2016年9月16日金曜日

映画『火 Hee』評text井河澤 智子

「燃えさかる火のような、じりじりと音を立てる煙草の火のような」


 ぶつぶつと喋り続けるその嗄れた声は老婆、その表情と仕草は無垢で残酷な少女。

 桃井かおりの監督第2作目は、中村文則原作の短編「火」の映画化である。
 この作品で、桃井かおりは監督・脚本・主演のみならず、劇中のイラストや衣装なども手がけている。
 主人公がただ喋り続けるだけという、非常に難しい原作を、彼女はどのように料理したのだろうか。名女優の手腕に期待がふくらむ。

 自らの疎外感に満ちた忌まわしい過去を語る娼婦と、ひたすらコーヒーを飲み続ける精神科医。
 ふたりの2度のセッションは、1度目は精神疾患を抱えた患者として、そして2年後、殺人の容疑をかけられ、精神鑑定を受ける者として行われる。

・観察の対象(それはまるで未知の生物を観察するかのように)
「精神科医」は別に患者を理解する必要なんて全くないのであり、あくまで対象に過ぎないのである。むしろ患者を理解しようとしてはいけないのではないかとも思う。日常生活において「会話」の担う役割は多くの場合「理解と共感」であるが、精神科医にとって、患者が垂れ流す繰り言は「患者がどのような状態であるか」を判断する材料に過ぎない。
 女の言葉、女の表情、それらを精神科医は目視する必要すらない。彼はビデオカメラを女に向け、その言動を記録はするが、彼女が喋っている間何をしているかというと延々とコーヒーを飲み続けているだけである、「話を聞くのが私の職業」と言いながらも。それはうわべだけのきれいごと、女も精神科医がきちんと自分の話を聞いていないことなんて百も承知で、むしろ彼女も彼を観察しているかのようである。そしてカメラを奪い取りそれに向かって喋り始め、精神科医をなじる。ヤブ医者、と。
 その場において、カップからコーヒーを注ぎ込む入れ物としてしか機能していなかった精神科医は、彼女が消えた後初めて感情を露わにする。わかってるんじゃないか、というように。そしてどのような診断を下したのかまでは明らかではないが、彼は直感的に「女は狂っていない」と判断したのである。見抜かれた、と感じたか。その後、彼の視点は明らかに彼女に影響されたものとなる。精神科医として、あまり良い変化ではない。

 荒波に揉まれ、揉まれすぎて擦り切れてボロ布のようになってしまった人間に残されたものは、異常に肥大した観察眼だけなのかもしれない。

・社会から脱落するということ
 彼女はもはやボロ布のような状態であるにもかかわらず、その表情はまるで少女のようである。 
 幼い頃両親を亡くし、学校でも疎外され、結婚相手には浮気され離婚、ロサンゼルスに渡って娼婦となった女。英語はできないわけではないようだが、ロサンゼルスで地を這いずるような生活を送る日本人娼婦、二重三重の意味で社会から疎外されている存在である。頼るものは文字通り己の身体のみ。他にはなにひとつない。 

 社会との関わりとは他人との関係性である。
 人は社会と関わることにより、その存在を「存在」たらしめる。善悪の判断基準も他人との関係性によって生じる。
 他人と関わればどうしても相手への期待というものが生じてしまう。それらが全て裏切られたとき、人はどのような反応を示すだろうか。その方法を失い、全ての期待をなくした時。社会との関わりが断たれ、他人とのしがらみから解放された時。善悪の判断もリセットされた時。初老の娼婦は少女に戻ったのだろうか。
 そして、それでも人と関わり続けようとするか。

 社会に身を置こうとして起こした行動が、社会によって「異常である」と判断されてしまった場合、彼女のように医者と対峙する羽目に陥る。その時の彼女にはまだ社会と関わる意欲は残っていたのだろうか?
 そしてろくに話を聞いてくれない医者にまたも期待を裏切られたのだろうか?
 次に彼女が医者と相見えるのは、2年後、彼女に殺人の容疑がかかったときである。

・疎外されるということについて
 無用な存在に対して、社会は実に冷たい。冷たい、というより「いないことにされる」という感覚が強い。生産的であれ、有用であれ、そうしないと淘汰される。そんな強迫観念に満ちているような気がしてならないのは、なぜだろうか。
 しかし社会が人間の関係性で成り立っているものであることを考えると、そこからこぼれ落ちた人間は淘汰されても仕方がない、という感覚も常にある。

 女はそこに疑問を持つ。
「先生、わたし生きていていいんでしょうか?」
 彼女は精神科医に尋ねる。それは大した意味のない問いかけかもしれないし、「生きる以外の選択肢がない」からそう尋ねたのかもしれない。
 彼女の「生」への執着は枯れてはいない。それは彼女の語る壮絶な人生を思うと、まったくもって驚異的である。
 生きる、ということは、本当に社会の中に身を置かなくてはできないことなのか?
 彼女が起こした(とされる)行動は、そんな社会に(文字どおり)反逆の狼煙を上げた行為なのか?

