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2017年12月4日月曜日

第18回東京フィルメックス〜映画『ファンさん』text高橋 雄太

「死の扱い」


中国の小さな村において、ひとりの老婆ファンさんが息をひきとる。これは亡くなるまでの数日間、彼女と看取る家族たちを記録した作品である。

寝たきり、認知症のファンさんは一言も話さない。一方、息子、娘、孫ら家族はファンさんの周囲に集まり、賑やかに話し続ける。家族の者は、ファンさんが彼らの存在や呼びかけを理解していると語るが、実際のところ彼女が会話を理解しているかは不明である。だが、ファンさんは何かを求めるように細い腕を伸ばして娘に触れる。また、涙を流すファンさんをアップで捉えた長回しは、この映画の中でもひときわ美しいショットである。家族に囲まれて静かな最期を迎えたファンさん。死後、家族が日常に戻るところで映画は終わる。

ファンさんの様子と並行して、村の男たちが超音波を使って魚を獲る様子が描かれている。彼らは、捕まえた魚を無造作に容器に放り込み、包丁でさばき、食べる。その一方で、数日かけてファンさんの死を看取り、死後の法要も予定している。動物と人間とを同列に扱わない。そんな当たり前のことを、日常とファンさんの死との対比から確認することができる。


映画の視点も同様である。王兵(ワン・ビン)監督の作品では通常のことであるが、この映画でもナレーションはなく、ファンさんの略歴もラストに数行の字幕で説明されるだけだ。しかし一見冷徹な本作は、ワン・ビンと被写体との親密さに支えられてもいるようだ。監督は、健康だった頃のファンさんとその家族に知り合い、彼女が体調を崩してから本格的に撮影を始めたとのこと。狭い部屋の定点観測、ファンさんへのクローズアップなど、物理的にも心理的にも距離の近い映画である。見る者もワン・ビンの視点と家族の姿勢に同化していく。彼女のことを知らない私までもが、ファンさんの表情と死には厳粛さ、美しさを感じるようになるのだ。

いくつもの生命と死のうち、ファンさんだけを特別視する人々と映画、そして私。本作を見ることで、彼女の死に感情を揺さぶられる自分の姿勢も「特別扱い」なのだと知ることになる。筋肉の伸縮を「何かを求めるように細い腕を伸ばし」、眼窩からの液体の流出を「涙を流す」とみなして、何らかの意味を見出そうとすること。それが無自覚的な選択の結果であったことを自覚する。無論のこと、全てを同列に扱う必要もないし、人間の死に特別な感情を抱くのも当然である。そうした感情が実は根拠薄弱であること、だからこそ我々に理屈抜きで生じるもの、自然なものだとも言えるであろう。

(text:高橋雄太)


『ファンさん』
香港、フランス、ドイツ/2017年/87分

監督:ワン・ビン

第18回東京フィルメックス特別招待作品

作品解説
本年のロカルノ映画祭で金豹賞を受賞したワン・ビンの最新作。アルツハイマー病で寝たきりになり、ほとんど表情にも変化が見られない老女と周囲の人々をとらえ続ける。一つの死の記録にとどまらず、見る者に様々な問題を投げかけてくる挑戦的な傑作である。

作品紹介ページ(第18回東京フィルメックス 公式ホームページより)
http://filmex.net/2017/program/specialscreenings/ss06


〈第18回東京フィルメックス〉
■期間
2017年11月18日(土)〜11月26日(日)(全9日間)※会期終了

■会場
A)
11月18日(土)~11月26日(日)
有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇にて

B)
11月18日(土)~11月26日(日)
 有楽町朝日ホール他にて

■一般お問合せ先
ハローダイヤル 03-5777-8600 (8:00-22:00)
※10月6日(金)以降、利用可

■共催企画
・Talents Tokyo 2017(会場:有楽町朝日スクエア)
・映画の時間プラス(期間:11/23、11/26/会場:東京国立近代美術館フィルムセンター)

■公式サイト
http://www.filmex.net/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。第18回東京フィルメックスでは『ファンさん』の他に『暗きは夜』もよかったです。

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2017年3月29日水曜日

映画『人類遺産』評text高橋 雄太

「人類以外の視線」


太陽系第三惑星・地球。かつてこの惑星には人類(ホモ・サピエンス)という生物が生息しており、文明を築いていたという。しかし、人類はすでにこの星に存在しない。ここにあるのは、人類滅亡後の地球に残された彼らの遺産の数々である…。 


例えば未来の地球を訪れた宇宙人ならば、この映画に登場するものと似た風景を目にして、冒頭のような言葉を残すのではないだろうか。『人類遺産』(原題:HOMO SAPIENS)を見れば、そんなことを想像してみたくなる。これは人類以外の視点を体験させる映画なのである。

この映画には数多くの廃墟が登場するのだが、廃墟は決して我々に縁遠い場所ではない。コロッセオ、アンコール・ワット、原爆ドーム、アウシュビッツ収容所などの歴史的な遺産は、世界的に有名な廃墟と言えるだろう。こうした歴史的遺産には説明がつけられていることが多く、私たちは現地を訪れる際に、それらの解説、さらに本や博物館で知識を得ることができる。そして廃墟になる前の姿、過去に存在したであろう歴史上の著名人や名もなき人々、さらに苦難を味わった人たちの物語に想いを馳せる。

『人類遺産』においても、冒頭に登場するドーム型建造物から始まり、病院や教会、東日本大震災の被災地と思われる場所の映像などから、過去のことをかろうじて想像することはできる(*1)。兵器の映像からは戦争への警鐘を感じることも不可能ではない。だが、本作には、遺産の情報を示す字幕もナレーションも一切なく、人間は一人も登場しない。今は廃墟となった場所にいたのはどのような人々なのか。なぜ打ち捨てられてしまったのか。本作から、遺産に隠された物語を読み取ることは難しい。情報の欠如と、「遺産」に存在したであろう人類の不在を前に、観客は物語への共感も、「諸行無常」という感傷にひたることも困難な宙づりの状態に置かれる。

一方、人類の不在とは対照的に動植物は存在しており、地球も活動し、自然現象も発生する。鳥はさえずり、植物は建物を侵食するように生い茂っている。風は木々を揺らし、雨は重力に引かれて降り注ぐ。人類の時は止まってしまったが、そんなこととは無関係に時間は流れ続けている。私たち人類は、前述のコロッセオや原爆ドームといった遺産を修復している。再建でも撤去でもなく、廃墟を廃墟のまま残すため、歴史を受け継ぐため、修復する。だが『人類遺産』における廃墟は、修復とも再建とも無縁に見える。人間がいない世界において、人類遺産は不可逆な時の流れの中にあり、容赦なく朽ち果てる未来に向かうのだろう。

人間の不在とは対照的に、この作品に必要不可欠な存在がいる。それは「人類遺産」を見つめる者だ。この作品は極めて恣意的に作られたものである。廃墟を正面から見据えるシンメトリーの構図、差し込む光とその軌跡を可視化する土煙。固定ショットの映像を包み込む音。廃墟を捉える美しい映像と音は、無造作に記録されたものではなく、不自然なまでに作り込まれたものであり、何者かが手を加えたことは明らかである。無論のこと、人間が排除された被写体を準備し、構図を定め、カメラの手前で視線を向けているのはニコラウス・ゲイハルター監督らである(*2)。だが、人類の消えた世界と人類から断絶した時の流れの中にあって、その視線は人類以外の存在を感じさせるものとなる。本文の冒頭では一例として宇宙人を挙げたが、知性と意識を持って人類遺産を見つめる者がいるのだ。

本作はドキュメンタリー映画に分類されるているが、実はフィクションでもある。劇映画のように架空の物語というフィクションではなく、反対に物語と人類の不在というフィクションであり、そこから生じる人類ならざる視線というフィクションである。すなわち、HOMO SAPIENS=人類という原題を持つ本作は、人類が主役なのではなく、タイトル通りに人類を客体化した作品、人間中心主義を脱した映画である。私たちはこの映画を見ることで、人類以外の視線と一体化し、来たるべき人類不在の地球をめぐる旅に出る。

さて、冒頭に述べた想像を続けてみる。『人類遺産』が本当に「人類遺産」として地球に残された未来、それを発掘した者はこんなふうに思うだろうか。

人類というのは不思議な生物だったようだ。反映していた時代に生きていながら、自分たちが滅亡した後の地球を映像に残していたのだから…。



【脚注】 

(*1)映画には福島県浪江町の風景が登場する(本作のパンフレット、3月11日上映後の佐藤健寿氏、岩崎孝正氏トークショーより)

 

(*2)監督らは、廃墟近くにいた人たちが写り込まないないように撮影したという。また、音声の中には映像とは別に追加したものがあるとのこと(パンフレット、同トークショーより)


(text:高橋雄太)




『人類遺産』
2016年/94分/オーストリア、ドイツ、スイス
原題:HOMO SAPIENS 

作品解説
『いのちの食べ方』のニコラウス・ゲイハルター監督最新作。撮影期間4年、世界70ヶ所以上の廃墟を撮影した作品。ブルガリアの共産党ドーム、東日本大震災の被災地、病院、ゴーストタウンといった数々の場所が登場する。放置され、朽ちゆく人口建造物の風景からは、人々が去った後もなお、不思議な息吹が感じられる。彼らが私たちに伝えようとしているメッセージとは何か? いま、時空を超えた人類遺産との対話が始まる。

スタッフ
監督・撮影:ニコラウス・ゲイハルター
編集:ミヒャエル・パルム
音響デザイン:ペーター・クーティン、フローリアン・キンドリンガー 
録音:アレクサンダー・コラー
プロデューサー:ニコラウス・ゲイハルター、ミヒャエル・キッツベルガー、ヴォルフガング・ヴィダーホーファー、マルクス・グラーザー

提供:新日本映画社

配給・宣伝:エスパース・サロウ

劇場情報
2017年3月4日(土)より、シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開 

公式ホームページ 
http://jinruiisan.espace-sarou.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。本文中に挙げた遺跡のほかにイチオシは中国の雲崗石窟です。

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2017年3月19日日曜日

映画『息の跡』評text高橋 雄太

「生きる跡」 


生きることは息をすること。息の跡は生きる跡。別に言葉遊びをしているのではない。映画『息の跡』には人の生きる跡が刻まれているのだ。

岩手県陸前高田市にある種苗店「佐藤たね屋」。その小さな店を営む佐藤貞一氏がこの映画の主人公だ。東日本大震災の際に発生した津波によって以前の店は流されてしまい、本作に登場するプレハブ小屋は再建後の店舗である。佐藤氏は、店を営む一方で英語を独学し、震災の体験を英語で書き残した本を出版している。さらに中国語、スペイン語にも挑戦しているという。また、語学だけでなく、陸前高田の歴史を独自に調査し、過去の津波のこともよく知っている。本業の種苗については、震災前に出願した特許を自慢げに語る。彼は、撮影中の小森はるか監督に話しかけ、よく笑う。とにかくパワフルである。

その佐藤氏にカメラを向ける小森監督。彼女は、震災後に東京から陸前高田に移住し、映像を撮り続けているという。狭い店内とその周辺において、佐藤氏と小森監督ほぼ二人の対話劇として、このドキュメンタリー映画は続いていく。彼女のカメラは、佐藤氏が育てる植物、原野に建つ佐藤たね屋の奇妙な姿、地域の祭り、それをよそに続く堤防の工事といった陸前高田の風景を記録していく。

二人に共通する記録という行為。それは、震災を忘れないため、陸前高田の記憶を後世に残すためであり、過去の教訓を生かすためでもあるだろう。佐藤氏はカメラの前で、自ら執筆した英文をまるで俳優のように堂々と朗読する。彼自身、自分の言葉を呪文や念仏のようなものだと語っている。失われた命への鎮魂、忘れないという未来への宣言。

ただ、佐藤氏の言葉は、自分自身にも向けられているのではないだろうか。佐藤氏と小森監督の二人だけの空間で行われる、カメラ目線でもなく、アップでもない状態での朗読。佐藤氏の声は、監督やカメラ、そして観客に直接向いているのではなく、空間の中に浮遊する。まるで、聞かせることではなく、語ること自体が目的であるかのように。彼の言葉が呪文であるならば、誰もよりも佐藤氏自身にかける呪文ではないか。言葉を発すれば自分のエネルギーになって返ってくる、正のフィードバックと言ってもいい。生きていることを記録する表現であり、同時に表現そのものが生きることになる。

表現=生きる。これもやはり佐藤氏と小森監督に共通していると思える。陸前高田に移住し、佐藤たね屋にカメラを持ち込み、佐藤氏との対話を撮影する。彼女にとって、佐藤氏と共有する時間が、移住先である陸前高田での生活の一部でもある。彼の姿、陸前高田の大地、風と草。その姿を捉える一瞬一瞬が、陸前高田に生きる時間である。

言葉が佐藤氏を、撮影が小森監督を突き動かす。たねのように、自らの内側から生命が発芽する。『息の跡』は、陸前高田の記録というだけでなく、二人の生きる跡であり、生きることが生まれる瞬間である。


(text:高橋雄太)




