2017年12月26日火曜日

映画『パーティで女の子に話しかけるには』評text彩灯 甫

「新しい希望が植わる時」


一部、物語の結末の触れている箇所があります

頭がくらくらして、おかしくなりそうな映画だ(もちろんいい意味で)。例えばデヴィッド・リンチの作品はいつもそうあり続けてきたかもしれないし、個人的に2017年のベストだと思っているポール・ヴァーホーベン監督の『エル ELLE』だって、典型的な人物描写をことごとくはねのけて観客を不安に陥れるような、頭を殴られたような気分になる映画だった。だから『パーティで女の子に話しかけるには』を観た時の感覚自体が「新しい」と言い張るつもりはない。過去にこんな映画があった、と類似した作品を挙げることもできると思う(個人的には『時計じかけのオレンジ』に似ていると思った。内容ではなくデザインが)。だけど本作は2017年現在の「映画」にとって、新しさの萌芽みたいなものを秘めている。あらゆる言葉と感情が息詰まって、対立して、ポリティカル・コレクトネスが本当に「正しい」もののような顔をして映画に横行し、「多様性」という言葉が権力を持った全然多様でない人たちに奪われてしまった時代。そんな地平に立って、フォースが覚醒した結果過去に対する新しさを主な対立軸に大論争が起きている(否定してません)某シリーズより一歩も二歩も前に進んだ、新しい希望を観た気がする。

舞台は1977年のロンドン郊外。現代ではない。パンクを愛し、憧れ、音楽のレビューと自分の漫画を載せたファンジン作りに夢中になっているボンクラで童貞でまだ何者でもない青年エン(アレックス・シャープ)は、パンクで繋がる友人二人とライブを観た後、ある一軒家に吸い寄せられる。そこでは赤、オレンジ、黄色、水色、紫、白の各「コロニー」の色の全身タイツみたいな服に身を包んだ人々が踊ったり体を触り合ったり超音波を発したり組体操のようなことをしている。奇妙過ぎる。パンクと恋と青春、みたいなメッキがすっかり剥げて観客は何を観ているのかよく分からなくなる。そしてその感覚は映画の終盤まで続く。エンは黄色の第4コロニーに属す少女ザン(エル・ファニング)と出会う。各コロニーはそれぞれ瞑想とか官能とか身体表現とか、それぞれの性質というか宗派? みたいなものを持っていて、多分それに基づいて謎に踊ったりしている。第4コロニーは個性を尊重することを大切にしていて、互いの顔を触り合って慈しみ感を出しているが、その実、本当の意味で個人の想いや衝動や渇望のようなものは全体の調和のためにソフトな手つきで抑制されている。それに対し反抗心を抱くザンはエンの「パンク」に反応し、一緒に逃げ出す。まるで本末転倒だけど、それは僕たちが生きている現代の状況を、撫でるようにして思い起こさせる。

「……もっとパンクして」

奇妙な家から抜け出した時、エンの仲間の一人ジョン(イーサン・ローレンス)は「あれは未来だった」と言う。劇中、ザンたちはどうも宇宙人であるらしいことがぼんやり示される。あるいは外国から来た旅行者、であるように見えなくもない。その曖昧さが終始、観客を不安にさせる。今、見ているのは神秘的で夢のあるSF・宇宙人・未来といった類のものなのか、それとも危険なカルト(その暴力性を観客は知っている)なのか。映画の中でそれがはっきりしないのは「いちばん大切なことではないから」としか言えないだろう。現実と虚構をついはっきりさせたがる傾向がある(「現実対虚構」というコピーの映画もあった)と感じるけれど、本作は「虚実入り乱れる」というニュアンスでもなくて、本当に境がない。だからある場面でエンのもう一人の友人ヴィックが、第5コロニーのオレンジの女がパンクの少女とアナルセックスみたいなことを始めて、少女は興奮しているのだけどオレンジの女の身体からはもう一人別の男が産まれてきて……という、自分でも何を書いているのかよく分からないことが起こっているのを目撃するのだが、そのシーン以外、直接的な描写で真に異常なことは意外と発生しない(なのでそのふんわりした感覚を残すためにもこのシーンは不必要だったのではないかと思ったりもする)。男と女、人種、国家、家族、コロニー、善と悪、やっていいことと悪いこと……などなど、いろんなところにはっきりした境界があるように思い込みながら僕たちは生きていて、社会はそういうふうにできている。だけどその考え方は実際には宗教というかカルトみたいなものかもしれなくて、本当ははっきりした線など多分どこにもない。本作は現実と虚構の間にさえ「そんな線ないよ」という曖昧な世界に観客を放り込んで、僕たちが「まっとうだ」と信じ込んでいる感覚をぐらぐら揺さぶってくる。

ザンとエンに残された時間は48時間。そう、本作は小難しい社会派ドラマなどではなく、切なく胸キュンなラブストーリーなのだ。だけど臭う。とても臭い。「クサイ芝居だ」とかそういうレベルの話ではなくて、登場人物たちの体臭が、若い肉と汗の香しい感覚がスクリーンからはみ出してくるような、近づきすぎなほど人間に触っていくまなざし。
家を飛び出したザンは、そこでエンと口づけを交わす。「私の身体、壊れかけてる」なんて言いながら。本当に壊れかけているのか、どうもメカニズムは不明なのだがザンはエンとキスしながら嘔吐する。本作の最も印象的な瞬間の一つだと思う。人がゲロを吐くシーンがある映画に悪いものはない、と誰かが言っていた。それはつまり汚いものや人が見たくないもの、綺麗ごとでないことを見せてくれるという担保のようなものだと思うけれど(ちなみにこの映画でエル・ファニングが吐くゲロは実際にはリンゴジュースとコーンフレークだったらしく 、それを知ったエル・ファニングのファンたちが喜んだり興奮したりしているらしい、というのはどうでもいい)、この映画では不思議と、あまり汚いもののように見えない。キスという甘美な「記号」が描かれる瞬間に脈絡なく差し挟まれるそれは、まだこの世界で言葉になっていない感覚、かけがえのない個人の感情が発露する瞬間のようで、愛しいと同時にとても狂おしい。ある種の美しさみたいなものを帯びているようにさえ感じられる。
エンはザンの身体に性的な興奮を覚えるけれど、ザンはエンの身体に興味津々ながらも性欲という感覚自体が覚束ないらしく、体を触り合ったり、顔を舐めたり、互いの口の中に向かって叫んだりする。口臭、体臭、排泄物……吐しゃ物以外は画面に映っていないはずのこうしたものの匂いが全部漂ってくるかんじがする。だからこれは褒めているのだけど、実際にそういう感覚を僕が抱いたのでそのまま書くと、本当に「気持ち悪くなる」映画だ。ザンはエンと「不完全な性交渉をした」と言う。その場面は描かれない。

宇宙人たち(あるいはカルト集団)には「子どもを食べる」という風習があった。彼らは好き勝手にセックスしまくった結果、派閥主義、戦争、環境破壊に陥って資源を使い果たしてしまった。その反省から親が子どもを食べ、少しずつ人口を減らしているのだと言う。このまま元の星に帰ったら、ザンも食べられてしまう――。ちなみにザンたちが帰ることをエンは「集団自殺」と言ったりもする。
「食べる」瞬間は劇中、セックスに代替、あるいは対極の行為として描かれる。旧時代的な家族の在り方や血の繫がりから脱出しようとする「アンチ・家族」な映画がいろいろなところで生まれてきていると思う(たとえば日本の『湯を沸かすほどの熱い愛』はそれをやろうとして上手くいかなかった映画なのではないか)。それと同時に、性交渉を介した関係の継続や、それを物語上の「ゴール」とする恋愛の形から脱却しようとする「アンチ・セックス」な映画が生まれてきているようにも感じている(たとえば『溺れるナイフ』では中学生の頃から互いを想い合っている二人が数年後にようやく……という場面があるが、このシーンはよく見ると「試みたけれど結局できなかった」ようにも見える)。それは何もプラットニックでウブな青春の恋、というような話ではなくて、そういう身体的・動物的な結び付き(もちろんそれだけではないとは思うけれど)ではない形で人と人が繋がるとはどういうことなのか、他に方法がないのか、もっと深く相手の中に入れる何かが……という模索ではないだろうか。ただ、それはどんなに切実であっても、新しい段階への踏み出しであるようなかんじもするけれど、強者からすれば「それじゃ人間は殖えないし死しかないじゃん」という話であって、それを言われたら手も足も出ないような脆さがあった。本作はそこに一つの禁断、あるいはドラッグ、魔法?をかけた。ザンが「妊娠」するのだ。ザンはエンに「あなたの子よ」と告げる。先にも書いたけれど、二人は「不完全な性交渉」しかしていないはずなのに。馬鹿げているけれど、僕はそこに新しい希望の種が植わる思いがした。

監督のジョン・キャメロン・ミッチェルは、自身のフィルモグラフィーの中で何度も、「まっとう」な人からすれば不安定な心を、湿っぽくないポップな手触りでスクリーン上に燃え上がらせてきた。性転換した結果男性器が中途半端な盛り上がりとして残ってしまったロック歌手を主人公に据え自ら演じた『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』に続き、2作目『ショートバス』では、セックスという行為にある種カルト的に癒され、支えられ、狂わされる人々を描いた。『ショートバス』と本作はセックスへの距離感が対極でありつつも、より深い他者との通じ合いを渇望する点で双子のような作品にも見える。そして『ショートバス』との間に位置する3作目『ラビット・ホール』(『パーティで~』は監督4作目)では、ニコール・キッドマンとアーロン・エッカート演じる、子どもを交通事故で亡くした夫婦の「その後」を描く。一生拭えない悲しみを背負ってしまっても、それでも生きていくための「再生」の物語。 
話は少しずれてしまうけれど僕は「その後」を描いた映画が好きだ。「~の続編」とか「2」「リミックス」「エピソード……」とかいう話ではない。多くの映画では、今まさに盛り上がりつつある「現在」が描かれる。その一方、こんな体験をしてしまった登場人物たちはこれからどうやって生きていくのだろう。そこが見たいのに……と思うことも少なくない。例えばニコール・キッドマンも出演した『ライオン 25年目のただいま』は、インドで迷子になった5歳の少年が故郷を探し出す話だが、故郷の母親と感動の再会を遂げたところで物語は閉じてしまう。自分を「わが子」として育ててくれた里親との関係はどうなるのか、とか(しかもこの里親を演じたのがニコールだった! そして彼女は実生活でも養子を迎えた経験を持つという)「その後」のことにいろいろ思いを巡らせてしまう。もっとも『ライオン』は実話ベースだからある程度は仕方ないのかもしれないが……。
『ラビット・ホール』では、子どもを撥ねた車を運転していた青年との対話と、彼が描いたコミック「ラビット・ホール」に登場する「並行宇宙」へと思いを馳せることで、主人公が傷を負ったまま、それでも少しずつこの現実の中で再生し始める。ミッチェル監督にとって『パーティで女の子に話しかけるには』は、「その後」を描いた『ラビット・ホール』の次の作品であり、そこで描かれたのが今回の「奇跡の子」だった。
こうして振り返るとミッチェルが本作で辿り着いた場所は必然だったようにも感じられる。『ラビット・ホール』の主人公は「二人目の子供を作ろう」と持ち掛ける夫に嫌悪感を示していた。そしてその妻であり死んだ子どもの母親を演じたニコールは本作でパンクな若者たちの「マザー」的存在・ボディシーアを演じている。ボディシーアは「12回中絶して何の見返りもなかった」末、子どもを産むことを諦めた女でもある。ザンが子どもを宿したことで物語はまた転がり始める。食べられるだけの子どもではなく「親」の立場としてコロニー内で権利を持ったのだ。しかもザンの子どもはセックスの結果生まれる命ではない(もちろん、エンはしたかったのだろうが)。だからその奇跡は、絶滅に向かっていた彼ら一族を救う手立てになるかもしれない。そしてその奇跡は観客にとって、絶対に崩れないと思われた現実の壁が壊れる瞬間だ。何かが変わり、希望が灯る瞬間。彼女が吐いたゲロのように、まだ名前のついていない感情のような、誰も知らない希望がこの世界にあるかもしれないと思わせてくれる(この「奇跡の子」と通ずるような物語は2017年に公開されたある大作映画でも描かれていて、ネタバレになってしまうので作品名は伏せるけれど、それはとても重要なことだと思う)。
現実が全然ハッピーじゃない中で、「映画で何を描くか」はとても複雑で深刻な局面に来ていると感じる。現実が辛すぎるのにバッドエンドなんて見たくないし、かといってハッピーエンドは嘘っぽい。映像的に派手なことをやってももはや技術の進歩に慣れ過ぎて何を観ても驚かないし「誰かを傷つける可能性がある」と烙印を押された要素や表現は全部排除される。そして横行しているのが「エモい」と言われる扇情的で快楽主義的で、時としてあまり中身のない表現。別にそれが悪いと思っているわけではなくて、そういう類で面白い映画もたくさん生まれている。とても豊かな状態ではある。だけど最近思うのだ、もし自分が現代の高校生とかだったら、今のように映画に惹かれるようになっていただろうか、と。

本作もまた、とてもエモーショナルな作品ではある。「食べることの倫理」を語って聞かせるPT(保護者)たちにエンは「BOLLOCKS(ふざけんな)!」と叫ぶ。
「メチャクチャしても俺たちは生きてる。食べて、クソして、踊って、恋をする。親がブチ壊したものも直す」
ジャズミュージシャンで「左翼」で「無責任」だった「クール」な父親にエンは捨てられた。だけどその親でさえ自分を喰ったりはしなかった。生きることを押さえつけることなんてできないんだ、という叫びだ。そして一族とともに星へ帰り子どもを産むのか、地球でエンと暮らすのかを迫られたザンは、引き止めようとするエンに「アイ・ラブ・ユー」と告げる。その時ザンが流すのはゲロじゃなく涙だ。この二つのシーンでの二人の主人公の言葉には胸を締め付けられるような感覚がある。それはこのSFだかカルトだか分からない異常な世界の物語が、僕たちが今生きている2017年の世界と地続きであることに気付かされるからだ。多義的で含みのある会話が続いてきた中で、その言葉だけは真っ直ぐ、逃げずに相手に刺さっていく。そしてそれは巨大な怪獣でも宇宙人でもテロリストでも大統領でも何でもいいから敵に仕立てて感情を煽るような「エモさ」とは異なる、今を変えるため、自分を変えてくれた誰かのために発する「本当の気持ち」だ。ザンは結局、エンを振り切って星へ帰ってしまう。その別れは切ないが、もしこの映画が「エモさ原理主義」的に作られていたとしたらこういう結末になっていただろうか。ザンがエンを選んで地球に残って……という展開だったら、どちらが残酷なのだろうか。

エモーショナルでありつつ、安易な共感を誘わないのも本作の特徴だ。それは多分この時代設定に由来する。冒頭、エンたちがパンクバンドの演奏に狂ったように踊り狂う場面がある。それは異常なほど暴力的で狂騒的。でもこれは現代の物語ではなく今から40年前。描かれる若者たちは今50~60代ということになる。現代の若者にとっての親世代であり「敵世代」に当たるのかもしれない。そんな人たちが「大人」に抑圧され、中指を立てる時代。終盤、ザンを救うためにパンクな若者たちが宇宙人の家に攻め込む場面がある。対立は戦意を高揚させるが、この映画では一体何と何が対立しているかよく分からないので、観客はパンク側に寄り添いつつもどこか白けた目でその戦いを見守るだろう。この映画には「境界がない」と先に書いたけれど、そこで超える最も大きな壁は「世代」だと思う。俺たちの、私たちの「世代の」……という物言いは世の常だが、本当はそんなものさえ時代やカルトや社会や自分自身が作っているだけなのかもしれない。対立軸に入り込み切れないこのかんじは映画全体を覆っていて、だからこそたくさんのノイズの中から浮かび上がってくる普遍的な感覚は、ザンとエンの互いを想い合う気持ちだけなのだ。
エンが宇宙人たちの家に吸い寄せられるように近づいていく冒頭のシーンで、彼はそこから鳴る音楽に耳を澄ませている。それを聴いたことがあるような、未知の何かに触れているような感覚を抱いている。ノスタルジーと新しさの間にも壁はないのかもしれない。そうして出会った二人は40年前の若者たちがひしめくライブハウスでともにステージに立ち、歌い、音楽を奏で創造する。希望の種はきっと、その時に植わったのである。

(text: 彩灯甫  )


 『パーティで女の子に話しかけるには』
2017年/103分/イギリス、アメリカ

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル

公式ホームページ:http://gaga.ne.jp/girlsatparties/

劇場情報
12月1日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

彩灯 甫:Saito Hajime

2017年8月に「沖田灯」という筆名を改めました。
小説、映像脚本、映画・音楽批評など書いています。
1989年生まれ。

Twitter:@Akari_Okita
Blog:http://hamintia.blog.fc2.com/

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第30回東京国際映画祭〜映画『勝手にふるえてろ』上映後Q&A

右から 大九明子監督、野正樹氏 (c)2017 TIFF

 去る11月1日。第30回東京国際映画祭における『勝手にふるえてろ』2回目の上映後に、大九明子監督と音楽を担当した髙野正樹氏を迎えて行われたQ&Aの模様をお届けします。
 
 24歳のOLヨシカ(松岡茉優)は、中学の同級生“イチ”(北村匠海)に10年間も思いを募らせている片思いこじらせ女子である。そんなヨシカは、過去の“イチ”との(ほとんどが一方的な)思い出を召還したり、絶滅した動物を夜通しネットサーフィンして調べたり、アンモナイトを購入して驚喜乱舞したりと、一人でもなんとなく充実した毎日を過ごしていた。そんな折、同僚の“ニ”(渡辺大知)から告白され、「脳内彼氏」“イチ”と「リアル恋愛」の“ニ”の間で、揺れるヨシカ。恋愛に臆病な彼女に幸せなハッピーエンドは訪れるのか……。
 主演・松岡茉優が最高に魅力的な本作は、東京国際映画祭で観客賞を受賞し、12月23日より劇場公開となった。映画祭の数ある作品の中から観客の心を掴み、多くの映画ファンが待ち望んでいた映画である。
 
 司会はコンペティションの作品選定を行った矢田部吉彦氏が務め、今作への愛情に溢れたムードで行われたQ&Aとなった。

(一部、作品の核心に触れている部分があります)

矢田部氏(以下、矢田部):
大傑作とわたしは思っているんですけれども、東京国際映画祭のコンペティション部門に出品して下さって本当に有難うございました。

大九監督(以下、大九):
有難うございます。

 大九監督は、「本日は数ある作品の中、『勝手にふるえてろ』をお選び頂きましてどうも有難うございます」という観客への挨拶に続き、客席で鑑賞した感想を語った。

大九:
わたくしもスタッフと一緒にチェックを兼ねてみる初号試写で鑑賞した時以来、久々に全編通して、しかも皆様と一緒にスペシャルな席で、汗びっしょりで観ておりまして、すごいスペシャルな体験ができたと大変感謝いたしております。有難うございました。


大九明子監督 (c)2017 TIFF

 高野正樹氏からは、

髙野氏(以下、髙野):
音楽を担当しました髙野です。今日は皆様お越し頂きまして有難うございました。皆様のリアクションが非常に気になりまして、皆様が笑っていたりだとか、そういうリアクションで「あっ、ここで笑いがおこるんだ」だとか、自分も一緒になって笑ったりだとか……。割と音を仕上げる時は音のことばかりを気にしていたので、「今日は自由に観れるかな」と思ったのですが、逆にリアクションが凄く気になってしまって、中々冷静に観られないなと思っております。今日はどうも有難うございます。

 と挨拶があり、作品への愛情深い思いが感じられた。

矢田部:
今日はこうしてせっかく髙野さんにお越し頂いていますので、監督に作品での髙野さんとのコラボレーションについてお聞きしたいと思います。やはりミュージックという単語を聞きますと感動のミュージカルシーンにも関わられたのかなと想像してしまうんですけれども、そこも含めてお聞き出来ますでしょうか?

大九:
仕上がった段階でミュージカルシーンとか、ちょうどその時期に大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』(‘16)がございましたので、“『ラ・ラ・ランド』シーン”という風によく言われるのですが、前半が実はヨシカのイタいシーンだったということをご説明するのに、アスペクト比を変えたりモノクロに変えたりすることで世界観をガラっと変えることも考えたんですけれども、映画監督的なスタイルをみせるというよりは、ヨシカという人物をきちんとお届けすることに集中しようと。
そこで一番いいのは、お客様の思考を「あれ? これどうなっているんだ?」と思わせるのではなく、全部言葉で説明しようという結論に至りました。言葉で説明するにしても、なにかそこにメロディがあって、より観ている方の心に届く形にしようということで髙野さんにお願いしました。挿入歌・作詞作曲、のように言われているのですが、シナリオにあったセリフにそのまま(音楽を)つけて頂いた、という感じです。

髙野:
最初にこの話を頂いた際に、監督からこのようなシーンがありますと教えて頂きました。通常わたしがやっているのは作曲だけなので、詩にメロディをのせるということはあまりやっていない仕事でしたが、メロディが出来上がるのが凄く早くて、監督と最初の打ち合わせをした際には、もう出来上がっていました。
それから話をして、違うアレンジにしたりということもあったんですけれども、最終的に5パターンくらいになりそこから選んで頂きました。監督と共通した認識としてあったのが喋るように歌わせたいということ。あまりきれいにピッタリおさまるような形ではなく、どちらかというと喋っているところにメロディがのっかっているということで、ヨシカの心の中の劇場というか、そういうものを表せればいいなと思って作りました。


高野正樹氏 (c)2017 TIFF

 髙野氏と大九監督は今作以外(「あぁラブホテル」‘14/WOWOW、「想ひそめし〜恋歌百人一首〜」‘15/テレビ朝日)でもタッグを組んでおり、息がピッタリ合う今作の制作風景が想像された。
 矢田部氏が観客に質問のバトンを渡すと、場内からはすぐさまたくさんの手が上がった。

Q.1(男性):
とても楽しい作品を有難うございます。綿矢さんの原作(綿矢りさの同名小説『勝手にふるえてろ』)もあると思うのですが、(映画の)ヨシカってかなりやっかいなコですよね? やっかいさ加減というのを監督がどのように受け取って、主演女優にどのようなサジェスチョンがあったのか、ということをお聞きしたいと思います。

大九:
有難うございます。綿矢さんの文学の魅力というのは言葉のチョイスだったり、キレ味のよい文体とか、そういったところに尽きると思います。そこを最大に活かすということで読み込んでいくと、どんどんヨシカが愛しくなって、気がつけば「私、ヨシカじゃん」みたいな心境になっていきました。
やっかいというよりは、どうにかこのヨシカというなにかやっかいなものを、実際に現実社会にいるやっかいな皆さんにちゃんと届けたいな、という想いが凄くあって。「万人受けするようなことはおそらく無理だろうね」と最初に企画を持ってきてくださった白石プロデューサーと話していて、それよりはヨシカ的な人にきちんと届ける映画にしようという思いがありました。
原作を読み込むうちにどんどんファンになっていって、もうヨシカにイコールになってしまったので、ほぼ違和感はありませんでした。イン(撮影開始)の前に、松岡茉優ご本人と会ってゆっくり話す時間を持ったのですが、ヨシカに対する無理解みたいなものはお互いにそれほど無く、松岡さんは「あとは振り幅どの位にしましょうか?」という風に大分もう心の準備が出来ていました。
「こういう人っていますよね」とか「恋愛観はわたしはちょっと違う」とか、そういう話などもしました。やっかいであるということを、わたしたち二人はむしろ愛しちゃった感じがあると思います。

 企画・プロデュースの白石裕菜氏は、タイトルに惹かれ手に取った原作に惚れ込み、同時に映画化について動き始めた。そこには、
「綿矢りささんが描く、ヨシカのモノローグから垣間見える文学的な世界観と、一人の女の子が「イチ」と「ニ」という二人の男性の間で揺れ動くというエンタメ的な構造が映画向きだと感じたからです。キラキラした恋愛映画にはならないけれど、格好悪くてリアルな、だからこそある人たちにとって強烈に魅力的な恋愛映画になる! そんな思いから映画化に向けて動き始めました(プレスシート「Production Notes」より抜粋)」
という熱い思いがあった。
 大九監督の言う「ヨシカ的な人」、白石氏のイメージする「ある人たち」に向けられているという本作だが、劇場では笑いが何度となく起こり、男女問わず、観客がこの作品=ヨシカを受け入れ、笑い、感動している様子が強く印象に残っている。

矢田部:
主演のヨシカには最初から松岡さんでいこうと考えていたのか、ある程度オーデョションをするなどして松岡さんでいこうと考えられたのでしょうか?

大九:
もう最初からです。それまでも二年くらいちょこちょこ松岡さんとお仕事(本作は『放課後ロスト』('14) エピソード3「倍音」、TUBEのMV春夏秋冬4部作から生まれた映画『渚の恋人たち』('16)に続く3度目のタッグとなる)をしていまして。
ヨシカという人に惚れたんですけど、白石プロデューサーに「松岡さんでいきたいんです」と言われて、「そうだね!」と。
最初は誰ということも想定せず、普通に小説を読みました。

右から 矢田部吉彦氏、大九明子監督、高野正樹氏 (c)2017 TIFF 

Q.2(女性):
一昨日も観させて頂いて今日二回目なのですけれども、ヨシカ役の松岡茉優さんが観れば観る度に魅力的に思えてきたのと、ニ役の渡辺大知さんが、最初はとってもうざいなと思ったんですけれども、段々愛おしく思えてきて、とても楽しく観させていただきました。一昨日のQ&Aの時に、最後の主題歌(黒猫チェルシー「ベイビーユー」)についての質問があり、監督が「この映画は歌でいきたかったので出演している渡辺さんにお願いした」と言われていたんですけれども、最後の歌も含めて(渡辺大知が)とてもこの映画に合っているなということを、二回の鑑賞を通して感じました。最後の歌について監督から渡辺さんに「こういう風に作って」というような発注がなにかあったら、お聞きしたいなと思います。

大九:
大知くんは割とニに近いタイプでいらっしゃって、ものすごく頭でわーっと考えるんですね。「出来ました!」みたいなタイプの人ではなく、もの凄く時間をかけて悩んでいたので、「わたしが黒猫チェルシー(渡辺大知がヴォーカルを務めるロックバンド)にお願いしたのは、ヴォーカルをしているのがニを演じている渡辺大知だというのが最大の理由なんですよ。だから、ニとしての気持ちで素直に作って頂いたら、それが素敵な曲になるんじゃないですか?」と、ディスカッションしました。

Q.3(外国の女性):
非常に感動しました、有難うございます。映画の中盤にミュージカルシーンを入れることによって、(ヨシカが)非常に悲しいというか、そういうキャラクターに見受けられたんですけれども、怒っているところをよりフィーチャーしているように感じました。悲しみよりも怒りを重点的に描いている理由はなにかありますでしょうか?

大九:
自覚は無かったのですが、マグマのように溜め込んでいたあらゆる罵詈雑言を、叩き付けるようにシナリオを書いたので、それを受けとめた松岡茉優さんのヨシカは必然的に怒りのベクトルが強い感じになったのかもしれません。悲しむところのあの泣き具合も、「しくしく……というよりは爆発するように泣いてくれ、ということで、慟哭だよ」という話を松岡さんと凄くしたので、怒りという方向のニュアンスが強かったのかもしれないです。

Q.4(男性):
大変楽しく観させて頂きました。ヨシカは名前を覚えるのが苦手で、友達以外の人は名前を覚えられないというキャラクターですけれど、イチに名前を覚えてもらっていないというシーンで、すごいショックを受けていました。彼女にとって名前はどういう意味を持つのでしょうか?

大九:
彼女にとってというよりは、どの人にとっても、本当は名前というのは凄く大事なもので、個人的なもので尊重すべきものです。けれど世の中との距離を計りかねているヨシカにとっては、名前を覚えられないというよりもあえて名前を覚えようとせず馬鹿にしているというか。勝手にすぐあだ名をつけてしまって「わたしにとって必要のない情報ですから、わたしが呼び易いように呼びますよ」っていう、そういう人だと思うんですね。多分結構そういう方はいらっしゃると思うんですね、勝手に心の中であだ名をつけていたりだとか……。その罰が当たったというか、「お前も覚えられてないよね」というシーンなんです。そしてそれを改めて思い知らされて、打ちのめされるというシーンに、あそこはしました。

矢田部:
非常に腑に落ちます。有難うございます。


(c)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会

Q.5(男性):
一昨日と今日と二度観させて頂きました。とても楽しい映画でした。松岡茉優という女優の魅力というか、ここが凄いなと思っているところはどういう点か教えてください。

大九:
そうですね……、集中力と努力。少しダサイ表現ですが、努力をあまり人に見せないところ。そういう昭和の気骨を持っているところが凄いと感じます。

 松岡茉優は『ちはやふる 下の句』(‘16)でクイーン(競技かるたにおける女性の日本一)である若宮詩暢役を演じ、その存在感のみならず原作コミックスファンも文句のつけようがないカルタをして、観客を魅了した。これまでの作品で彼女が演じてきた役柄自体にも、どこか努力を惜しまない人柄が滲んでいるようにも思われる。今作の、会社で経理として働くOLヨシカ役でも、華麗な電卓さばきを披露している。

Q.6(女性):
面白い映画で大変楽しませて頂きました。有難うございます。イチ役の北村匠海さんが、普段は歌って踊って女の子にキャーキャー言われているようなグループ活動(DISH//)をしていて、今回は残酷と言うか夢の無いような役柄を演じているのが衝撃的だったんですけれども、なぜ北村匠海さんにイチ役にお願いしたのかと、役作りに関するエピソードがあれば教えて頂きたいです。

大九:
わたしはDISH//を存じ上げないままお仕事をご一緒することになったのですけれども、プロデューサーから「こんな素敵な俳優さんがいて、イチにピッタリだと思います」というレコメンドを受けてどんな方かと思ったら、わたしが普段観ている映画に色々出演していて「ああ、あの役の方か。ああ、あの役も。」と思い当たり、若いのにカメレオンのように多彩な演技をするところに惚れ込んでお願いしました。今はDISH//、大好きです。

矢田部:
彼がどのようにして役にアプローチしたのか、もしご存知でしたら……。

大九:
どのようにして……、どうしているんでしょうね? 勿論事前にお話して作っていきましたが、割とわたしと読み解き方が同じだったんですね。「割と残酷な人間だよね、イチっていうのは」と話すと、「僕もそう思います」と。後は彼が作り上げてくれた、という感じです。

Q.7(男性):
原作者(綿矢りさ)と話し合われたり、何かエピソードがあったら教えてください。

大九:
事前に会うことは全く無くて、撮り終わった後にお会いしたのですが、大変喜んでくださいました。というのは綿矢さん曰く、「通常原作というのは削られることになる」けれども、「わたしの作品は増えて戻ってきた」と。要素は削られておらず、要素を邪魔していないのに、私が書いたシナリオでセリフが凄く増えていたり、キャラクターが増えていたり、「増えることばっかりで」と喜んでくださいました。

矢田部:
わたしも映画を観てから原作を読んだんですけれども、もの凄くびっくりしました。原作のエピソードがここまできちんと映画に描かれている映画化作品というのは中々ないんじゃないかなと思いつつ、パワーアップしているという。皆様もし読んでいらっしゃらなかったら、是非是非、読まれることをおすすめします。
最後に、監督と髙野さんから一言ずつ、お言葉を頂きたいと思います。


大九:
二日も観てくださった方がいたり、公開の前に観たいと思って一生懸命チケットを取ってくださった方がいたりと、色々伺っております。本日はどうも有難うございました。

髙野:
何回も通して観ているのですが、観る度に色々発見があったり、笑えるところや感動するところが違ったりしていて、今日僕は割と前半の方でウルっときてしまいました。何回も観ても面白い映画だと思っています。ですので、皆さんも何回か観て下さい。今日は有難うございました。


(c)2017 TIFF


 大きな拍手に包まれてQ&Aは終了した。
 観賞後に原作を読むと、原作者・綿矢りさの「増える」という言葉がよく理解出来る。細部のエピソードが違う場面で表現されていたり、ユニークな登場人物の面々が増え、本と映画両方に違うエピソードがあり……といった様子で、それぞれの世界観がお互いによってより広がったような感覚になる。
 おすすめは映画を観て、原作を読み、また映画を観る……というコースだ。そしてこの作品のタイトルについて、思いを巡らせてはいかがでしょうか?

(取材/文:岡村亜紀子)


(c)2017映画「勝手にふるえてろ」製作委員会


『勝手にふるえてろ』
117分/カラー/日本語 / 2017年/日本

監督:大九 明子

キャスト
江藤良香(ヨシカ):松岡 茉優
ニ        :渡辺 大知
月島来留美    :石橋 杏奈
イチ       :北村 匠海

配給:ファントム・フィルム

作品解説
“脳内片思い”の毎日に“リアル恋愛”が勃発⁉ ふたりの彼氏(?)の間で揺れながら、傷だらけの現実を突き抜ける、暴走ラブコメディ!

TIFF作品紹介ページ
http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=29

公式ホームページ
http://furuetero-movie.com/

劇場情報
12月23日(祝)より、新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷、シネ・リーブル池袋ほかにて、全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子:Akiko Okamura

某レンタル店の深夜帯スタッフ。
この作品を観て、なんだか我がことのように
笑ったり、泣いたり、自分の普段開けない柔らかいところがイタかったり……。
鑑賞中、気持ちも表情筋も忙しかったです。
『勝手にふるえてろ』というタイトルが、どこか優しく、
一方で、どこか厳しさを持って響きました。
是非、沢山の方に観て頂きたいです。

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2017年12月19日火曜日

映画『早春 デジタル・リマスター版』評text井河澤 智子

「執着と恋をめぐる長い旅」


2018年1月の劇場公開に先立ち、ポーランド映画祭2017にて上映された、イエジー・スコリモフスキ監督作品『早春』(1970)。日本の劇場にかかるのは実に45年ぶりである。
監督の舞台登壇トークを交え、ご紹介したい。

この作品の完全版を観るのは初めてである。
その昔、この作品がどうしても観たかったのでロンドンに飛び、ソフト探しのつもりが迂闊にもただの観光に終始し、数年後イギリス版BDが出たと聞き購入したが、無念リージョン違い、円盤はただの鍋敷きと化した。ブルーレイにもリージョン違いがあることを知らない程度に無知である。
よって、因果は巡り、今回観ることが叶い、数十年来の心願が成就した気分である。それが一生の心願であってよかったのか、と自らに問いたい。

その疾走感と焦燥感、そして猪突猛進感、なんと言えば文学的に収まるのだろうか。あまり美しい表現ができない。欲しいものがあればそれに向かってまっしぐら、立ちはだかる壁をも破壊し、自らも血を流し他者も傷つけることを恐れない。自分、そして自分が手に入れたいものだけが存在する世界。それは不器用なのか、不器用以前の問題なのかはわからない。

この作品は、あるジャンルの映画、たとえば「青春映画」−−よく例えたもので、特に「童貞映画」と括られる作品たちがあるのだそうだ……誰の命名か知らないが全く素晴らしい例えである−− の「幻の傑作」としてかねてより高く評価されていた。実際に劇場で観た人がそれほど多いとは思えないのに「その名が高い」という不思議な作品だった(その理由は推測できるが、特に重要ではない)。
描かれているテーマそのものは珍しくはない。この作品にもし共感と郷愁、ある種の同調を覚えるとすれば、それは観る者がこのような心境を「知っている」「わかる」からであろう。ざっくり「青春映画」スパッと「童貞映画」と言って差し支えない普遍性を持つ作品である。
しかし、優れた作品は普遍性と同時に(それ以上の)特異性を持つ。そりゃそうだ。

ロンドンの公衆浴場とはどのような施設なのか、サービス係の仕事とはどのようなものか。物語は当たり前のように進み、ほとんど説明めいた描写はない。客とのやりとりの描写はあるが、それは背景の理解に特に役に立たない。「プール」があり、学生が体育の授業で泳ぎに来る。一方、女性客が少年を「襲ったり」、男性客と共に女性サービス係が扉の向こうに「消えたり」、それを快く思わない別の従業員がいたり、さらに少年の両親が息子の働きぶりを見に来て褒めたり、どうにもよくわからない場所である。曖昧な境界線は見える人には見え、見えない人にはわからない。そこに境界線を見出した者は「踏み越える」ということの危うさを体感、あるいは傍観してきた者だろう。

上映後のスコリモフスキ監督のトークによると、この作品は「雪の中でダイヤモンドをなくしてしまった」という知人の話から着想を得たという。たった一つのアイディアから話を(実に論理的に)組み立てていった結果、この作品が出来上がった、というが、その肉付けに、『早春』の前に製作された『出発』(1967)からの流れが感じとられる。

監督の母国ポーランドを離れベルギーで撮影された『出発』は、ジャン=ピエール・レオを主演に迎え、フランス語で物語が進んでいくため、トリュフォーやゴダールを観慣れていると特に違和感がない、というのも変な話だが、ジャン=ピエール・レオという俳優そのものが最早ひとつのイコンであるため、はっきり言ってしまえば彼の出演作はどれを観てもジャン=ピエール・レオの映画である、と言えるだろう。
彼が演じる役どころ。おおむね落ち着きがなく、衝動的で、早口にまくしたてるように喋り、何をしでかすか予想がつかず、なんというか「軽やかな狂気」というか、まぁ、悟ってください。
『出発』で彼が演じるのはポルシェでカーレース出場を目論む美容師マルク青年。おそらく年齢は20歳そこそこ(パンフレットなどには19歳とあるが、劇中で年齢がはっきり明かされる場面はない。車が借りられない年齢であるというくらいだろうか)。
自分の車もないのにカーレースに登録してしまった彼は、ありとあらゆる手段でポルシェを手に入れようと走り回る。バレないのがおかしい詐欺まがい、夜の自動車展示場に忍び込む、美容院の客をたらしこんでの金策、身の回りのもの一通り売ってみては女友達を相棒に車 泥棒を試み、勤務先の店長をだまくらかす......彼の頭の中は「ポルシェで爆走」しかない。
本人もじっとしていられない。開ければいい門扉は飛び越え、犬に噛まれて大騒ぎし、誰彼構わず喚き散らし、殴り殴られ、まことに落ち着きがない。実にいつものジャン=ピエール・レオである。

ふと気づく。トリュフォーやゴダールの映画でおなじみの彼には、いつも「恋愛」があった。主に彼の疾走は女性に向けられていた。しかし、そういえばここには「恋愛」の要素はあらわれない!
そばにいる可愛い女の子(カトリーヌ=イザベル・デュポール……このふたり、ゴダール『男性・女性』でも共演しているので、余計に既視感がある!)はどちらかというと「相棒」としての扱いに過ぎず、ふたり見つめ合う深夜のクルマの中でも「クルマが真っ二つに割れる」という不思議な演出でその距離感が示される……穿ちすぎだろうか。
マルク青年が突っ走る先にあるのは、あくまで清々しくイノセントに「ポルシェ」。彼は、まったくコドモなのだ。コドモがおもちゃに突撃していくように、マルク青年はポルシェに向かって突撃する。この時間は彼にとって「蛹」、羽化直前の逡巡の時。蛹の殻は可愛い相棒の渾身の一撃によって破られる(彼は一瞬目をそらす、そして改めてまじまじと彼女を見る)。女の子は常に男の子より少し大人だ。

話を『早春』に戻す。マイク少年もまったく落ち着きがない。自制心がない。周囲の人々がかなり個性的なのであまり目立たないが相当なものである。気づくと壁によじ登っている。壁の上をぴょんぴょんと飛び回り、飛び降りる。気に入らないことがあると物をぶちまけ、廊下を走り回り、非常ベルを全力でぶち破り流血する。
自転車で疾走する冒頭シーン。あの自転車はマイク少年の分身と言ってもいいのではないか。思いを寄せる同僚スーザンに車で踏み潰されるところも含め。

マルク青年の「ポルシェ」に相当するのが、マイク少年の場合「スーザン」であろう。つきまとい、男出入りにいちいち憤慨し邪魔をし、物損まで起こす。しかしよくよく考えると、彼はスーザンに一体何を求めているのかが今ひとつわからないのである……それを「恋」と考えるならば恋なのかもしれないが、恋っていったいどんなもの? もしかしたら彼自身それがわからないのでは? 
スーザンはいわゆるビッチであり、余計にマイク少年を苛立たせる。婚約者がいるのに浮気性だ、という義憤は裏から見ると自分にだけセックスさせてくれないという不満と、そして独占欲にも思える。性への欲求と恋愛感情はしばしばコンタミネーションを起こす。
彼は繁華街でスーザンによく似た看板を見かけ、かっさらう。この看板娘は彼にとっての「理想のスー」であろう。

はたしてマイク少年はスーザンとどうなりたかったのか。ここで少年の焦燥感(それはとても普遍的な)と監督のアイディア(それはとても特異な)が融合する。

マイク少年と揉み合っているうちになくしてしまったスーザンの指輪のダイヤモンド。それを見つけるシークエンスは非常に独創的である…… いや、これはここまでにしておこう。「雪の中でダイヤモンドをなくしたら、見つけるためには映画監督が必要だ」トークで監督はそんな感じの冗談を言っていたような。
そしてマイク少年は、ある行動に出る(これは『出発』のラストシーンに対応するのかもしれない−− 相手を試す、という点においても)。

欲求は本能でも、行動は学習によるものである。おそらくマイク少年はそのバランスが欠けていたのだろう……そして彼が無意識に呟く言葉は決定的だ。彼もまた蛹の時間、しかし殻の中はまだドロドロだ。まだ羽化には早い、気持ちだけがはやる。

スーザンにとって大事なものはただのダイヤモンドである。誰から渡されたか、どんな意味があるのかにまではあまり関心がなさそうだ。
マイク少年の体を張った駆け引きなど彼女の心を1ミリも動かさない。付き合う義理なんてありはしないのだ。
水のないプールの底。まったく年上の女は子どもの手に負えるものではない。
故意か過失か、行き場をなくした少年の衝動は、溢れ出した水に沈み、思いを遂げる。

マルク青年は次のステージに進み、
マイク少年の時間はそこで止まった。
この2人の人物像を引き継いだのは、『アンナと過ごした4日間』(2008)の中年男、レオンである。
映画作家の張った伏線、とんだ長い年月を経て回収されたものであることよ。

ホットドッグ大食い度:★★★★★

(text:井河澤智子)



 『早春 デジタル・リマスター版』 
原題:Deep end
西独=英 / 1970 / 92分

監督:イエジー・スコリモフスキ

出演:ジョン・モルダー=ブラウン
   ジェーン・アッシャー

作品解説
学校をやめてしまったマイクは、公衆浴場で働き始める。そこで出会った年上の同僚スーザンに恋心を抱くが、スーザンに翻弄され、深みにはまっていく。

劇場情報
2018年1月13日よりYEBISU GARDEN CINEMAほかにて公開予定

公式ホームページ
http://mermaidfilms.co.jp/deepend/

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Ikazawa Tomoko

本文中では省きましたが、この『早春』で使用された音楽について少しだけ。
監督は、ポーランド映画祭2017で上映後のトークで「イギリスとドイツのスタッフを使わなくてはならなかったので、キャット・スティーヴンスとCANを使った」とおっしゃっていましたが、ほぼ同時期の映画では、ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』(1971 アメリカ)でキャット・スティーヴンスの楽曲が使われていて、また、サミュエル・フラー『ベートーベン通りの死んだ鳩』(1972 ドイツ)でCANが使われています。スコリモフスキ監督は多分音にもこだわる人でしょう。音によって時代の空気がはっきりわかるものですね。

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2017年12月4日月曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『ファンさん』text高橋 雄太

「死の扱い」


中国の小さな村において、ひとりの老婆ファンさんが息をひきとる。これは亡くなるまでの数日間、彼女と看取る家族たちを記録した作品である。

寝たきり、認知症のファンさんは一言も話さない。一方、息子、娘、孫ら家族はファンさんの周囲に集まり、賑やかに話し続ける。家族の者は、ファンさんが彼らの存在や呼びかけを理解していると語るが、実際のところ彼女が会話を理解しているかは不明である。だが、ファンさんは何かを求めるように細い腕を伸ばして娘に触れる。また、涙を流すファンさんをアップで捉えた長回しは、この映画の中でもひときわ美しいショットである。家族に囲まれて静かな最期を迎えたファンさん。死後、家族が日常に戻るところで映画は終わる。

ファンさんの様子と並行して、村の男たちが超音波を使って魚を獲る様子が描かれている。彼らは、捕まえた魚を無造作に容器に放り込み、包丁でさばき、食べる。その一方で、数日かけてファンさんの死を看取り、死後の法要も予定している。動物と人間とを同列に扱わない。そんな当たり前のことを、日常とファンさんの死との対比から確認することができる。


映画の視点も同様である。王兵(ワン・ビン)監督の作品では通常のことであるが、この映画でもナレーションはなく、ファンさんの略歴もラストに数行の字幕で説明されるだけだ。しかし一見冷徹な本作は、ワン・ビンと被写体との親密さに支えられてもいるようだ。監督は、健康だった頃のファンさんとその家族に知り合い、彼女が体調を崩してから本格的に撮影を始めたとのこと。狭い部屋の定点観測、ファンさんへのクローズアップなど、物理的にも心理的にも距離の近い映画である。見る者もワン・ビンの視点と家族の姿勢に同化していく。彼女のことを知らない私までもが、ファンさんの表情と死には厳粛さ、美しさを感じるようになるのだ。

いくつもの生命と死のうち、ファンさんだけを特別視する人々と映画、そして私。本作を見ることで、彼女の死に感情を揺さぶられる自分の姿勢も「特別扱い」なのだと知ることになる。筋肉の伸縮を「何かを求めるように細い腕を伸ばし」、眼窩からの液体の流出を「涙を流す」とみなして、何らかの意味を見出そうとすること。それが無自覚的な選択の結果であったことを自覚する。無論のこと、全てを同列に扱う必要もないし、人間の死に特別な感情を抱くのも当然である。そうした感情が実は根拠薄弱であること、だからこそ我々に理屈抜きで生じるもの、自然なものだとも言えるであろう。

(text:高橋雄太)


『ファンさん』
香港、フランス、ドイツ/2017年/87分

監督:ワン・ビン

第18回東京フィルメックス特別招待作品

作品解説
本年のロカルノ映画祭で金豹賞を受賞したワン・ビンの最新作。アルツハイマー病で寝たきりになり、ほとんど表情にも変化が見られない老女と周囲の人々をとらえ続ける。一つの死の記録にとどまらず、見る者に様々な問題を投げかけてくる挑戦的な傑作である。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/specialscreenings/ss06


〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)※会期終了

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。第18回東京フィルメックスでは『ファンさん』の他に『暗きは夜』もよかったです。

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