 あるいは、やはり彼女は、他者とのつながりを欲しているのだろうか?

・演技者としての桃井かおり
 日本を代表する名女優、桃井かおり。
 彼女自身は学者や芸術家を輩出した家庭に育ち、幼い頃から本格的なバレエの訓練を受けた教養豊かな女性である。
 知性と反逆。筆者が桃井かおりに対して抱くイメージはそれである。加えて、勇気と覚悟。燃えさかる火のような女優。それはこの映画を製作するにあたっての彼女の姿勢にもあらわれている。
 筆者が頂戴したプレス資料には、このような言葉が記されている。

「台詞は一度しか声にしない。桃井の本番は一度だけ」と決めました。人生ってやつがやり直せないように、前もってリハーサルなんか出来ない。

 この映画はほとんどが桃井かおりが演じる女の独り言で成り立っている。これが一度限りの撮影であったとは震える思いである。

「自分さえ何をするか解らない本番を終えると、次のシーンを書き換える。」

 役を演じるのではない。ここに存在するのは、桃井かおりですらコントロールしきれない、初老の娼婦である。撮影が終わると、監督・桃井かおりに戻り作業を進める。なんというバランス感覚。

 それはすなわち、「理解できない他者」を自らに取り込むという作業である。言ってみれば他者と肉体を共有するような作業。勿論それは、桃井かおりの豊かな想像力と、卓越した演技の力量をもって成し得た作業である。そして、自らが作品の全てをコントロールできる「監督」であったからこそ、発揮できた力量なのかもしれない。
 この映画は、監督・桃井かおり、主演・初老の娼婦である女 と言っても過言ではない。

・最後に
 この映画は結論めいたものを提示しない。もっとも、ここで留意しなくてはならないのは「女は精神疾患を疑われている」という大前提である。彼女の言葉すべて信用することはできないのである。
 映画の大部分を占める彼女の独白。それが不確実なものであるとするならば。

 確かなことは「その女が存在した」という、ただそれだけ。

桃井かおりまじパネぇっす度:★★★★★
(text:井河澤智子)

『火 Hee』

2016年/72分/日本


作品解説

アメリカでクリニックに勤める精神科医の真田。ある日、家族とショッピングに出かけた際に一人の女性とエレベーターで遭遇する。彼女の声が脳裏に響き渡り、真田は彼女とクリニックで問診している様を妄想する。しかし彼女の話は、真田の想像を超える、壮絶なものだった。彼女の話を聞く内に、次々に登場する男と自分を重ね合わせ、彼女の話に引き込まれていく真田。彼女の話はさらにエスカレートして行き、思いもよらない方向へと向かっていく……。
2006年公開の「SAYURI」以降、拠点をロサンゼルスに移し世界で活躍する女優・桃井かおり。待望の第二弾となる監督作は、05年に「土の中の子供」で芥川賞を受賞してからというもの、次々にベストセラーを放つ若き文豪・中村文則との異色のタッグが実現。犯罪小説というジャンルへの貢献を讃える米国の文学賞(デイビッド・グーディス賞)を受賞するなど海外での評価も高い中村。

キャスト

女:桃井 かおり
真田:佐生 有語
真田の妻:藤谷 文子
ジョン:クリス・ハリソン


スタッフ

監督:桃井 かおり
脚本:桃井 かおり、高橋美幸
原作:中村 文則(河出文庫『銃』収録「火」)
エグゼクティブプロデューサー:奥山 和由

配給

KATSU-do

劇場情報

シアター・イメージ・フォーラムほか全国順次公開中
横浜・シネマジャック&ベティにて10/29(土)~上映

公式ホームページ

http://hee-movie.com/


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【執筆者プロフィール】


井河澤 智子:Ikazawa Tomoko

冬のある日、桃井かおりさんのお姿を拝見いたしました。
あれ? と思ったところ、前日までベルリン映画祭に出席されていたとのこと。
まだ会期中のはず。すごいなぁ、と思いながら、
煙草をくゆらす桃井さんを横目でチラチラ見ておりました。
世界で一番格好良いものを拝見してしまいました。実に魅力的でした。

その時ベルリンに出品なさっていた作品が、この『火 Hee』です。

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