『息の跡』

2016年/93分/日本

作品解説
東日本大震災の津波により流されてしまった岩手県陸前高田市の住宅兼店舗の種苗店を自力で立て直し、営業を再開した佐藤貞一さんを追ったドキュメンタリー。津波で住宅兼店舗を流されてしまった佐藤さんは自力でプレハブを建て、種苗店の営業を再開した。看板は手書き、仕事道具も手作りで、水は手掘りした井戸からポンプで汲みあげる。佐藤さんは、種苗店を営む一方で、自身の被災体験を独学で習得した英語でつづった本を自費出版し、中国語やスペイン語での執筆にも挑戦。さらに、地域の津波被害の歴史を調査し、過去の文献に書かれた内容が正しいものなのかを自力で検証していく。ボランティアとして東北を訪れたことをきっかけに東京から陸前高田に移り住み、本作が初の長編監督作品となった映像作家の小森はるかが佐藤さんにカメラを向け、不得手な外国語で自身の体験を書き続け、津波被害の歴史を調べ続ける佐藤さんの思いをひも解く。

スタッフ
監督:小森はるか
プロデューサー:長倉徳生、秦岳志
撮影:小森はるか
編集:小森はるか

配給:東風

劇場情報
ポレポレ東中野にて、好評につき2週間の上映延長決定!!
●3/11(土)〜3/24(金・楽日) … 12:20〜

公式ホームページ
http://www.ikinoato.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。フレデリック・ワイズマンの特集上映と、先日テレビでシリーズ全話から劇場版まで一気に見た『ガールズ&パンツァー』に圧倒されています。

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2017年1月6日金曜日

特集上映『エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ』text高橋雄太

「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカを見る〜映像百科事典の世界〜」


エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ(EC:Encyclopaedia Cinematographica、ECフィルム)は、ドイツの国立科学映画研究所が始めた映像百科事典プロジェクトである。世界各地にカメラマンを派遣し、民俗学、生物学、技術科学における映像を記録した3000タイトル強のフィルムアーカイブで構成されている。日本では下中記念財団により管理され、少しずつデジタル化が行われているという。2016年11月19~25日、ポレポレ東中野にてゲストを迎えての特集上映「エンサイクロペディア・シネマトグラフを見る」が行われた。残念ながら、私が参加できたのは全7回のうち4回(11/19,20,21,25)だけであるが、興味深いイベントであった。

特集上映の内容は以下の通り(日付 テーマ ゲストの順、敬称略)。

11/19 一から自分で作る暮らし 関野吉晴
11/20 異形のモノがやってくる 世界の祭 赤坂憲雄
11/21 生きものの驚異と不思議 荒俣宏
11/22 糸、世界の植物を紡ぐ 眞田岳彦
11/23 世界音楽入門 U-zhaan、長嶋りかこ
11/24 食べているのは生きものだ 森枝卓士、高田ゆみ子
11/25 自然へのまなざし、その歩み 中村佳子、石原あえか

まず、ECフィルムの特徴を説明しよう。今回の上映作品の長さは1分程度から15分程度。画面はモノクロもカラーもあり、音声はサイレントもトーキーもある。スローモーション、早送りを利用した作品もある。特筆すべきは、作品の内容についての説明がほとんどないことである。作品中に字幕はほとんどなく、ナレーションに至っては皆無である。作品の一部にはドイツ語の解説論文もあるとのことだが、今回の上映に特別な解説などはなかった。

次にイベントのスタイルについても述べておく。今回のイベントは、上映中にゲストがトークをするという、弁士付き上映のような形式で行われた(なお、関野吉晴氏は劇場でアシ舟作りの実演まで行った)。前述のように作品には説明がほとんどないため、何が行われているかわからず、ゲストの方々も私たち観客も、疑問や感嘆の声、ときに笑い声をあげながら作品を鑑賞した。

さて、作品のタイトルをいくつか見ていただたきたい。『アシ舟カバリトづくり 北ペルー 西海岸』、『夜の仮面の登場 赤道アフリカ カメルーン草原(ティカール族)』、『農家の夕食 中央ヨーロッパ チロル』、『テマリクラゲ(クシクラゲ類)行動様』、『エキノステリウムの一種 アメーバ相』。映像による百科事典を目指していただけのことはあり、様々な地域の祭式から日常、さらに人間以外までカバーしている。

個々の作品に注目してみる。『丸太を持っての儀礼的駅伝競走 ブラジル トカンティンス地方』は、半裸の人々が丸太のような物体を抱えて走るだけという、アクション映画のように面白いのだが、意味不明の作品である。わからなさで言えば『農家の夕食 中央ヨーロッパ チロル』も相当なものである。子だくさんの家族が大皿の料理をスプーンでひたすら食べる様子が16分続く。人の名前も、何を食べているのかもわからない。大勢で一皿を共通に食べるのがこの地方の風習なのか、それともこの一家だけの習慣なのかも不明である。わけのわからない映像を説明なしで見続けることが、本イベントの魅力であった。

中村佳子氏と石原あえか氏とのトークにおいて言及のあった「驚異の部屋」は、ECフィルムの性質を表す言葉であろう。驚異の部屋、ドイツ語で「ヴンダーカンマー」または「クンストカンマー」。ヨーロッパの王侯貴族らが世界中から収集した珍品を展示した部屋であり、博物館の原型ともされている。珍しいもの、よくわからないもののアーカイブであるECフィルムは、映像による百科事典であり、驚異の部屋とも言える。

よく知られていることであるが、映画の創始者とされるリミュエール兄弟も、映画の誕生直後に世界各地のアーカイブを残すためにカメラマンを派遣している。未知の世界への好奇心、その世界を手元に置きたいという収集癖と支配欲、見ることへの欲望。それが驚異の部屋からリミュエール、ECフィルムにまで共通するモチベーション、人間の性質なのかもしれない。

さて、生物系の作品を手掛かりとして、この百科事典が「映像」であることの意味を述べていこう。『オランウータン 地上での移動』と『アメリカダチョウ 走行』は、スローモーションを利用することで動物の運動をじっくりと観察したものである。これらとは反対に、『ヨーロッパアカガエル 卵割と胚発生』における美しい細胞分裂や、『エキノステリウム』の粘菌の躍動は、早送りによって人間のタイムスケールでも一連の動きとして見ることが可能となっている。また後者2作品は、肉眼には小さすぎる生物を高倍率で撮影した作品であることは言うまでもない。

これらの作品は、映画誕生以前のことを思い起こさせる。写真家のエドワード・マイブリッジ(1830-1904)は馬の疾走の連続写真を撮影した。この写真によって、人間の目には速すぎる馬の走行の様子を正確に理解することができるようになったという。マイブリッジからさらに遡ること数百年、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が望遠鏡を用いて観察した月のクレーター、木星の衛星、太陽の黒点などは、地動説を後押しする根拠になった。見ることのできなかったものが見えるようになり、人間は世界への理解を促進させたのだ。

最近は拡張現実(AR:Augmented Reality)という言葉もよく聞かれるが、そもそも視覚メディアや光学機器は現実を拡張させる手段だったのであろう。そしてECフィルムは、現実を収集した百科事典であり、同時に現実を拡張させるメディアであると言える。

2017年現在、すでにECフィルムプロジェクトは終了してしまったとのことだ。だが、TV、YouTubeなどの映像が私たちの見る範囲を拡張し、また誰もが映像アーカイブを残すことが可能になった現代は、映像による百科事典の時代であろう。いまだからこそ、先達であるECフィルムを見る意義がある。
(text:高橋雄太)



『エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ』


作品解説
エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ(EC:Encyclopaedia Cinematographica、ECフィルム)は、1952年にドイツの国立科学映画研究所で始まった映像による百科事典プロジェクトである。開始から約30年間の歳月を費やして世界各地に研究者・カメラマンを派遣し、3000タイトル強の映像を収集した。日本では下中記念財団がECフィルムの管理・運用をしている。

プロジェクトメンバー
●下中邦彦記念映像活用委員会
委員長/下中弘(下中記念財団理事)委員/飯塚利一(下中記念財団理事)下中菜穂(エクスプランテ)
川瀬慈(国立民族学博物館)丹羽朋子(人間文化研究機構、NPO FENICS)浜崎友子(記録映画保存センター)
●クリエイティブチーム
佐藤有美(cotoconton)林澄里(旅音)中植きさら・石川雄三(ポレポレタイムス社) 津田啓仁 下中桑太郎

公式ホームページ
http://ecfilm.net/
※デジタル化済(DVD)上映素材を有料で借りることができます。
個人での視聴も可能。


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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。2016年、よかった映画は『光りの墓』『シン・ゴジラ』。ミュージアムはロンドンの大英博物館、自然史博物館。

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2016年12月9日金曜日

映画『カレーライスを一から作る』評text高橋 雄太

「カレーライスから考える 」


カレーライス。おそらく日本で最も一般的な料理の一つだろう。

カレーライスは多くの店で提供されており、また特に料理好きでない私でも、食材とルーを買って作ることがある。だが、スーパーで売られているのは収穫済みの野菜であり、動物の形態を残していない肉である。市販のルーを眺めても、それがどのように作られたのか、その中に何が含まれているのか、想像することは難しい。お店で食べれば、調理の過程もわからない。よく知っているようで、よく知らないカレーライス。このありふれた料理が、私たちの生について考えるきっかけになる。

映画が追うのは、医師であり「グレートジャーニー」の探検家としても知られる関野吉晴氏が、武蔵野美術大学で担当するゼミである。関野は、学生たちとともにカレーライスを一から作ることを目指す。すなわち、田んぼで米を、畑で野菜やスパイスを、海から塩を、土から器を作り、飼育小屋で動物(ホロホロ鳥と烏骨鶏)を育てる。

私たちが、「作らない」ことで手にした利便性、効率性、お手軽さ。それらを一旦捨て、自分たちの手で作る。自分たちの身の回りにあるものがどこから来るのか。人や社会がどのように私たちとつながっているのか。それを知ることが生きる力になると、関野は語る。「カレーライスを一から作る」ことは、カレーライスだけでなく、私たちの生活の源泉を遡ることでもあるのだ。

農業にも飼育にも不慣れな学生たちは悪戦苦闘し、葛藤する。関野ゼミの畑に比べ、化学肥料を使う他の畑の方が野菜の生育が早い。ゼミ生の一人は化学肥料を使うべきか悩み、結局は堆肥のみとする。「作る」作業であるはずの農業にも、自分たちで「作らない」化学肥料という手段がある。さらに、私を含め農業をしない多くの人々は、食糧に関してはほぼ自ら作ることがない。他人の作ったものに支えられ、何重もの利便性を享受して生きている。関野ゼミでは「作らない」を「作る」にしていくことで、現代の生活を支えるものをゼミ生たちに、そして私たちに自覚させていく。

動物の飼育からも見えてくるものがある。予定通り鶏肉入りのカレーライスを作るためには、飼育した動物を屠る必要がある。学生たちは手作りで小屋を作り、餌を与え、様子をノートにつけるなど、丁寧な飼育をしてきた。鳥の方でもゼミ生になついているようで、膝や肩に乗ってくる。 「かわいいから殺したくない」、「食べ物として育てたのだから屠る」など議論を交わした末、ゼミ生たちは鳥を屠る。

解体された鳥の体内には、餌となった植物が残っている。人間はその鳥を食べる。人間も他の動物も、いのちを食べて生きているのだ。その「いのち」を「かわいいペット」や「食べ物」とみなすことは、人間が勝手に決めることである。また、関野がゼミ生に指摘するように、同じ「いのち」であるはずの動物と植物を区別することも人間の都合である。「いのち」とともに生きること。それは「いのち」を犠牲にすることもあり、愛することもあるという人間の立場、身勝手さを自覚することなのかもしれない。

さて、揚げ足をとるつもりはないが、ゼミの活動は厳密には「一から」ではない。包丁、鍋、鳥の雛、植物の種子などは、ゼミの外部から入手したものである。「カレーライスを一から作る」ことの前に、「一から」以前がある。このことから、私たちが「一から」生きるのが難しいことに気づかされる。まして、分業も都市化も進み、土や動物に触れることも少ない現代の日本では、なおさら難しいだろう。かく言う私も、農業や飼育の経験はない。この映画を見て、貴重な経験をするゼミ生たちを羨ましく思った。せめて、生活を支えるものと自分たちの立場を想像することにしよう。

最後に完成したカレーライス。実際の味はともかく、見ていると食欲をそそられる。鑑賞後の私の食事はカレーライスだった。もちろん鶏肉入り。

(text:高橋雄太)





『カレーライスを一から作る』

2016/96分/日本 


作品情報
医師であり探検家でもある関野吉晴氏が、武蔵野美術大学で開催した「関野ゼミ」。その内容は「カレーライスを一から作る」こと。本作はカレーライスが「一から」出来上がるまでの記録したドキュメンタリー映画である。

スタッフ
監督:前田亜紀
プロデューサー:大島新
音楽:U-zhaan

劇場情報
ポレポレ東中野にて公開中〜12月16日まで延長決定!

