢稼業(やくざ)の終い際


私の実家は自営のクリーニング業だった。新宿にほど近い地域だったせいか、夜の世界に身を置く人たちがよく品物を出しに来たのだが、その中に、明らかにその筋の一派が居た。弱小の洗濯屋相手に因縁をつけては代金を踏み倒そうとするチンピラもいれば、おおらかそうな振る舞いでも、時折義眼を光らせ威厳を張る親分も姿を見せたりしたことがあった。眉をひそめるようなこともあったが、大方は筋ものよりも気性の荒い私の母に一喝され、苦笑して帰っていくという、いわば根っこは気のいいあんちゃんばかりだったと記憶している。暴対法、暴力団排除条例が改正して苛烈に締めつける前の話である。昨年実家の店が廃業するよりも前に、誰も彼もあとかたなく姿を消してしまった。

こんな問わず語りを書いてしまったのは、『東京ノワール』でやくざから足を洗おうとする鳴海の背中に、昔見た面々を思い出したからだ。現実にやくざでいることの限界は、映画表現にも及んできている。北野武のアウトレイジ最新作『アウトレイジ最終章』が好例だ。ハンパな新参やくざに牛耳られ、昔気質の幹部連中は歯噛みする一方、主人公の大友は死んだ目で無闇な銃撃戦を展開させて最終的には自殺する。かつての任侠および実録やくざ映画がまとう、たぎるような空気はそこにはない。

「今どきやくざなんて流行らないっしょ」。鳴海の息子・龍一は、吐き捨てるようにそう言う。現実が闇社会を一層許容しなくなり、時代遅れになったせいかもしれない。そんな自分たちの盛衰を、社会制度が悪いという主張は一方で正しい。だが鳴海をはじめ、この映画でやくざを仕舞う男たちは、それをしない。尾羽うち枯らしつつも恨みつらみを呑み込み、最後まで無様であろうとする。これは新しい「滅びの美学」ではないか。

つるむことなく、目的もなく罪を犯す(全く巧くない万引き!)龍一の存在も、暴力が興奮と共感を呼ぶような時代をとうに過ぎ、往年のような抗うべきものがどこにもないことを浮き彫りにする。現代は「反社会勢力」など存在していなかったかのように、さも清浄そうに、無表情でいる。極道でいることは孤高ではなく、孤独なのだ。

『東京ノワール』は、アウトローで生きていくことのきりきりするほどの絶望がつらぬいている。最後すら任侠道らしくいられないには深い絶望しかない。願わくば、龍一の第二幕が見てみたい。劇中父子は互いに無味な視線を交わすだけだったが、ついにはふたりの血脈のドラマにシフトしていったと、私は感じた。龍一もまた、自身の運命を引き受けて生きざるを得ないだろう。殺伐としたドラマで、ふたたびこの男の眼差しが見たい。


東京ノワール/2017年/82分

2018年8月4日東京・K’scinemaにて2週間限定公開
http://www.ks-cinema.com/movie/tokyo_noir/
8月18日〜8月24日大阪・第七藝術劇場で1週間限定公開
http://nanagei.com/movie/data/1270.html

監督・脚本:ヤマシタマサ

撮影:田中一成

鳴海:井上幸太郎

山城:両國宏

金本組組長:大鷹明良

龍一:日下部一郎

青木:太田宏

島袋:河西裕介

カズハ:馬場莉乃



配給:彩プロ


あらすじ

引退を決意したヤクザ・鳴海は、最後の仕事と決めた拳銃密売取引の現場で拳銃が暴発、相手組員を装っていた潜入捜査官を死亡させてしまう。裏社会と警察からも追われる身となった鳴海は、運命に翻弄される。


ミ・ナミ

1984年生まれ。都内名画座勤務。

2018年7月22日日曜日

ともこの座敷牢 1年ぶり2回目 『30年後の同窓会』

「酒と泪と男と男と男と息子と死んだ友」  


『30年後の同窓会』。
どこから手をつけたらいいのかわからないほど情報量の多い映画である。

わたしはリチャード・リンクレイター作品をそんなに観ていない。
『6歳のボクが、大人になるまで』(2014)も観る機会を逃した。『ビフォア』3部作も観てはいない。
『スクール・オブ・ロック』(2003)がリンクレイター監督作であることも最近知った。いい映画である。なにより音楽がいい。当時わたしは自分の車の中でこの映画のサントラをさんざんかけていたため、同乗者たちの耳には特大のタコができていたことと思われる。ジャック・ブラックの英語はリスニングのテキストにできるくらい聞き取りやすいなぁ、というどうでもいい記憶がある。

『スラッカー』(1991)『エブリバディ・ウォンツ・サム! 世界はボクらの手の中に』(2016)は観ている。この2本には共通した雰囲気が感じられるが、しかしここはこう考えたほうがいいだろう。

この際、作風や監督の特徴は無視しよう。

わたしは自らの中に「リンクレイター論」を持たない。だから、あえて監督のこれまでの作品を考えず、この作品から受けた「かなしみ」と「しずかな怒り」そして「救い」について考えようと思う。

・「お前が言うな」に似たなにか
『30年後の同窓会』。
このタイトル。邦題に苦慮した挙句凡庸な命名をせざるを得なかったのではないだろうかと若干かわいそうにも思う。かつての仲間が30年ぶりに集まる、それはある意味ではまったく「同窓会」であり、またある意味では「再会」にとどまらない、古傷を癒す旅であるからだ。
古傷と向き合うきっかけは、新たに出来てしまった大きな生傷である。

2003年12月。サルの経営するバーを訪れた、しょぼくれた男。毎日が酩酊状態であるサルだが、それでも、この男が昔一緒にベトナム戦争に従軍した衛生兵、ドクであることを思い出す。
ドクはサルに、息子が2日前イラク戦争で戦死したので、軍葬に立ち会ってほしい、と頼む。
ドクは妻に先立たれ、その悲しみも癒えぬうち、息子をイラク戦争で失った。愛する家族が続けざまに死んでいく。
自分はかつてアメリカ兵であり、生き残った、しかしその息子は、戦死した。
息子はアメリカの英雄として丁重に扱われ、アーリントン墓地に葬られる。

たどり着いた会場では、しきりに「彼は英雄だ」「大統領の弔意」などのことばが述べられる。
しかし、重々しく進む戦死者の葬送は、その儀礼的さゆえに「国旗がかかった箱がベルトコンベアに乗せられて移動していく」ようにしか思えない。こう言ってはなんだがスーパーの刺身パックの上にプラスチックの菊の花を乗せ続けるような「作業」のように映される(この場面の演出はかなり意図的なものであろう、しかし意図は意図である)。
ドクは知っていた、「名誉」「アメリカの英雄」という重たい空虚を。ドクは息子を、「英雄」ではなく、ひとりの「自分の息子」として引き取り、葬ることにした。

