2016年7月22日金曜日

【ネタバレあり】映画『クリーピー 偽りの隣人』評text高橋雄太

「映画は恐怖する」


『クリーピー 偽りの隣人』(2016年)は恐ろしい映画である。サイコ・スリラーというジャンルに分類できること。『岸辺の旅』(2015年)では死者をよみがえらせ、『CURE』(1997年)や『回路』(2000年)のような恐怖映画を撮ってきた黒沢清の監督作品であること。これらも本作の恐怖の理由である。だが、『クリーピー』の恐ろしさは、「恐怖映画」であることによるのではなく、「映画が恐怖する」ことによる。

元刑事で犯罪心理学者の高倉(西島秀俊)は、かつての同僚である野上(東出昌大)からの依頼で、6年前の家族失踪事件の調査を始める。事件への好奇心に駆られた高倉は、失踪事件で唯一残った早紀(川口春奈)に接触し、隣人だった男が鍵を握っていることを突き止める。また、高倉と妻の康子(竹内結子)は、引越し先で奇妙な隣人・西野(香川照之)と澪(藤野涼子)の親子と知り合い、戸惑いながらも付き合いを始める。だが、澪は高倉に告げる。「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」。そして高倉夫妻の平穏な暮らしは脅かされていく。

以上のストーリーを私たちはスクリーンで鑑賞する。スクリーンという二次元の平面は、現実とは別の世界を覗き見ることのできる窓である。だが観客はその世界に触れることはできない。映画鑑賞により、見ることへの欲望は満すことができるが、触れることへの欲望は満たすことができない。本作はこうした映画の形式を意識させ、かつそれを侵犯しようとする。

高倉夫婦が暮らす家の中、カメラはパンを繰り返し、妻と夫を交互に映す。侵入者が夫婦を覗き見しているようだ。高倉と西野が歩く道路から距離を置き、彼らを追いかける横移動のシーンもある。侵入者や追跡者が監視するような視線。それは日常にひそむ恐怖と不安をあおるだけではない。見返されずに見ることができる、見る者優位のまなざしである。高倉が早紀との会談を行う大学の一室を思い出してもよい。ガラス張りで、外には大勢の人々がいる。だが早紀はガラスの向こう側にも、もちろんカメラにも目を向けることなく語る。「公開された密室劇」とでも言うべき状況で、彼女は一方通行の視線にさらされる。

このまなざしは観客の視線でもある。すなわち、こちらからは相手を見ることができ、かつ相手からは見られない。映画を見ることは、見る者と見られる者との権力関係に身を置くことである。この関係は、本作において「上から目線」=ハイアングルのショットとしても現れる。真相を探る高倉は、丘の上から西野の家や失踪事件の現場だった家を見下ろす。西野は高所から街を見渡して次のターゲットを探す。家の住人から見返されることはない。さらに冒頭、階段の踊り場に立った凶悪犯の男は、警官たちを見下ろしながら、高倉に「後ろを向け」と命令する。高倉はそれに従う。見る者が上に立って権力を握り、見られる者はその眼下にて服従する。西野が仕掛ける落とし穴のトラップも、権力関係を位置の上下関係に対応させた大掛かりな舞台装置であろう。

アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)において、母とノーマン・ベイツの支配・被支配の関係は、丘の上に建つ家とその下のモーテルに象徴されていたように思う(死体を沈める沼さらに下に位置する)。『クリーピー』では、位置的な上下関係が、映画における視線のヒエラルキーを示す。私たちはカメラと同一化することで、彼らを見下ろし、監視することができる。

ただ、観客は見る権力を有しているが、映画の中の人や物に触れることは禁じられている。観客にとって映画は、文字通り「手の届かない存在」なのだ。しかし、本作の人々は観客の未達の欲望を代行してかなえてしまう。スクリーンが平面であることを確認するように、オープニングの取調室、高倉と西野が歩く住宅街の道路などは奥行きに乏しい。一方、西野の家は高倉宅の並びから奥まったところに位置し、西野は奥から手前に歩いてくる。平面のスクリーンに深さを加える3D的アクション。そして西野は康子の手を握り、高倉家の犬マックスをなでる。映画の中の存在に触れたいという観客の欲望を、西野はあっさりとかなえてしまうのだ。