公式ホームページ
http://www.ichikaracurry.com


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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。映画祭のシーズンも終盤ですね。今シーズン見た中では東京国際映画祭の『ノクトラマ/夜行少年たち』、東京フィルメックスの『モンテ<山>』が特に好きです。

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2016年11月5日土曜日

映画『ぽんぽこマウンテン』text高橋 雄太

「流れ行く時間」





私たちは絶え間なく流れる時間の中で生きている。映画『ぽんぽこマウンテン』を見ていると、そんな当たり前のことに気づかされる。

モノクロームの画面の中、白い山型のトランポリン・ぽんぽこマウンテンの上で子供たちが飛び跳ねている。足が表面に着いた瞬間、再び足は離れ、子供たちは宙に舞う。下降と上昇が入れ替わるこの一瞬は、あっという間に過ぎ去ってしまう。ぽんぽこマウンテンの頂上。そこは左下がりの斜面と右下がりの斜面が入れ替わる一点である。ボールを置けば、山を転がり落ちてしまうだろう。山肌や山頂に達するのは、ほんの一瞬の出来事にすぎないのだ。

作品中にいくつも登場する脱ぎ捨てられた靴や笑顔の子供たちの静止画は、捉えられた瞬間とも思える。だが、その前後には何も起きない。下降も上昇もない、凍った時間だ。連続する静止画が動画に見えるように、瞬間が続くことで時は流れ出す。

モノクロームの画面は過去になっていく。作品中での子供たちが、小学生以下専用と書かれたぽんぽこマウンテンで遊べなくなる日もやって来る。それが時間の中に生きることである。

(text:高橋雄太)




   映画『ぽんぽこマウンテン』
2016 年/10 分/HD/16:9/白黒

撮影・編集:吉田孝行


作品概要 
「ぽんぽこマウンテン」とは、日本のとある公園に設置されている白い色のエア遊具のことである。雪山のようなトランポリンであり、その上で子ども達は、ぽんぽこ飛び跳ねて遊 んでいる。本作は、曲線のあるユニークな風景の中で、無邪気に遊んでいる子ども達の 姿を、動画と静止画の組み合わせによって表現したモノクロの映像作品である。作品の冒頭に引用される「子供心を失った者は、もはや芸術家とはいえない」という彫刻家コンスタンチン・ブランクーシの言葉に着想を得て制作された。

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国内上映情報


・日本セルビア映画祭2016に選出決定。11月12日(土)13時30分開始のAブロックにて上映決定。

会場:東京おかっぱちゃんハウス(西武新宿線・上石神井駅)http://www.jsff.jp/cont9/22.html




海外上映情報


・国際ヴィデオアート祭「Now&After 2016」
(10月22日〜11月29日、モスクワ、ロシア)
世界63ヵ国約800本の応募作品の中から、コンペ部門28本の1本に選出。毎日展示上映中。なお、毎日一人ずつ作家を紹介する「VIDEO NOW」という特別コーナーで、11月5日(土)に吉田孝行作品が取り上げられる予定。http://bit.ly/2fsyVWq

・三匹の小さなオオカミ映画祭(国際こども映画祭)
(11月3日〜6日、リュブリャナ、スロベニア)
11月4日(金)18時00分からのプログラム「DOCUCHILD」で上映。
http://bit.ly/2eHWczU

・サラミンダナオ・アジア映画祭(国際アジア映画祭)
(11月7日~11月13日、ジェネラルサントス、フィリピン)
短編部門に選出。上映日程未定。
http://salamindanaw.org/

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【監督プロフィール】


吉田孝行:Takayuki Yoshida

1972 年北海道生まれ。一橋大学大学院社会学研究科修士課程修了。会社勤めをしていた35歳の時に映画に目覚め、在職のままNPO 法人映画美学校に通い、様々な映像作品の制作に携わる。東京フィルメックス2014でアジアの映画人材育成事業「タレンツ・トーキョー」のコーディネーターを担当。日本で唯一のドキュメンタリー専門誌「neoneo」編集委員。



共著に『クリス・マルケル―遊動と闘争のシネアスト』、『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』(近刊)など。

最新の映像作品『ぽんぽこマウンテン』が、世界10ヵ国以上の国際フェスティバルに選出 されている。

(以下、主な国際フェスティバルの選出実績)

・New Media Arts Festival Madrid (IVAHM) 2016(国際ヴィデオアート祭) (2016 年 5 月 5 日〜5 月 15 日、マドリード、スペイン)

・Facade Video Festival 2016(国際ヴィデオアート祭) (2016 年 9 月 8 日〜9 月 10 日、プロヴディフ、ブルガリア)

・Eye on Film - International Film Festival for Children and Youth(国際こども映画祭) (2016 年 9 月 30 日~10 月 4 日、リュブリャナ他全 10 都市、スロベニア)

・International Video Art Festival Now&After 2016(国際ヴィデオアート祭) (2016 年 10 月 22 日〜11 月 29 日、モスクワ、ロシア)

・Video Art Project "Larga Vida a la Nueva Carne (LVNC)"(国際ヴィデオアート展) (2016 年 10 月 26 日〜10 月 29 日、ブエノスアイレス、アルゼンチン)

・SalaMindanaw Asian Film Festival(国際アジア映画祭)
(2016 年 11 月 7 日~11 月 13 日、ジェネラルサントス、フィリピン)

【Facebook】https://www.facebook.com/yoshidafilms(日本語) 
【Twitter】https://twitter.com/yoshidafilms(日本語)

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吉田孝行監督・執筆情報

論考「不在の人物とその表象ージェームス・ベニング『ステンプル・パス』」が『アメリカン・アヴァンガルド・ムーヴィ』(西村智弘・金子遊=編森話社)に収録。
執筆者=越後谷卓司、金子遊、太田曜、西村智弘、ジュリアン・ロス、阪本裕文、平倉圭、吉田孝行、西川智也、岡田秀則。

11月中旬発売予定。

11/22(火)にアップリンクで刊行記念イベント第一弾開催。
http://www.uplink.co.jp/event/2016/46531

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員にして『ことばの映画館』のライター。シネマ・キャンプ批評・ライター講座第二期受講生。

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2016年10月21日金曜日

映画『ハドソン川の奇跡』text高橋 雄太

「映画シミュレーション仮説」


過去をどのように振り返るべきか。過去を生き直すことはできるのか。クリント・イーストウッドのノンフィクション映画は近過去の出来事を手段として、そう問いかける。

本作は2009年1月15日に起きたUSエアウェイズ1549便の不時着事故とその後の経過を映画化したものである。機長チェスリー・サレンバーガー(通称サリー、演じるのはトム・ハンクス)は、バードストライクによって推力を失った機体をハドソン川に不時着させる。一人の犠牲者も出さない「奇跡」を起こしたサリーは英雄になる。しかし、国家運輸安全委員会は事故の調査を開始し、サリーと副機長ジェフリー・スカイルズ(アーロン・エッカート)の判断に疑問を呈する。不時着という危険を冒さず、空港に引き返すことも可能だったのではというのだ。サリーは事故の悪夢と厳しい追及に悩まされる。

サリーの悪夢の中では、航空機がニューヨーク市街に墜落する。言うまでもなく、この墜落は2001年9月11日のテロの記憶を示唆している。そこに「奇跡」が起き、人々は歓喜する。劇中の「飛行機でいい話は久しぶりだ」とのセリフに表れているように、悪しき記憶に幸福な記憶を上書きすることができる。

ただ、サリーにとって記憶は重荷でもある。彼は事故を振り返る。「自分は正しかったのか」、「墜落していたかもしれない」、「あの時こうすればよかったのでは」。不安と後悔の中、あり得たかもしれない過去を想像する。だが時間が戻ることはない。事故の回想シーンは何度も反復され、その度にサリーらの声、乗客の叫び、客室乗務員の「Brace! Brace! Brace! Heads down! Stay down!」の警告、爆音と警報などの多様な音が機内に響き渡る。しかし、臨場感あふれる音と映像の繰り返しに反して、生は一回限りであり、やり直しは不可能である。事故の当事者の彼をして、記憶をたどることだけが可能なのだ。

事故を振り返るのはサリーだけではない。記憶に代わるもう一つの手段はシミュレーションだ。フライトシミュレータを用いた事故のシミュレーションにより、空港への着陸は可能、つまり不時着というサリーの判断は危険なものという結果が得られる。それに対しサリーは人的要因の重要さを指摘し、自らの正しさを主張する。人的要因としてバードストライク後に待機時間を設定したシミュレーションでは、空港への着陸は不可能、つまりサリーの判断の正しさが裏付けられる。

シミュレータの中は静寂に包まれており、操縦者の「鳥だ!」の叫びだけが突出して大きく聞こえる。音に満ちた事故の回想と静寂の中のシミュレーション。結果も雰囲気もシミュレーションと事故とでは違う。すなわち、シミュレーションが過去を完全に再現することなどできるはずもない。当事者であるサリーだけが記憶を反芻することができるのだ。

そして「ハドソン川の奇跡」は幸福な出来事として私たちの記憶に刻まれる。だが、私たちが見たものも、過去そのものではなくやはりシミュレーションであろう。

シミュレータは白い箱型の装置であり、内部にはニューヨークの映像が映し出される。静かで、パラメータの入力に応じて映像を出力する箱、それがシミュレータである。このシミュレータは映画館と似ていないだろうか。前述のようにシミュレータは静寂に包まれており、内部にはスクリーンに向き合う座席が設けられている。映画館は原則的には静かで、映像と向き合うための座席が配置された空間である(さらに偶然だが日本語では映画館を「箱」と呼ぶことがある)。

事故のシミュレーションでは、パラメータ(おそらく機体の座標、速度、方位など)を入力する。仮想のバードストライクが発生し、操縦者が台本に書かれたセリフのように「鳥だ!」と叫び、決められた空港に向けてシミュレータを操作する。「人的要因」として待機時間を追加後、同じ操作が行われる。パラメータ次第で、同じ出来事を異なるものとして反復することができる。だが、そのシミュレーションが当事者の経験をそっくり再現できなかったことは前述の通りだ。

過去の反復ではあるが過去そのものではない。それがシミュレーションであり、映画である。『ハドソン川の奇跡』では、機長役にトム・ハンクス、台詞、カメラアングル、ショット数、ショットの持続時間などの「パラメータ」を設定する。映画館という「シミュレータ」に入力することで、サリーの物語をシミュレートする映像と音が出力され、上映を始めれば何度でも反復することができる。パラメータが変われば(例えばキャストの一人でも変更すれば)、この物語を別物として再現することもできるだろう。映画は過去そのものの再現ではなく、観客に過去の一つの例を体験させるシミュレーションなのだ。

近年のクリント・イーストウッドの監督作を列挙してみると、『父親たちの星条旗』(2006年)、『チェンジリング』(2008年)、『インビクタス/負けざる者たち』(2009年)、『J・エドガー』(2011年)、『ジャージー・ボーイズ』、『アメリカン・スナイパー』(ともに2014年)など、ノンフィクション映画が多い。1930年生まれのイーストウッドにとって、ほぼ同時代の出来事の映画化である。時代が違えばもちろんのこと、たとえ同時代に生きていても、全ての出来事に直接関与することも、記録することも難しい。だが彼は、事実ベースの劇映画を撮ることで、過去の記録ではなく、シミュレーションを後世に残そうとしているように思える。

『インビクタス』、『アメリカン・スナイパー』、『ハドソン川の奇跡』の元になった話は、イーストウッドよりはるかに若年の私にとっても同時代のものである。だが私は、イラクの戦場や戦時下のアメリカ、不時着事件を体験せず、当事者としての記憶も持たない。イーストウッドの映画は、過去を振り返り、再現する。ただしシミュレーションとして。誰も過去それ自体を生き直すことはできない。だが、映画=シミュレーションは、虚実の間をただよい、歴史に目を向けることを私たちに促している。


シミュレーション度:★★★★★
(text:高橋雄太)



『ハドソン川の奇跡』

原題:Sully
2016/アメリカ/96分

作品解説

クリント・イーストウッド監督、トム・ハンク主演により、機長だったチェズレイ・サレンバーガーの手記「機長、究極の決断『ハドソン川』の奇跡」をもとに、2009年のアメリカ、ニューヨークで起きた航空機事故を映画化。2009年1月15日、乗客乗員155名を乗せた航空機がニューヨーク上空で推力を失う。機長サリーはハドソン川への不時着を決断し、全員が生還する。英雄となるサリーだが、国家運輸安全委員会は彼の判断を疑問視し、調査を行う。

キャスト

チェスリー・“サリー”・サレンバーガー:トム・ハンクス
ジェフ・スカイルズ:アーロン・エッカート
ローリー・サレンバーガー:ローラ・リニー

スタッフ

監督:クリント・イーストウッド
原作:チェズレイ・サレンバーガー、ジェフリー・ザスロー(「機長、究極の決断 『ハドソン川』の奇跡」)

劇場情報

TOHOシネマズ新宿ほか全国劇場にて公開中

公式サイト

http://wwws.warnerbros.co.jp/hudson-kiseki/


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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好きな会社員。アニメでは『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』、本ではディラックの『量子力学』にハマっています。

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2016年10月2日日曜日

映画『イレブン・ミニッツ』評text高橋 雄太

「世界タイムライン仮説」


タイムラインとはTwitterなどのSNSにおいて投稿が時系列に沿って流れていく画面である。世界はそのタイムラインで構成されている。これが映画『イレブン・ミニッツ』から得られる仮説である。

本作はいわゆる群像劇である。現代の都会に生きる多くの人々の午後5時から5時11分までが描かれる。ホテルの一室で会談する、映画関係者らしき男性と俳優の女性。彼女を探す夫。ホットドッグを売る男性とその息子。犬の散歩をする女性。救急隊員。犯罪に手を染めようとする少年。老画家。他にも多くの人物が登場する。ほとんどつながりがないように思える彼らの時間は、共通の出来事に収束していく。飛行機と画面に映らない不思議な物体の目撃。そして突如訪れる思いがけぬ事件である。

「何も変えることはできない」。作中に登場する謎の男が告げるように、運命は変えられず、人は時の流れ=タイムラインには逆らえない。『イレブン・ミニッツ』のイレブン、11が9.11や3.11の象徴、悲劇から逃れられないことを示していると深読みすることも可能だ。だがここでは、前述のようにこの映画の「タイムライン」を、単なる時の流れというより、SNSにおける情報フローと考えることとする。

