2016年9月30日金曜日

映画『過激派オペラ』江本純子監督インタビューtext大久保 渉

 (interview:大久保 渉、井河澤 智子)

(c)2016キングレコード 


「女たちが繰り広げる15分に1度の剥き出しの愛――」

2016年10月1日(土)よりテアトル新宿にて映画『過激派オペラ』がレイトショー上映される。

2000年に劇団「毛皮族」を旗揚げして以来、国内外でセンセーショナルな作品を発表し続ける演劇界の鬼才・江本純子が自著『股間』を映画化した衝撃作。

とある劇団の旗揚げ公演と、その成功に懸けた女優たちのひとときを熱く切り取った、狂おしいほどの愛とエロスが詰まった青春が描かれる。

主演の早織と中村有沙が激しく絡み合うベッドシーン。全身で水を浴びながら声高に演じ続ける女優たち。肩を寄せ合い、喧嘩して、抱きしめあって、ぶん殴り、魂と魂をぶつけあう、女と女の、うら若い女たちの青春群像劇。

そんな嵐のような映画に心がかき乱された数日後、朝から恐ろしいほど強い風が吹き荒れる台風の中、8月某日、江本純子監督にインタビューをさせてもらった。

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現場で生まれるもの、このキャストで生まれるものを大切にしたい

(c)2016キングレコード

――まず、本作の製作に至る経緯を教えてください。


まず初めに、私の小説『股間』を気にいって下さったプロデューサーから、映画化に向けた監督のオファーが私の元に届きました。それから、脚本家の吉川菜美さんと二人で脚本を書き始めました。

――吉川さんとの共同脚本はいかがでしたか?

吉川さんが作ったプロットに対して私が手をいれて、崩壊させて、それをまた吉川さんが立て直してと、もう何回戻し合いをすればいいんだっていうくらいお互いに手を加えながら進めていきました。

――企画から撮影まで、どのくらいの時間がかかりましたか?

企画から公開までが四年。だから、撮影までが三年。企画の作業が長かったですね。そのうちの1年くらいはキャスティングをしていました。キャスティングと脚本の直しを並行して進めていく中で「主演が見つからない」ということで、オーディションをはじめました。

――初めから主演が決まっていたわけではないんですね。

そうですね。オーディションで出会ったのが、早織さん、中村有沙さん、そして今中菜津美さん、平野鈴さんです。

――役者を選ぶ基準は何かありましたか?

もともと募集の段階で「ヌードがどこまでOKか」という聞き取りがありました。

芝居はできるけどヌードに条件があるって人はたくさんいましたし、ヌードに関してのNGはないけど芝居が下手っていう人もいました。「何でもやります!」って人は変な人も多くて(苦笑)。

その中でも、早織さん、中村さんに関しては、お芝居の話ができそうだと、俳優として信頼できそうな人格を感じました。

(c)2016キングレコード 

――現場で脚本を変えた部分があったと聞きましたが、それはどういったところですか?

キャストが決まって、何回かリハーサルをやっていきながら、やっぱり現場で生まれるもの、このキャストで生まれるものっていうのを大切にしたくなりました。それで、脚本にあったセリフや細かい動作的なこと、行動的なことは現場で結構変えていきました。

――出演者と作り上げていく感じか、自分のイメージに寄せてもらう感じか? 江本監督の演出はどういったものだったんでしょうか?

リハーサルに入った時に、まずは脚本通りのことをやって下さろうとするキャストに「脚本のことは忘れて下さい」と言いました。

例えば稽古場のシーンのリハーサルでは、私は「このシーンをやってみましょう」とひとこと言うだけです。あとは、キャストそれぞれに、その時間の過ごし方を任せます。

脚本上起こることになっている出来事に近づくまで、無理に言葉を発さなくてよいし、そのとき思ったように行動すればよい。だから、脚本上に書かれている出来事に近づかないことはしょっちゅうです。

脚本に書かれていることがそのまま起こらなくても、それぞれのキャストがそこで得た心境で、その場を過ごすことによって生まれていく関係性や言葉があります。新しい行動も生まれます。脚本通りにやることよりも、こういうリハーサルを経て俳優から生まれた態度や意思の方を大事にしたシーンは多いです。

この映画をつくる上で、決められた行動を「演技の形」にしたものを撮るだけで成立するのだろうかと考えていました。私はドラマっぽいものを撮りたいわけではないので、それよりも「演技の形」になりえないくらい無防備な人間の姿と、生々しい状態を撮りたいと思いました。

主人公・重信ナオコを演じる早織 (c)2016キングレコード

――撮影だけでいうと、どのくらいの期間でしたか?


11日です。2015年の夏に撮影しました。誰かが脱ぐとか、誰かしらのラブシーンが一日一回以上あって、それ以外にも喧嘩だ踊りだ放水だ白塗りだと、とにかく毎日盛り沢山でした。

――カメラを回してからOKまでは早かったですか?

スケジュールがタイトだったので、助監督から「OKだせ!」みたいな圧力をすごく感じて(笑) でも、私はまだまだOKをだしたくないんだけど……という気持ちとの戦いの中、苦渋のOKみたいなことは結構ありました。

ただ、私は編集という時間を知らないでやっていたので、その時に起こったことだけで判断していました。「目の前で起こっている時間」を見ることはただの演劇で、その先にまだ演出の続きがあること、その感覚には慣れていなかったんです。

――それは実際に映画を演出してみて感じた舞台演出との違いということでしょうか?

そうですね。違いですね。芝居のよしあしは主観的な判断で行うから「もっとよくなるんじゃないか」と悩ましくなってしまいますが、編集のことを計算しての画のよしあしは、もっと客観的な判断で「ありかなしか」がハッキリするから、苦渋ではなく「即決」できるようになるのかな、とも思いました。

――編集後の映像を実際に見たご自身の感想は?

なんとかなるんだなって(笑)でも、本当に現場で時間をかける部分っていうのはやっぱり編集のための画づくりだったんじゃないかと思いました。カメラテストにはもっと時間をかけてみたかったなと。

――現場ではカメラを頻繁に覗かれましたか?

もちろん現場であれこれ位置や見え方について言っていたんですけど、でも、自分がよしあしを言うのって、結局主観的なことでしか言ってないんです。

こっちよりも、この角度にして欲しいのは、こっちの方が「好き」だから、という理由です。そこは客観的に、編集にとっての確信的な理由を言えるようになりたいな、と思います。

人間のエネルギーというか、彼女たちの発するものを伝えたい

劇団の主演女優・岡高春を演じる中村有沙 (c)2016キングレコード

――小説『股間』と本作の脚本にはどのような違いがありますか?

小説内では何回か公演をするのですが、ただそれを映画で繰り返しやってしまうと脚本の構成上、惰性的というか、ダラダラしちゃうということがあったので、ひとつの公演に向けて走って、それで崩れて、という話になりました。

――小説内では主人公の日常生活、つまりはお金を稼ぐだとか母親と喧嘩をするなどの描写も載っていましたが、映画の中ではそこら辺が割と省かれていたように見受けられました。

決定稿直前のシナリオは、サラ金でお金を借りるエピソードも入っていました。それで決定稿になるまでに、ナオの生活要素の説明としては多いって理由で切ったんだと思います。さらに現場に入って、もっと切ってもいいんじゃないかなと感じました。

人間のエネルギーというか、彼女たちの発するものが現場でもどんどん大きくなっていったので、それをしっかりと捉えていければ、この映画は成立するんじゃないかとまで思って。そうするとお金のことを描いた部分がとってつけたようなドラマに感じてしまったんです。

編集のときにも、遠藤留奈さん演じる里奈にお金を借りるシーンをカットして、ただセックスした二人として描くべきか最後まで悩みましたが、残しました。

人と人が交わる、人間観なのか、人間関係観なのか

(c)2016キングレコード

――劇中劇として、『過激派オペラ』等舞台のシーンが出てきますが、その脚本は江本監督ご自身が書かれたんですか?

そうですね。そこだけはプロデューサーも吉川さんも全然立ち入ってこなくて、完全に任されました。

ただ、『過激派オペラ』のプロットについては一発でOKになりましたが、『花魁ゲリラ』の方は二、三回書き直しました。それは、道具が集まらないって理由で。

――それは劇中でも問題になった「くまのぬいぐるみ」とか?

そうですね(笑)あとは、ロボットレストランのロボットを登場させようって方向で書いていた時もありましたが、借りることができなかったので、それで筋を変えたりもしました。

――劇中劇は、実際にどちらも上演できる状態で書かれていたということですか?

『過激派オペラ』も『花魁ゲリラ』も、そうですね、上演はできると思います。映画では部分的にしかやっていませんが、プロットはあるので。

でも、舞台のシーンに関しては、もう少し時間が欲しかったかなというのが正直なところです。

――もっと舞台用の演出をつけたかった?