高倉夫妻は西野宅の暗い通路を通り、西野親子と高倉夫妻は車でトンネルのような空間を走る。横からではなく縦(被写体にほぼ正対する方向)から捉えられたこれらのシーンは、物語上は高倉夫妻が危険に引き込まれることであり、同時にスクリーンという二次元に安住していた彼らが別の空間に導かれることでもある。スクリーンの中への侵入と触れること、それは映画において実現不可能なはずの欲望である。その禁忌を侵す西野は、単なる異常者を超えた、映画にとって恐怖の対象だ。事実、西野が隠していた死体は袋に密着する。死と接触とは一致するのだ。

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『光りの墓』(2015年)では、見える世界と見えない世界とが同時にスクリーンに登場し、こちらとあちら、現在と過去が接続された。『クリーピー』では、西野が奥と手前とを行き来することが、こちらとあちら、日常と恐怖との接点になる。本作は、サイコ・スリラーというジャンルに依拠しつつ、映画という形式を示し、その限界に至る。『クリーピー』の恐怖とは映画自体にもたらされる恐怖である。

最後にその恐怖の行方について述べる。終盤、高倉は西野に促され、自動車を降りて画面の奥から手前に歩く。「これがお前の落とし穴だ」、そう告げて向き直り、画面の奥に向けて銃を放つことで、三次元から来た男・西野を葬る。西野を見下ろし、視線の権力を行使する。映画の空間が三次元から二次元に戻り、見る者という優位な地位を手に入れたとき、高倉は康子を抱きしめる。だが、恐怖は去っていないだろう。

夫に抱きしめられて叫ぶ妻。この不自然なラストは、触れられることへの嫌悪感を示しているのではないか。西野を殺すとき、高倉は奥からやってきた。高倉は西野に取って代わり、禁じられた三次元と接触への欲望を実現したのではないか。それは『CURE』において、役所広司演じる高部が間宮(萩原聖人)の後を継いだことにも対応する、恐怖の継承とも思える。事実、西野の死の直後、澪はマックスとともに画面の奥へ、我々が見ることのできないスクリーンの向こう側へ走り去る。あちら側への道は閉じられていない。スクリーンという窓を前にし、映画が上映されるとき、その窓の裂け目から再び訪問者が訪れるかもしれない。恐怖とともに。

ご近所付き合いは遠慮したい度 :★★★★★
(text:高橋雄太)





『クリ—ピー 偽りの隣人』
2016年/130分/日本

作品解説
元刑事の犯罪心理学者・高倉は、刑事時代の同僚である野上から、6年前に起きた一家失踪事件の分析を依頼され、唯一の生き残りである長女の記憶を探るが真相にたどり着けずにいた。そんな折、新居に引っ越した高倉と妻の康子は、隣人の西野一家にどこか違和感を抱いていた。ある日、高倉夫妻の家に西野の娘・澪が駆け込んできて、実は西野が父親ではなく全くの他人であるという驚くべき事実を打ち明ける。

キャスト
高倉:西島 秀俊
康子:竹内 結子
早紀:川口 春奈
野上:東出 昌大
西野:香川 照之

スタッフ
監督:黒沢 清
原作:前川 裕「クリ―ピー」
脚本:黒沢 清、池田 千尋
製作総指揮:大角 正

配給

松竹、アスミック・エース

公式サイト


劇場情報
渋谷・シネパレス、新宿ピカデリー他全国公開中

******************

【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi
1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。最近は映画とともに『機動戦士ガンダムUC RE:0096』や『ふしぎの海のナディア』、『装甲騎兵ボトムズ』などのアニメも見ています。

******************







0 件のコメント:

コメントを投稿