ここで息子の遺体と対面したドクが呟く「顔がなかったよ」の一言が効いてくる。
「顔がない」という言葉には幾重の意味がある。それはまず文字どおりの意味。まったく、英雄やら名誉やらうるさいんだからきちんとしてあげなさいよ、というよくわからない困惑が湧いてくるが、まさか父が息子との対面を強行するとは思わなかったのだろう。
本音としては、遺体はただの物体に過ぎないのだろう。戦死者が日常的に発生する状況では感覚は麻痺し、悼むことばは空虚なものとなる。美辞麗句が並べられても、彼らへの儀式はルーチンワーク的なものとして描かれる……白黒の鯨幕と星条旗が等しく感じられる。
死者たちは「個」をひとまず封じられ、「アメリカの英雄」という概念と化し、アーリントン墓地に葬られるのである。その名前が残るかかどうかは別の問題である。名前すなわち「個」ではない。これは抽象的な意味での「顔がない」につながっていく。
ドクやサル、途中で一行に加わった3人目の仲間ミューラーたちは、「顔を失った者」が常にその「顔」を自分たちに向けている、という感覚を背負っていたのではないか。後述する。

2003年末といえば、かつてのイラク大統領サダム・フセインが捕縛されたちょうどその頃である。この2年前、2001年9月11日、イスラム過激派がアメリカ各地にテロを仕掛け、とんだ大惨事を引き起こしたことは記憶に鮮明に残っているが、イラク戦争はその報復といった面もあるらしい。これらを受け、アメリカの愛国心(を煽るような世論)が高まっていた、という描写が途中で見受けられる。

アメリカ万歳。アメリカつよいぞ。
そんな愛国心の象徴のように、当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュの顔が映し出される。街角のテレビに、モーテルのテレビに。すっかりボロボロになったサダム・フセインの姿と、いかにもリーダーでござい、というブッシュの姿が交互に映し出される。
しかし、それもまた可笑しなはなしなのだ。なぜなら、ブッシュ大統領も、ドク、サル、ミューラーたちと同様にベトナム戦争を知っている者であり、そして今、「何かがあるかもしれない」というよくわからない理由でイラクに兵を送り、そこで大量の人死にを出しているのだから。
ほうぼうのドンパチに無闇に人員を送り込んでいる者に「息子さんの死を悼んでいる」なんて言われてありがたく感じるだろうか? お前が言うな、である。

ベトナム戦争なるものも、まったくもってよくわからない。いったいアメリカが何を期待してそこに兵を送り込んだのか、ベトナムに返り討ちされたのがそこまでアメリカのプライドを傷つけたのか、なんともよくわからない。もっとも、アメリカがその鼻っ柱をへし折られたことによって、アメリカンニューシネマの名作の数々が生み出されたのは皮肉な功かも知れない。
そういえば、わたしが『30年後の同窓会』を観て感じたのは、「これはアメリカンニューシネマの現代的解釈だ」ということなのである。
なんの前知識もなく鑑賞してそう思ったのだが、あとで調べて驚いた。しかしわたしはこの作品がどの作品の続編的なものなのかは書かない。なぜならその前作を観ること叶っていないからである。

・一粒の麦もし死なずば
この3人のおっさんたちがベトナム戦争でどのようなご乱行に耽っていたのかは劇中で語られる。現在も酒浸りでヨレヨレのサルも、今は聖職者として熱く信仰を説くミューラーも、なんらかの理由で海軍刑務所に叩き込まれていたドクも、等しくオンナと酒とおクスリに溺れていたという昔話が、ドクの息子の遺体の横でゲラゲラと笑いながら語られる。
そして、そのことが原因で、戦友を見殺しにする羽目に陥ったという、重たい影を、彼らは30年間背負い続けていたことが示される。

ドクの息子が死んだ理由は、表向きはあくまで「戦死」。しかしそれは実は……
自らの過去と重ね合わせて、十重二十重にやりきれない彼らである。

惨状を生き延びた者は、死んだ者に対して、罪の意識を抱きがちなのではないか。なんで俺たちのかわりにあいつが。あいつは生きるべきだった。なぜ……答えの出ない問いを長年抱き続けてきた彼ら。
そのような思考は、自らの外にも向けられる。なんで俺の息子は死んで、お前は生き残った? しかしそれは問うてはならない問いである。問うても詮無い問いである。
ここで、先ほど放ったロングパスを自ら走って受け取ろう。「その人の顔がつきまとってくる」のである。俺はなんでお前の代わりに死んだんだ。本当だったらお前が死んでいたんだ。自分の内に居ついた彼の顔が問いかけてくる。時に激しく詰ってくる。罪の意識と、後悔。この感情に苛まれ、ひとりは酒に逃げ、ひとりは神という(ある意味)精神的な存在を説くに至り、ひとりはその感情を背負いつつうっすらとした幸せと後悔ないまぜのなか生きていた……しかし全てを失った。

30年という月日は長いのだろうか。昨日のこともはっきりしないのに、30年前のことは鮮明に思い出せる、ということもあるだろう。月日の経過と記憶の距離は比例せず、過去と現在とが隣り合わせ、ということもありうる。
ということは、そのとき自分たちの代わりに死んだ友は、常に隣にいるのである。嬉しいことではないだろう。むしろとんだ足枷である。子を亡くした親となった今となってはさらに。死んだ友の親はこの30年間、どのように生きてきたのだろうか。

彼のお母さんは健在である。お母さんにとって彼は「アメリカのために立派に死んだ自慢の息子」。しかし、実は、ここに訪れた3人の「身代わり」となって死んだのだ、アメリカのためではなく。
はたしてそれを告げてなんになるだろう。しかし、今、前途あるはずだった息子を戦争で失った彼らは、それを「告解」せねばならなかった。
泣き喚かれ、罵られ、しかしそれを引き受けねばならなかった。ある意味、けじめとして。

息子の戦友として歓待され、それを告げるのは非常に重苦しい時間であったことだろう。しかしここでコペルニクス的転回が。

「では、私の息子があなたたちを助けたのね」

この発想はなかった。
死んだ子の年を数えるようなお母さんではなかった。お母さんは、戦死した(理由は何であれ、戦死である)自分の息子を、誇りに思い生きてきたのだろう。さらに、身を挺して友人の命を救ったという、「意味」がここに与えられた。一粒の麦、もし死なずばなんとやら。わたしはキリスト教徒でもなんでもないのだが、ふとそんなことばが思い浮かんだ。
名誉やら、誇りやら、そんなものは与えられるものではない。自らの内に抱くもの。

ここで死んだ仲間とそのお母さんへの懺悔はひとまず区切りがついた。心の中の友人は成仏しただろう(宗教観がごちゃ混ぜの言いようだが、それ以外日本語でなんと表現する? 昇天した? どうも「昇天」ということばには慣れない。日本人としてはやはりここは「成仏」である)。彼らは「救われた」のかもしれない。
そして、ドクの息子の死も「誰かの身代わりとなった死」、決して無駄死にではなかった、という、安堵に似た誇らしさを、このおっさんたちは実感することになったのではないか。

・自分たちの原点
与えられる名誉を拒否し、自分たちの価値観で物事を進めようとしてきた頑固なおっさんたちである。
この映画を仮にロードムービーであるとするならば、その道中で得たものは何か。もちろん、ドクの息子の眠る棺、その死の意味、そしてもう一つあるだろう。