そうですね。ダンスもぐだっとしている部分があるし、あとは芝居ももっとこうした方がいいなとか、作品レベルで考えてしまう。でも、主人公たちは初めてやる公演だから、経験はそんなにないっていうところで自分を納得させたっていう感じです。

そもそも、あの劇中劇が存在する意味は、舞台のクオリティとは関係のないところにあるので、こだわらなくてよいとはわかっているのですが、それでも(笑)。

――ナオコにしろ、春にしろ、舞台の成功に向けて気持ちと気持ちをぶつけ合う劇団員たちの努力や結束、関係性が、あの上演シーンでより表出されていたように感じられました。

劇団ならではの関係っていうのは、家族でもないし、恋愛でもないし、それぞれ関わっている俳優がいて、本当に嫉妬し合うとか、良い時は良い関係だし。だから、ナオと春の関係も果たして「恋愛」というだけのものだったのか、そこは疑問だなって思う部分もあります。

それはただ単純に、一緒に作品をつくるっていうだけの話だったんじゃないかなって思うんです。「恋愛」って言葉だけでは表現できないと言いますか。

人と人とが関わる、なんていうんですか、それを何観というのかは分からないんですけど、人間観なのか、人間関係観なのか、本作にあるのは、そういったものなのかもしれません。

セックスも熱情の一部として、ほとばしるエネルギーの先にあるものとして、必要なのではないか

(c)2016キングレコード

――二人の女性が裸で肌を寄せ合うスチール写真にも見られますが、セックスシーンの、まさぐりあう女性の姿が印象的でした。

私自身は、正直、セックスを撮りたくてこの映画をつくったわけではないので、だから濡れ場はなくてもいいんじゃないのかっていうことはずーっと考えていました。

ただ、この物語の中での「裸」っていうものには意味があるのかなとは思っています。セックスも熱情の一部にすぎないというか、セックス目的のセックスではなくて、ほとばしるエネルギーの先にあるものとして必要なんじゃないのかなと。

私はエロいものを作りたいわけでも見せたいわけでもないし、エロと名付けられてしまう表現に関してはちょっと慎重でいたいんです。

――ためらいを感じると?

どちらかと言うと、私自身はそういうシーンは苦手なので。

だから、本作の濡れ場とか、編集していても結構大変でしたね。本当は、私、笑いのことばっかりをやりたいので。

だから、セックスシーンも笑えるものじゃなきゃ嫌だって言って撮っていましたね。ゲップが出そうなセックスシーンは撮らないようにと。

――試写会場でも、いくつかのセックスシーンでは観客席から笑い声が上がっていました(笑)

セックスを使ったコントになったらいい、と思いながら撮っていました。結果的に、そこに、人間の可笑しみが出ればいいじゃないですか。 


(c)2016キングレコード


――『過激派オペラ』というタイトルはすぐに決まったんですか?

試写の0号かな? その直前まで決まっていなかったような(笑)

――それまではどんなタイトルが候補にあったんですか?

『コカン』。カタカナでコカン。だから、江本組のコカンですよ。スタッフさんたちも名を名乗るときは「コカンの⚪︎⚪︎です」とか。これ、どう考えても変えた方がいいんだろうなって。

最終的には、これは『過激派オペラ』という劇の公演に集まった若者たちのすがたを描いたお話なので、何が一番この映画のタイトルに相応しいのかなと考えて、『過激派オペラ』に決まりました。

――撮り終えて早々ですが、次回作の予定は何か決まっていますか?

今のところはありませんが、撮れるものなら撮りたいです。

でもスタッフさんには、私の要望を聞いてもらうときの切り札として「私は二度と撮れないかもしれないんで!」って泣き落としみたいに言って説得していたので、それが嘘になってしまいすが(笑)。

もちろんそのときは本気で「これは一生に一本かもしれない」と思ってやっていましたが、これからまた撮りたいなって気持ちは強くあります。もっと勉強したいな、面白いなって。

――映画の成り立ちから撮影現場の風景まで、様々なお話を本当にありがとうございました。それでは、最後に、これから『過激派オペラ』をご覧になられる皆さまに向けて、一言いただいてもよろしいですか?

ポスターを含めて、過激なイメージが強いかもしれませんが、そんな圧力には負けずに、観に来て欲しいなと思っています。

こんな映画は「二度と撮れないかもしれないんで!」


(文・構成:大久保渉/取材:大久保渉、井河澤智子)





『過激派オペラ』 
2016年/90分/日本

作品解説
2000年に劇団「毛皮族」を旗揚げして以来、国内外でセンセーショナルな作品を発表し続ける演劇界の奇才・江本純子が、自伝的小説『股間』を遂に映画化。 舞台演出で培われた演出方法は細部にまで行き届き、スクリーン狭しと表現される過激な表現に圧倒させられずにはいられない、初監督作とは思えない圧巻のデビューとなった。そして、かつて見たことのない衝撃的な愛の表現により本作は幕を開ける―。

“女たらし”の女演出家・重信ナオコが、一人の女優・岡高春と出会い、劇団「毛布教」を立ち上げ、成功し挫折していく様を、辛辣にときにユーモラスに描く。二人の女性の出会いと別れの物語であり、狂熱的な主人公を取り囲む女優たちの嫉妬や欲望、剥き出しの感情が交錯する青春群像劇となっている。『百円の恋』の早織と、『ゾンビアス』の中村有沙のダブル主演。2人の感情も肉体も全て剥き出した演技がこの作品を一層本気に仕上げている。

キャスト
重信ナオコ:早織
岡高 春:中村有沙
出水 幸:桜井ユキ
工藤岳美:森田涼花
寺山田文子:佐久間麻由
麿角桃実:後藤ユウミ
松井はつね:石橋穂乃香
三浦ふみ:今中菜津美

スタッフ
監督:江本純子
製作:重村博文
プロデューサー:梅川治男、山口幸彦
原作:江本純子『股間』リトルモア刊
脚本:吉川菜美、江本純子
音楽:原田智英

配給
日本出版販売

劇場情報
10/1(土)よりテアトル新宿 他にて全国順次公開

(c)2016キングレコード

公式サイト
http://kagekihaopera.com


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【執筆者プロフィール】 


大久保 渉 Wataru Okubo 

ライター・編集者・映画宣伝。フリーで色々。執筆・編集「映画芸術」「ことばの映画館」「neoneo」「FILMAGA」ほか。東京ろう映画祭スタッフほか。邦画とインド映画を応援中。でも米も仏も何でも好き。BLANKEY JET CITYの『水色』が好き。桃と味噌汁が好き。
Twitterアカウント:@OkuboWataru

井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

元図書館員。セミナー影ナレ・会議司会・選挙ウグイス・謎のアプリ声優・婚礼司会(修業中)など、こっそりと声の仕事をしつつ、映画との関わりを模索中。

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映画『過激派オペラ』評text 井河澤 智子

「劇団」という閉じられたコミューンの、栄枯盛衰。
同じ酒を酌み交わし、共に泣き、笑い、同じ目標に邁進する。構成員は全員若い女性。
というと一見ピースフルな関係性を思い描くが、とんでもない。

その小さな小さな共同体は、野心と自己顕示欲と嫉妬がささやかな規模でうごめくカオスであった。もちろん当人たちにとってはちっともささやかなものではない。
そして、その閉じられたコミューンを率いるリーダーは、もっと大きな社会に打って出ようという「革命精神」を持っていた。自分は、この劇団を率いて、名を挙げたい。

(c)2016キングレコード

このコミューン、劇団の主宰である重信ナオコは、重たい眼光と威圧感をもってそこに佇む。
劇団という、明確なヒエラルキーがある集団では、リーダーの意向は絶対である。劇団員は常にナオコの顔色を伺い、気に触らないよう細心の注意を払う。
劇団員はナオコに何かを語りかける時、その圧力にまず怯える。そして、語りかける。ナオコは視線を重たげに向け、数秒黙り……そして返事する。あっさりと。軽く。「いいよ〜」「は〜い」。
存在感の重さと、軽い口調のギャップ。おそらく、その数秒の間、語りかけた劇団員の気持ちは緊張感で張り詰めていたのではないか。それが一気にほぐれていく。ああ、受け入れられた。存在そのものが飴と鞭のようなナオコ。「女たらし」。
とはいえ、若い女性しか存在しないコミューンにおいては、男も女もない。ジェンダーは無意味だ。女たらし、というより、人たらし。
そんなナオコの前に、岡高春が現れる。ただの女優ではなく、本気で主演女優になりたい、と公言する野心の塊。
春は、かつての交際相手と思われる、かつての所属劇団の主宰である男に、こう言い放つ。

「お前よりこの人のほうが才能あるんだよ」。

この言葉を聞いてときめかない劇団主宰はいるだろうか。ナオコはまんまと春にたらし込まれるのである。あるいは、春を見出した自分の目に狂いはなかった、と満足しただろうか。春をたらし込むことに成功した、と思っただろうか。
お互いが自らの心理的欲求を満たし合う関係性がここに成立した。あとは肉体的欲求を満たすだけである。それは熱量を持て余す者たちには不可欠であった。

