2018年12月21日金曜日

映画『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』評text成宮 秋祥

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』に見る成瀬巳喜男の面影

 
感動は、後からついてくる。
 多くの場合、映画は感情を揺さぶる役割を担っている。映画を観始めてから、終わるまで、人は、その映画から無数の感情を引き出される。劇場を去る頃には、ある種の満足感を感じていることだろう。
 しかし、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、観ている間ずっと何かしらの感情が揺さぶられることはなかった。どちらかというと、ストーリーがどこに進んでいくのか、そこにばかり気を取られてしまい、映画が終わった瞬間には、まるで映画そのものから突き放されてしまったような途方もない状態だった。
 この映画を観て、感動したところはいったい何だったのだろうか? 実は、何も感動なんてしていなかったのかもしれない。何かしら、感情を揺さぶられるような場面を一切用意していなかったのかもしれない。では、この映画は失敗作だったのか? 決して、そうではない。
 鑑賞してから、数日が経過していくと、少しずつだが映画のイメージを思い出すようになった。そして、映画のストーリーが頭の中で何度も繰り返し映写されていき、暗い街に灯がともるように、映画を観ていた時に感じていた無数の感情を、今になって感じ始めたのである。まるで、失われた記憶を取り戻していくような独特な感覚を体験した。
 このような体験は、実は他にもある。成瀬巳喜男の『乱れる』(1964)で似たような体験をしたことがある。高峰秀子が演じる主人公は、加山雄三が演じる義弟に愛を告白されるが、亡夫のことが忘れられず、最終的には拒んでしまう。その夜、酒場で飲んだくれた加山は、電話で高峰に別れを告げる。翌朝、高峰は町人から加山が事故で死んだことを知らされる。運ばれていく加山の遺体を呆然とした表情で眺める高峰の顔を写したカットを最後に映画は唐突に幕を下ろしてしまう。
『乱れる』は、ある男女の許されぬ恋愛を描いている。そのため、この男女が愛し合い、憎み合い、付き添ったり、離れたりを繰り返していく過程を見守りつつ、最終的に結ばれるのか、それとも別れるのかを我々は目撃して、その間に感じていた感情に一応の決着をつけるのである。
 しかし、加山が死ぬ場面すら映さず唐突に死んでしまうので、我々はここにいたるまでの間に感じていた無数の感情を見いだせぬまま、劇中の高峰のようにただ呆然とすることしかできない。すると何か納得できない気持ちが起きて、この映画を観て感じていた無数の感情を、まるでなかったかのように記憶から忘れ去ってしまい、さもあの映画は何だったろうか? 何を描いた映画だったのだろうか? と自らに聞き返してしまうのだ。
 それでも、やはり数日も経てば、我々は『乱れる』が、ある男女の許されぬ恋愛の果てに待ち受ける悲劇を描いた映画なのだと納得するにいたる。それは例えば、気にかけていた義弟の加山を一人の男として認識してしまった高峰の心の揺れ動きや、高峰の愛欲しさに放蕩息子をやめて真面目に働こうとする加山の変化が、頭の中で何度も繰り返し映写されたことで、改めてその時に味わった無数の感情を思い出し、この二人の恋愛の果てには、逃げ場のない悲劇が待っていたことを、ようやく理解したためである。
 あまりに良い映画だったからこそ、『乱れる』のこの唐突な幕切れは大きなショックだったのだ。実のところ、このまま終わらなければいいという密かな思いを抱くほど、ストーリーにも映像にもどっぷりはまって観ていたのに、それが絶たれてしまった時の物悲しさが、映画を観ていた時に感じていたはずの感情を忘れさせていたのかもしれない。
 そういう意味でいえば、『乱れる』は観る者の心を打つ素晴らしく良い映画である。だからこそ、これと似た体験をした『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』も紛れもない素晴らしく良い映画であったといえる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』のストーリーはいたって単純である。
アメリカの田舎町にある一軒家に一組の夫婦が住んでいた。作曲家の夫C(ケイシー・アフレック)はこの家を気に入っていたが、妻M(ルーニー・マーラ)は別に街に移りたがっていた。ある日、Cが事故で亡くなってしまい、Mは悲しみに暮れる。Cは幽霊となってMの元に帰っていくのだが……。
 この映画は、幽霊を描いた映画である、と同時に、変化を望まない男と変化を望む女の愛と確執を描いた映画でもある。Mを愛するCは、幽霊となってC自身が気に入っていた家で悲しみに沈むMに寄り添い続ける。幽霊となったCの役割は、Mへの愛と、家への思いを守り続けることである。反対にいえば、この二つがCに残っているからこそ、幽霊で在り続けているのだといえる。