かつて、友情は結ばれてもそれはいずれほどけるものであった。それぞれの人生がある。あとは風の便りがあればいい。さらば友よ。
しかし、離れても繋がれる、携帯電話なる便利グッズが手に入った。はしゃぐおっさんたち。死んだ息子が再び繋いだ縁は、「いつでも、その気になればまた会える」という心強いものとなった。
(個人的には、これは「携帯電話」であるために、つながりは細くも強いものになり得るのではないかと考える。現在主流のSNSなるものでは、技術的理由や利用者の関心の移ろいや、諸々によって容易に縁は切れてしまう。初めて携帯を持った頃の、今はもうほとんどやりとりのない友人の電話番号、あなたのスマホに残っていませんか? 相手が番号を変えていない限り、そんな知り合いにも簡単に連絡はできるのですよ。なお、Facebookの実用化は2004年だそうです。)

おっさんたちは、どこで自分たちが関係性を築いたかを思い出した。苦い記憶だが、自分たちの辿ってきた道程を再認識し、肯定する作業である。
それは与えられたものではなく、自らが感じ取った「救いに似た誇り」かもしれない。

息子の遺体を引き取る旅は、彼らがかつての関係性を取り戻し、そして枷から解放される旅でもあった。
30年という月日はやはり長く、重い。星条旗を畳むまでの逡巡、そして彼らにのしかかっていた重み、それらから少しだけ解放された彼らを思って、わたしはほんの少しだけ泣いた。





『30年後の同窓会』

Last Flag Flying
アメリカ / 2017 / 125分

監督:リチャード・リンクレイター

脚本:リチャード・リンクレイター
   ダリル・ポニクサン

原作:ダリル・ポニクサン「Last Flag Flying」

出演:スティーヴ・カレル
   ブライアン・クランストン
   ローレンス・フィッシュバーン

あらすじ:バーを経営するサルの元に、かつてベトナム戦争を共に闘った仲間、ドクが訪ねてくる。イラク戦争で戦死した息子の軍葬についてきてほしい、と頼む彼に、今は牧師となった仲間ミューラーも加わり、中年男3人の旅が始まる。


ともこの座敷牢とは
「ことばの映画館」の奈落にある座敷牢に閉じこもっているケッタイなおばちゃんのうめき声やたわごとを記録するフィールドワーク。おばちゃんはほとんど寝ているが、食事を差し入れる小さい扉を開けるとこっちを向いていることがあるのでびっくりする。

2018年4月24日火曜日

映画『女神の見えざる手』評 text今泉 健

「映画と現実の追いかけっこ」 


 今年の第90回アカデミー賞、下馬評では『スリー・ビルボード』(監督:マーティン・マクドナー)か『シェイプ・オブ・ウォーター』(監督:ギレルモ・デル・トロ)が有力とされている中、反トランプ政権の動きで「ビバ メヒコ!」の流れに乗り、どちらかというとデル・トロ監督に軍配が上がった形になりました。昨年や今年の諸々のアカデミー賞の受賞結果は「時代の節目、転換点だった」と後世で語られるのでしょう。昨年のアカデミー賞が黒人達にスポットライトを当てたということなら、今年は「オタク」な人達が脚光を浴びたともいえます。一方女優が脚光を浴びていたのも事実。『スリー・ビルボード』の主演女優フランシス・マクドーマンドは「男おばさん」ならぬ、「女おじさん」という風体、『シェイプ・オブ・ウォーター』のサリー・ホーキンズは最上級の不思議ちゃんといずれも超個性派女優、この2本がアカデミー賞の話題をけん引していました。マクドーマンドの受賞スピーチは同性に向けての応援演説であり、アカデミー賞の名場面の仲間入りは必至です。

 昨年は、女性が主人公の映画が印象深い1年でした。特に後半、イザベル・ユペール主演の『エル ELLE』(監督ポール・ヴァ―ホーヴェン)、1950年代の話ですがマーキュリー計画で頭角を現す黒人女性たち、 タラジ・Pヘンソン、オクタヴィア・スペンサー、ジャネール・モネイ主演の『ドリーム』(監督セオドア・メルフィ)、シャーリーズ・セロン主演の『アトミック・ブロンド』(監督デヴィッド・リーチ)など筆頭に、エイミー・アダムス主演の『メッセージ』(監督ドゥニ・ビルヌーブ)も、ガル・ガドット主演のあの『ワンダーウーマン』(監督パティ・ジェンキンス)が公開になりました。『マイティー・ソー バトルロイヤル』(監督:タイカ・ワイティティ)のケイト・ブランシェット演じる敵役も、そもそも筋肉ムキムキなクリス・ヘムズワースのソーよりタイマンで強いという設定になっています。共通しているのは、「強い女性」というより、「女性こそが強い」ということです。女性があくまで女性のまま、逞しく生きていること。男社会が舞台でも人種偏見に晒されても、男勝りとは違って女性であるまま強いことなのです。そしてそんな中でも際だっていたのが、ジェシカ・チャスティン主演の『女神の見えざる手』(監督ジョン・マッデン:原題:Miss Sloane)でした。
 この作品は、アメリカの政界が舞台の女性ロビイストの話です。ロビイストとは、「ロビー活動」をする人たちのことで、ロビー活動とは、政界、官界で根回しをすることです。特定の企業や団体の利益のために、政治家や官僚に対して働きかけ、有利な政策を立案、実行させる仕事です。その団体が政治献金などですでに代議員と一体化しているので、直接議員からオファーがきたりします。法人形態を取っていて、様々な規模で専門分野を持つ事務所があり、職業として確立しています。活動を規制する法律、例えばロビイストが無料で政治家を招いて旅行をしてはいけない等も定められています。
 アメリカの政界もまだまだ男性社会というのが現実のようで、政界のロビーは実弾が飛び交ってないだけで戦場さながら、一寸先は闇のもっとも熾烈な職場のように作品から窺えます。この辺りは、女性フィクサーが主人公の米ドラマ『スキャンダル 託された秘密』(製作:ションダ・ライムズ)も同じようなイメージです。『スキャンダル』は主演ケリー・ワシントンで、政治家の「身の下」問題などプライベートな件も扱う点が違いますが、マスコミに印象操作を行うことなどは同じです。そして「スキャンダル」のオリビア・ポープ以上にこの作品の主人公エリザベス・スローンは「エグい人」でした。結果が全てなので手段を選びません。使えるものは何でも使います。部下からの信頼とか気遣いとか倫理観とかギリギリの線どころか大きく踏みだしても勝とうとします。この様子はまさに肉食獣。女性としての性欲も抑えません。彼女の仕事の根源的な動機、今回は銃規制の推進ですが、個人的動機は明確になりません。話を追うにつれ、そんなものは明確にしたら諸刃の剣、いや、そもそも個人的な感情などないのかもしれません。そんなのはあったとしても、目標完遂には不要だから観客にすら見せていないかのように思います。彼女は何重にも作戦を巡らし、最後は自分の境遇でさえも切り札で使います。まさに「肉を切らして骨を断つ」ですが、この戦法は男性ではここまでの度胸がなくて難しいかなと思えてきます。作品自体も銃規制を取り上げているので特に現政権の政策に反する内容です。銃の問題はアメリカがアメリカたる所以でもあり、現状維持か規制か実際に意見も割れています。そこに女性が半ば1人で挑戦状を叩きつけるという展開は、やはり「女性こそが強い」、「女性こそが世の中を変える」と主張しているように思いました。
 キャストは米ドラマ『ニュースルーム』(製作:アーロン・ソーキン)という政局を扱うニュース番組の米ドラマに出演した、主要レギュラー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキーの2人と、弁護士の米ドラマ『グッド・ワイフ 彼女の評決』(製作:ロバート・キング、ミシェル・キング)のレギュラー、クリスティーン・バランスキーもカメオみたいに出演。ポリティカルドラマの雰囲気づくりに貢献しています。また、アメリカの国内問題ですが、製作はEUからも加わっていて、それだけにアメリカという国に対する客観性が強いのでしょう。
 そして、この「女性こそが強い」は、昨年のアカデミー賞を賑わせた『ラ・ラ・ランド』(監督:デイミアン・チャゼル)で既に始まっていたように思います。エマ・ストーン演じるミアが故郷アメリカを離れ単身フランスへ、そしてライアン・ゴズリング演じるセバスチャンが地元のLAでお店を持つ展開というのは、ちょっと昔のミュージカル風な作品で意外に思いました。男性が残り女性が去るという流れは印象的であり、ステレオタイプな概念とは真逆でした。
 