多くの映画において、登場人物は感情を持った人間として描写され、観客は彼らのドラマに入り込み、共感する。一方『イレブン・ミニッツ』においては、人間性の不明な人たちが登場し、観客は彼らに「共感」するのではなく、彼らの体験を「共有」する。本作の登場人物の一部を上に列挙したが、私は彼らの名前を全く記憶していない。単に覚えていないのか、そもそも作中で名前が登場しなかったのか。それすら記憶にない(公式サイトに掲載されていないため、多くの人の名前は登場していないのだろう)。彼らへの興味は、名前の有無が気にならない程度でしかないのだ。背景も人間性も不明な人々が同じ場所、同じ時間に居合わせ、その11分間の出来事がただ流れていく。

私たちがTwitterやFacebook、特に前者を開いたとき目にするタイムラインは、これと似ているのではないだろうか。会ったことのある人もない人も含めた不特定多数の人たちが投稿する情報の洪水。例えば紅白歌合戦のようなテレビ番組、雨上がりに多くの人が目撃する虹、スポーツなどのイベントでは、複数の人が同じ出来事について情報をアップする。そうした同時性と複数性を持った場がタイムラインだ。もはや古い言い方だが、『イレブン・ミニッツ』は見知らぬ人たちによる多数の「〜なう」が流れるタイムラインである。

スマートフォンによる自撮り、監視カメラの映像、ハイアングル、ローアングル、犬視点のショット、スローモーション、SF映画を思わせる無機質で単色の多い映像。これらは美しい画面を作り上げるのだが、その作為性、不自然さを誇示してもいる。そのことにより、現代においては常に誰かが見ていることを我々に告げている。この「誰か」とはビッグブラザー的な絶対の監視者というより、スマホを手にした私たち自身であろう。局在した一つの目ではなく、分散化した複数の目。それがタイムラインとしての世界を生み出す。

分散した目が世界を覆い尽くすとき、全ては映像として表象され、タイムラインというシステムの中に取り込まれてしまうのだろうか。システムに対抗するように、本作には表象不可能な一点が登場する(矛盾した言い方だ)。少年やホテルの男女が目撃談を語る不思議な物体。故障で生じたらしいディスプレイ内の一点。画家が意図に反して描いてしまった紙の上の黒点。さまざまな形をとる謎の点である。タイムライン映画『イレブン・ミニッツ』において正体が明かされぬままの一点は、システムに取り込まれない可能性があること、世界が表象し尽くされないことを示すとも思える。

しかし、そう単純な話でもない。紙やディスプレイ上での一点が現実世界でUFO的な物体として目撃されることは、表象の世界(絵や画面)が現実と同等であることを意味するのではないだろうか。また、ディスプレイの故障はデバイス固有のエラーであり、絵の具の落下は絵画だからこそ起こる誤りである。要するに、表象不可能であることを示す点自体は、表象システム内にしか存在しえない。また、他のエラー、例えば文字化け、リンク切れなどが発生すれば、その情報は閲覧できず、無視されるであろう。つまり、表象されないことは存在しないことと同じとも言える。謎の一点は、タイムライン・システムに抗するものであり、かつそのシステムの強力さを示す両義的な存在と考えられるのだ。

タイムラインとしての世界が構築された。ここで「現代社会におけるコミュニケーションの不全」という、言い古された結論を述べるつもりはない。ネットの普及でリアルにおける人間関係が希薄になったのか検証することは、私の手にあまる。ここでは平凡であるが、タイムラインによって、従来では知ることのなかった情報が伝達されることを指摘しておこう。

この映画を見ること、そしてSNSを開くことにより、会うこともない、名前も知らない人々の体験を共有することになる。その共有は、劇中時間のように11分、上映時間の81分、または一瞬かもしれない。『イレブン・ミニッツ』は、ストーリーに入り込み「共感」するのではなく、流れ行く断片を「共有」するという、映画の可能性を示したのだ。その可能性を肯定して、現実でも家族や友人との関係とは別の新たなコミュニケーションが登場したとは思えないだろうか。つまり、コミュニケーションは減退したのではなく、むしろ加算されたのだと。

事実、この文章もタイムラインを流れ、ある人は無視し、ある人は閲覧し、束の間の時間を共有するだろう。ディスプレイのドット落ちの一点も含めた画面で見るのかもしれない。タイムライン、それが現代の世界なのだ。

Twitter度:★★★★★
(text:高橋雄太)





『イレブン・ミニッツ』
2015年/81分/ポーランド、アイルランド

作品解説
『アンナと過ごした4日間』『エッセンシャル・キリング』『ザ・シャウト さまよえる幻響』などで知られ、カンヌ、ベルリン、ベネチアの世界3大映画祭で受賞歴のあるポーランドの鬼才イエジー・スコリモフスキ監督が、大都会に暮らす人々の午後5時から午後5時11分までの11分間に起こる様々なドラマをモザイク状に構成した群像劇。女好きの映画監督、嫉妬深い夫、刑務所を出たばかりのホットドッグ屋、強盗をしくじった少年といったいわくありげな人物と、一匹の犬を中心に描かれるサスペンスで、多種多様な視点を駆使した映像や都市空間にあふれる音などによって、人々の悲哀に満ちた人生の陰影を表現。人々のありふれた日常が、わずか11分で変貌していく様を描き出した。

キャスト
映画監督:リチャード・ドーマー
夫:ヴォイチェフ・メツファルドフスキ
妻:パウリナ・ハプコ
ホットドッグ屋の主人:アンジェイ・ヒラ
バイク便の男:ダヴィド・オグロドニク

スタッフ
監督・脚本:イエジー・スコリモフスキ
撮影監督:ミコワイ・ウェブコスキPSC
音楽:パヴェウ・ムィキェティン
編集:アグニェシュカ・グリンスカPSM
劇場情報
ヒューマントラストシネマ有楽町、渋谷アップリンクほかにて全国公開中
11/5~横浜シネマ・ジャック&ベティにて公開

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。ロンドンに行ってプレミアリーグ、トッテナムvsサンダーランドを生で観戦しました。ハイレベルなプレーと盛り上がるサポーターたちを間近で観るという最高の体験をしてきました。


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2016年9月17日土曜日

映画『シン・ゴジラ』評text高橋 雄太

「私たちが生きるためのゴジラ」


2016年、復活したゴジラは、映画の中の日本に破壊を、観客である私たちには大きな楽しみをもたらした(私は二回見た)。そして娯楽の枠を超えて、フィクションの存在価値を教えてくれる。

ゴジラはその誕生から現実を反映した存在である。シリーズ第一作『ゴジラ』(1954年)は戦争の影を背負っていた。水爆実験で誕生したゴジラが、被爆国・日本を襲い、空襲のように東京を焼け野原にする。一方、今回の『シン・ゴジラ』には東日本大震災と原発事故が投影されている。多摩川を遡り、街を破壊する姿は津波を思わせ、メルトダウンした原発のように放射性物質を撒き散らす。

初代ゴジラを倒したのは、芹沢博士と彼の発明オキシジェン・デストロイヤーだった。だが、『シン・ゴジラ』の日本に、彼のような孤高の天才はいない。本作の日本はゴジラの襲来を初めて経験すると設定されており、スーパーXや機龍のような対ゴジラ兵器は配備されてない(注1)。もちろんエヴァンゲリオンも(注2)、ハリウッド映画に出てくるようなヒーローも存在しない。「いない者に頼るな」。劇中で蘭堂(長谷川博巳)が叫ぶこのセリフの通り、人類は自分たちの持てる力で立ち向かわねばならない。

この映画の総監督を務めた庵野秀明の過去作品を参照しつつ、本作の意義を考えてみる。東京を破壊するゴジラの姿は、短編『巨神兵東京に現る』(2008年)の巨神兵を思わせる。しかし同作は巨神兵と人間が戦う作品ではなく、林原めぐみのモノローグがひたすら続く作品であった。またアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年放送)は、謎の敵・使徒と人類との戦いを描くSFアニメだが、後半では物語を破綻させて主人公・碇シンジの自意識に入り込んでいった。庵野秀明が監督した実写映画『式日』(2000年)では、カントク(岩井俊二)が女性(藤谷文子)を被写体にして、虚構である映画の中でさらに虚構を撮影していく。

『シン・ゴジラ』はこれらのいずれとも違う。登場人物は、モノローグで感情を吐露することもなく、悲嘆に暮れることもなく、淡々と使命を果たす。ゴジラは虚構の存在であるが、細胞で構成され、核分裂をエネルギー源とするという設定は、(空想科学ではあるが)科学的だ。自衛隊や米軍の兵器、ゴジラが破壊する場所、政治家や官僚の役職名なども現実のものがある。ヤシオリ作戦(ゴジラ駆除作戦)でも、ロボットのような空想兵器ではなく、自衛隊、鉄道、ポンプ車など、現実の日本が用いうる手段が駆使されている。ゴジラもそれへの対策も、絵空事ではなく現実的なのだ。

この映画の宣伝コピーは、「現実対虚構」と書いて「ニッポン対ゴジラ」と読ませるものである。しかし本作は高いリアリティを備えており、「2016年の日本にゴジラが現れたら」という仮想の危機を現実に基づいてシミュレーションした作品である。すなわち、『シン・ゴジラ』は「ニッポン対ゴジラ」=「現実対現実」の映画とも言える。

そしてニッポンとゴジラの他に、現実がもう一つ存在する。他でもない私たちの世界だ。3.11や9.11などの災害やテロの映像を見て「映画のようだ」と思った人も多いだろう。現代では現実がフィクションを模倣しており、私たちは「フィクショナルなリアル」を生きているとも言える。『シン・ゴジラ』はその流れをもう一度反転させ、現実を模倣した「リアリスティックなフィクション」として私たちの前に現れた。言うなれば、「観客対シン・ゴジラ」=「現実対現実」である。

劇中のセリフを借りれば、「人類はゴジラとともに生きていかなければならない」のが『シン・ゴジラ』の世界である。私たちも災害や争いの絶えない過酷な現実を生きていかなければならない。時には自分の内面に入り込んで心情を独白することも、ヒーローやロボットの物語を楽しむこともあるだろう。だが生きるためには、この映画の人々のように、いない者の力ではなく自らの力を使わねばならない。そして、シミュレーションである『シン・ゴジラ』では世界を救うことができたのだから、私たちも持てる力で現実をより良くできると信じられるのではないか。現実の辛さから逃げるためにフィクションへと向かうのではない。反対に、フィクションに触れることで現実に生きる力を得ることができるのだ。

伊福部昭の音楽に泣ける度:★★★★★
(text:高橋雄太)

注1:スーパーXは『ゴジラ』(1984年)などに登場する架空の兵器。機龍は『ゴジラxメカゴジラ』(2002年)などに登場する架空の兵器であり、自衛隊が開発したメカゴジラ。
注2:アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する汎用人型決戦兵器。






『シン・ゴジラ』
2016年/119分/日本

作品解説
『ゴジラ FINAL WARS』(2004)以来12年ぶりに東宝が製作したオリジナルの「ゴジラ」映画。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の庵野秀明が総監督・脚本を務め、『のぼうの城』『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の樋口真嗣が監督、同じく『のぼうの城』『進撃の巨人』などで特撮監督を務めた尾上克郎を准監督に迎え、ハリウッド版『GODZILLA』に登場したゴジラを上回る、体長118.5メートルという史上最大のゴジラをフルCGでスクリーンに描き出す。内閣官房副長官・矢口蘭堂を演じる長谷川博己、内閣総理大臣補佐官・赤坂秀樹役の竹野内豊、米国大統領特使カヨコ・アン・パタースン役の石原さとみをメインキャストに、キャストには総勢328人が出演。加えて、狂言師の野村萬斎がゴジラのモーションキャプチャーアクターとして参加している。

キャスト
矢口蘭堂:長谷川 博己
赤坂秀樹:竹野内 豊
カヨコ・アン・パタースン:石原 さとみ

スタッフ
総監督・脚本・編集:庵野 秀明
監督・特技監督:樋口 正嗣
准監督・特技総括・B班監督:尾上 克郎
音楽:鷺巣 詩郎、伊福部 昭
ゴジラキャラクターデザイン・造形:竹谷 隆之
特殊造形プロデューサー:西村 喜廣


配給

東宝

劇場情報
TOHOシネマズ新宿、新宿バルト9ほか全国公開中


公式サイト

http://www.shin-godzilla.jp/index.html

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。ヨーロッパのサッカーシーズンが開幕し、映画だけでなくプレミアリーグやブンデスリーガを見るのに忙しいです。

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2016年7月22日金曜日

【ネタバレあり】映画『クリーピー 偽りの隣人』評text高橋雄太

「映画は恐怖する」


『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)は恐ろしい映画である。サイコ・スリラーというジャンルに分類できること。『岸辺の旅』(2015年)では死者をよみがえらせ、『CURE』(1997年)や『回路』(2000年)のような恐怖映画を撮ってきた黒沢清の監督作品であること。これらも本作の恐怖の理由である。だが、『クリーピー』の恐ろしさは、「恐怖映画」であることによるのではなく、「映画が恐怖する」ことによる。

元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は、かつての同僚である野上(東出昌大)からの依頼で、6年前の家族失踪事件の調査を始める。事件への好奇心に駆られた高倉は、失踪事件で唯一残った早紀(川口春奈)に接触し、隣人だった男が鍵を握っていることを突き止める。また、高倉と妻の康子(竹内結子)は、引越し先で奇妙な隣人・西野(香川照之)と澪(藤野涼子)の親子と知り合い、戸惑いながらも付き合いを始める。だが、澪は高倉に告げる。「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」。そして高倉夫妻の平穏な暮らしは脅かされていく。