劇団主宰者と主演女優という、お互いの作品に欠かせないふたりの間にあったのは、恋愛感情だったのだろうか。むしろ、狭い世間の最上位にある者同士、一目置かれる必要性があったのではないだろうか。私たち付き合ってます。そう言えば他の劇団員も納得する。主演は春である、ということに。
彼女たちの生態は劇団の中で全て完結している。「食うこと、眠ること」それらの描写が削ぎ落とされているために、その「愛に満ちた生活」のようなものは現実離れした、まるでファンタジーとしか思えないものとして描かれる。
「生活」は、演劇に全てを捧げた彼女たちのおまけなのだ。

「食うこと、眠ること」がほとんど描かれないのと対照的に、「セックス」の描写は驚くほど多い。これは、食と睡眠は個人のものだが、対してセックスはコミュニケーション、という理由もあるのかもしれない。ナオコは交際相手の春のみにとどまらず、劇団員の多くを、そのカラダで籠絡する。のみならず、彼女のセックスは、現実に劇団を維持するために必要な「場所」や「カネ」をも引きずり出す。セックスは有り余る熱量をぶつける行為、そして、必要なものをつなぎとめる行為でもあるのだ。

(c)2016キングレコード

ナオコの劇団の旗揚げは、その界隈に衝撃を与えた。それ自体は彼女たちにとって喜ばしいことだ。同時に、彼女たちの閉じられた社会に、外部から介入する者も現れる。
結界に、綻びが生じた。
客演を迎えての次回公演。迎えられたのは、より名のある劇団の女優である、と思われる。
彼女によって、それまでの劇団の秩序は見事に破壊される。

上下関係に混乱が生じるとこれほど脆いものなのだろうか。絶対的な存在であったナオコがその地位をあっさりと開け渡したことにより、これほどの阿鼻叫喚に陥るものなのか。
ナオコ自身は「地位を開け渡した」とは思っていないかもしれない。が、確実に彼女の重みはなくなっていった。客演女優、ゆり恵の女王然とした振る舞いに、完全に飲み込まれていた。
それまで共に過ごしてきた劇団員の扱いはナオコの中で軽くなる。一応女優であり、それなりの自己顕示欲を持ち合わせているであろう劇団員たちはナオコをこちらに向かせようとあらゆる手を尽くす。泣く、喚く。まるで子どものように。
しかしナオコは完全にゆり恵に振り回されていた。春ですら愛想をつかすほど。
いや、春は「自分を重く扱ってくれない劇団主宰」に対して愛想をつかしたのかもしれない。

どんなに閉じられた社会でも、外部と関わろうとする時、必要なのは「カネ」である。その描写は当初徹底して排除されていたが、いよいよ万策尽き、決定的なものとしてようやく、現実を見せるように現れる。カネが、ないということについて。
ナオコはそれまで、自らのカラダでそれを引きずり出してきた。人間関係も、自らのカラダでつなぎとめてきた。
しかし、それが通用しない局面にぶつかったのだ。
最後まで彼女の側に残ったのは、彼女と寝ることがなかった劇団員、桃実だったことは、興味深いことである。

(c)2016キングレコード

自らの世界が瓦解した時、必要なことは、自分の知らない世界を見ることなのかもしれない。未知の世界に飛び込むことには恐怖を伴う。
劇団員は既に外へ飛び出していった。最後まで足掻いていたのはナオコ自身だった。しかし、彼女も、自らの、一人とり残された自らの社会から、放り出される時が来た。

打った芝居はたった一本。その高揚感が、彼女を激しく突き動かす。
彼女は、止まぬ演劇への想い、その熱量を、どのように放射するのだろうか。
まだ若い、何者でもない、そしてこれから何者にもなれる可能性を秘めた、「演出家」ナオコは。

さて、これまで筆者は、ナオコたちの劇団を「コミューン」とあらわしてきた。
単に「劇団」でもよかったのである。しかし、筆者はこの映画を観て、この劇団のあり方に、かつての社会運動に近いものを見たのである。例えばヒッピームーヴメント。例えば70年代安保闘争。アンダーグラウンド演劇。
それはタイトルの『過激派オペラ』に引きずられたということは否定しない。しかし、主人公の名前が「重信ナオコ」であるということや、作中で上演される芝居、そして、彼女たちの関係性の持ち方に、筆者も知らぬはずのその時代の空気感を感じたのである。
その時代、共通の思想・文化をもつ自主管理的な共同体を「コミューン」と呼んだという。今も細々とその流れは続いていると聞く。
「セクト」「細胞」それらの言葉も思い浮かんだが、今の時代から見ると、言葉が意味を持ちすぎている。それよりももっと、緩やかで、生活感があり、しかし閉じられた共同体。

この映画は、一人ひとりの人間が交錯する「群像劇」というより、ひとつの「コミューン」の蠢き、死、そして再生を描いているのではないだろうか?

(text:井河澤智子)


『過激派オペラ』
2016年/90分/日本

作品解説
2000年に劇団「毛皮族」を旗揚げして以来、国内外でセンセーショナルな作品を発表し続ける演劇界の奇才・江本純子が、自伝的小説『股間』を遂に映画化。 舞台演出で培われた演出方法は細部にまで行き届き、スクリーン狭しと表現される過激な表現に圧倒させられずにはいられない、初監督作とは思えない圧巻のデビューとなった。そして、かつて見たことのない衝撃的な愛の表現により本作は幕を開ける―。
“女たらし”の女演出家・重信ナオコが、一人の女優・岡高春と出会い、劇団「毛布教」を立ち上げ、成功し挫折していく様を、辛辣にときにユーモラスに描く。二人の女性の出会いと別れの物語であり、狂熱的な主人公を取り囲む女優たちの嫉妬や欲望、剥き出しの感情が交錯する青春群像劇となっている。『百円の恋』の早 織と、『ゾンビアス』の中村有沙のダブル主演。2人の感情も肉体も全て剥き出した演技がこの作品を一層本気に仕上げている。

キャスト
重信ナオコ:早 織
岡高 春:中村有沙
出水 幸:桜井ユキ
工藤岳美:森田涼花
寺山田文子:佐久間麻由
麿角桃実:後藤ユウミ
松井はつね:石橋穂乃香
三浦ふみ:今中菜津美

スタッフ
監督:江本純子
製作:重村博文
プロデューサー:梅川治男、山口幸彦
原作:江本純子『股間』リトルモア刊
脚本:吉川菜美、江本純子
音楽:原田智英

配給
日本出版販売

劇場情報
10/1(土)よりテアトル新宿 他にて全国順次公開

(c)2016キングレコード

公式サイト
http://kagekihaopera.com

2016年9月29日木曜日

10/7(金)より開催!インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2016 text大久保 渉

©Indian Film Festival Japan 2016

ドクドク。ドクリ。胸が高鳴る。身体が反応してしまう。

眩い光を見ると目が細まる、熱にあたると頬が火照るのと同じように。しばし自分という存在を忘れてしまうほど、元は真っ白なスクリーンに映し出された映像に飲みこまれてしまう。

目を見張るほど鍛え抜かれた肉体を、あらん限りの力で躍動させる俳優たち。目が離せなくなるほど可憐な肢体を、たおやかに揺り動かす女優たち。

衣装、舞台美術、ロケーション、特殊効果、そのどれもが日常を飛び越えて、私の心を魅了する。

アクション、コメディ、サスペンス、ラブロマンス……。

絢爛豪華、百花繚乱、落花流水、不撓不屈……。

今年も開催。インド映画の祭典【インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2016】。第5回を迎える今回は、10月7日(金)から10月21日(金)まで、ヒューマントラストシネマ渋谷にて13本の新作インド映画が1日3~4本、2週間限定で公開される(大阪会場/シネ・リーブル:10月8日(土)~10月21日(木)まで)。

とりわけ今年は、ヒンディー映画の2016年上半期興行収入No.1を記録した『エアリフト~緊急空輸~』(16)が目玉作品として大きな注目を集めている。



90年代に起こったクウェートへのイラク軍侵攻。その傍らで、一人のインド人実業家が在住インド人17万5千人の大空輸移送に尽力した実話を基に描く、手に汗握る緊張と興奮と、その勇気に心が奮い立つ感動作。

そしてまた、同じくヒンディー映画の上半期興行収入TOP10に入る話題の4作品も上映される。


『ファン』(16)―「ボリウッド・キング」シャールク・カーンが、自身の投影のようなスーパースターとその狂信的なファンの一人二役を演じたアクション・スリラー。街中を縦横無尽に駆け回る男たちの激しい心と身体が大胆な脚本と演出によって鮮やかに表現される。



『カプール家の家族写真』(16)―インド映画の一大テーマ「家族愛」を、期待の若手監督シャクン・バトラが『スチューデント・オブ・ザ・イヤー』(12)のふたりのスター俳優と豪華出演者陣と共にみずみずしく描く。



その他、実際に起こった航空機ハイジャック事件の犯人と対峙した客室乗務員の勇気を綴ったクライムサスペンス『ニールジャー』(16)、父親とその3人娘とその彼氏たちのせめぎ合いを描いたドタバタコメディ『ハウスフル 3』等、今を彩るインド映画が多数上映される。



そして最後にもうひとつ、巨匠サタジット・レイの息子サンディープ・レイが監督したベンガル映画のラブロマンス『私が恋した泥棒』も、ぜひともお勧めしたい作品である。インド映画史に新たな歴史を刻む一作として、インド映画業界以外からも多大な期待が寄せられている。