 先のアメリカ合衆国大統領選でドナルド・トランプ氏の当選に憤慨、落胆する人たちの報道の中でハリウッド周りの人たちの姿が印象的でした。もちろんトランプ氏を推す著名人もいましたが、ハリウッドでは全体的にヒラリー・クリントンを待望していたような印象です。列挙した各作品の撮影時期は当然、大統領選が決する前の作品ばかりです。各々の企画意図まで吟味したわけではないですが、ある程度作品数が揃っていることもあり、アメリカ初の女性大統領誕生の予感が、女性が際立つ作品たちを作らせたような気がしてならないのです。「女性大統領の誕生=女性の強さの覚醒」という刷り込みが、意識的か無意識的か作品に投影されたのではないでしょうか。『ELLE』はフランス映画ですが、米国の一般公開日が2016年11月11日(Fri)、大統領選の一般投開票日、スーパーチューズデーが11月8日なので、女性大統領の誕生を目論んだ公開日とも思えるのです。 
 当初ヒラリー・クリントンが出馬を表明した後には対抗馬に大した候補も出ず、最終的に共和党候補がドナルド・トランプになった時、殆どの人がヒラリーを次期大統領だと思ったのではないでしょうか。ちょっと前なら泡沫候補の体であり、野放図で差別的な発言を繰り返すトランプの方をアメリカ人が推すと信じていた人は数少ないと思います。しかし、その一方でイギリスがEU離脱を国民投票で決めてしまうなど、今までの予定調和は成立しないという流れもありました。またヒラリー・クリントンの私用メールサーバー疑惑の発火点の張本人たちが出てくるドキュメンタリー『ウィーナー  懲りない男の選挙ウォーズ』(監督:ジョシュ・クリーグマン、エリース・スタインバーク)を見る限り、民主党陣営の運営には脇の甘さが目立ち、ひとりで勝手にこけた部分もあります。トランプ氏は目の前にいる聴衆が何を望んでいるか察知して言葉に出来る能力に長けている優秀なビジネスマンのように見えます。ただ現政権にもロシアの選挙介入疑惑なんてものが燻っていて、当選を一番驚いたのはトランプ氏自身だったというブラックジョークのような話がまことしやかに囁かれているくらいです。やはり様々な立場の人にとってもこの結果が衝撃だったという表れでしょう。
 今年2018年になっても新しい動きがでています。アメリカで大ヒットの『ブラックパンサー』(監督:ライアン・クーグラー)はブラックムービーですが、オープニング1週間の興業成績が『スターウォーズ 最後のジェダイ」(監督:ライアン・ジョンソン)並という勢いです。主演は映画『42 世界を変えた男』(監督:ブライアン・ヘルゲランド)で、伝説の黒人メジャーリーガー、ジャッキー・ロビンソン役が印象的だったチャドウィック・ボーズマン。その国王を支える人達、近衛兵までもがほぼ女性だという、「女性こそが強い」という昨年来の流れも踏襲しています。ヒットが難しいと言われるブラックムービーで大ヒットが続けば、これまた節目になるのでしょうか。確かに出演者は『ゲット・アウト』のダニエル・カルーヤ、『クリード チャンプを継ぐ男』のマイケル・B・ジョーダン、大人気のテレビドラマ『THIS IS  US 36歳、これから』(脚本:ダン・フォーゲルマン)のスターリング・K・ブラウンやルピタ・ニョンゴ、アンジェラ・バセットなど旬な黒人俳優を起用したのが勝因かと思います。中にはギャラが上がる前にスケジュールを押さえられた人もいるのじゃないでしょうか。 
 アカデミー賞の前哨戦、ゴールデングローブ賞では、女優が皆、黒色のドレスを纏い「Me Too」や「Time's Up」のワッペンをつけて、セクハラ追放を訴えました。映画は現実社会の映し鏡です。ただ、映画が社会現象となり現実社会に大きく影響を与えることばかりなら、それはそれで諸手を挙げて賛成とは言い難い面もあります。時に誰かの偏った思想の宣伝に利用されかねない危うさもあるからです。
 アメリカの女性大統領が主役の作品といえば、15年ほど前に、あの『テルマ&ルイーズ』(監督:リドリー・スコット)のジーナ・デイビス主演ドラマ『マダム・プレジデント~星条旗をまとった女神』(原題:Commander in Chief)(製作:ロッド・ルーリー)がありましたが、人気がなく1シーズンのみで打ち切りなったのは有名です。しかし当時とは状況が違います。期が熟しているなら、シットコム『VEEP/ヴィープ』(脚本:アーマンド・イヌアッチ)のような女性副大統領が主役の作品が当たっている分けですから、いずれ女性大統領が主演のドラマや映画が頭をもたげてくるということしょうか。映画なら主演の第1候補はメリル・ストリープですね。 
 近年のハリウッドにおける女優の地位の問題、男優と女優の待遇格差の事実が明らかになりました。追放者まで出した昨年のセクハラ事件の表出は、反トランプ政権的な流れと重なって、あの超大国の中で、トレンドなどという軽い言葉では語れない、相反する、マグマのような大きなうねりが生じているようにも見えます。映画は現実を越え、例えば少し先の価値観を植え付けるものなのか、映し鏡として、例えば、やがて知れ渡る小さな現実の萌芽をクローズアップして世に伝えるものなのか、映画と現実世界の追いかけっこは今年も目が離せません。

(text:今泉健)


