2016年7月5日火曜日

映画『FAKE』評text高橋 雄太

「われ疑う、ゆえにわれあり」 

「われ思う、ゆえにわれあり」。哲学者ルネ・デカルト(1596ー1650)は『方法序説』(*1)においてそう述べた。全てを疑った末に、思考している自分の存在だけは確実であるというのだ。デカルトに物申すのは恐れ多いが、私は「われ疑う、ゆえにわれあり」と主張しよう。

映画『FAKE』は佐村河内守氏を被写体とした作品である。難聴の作曲家として活動し、「現代のベートーヴェン」と話題を呼んだ。しかし音楽家の新垣隆氏がゴーストライターであったことが発覚し、世間を騙していたとして糾弾された、あの佐村河内氏である。彼は本当に作曲をしなかったのか、そもそも難聴なのか。佐村河内氏と新垣隆氏、どちらの言い分が正しいのか。本作はこれらの真実を暴く作品、ではない。

森達也監督とカメラは、佐村河内氏と妻、そして猫の暮らす自宅に入り込む。そこにいるのは、サングラスと長髪で謎めいた雰囲気をまとっていた「現代のベートーヴェン」ではなく、髪を短くし眼鏡を外して謝罪したときの彼でもない。妻とともに静かな生活を送る一人の男性である。普段着(ハーフパンツ)で妻と会話をする。食事の前に大量の豆乳を飲む。来客の度にケーキを振る舞う。森監督を誘ってベランダでタバコを吸う。マスコミでは報道されることのなかった彼の姿だ。

テレビ局からの来客には丁寧に対応し、森達也監督の質問にもしっかりと答える佐村河内氏。手話を使って通訳する妻。彼らは互いに支え合い、誠実に暮らしているように見え、つい彼らに感情移入してしまう。佐村河内氏は、「感応性難聴」と記載された診断書や交響曲の構想メモを提示して、疑惑に反論する。カメラとともに彼らに密着した上で佐村河内氏の言い分を聞けば、信じたくもなる。

これに対し、新垣氏や、佐村河内氏の疑惑を追ったジャーナリストの神山典士氏のことは怪しく思えてくる。新垣氏はテレビに出演して芸人たちにいじられ、壁ドンで笑いを取る。雑誌ではファッションモデルとしてポーズをとる。サイン会ではファンとの撮影に応じる(森監督もサイン会に参加する)。誠実に見える佐村河内夫妻とは対照的に、不真面目とも思える。新垣氏も神山氏も森監督からの取材を拒否しており、姿を見せないことが「やましいことがあるのでは」との疑惑を増幅させる。

ゴーストライター騒動の報道からは「嘘をつく佐村河内氏」、「真実を語る新垣氏」。本作からは「真実を語る佐村河内氏」、「嘘をつく新垣氏」。全く反対の印象を受けることになる。真実はどこに。前述のように本作はその結論を出すことはない。ただ被写体を見せていくのみ。

彼らの姿を改めて振り返る。佐村河内氏は、妻の前ではハーフパンツ姿だが、マスコミ関係者の訪問に際してはフォーマルな服を着て、深々と頭を下げて送り迎えをする。映画の中の新垣氏は、バラエティ番組にふさわしい芸人としての姿、ファッション雑誌に出るときはモデルとしての姿を見せる。映画には出てこないが、新垣氏も家族や友人の前では別の姿をするのだと想像することはできる。よく言われることではあるが、彼らはその場、その時に応じて様々な顔を使い分けているのだろう。どれが偽物というわけでもなく、どれも本物と言える。

映画は、多面性を有する被写体の一部を捉えたに過ぎない。しかもその一部は、作品の作り手によって生み出されている。本作において森達也監督は、自らカメラの前に立ち、佐村河内夫妻に多くの質問をする。終盤でも重要な問いかけ、いや誘導または挑発とも思える言葉を投げかける。佐村河内氏らはそれに応答し、カメラは彼らを記録する。私たちが見るのはそうして作られた映像である。

捏造と言いたいのではない。森達也氏の著書に『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(*2)がある。このタイトルが示すように、被写体やカメラアングルの選択などには作り手の意図が介入してしまう。例えば本作では、佐村河内夫妻の部屋のドアが開かれ、カメラを携えた森監督が中に入るシークエンスが繰り返される。本作が捉えたのはドアが開かれた後の夫妻の姿だけであり、閉ざされたドアの向こう側は見えない。開かれたドアの中だけがドキュメンタリーになるという選択、そこに意図があり、嘘がある。「ドキュメンタリーは嘘をつく」、「FAKE」になる、いや、ならざるを得ない。また、同書で不確定性原理に例えて説明されているように、撮影されることで被写体が影響を受け、撮影前の状態からは変化する。上述のように、森監督は、佐村河内氏を挑発し、それによる彼の変化までも観客に提示する。本作は捏造するのではなく、多面的で、変化する現実を見せるのだ。

この映画を鑑賞した観客は、ゴーストライター騒動に関しては結論のない、宙ぶらりんの状態に放置される。その後に残るものは何か。「マスコミに騙されるな」といった教訓も重要であろう。だが、こうした言葉は真実がどこかにあることを前提としている。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」も、「われ」=コギトという疑い得ないものの存在が確実とされている。

これに対し、『FAKE』から得られるものは、こうした確実性を前提としたものではない。本作は、唯一絶対の真実を提示せず、むしろその多面性を示す。確実な真実がわからない以上、私もゴーストライター騒動や佐村河内氏の聴力に結論を下すことは控えたい。私にできるのは、佐村河内夫妻や新垣氏の様々な表情を楽しみ、判断を停止し、疑い続けることだ。

デカルトのように疑い得ないものが残るのではなく、疑うことだけが残る。「FAKE」であるドキュメンタリーと対峙するとき、心にとめておこう。
われ疑う、ゆえにわれあり。

参考文献
*1『方法序説』(ルネ・デカルト著、谷川多佳子訳、岩波文庫)
*2『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』(森達也著、角川文庫)

人間不信度:★★★★☆
(text:高橋雄太)


『FAKE』
2016/日本/109分

作品解説

『A』『A2』の森達也監督が、“ゴーストライター騒動”の当事者、佐村河内守氏に完全密着した衝撃のドキュメンタリー。聴覚障害を持ちながら作曲活動をし、“現代のベートーベン”とメディアで賞賛される佐村河内守氏。しかし音楽家の新垣隆氏が18年間にわたりゴーストライターをしていたと告白し、一転してメディアの総バッシングにあう。謝罪会見後、一切メディア出演を断り、沈黙を守り続けていた佐村河内守氏の了解を取り付け、その素顔に迫るべく、彼の自宅に乗り込みカメラを回し始めるが……。

出演
佐村河内守
森達也

スタッフ
監督:森達也
プロデューサー:橋本佳子
撮影:山崎裕

配給:東風

公式ホームページ
http://fakemovie.jp

劇場情報
6月4日よりユーロスペースにて公開中、ほか全国順次公開
http://fakemovie.jp/theater/

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【執筆者プロフィール】

高橋雄太:Yuta Takahashi

1980年生。北海道出身。映画、サッカー、読書、旅行が好き。2015年の映画ベストは『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』。好きなサッカークラブはトッテナム・ホットスパーFC。

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