今年もヒューマントラストシネマ渋谷の入り口に通じる長いエスカレーターを上がり下がりする間に、どれだけ胸が高鳴ってしまうことだろうか。日常を飛び越えた先にある高揚感が堪らなく心地いい。

みなさまもぜひ、この心が踊る映画体験をご堪能くださいませ。

(text:大久保渉)

インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2016(IFFJ2016)
日本未公開の最新インド映画を上映。インドと日本、両国の人々の交流と友好を深めることを目的とした映画祭。東京会場は、2016年10月7日(金)~10月21日(金)まで、ヒューマントラストシネマ渋谷にて開催。大阪会場は、2016年10月8日(土)~10月21日(金)まで、シネ・リーブル梅田にて開催。

開催期日/場所
東京:10月7日(金)~10月21日(金)/ ヒューマントラストシネマ渋谷
大阪:10月8日(土)~10月21日(金)/シネ・リーブル梅田

公式ホームページ
http://www.indianfilmfestivaljapan.com/index.html

タイムテーブル
http://www.indianfilmfestivaljapan.com/schedule.html

©Indian Film Festival Japan 2016

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【執筆者プロフィール】

大久保渉 Wataru Okubo

1984年、座間市生。映画活動中。ライターとして『ことばの映画館』、『FILMAGA』、『トランシネマWEB』、少しだけ『映画芸術』、その他映画系媒体にて執筆中。SKIPシティ国際Dシネマ映画祭事務局にアシスタント勤務(2016年4~7月)。インディペンデント映画の宣伝チームに参加。その他、KAWASAKIしんゆり映画祭、インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン、各種映画祭にて活動中。
Twitterアカウント:@OkuboWataru

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2016年9月25日日曜日

【特別寄稿】映画『ケンとカズ』評text成宮 秋祥

「 逃れられない友情 」


 今年は邦画が熱い。それは多くの映画人が認めている事だろう。その中でも特に記憶に残る映画に、この夏偶然にも出会ってしまった。それが『ケンとカズ』である。監督を務めた小路紘史は全くの無名であったが、本作のずば抜けた完成度の高さもあって、瞬く間に注目を集める事となった。

 現代社会の裏側で麻薬密売を行う二人の若いチンピラを描いた至極シンプルな物語ながら、観る者が思わず圧倒される緊張感あふれる映像に視線が釘付けとなった。低予算の映画ではありながら、画面に頻繁に描かれる暴力表現が非常にリアルで恐ろしいのだ。登場人物が殴られた時の顔の腫れ具合や血の流れ方が何とも本物らしく見える。これは生々しい音響の臨場感や役者の迫真の演技が関係しているように思う。そして時が止まったか如く、逃れようのない緊張感漂う役者たちの目眩くクローズ・アップの連続に、裏社会に生きる人々の本物のやりとりを疑似体験している感覚に陥る。

 初めはその徹底したリアルな暴力表現や作りこまれた裏社会に生きる人々のやりとりに度肝を抜かれ、物語に集中ができなかったが、次第に明らかになる二人の主人公ケン(カトウシンスケ)とカズ(毎熊克哉)の過去。二人が背負っているもの。お互いに啀み合い、罵倒し合いながらも、離れられず腐れ縁のように繋がり続ける男同士のどうしようなく濃い友情に、目頭が熱くなる。

 この映画の一番良いところは、友情の真実を描いていた事だ。お互いに離れられないからこそ、二人はお互いに助け合い、罵り合い、許し合う。そこに友情の美しさがある。しかし逆を言えば、真の友情とは、その密な関係から逃れられない事を意味する。ケンとカズが背負う重要な何かは、お互いの内に知らぬ間に育まれたその密な関係を引き裂こうとする。それが二人にとっては、言いようもないほど地獄なのだ。そしてその地獄を引きずりながら、映画は怒涛のクライマックスを迎える。演出には情け容赦などない。だからこそ、この映画は一つの悲劇として完成されている。

 一人の無名監督が成し遂げた偉業は、血よりも濃い感動にあふれ、観る者の心を深く突き刺した。

(text:成宮 秋祥)




映画『ケンとカズ』
2016/日本/96分

作品解説
2015年・第28回東京国際映画祭(日本映画スプラッシュ)作品賞を受賞した、20代の新鋭・小路紘史監督の長編デビュー作。
裏社会でしか生きられない男たちの哀しい運命を、現代の社会問題である覚醒剤密売を舞台にリアルに描きだす。ケンとカズの二人は郊外の自動車修理工場を隠れみのに、覚醒剤の密売を行っている。ケンの恋人の早紀が妊娠し、カズは認知症である母を施設に入れる金が必要なことをお互いに言えずにいた。そして敵対グループと手を組み密売ルートを増やしていくが、ヤクザの追い込みもあり二人は次第に追いつめられていく……。

キャスト
ケン:カトウ シンスケ
カズ:毎熊 克哉
早紀:飯島 珠奈
テル:藤原 季節
藤堂:髙野 春樹

スタッフ
監督:小路 紘史
撮影監督:山本 周平

劇場情報
7月30日よりユーロ・スペースにて公開後、全国順次上映中。
関東では、10月8日よりトリウッド、シネマ・ジャック&ベティにて公開予定。

公式ホームページ
http://www.ken-kazu.com/

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点”について語ろう会」主催。その他、最新映画のラジオ・トーク会を定期的に実施。

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2016年9月24日土曜日

山形国際ドキュメンタリー映画祭 《映画批評ワークショップ体験記》 vol.3text佐藤 聖子

【その3】 映画との出逢い


「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 
 ―山形in東京2016

9月17日から始まりました!
山形で上映されたすべての映画が上映されるわけではありませんが、見逃してしまった作品をできるだけいっぱい見たいです。
ドリームショーに合わせて、今回は、山形で見てきた映画を一部ご紹介。


1.『訪問、あるいは記憶、そして告白』(Visita ou Memórias e Confissões)
 監督:マノエル・ド・オリヴェイラ
開会式上映作品。
オリヴェイラ監督の自伝的映画。妻のマリア・イザベルに捧げられたこの作品は1982年に制作されたが、自身の死後に発表されるようシネマテーカ・ポルトゲーサに預けられていた。
「30余年もの間、眠っていた映画」である。この人が居たんだ、この映画を遺したんだ、と思う。
現在、オリヴェイラ監督の追悼特集が各地で上映されている。
http://jc3.jp/oliveira/ 


2.『桜の樹の下』(Under the Cherry Tree)
 監督:田中圭


初レビューを書かせていただいた作品。
田中監督は『ドキュメンタリーマガジンneoneo #06』に、この映画を撮るに至った背景を執筆されている。


3.『船が帰り着く時』(When the Boat Comes In)
 監督:キン・マウン・チョウ


ミャンマー南部の漁村で借金返済のために漁をする男とその家族。中心に妻を据えて描いている。
記録に対する大らかな誠実さ、とでも呼びたいものを感じる。 
質疑応答で、現在のミャンマーにおけるドキュメンタリー映画や表現の自由について質問させていただいた。2011年まではドキュメンタリーの制作が難しかったが、今は自由に表現できるとのこと。


4.『レバノン1949』(Lebanon 1949)+講談:宝井琴柑
 監督:ネーイフ・フーリー

 『レバノン内戦』(Lebanese Civil War)
 日本語版制作:パレスチナに連帯する日本人映画グループ、若松プロダクション

 『ベイルート PLO撤退からパレスチナ大虐殺まで』(Beirut 1982) 』
 製作:布川プロダクション

貴重な映像。二度と見られないかも知れない、と必死で見た。
『レバノン1949』は、こんな時代があったのかと驚きを感じるほど、長閑な家族の記録が延々と流れる。
3本を続けてみることで、レバノンの変遷が見えてくるかと思ったが、そこまで単純なものではなかった。
『レバノン内戦』では銃撃戦のさなかに、楽しそうに遊んでいた家族の映像が「取り戻せない過去」のように重なった。
一度始まってしまった戦いは、簡単に終結するものではないという恐怖を感じた。その間に、どれだけのものが破壊され、傷つくのだろう。
「紛争」や「戦争」は、映像の中で見慣れたものになっているが、「スクリーンは防波堤ではない」ことを考えた。


5.『太った牛の愚かな歩み』(Foolish Steps of a Fat Cow)
 監督:ガージ・アルクッツィ


同性愛者である監督のモノローグ。
「赦しを求める旅」の道程で、誰に何を赦されたいのかが少しずつ明らかになってゆく。パーソナルな作品だが、「罪」の背景に社会や宗教が見え隠れする。
監督は、「ライナスの毛布」のように優しい人だった。


6.『太陽の子』(Anak Araw)
 監督:ジム・ランベーラ

言語を通して描き出される文化的冒険ファンタジー(?)。他言語や他文化を知ろうとすることは一種の冒険である、という視点が興味深い。言葉が持つヒーロー性と、翻訳の際に失われる響きの存在を感じた。
世界の共通言語となっている英語や洗練された西洋文化へのアンビバレントな感情は自分にもあるなぁ、と思う。
英語の話せない私を励ましてくれたのも、この監督さんだった。