『女神の見えざる手』
2016年/132分/フランス、アメリカ合作

監督:ジョン・マッデン

製作総指揮:クロード・レジェ

脚本:ジョナサン・ペレラ

撮影:セバスチャン・ブレンコー

キャスト:ジェシカ・チャステイン、マーク・ストロング、ググ・バサ=ロー、アリソン・ピル、トーマス・サドスキー

あらすじ
大手ロビー会社の花形ロビイストとして活躍してきたエリザベス・スローンは、銃の所持を支持する仕事を断り、銃規制派の小さな会社に移籍する。卓越したアイデアと大胆な決断力で難局を乗り越え、勝利を目前にした矢先、彼女の赤裸々なプライベートが露呈してしまう。さらに、予想外の事件によって事態はますます悪化していく。

(C)2016 EUROPACORP - FRANCE 2 CINEMA

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【筆者プロフィール

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身、男性、東京在住、会社員、
映画好きが高じてNCWディストリビューターコース、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

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2018年4月13日金曜日

東京国際映画祭2017〜映画『イスマエルの亡霊たち』アルノー・デプレシャン監督上映後トークショーtext藤野 みさき

© 2017 TIFF

フィクションの役割は人生を修復してくれることにあると私は信じているのです——アルノー・デプレシャン

  
 誰しもが忘れられない大切な劇場があるように、TOHOシネマズ六本木ヒルズのスクリーン7は、私にとって特別な想いを抱く場所である。アルノー・デプレシャン監督が、この劇場にふたたび戻ってきてくれたことが、私にとても大きな感動をもたらしてくれた。
いまから遡ること、8年前。当時の最新作である『クリスマス・ストーリー』の上映にともない、アルノー・デプレシャン監督、主演をつとめたマチュー・アマルリックとアンヌ・コンシニが来日をなさり、大きなスクリーンを背景に、上映後にトークをなされていたことを私はついこの間のことのように、懐かしく思いだす。当時17歳だった私が、8年後にこの東京国際映画祭という舞台でデプレシャン監督と「再会」できたこと。そして監督のことばを伝えることができることが、いま、すなおにとてもうれしい。

『イスマエルの亡霊たち』は、『あの頃エッフェル塔の下で』以来、2年ぶりのアルノー・デプレシャン監督の最新作である。20年前に失踪した妻カルロッタ(マリオン・コティヤール)が、傷の癒えぬまま暮らしていた映画監督の夫、イスマエル(マチュー・アマルリック)のもとへ突如帰ってくるところからものがたりは始まる。イスマエルの現在の恋人であるシルヴィア役にシャルロット・ゲンズブールを迎え、イポリット・ジラルド、ルイ・ガレル、そしてラースロー・サボーらフランス映画界を代表する俳優たちが、さらに映画を豊かなものへと昇華している。
 デプレシャン監督にとってまさに「夢のようでした」と語る、マリオン・コティヤールとシャルロット・ゲンズブールのすばらしさ、そして「フィクションの役割とは人生を修復することにある」という、デプレシャン監督の、力強く、胸をうたれることばたち……。本作に込められた想いを、全文掲載というかたちでここに記します。
(2017年10月28日(土)TOHOシネマズ六本木ヒルズSCREEN7にて 取材・構成・文:藤野 みさき)

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© 2017 TIFF

Ⅰ 10のものがたりをひとつの映画として語るために


矢田部吉彦(以下矢田部):デプレシャン監督、すばらしい作品を東京に届けてくださって本当にありがとうございます。まずは私から幾つかの質問をお伺いしたいのですけれども、冒頭でデプレシャン監督が10のものがたりがひとつの流れになっていると、おっしゃっておりましたね。この10のものがたりは新たにこの映画のために作られたものなのか、それぞれ監督の頭にあったイメージが長い時間をかけてこの映画になっていったのか。その辺りから、お話しをお伺いできますでしょうか。

アルノー・デプレシャン(以下AD):10のものがたり、と言いましたけれども、最初は断片的なままで存在しているだけでした。その断片をストーリーにしてゆこうと思ったのです。それはイヴァンをめぐるものがたりで、ウディ・アレンの撮った『ブロードウェイのダニー・ローズ』(1984)のように断片が繋がったものがたりにしようと思ったのです。ですがあるとき、“イヴァンのものがたりを監督が語る”という構造を思いつきました。私はいままで映画監督を主人公にしたことはありません。初めて自分で映画監督を主人公にした映画を作ろうと、そのような自由を自分自身に対して許すことにしました。しかし、私が描こうとする監督はいったいどのような人物であるのかまだわからなかったのです。そのときに頭に思い浮かんだのが海辺のシーンです。ひとりの女がいて、もうひとりの女が近寄ってくる。彼女は「イスマエルは相変わらず泳ぐことが嫌いなの?」と訊くのです。そうすると、「どうしてそのことを知っているの?」という答えが返ってきて、そこで「私はイスマエルの妻だからよ」と言うのです。この3つの台詞が浮かびました。20年前にいなくなった女性が戻ってくる、その3つの台詞、そのイメージから、このものがたり、映画の全体が分泌されていったのです。

矢田部:そして、どちらかというとイヴァンのものがたりというよりも、イスマエルのものがたりのほうが大きくなってゆく……。それは自然な流れでしょうか。

AD:そうですね。この映画は寧ろイスマエルのポートレイトという映画になっています。変わった映画監督のものがたりです。そうして、その監督は消えてしまった弟、イヴァンについての夢を見ています。イヴァンの方は小さなモチーフであって、それを膨らませていると大きなスパイ映画を作らなくてはいけないのですが、私にはそれができません。きっと退屈してしまうだろうと思ったからです。寧ろ別のところをさまよい、他のものがたりを語りました。

矢田部:ありがとうございます。それでは、お待たせしました。観客の皆さまよりご感想、あるいはご質問をお受けしたいと思います。如何でしょうか。アルノー・デプレシャン監督に質問するのは緊張するかと思いますが、とても貴重な機会です。

 ここから、矢田部さんより観客の方々へと質問が引き継がれてゆきます。

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筆者撮影

Ⅱ 映画監督という役割に投影させる意味


Q1. ありがとうございます。映画監督を主人公に映画を撮られると、監督ご自身が映画の中に反映される、ということがよくあるかと思います。今回主人公であるイスマエルにデプレシャン監督ご自身が反映されているのかということと、デプレシャン監督と従来にわたって仕事をなされているマチュー・アマルリックにこの役を演じていただくにあたって、どのような要望・希望をなされたのかを教えていただけますか。

AD:マチュー・アマルリックも私も「イスマエル」という監督には絶対になれないと思います。即ちイスマエルは、マチュー・アマルリックにも、私自身にも、とてもできないようなことを自らに許しています。とても過激で、そして失礼でさえあります。そのうえに気まぐれで、極端でもあり、撮影現場から逃げることまでします。そのようなことはマチュー・アマルリックも私も絶対にできません。マチューと私はより慎重で、そのようなことができないタイプなのです。私たちはイスマエルほど薬を飲んだりもしませんし、健康に注意をしています。

会場:(笑)。

AD:私はこの映画を撮るとき、マチューに要求をしたことがふたつあります。それはイスマエルという人物の中にあるふたつの特徴です。イスマエルは風変わりで身勝手であるにもかかわらず、謙虚なところがあります。彼は自分のことを絶対に“映画監督”とは言わない。フィルムメイカー、即ち、“映画をつくるひと”だと言っているのです。マチューはまさにそうした謙虚なところを持っています。そして女性の前になると、たとえばシャルロット・ゲンズブール(シルヴィア)に逢うと、実に深い感銘を受けて、とても謙虚になります。ですので、イスマエルは過激な男性であり、男性に対しては極端なことができるのですが、女性に対しては実に謙虚に慎ましくなることができるのです。

© 2017 Why Not Productions - France 2 Cinéma


Ⅲ 映画の夢 ふたりのミューズ マリオン・コティヤールとシャルロット・ゲンズブールについて


矢田部:ありがとうございます。いまちょうど、シャルロット・ゲンズブールさんのお名前がでましたが、シャルロット・ゲンズブールさんとマリオン・コティヤールさんを、私たちは同時に拝見できるという幸福を味わうことができます。このふたりの女優さんの選定についてはどのようにおこなわれたのでしょうか。

AD:私にとって、それはまるで夢のようでした。
皆さま、“カルロッタ”という役を思ってみてください。彼女はとても神話的なところのある登場人物です。カルロッタは一旦失踪しますが、20年のときをへてまた戻ってくるのです。そこで、マリオン・コティヤールのもっている「神話を自らで創りだす力」を考えました。そして、神話的な存在になることができるのに、実際は単純であることができる。ただの少女、ただの子犬のようになることもできるのです。彼女が踊るシーンを考えますと、彼女は“ただ生きている”だけであり、神話というものは、そこにはまったく関係がありません。マリオン・コティヤールがもっている「自分で神話をつくる力」、そして、自らが創作することのできるその神話を壊し、「ただ生きている存在」になれる力を考えました。

AD:シャルロット・ゲンズブールの演じたシルヴィアですが、彼女は女性として“生きることへの傍観者”です。傍に逸れて観察をしているタイプです。また同時に彼女は灰の中の燠火(おきび)のようでもあります。しかし、その燠火からでて燃えあがってほしい、と思います。シルヴィアをみると「灰を落として炎になれ! そして本当の人生を生きろ!」と言いたくなります。そして、この映画のなかのシャルロット・ゲンズブールは、ラース・フォン・トリアー監督の映画とはまったく違った役を演じていらっしゃいます。実に生命力に満ちた役を演じています。また同時に彼女の中には慎みがある。それが起用の理由です。

Ⅳ 選曲の定義 マリオン・コティヤールの踊るボブ・ディランの『悲しきベイブ』


Q2. 10個のストーリーというものをいま拝見させていただいて、その流れを自分の中で咀嚼するのは少々時間が掛かるかもしれませんが、もう一度観返してみたいなと思える作品でした。そう思える作品というのはなかなか出逢えないからです。ありがとうございます。質問なのですが、今作も音楽の使い方が大変印象的で、ロックから弦楽まで色々なジャンルの、その場に合った音楽というものが使用されていてこだわりを感じました。そのあたりの選曲の定義をお伺いできたらと思います。

AD:ご感想とご質問をどうもありがとうございます。私が音楽を選ぶのは、編集をしているときです。私が好きなのは、音楽と音楽、曲と曲とをぶつからせること。ヒップホップの曲をクラシックのスコアとぶつからせる。ヴェートーヴェンとジャズをぶつからせる。そうしたことが好きです。そのような意味において私にとって崇高な存在は、マーティン・スコセッシです。

しかし一曲だけ、編集をする前から決まっていた曲があります。それはマリオン・コティヤールが踊る場面でかけた、ボブ・ディランの『悲しきベイブ』です。この曲は権利を得なくてはなりませんでしたし、マリオン・コティヤールに振付けをして踊ってもらうためには、あらかじめ曲を決めていなければならなかったからです。そこで、踊る場面の練習を始め、マリオン・コティヤールの振付けをしてリハーサルをしたとき、私はうまくいくかどうかを心配していました。そして彼女に対して「この曲をグルーヴにできる?」と訊いたのです。そうすると彼女は「わからないけれどやってみるからとにかくかけてみて」と答えてくれました。そして彼女はこの曲をとてもロックンロールにしてくれたと思います。

筆者撮影


Ⅴ ビガー・ザン・ライフ フィクションの役割は人生を修復してくれることにある


Q3. (質問者である女性がアルノー・デプレシャン監督へ)昨日の夜はありがとうございました。

矢田部:何があったんですか!?

会場:(笑)。

質問者の女性:本にサインをいただきました。ありがとうございます。
デプレシャン監督が、本の中でお書きになられていたこと——「フィクションには起源も真実もない。フィクションは至るところで埃のように舞い上がる」(※1)——という表現が私はとても好きです。お伺いしたいことというのは、どこからアイディアを思いつかれるのか。ということです。日常生活の中で思いつかれるのか、それとも、映画をご覧になっているときアイディアを思い浮かばれるのでしょうか。

AD:私の考えでは、フィクションは私たち周囲のいたるところに存在すると思っております。そしてフィクションの役割は、私たちの人生を修復すること、人生をよりよいものへと導いてくれるものです。
ふたつの例をあげたいと思います。最初の例はこの映画から取った例です。イスマエルは、(ルイ・ガレル演じる)外交官である弟のイヴァンに対してひどい関係をもっています。(イスマエルは)彼のことが嫌いなのです。そこでイスマエルはイヴァンの人生の夢をみて、イヴァンの冒険譚をつくります。そうすることによって、不器用であった自分と弟の関係を、敵意を修復しようとしているのです。もうひとつの例をあげますと、この映画の脚本を書いているときに、パリで同時多発テロ事件が起きました。一連のテロ事件があったために、もう私は脚本を書けなくなってしまったのです。なぜならば、このテロ事件が起こったことによって、フランス人は自らの中にある新たな脆弱さ、もろさを知ったからです。私の書いていた登場人物たちはその脆弱さをまだ知らない人たちでした。そこで、私はフィクションをつくりました。それがテルアビブへ行く飛行機の中でアンリ・ブルーム(ラースロー・サボー)が客室乗務員と喧嘩をし、言い争いをするところです。この場面はコメディでもありますが、同時に悲劇でもあります。結局はイスマエルもアンリも、牢獄で手錠をはめられてしまいます。この場面は私にとって「私たちは新たな危険のある世界に生きている」という事実を受け入れる方法でした。

Ⅵ あなたの不在は私の魂にもたれて眠る 不在がもたらす愛するひとへの想い


Q4. とてもロマンスが多く、主人公(のイスマエル)は悪夢をみて苦しんでいる印象がありました。質問はふたつあるのですが、ひとつめは主人公であるイスマエルが陥っている悪夢、これは(カルロッタの)お父さんであるアンリも悪夢をみていらっしゃったと思うのですが、デプレシャン監督ご自身も悪夢をみられたり、そのことを作品に落とし込んだりすることがあるのかということがひとつめの質問です。ふたつめは、よくある映画では“傍にいるひとがいなくなったことで、その大切さに気がつく”ということが多いと思うのですが、本作の場合は逆にいなくなったひとが戻ってくることによって、主人公は混乱してしまうということがあったかと思います。そのような部分のご説明などがありましたらお聞かせください。

AD:私は人生の中で悪夢をみることが多くあります。そして、夢にみた悪夢を映画の中でつかうこともあります。しかし、その悪夢というのは「ここからとったのだろうな」と皆さんが想像する場面ではありません。例えば、この映画では2枚の絵画を使ってイスマエルが遠近法の説明をする場面があります。実はあのお話しというのは、ある美術史家の本からきているのですが、私は悪夢をみたとき、それはとてもひどいものでした。けれども、その素材をつかってむしろ生き生きとした変な場面にしようと思ったのです。
不在のひとが戻ってくるということについて、私がとても美しいと思うのは、イスマエルはずっと妻を失った寡夫のように生きてきました。妻のことを埋葬することができなかったからです。そして、その妻であるカルロッタは亡霊のような存在として、ずっと彼の傍にいました。ある日突然、彼の元を去ってしまったにも拘わらず、です。そして、カルロッタの父であるアンリは娘の失踪を嘆くばかりであり、イスマエルとアンリは喪に服すことができませんでした。ところが、ある日彼女が戻ってきます。彼女が戻ってきたのは、イスマエルが第二の人生を歩もうとしている、まさにそのときでした。かつての人生をつづけるのか、新しい人生を築きあげてゆくのか。どちらが良いのか、という答えは絶対にありません。それがとても良い答えになっていると思います。

矢田部:ありがとうございます。以上をもちまして質疑応答を終了させていただきたく思いますが、最後にデプレシャン監督から一言締めのご挨拶をいただけますでしょうか。

AD:私から皆さまに申し上げたいことがございます。初めて日本に来たのは私の2本目の作品である『魂を救え!』のときでした。そして、そのとき以来、日本の観客の方々は、私の監督としての人生にとってとても大切な存在になっております。もしもあのとき以来、年を経ていまでもつづけている日本の方々との対話がなかったとしたら、いまつくっている作品はつくられていないと思います。それゆえに、上映前のご挨拶のとき「ここに来られたことを感動しています」と申しあげました。

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筆者撮影

《あとがき》

 上映後の質疑応答は、矢田部吉彦氏の司会のもと、会場と観客が一体となったように、あたたかな雰囲気に包まれながら進行した。福崎裕子氏の的確かつ、美しい通訳を通じて語られるデプレシャン監督のことばに、時間を忘れて聴き入ってしまったのは、きっと私だけではないと信じている。

『キングス&クイーン』や『クリスマス・ストーリー』でも語られているように、人生とは厳しいものである。『キングス&クイーン』で、ノラは末期癌の父を抱えながら、きっと、まだ愛している元恋人のイスマエルに逢いにゆき、『クリスマス・ストーリー』では一家の母であるジュノンが癌だと宣告される。しかし、ノラはおとずれる不運にひとりで立ちむかい、ジュノンは癌だと言われても悲観せず、家族はどうしたら生きられるのかと可能性をさがす。私はこの二作を通じて、デプレシャン監督の目指そうとしている高みを感じていた。試練とは、乗り越えられる人間のもとにおとずれることであり、試練を越えたさきにはさらに大きく、偉大な存在になってゆく輝きを秘めているのだと。だから私はデプレシャン監督の希望に溢れたこの一節がとても好きだ。
「『キングス&クイーン』では、男女のすべてを逆にしました。男の子(イスマエル)はいままでに恐ろしい経験をしたことがなく、いつもブツブツと不平を言っています。しかし女の子(ノラ)は、最低のことが次々と起きているのに決して泣き言を言わないのです。本当に恐ろしいこと、最悪な生活を知っている女の子は、すべてがうまくいくように、すべてが太陽で輝くようにする力強さを持っているのです」(※2)と。

『イスマエルの亡霊たち』でも、デプレシャン監督の、登場人物にそそがれる希望のまなざしは変わらない。「交際するのは既婚者ばかり。それに私には障害をもった弟ジョゼフがいる。だからこどもは持たないわ」——人生の傍観者として生き、愛すること(傷つくこと)を恐れていたシルヴィアが、イスマエルとのこどもを授かることにより、本当の意味で自分の人生を享受し、歩もうとしてゆく。その姿は、私の瞳にとても感動的に映った。
 人生は多くの困難や恐れがある。しかし、それらの感情やできごとは、常にあなたを人間としての高みへと導く通過点にすぎない。『キングス&クイーン』でイスマエルが「想像するよりもっと刺激的で意外なのが人生なのだから」と言っているように。デプレシャン監督は映画を通じて、私たちに人生の輝きを語りかけてくれる。
 最後にマチュー・アマルリックが述べていた、とても美しいことばでこの文章を結びたい。
「アルノーとの撮影は本当に楽しいし刺激的だ。刺激的以上だよ。それは世界と人生との感じ方を変えてくれるんだ。ものごとや人生に対する喜びを与えてくれる。人々や世界、ものごとに対する意欲を十倍にしてくれる。きっとこれからもそうだ。美しいプレゼントだよね」(※3)。

*1:『すべては映画のために! アルノー・デプレシャン発言集』『キングス&クイーン』シナリオ・ブックのために書かれた序文 P11より 福崎裕子氏訳
*2:『すべては映画のために! アルノー・デプレシャン発言集』第2章 アルノーデプレシャン、映画を語る P59より
*3:「nobody」issue34 P13 取材・構成:結城秀勇氏

(text:藤野みさき)


『イスマエルの亡霊たち』
Les Fantômes d'Ismaël /Ismael’s Ghosts フランス語 | 2017年 フランス | 135分(ディレクターズ・カット版) カラー

◉ 作品解説

撮影入り直前、死んだと思われていた前妻が姿を現す…。

A・デプレシャン監督の新作は、期せずして奇妙な三角関係に陥った映画監督の日常と、彼の創造する映画とがモザイク状に組み合わさった愛のドラマである。若き外交官のイヴァンは世界中を飛び回るが、その意味を理解していない。イヴァンの物語を映画にするイスマエルは、自分の人生の意味を理解していない。死んだと思っていた妻が20年ぶりに帰ってきたのだから。イスマエルは動揺し、執筆する脚本も混乱していくが、それでも物語の断片をひとつにしようともがく…。
デプレシャン監督はひとつひとつのシークエンスに力を込め、その繋がりよりも全体の強度に重きを置き、いくつかの死の形を通じて強く生を肯定する。マチュー・アマルリック、シャルロット・ゲンズブール、マリオン・コティヤールら人気俳優の共演もさることながら、虚実のコラージュから紡がれる命の実感を堪能したい。カンヌ映画祭のオープニング作品(カンヌでは114分の短縮バージョンが上映されたが、TIFFでは134分の「ディレクターズ版」を上映)。

出演
マチュー・アマルリック
マリオン・コティヤール
シャルロット・ゲンズブール
ルイ・ガレル
アルバ・ロルヴァケル
ラースロー・サボー
イポリット・ジラルド
ジャック・ノロ

スタッフ
監督/脚本 : アルノー・デプレシャン
脚本 : ジュリー・ペール
脚本 : レア・ミシウス
撮影監督 : イリナ・ルブチャンスキー
セット・デザイン : トマ・バクニ
プロデューサー : パスカル・コーシュトゥー
プロデューサー : ヴァンサン・マラヴァル

第30回東京国際映画祭
期間:2017年10月25日(水)〜11月3日(金・祝)※会期終了
会場:六本木ヒルズ、EXシアター六本木(港区)ほか都内の各劇場および施設・ホール
公式ホームページ:http://2017.tiff-jp.net/ja/

本年度の第31回東京国際映画祭は、2018年10月25日(木)~11月3日(土・祝)に開催決定!

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino

1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。昨年の終わりより休養に時間をあてているので、本年は無理をせず、大好きな映画とともに、自分を大切にすることが目標です。
そして、このたび、敬愛するアルノー・デプレシャン監督の記事を執筆できたことを本当に嬉しく思っています。

Twitter:@cherrytree813

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2018年3月17日土曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『ジョニーは行方不明』評 text 井河澤智子

「あたたかな孤独」


「都会の孤独」なる紋切り型の言い回しは、その抽象性ゆえどのような器にもつるりと入り込む。不安感。断絶。「都会の孤独」ということばは、ひんやりとした感触を内包しがちであったのではないか。エドワード・ヤン『恐怖分子』(1986)ツァイ・ミンリャン『愛情萬歳』(1994)などが思い浮かぶ。勿論、詳しい方におかれましては別の作品の方が例として適切というご意見もおありでしょう。

台湾からコンペに出品された『ジョニーは行方不明』の監督ホァン・シーは、まさしく台湾ニューシネマの中心人物ホウ・シャオシェンの弟子筋にあたる。作品のトーンは全くもって「ああホウ・シャオシェンだ」と納得せざるをえない。人物ひとりひとりが緩やかに、柔らかに、有機的な細い糸で繋がりつつ、暮らしている。その様子は、劇中で映し出されるMRTの交差のようでもあり--ちょうどホウ・シャオシェン『珈琲時光』(2003)で映し出された東京の入り組んだ線路をも思わせる--ラストシーンでどんどん引いていくカメラに映し出される、夕暮れ時の混雑した高速道路の合流や分岐のようでもある。
台北のアパートの中で繰り広げられる人々の関わりは、まるでそんな駅と駅のような、道路の交差のような、点と点との緩やかな繋がりを思わせる。
生活とは、細く繋がる連続性である。その人個人の、あるいはその人をとりまく、複雑に絡まる連続性である。


エンストした赤いスズキを放置してMRTに駆け込んだ青年は一体どこへ向かっていたのか。電車の中でいきなり女性に話しかける少年は何者なのか。少年と女性が2人が同じ駅で降り夜道を同じ方向に延々歩き、住宅街の同じ建物に入った理由は何か。次第に物語は進み、この3人は実ははじめの場面から同じ空間を共有していたということがわかってくる。彼らが抱えている事情も、関わりの中で少しずつ紐解かれてくる。それらの映像は、「誰も見ていないものは見せない」というルールに従うかのように、明かされることは明かされるべくして明かされ、知らされないことは我々はもちろんスクリーンの中の誰も知ることはない。全てを超越した視点は存在しない。その切り取り方は見事である。
思えば、「すべてが初めから明らかである」という人物などそうそうおらず、また、その全てを明かすことなく送る日常、なんていうことはごく普通なのだ。ふと、身近なあの人この人を思い浮かべる。たとえ親しくしていても、実は彼らについて知っていることなんてそんなに多くはない。この映画は、「たとえ身近な人であっても、知らないことは知らない」という、実に当たり前のことをそのまま見せる。その人の全てを知らないということは、わかっていてももどかしい。しかしそのもどかしさを肯定する。

そして、観客に提示されない部分にも物語が流れているということを示すのは、その姿どころか本人の気配すら現れない「ジョニー」という謎の人物と、彼を取り巻く人間関係である。まったく並行して存在する、誰かの生活。
スクリーンにその姿を表す彼らは、携帯電話にかかってくる間違い電話でのみ窺い知れる「ジョニーたちの世界」を知ることはない。けど「知ったような気になっちゃう」と彼女は言う。それを観察するわれわれも同様である。

台北という都会でそれぞれに生きる彼ら。なにかしらの喪失感を抱えている。その欠けた感情を埋める行為は端から見ると少し不思議に感じられることもある。が、しかし、それを柔らかに受け止めるのが「ご近所さん」である。踏み込もうとせず、受け入れる。当たり前のように夕飯を振る舞われ、コンビニの店先で一緒にあぐらをかき「ほろよい」を飲み、問わず語りにポツリポツリと話す。踏み込んでしまったな、と思ったら謝る(ここであえて普段使わない言語で謝る気持ちはわからないでもない)。人と人の距離感が心地よい。
「距離が近すぎると、人は衝突する、愛し方も忘れる」--なんという達観した、そしてやさしい言葉であろうか。決して彼らは断絶していない。たとえ、孤独でも。

孤独。
“loneliness” “lonesome” 少し重なる言葉に“missing”(この映画の英題は『Missing Johnny』、掛言葉的で面白い)。ことばはいろいろなイメージを内包する。“寂しさ” “ひとりぼっち”、そして“恋しい”…… どれも違う。この映画の「孤独」は不思議なほどあたたかい。
“solitude”-「ひとりである(しかし寂しいわけではない)」……これが近いかもしれない。
都会の孤独。この作品の色あざやかな、なめらかな映像に彩られた孤独。

孤独は意外なほど、あたたかい。

(text: 井河澤智子)




『ジョニーは行方不明』
Missing Johnny / 強尼・凱克
台湾 / 2017 / 105分

監督:ホァン・シー(HUANG Xi)

出演:リマ・ジダン
   クー・ユールン
   ホァン・ユエン

作品紹介
同じ男あての間違い電話を何度も受けた若い女性は、次第にこの男のことが気になってくる。やがてインコの失踪を契機に、彼女の思いがけぬ過去が明らかに……。ホウ・シャオシェンのアシスタントを務めたホァン・シーの監督デビュー作。台北映画祭で4賞を受賞。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/competition/fc05


〈第18回東京フィルメックス〉



■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)※会期終了

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

映画祭の季節は脳みそがオーバーヒートしてしまいます。
そのまま不安定な日常に戻ると大寒波が待っていました。
湯豆腐と化した脳みそが一気に凍み豆腐となり、
私は身の回り最低限のことしかこなせなくなっていました。

というわけでフィルメックス上映作品レビューがこんな時期になってしまった!

どうでもいいですけど、
クー・ユールンが出ていると無条件に安心してしまいます。
しかし私は彼の名前がどうしても覚えられなかったのです。
「ルンルン」と呼べばいい、ということを最近知りました。
ルンルン!もうわすれないぞ!

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