 しかし、変化を望むMはいつまでも悲しみ続けてはいられない。ある日、新しい恋人と出会った彼女は、壁の隙間に手紙を残して家を出ていってしまう。家に取り残されたCはただひたすら虚しく時間が過ぎていくのを待つことになる。
 ここで幽霊となったCの役割の一つであるMへの愛を守り続けることができなくなってしまった。もう一つの役割である家への思いを守ることも居住者が何度も移り変わっていく光景を目の当たりにし、次第に虚しさを感じ始めていく。
 いわゆる超常現象的な描写には、Cの苛立ちや怒りの感情が混在していると思われる。
例えば、新たに居住してきたヒスパニック系一家の団らんの席でCは心乱れたようにキッチンの食器類を破壊してまわる。ヒスパニック系一家の視点からすれば、超常現象による恐怖体験をしたと感じるだろうが、Cの視点からすれば、自分とMだけの家に別の居住者がいるという事実に対する苛立ちと怒りの感情が伝わってくる。しかし、Cの元にMが戻ってくることはない。居住者は変わり続け、時間はどんどん過ぎていき、やがて家は取り壊されてしまう。ついに家をなくしたCは幽霊となって果たすべき役割を全て失い、完全なる空虚感を味わう。
 愛するMと家を失ったCは、次第に時空を飛び越え、未来に、過去に、飛んでいき、そして再び現代に、CとMが家に住み始めた頃に飛んでいく。
 この時間旅行の場面は、Mと家という自分の心の拠り所を失ったCがあてもなく時間の流れをさまよっていくという悲しい場面に見える。しかし、Mと家を守ろうとしていたCは、Mと家に対する思いに自ら囚われていたともとれて、見方を変えれば、彼は自分自身の思いから自由になったとも見える。幽霊という特殊な存在になっても、時間の流れには逆らえないという現実的な残酷さが彼の思いを壊し、同時にその思いから解き放ったともいえる。
 CとMが家に住み始めた頃の時代に戻った幽霊は、まるでお別れでもするかのように、じっくりと静かに二人の様子を見守っていく。幽霊にとって、二人が過ごす日々は、かけがえのない思い出そのものである。その全てを再確認した時、彼はMが壁の隙間に隠した手紙を取り出し、読み上げ、消えていってしまう――映画はここで終わる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』と、冒頭で紹介した『乱れる』の結末には、決定的な違いがある。
『乱れる』は、加山雄三という男の死によって終わる映画だ。そして加山が死んだことで、我々は加山の遺体の前で呆然と立ち尽くす高峰秀子と同じように、加山の唐突な最期を理解しきれないまま、複雑な思いを体験することになる。その後になって、じわじわと、加山が死んだことで、高峰と加山の男女の関係が完全に終わってしまったことを理解し、『乱れる』が真に悲劇的な映画だったことを受け入れざるを得なくなる。
反対に、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、Cという男の死によって始まる映画である。死んだCが幽霊となって愛するMと家に対する思いに囚われ、執着しながらも、やがて解き放たれ、そして自らの思いに決着をつけることで、幕を下ろしている。この幽霊の消失と、『乱れる』の加山の死とは意味合いが異なる。加山の死は、高峰との関係性の完全な断絶を意味する。だからこそ、悲劇的なのである。しかし、幽霊の消失には、多様な可能性を見出すことが可能である。悲しみの視点で見れば、無に帰ったかもしれないと捉えることも可能だが、前向きな視点で見れば、新しい命として生まれ変わっていったのかもしれないと捉えることも可能である。
 だからこそ、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、悲劇的なストーリーであると同時に、多様な可能性を見出すことが可能な素晴らしく感動的なストーリーである――という事実を、我々は時の流れとともに理解していくだろう。

(text:成宮秋祥


『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー
2017年/アメリカ/92分

監督/脚本/編集:デビッド・ロウリー
撮影:アンドリュー・D・パレルモ

キャスト:ケイシー・アフレック
     ルーニー・マーラ

公式ホームページ:http://www.ags-movie.jp/

劇場情報:新宿シネマカリテ他にて上映中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥(Akihiro Narimiya)

映画好きです。職業は介護福祉士です。映画ライターもしています。ことばの映画館、neoneo web、THE RIVERなどに寄稿しています。 2017年まで映画オフ会、映画を語る会を主催してました。

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