7.『三里塚に生きる』(The Wages of Resistance :Narita Stories)
 監督:大津幸四郎、代島治彦

©三里塚に生きる製作委員会

昨年見たドキュメンタリー映画の中で、個人的に一番印象深い作品。
英語のタイトルに「Resistance」とあるように政治的な映画かと思っていたが、私が見たものは「時間」と「人」だった。
次作『三里塚のイカロス』制作中とのこと。上映が待ち遠しい。


8.『たむろする男たち』(Standing Men)
 監督:マーヤ・アブドゥル=マラク


パリのとあるコールショップ(遠距離通話が割安でかけられる店)が舞台。そこに集う中東からの出稼ぎ労働者たちと、かつて監督の父親が家族に送った古い手紙によって作品が編まれてゆく。彼らと母国との距離は、物理的なものでありながら、また心情的なものであり、常に変動していると感じられた。
故郷を離れて暮らす者が抱く想いは、国、人種、文化、個人の体験に関わらず共感を誘うのかも知れない。
家族へ送る「庭のオリーブの木によろしく」というメッセージに、ぽろぽろと涙が出て自分でも驚いた。唯一、泣いてしまった作品。
(自分の記憶に自信がないので、もし映画の中にそのメッセージがなくてもご容赦ください)


9.『アスマハーンの耐えられない存在感』(The Unbearable Presence of Asmahan)
 監督:アッザ・エル=ハサン


1940年代エジプト映画でスターになった伝説的歌姫アスマハーンに、どうしようもなく惹かれる。この魅力があったからこそ彼女の存在感は厄介であり、タイトルの「耐えられない」まで膨れ上がったのだろう。上映後のトークで「人物崇拝をやめようという運動がアラブの春だという見方もある」と解説があった。
作品の所々に織り込まれた40年代の映画は、現代の厳格なアラブからは想像もつかない艶と華に満ちている。廃墟となった撮影所を案内する男が「あの頃のエジプトは本当に自由だった」と懐古する。これからのアラブはどうなってゆくのだろう……。


10.『マリア・サビーナ 女の霊』(Maria Sabina,Woman Spirit)
 監督:ニコラス・エチェバリア


メキシコ中部マサテコ族の女性マリア・サビーナは、幻覚作用のあるキノコを用いて儀礼を行う優れた治病シャーマンであった。この撮影から5年後に世を去った。世界のどこにもいない人が、記録の中で圧倒的な生命力を放つことに驚き、そして少し怖く感じた。この映画に彼女の魂が移ったと信じる人がいても不思議ではない。
「先住民の宗教とキリスト教の融合」に関しては、私が想像していた以上に自然なこと、逆にどう分離すればいいのかという次元まで一体化しているようであった。


11.『学校に行きたい』(A School of My Own)
 監督:ガルギ・セン


ヒマラヤ山脈のふもとで暮らす人々。親は子どもに教育を受けさせたいと願い、子どもたちも学校へ行きたいと願っている。貧しい生活の中に位置づけられた「学校」という存在は、彼らに知識だけではなく夢と誇りをもたらしているようであった。
日本には「学校に行きたくない」子どもたちがたくさんいること、教育が夢や誇りに結びつきにくいことを改めて考える。


12.『蛇の皮』(Snakeskin)
 監督:ダニエル・フイ


催眠的な導入だった。監督による静かなトーンのナレーションは語り部を思わせ、炎のゆらめきは太古の生物に見えた。シンガポールの歴史が、架空の存在や神話と交錯し、その幻想的な時空に今を生きる人々の顔が浮かび上がる。入り組んでいて分かりにくい部分もあったが、それを補って余りある見応えだった。
20代の監督が撮ったとは思えない作品。フイ監督は、センスと才能の塊みたいな人に見えた(しかも監督さんはモテモテとの噂だった。天は気前よくなれる人に対しては、二物どころか何物でも与えるようだ)。


13.『女たち、彼女たち』(Us women. Them women)
監督:フリア・ペッシェ


アートディレクターでもあるペッシェ監督による初の長編映画。5年の歳月を費やして完成を見た。描かれているのは監督自身が「自分の核」と呼ぶ家族の歴史である。9人の女性たちの命や想いが、緩やかに受け継がれていく。
『女たち、彼女たち』は、女性から生まれた全ての人の物語であり、命の記憶である。それらを繋ぐ臍帯のようなこの映画は、余韻まで美しかった。


ドキュメンタリー映画に浸る幸せ度:★★★★★
(text:佐藤聖子、
 画像提供:山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局)


関連レビュー:
*山形国際ドキュメンタリー映画祭 《映画批評ワークショップ体験記》 vol.1
text佐藤 聖子
http://kotocine.blogspot.jp/2015/11/vol1-text.html

*山形国際ドキュメンタリー映画祭 《映画批評ワークショップ体験記》 vol.2
text佐藤 聖子
http://kotocine.blogspot.jp/2016/02/vol2-text.html

*山形国際ドキュメンタリー映画祭2015訪問記」
text 高橋 雄太
http://kotocine.blogspot.jp/2015/10/2015text.html

劇場情報
「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー ―山形in東京2016」
9月17日(土)〜10月7日(金)に新宿K's cinemaにて開催中
公式ホームページ:http://cinematrix.jp/dds2016/

ヤマガタ映画批評ワークショップ
(2015年10月9日〜12日に山形まなび館にて既開催)
・今回で3度目の開催となる、ヤマガタ映画批評ワークショップ。山形国際ドキュメンタリーにて、映画祭というライブな環境に身を置きながら、映画についての思慮に富む文章を執筆し、ディスカッションを行うことを奨励するプロジェクト。
・応募して選考を通った若干名の参加者は、プロの映画批評家のアドバイスを受け、参加者が執筆した記事は、映画祭期間中に順次発表される。
※開催中にヤマガタ映画批評ワークショップの批評文がUPされた〈YIDFF live!〉
・参加者はこのプロセスを通じて、ドキュメンタリー映画をより深く、より広い視点から理解することを可能にする映画批評の役割について考察、実践することになる。
・今回は初の試みとして、国際交流基金アジアセンターと共催し、東南アジアからのワークショップ参加者を募る機会を設け、関連したシンポジウムも開催する。
・ワークショップの使用言語は英語・日本語で、講師となる批評家はクリス・フジワラ、北小路隆志、金子遊の各氏。


山形国際ドキュメンタリー映画祭2015
●2015年10月8日(木)〜15日(木)※既開催
公式ホームページ:http://www.yidff.jp/2015/2015.html

山形国際ドキュメンタリー映画際2017
2017年10月5日(木)〜12日(木)開催予定
公式ホームページ:http://www.yidff.jp/2017/2017.html

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【執筆者プロフィール】

 佐藤聖子 Seiko Satoh

福祉のお仕事を転々として、今は児童福祉施設の非常勤。時給が湿布代で飛んでゆくことに「人生」を感じている。
映画のような夢を見た朝の微睡みが好き。

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2016年9月17日土曜日

映画『シン・ゴジラ』評text高橋 雄太

「私たちが生きるためのゴジラ」


2016年、復活したゴジラは、映画の中の日本に破壊を、観客である私たちには大きな楽しみをもたらした(私は二回見た)。そして娯楽の枠を超えて、フィクションの存在価値を教えてくれる。

ゴジラはその誕生から現実を反映した存在である。シリーズ第一作『ゴジラ』(1954年)は戦争の影を背負っていた。水爆実験で誕生したゴジラが、被爆国・日本を襲い、空襲のように東京を焼け野原にする。一方、今回の『シン・ゴジラ』には東日本大震災と原発事故が投影されている。多摩川を遡り、街を破壊する姿は津波を思わせ、メルトダウンした原発のように放射性物質を撒き散らす。

初代ゴジラを倒したのは、芹沢博士と彼の発明オキシジェン・デストロイヤーだった。だが、『シン・ゴジラ』の日本に、彼のような孤高の天才はいない。本作の日本はゴジラの襲来を初めて経験すると設定されており、スーパーXや機龍のような対ゴジラ兵器は配備されてない(注1)。もちろんエヴァンゲリオンも(注2)、ハリウッド映画に出てくるようなヒーローも存在しない。「いない者に頼るな」。劇中で蘭堂(長谷川博巳)が叫ぶこのセリフの通り、人類は自分たちの持てる力で立ち向かわねばならない。

この映画の総監督を務めた庵野秀明の過去作品を参照しつつ、本作の意義を考えてみる。東京を破壊するゴジラの姿は、短編『巨神兵東京に現る』(2008年)の巨神兵を思わせる。しかし同作は巨神兵と人間が戦う作品ではなく、林原めぐみのモノローグがひたすら続く作品であった。またアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年放送)は、謎の敵・使徒と人類との戦いを描くSFアニメだが、後半では物語を破綻させて主人公・碇シンジの自意識に入り込んでいった。庵野秀明が監督した実写映画『式日』(2000年)では、カントク(岩井俊二)が女性(藤谷文子)を被写体にして、虚構である映画の中でさらに虚構を撮影していく。