以上のストーリーを私たちはスクリーンで鑑賞する。スクリーンという二次元の平面は、現実とは別の世界を覗き見ることのできる窓である。だが観客はその世界に触れることはできない。映画鑑賞により、見ることへの欲望は満すことができるが、触れることへの欲望は満たすことができない。本作はこうした映画の形式を意識させ、かつそれを侵犯しようとする。

高倉夫婦が暮らす家の中、カメラはパンを繰り返し、妻と夫を交互に映す。侵入者が夫婦を覗き見しているようだ。高倉と西野が歩く道路から距離を置き、彼らを追いかける横移動のシーンもある。侵入者や追跡者が監視するような視線。それは日常にひそむ恐怖と不安をあおるだけではない。見返されずに見ることができる、見る者優位のまなざしである。高倉が早紀との会談を行う大学の一室を思い出してもよい。ガラス張りで、外には大勢の人々がいる。だが早紀はガラスの向こう側にも、もちろんカメラにも目を向けることなく語る。「公開された密室劇」とでも言うべき状況で、彼女は一方通行の視線にさらされる。

このまなざしは観客の視線でもある。すなわち、こちらからは相手を見ることができ、かつ相手からは見られない。映画を見ることは、見る者と見られる者との権力関係に身を置くことである。この関係は、本作において「上から目線」=ハイアングルのショットとしても現れる。真相を探る高倉は、丘の上から西野の家や失踪事件の現場だった家を見下ろす。西野は高所から街を見渡して次のターゲットを探す。家の住人から見返されることはない。さらに冒頭、階段の踊り場に立った凶悪犯の男は、警官たちを見下ろしながら、高倉に「後ろを向け」と命令する。高倉はそれに従う。見る者が上に立って権力を握り、見られる者はその眼下にて服従する。西野が仕掛ける落とし穴のトラップも、権力関係を位置の上下関係に対応させた大掛かりな舞台装置であろう。

アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)において、母とノーマン・ベイツの支配・被支配の関係は、丘の上に建つ家とその下のモーテルに象徴されていたように思う(死体を沈める沼さらに下に位置する)。『クリーピー』では、位置的な上下関係が、映画における視線のヒエラルキーを示す。私たちはカメラと同一化することで、彼らを見下ろし、監視することができる。

ただ、観客は見る権力を有しているが、映画の中の人や物に触れることは禁じられている。観客にとって映画は、文字通り「手の届かない存在」なのだ。しかし、本作の人々は観客の未達の欲望を代行してかなえてしまう。スクリーンが平面であることを確認するように、オープニングの取調室、高倉と西野が歩く住宅街の道路などは奥行きに乏しい。一方、西野の家は高倉宅の並びから奥まったところに位置し、西野は奥から手前に歩いてくる。平面のスクリーンに深さを加える3D的アクション。そして西野は康子の手を握り、高倉家の犬マックスをなでる。映画の中の存在に触れたいという観客の欲望を、西野はあっさりとかなえてしまうのだ。

高倉夫妻は西野宅の暗い通路を通り、西野親子と高倉夫妻は車でトンネルのような空間を走る。横からではなく縦(被写体にほぼ正対する方向)から捉えられたこれらのシーンは、物語上は高倉夫妻が危険に引き込まれることであり、同時にスクリーンという二次元に安住していた彼らが別の空間に導かれることでもある。スクリーンの中への侵入と触れること、それは映画において実現不可能なはずの欲望である。その禁忌を侵す西野は、単なる異常者を超えた、映画にとって恐怖の対象だ。事実、西野が隠していた死体は袋に密着する。死と接触とは一致するのだ。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『光りの墓』(2015年)では、見える世界と見えない世界とが同時にスクリーンに登場し、こちらとあちら、現在と過去が接続された。『クリーピー』では、西野が奥と手前とを行き来することが、こちらとあちら、日常と恐怖との接点になる。本作は、サイコ・スリラーというジャンルに依拠しつつ、映画という形式を示し、その限界に至る。『クリーピー』の恐怖とは映画自体にもたらされる恐怖である。

最後にその恐怖の行方について述べる。終盤、高倉は西野に促され、自動車を降りて画面の奥から手前に歩く。「これがお前の落とし穴だ」、そう告げて向き直り、画面の奥に向けて銃を放つことで、三次元から来た男・西野を葬る。西野を見下ろし、視線の権力を行使する。映画の空間が三次元から二次元に戻り、見る者という優位な地位を手に入れたとき、高倉は康子を抱きしめる。だが、恐怖は去っていないだろう。

夫に抱きしめられて叫ぶ妻。この不自然なラストは、触れられることへの嫌悪感を示しているのではないか。西野を殺すとき、高倉は奥からやってきた。高倉は西野に取って代わり、禁じられた三次元と接触への欲望を実現したのではないか。それは『CURE』において、役所広司演じる高部が間宮(萩原聖人)の後を継いだことにも対応する、恐怖の継承とも思える。事実、西野の死の直後、澪はマックスとともに画面の奥へ、我々が見ることのできないスクリーンの向こう側へ走り去る。あちら側への道は閉じられていない。スクリーンという窓を前にし、映画が上映されるとき、その窓の裂け目から再び訪問者が訪れるかもしれない。恐怖とともに。

ご近所付き合いは遠慮したい度 :★★★★★
(text:高橋雄太)





『クリ—ピー 偽りの隣人』
2016年/130分/日本

作品解説
元刑事の犯罪心理学者・高倉は、刑事時代の同僚である野上から、6年前に起きた一家失踪事件の分析を依頼され、唯一の生き残りである長女の記憶を探るが真相にたどり着けずにいた。そんな折、新居に引っ越した高倉と妻の康子は、隣人の西野一家にどこか違和感を抱いていた。ある日、高倉夫妻の家に西野の娘・澪が駆け込んできて、実は西野が父親ではなく全くの他人であるという驚くべき事実を打ち明ける。

キャスト
高倉:西島 秀俊
康子:竹内 結子
早紀:川口 春奈
野上:東出 昌大
西野:香川 照之

スタッフ
監督:黒沢 清
原作:前川 裕「クリ―ピー」
脚本:黒沢 清、池田 千尋
製作総指揮:大角 正

配給

松竹、アスミック・エース

公式サイト


劇場情報
渋谷・シネパレス、新宿ピカデリー他全国公開中

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。最近は映画とともに『機動戦士ガンダムUC RE:0096』や『ふしぎの海のナディア』、『装甲騎兵ボトムズ』などのアニメも見ています。

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2016年7月5日火曜日

映画『FAKE』評text高橋 雄太

「われ疑う、ゆえにわれあり」 

「われ思う、ゆえにわれあり」。哲学者ルネ・デカルト(1596ー1650)は『方法序説』(*1)においてそう述べた。全てを疑った末に、思考している自分の存在だけは確実であるというのだ。デカルトに物申すのは恐れ多いが、私は「われ疑う、ゆえにわれあり」と主張しよう。

映画『FAKE』は佐村河内守氏を被写体とした作品である。難聴の作曲家として活動し、「現代のベートーヴェン」と話題を呼んだ。しかし音楽家の新垣隆氏がゴーストライターであったことが発覚し、世間を騙していたとして糾弾された、あの佐村河内氏である。彼は本当に作曲をしなかったのか、そもそも難聴なのか。佐村河内氏と新垣隆氏、どちらの言い分が正しいのか。本作はこれらの真実を暴く作品、ではない。

森達也監督とカメラは、佐村河内氏と妻、そして猫の暮らす自宅に入り込む。そこにいるのは、サングラスと長髪で謎めいた雰囲気をまとっていた「現代のベートーヴェン」ではなく、髪を短くし眼鏡を外して謝罪したときの彼でもない。妻とともに静かな生活を送る一人の男性である。普段着(ハーフパンツ)で妻と会話をする。食事の前に大量の豆乳を飲む。来客の度にケーキを振る舞う。森監督を誘ってベランダでタバコを吸う。マスコミでは報道されることのなかった彼の姿だ。

テレビ局からの来客には丁寧に対応し、森達也監督の質問にもしっかりと答える佐村河内氏。手話を使って通訳する妻。彼らは互いに支え合い、誠実に暮らしているように見え、つい彼らに感情移入してしまう。佐村河内氏は、「感応性難聴」と記載された診断書や交響曲の構想メモを提示して、疑惑に反論する。カメラとともに彼らに密着した上で佐村河内氏の言い分を聞けば、信じたくもなる。

これに対し、新垣氏や、佐村河内氏の疑惑を追ったジャーナリストの神山典士氏のことは怪しく思えてくる。新垣氏はテレビに出演して芸人たちにいじられ、壁ドンで笑いを取る。雑誌ではファッションモデルとしてポーズをとる。サイン会ではファンとの撮影に応じる(森監督もサイン会に参加する)。誠実に見える佐村河内夫妻とは対照的に、不真面目とも思える。新垣氏も神山氏も森監督からの取材を拒否しており、姿を見せないことが「やましいことがあるのでは」との疑惑を増幅させる。

ゴーストライター騒動の報道からは「嘘をつく佐村河内氏」、「真実を語る新垣氏」。本作からは「真実を語る佐村河内氏」、「嘘をつく新垣氏」。全く反対の印象を受けることになる。真実はどこに。前述のように本作はその結論を出すことはない。ただ被写体を見せていくのみ。

彼らの姿を改めて振り返る。佐村河内氏は、妻の前ではハーフパンツ姿だが、マスコミ関係者の訪問に際してはフォーマルな服を着て、深々と頭を下げて送り迎えをする。映画の中の新垣氏は、バラエティ番組にふさわしい芸人としての姿、ファッション雑誌に出るときはモデルとしての姿を見せる。映画には出てこないが、新垣氏も家族や友人の前では別の姿をするのだと想像することはできる。よく言われることではあるが、彼らはその場、その時に応じて様々な顔を使い分けているのだろう。どれが偽物というわけでもなく、どれも本物と言える。

映画は、多面性を有する被写体の一部を捉えたに過ぎない。しかもその一部は、作品の作り手によって生み出されている。本作において森達也監督は、自らカメラの前に立ち、佐村河内夫妻に多くの質問をする。終盤でも重要な問いかけ、いや誘導または挑発とも思える言葉を投げかける。佐村河内氏らはそれに応答し、カメラは彼らを記録する。私たちが見るのはそうして作られた映像である。

捏造と言いたいのではない。森達也氏の著書に『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(*2)がある。このタイトルが示すように、被写体やカメラアングルの選択などには作り手の意図が介入してしまう。例えば本作では、佐村河内夫妻の部屋のドアが開かれ、カメラを携えた森監督が中に入るシークエンスが繰り返される。本作が捉えたのはドアが開かれた後の夫妻の姿だけであり、閉ざされたドアの向こう側は見えない。開かれたドアの中だけがドキュメンタリーになるという選択、そこに意図があり、嘘がある。「ドキュメンタリーは嘘をつく」、「FAKE」になる、いや、ならざるを得ない。また、同書で不確定性原理に例えて説明されているように、撮影されることで被写体が影響を受け、撮影前の状態からは変化する。上述のように、森監督は、佐村河内氏を挑発し、それによる彼の変化までも観客に提示する。本作は捏造するのではなく、多面的で、変化する現実を見せるのだ。

この映画を鑑賞した観客は、ゴーストライター騒動に関しては結論のない、宙ぶらりんの状態に放置される。その後に残るものは何か。「マスコミに騙されるな」といった教訓も重要であろう。だが、こうした言葉は真実がどこかにあることを前提としている。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」も、「われ」=コギトという疑い得ないものの存在が確実とされている。

これに対し、『FAKE』から得られるものは、こうした確実性を前提としたものではない。本作は、唯一絶対の真実を提示せず、むしろその多面性を示す。確実な真実がわからない以上、私もゴーストライター騒動や佐村河内氏の聴力に結論を下すことは控えたい。私にできるのは、佐村河内夫妻や新垣氏の様々な表情を楽しみ、判断を停止し、疑い続けることだ。

デカルトのように疑い得ないものが残るのではなく、疑うことだけが残る。「FAKE」であるドキュメンタリーと対峙するとき、心にとめておこう。
われ疑う、ゆえにわれあり。

参考文献
*1『方法序説』(ルネ・デカルト著、谷川多佳子訳、岩波文庫)
*2『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(森達也著、角川文庫)

人間不信度:★★★★☆
(text:高橋雄太)


『FAKE』
2016/日本/109分

作品解説

『A』『A2』の森達也監督が、“ゴーストライター騒動”の当事者、佐村河内守氏に完全密着した衝撃のドキュメンタリー。聴覚障害を持ちながら作曲活動をし、“現代のベートーベン”とメディアで賞賛される佐村河内守氏。しかし音楽家の新垣隆氏が18年間にわたりゴーストライターをしていたと告白し、一転してメディアの総バッシングにあう。謝罪会見後、一切メディア出演を断り、沈黙を守り続けていた佐村河内守氏の了解を取り付け、その素顔に迫るべく、彼の自宅に乗り込みカメラを回し始めるが……。

出演
佐村河内守
森達也

スタッフ
監督:森達也
プロデューサー:橋本佳子
撮影:山崎裕

配給:東風

公式ホームページ
http://fakemovie.jp

劇場情報
6月4日よりユーロスペースにて公開中、ほか全国順次公開
http://fakemovie.jp/theater/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。好きなサッカークラブはトッテナム・ホットスパーFC。