『シン・ゴジラ』はこれらのいずれとも違う。登場人物は、モノローグで感情を吐露することもなく、悲嘆に暮れることもなく、淡々と使命を果たす。ゴジラは虚構の存在であるが、細胞で構成され、核分裂をエネルギー源とするという設定は、(空想科学ではあるが)科学的だ。自衛隊や米軍の兵器、ゴジラが破壊する場所、政治家や官僚の役職名なども現実のものがある。ヤシオリ作戦(ゴジラ駆除作戦)でも、ロボットのような空想兵器ではなく、自衛隊、鉄道、ポンプ車など、現実の日本が用いうる手段が駆使されている。ゴジラもそれへの対策も、絵空事ではなく現実的なのだ。

この映画の宣伝コピーは、「現実対虚構」と書いて「ニッポン対ゴジラ」と読ませるものである。しかし本作は高いリアリティを備えており、「2016年の日本にゴジラが現れたら」という仮想の危機を現実に基づいてシミュレーションした作品である。すなわち、『シン・ゴジラ』は「ニッポン対ゴジラ」=「現実対現実」の映画とも言える。

そしてニッポンとゴジラの他に、現実がもう一つ存在する。他でもない私たちの世界だ。3.11や9.11などの災害やテロの映像を見て「映画のようだ」と思った人も多いだろう。現代では現実がフィクションを模倣しており、私たちは「フィクショナルなリアル」を生きているとも言える。『シン・ゴジラ』はその流れをもう一度反転させ、現実を模倣した「リアリスティックなフィクション」として私たちの前に現れた。言うなれば、「観客対シン・ゴジラ」=「現実対現実」である。

劇中のセリフを借りれば、「人類はゴジラとともに生きていかなければならない」のが『シン・ゴジラ』の世界である。私たちも災害や争いの絶えない過酷な現実を生きていかなければならない。時には自分の内面に入り込んで心情を独白することも、ヒーローやロボットの物語を楽しむこともあるだろう。だが生きるためには、この映画の人々のように、いない者の力ではなく自らの力を使わねばならない。そして、シミュレーションである『シン・ゴジラ』では世界を救うことができたのだから、私たちも持てる力で現実をより良くできると信じられるのではないか。現実の辛さから逃げるためにフィクションへと向かうのではない。反対に、フィクションに触れることで現実に生きる力を得ることができるのだ。

伊福部昭の音楽に泣ける度:★★★★★
(text:高橋雄太)

注1:スーパーXは『ゴジラ』(1984年)などに登場する架空の兵器。機龍は『ゴジラxメカゴジラ』(2002年)などに登場する架空の兵器であり、自衛隊が開発したメカゴジラ。
注2:アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する汎用人型決戦兵器。






『シン・ゴジラ』
2016年/119分/日本

作品解説
『ゴジラ FINAL WARS』(2004)以来12年ぶりに東宝が製作したオリジナルの「ゴジラ」映画。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の庵野秀明が総監督・脚本を務め、『のぼうの城』『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の樋口真嗣が監督、同じく『のぼうの城』『進撃の巨人』などで特撮監督を務めた尾上克郎を准監督に迎え、ハリウッド版『GODZILLA』に登場したゴジラを上回る、体長118.5メートルという史上最大のゴジラをフルCGでスクリーンに描き出す。内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹役の竹野内豊、米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン役の石原さとみをメインキャストに、キャストには総勢328人が出演。加えて、狂言師の野村萬斎がゴジラのモーションキャプチャーアクターとして参加している。

キャスト
矢口蘭堂:長谷川 博己
赤坂秀樹:竹野内 豊
カヨコ・アン・パタースン:石原 さとみ

スタッフ
総監督・脚本・編集:庵野 秀明
監督・特技監督:樋口 正嗣
准監督・特技総括・B班監督:尾上 克郎
音楽:鷺巣 詩郎、伊福部 昭
ゴジラキャラクターデザイン・造形:竹谷 隆之
特殊造形プロデューサー:西村 喜廣


配給

東宝

劇場情報
TOHOシネマズ新宿、新宿バルト9ほか全国公開中


公式サイト

http://www.shin-godzilla.jp/index.html

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。ヨーロッパのサッカーシーズンが開幕し、映画だけでなくプレミアリーグやブンデスリーガを見るのに忙しいです。

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2016年9月16日金曜日

映画『火 Hee』評text井河澤 智子

「燃えさかる火のような、じりじりと音を立てる煙草の火のような」


 ぶつぶつと喋り続けるその嗄れた声は老婆、その表情と仕草は無垢で残酷な少女。

 桃井かおりの監督第2作目は、中村文則原作の短編「火」の映画化である。
 この作品で、桃井かおりは監督・脚本・主演のみならず、劇中のイラストや衣装なども手がけている。
 主人公がただ喋り続けるだけという、非常に難しい原作を、彼女はどのように料理したのだろうか。名女優の手腕に期待がふくらむ。

 自らの疎外感に満ちた忌まわしい過去を語る娼婦と、ひたすらコーヒーを飲み続ける精神科医。
 ふたりの2度のセッションは、1度目は精神疾患を抱えた患者として、そして2年後、殺人の容疑をかけられ、精神鑑定を受ける者として行われる。

・観察の対象(それはまるで未知の生物を観察するかのように)
「精神科医」は別に患者を理解する必要なんて全くないのであり、あくまで対象に過ぎないのである。むしろ患者を理解しようとしてはいけないのではないかとも思う。日常生活において「会話」の担う役割は多くの場合「理解と共感」であるが、精神科医にとって、患者が垂れ流す繰り言は「患者がどのような状態であるか」を判断する材料に過ぎない。
 女の言葉、女の表情、それらを精神科医は目視する必要すらない。彼はビデオカメラを女に向け、その言動を記録はするが、彼女が喋っている間何をしているかというと延々とコーヒーを飲み続けているだけである、「話を聞くのが私の職業」と言いながらも。それはうわべだけのきれいごと、女も精神科医がきちんと自分の話を聞いていないことなんて百も承知で、むしろ彼女も彼を観察しているかのようである。そしてカメラを奪い取りそれに向かって喋り始め、精神科医をなじる。ヤブ医者、と。
 その場において、カップからコーヒーを注ぎ込む入れ物としてしか機能していなかった精神科医は、彼女が消えた後初めて感情を露わにする。わかってるんじゃないか、というように。そしてどのような診断を下したのかまでは明らかではないが、彼は直感的に「女は狂っていない」と判断したのである。見抜かれた、と感じたか。その後、彼の視点は明らかに彼女に影響されたものとなる。精神科医として、あまり良い変化ではない。

 荒波に揉まれ、揉まれすぎて擦り切れてボロ布のようになってしまった人間に残されたものは、異常に肥大した観察眼だけなのかもしれない。

・社会から脱落するということ
 彼女はもはやボロ布のような状態であるにもかかわらず、その表情はまるで少女のようである。 
 幼い頃両親を亡くし、学校でも疎外され、結婚相手には浮気され離婚、ロサンゼルスに渡って娼婦となった女。英語はできないわけではないようだが、ロサンゼルスで地を這いずるような生活を送る日本人娼婦、二重三重の意味で社会から疎外されている存在である。頼るものは文字通り己の身体のみ。他にはなにひとつない。 

 社会との関わりとは他人との関係性である。
 人は社会と関わることにより、その存在を「存在」たらしめる。善悪の判断基準も他人との関係性によって生じる。
 他人と関わればどうしても相手への期待というものが生じてしまう。それらが全て裏切られたとき、人はどのような反応を示すだろうか。その方法を失い、全ての期待をなくした時。社会との関わりが断たれ、他人とのしがらみから解放された時。善悪の判断もリセットされた時。初老の娼婦は少女に戻ったのだろうか。
 そして、それでも人と関わり続けようとするか。

 社会に身を置こうとして起こした行動が、社会によって「異常である」と判断されてしまった場合、彼女のように医者と対峙する羽目に陥る。その時の彼女にはまだ社会と関わる意欲は残っていたのだろうか?
 そしてろくに話を聞いてくれない医者にまたも期待を裏切られたのだろうか?
 次に彼女が医者と相見えるのは、2年後、彼女に殺人の容疑がかかったときである。

・疎外されるということについて
 無用な存在に対して、社会は実に冷たい。冷たい、というより「いないことにされる」という感覚が強い。生産的であれ、有用であれ、そうしないと淘汰される。そんな強迫観念に満ちているような気がしてならないのは、なぜだろうか。
 しかし社会が人間の関係性で成り立っているものであることを考えると、そこからこぼれ落ちた人間は淘汰されても仕方がない、という感覚も常にある。

 女はそこに疑問を持つ。
「先生、わたし生きていていいんでしょうか?」
 彼女は精神科医に尋ねる。それは大した意味のない問いかけかもしれないし、「生きる以外の選択肢がない」からそう尋ねたのかもしれない。
 彼女の「生」への執着は枯れてはいない。それは彼女の語る壮絶な人生を思うと、まったくもって驚異的である。
 生きる、ということは、本当に社会の中に身を置かなくてはできないことなのか?
 彼女が起こした(とされる)行動は、そんな社会に(文字どおり)反逆の狼煙を上げた行為なのか?

 あるいは、やはり彼女は、他者とのつながりを欲しているのだろうか?

・演技者としての桃井かおり
 日本を代表する名女優、桃井かおり。
 彼女自身は学者や芸術家を輩出した家庭に育ち、幼い頃から本格的なバレエの訓練を受けた教養豊かな女性である。
 知性と反逆。筆者が桃井かおりに対して抱くイメージはそれである。加えて、勇気と覚悟。燃えさかる火のような女優。それはこの映画を製作するにあたっての彼女の姿勢にもあらわれている。
 筆者が頂戴したプレス資料には、このような言葉が記されている。

「台詞は一度しか声にしない。桃井の本番は一度だけ」と決めました。人生ってやつがやり直せないように、前もってリハーサルなんか出来ない。

 この映画はほとんどが桃井かおりが演じる女の独り言で成り立っている。これが一度限りの撮影であったとは震える思いである。

「自分さえ何をするか解らない本番を終えると、次のシーンを書き換える。」

 役を演じるのではない。ここに存在するのは、桃井かおりですらコントロールしきれない、初老の娼婦である。撮影が終わると、監督・桃井かおりに戻り作業を進める。なんというバランス感覚。

 それはすなわち、「理解できない他者」を自らに取り込むという作業である。言ってみれば他者と肉体を共有するような作業。勿論それは、桃井かおりの豊かな想像力と、卓越した演技の力量をもって成し得た作業である。そして、自らが作品の全てをコントロールできる「監督」であったからこそ、発揮できた力量なのかもしれない。
 この映画は、監督・桃井かおり、主演・初老の娼婦である女 と言っても過言ではない。

・最後に
 この映画は結論めいたものを提示しない。もっとも、ここで留意しなくてはならないのは「女は精神疾患を疑われている」という大前提である。彼女の言葉すべて信用することはできないのである。
 映画の大部分を占める彼女の独白。それが不確実なものであるとするならば。

 確かなことは「その女が存在した」という、ただそれだけ。

桃井かおりまじパネぇっす度:★★★★★
(text:井河澤智子)

『火 Hee』

2016年/72分/日本


作品解説

アメリカでクリニックに勤める精神科医の真田。ある日、家族とショッピングに出かけた際に一人の女性とエレベーターで遭遇する。彼女の声が脳裏に響き渡り、真田は彼女とクリニックで問診している様を妄想する。しかし彼女の話は、真田の想像を超える、壮絶なものだった。彼女の話を聞く内に、次々に登場する男と自分を重ね合わせ、彼女の話に引き込まれていく真田。彼女の話はさらにエスカレートして行き、思いもよらない方向へと向かっていく……。
2006年公開の「SAYURI」以降、拠点をロサンゼルスに移し世界で活躍する女優・桃井かおり。待望の第二弾となる監督作は、05年に「土の中の子供」で芥川賞を受賞してからというもの、次々にベストセラーを放つ若き文豪・中村文則との異色のタッグが実現。犯罪小説というジャンルへの貢献を讃える米国の文学賞(デイビッド・グーディス賞)を受賞するなど海外での評価も高い中村。

キャスト

女:桃井 かおり
真田:佐生 有語
真田の妻:藤谷 文子
ジョン:クリス・ハリソン


スタッフ

監督:桃井 かおり
脚本:桃井 かおり、高橋美幸
原作:中村 文則(河出文庫『銃』収録「火」)
エグゼクティブプロデューサー:奥山 和由

配給

KATSU-do

劇場情報

シアター・イメージ・フォーラムほか全国順次公開中
横浜・シネマジャック&ベティにて10/29(土)~上映

公式ホームページ

http://hee-movie.com/


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【執筆者プロフィール】


井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

冬のある日、桃井かおりさんのお姿を拝見いたしました。
あれ? と思ったところ、前日までベルリン映画祭に出席されていたとのこと。
まだ会期中のはず。すごいなぁ、と思いながら、
煙草をくゆらす桃井さんを横目でチラチラ見ておりました。
世界で一番格好良いものを拝見してしまいました。実に魅力的でした。

その時ベルリンに出品なさっていた作品が、この『火 Hee』です。

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2016年9月12日月曜日

映画『ギフト』評text長谷部 友子

「この人の目を借りて」


この人の作品をもっと見たいと思うことは、この人の目を借りてもう少し世界を見ていたいと思うことかもしれない。

物語はヨウスケが祖父を亡くすところからはじまる。祖父の墓に遊びに行ったヨウスケは、「亀ちゃん」と出会い親しくなる。亀ちゃんは公園で自らの創作物に囲まれて暮らしている。ヨウスケ少年と亀ちゃんの物語からスタートしたはずだったのに、亀ちゃんが公園に住んでいる理由を説明しはじめたあたりから急にドキュメンタリーの位相に切り替わり、そうかと思えばヨウスケとの物語も続けられる。
亀ちゃんは、ヨウスケに金賞が獲れたら世界一周ができると嘘をつく。亀ちゃんの嘘を信じて絵を描き続けるヨウスケを、亀ちゃんの友人リッキーは心配する。明らかに「外国人」であるリッキーがすらすらと沖縄の言葉を話す違和感。リッキーは父がドイツ系ハーフ、母がアメリカ系ハーフなのだと言う。違和感によって気づかされる自分の固定観念。見た目、言葉、国籍、隔てようとする記号の刷り込みに、はっと気づかされる。

ヨウスケへの嘘を指摘された亀ちゃんが「沖縄の海はきれいだとみんな嘘をついた」と言うと、リッキーは「亀、言葉がおかしい。いつもと違う。監督に言わされているのか」と言い出す。ヨウスケについても「あの子、ここらへんの子?」と尋ね、監督まで画面に映り込み、当然のように「物語の外側」が映し出され、一瞬呆気に取られてしまう。
現実と虚構。フィクションとドキュメンタリー。その境目を探すことが馬鹿らしく、そんな境目を易々と飛び越える。多くの検討がなされた作品だと思うのに、変な気負いのようなものがない。あの考え抜かれて撮られた重さのようなものがないにもかかわらず、緻密なのだ。軽やかさの中に物語の豊かさを感じてしまう。それもずっしりというより、あっと言う間に、わくわくしながら。

何度も映し出される工事現場。街のいたるところで工事が行われ、街は姿を変えていこうとしている。墓には所有者が名乗り出るよう書かれた貼紙。黄色い立ち入り禁止のテープたち。無慈悲な締め出しと排除。居場所のなさ。どこへ行けばよいのか、そもそも自分が今どこにいるのかもわからない。

かくして物語には統合しすぎない散らばりが残される。考えながらもその場にとどまろうとする戸惑いと誠実な視線を感じながらも、疾走するヨウスケの姿に何がしかの突破を感じずにはいられない。亀ちゃんが言い出した世界一周という嘘。それは投げ込まれてしまった世界から出て行きたいという意志の表れなのか。より広い世界に出て行こうとする意志と、自分が生まれ育った場所に対する複雑な戸惑いの双方が矛盾することなく共存し、せめぎあいながらも互いを肯定しあう。

「昔はよかった」という話法が私は好きではない。けれどそれを一ミリも思わないかと言われたら嘘になる。しかしこの世界で生きるしかない中、かつてあったようなものが解体され、多くが忘れられ変わりゆく世界の中、「記憶を継承」しながらも今を生きるとはどういうことなのだろうか。
時代を乗り越えていく。起こりうる一切を引き受け、圧倒的な強い肯定により乗り越えることこそが正しい行いなのだろうか。零れ落ちる今に対する慎ましやかな驚きのようなもの。問うており、悩みながらも、暫定的な解を強引に推し進めることなく、ただ在るということに取り組むことは許されないのだろうか。

政治性が強いものほど、 そこに触らずに描かれるべきだと思うことがある。変容する沖縄を描くこの作品は、それに成功し、見事に政治を宿しながらも、政治的という硬直化から逃れた作品だ。この作品を何度も見ながら、政治というものは引き裂かれ続ける者によってのみ描かれるべきなのかもしれないと思った。
この人に、葛藤を、引き裂かれ続けることを望む。そんなつらい所業を望む私はひどい人間なのかもしれない。けれどそんなひどい願望を抱いてしまいそうになるほど、信頼できる目がそこにはあったように思う。

(text:長谷部友子)





『ギフト』
2011年/日本語/SD/40分

作品解説
大好きなおじいちゃんを亡くしてしまったヨウスケ。ある日お墓に遊びに行ったヨウスケは、初老の男と出会い、彼の家に招かれることになる。亀ちゃんと呼ばれているその初老の男は公園に住んでいた。亀ちゃんがついた小さなウソを信じたヨウスケは絵を描く事に没頭し始めるが……。
変わりゆく那覇を舞台に物語の虚構を解体する試みが繰り広げられる。

・Vision du Reel国際映画祭2012(スイス)中篇部門ノミネート
・山形国際ドキュメンタリー映画際2011 アジア千波万波ノミネート
・ヒロシマ平和映画祭2011 上映
・杭州アジア青年国際映画祭2012 短編部門ノミネート

スタッフ
監督/撮影/編集:奥間勝也
サブカメラ:山本和生
録音:友寄隆平
出演:我那覇燿丞、亀川勉、崎山力

【監督プロフィール】
1984年、沖縄生まれ。琉球大学で文学を学んだ後、2011年に上京。テレビドキュメンタリーなどをディレクションする傍ら、個人名義でも作品を制作している。
北インド・ラダック地方で撮影した『ラダック それぞれの物語』は山形国際ドキュメンタリー映画祭2015 アジア千波万波部門で奨励賞を受賞。テレビ番組『いま甦る幻の映画「ひろしま」〜受け継がれていく映画人の想い〜』では第32回ATP最優秀新人賞を受賞した。

劇場情報
「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー-山形in東京2016」
9月17日(土)~10月7日(金)新宿K’s cinema にて上映予定
・9/18(日)17:00〜
 『船が帰り着く時』&『ラダック それぞれの物語』&トーク
・10/2(日)10:30〜
 『ギフト』&『ラダック それぞれの物語』&トーク
・10/7(金)12:30〜
 『船が帰り着く時』&『ラダック それぞれの物語』
 ※9/18、10/7は他監督作品との併映

「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー-山形in東京2016」
公式ホームページ:http://cinematrix.jp/dds2016/


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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2016年9月1日木曜日

映画『64 −ロクヨン− 前編/後編』評text今泉 健

「“昭和”in平成 」


※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。

 昭和の終わり、その当時のことはまだ記憶に残っている。昭和63年の年末、確か11月前後から昭和天皇の健康状態の報道一色になっていて、プロ野球のビールかけや優勝パレードも中止になった程だった。そして松が明ける頃平成になった。テレビは通常の番組が一切なく、4月から社会人生活が控えていた正月で友人たちと街に出たが、商店やデパート、映画館も喪に服して営業を控えていたのを覚えている。東北の大震災直後に似ているかもしれない。昭和元年も年の瀬の7日間だったそうで、元号の切り替わりは、カウントダウンの出来るミレニアムと違い、やはり突然やってくる感は否めない。だから心に何かが残る。長い間病床にいる身内が亡くなっても親族には突然なのだが、この感覚に近いのではないか。
 
 映画『64-ロクヨン-』は、フィクションであり昭和64年1月の7日間のうちに、群馬県(名前はD県)で未解決少女誘拐殺人事件が起きたことに端を発する話である。事件を作品内では通称「ロクヨン」と呼ぶ。正月であり且つ世間やマスコミの関心が陛下の崩御一色になっていたあの時に誘拐を企てるのは、犯人は余程追い詰められているか、すこぶる頭が切れるかどちらかである。ストーリーの主なタイムラインは平成14年にもかかわらずドラマからは昭和の香りが漂っている。家父長制的な家庭環境、公衆電話BOX、電話帳の登場等もあるが、背景に「時効」があるからだろう。当時の法律ではこの事件の時効は15年である。つまりあと1年後には刑事訴追はできなくなる。時効は昭和のドラマ、映画にも使われるが、平成22年に死刑になる殺人であれば時効はなくなった。米ドラマの「コールドケース」(2003-2010)のような未解決殺人事件捜査のドラマが日本で可能になったわけだ。この場合15年という想定なら、現行法でも時効は存在する。事件自体が地方の群馬県警では稀な凶悪犯罪であったが、結果は散々で、犯人も逃し、被害者も殺されたとなれば大失態だ。従って被害者のみならず警察関係者も含めて15年前の昭和の頃で心の中の一部の時間が止まってしまっている。さらに主人公の県警広報官は娘の家出、引きこもり気味の妻という家庭内の問題も抱えているので、なおさらだろう。
 
 作品はほぼ2時間ずつの前後編で計4時間、テレビドラマは5話で計5時間、NHKは1話正味57~8分はあるので密度が濃い。テレビドラマと比べて1時間短いと考えると丁度良いのかもしれない。前編は「事件は現場で起きているんです」と言わんばかりに、「組織あるある」で一つ終わればまた一つことが起こり、息つく間もなく仕事に追われる感じだ。前編の締めくくりはロクヨンを模したような誘拐事件が発生したところで終わる。そして後編はこの誘拐事件が中心の展開になり、さらに人物描写に重きが置かれる。この作品はじっくり事の成り行きを描いているが、決して余すところなくではない。テレビドラマ編でも同様だが、パズルのピースを埋めるには観客が想像で補わないといけない。また多くの事象は独立しておらず、時に密接に結びつく。実に映画的であり、かつ連続ドラマ的でもある稀有な作品だ。4時間も詳細に人物描写をした上に、観客に想像の余地が残るのである。映画版を前後編に分けたことは、映画の要素とテレビドラマ的要素の表現に効果的だと思う。
 仕事面のみならず私生活も含めフックの多い作品である。組織・ポストと対立、キャリア・ノンキャリア、職業としての刑事、刑事のもつ業(ごう)、職責、犯罪被害者、記者クラブなどのマスコミ、被害者と加害者の匿名報道、隠蔽工作、仇討(復讐)、親子・夫婦関係、など事象が多岐に渡る。後編のエンディングに向かうにつれて、ロクヨンの真犯人を捜査に見せかけ、刑事や当時の捜査関係者皆で追い詰める展開になる。鑑識職員でも捜査現場にいる者はハンターなのだ。時に人生を棒に振った仲間を思い、時に肉親の境遇に重ね合わせて、義憤にかられながら、新たな仇討ち的誘拐事件を追う。主人公はロクヨンの犯人と対峙した時、堰が切れたかのように刑事の本性が剥き出しになる。こうして14年ぶりにケリが付き、関係者の心の時計も動き出す。主人公の心はやはり娘への思いに帰結するが、希望を含んだジエンドとなる。

 かつての日本軍の評価で、兵隊は一流、士官は普通、将校は三流という分析を外国が行っていた。これは指揮官不在でも統制を乱さないかららしい。隠ぺいは断罪されるべき行為だが、組織を守ろうとして歪んだ結末とも言える。あのキャリア組という最低の指揮官を仰ぎながら、統率が乱れない優秀さこそ、警察組織が一兵卒たちの頑張りでもっている、という昭和の発想である。平成に存在する「昭和」を見出せるのだ。またエピソードの密接なつながりと切り口の多さ故に、様々なエンディングを想起させる。これだけ人物設定がしっかりしていながら、いかようにもできそうなのは興味深い。実際に映画版とテレビドラマ版はエンディングが全く違う。だが違和感はなく、どちらも視点の違いでアリだと思えるのだ。

※NHKテレビドラマ「64(ロクヨン)」
 全5回1話58分 放送日:2015年4月18日(土)~5月16日(土)

刑事たちの暑苦しさ度:★★★★☆
(text:今泉健)



『64 -ロクヨン- 前編/後編』
2016年/前編:121分、後編:119分/日本

作品解説
『半落ち』『クライマーズ・ハイ』などの傑作で知られる、横山秀夫の7年ぶりの衝撃作『64(ロクヨン)』が、前後編2部作のエンタテインメント大作として、映画化。『ヘヴンズ ストーリー』(2010年)で「第61回ベルリン国際映画祭」国際批評家連盟賞を受賞するなど世界的にもその実力が評価されている瀬々敬久がメガホンをとった。
かつては刑事部の刑事、現在は警務部の広報官として、昭和64年に発生した未解決の少女誘拐殺人事件、通称「ロクヨン」に挑む主人公・三上義信(佐藤浩市)。事件は未解決のまま14年の時が流れ、平成14年、時効が目前に迫っていた。三上は、広報官として働き、記者クラブとの確執や、刑事部と警務部の対立などに神経をすり減らす日々を送っていた。そんなある日、ロクヨンを模したかのような新たな誘拐事件が発生する。

キャスト
三上 義信:佐藤 浩市
諏訪:綾野 剛
美雲:榮倉 奈々
三上 美那子:夏川 結衣
日吉 浩一郎:窪田 正孝
雨宮 芳男:永瀬 正敏

スタッフ
監督:瀬々 敬久
原作:横山 秀夫『64(ロクヨン)』発行元:文藝春秋
脚本:久松 真一/瀬々 敬久
脚本協力:井土 紀州
撮影:斉藤 幸一

主題歌:小田 和正「風は止んだ」(アリオラジャパン)

配給:東宝

劇場情報
有楽町スバル座、池袋シネマ・ロサ、他にて公開中

公式ホームページ
http://64-movie.jp/

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Imaizumi Takeshi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ、UPLINK「未来の映画館をつくるワークショップ」等受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。

オールタイムベストは『ブルース・ブラザーズ』(1980 ジョンランディス)。
昨年の映画ベストは『激戦 ハート・オブ・ファイト』(ダンテ・ラム)、『海賊じいちゃんの贈りもの』(ガイ・ジェンキン)と『アリスのままで』(リチャード・グラッツアー)。

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