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2016年5月20日金曜日

映画『光りの墓』text高橋 雄太

「浮かび上がる世界」


『光りの墓』は3D映画である。といっても、3D方式で上映されているわけではなく、コーンケンの風景や主演女優ジェンジラー・ポンパット・ワイドナーが飛び出して見えるわけでもない。それにも関わらず、この作品からはいくつもの世界が浮かび上がるのだ。

タイ東北部のコーンケン、多くの兵士たちが「眠り病」にかかり入院している。コーンケンに暮らす女性ジェンは、眠る兵士の一人イットの世話をすることになる。彼女は、一時的に目覚めるイットを息子のように扱い、彼が眠るとベッドの傍らで見守る。ジェンは、眠る者たちと交信できるという女性ケンと知り合う。ケンによれば、過去にこの地にあった王国の兵士たちが今も戦争を繰り広げており、彼らによって現代の兵士たちの魂が吸い取られることで、眠り病になっているという。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの過去作には二部構成のものが多い。それらの作品には、都市と森(『ブリスフリー・ユアーズ』、『トロピカル・マラディ』)、田舎と都会(『世紀の光』)のように二つの世界が含まれており、映画の前半・後半に対応して世界間で水平移動が行われていた。一方、『光りの墓』は二部構成ではなく、映画の舞台は一貫して病院とその周辺である。しかし、本作も過去作と同様に複数の世界を含んでいる。一箇所に局在する映画と多世界の存在、これらの両立を可能にするのは重ね合わせである。

冒頭、カメラは病院の開かれた窓から外を眺め、重機とそれに掘り返された大地を映す。地下の王国と地上との通路がつながり、兵士たちの魂が地下の戦争に駆り出される。水辺に生息するはずのゾウリムシは空に浮かぶ。地下・地上・空中という上下の世界が重なり合い、下にあるものが上に現れ、上にあるものが下に現れる。ケンに憑依したイットはジェンを導き、病院周辺を案内する。イットによれば、そこは王宮だという。私たち観客やジェンにとっては森の中、だがイットにとっては王宮。空間も時間も開放され、上〜下、過去〜現在の行き来が行われる。3D映画では、左右の目に入力される異なる映像が重なることで立体映像が生み出される。『光りの墓』では、異なる時空間が重なることで、見えない世界が浮かび上がる。

前述のように、『光りの墓』は二部構成ではなく、『ブンミおじさんの森』(2010)のような挿話もない。アピチャッポンの作品の中で、劇映画としての完成度が最も高いと言えるだろう。だが本作は、ファーストシーンで始まりラストシーンで終わる閉じられた映画ではない。ケン(実はイット)とジェン、彼女の前に現れる二人の王女らのフレームへの出入りは、本作が映画の外部に対して開かれていることを示している。

映画の外部として、軍事政権下で映画が検閲されるタイの情勢、ラオスやカンボジアに属していたというコーンケンの歴史が思い出されるが、これらについて述べることは私の手に余る。以下では、アピチャッポンの他の作品と『光りの墓』との関係から話を進めたい。

本作の主演ジェンジラーはアピチャッポン作品の常連であり、イット役のバンロップ・ロームノーイは『トロピカル・マラディ』(2004)にも出演していた。病院やエアロビクスもアピチャッポン作品でおなじみである。さらに、肌に塗るクリームは『ブリスフリー・ユアーズ』(2002)に、蘭の花は『世紀の光』に使われていた。『世紀の光』の前後半でほぼ同一の登場人物やエピソードが描かれたことと同様に、『光りの墓』ではアピチャッポン作品の要素が繰り返されている。本作は、一本の映画でありながら、アピチャッポンの作品群の一話でもあるのだ。

回転するファンのように物事が回帰するアピチャッポンの作品群において、時間は単線的ではなく円環的である。時間が円を描くなら、『光りの墓』のエンディングは終わりではなく、果てしなく続く円環の一部であろう。エンドクレジットでは劇中の少年たちの声が流れているのだが、いつの間にか撮影機材の後片付けのような音が聞こえてくる。エンドクレジットが終わると、当然ではあるが、映画館の照明が点灯し、空白のスクリーンや前の座席が目に入る。観客の意識は、映画の中から、映画と現実の中間を経て、現実へと推移する。ついさっきまで見えていた世界=映画とは別の世界=現実が浮かび上がる。可視光と不可視光とが連続したスペクトルに配列されるように、見える世界と見えない世界、映画と現実とは連続している。

世界は重ね合わせでできている。私が見ているこの世界にも見えないものが重なっており、突然目の前に現れるのではないかと思える。別の世界とは何か。過去か、未来か、あるいは夢か。見えない世界のことなどわからない。だがわからなくとも、その存在を予感することはできる。ジェンは見えない王宮を歩いた。私たちも映画を見ながら、見えない現実世界のことを了解している。ならば、現実の中にいながら、見えない世界を信じることも不可能ではないはずだ。

水辺のプロペラが一瞬だけ水に触れ、公園のカップルが次々と相手を変えて座るように、世界と世界との出会いは一瞬の邂逅かもしれない。ジェンとイットの触れ合いも、彼が起きている短い時間のものだった。それでも、時間が回帰する限りいずれ出会えるだろう。

クリームが皮膚に浸透し、食物は身体に取り込まれ、排泄物として排泄される。人間は孤立系ではなく、外部に開かれた開放系である。『光りの墓』が作品の外とつながっていたように、私たち自身が世界と世界との媒介となれるかもしれない。「息をさせてあげて」。ビニール袋に包まれた蘭を見て、イットはそう言う。言われるままに息をしよう。目を見開くのだ。浮かび上がる世界を見るために。

3D度:★★★★★

(text:高橋雄太)





『光りの墓』
英語題:CEMETARY OF SPLENDOUR
2015年/122分/タイ・イギリス・フランス・ドイツ・マレーシア合作

作品解説
「ブンミおじさんの森」でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞したタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が、原因不明の「眠り病」に陥った兵士たちと古代の王の墓をめぐる謎を、ユーモアと優しさあふれるタッチで描いた異色ドラマ。
タイ東北部イサーンに建てられた仮設病院。かつて学校だったこの病院には、謎の眠り病にかかった兵士たちが収容され、色と光による療法が施されていた。病院にやって来た女性ジェンは、身寄りのない兵士イットの世話をはじめる。病院には眠る兵士たちの魂と交信できる特殊能力を持った若い女性ケンがおり、ジェンは彼女と親しくなる。やがてジェンは、病院のある場所がはるか昔に王様たちの墓だったことが、兵士たちの眠り病に関係していることに気づく。

キャスト
ジェン:ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー
ケン:ジャリンパッタラー・ルアンラム
イット:バンロップ・ロームノーイ

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影監督:ディエゴ・ガルシア
音響デザイン:アックリットチャルーム・カンラヤーナミット
編集:リー・チャータメーティークン


劇場情報
4/30~ シネマジャック&ベティ 
5/21~6/3 川崎市アートセンター
ほか全国公開中

公式ホームページ
http://moviola.jp/api2016/haka/

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執筆者プロフィール

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。最近うれしかった出来事はレスター・シティのプレミアリーグ優勝。

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2016年4月19日火曜日

映画『阿賀に生きる』『阿賀の記憶』評text高橋 雄太

「映画の遅れに向き合うこと 〜『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』〜」


ドキュメンタリーは現実のありのままの記録ではない。この一文によって言いたいことは、ドキュメンタリーには制作者の意図が介入しているという一般的な事実だけではない。無論のこと、今は亡き佐藤真監督の映画『阿賀に生きる』(1992年)などが、佐藤真の意図により構成されたものであることは確かであろう。これに加え、『阿賀に生きる』と『阿賀の記憶』(2004年)からは、時間の側面において、ドキュメンタリー映画が単なる現実の記録でないことが見えてくる。

佐藤真の長編第一作『阿賀に生きる』は、阿賀野川流域の集落を舞台としたドキュメンタリーである。昭和電工は阿賀野川に水銀を流出させ、その影響により集落の人々は新潟水俣病と呼ばれる公害病を患っている。村人の指は病気によって硬直し、一部の人々は公害病の患者認定を求めて訴訟を起こす。村人たちにとっては公害との戦いが続いているのだ。だが本作は社会派映画ではない。裁判所に入っていく村人たちの背中を遠目に捉えるショットに象徴されるように、映画は社会問題と距離を置いている。

本作が至近距離で描くもの、それはタイトル通り「阿賀に生きる」人々である。佐藤監督ら撮影チームは、集落の近くに「阿賀の家」を構え、村人たちと生活を共にし、三年をかけて本作を撮影したという。彼らは生活者として、「阿賀に生きる」者として、村人たちの中に入り込んだ。病気の苦しさや法廷闘争ではなく、日常に注目すること。それが佐藤真らの意図であり、本作はありのままの記録ではなく彼らの意図に沿った記録である。

泥に足を取られながらの田植え。音楽のようにリズミカルな方言。屈託のない笑顔。囲炉裏で火にかけられた鍋とペヤングが共存する食事風景。そこには、「かわいそうな被害者」や「のどかな田舎の人々」という類型におさまらない、現実に生きている人々が存在している。被写体の老人たちは、「いま撮ってる?」とカメラマンに問いかけ、撮影されていることに気づくと照れ笑いを浮かべる。日常と撮影、カメラのこちら側とあちら側とが一続きである。生きることと撮ることを一致させた撮影チーム、生きることと撮られることが一致していった阿賀の人々。本作は、彼らの生きることの結晶なのだ。

だが、ここで疑問が生じる。『阿賀に生きる』の人々は、果たして「いまここ」に生きているのだろうか。この疑問が大きくなるのは、引退した二人の人物、船大工の遠藤と漁師・長谷川のエピソードにおいてである。遠藤は船作りの工房を閉鎖しており、道具を手に取ることもない。その彼が弟子を取ることになり、船作りを再開する。遠藤は弟子の作業を見守り、ときには自ら道具を使い、久しぶりに船を作る。本作には完成後の祝宴や進水式の様子も捉えられている。一方、現役時代の長谷川は、川に鉤を沈める鉤流し漁という方法で、鮭などを獲っていたという。彼は近隣の漁師と協力し、特別に漁をやることになった。最初は肥料袋を引き上げてしまうものの、見事に魚を捕まえる。

撮影当時の彼らにとって、久しぶりの船作りや漁、それを達成した喜びは、「生きる」ことであったろう。だが、それは現役当時のものではない。佐藤真らのカメラは、現役時代の遠藤らを記録することはできず、過去の再現を記録するのみである。すなわち、『阿賀に生きる』が捉えるのは、いまここに「生きる」ことでありながら、実は過去において「生きた」ことの再現でもあるのだ。言い換えれば、本作は、阿賀の人々の生きた現実に遅れており、その現実を後追いしたものである。

佐藤真らが再び阿賀を訪れて制作した『阿賀の記憶』は、現実からさらに遅れている。『阿賀に生きる』から20年以上の時を経ており、老人たちの多くは既に亡くなっている。田植えも漁も『阿賀の記憶』の画面には現れない。野外スクリーンに『阿賀に生きる』らしき映像が映写されている。「阿賀に生きる」ことは、もはや目の前の現実ではない。記録することすらできない、映像として残された記憶でしかない。

『阿賀の記憶』が捉えるのは、閑散とした集落、廃墟にすら見える家、漁師のいない阿賀野川などである。村人たちの生が感じられた前作とはあまりにも違っている。『阿賀に生きる』で老婆が、「あんまり撮られると、影が薄くなって消える(死ぬ)」という意味の言葉を残している。この言葉通り、『阿賀に生きる』で存在感を誇示していた生と対照的に、『阿賀の記憶』の画面には死と不在が漂っている。

9.11アメリカ同時多発テロの映像を見たとき、我々は「映画のようだ」とつぶやいた。東日本大震災の津波の映像を見て「現実とは思えない」とも言った。現実が映画を追い越したと言われることもある。佐藤真の映画は、こうした信じがたい出来事を扱ったものではなく、日常に取材しており、現実に密着しているはずである。だが、時間の観点において現実に追いついていない。むしろ意図的に現実から遅れているのかもしれない。佐藤真の他の作品『SELF AND OTHERS』(2000年)は写真家の牛腸茂雄、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』(2005年)は思想家エドワード・サイードをそれぞれ取り上げており、いずれも彼らの死後に制作されたものである。これらも、やはり生きる者たちの現実から遅延し、彼らの不在を見つめている。

ゼノンのパラドクスにおけるアキレスと亀のように、映画は現実を追いかけるが、既に過ぎ去った現実に追いつくことができない。遠藤の船作り、長谷川の漁、老人たちの死などの現実にことごとく立ち会えず、映画は不在を提示し続ける。無論のこと、映画の観客である我々も、現実という亀から遅れたアキレスであり、常に不在を見ることになる。

不在が極限に達した特異点とも言える場面が『阿賀の記憶』にある。畑に一人たたずむ老人がカメラを見つめながら唄う。カメラは老人の顔から空に眼差しを向け、太陽を直視する。スクリーンからは物体も人も消え去り、色彩もなくなり、白い光が満ち溢れる。もはや見る対象すら消失した究極の不在の画面。

だが私たちは、被写体を失った画面を見なければならない。あらゆる波長を含む白色光を青や赤の光に分光するプリズムのように、白い不在の画面から色を見出すことが要求されている。そのとき映画は、一気に現実に追いつき、いまここにある対象として浮かび上がる。

2016年現在、災害や人口減少により、多くの「不在」が発生しており、今後も増えていくと思われる。映画はそうした現実を追い、現実から遅れ、映画を見る我々も遅れる。亀に追いつけないアキレスたらざるを得ない私たちは、その遅れとどのように向き合うのか。不在の佐藤真が残した問いは、「いまここ」に生きる我々の問題である。

参考文献:『日常と不在を見つめて ドキュメンタリー映画作家 佐藤真の哲学』(里山社 2016年)

アキレスと亀度:★★★★★

(text:高橋雄太)


『阿賀に生きる』
1992年/115分/日本/16mm



作品解説

かつては鮭漁の名人で田んぼを守り続ける長谷川芳男さんとミヤエさん、200隻以上の川舟を造ってきた誇り高き舟大工・遠藤武さんとミキさん、餅つき職人で仲良し夫婦の加藤作ニさんとキソさん。生きる喜びに溢れた豊かな暮らしが映し撮られた生の記録は、全国から支持を得て1400人余りのカンパを集めて完成。日本全国で上映され、自らの人生と風土を見直す賛辞がうずまき一大ブームを巻き起こした。

キャスト
長谷川 芳男
長谷川 ミヤエ
遠藤 武
遠藤 ミキ
加藤 作二
加藤 キソ
旗野 秀人

スタッフ

監督・編集 :佐藤 真
撮影:小林茂
録音:鈴木 彰二
撮影助手:山崎 修
録音助手:石田 芳英
助監督:熊倉 克久
スチール:村井 勇
整音:久保田 幸雄
録音協力:菊池 信之
音楽:経麻朗

『阿賀の記憶』

2004年/55分/日本/16mm


作品解説
新潟県に流れる阿賀野川のほとりに暮らす人々を3年間に渡って撮影した『阿賀に生きる』から10年、映画に登場した愛すべき人たちの多くがこの世を去ってしまった。佐藤真監督と小林茂キャメラマンは再び阿賀の地に赴くことを決意する。今は荒れてしまった田んぼや、主を失った囲炉裏などにキャメラを向け、人々が残した痕跡に10年前の映画づくりの記憶を重ねていく。そして、時間とは無関係であるかのように、阿賀野川はいつまでも雄大に流れる。人々と土地をめぐる記憶と痕跡に、『阿賀に生きる』という映画の記憶が交差し、過去と現在を繊細かつ大胆に見つめた作品の誕生である。

スタッフ
監督:佐藤 真
撮影:小林 茂
音楽:経麻朗
録音・音構成:菊池 信之
助監督:山岡 央


公式サイト
『阿賀に生きる』
http://kasamafilm.com/aga/
『阿賀の記憶』
http://www.mmjp.or.jp/pole2/aganokioku.htm

*『日常と不在を見つめてードキュメンタリー映画作家・佐藤真の哲学』
佐藤真の単行本未収録原稿、関係者インタビューなどを収録した書籍が里山社より発売中。

劇場情報
4/29~5/3、特集上映「佐藤真の不在を見つめて」@神戸映画資料館
http://satoyamasha.com

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道生。映画好きの会社員。仕事で文章を書くことが多く、映画と文章の足し算で現在に至る。映画の他にサッカー、読書、旅行が好き。
2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。

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2016年2月9日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『世紀の光』評 text高橋 雄太

「光と影」 


光があれば影ができる。影が光に付き従うのではなく、光の入射と同時に影ができる。両者は対等なものとしてある。『世紀の光』が示す複数の世界も、光と影のように対等に存在する。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

本作の前半の舞台は、タイ東北部の古い病院である。屋内は、壁や床の白で覆われ、窓枠や廊下の直線で囲まれている。屋外には緑の田園風景が広がり、風が草木を揺らす。太陽の光が降り注ぎ、光と影の強烈なコントラストが生じる。ランを育てる男性ヌムに恋をした過去を語る女医ターイ、弟の死について語る歯医者など、人々は過去の記憶を抱えている。ヌムによれば、ランは日陰を好み暗闇で発光するという。日光が射し込むことで日陰ができ、人々はランのように日光を避けて日陰に集まる。ここは、光と影が混在し、人工物と自然物、過去と現在が折り重なる世界である。

これに対し、後半の舞台は近代的な病院であり、登場人物は前半と共通している。工場の生産ラインのように、治療台が整然と並ぶ。病院は前半以上に真っ白い壁や床に覆われており、照明の光がその白い表面に反射する。影がほとんど存在しないほどに光が溢れている。後半において、ノーンの恋人は、彼女の未来の職場になるであろう社屋の建設現場の写真をノーンに見せる。その写真には、大地を埋め尽くす巨大な建造物が並んでいる。人々は過去ではなく未来を語り、日陰に集まることもなく人工の光にさらされる。光と人工物に満たされ、過去の記憶の痕跡がない世界である。

女医ターイによるノーンの面接、僧侶の診察など、前後半で共通する部分もあるのだが、セリフや人物の配置にもやはり違いがある。例えば診察のシーンは、前半では僧侶の後頭部からのショット、後半では僧侶の正面からのショットとして描かれる。二つの世界は鏡合わせのように対照をなしているのだ。
先に述べたように、前半には光と影があり、それと呼応するように現在と過去がある。その一方で、後半の病院は光に満たされている。だが、全てが光のもとにあるわけではない。ノーンは薄暗い地下室へと降りていく。ほとんどのシーンで絵画的な美しい構図の画面を撮ってきたカメラが、ドキュメンタリータッチでノーンを追いかける。この場面は、『トロピカル・マラディ』後半の森へ入り込むシーンを思わせる。地下室はアピチャッポン作品に頻出する森=人知を超えた世界であろうか。

地下室では、義足の製造と装着、さらにチャクラを使った怪しげな治療が行われている。旋盤とドリルで製造される義足は、人間が作る人工物である。一方、チャクラは人間に自然に備わっているものらしい。しかし医師たちはチャクラの位置すら把握していない。光に満ちた近代的な病院にも、人間の目では捉えることのできないもの、光の届かないものが存在しているようだ。

前半の日光、後半の人工照明に加え、もう一つ強烈な光が存在している。映画館の映写機からスクリーンに投影される光だ。我々は、光の生み出す映像を目にすることはできるが、スクリーンの裏側にできる影は見ることができない。しかし本作には、裏側の世界を示唆する場面がある。

病院の地下室において、ダクトが煙を吸い込んでいる。クローズアップされたダクトの口は、我々まで飲み込んでしまいそうなほどに黒い。スクリーンに開いた黒い穴、文字通りのブラックホール。ブラックホールに生じる事象の地平面が認識の限界であるように、我々はダクトの向こう側を、スクリーンの裏側を見ることはできない。だが、穴が開いているということは、その奥が存在することに他ならない。見ることはできなくとも、裏側の世界は存在しているようだ。

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

映像を受け止めるスクリーンの裏側を意識させることは、映像が全てではないこと、目に見えるものだけが全てではないことを意味しているのではないか。『トロピカル・マラディ』(2004)などに登場する森、本作における過去の記憶と地下室、スクリーンの裏側……我々の理解が及ばない世界。医師ターイと僧侶とが互いに診察し合っていたように、複数の世界に優劣・主従といった関係はないのかもしれない。光があれば影ができることと同じく、一つの世界があれば、ブラックホールでつながった別の世界も存在する。アピチャッポンの映画を観れば、その存在を感じることができる。

光に目がくらむ度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

関連記事:アピチャッポン特集





『世紀の光』
原題:แสงศตวรรษ(世紀の光)/英語題:SYNDROMES AND A CENTURY
2006年/タイ、フランス、オーストリア/105分/Dolby SRD|/DCP
字幕:寺尾次郎 字幕協力:吉岡憲彦 

作品解説
『世紀の光』は、1月9日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国にて順次公開。また同館にて特集上映「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」が同時開催されるほか、監督最新作「光りの墓」が3月より劇場公開される。

出演
ターイ先生:ナンタラット・サワッディクン
ノーン先生:ジャールチャイ・イアムアラーム
ヌム:ソーポン・プーカノック
ジェンおばさん:ジェンチラー・ポンパス
サクダー(僧侶):サックダー・ケァウブアディー

スタッフ
製作・監督・脚本:アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディプローム
美術:エーカラット・ホームロー
録音:アクリットチャルーム・カンヤーナミット
編集・ポスト・プロダクション監修:リー・チャータメーティクン
音響デザイン:清水宏一、アクリットチャルーム・カンヤーナミット
挿入曲:「スマイル」カーンティ・アナンタカーン作曲
    「Fez (Men Working)」 NEIL&IRAIZA 
配給:ムヴィオラ

© 2006, Kick the Machine Films Co Ltd (Bangkok)

公式ホームページ

劇場情報
2016年1月9日:渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開

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※同時開催 <アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016>
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月5日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『ブリスフリー・ユアーズ』評 text高橋 雄太

越境

内と外、都市と自然、虚構と現実……多くの境界を越えていく作品である。

映画は突然始まる。ファーストシーンは病院。中年の女性オーンと若い女性ルンに連れられて、ミンという男性が医師の診察を受けている。次の舞台はルンの働く工場。オーンは白いクリームと野菜とを混ぜ合わせ、タッパーに入れている。その後、ルンとミンは自動車で街を離れて森林へピクニックに向かう。上映開始から30分程が過ぎたこのシーンで、音楽にのってようやくオープニングタイトルが現れる。
前半の病院や工場は、白と直線が目立つ無機質な人工的世界である。後半では、曲がりくねった木、葉の緑と果実の赤、木漏れ日、流れる水の支配する森林が舞台になる。このように本作は、2パート形式の映画であり、都市から森へと入っていく映画とも言える。前後半の変わり目となる道路は、木に囲まれており、都市と森をつなぐトンネルのように見える。

「越境」のテーマは、本作の随所に見られる。
冒頭の病院のシーン。ミンは医師の指示に従い深呼吸をし、身体の内側に空気を吸い込み、外へ吐き出す。また、医師は彼の喉と皮膚を診察する。さらにオーンが作る奇妙なクリーム。オーンの夫らしき男性が一口食べているのだから、食べ物かもしれない。だがミンの肌に塗っていることから、ボディクリームと野菜を混ぜたものにも思える。そしてミン自身、ミャンマーからの不法入国者らしい。国境を越えてきた男ミン。その身体の内外を、空気、診察、クリームがめぐる。また、ミンはシンガポールで働きたいと述べるなど、さらなる「越境」を考えているようだ。

森の中に入ると、なぜかミンは服を脱いで下着一枚になり、露出した身体から皮がポロポロと剥がれ落ちる。身体が服という境界を越え、さらに新しい皮膚が内から外へ越境していく。森への移動中、ルンはクリームでドロドロの手でシフトレバーを握る。終盤の森の中、彼女はミンの男性器に触れる。シフトレバーと男性器、白いクリームと精液との対応。そしてミンの「脱皮」。まるでミンが森と川の中で洗い流され、生まれ変わるようにも思える。だが、彼は何に生まれ変わるのか。その答えは示されない。 


©Kick the Machine Films

越境、その先に何が待つかわからない。だが、越境という行為それ自体が重要なのではないか。その証拠に、観客である私たちにも越境が促されているように思える。木漏れ日の射す森の中、水の流れる音を聞きながら、ルンはミンの横で寝入る。タイトルの「ブリスフリー」が示す通り、自然に囲まれた至福のとき。長回しの映像にはセリフもほとんどなく、何らのドラマもアクションも起きない。観ているこちらも眠気を誘われる。観客も巻き込んで、意識から無意識への越境を意図しているようである。
さらに最終盤、登場人物三人の現実が伝えられる。ここに至って、映画と現実との境界も
越えられ、今まで観たものがフィクションなのかドキュメンタリーなのかわからなくなる。

この宙ぶらりんの状態に来たところで詮索はやめようと思う。本作とともに虚構と現実、都市と自然など、様々な境界を越えてきたのだ。言葉で定義することで、意味の境界を定めてしまう必要などない。意味づけしてしまうのではなく、謎を謎として残し、それについて考えるべきだろう。前半のミンも言葉を発さなかったではないか。沈黙の越境者ミンのように、境界を定めるよりも「越境」を続けるべきだろう。

ピクニックに行きたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

『ブリスフリー・ユアーズ』
英語題:Blissfully Yours
2002年/タイ/カラー/35mm/125 分

作品解説

ミャンマーからやって来た不法労働者のミン、そのガールフレンドの若い女性ルン、ミンを何かと気づかう中年女性 オーン。ミンとルンとは森の中をさまよいながらひと時を一緒に過ごす、偶然同じ時に不倫相手と森に入ったオーン は姿を消した相手の男を探すうちにミンとルンと遭遇する...。ジャン・ルノワール監督の不朽の名作『ピクニック』 にもたとえられた至福の映画。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

【アピチャッポン特集】映画『ブンミおじさんの森』評 text高橋 雄太

「お迎え」のために


「お迎えが来る」、死ぬことをそう表現することがある。すでに亡くなった人が、死にゆく者を迎えに来て、あの世に連れていく。だが、「お迎え」とはこの世からあの世へという一方通行ではない。

農場を経営するブンミは、腎臓の病に冒され、死が近いことを感じている。彼のもとに義妹ジェン、その息子トンが集まっている。夕食の席に、亡くなったブンミの妻フエイ、さらに失踪したブンミの息子ブンソンまでが毛に覆われた姿で現れる。親類、そして不思議な存在たちに伴なわれ、ブンミは森の中の洞窟に入っていく。ブンミは洞窟のことを「母胎」と呼び、「自分はここで生まれた」と述べ、その洞窟で最後を迎える。まるでフエイやブンソンが「お迎え」として異世界から人間世界に現れ、ブンミを連れていくかのようだ。

ブンミの家は森林にほど近いところにあり、食卓は屋外にある。開け放たれた窓、簡単に押し上げることのできる蚊帳など、彼らのいる空間は閉じられたものではなく、外の空間と通じている。木々のざわめき、鳥や虫の声にも包まれている。このことからも、ブンミのいる場所は、異世界と近いことがわかる。
フエイは、ブンミら三人が席についている食卓の空席を埋めるように、ゆっくりと実体化する。人間以外の存在に変貌したブンソンも、ジェンに促され空席に座る。家族団欒の食卓は、異世界の住人たちにも開かれており、彼らを迎え入れる。


©Kick the Machine Films


前述の「母胎」とされた洞窟も、閉ざされた空間ではない。天井の裂け目から陽光が降り注ぐ、開かれた場所である。ブンミが死の世界に旅立つことが可能であると同時に、母胎として新たな生命を受け入れることもできるであろう。洞窟は墓場であり母胎、生死が交差する場だ。
森、洞窟、そしてブンミの家では生者と死者が出会う。フエイの言葉によれば「死者は生者に執着する」。その生者ブンミは、フエイらと食卓を囲み、彼女と抱擁する。異世界から「お迎え」が来る。人間たちは訪問者を「お迎え」する。そして抱き合う。生者と死者の想いは双方向に行き交い、生死の境を越える。

一方、葬式が行われる部屋は、白い壁に閉ざされており、虫の鳴き声ではなくお経が響き渡る。自然から離れることで、人間世界と異世界とのつながりが断絶されるようにも思える。だが、つながりは絶たれていない。
葬式の後、トンはホテルの一室でシャワーを浴びる。彼は画面の右側に偏って位置しており、左側には大きな空間があいている。シャワーを終えたトンは、ベッド上の空いたスペースを占める別の自分たちを見る。異世界との交差点は、森やその近くに限られない。空席があれば、異世界の者たちを迎え入れることができるのだ。

ブンソンが追いかけたという猿の精霊とは何か、ベッドに座っていたトンらは何者か、挿入される王女の物語や未来の夢の意味するところは……本作には多くの謎が残る。だがこれ以上の言葉で本作を埋め尽くすのはやめよう。ブンミらは、驚きながらもフエイたちを優しく迎えていた。だから私の言葉にも余白を、いや「空席」を残しておこう。彼らを「お迎え」するために。

お迎えしたい度:★★★★★
(text:高橋 雄太)

『ブンミおじさんの森』
英語題:
 UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
2010年/イギリス、タイ、ドイツ、フランス、スペイン/カラー/35mm/114 分

作品解説
腎臓の病に冒され、死を間近にしたブンミは、妻の妹ジェンをタイ東北部の自分の農園に呼び寄せる。そこに19年前に亡くなった妻が現れ、数年前に行方不明になった息子も姿を変えて現れる。やがて、ブンミは愛するものたちと ともに森に入っていく......。美しく斬新なイマジネーションで世界に驚きを与えた、カンヌ国際映画祭パルムドール(最 高賞)受賞作。

キャスト
タナパット・サーイセイマー
ジェンチラー・ポンパス
サックダー・ケァウブアディー
ナッタカーン・アパイウォン

スタッフ
製作/脚本/監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン 
製作:サイモン・フィールド/キース・グリフィス/シャルル・ド・モー/アピチャッポン・ウィーラセタクン
撮影:サヨムプー・ムックディープロム
編集:リー・チャータメーティクン
音響:清水宏一

第63回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)受賞
「ブンミおじさんの森」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督
UNCLE BOONMEE WHO CAN RECALL HIS PAST LIVES
A FILM BY APICHATPONG WEERASETHAKUL

提供:シネマライズ

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年2月2日火曜日

【アピチャッポン特集】映画『トロピカル・マラディ』評 text高橋 雄太

「内なる野生」


オープニングに引用される中島敦の『山月記』と同じく、『トロピカル・マラディ』は人間が虎になる変身物語である。人はなぜ虎になるのか、虎はどこに潜んでいるのか。

森林警備員ケン、森の近くに住む青年トン。二人は恋人である。ケンはトンの家に出入りし、彼の家族とも仲良くなる。愛し合う二人の笑顔、暖かく見守る家族たち。彼らの姿は幸福と光に満ち溢れている。トンが歌を唄うステージは明るいライトに照らされている。トンらが買い物に訪れるショッピングセンターは、イタリア製の革靴やパソコンなどが陳列され、人工的な光に包まれた空間である。明るく、幸福で、穏やかな日々。
だが、その明るさにも、黒いものが垣間見える。「黒いもの」とは不幸の比喩ではなく、文字通り色としての「黒」、言い換えれば「闇」である。
トンとケンは、太陽の光が届く地上から、薄暗い洞窟に入り仏像を拝む。森の近くにあるトンの家、そのすぐ外にはうっそうとした森林と闇が広がっている。トンを乗せたケンのバイクは街から離れ、暗い森に向かう。バイクを降りたトンは、笑顔を浮かべたまま、飲み込まれるように暗闇へと去っていく。


©Kick the Machine Films

このシーンを境に、映画の舞台は森に移る。森の中では、トンだった男が、全身に黒い線のメイクを施された姿で、”虎”として出現する。ケンは”虎”を追跡するため森に入る。カメラもそれに続き、観客を森へと誘う。木々が視野を遮り、鳥や虫の鳴き声が響き渡る。まとわりつくような湿気まで画面から伝わるかと思える、深くも美しい森。
猿を見つめるケン目線のショットでは、猿の鳴き声にタイ語と日本語の字幕が付けられている。すなわち、森に入った人間は動物の言葉を解するようになる。さらに、ケンと虎との切り返しでは、「自分を見つめている」とのセリフで、ケン自身が虎であることが示唆される。
明るい街、街と森との境界に位置するトンの家、そして森の奥深く……闇の方へ移動するにつれ、人間と動物とは一体になるようだ。

前半に描かれているように、タイでは経済発展に伴い都市化が進んでいる。だが闇の奥=森には、文明以前の記憶、野生の記憶が隠れているのではないか。そして人間の中にも野生が隠れているのではないか。
中島敦の『山月記』では、李徴の羞恥心、自尊心といった個人の感情が、虎に変化した原因とされている。虎の根底には、李徴という個人の人格があるのだ。一方、本作では、前半で「ケン」という固有名詞で呼ばれていた人物が、後半では「兵士」という一般名詞で呼ばれることになる。無論のこと、虎と化したトンが「トン」と呼ばれることもない。李徴のような特定の個人に限らず、人間の誰もが自分でも気づかない野生=虎を抱えているのかもしれない。

光の届かない闇の奥に野生はある。また猿のシーンに示されるように、森は人語が通じる場所ではない。したがって「野生」、「文明以前」などと言語化してみたところで、それで何かを言い表せたとは思えない。我々の視覚や言語では捉えることができない世界があるのだ。
ケンのように闇の奥へと、別の世界へと踏み込むこと。本作をはじめとしたアピチャッポンの映画を観ることは、そうした体験だと思える。


虎になりたい度:★★★★☆
(text:高橋雄太)

関連記事:アピチャッポン特集





『トロピカル・マラディ』
英語題:
Tropical Malady
2004年/タイ、フランス、イタリア、ドイツ/カラー/35mm/118 分

作品解説
愛し合う二人の青年の日常がみずみずしく描かれる前半から、一転、不穏な空気に包まれる後半。冒頭には日本の作 家、中島敦の「山月記」の一節が引用され、アピチャッポン作品を貫く重要な要素の一つである“変容”が最も顕著 に表現されている。観客に森の中に迷い込んだかのような感覚を与える撮影と音響は圧巻。カイエ誌ベスト 1 にも輝 いた傑作。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

2016年1月26日火曜日

【アピチャッポン特集】映画 アートプログラム<中・短編集>評  text高橋 雄太

「連続と断絶」、「記憶」


アートプログラムはアピチャッポン監督自身がセレクトした七つの短編・中編で構成されている。そのうちのいくつかを「連続と断絶」、「記憶」という二つのテーマに沿ってピックアップしていく。

「連続と断絶」については『国歌』(2006年)と『Worldly Desires』(2005年)を取り上げる。
タイの映画館では上映前に国歌が流れるという。このことを真似たかのように、『国歌』から本プログラムは始まる。ただし国歌が大音量で流れるわけではない。女性たちが話しており、国歌の話題も出てくるのだが、いまひとつ会話は噛み合わない。突如、体育館らしき場所に切り替わる。バドミントンが行われており、カメラはコートを周回しながらそれを撮影する。だがラリーはあまり続かず、シャトルは落ちてばかりだ。断絶するラリーと、なめらかに動き続けるカメラ。このシーンが延々と続く。

次の『Worldly Desires』は、映画やミュージックビデオのメイキングのような中編ドキュメンタリーである。 
まずミュージックビデオの撮影風景から始まる。夜の森で五人の女性グループが歌を唄っている。場面は突然変わり、男女が昼間の森をさまよう劇中劇になる。二人は何者か、なぜ森の中にいるのか。その疑問が答えられることはない。それどころか、劇中劇を撮影するスタッフの様子などが描かれる。さらに冒頭の女性たちの唄うシーンが数回にわたって挿入される。
女性グループ、逃げる二人、撮影隊、いずれのパートも深く掘り下げられることはなく、パート間の関係も不明。何の説明もなしに次々と切り替わっていく。本作は一つのストーリーラインには乗らず、三つの部分に分裂したまま続く。

『国歌』は周回を続けるカメラと断絶するバドミントンで、『Worldly Desires』は42分のひと続きの作品を3パート構造で、「連続と断絶」を示す。『トロピカル・マラデ
ィ』(2004年)や『世紀の光』(2006年)などアピチャッポンの長編と同様、分裂し、同時につながってもいる複数の世界の存在を示しているようだ。

次に「記憶」をめぐる作品『エメラルド』(2007年)と『ナブアの亡霊』(2009年)を取り上げよう。
『エメラルド』の舞台は、バンコクのエメラルドホテルの部屋。窓から光が射し込んでいるが、人はいない。部屋には白い羽毛のようなものが浮遊している。そこにナレーションが流れ、人々の記憶が語られる。その中に「カンチャナブリ」という言葉が登場する。カンチャナブリとは映画『戦場にかける橋』の舞台にもなったことで有名な、戦争の記憶が残る場所である。部屋を漂う言葉と物体は、記憶の結晶だ。映画が進むにつれ、徐々に部屋を漂う浮遊物の密度が増していき、さらに赤や青の物体も加わる。人の顔がベッドに浮かび上がり、消えていく。大都市と化した21世紀のバンコク。だが、記憶や歴史は消え去ることなく漂っている。

©Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.


『ナブアの亡霊』は、夜の闇に稲妻が光る場面から始まる。やがて、この稲妻のシーンは、荒野に設置されたスクリーンに上映された映像であることが明らかになる。スクリーンの前では、青年たちが火のついたボールでサッカーをしている。その火がスクリーンに燃え移り、スクリーンは焼け落ちる。スクリーンの背後からは、稲妻の映像を映写する映写機が現れる。スクリーンとともに稲妻の映像も消えるのだが、映写機の前の空間に断続的に光が輝く。スクリーンがなくとも、稲妻の映像は空気中の砂煙りなどに映写され、像を生み出す。映像が記憶装置であるならば、映写機から投影される光には記憶が含まれている。たとえスクリーンに映写されなくとも、空間を伝搬する光は空間を漂う記憶だ。映画館の座席につく我々とスクリーンとの間の空間、そこを伝搬する映写機の光も記憶である。
『エメラルド』の浮遊物のように、『ナブアの亡霊』の光のように、我々の周囲にも記憶は漂っているのではないか。この二作は、不可視の記憶を可視化する試みであろう。 


バラエティ豊富度:★★★★☆
(text:高橋雄太)
 

作品解説

アートプログラム<中・短編集> 
104分/台詞のある作品はすべて日本語字幕付きで上映

 『国歌』(The Anthem) 
2006年/5 分 
タイの映画館では、本編上映前に国歌が流れる慣習を独自にアレンジした短編作品。

『Worldly Desires』  
2005年/42分32秒
韓国チョンジュ映画祭の企画『三人三色』で制作した映画内映画。

 『エメラルド』(Emerald) 
2007年/11分
80 年代バンコクで隆盛を極めるが、閉館してしまったエメラルド・ホテル。その場所の記録と記憶。

 『My Mother’s Garden』 
2007年/6分42秒
 仏・ディオール社のジュエリー・デザイナーの宝石コレクションを撮影。アピチャッポンの母が蘭を育てた庭をイメ ージ。

『ヴァンパイア』(Vampire)
2008年/19分 
ルイ・ヴィトンに“旅”をテーマにした映像作品を依頼され、自らタイとミャンマーの国境付近へ。そこにはヴァンパイア鳥の伝承があり......。 

『ナブアの亡霊』(Phantoms of Nabua)
2009年/10分43秒
 映像インスタレーション「プリミティブ」プロジェクト(09)と同時制作。タイ・ナブア村で少年らが燃やすものは?
“Phantoms of Nabua” 2009 ⓒ Apichatpong Weerasethakul. Courtesy of SCAI THE BATHHOUSE.

『木を丸ごと飲み込んだ男』(A Man Who Ate an Entire Tree)
2010年/9分 
タイの野生林で伐採を始めた男は、やがて、自然のドラッグ作用で自分をコントロールできない状態に......。

配給:ムヴィオラ

公式ホームページ


劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム