2016年6月28日火曜日

映画『ひと夏のファンタジア』公開初日・舞台挨拶レポート

昨年開催された第37回PFF(ぴあフィルムフェスティバル)にて特別上映され話題となった、奈良県五條市にて撮影された映画『ひと夏のファンタジア』の初日舞台挨拶が6月25日(土)、渋谷ユーロスペースにて行われ、チャン・ゴンジェ監督、主演の岩瀬亮、キム・セビョク、康すおんが登壇し、撮影時の思いなどをそれぞれが語った。

映画は2014年に河瀨直美監督のプロデュースのもと、全編が奈良県五條市で撮影された。奈良県は河瀨監督作品『萌の朱雀』で知られるようになった山間の静けさのある土地である。本作は白黒のドキュメンタリー調からなる《第一部》〜ドキュメンタリー調、日本の夏をしっとりと色彩ゆたかに男と女のある一日を収めた《第二部》〜劇映画調の2部構成で作られた作品である。

ワンシーン・ワンカットで撮られた撮影現場にて、主演の岩瀬は「これは休憩ありの6時間の大作になってしまうのでは……」と思ってしまうほどの長回しがあったことなど、現場での感想を振り返った。また、《第二部》では元々シナリオがなく、監督と俳優陣が現場で作り上げていった撮影秘話などを交えた舞台挨拶となった。


左より、チャン・ゴンジェ監督、キム・セビョクさん、岩瀬亮さん、康すおんさん


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—今日は記念すべき日本公開日です。感想をお聞かせください。

ゴンジェ ちょうど2年前に奈良の五條で撮った映画です。河瀨直美監督のプロデュースのもと、ここにいらっしゃる俳優の皆さんと、とても楽しく撮った映画です。東京の観客の皆さんがどのようにこの映画を観てくれたか気になりますし、後でまたお話を聞かせてくれたら嬉しいです。とにかくどんな感想を持ってくれたかが今一番気になっています。

セビョク 韓国では昨年公開されました。韓国でも本当にたくさんの方に観ていただいた映画です。私は映画の中で日本語を話す役を演じたこともあり、皆さんの反応が気になります。

岩瀬 この映画はもう韓国では公開されているので、韓国の方たちの反応は見ているのですが、日本の方々がどういう風に見られるのか僕も気になるところです。感想を楽しみにしています。あと、今日万全な状態で来られなかったことを哀しく思っております(笑)。本当にすみません(笑)。

 僕は最初、言葉の壁をどう乗り越えていくんやろうなぁと思ったんですけど、監督たちと寄り添いながらお互い五感を研ぎ澄ませていくと何とかシーンを作っていけるものなんやなぁと感じて、それが面白かったですね。


撮影当時のエピソードをお聞かせください。

ゴンジェ まずとても時間がなかったことが大きかったです。この映画は一部と二部に分けられていますが、一部はシナリオがあって作ったものです。ただ、二部の場合はシナリオがない状態で撮影しなければならず、本当に毎日俳優の方たちと相談しながら、即興で撮った部分も多い映画でした。俳優の立場としたら、もしかしたらそういう作り方は面白いかもしれないですが、監督の立場としては、本当にどうやっていこうか悩んだり大変な思いをした映画です。

セビョク 私の場合は海外で撮影する経験がはじめてでしたし、出演者や監督の皆さんと寝泊まりしながら合宿のように過ごして撮影した経験もはじめてでした。そういった経験自体が、楽しく良い経験でした。その時も楽しかったのですが、過ぎてみて、本当に良い思い出として心の中に残っています。また、そういう状況で撮影しましたので、より集中して演技、撮影ができたかなと思っています。とても良い思い出です。それから今、一番の思い出として残っているのは、本当に暑かったことです。今日、撮影していただいたカメラマンの方に来ていただいていますが、撮影監督の方が本当に汗をダラダラ流しながら撮影していただいた記憶が蘇ってきます。

ゴンジェ 今日は撮影監督の藤井昌之さんが会場にいらっしゃっています。


―この間、ワイルドフラワー映画祭で撮影賞を授賞されました。

ゴンジェ 韓国のインディーズ映画のための授賞式でも最優秀撮影賞を授賞されました。トロフィーはちゃんと受け取られましたでしょうか。

藤井 (観客席から答えて)受け取りました!

岩瀬 撮影で覚えているのは、二部のシナリオがなかったので、そのシーンのスタートと終わりがはっきりしてなくて、ワンシーンワンカットで全部撮影し、それを切り取っています。実際はどれも20~30分平気で回していたので、「これは休憩ありの6時間の大作になってしまうのでは……」と思いながら撮っていたことを思い出しました。

 監督から最初に言われたのが、「俳優としてバレないように、そこに存在するようにいてほしい」ということでした。それは僕も昔から一度やってみたかったことでした。どうしても役者ではない一般の方と同じ画面に映ると違和感が出てしまうので、どういう風に(画面内に)収まるかということばかり考えていました。だから五條に行ってもウロウロウロウロして、色んな店や図書館などで現地の人たちと話したりしました。何かないかなと思いながら、そればかり考えていたことを思い出しますね。


そういった素晴らしい演技が、ドキュメンタリーとフィクション、ファンタジーにつながっていくことになったのではないかと思います。その点、監督はいかが思われますでしょうか。

ゴンジェ 韓国でも観客の方や評論家の方からの評価を聞くと、やはり俳優のやり遂げた要素が力となってくれた部分が大きい映画だ、という評を多く聞きました。個人個人の演技はもちろん素晴らしいですし、みなさんのアンサンブルも上手く効果が出たと思っています。本当に俳優の皆さんのおかげだと思っています。




昨年、韓国では3万6千人を超える大ヒットを記録しました。キム・セビョクさんにお聞きしますが、その理由はどういうところにあったとお考えでしょうか。

セビョク
 この映画を観ていただいた皆さんは、それぞれ好きな部分がどうも違うようなんですね。一部が好きな方もいますし、二部が好きな方もいます。また、ひとつひとつの細かいシーンまで好きなところがそれぞれ違いますので、本当に個人個人の何かと持っているものを刺激するものがあるのではないかと思います。ただ、それが何かはわからないのですが、何かみなさんそれぞれに届くものがあったのかなと思っています。

ゴンジェ 韓国では20代の女性の観客の反応が圧倒的に多かったんですね。ひとりで海外に行こうという経験を通じて、そこで素敵な人に会ってロマンスが芽生えるところに惹かれた観客が多かったのではないかと感じています。


岩瀬さんは韓国で公開時、空港でパパラッチされるほど人気があったようですが、そのへんはどうでしょうか?

岩瀬 (観客笑)。笑われてるじゃないですか(笑)!  話が重なってしまうかもしれませんが、女性が外国へひとりで旅をするっていうロマンチックな設定なので、そういう映画にたまたま出ていたのが僕なのかな、という感じを持っていますね。


監督はいかがでしたか?

ゴンジェ 岩瀬さんは韓国で今最もデートしたい人と言われるほどの人気です。10年前は加瀬亮さんの時代だと言われておりましたが、今は岩瀬さんがそうです(笑)。


この映画が韓国で多くの反響があったことについては、いかがでしょうか?

ゴンジェ インディーズの作品なので、観客はもともと入らないんですけども、公開したのはちょうど去年の今頃で、その時韓国はMARSが発生して公開が決まっていた他の映画も延期したりといろいろ起こっていて、どうなるかな? と思っていたのですけれども、初日に公開された時にお客さんが満席だったんですね。たくさんの方に見て頂いて、これは一体なんだろう? と思ったんですけれども、皆さんにそうやって本当に楽しんでいただいたので、監督として作ってよかったなあという気持ちです。もちろんこの映画は五條市から支援を受けていますけれども、私は単純にこの映画を五條の広報をするとか観光的に、ということは元々考えていなかったんですね。韓国の方が結果的に五條市に訪れてみたいと言って、実際五條に観光された方も本当にいましたし、今でも観光客にとって五條がトレンディだと聞いております。結果的には広報の映画になったなあというふうに思っています。


今日、来て頂いたお客さんの中で質問がある方はいらっしゃいますか?

質問 第一部の冒頭のシーンを見たときに、私は一瞬それが、日本語なのか韓国語なのか聞きわけられなかったのですが、かなりきつい関西弁ですし、小さい声でしゃべっている……それは監督はわざと観客は聞き分けられないだろうな、と意図して作られたのでしょうか?

ゴンジェ 私自身も日本語ができないので、日本語を言語としてではなく、音で聞いていたんですけれども、理解ができなくても音として聞いて欲しいというような意識を持って作業をしていました。


最後に一言、日本のお客さんへお一人ずつお願いします。

ゴンジェ まず、ユーロスペースで上映となることにご尽力くださった皆様、ありがとうございます。それから日本で公開できるようにしてくださった日本のスタッフの方々に本当に感謝しております。皆さんが楽しく見てくれたら本当に嬉しく思います。もし今日、面白いなと思っていただけた方がいたら、周りの人にも進めてください。それでは、みなさん楽しい週末の夜をお過ごしください。

セビョク 日本には旅行や撮影で来たことはあったのですが、自分が出ている映画が海外で公開されたという始めての経験になりました。とても新鮮で緊張したこともあったのですが、とても気分がいいです。皆さんがこの映画をどういうふうに見てくれたかということを、ずっとそれが気になっているのですけれども、楽しんで頂けましたら本当に嬉しく思います。

岩瀬 今日は本当にご覧いただきありがとうございました。僕はこの映画は本当に何度も見ているのですが、自分の家でもDVDがあって見たりするんですけれども、あまり、自分が出演してきた映画でそういう事をする事っていうのはなくて、毎回見る度に一部がよかったり、二部の方がすごく自分にヒットしたり、日によって違ったりしました。様々な魅力を持った映画になったのではないかなと思っているので、もし気に入っていただいたら、皆さんに伝えていたただければと思います。本日はありがとうございました。

 作品は一人歩きして行くものが多いと思ってるんで、この作品も出来るだけ一人歩きしていけるようにと願っております。ありがとうございました。


以上は2016年6月25日の公開初日に行われた舞台挨拶の模様から採録しました

(text:小川学)

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主演・岩瀬亮さんの単独インタビュー記事も併せてお読みください。

http://kotocine.blogspot.jp/2016/06/text_22.html


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『ひと夏のファンタジア』
2014/日本・韓国/96分/DCP

作品解説
<一部>
韓国から奈良県五條市に次回作のシナリオ・ハンティングのためやってきた映画監督テフン(イム・ヒョングク)は、助手兼通訳のミジョン(キム・セビョク)とともに、観光課の職員・武田(岩瀬亮)の案内で町のあちこちを訪ね歩く。古い喫茶店や廃校、ひとり暮らしの老人宅など、五條に暮らす人々をインタビューして回り、彼は花火大会の夜に不思議な夢を見る。
<二部>
韓国から奈良県五條市へひとりで旅行に来た若い女性へジョン(キム・セビョク)は、観光案内所で柿農家の青年・友助(岩瀬亮)と出会う。古い町を歩きながらともに時間を過ごす中で、友助は次第に彼女に惹かれていく。

キャスト
ミジョン:キム・セビョク
武田友助:岩瀬亮
キム・テフン:イム・ヒョングク
ケンジ:康すおん

スタッフ
脚本・監督:チャン・ゴンジェ
プロデューサー:河瀨直美、チャン・ゴンジェ

@Nara International Film Festival+MOCUSHURA

公式ホームページ
http://hitonatsunofantasia.com

劇場情報
6月25日(土)より 東京 ユーロスペースにてレイトショー
7月2日(土)より 大阪 シネ・ヌーヴォ、名古屋 シネマスコーレにてロードショー
7月9日(土)より 横浜シネマリン、8月以降 シネマテークたかさき ほか、全国順次公開予定


2016年6月24日金曜日

フランス映画祭2016〜映画『太陽のめざめ』評text岡村 亜紀子

「うちがわに在る不可視な光」


人間の身体は太陽を求める。「体内時計」ということばがあるけれど、太陽に照らされていないと身体機能が狂ってしまうらしい。かくいう深夜帯で働くわたしにとっても、陽に照らされた世界はいろんな意味でまぶしいので、それには多少の実感がある。人は太陽を求めている、と。


 大女優カトリーヌ・ドヌーヴ演じる判事と、愛に飢えた非行少年の物語だと思っていた。そうした“主役”が辿る物語の軌跡が描かれているのだと。映画はその鑑賞前の印象を良い形で覆してくれた。映画が映していたのは“世界”だった。物語の中で生を営む人々の生活だった。そこに宿る感情が、もちろん現れる。クローズ・アップされる。しかし、やはり描かれていたのは世界だと感じる。その世界の中で、感情は生活に添えられたもののように映されていくのと反比例して、世界の一部である物語の住人たちは感情を自らから離さない。手放せない。割り切らない。誰だって、その苦しさに覚えがあると思う。


 少年・マロニー(ロッド・パラド)は愛に飢えていた。若くしてシングル・マザーになった母親(サラ・フォレスティエ)は、まだまだ人生を謳歌したい。子供も可愛いけれど、自分の人生も大切といった風で責任感に乏しく育児を放棄しがちで、6歳のマロニーは2ヶ月も学校に行かず、母親と共にフローランス判事(カトリーヌ・ドヌーヴ)に裁判所に呼び出されてしまう。母に「くれてやる!」と置き去りにされたマロニーは傷ついた。回りが想像するより、きっと深く。物語はマロニーを軸に時間を進め、少年は問題を起こしては、判事と再会する。

 検察官に少年院に入れられそうになっては、頼りない様子の弁護士がマロニーを弁護する弁に説得力はあまりないが、判事は、監督する教育係をつけて様子を見る、少年院ではなく更生施設に入れるなどしてマロニーを擁護する選択を繰り返す。期待を裏切られ続けた判事は、なぜマロニーに温情を与え続けたのだろうか?


© 2015 LES FILMS DU KIOSQUE - FRANCE 2 CINÉMA - WILD BUNCH - RHÔNE ALPES CINÉMA – PICTANOVO

 少年は親元を離れ、本能のおもむくままに行動しているような少年たちとそこで働く指導係たちに囲まれて過ごす。マロニーは、反発していた教育係であるヤン(ブノワ・マジメル)の電話番号を素直に聞く。
「ここにかければ、あんたと話せるの?」と。相手が大人でもひるまず、構わずその顔に唾を吐く。差し伸べられた手を取ることもしない。でも時には自分から手を伸ばす。少年は愛情に飢えていたと同時に怯えていた。彼は世界を憎んでいたけれど、欲しいものはちゃんとわかっていた。それを与えてくれない世界を憎んでいた。少年は6歳の時に失われたものを取り戻したかったのだ。それは強い、強い渇望。

 少年を演じるロッド・パラドはこの作品がスクリーンデビューだがそれが信じられないほどに、繊細な面立ちと細身の体躯で、痛みや悲しみ、いらだちが暴力的な言動のうちに揺れ動くさまを表している。更生施設から電話をかけ家族との絆・母親の愛情を必要とする様子などのいたいけな子供の部分と、自分の損得や後先を考えずに行動してしまう刹那的な少年の姿、世間に対する容赦のない振る舞いやシビアな態度と母親や弟を守ろうとする大人の部分を抱える、マロニーとういう人物に圧倒的な現実感を与えている。ロッド・パラドの身体は演じる年齢によって変化してさえ見える。


 怯えた子供に対する指導員や教育係のヤン、判事といった大人たちは、少年に失われた世界ではなく、そこにある世界の可能性を示そうとする。世界には優しい大人だけではない。マロニーを少年院に入れようとする検察官、再入学を目指すマロニーに向けられた面接官の否定的なまなざし。揺らいでいる大人もいる。マロニーの母親は、マロニーと同様失ったなにかを求め振りまわされ続ける少女のようだし、指導員のヤンもいらだちをマロニーにぶつけて行きすぎた指導をしてしまう。

 そう思うとドヌーヴ演じる判事は、世界の中で始めから太陽のように揺るぎない存在として在るように見える。施設でマロニーが共に過ごす少年たちが「あんたは好きだよ」というように、大人を信用できないマロニーも、判事の信頼を自分は裏切りながら、どこか判事だけは信用している様子を見せる。
 カトリーヌ・ドヌーヴの身体は年齢とともにふくよかになった。彼女がどんな役を演じても、その気品や気高さ美しさはどこかに現れている。それは優美な面立ちに感じられたものには違いないかもしれないが、年齢とともにドヌーヴの纏う美しさは、素晴らしい風景に出逢った折に感じるような、星や絵や音楽や、そういったものに触れた時に自然に心に生まれるものへと進化している。
 ドヌーヴの面立ちは涼やかで冷たくも感じるほど整っているけれど、判事を演じる彼女のおおきな身体からは、安心感や暖かさがにじみ出ている。それは“お母さん”のようだ。揺るぎなく思える彼女も、マロニーや教育係・ヤンやその他の少年たちに手を妬き、時に“育児”に悩むことがあるのかも知れない。しかしその揺らぎを映画は映さない。


 曇りなき眼、という表現を聞いたことがある。多分曇ってしまうから、このことばがあるのだろう。晴れの日も曇りの日も、雨の日も台風の日もある。それが世界。どういう日が好きか、人によって違う。どんな環境に在るのかも。それでも自分を信じてくれる人の存在は、太陽の光線のように必要なのだと思った。
 本フランス映画祭の上映作品『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』で高校教師・アンヌが生徒に向けていったことば「あなたたちを信じているのはわたしだけ?」が、生徒たちの心へ一石を投じたように、判事は時に優しく、時に厳しく、「手に負えないわ」と突き放したりもしながら、少年の心に投げかけ続けている“あなたを信じている”というメッセージは、少年の心に陽の光の様に照り、栄養を与えていたのだろうか。
 心にも養分が必要だ。愛情や優しさというものは持って生まれることはきっとなく、己の心や身体を通して知っていくものなのだと思う。人はその与えられた愛情や優しさを、他の誰かにあげることのできる生物である。ある日、マロニーが打ちひしがれるヤンの手をすっと握るように。自分の弱さによって物事が悪しき方向へ進むように、自分の強さによって物事が好転するとは限らない。しかしその強さを他人にぶつけるのではなく自分に向けた時になにかが生まれる。そのなにかを誰かのために使えたら、誰かのために強くなれたら、陽に照られた時に世界が姿を現すように、誰かの眼に光を与えて、色々なものを見せることのできる太陽になれるのかもしれない。


 ラストシーンで映画が映していた雑踏のシーンから、カメラが空中に消えたような感覚を受けた。そしてスクリーンとこちら側との境を失ったように思える。この映画が世界を映していると書いた。その住人を演じた俳優たちの素晴らしい演技について、最後に書き添えておきたい。
 フランスを代表する名女優、カトリーヌ・ドヌーヴの美しい瞳に宿る暖かさ、少年マロニーを演じたロッド・パラドの新人と思えぬ深み、マロニーの教育係・ヤンを演じたブノワ・マジメルの役柄すべてを含んでいるような面立ち、マロニーと親しくなる更生施設の指導員の娘テスを演じたディアーヌ・ルーセルの少年のような身体と瞳のいたいけさ、そしてマロニーの母親役のサラ・フォレスティエがシングル・マザー役のうちに感じさせた悲哀、どれも過剰さのない素晴らしさだった。
 マロニーがある施設を脱走した際にたいしたおとがめを受けなかった時、同じ施設の少年たちは、それはマロニーが「フランス人」だからだといった。スクリーンに映される光景からは、その場にある物体の質感や空気の温度、食べ物の匂いが感じられるようなこちら側への浸透があった。けれどそれは意図的に演出された構図などからではなく、この映画が持つどこにも属さない距離感なのだと思う。それはフランスという国が抱えるある問題を映しながら、客観的にそれを捉え、そして物語の住人たちの描き方にも徹底され、遠くて近い絶妙な距離感をわたしにもたらし、物語との境を取り払った。


 ラストシーンで感じた揺らぎは、スクリーンのこちら側に意識を戻しても、物語を世界の住人たちを忘れさせてはくれないだろう。世界には揺らぎがある。でもその揺らぎの中で映画が示した揺るぎなく必要とされる感情に名前を付けるなら、愛だと思う。そしてそれは世界の誰しもが欲し、世界のどこでも共通する認識なのではないだろうか。

(text:岡村亜紀子)





『太陽のめざめ』
原題:La Tête haute
2015年/フランス/119分
(上映日時:オープニング 6/24(金)17:00、会場:有楽町朝日ホール)

作品解説
2015年カンヌ国際映画祭で、『太陽のめざめ』で女性監督史上2度目のオープニング作品を飾り、主演した『モン・ロワ(原題)』で女優賞を獲得したエマニュエル・ベルコの監督最新作。主演には大女優カトリーヌ・ドヌーヴ。少年マロニーを演じたロッド・パラドは、フランスの2大映画賞リュミエール賞、セザール賞で新人賞を受賞した。親の愛を知らず人生に迷う少年と、引退間近の判事が出会い、新たな道をみつけるまでを描く感動の物語。家庭裁判所の判事のフローランスは、母親に置き去りにされた6歳の少年マロニーを保護する。10年後、16歳となったマロニーは、母親の育児放棄により心に傷を負い、学校にも通えず非行を繰り返していた。マロニーと再会したフローランスは、彼が人生をみつけられるように優しく手を差し伸べるが……。

キャスト
フローランス判事:カトリーヌ・ドヌーヴ
マロニー:ロッド・パラド
ヤン:ブノワ・マジメル
マロニーの母親:サラ・フォレスティエ
テス:ディアーヌ・ルーセル

スタッフ
監督/脚本:エマニュエル・ベルコ
脚本:マルシア・ロマーノ
撮影:ギヨーム・シフマン
編集:ジュリアン・ルルー

配給:アルバトロス・フィルム/セテラ・インターナショナル

公式ホームページ
http://www.cetera.co.jp/taiyou/

劇場情報
2016年8月、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子 Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。
2007年のフランス映画祭の団長はカトリーヌ・ドヌーヴでした。
信じられない気持ちで会場へ行くと、当たり前ですがそこにドヌーヴがいました。
その時上映された『輝ける女たち』について語る彼女は、
想像よりも気さくで飾らない人のように思え、その記憶はわたしの中で
朧げになりながらも、美しいイメージとして残り続けています。

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フランス映画祭2016




 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

2016年6月23日木曜日

フランス映画祭2016〜映画『ミモザの島に消えた母』評text藤野 みさき

「追想」

 メラニー・ロランが一躍その名を知られるようになったのは、ちょうど今から10年前のことである。『パリ空港の人々』や『灯台守の恋』などの作品で知られるフィリップ・リオレ監督が、オリヴィエ・アダムの小説を映画化した『マイ・ファミリー/遠い絆』に当時23歳で主演をつとめたことがきっかけであった。

 『マイ・ファミリー/遠い絆』は19歳の専門学生であるエリーズ、通称リリ(メラニー・ロラン)が休暇から帰ってくるところから始まる。帰国早々、双子の兄であるロイックが失踪したことを知らされ、彼女は動揺を隠せない。電話もなんの便りもない。しかし、家族はそんなロイックの突然の失踪にどこか訝しげな表情を浮かべ、何かを隠している様子だった。最愛の兄であるロイックはなぜ失踪したのか。その真実を追うために、彼女はひとり、旅に出る。
 白いポスターに写る、儚げな表情に、青く澄んだ瞳。その美しさに魅了され、本国フランスでは多くのひとが彼女を一目みようと劇場に足を運んだという。『マイ・ファミリー/遠い絆』は興行的にも成功をおさめ、彼女はセザール賞最優秀若手女優賞を授与されたとともに、一躍ときのひとの仲間入りを果たしたのである。

 それから、10年。私たちは、成長したメラニー・ロランとともに、10年というときを超え、また新たな家族の秘密をめぐる旅に出る。
『ミモザの島に消えた母』は、映画『サラの鍵』の原作者で知られる女流作家、タチアナ・ド・ロネのベストセラー小説を、フランソワ・ファヴラ監督が映画化をした2015年の作品である。ものがたりの舞台となるのは、西仏ヴァンデ県にあるノワールムティエ島。冬にミモザの花が咲くことから、通称「ミモザの島」と呼ばれるようになった。      
 30年前。美しいこの島で、母、クラリスは謎の死を遂げた。最愛のふたりのこどもと夫とその家族を遺して。あれから30年という年月が過ぎてなお、いまだ謎に包まれた母の死。「母はどんな女性(ひと)だったのだろう?」。朧げに想起される亡き母の記憶。40歳の兄アントワン(ローラン・ラフィット)と妹である35歳のアガット(メラニー・ロラン)は、その真相と母の面影をもとめ、故郷のミモザ島を訪れる。

 映画は、アントワンとアガットが車内で口論をして車が横転するところから幕をあける。母の命日をミモザ島で過ごした帰りの道中のことだった。
「奥さまはとても美しいひとだったわ」。当時の召使であるベルナデットは、母のことをそう振り返る。水死体は沖から10キロほど離れたところで発見され、当時は事故死とみなされていたが、その死因はいまだに解明されぬままであった。ミモザ島は満潮になるとあたり一面が海に覆われる。しかし、潮の満ち引きなど考えられる死因を幾ら説明されても、それらはアントワンを納得させるには不充分であった。

「お母さんのことを覚えてる?」アントワンが尋ねると、「さあ。私は5歳だったのよ」と、遠くの海を見つめながら、すこし寂しげにアガットは答える。
 母が亡くなったとき、アントワンは10歳、アガットは5歳であった。アントワンは朧げながらも母のことを思い出す。死体安置所に行ったことも、母はどんなひとであったのかということも。当時死という存在そのものを理解することが難しかったアガットとは違い、アントワンは死が認識できる年齢になっていた。アガットは「ひとが死ぬ」ということをまだ理解できない年齢だったため、「ママはどこへ"いってしまった"の?」と訊いた。そしてただ胸の悲しみを感じるままに、涙をこぼすことしかできなかったのである。
 ものがたりは、母の遺品のひとつである錆びれた高級時計を見つけるとともに、すこしずつ核心に近づいてゆく。母の死亡時刻をさしたままの、ときの止まった腕時計。そこには「Jean Wizman」という名の文字が綴られていた。「高級時計を腕にしたまま泳ぎにゆこうと思うかい?」。時計職人のことばは、アントワンの脳裏に残り続け、やがて彼はことの真相を突きとめる。腕時計の持ち主は、ジーン・ウィズマンという名の英国人の女性であった。彼女はロンドンに美しいアトリエをもつ画家であり、そして、母クラリスの愛した女性であった。


©2015 LES FILMS DU KIOSQUE FRANCE 2 CINÉMA TF1 DROITS AUDIOVISUELS UGC IMAGES

 フランスにおいて同性婚が合法化されたのは、今からわずか3年前の2013年のことである。それは世界において重要なことを意味するとともに、映画界にも影響を与えた。その先駆けとなったのは2013年度の第66回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールに輝いた、アブデラティフ・ケシシュ監督の『アデル、ブルーは熱い色』であろう。現在までどこかタブウとされてきた女性同士の恋愛を、肯定して描けるようになった現在。そして、それは本年日本でも公開されたトッド・ヘインズ監督の『キャロル』にも言えることである。『キャロル』の舞台背景である当時の1950年代は同性愛は「治療するもの」として映画のなかでは描かれているが、本作『ミモザの島に消えた母』も例外ではない。クラリスとジーンの恋愛は、たとえ一途なものであったとしても、当時は決して許されることのない、禁断の恋であった。

 アントワン、アガット、そしてアントワンの娘であるマルゴーは、母の真相を知るために、ジーンの住む英国へと渡った。
「よくきてくれたわ」。髪を後ろにひとまとめにしたスラックス・スタイルで、ジーンは現れた。彼女は歳を老いてもなお美しく凛とした女性であった。彼女は黒いソファに腰をおろし、遠くを見つめるような、切なげな瞳で、当時のクラリスのことを静かに語り始める。
 月日が経過してもなお、色鮮やかに想起される若かりし日の記憶。ふたりの出逢いは、ある夏の日のミモザ島にある画廊教室に遡る。クラリスとジーンはお互いに惹かれあい、やがて、ふたりは恋に落ちた。思い出されるは、あの美しき夏の日々である。ふたりで歩いた浜辺。交わした口づけ。太陽は眩しく、空は青く、そして海は輝いていた。それが恋だった。
 しかし、蝶の命が短いものであるように、クラリスとジーンの恋もまた儚いものであった。大切に想うひとほど、どうしてひとは失ってしまうのだろう。想いは年数に比例するのではなく、その一瞬こそに宿る。たとえふたりの過ごした日々がひと夏のものであっても、その一瞬の美しさこそが永遠である。ジーンは生涯を通してクラリスを想い続けた。その希望も潰えた今となっては、ふたりの記憶は切ない思い出に変わって彼女のこころに蘇る。最後に、ジーンは言った。
「30年間。いまでもアトリエの前にタクシーが止まるたび、私はクラリスの姿を探したのです」と。

 大切なひとを想うとき、その瞳の先にはいつも海があった。
 つらいとき、苦しいとき。いつも私たちに寄りそい、包みこむ海。『マイ・ファミリー/遠い絆』のリリは、兄のロイックをもとめて海辺を歩き、『ミモザの島に消えた母』のアントワンとアガットは、海を越えたその地平線の先へと、亡き母への想いをはせる。
 人生のなかで、ひとは誰しもこころに秘めた大切なひとがいる。家族である父や母、兄弟、そして友人たちや恋人。かつて私が愛し、そして、私を愛してくれたひと。この映画を観たあとに、そっと思い出してみたいと願う。そのひとがどのように歩き、どのように笑って、なにが好きであったのか。瞳を、声を。そして、その忘れじの面影を。

あの夏の日にもう一度:★★★★
(text:藤野みさき)




『ミモザの島に消えた母』
原題:Boomerang
2015年/フランス/101分
(上映日時:6/24(金)21:00、会場:TOHOシネマズ日劇)

作品解説
「ミモザの島」と呼ばれる風光明媚な避暑地で、謎の溺死を遂げた美しい母。それから30年後、未だ母への喪失感から抜け出せないアントワンは、真相を突き止めようとする。しかし、なぜか家族は“母の死”について頑なに口を閉ざす。恋人のアンジェルや妹アガッタの協力を得て、ミモザの島を訪れたアントワンは、自分が知らなかった母のもう一つの顔、そして母の死の背景に渦巻く禁断の真実に辿り着く……。
『サラの鍵』原作者のベストセラー小説を、緊張感溢れるタッチで真相を紐解いていきながらも、封印された真実を掘り起こすことで、心の解放と救いを得ていく姿を描いた上質な人間ドラマ。家族にさえ打ち明けられなかった哀しい秘密と隠された想い。その切ない衝撃の真実を知った時、家族は何を思うのか……。

キャスト
ローラン・ラフィット(アントワン)
メラニー・ロラン(アガッタ)
オドレイ・ダナ

スタッフ
監督:フランソワ・ファヴラ
原作:タチアナ・ド・ロネ

配給:ファントム・フィルム

公式ホームページ
http://mimosa-movie.com/

劇場情報
2016年7月23日(土)より、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき  Misaki Fujino

1992年栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、UPLINK主催「未来の映画館をつくるワークショップ」第一期受講。映画の他では、自然・掃除・クラシックバレエ、そして洋服や靴を眺めることが趣味。
昨年の映画ベストは小栗康平監督の『FOUJITA』とマルコ・ベロッキオ監督の『私の血に流れる血』。

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フランス映画祭2016



 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

2016年6月22日水曜日

【特別企画】映画『ひと夏のファンタジア』主演・岩瀬亮インタビューtext常川 拓也

 映画という共通言語があれば、あるいは、映画という創造行為の名の下にプロフェッショナルな人々が集まれば、言語の壁を超えて信頼関係を築くことができる。映画によって連帯が生まれ、信頼によって映画が生まれる。まるでひと夏のキャンプを楽しむかのように、韓国人と日本人が混成して奈良県五條市で撮影した映画『ひと夏のファンタジア』は、もしかするとそのような映画の可能性を思い出させてくれるかもしれない。

 映画『ひと夏のファンタジア』は2014年に韓国で公開されると、公開1ヶ月でインディーズ映画としては異例の3万人以上を動員した。きっとその多くは、「一部」のモノクロから、カラーへと一転する「二部」の淡いロマンスの余韻の美しさに虜になったに違いない。「二部」で岩瀬亮が演じる友助は、たまたま知り合った韓国人女性へジョンを和ませるために自虐っぽいことを言ったり、冗談を言う。本音を冗談で隠しながら、彼女の懐に一歩踏み込んでみるような人との距離感の取り方が、いかにも自然で微笑ましい。へジョンと友助の間の仄かなロマンスをカメラは慎み深く見守り、ささやかな郷愁とともに魔法のように甘美な雰囲気が包み込んでいる。

 岩瀬亮という役者の口から出る言葉は、まるでアドリブかのように、私たちの耳に馴染んで溶け込んでいく。彼が画面に現れると、自然で柔和な演技が、韓国からひとりやって来た女性の心から緊張を解くように、私たち観客に親密さとともに、どこか安心感を覚えさせる。彼は、いかにも演じている者として振舞うのではなく、実際に“そこにいる”と思わせる存在感なのである。

 その親しみやすい演技を生み出す秘密について、そしてものづくりにおける信頼関係について、岩瀬亮さんにお話を伺った。

(取材・構成・文:常川拓也)

*『ひと夏のファンタジア』公開に際して、インタビューの一部を先行公開いたします。なお、1万5千字に渡るインタビューの全文は7月上旬販売の映画冊子「ことばの映画館 第4館」に掲載予定です。



──昨年のPFF(ぴあフィルムフェスティバル)ではじめて観た時からすごく好きな作品だったので、今回、日本公開されることを嬉しく思っています。韓国人監督が撮ったとはにわかには信じがたいほど自然な日本の雰囲気に驚かされると同時に、夢見心地のようなまったりとした時間感覚にも魅了されました。撮影前にどの程度、全体像がわかっていたのでしょうか。

岩瀬亮 まず「一部」と「二部」があって、「一部」の方はセリフもちゃんと書かれていて、ほぼほぼ脚本ができていました。「二部」の方はプロットの前段階──こういうことが起こるぐらいのざっくりとした順番の並びだけしか決まってなくて、他のはっきりとしたことは与えられていませんでした。監督の頭の中にはイメージがあったとは思いますが、それしか知らせてはいませんでした。

──事前に聞いていたイメージと、実際にできあがった作品をご覧になって、印象の違いはありましたか。

岩瀬 撮影中は、どうなるのかはっきりとはイメージできてなかった部分があって、できあがったのを観て、「あ、こういう風につながるんだ」とかは結構ありました。というのは、「二部」の方は長回しで撮っていて、その中から会話を切り取っているんですよ。例えば、食堂でふたりでカレーを食べながら喋ってるシーンなんかは、30分以上回してる中のその何分かを切り取って使われています。なので、どこが使われるのかはわからず、「これ、このまま編集したら5~6時間の大作になるぞ」と思いながら撮影していたので、「あ、ここを使うんだ」というのはありました。「二部」はセリフ自体は決められてなく、状況の設定や言ってほしいセリフ、こういう話の流れにしてほしい、ということだけ与えられていました。だから(カメラを回す時間が)長くなっちゃうんですよね(笑)

──2009年バンクーバー映画祭で『イエローキッド』(2010、真利子哲也)が上映された際に、チャン・ゴンジェ監督と出会われたという理解でよろしかったでしょうか。

岩瀬 バンクーバーに行ったのは真利子監督だけで、そこでふたりは知り合って。その後に韓国でチョンジュ映画祭というのがあって、そこに真利子監督とぼくも行ったんですよ。そこでチャン監督を真利子監督から紹介されて、はじめて会いました。

──その後も、韓国に行った際はゴンジェ監督の家に泊まったりしていたと伺いました。

岩瀬 そうですね。逆にチャンさんが日本に来る時はぼくの家に泊まったりして、交流は続いていました。

──コミュニケーションはどのように取られているのですか。監督は、「普段から日本語でも英語でもないような言葉で」会話しているとおっしゃっていました。

岩瀬 そうですね、一応、ぼくの認識では英語なんですけど(笑)お互いの拙い英語でという感じですね。その中に日本語も韓国語も混じっています。

──もともと友人だった関係というのは、今回プラスに働いていると思われますか。

岩瀬 それは大きくあったと思います。たとえば映画の話もするし、どういうものを撮りたいと思ってるのかとか全部はわからないけれど、ざっくりと共通認識としてお互いにあったと思うので、それはすごくプラスに働きました。あと、たぶんいきなり外国人の監督のもとに呼ばれて行ったら、やっぱり色々な乗り越えなくちゃいけない壁があったと思うのですが、それがもともとない状態から撮影ができたので、それはかなりプラスでした。

──ゴンジェ監督の作風もある程度理解されていた上での出演だったかと思います。

岩瀬 そうですね。一個前の作品もたぶんセリフがちゃんと決まってない中で撮ってる瞬間があったように思いますし、それだけがすべてではないですが、要は、しっかり出てきた人物たちがお互いに人間としてコミュニケーションを取り合うという大前提をちゃんとしましょうね、というところが前の作品とも共通してると思いますね。

──監督とは、具体的にはどのような部分で考え方が近いですか。

岩瀬 セリフを渡さない意味、なぜセリフを書かなかったのか、そういったことを考えてみた時に、演出で大事にしているものが垣間見れると思います。もちろんセリフがあることはひとつの表現として大事なことですが、セリフのない中でふたりのコミュニケーションをいかに生み出すかということを大事にしているんだろうなという気がしました。セリフだけだと、セリフに引っ張られてそこが手薄になってしまうこともあるかもしれない。そうではない何かを撮りたいというのは、ぼく自身も同意できるので、その辺りは一致するところなのかなと思います。

──『ディストラクション・ベイビーズ』(2016、真利子哲也)にも出演されてますが、真利子監督とゴンジェ監督とではどのような演出の違いがありますか。

岩瀬 全然違いますね。基本的に全部違うと思うんですけど、逆に共通してる部分ってなんだろうと考えると、生の人間をちゃんと表現したいという感覚が、ぼくから見て共通してあるように思います。

──ゴンジェ監督の撮影の進め方や演出はどのようなものでしたか。

岩瀬 とにかくコミュニケーションを取ってくれる監督でした。1シーンを撮る前には必ずどういう場面かを詳しく話してくれて、1回テストをやるんですけど、その後に「ここがこうだったからこうして」ではなくて、まず演じた本人にどうだったかを訊ねるところから入り、「こうだった」と答えると、「ぼくもそう思ったんだ。じゃあ、少しこうしてみて」となるような進め方でした。とにかくコミュニケーションを取って、演じる側のことをすごく考えてくださる監督だなと思います。 



☆言葉を自然なものとして響かせるために☆

──本作は実際の五條の町の方々がインタビューに答え、ドキュメンタリーのようにしてはじまります。「一部」では、岩瀬さんと康(すおん)さんは彼らと同じようにインタビューに答え、同じように五條の住民として画面に現れます。その流れの中で違和感なく自然に登場するということは、とても難しいことではないかと想像するのですが、溶け込むための工夫みたいなことは何かされましたか。

岩瀬 「一部」に関しては、セリフがちゃんとあったので逆にそれを大事にしつつ、セリフを言うだけだとお芝居お芝居してしまうから、地元の人たちと比べた時にバレるだろうなと思いました。なので、自分の言葉にするように意識し、自分の中でちゃんと消化して喋るように気をつけました。

──友助は東京から来たという設定ですね。

岩瀬 あれは撮影前に監督とどうしようかいろいろ話しました。現地の言葉を使う人でもいいんじゃないかという話もありましたが、即席で付け焼刃的に方言を練習したところで絶対にボロが出てしまうと監督に話し、その結果、関東の言語を話す人になりました。打ち合わせで一度、奈良弁やってみましたが、全然うまくできませんでした。

──康さんは現地の言葉で登場しますね。

岩瀬 康さんはもともと大阪の方なので基礎ができてる方でしたが、それで満足されずに、撮影前や時間がある時は、とにかく地元の人を探して、会話をして、地元の言葉を習得しようとずっとやられていて、すごいなと思いました。

──役作りの上で、監督から何か意識するよう言われたことなどはありますか。

岩瀬 キャラクターについてこうしてくださいというのは特にありませんでしたが、例えば「二部」の農家の役を演じるにあたっては、チャンさんがもともとリサーチで五條に来た時に会った柿農家の人を呼んでくれて、実際にその方とお話したりはしました。

──「一部」は監督自身のお話のようですね。

岩瀬 そうですね、監督が調査に来た時の話がかなりもとになってるのではないかと思いますね。

──二部構成というのは、最初から意図として聞かされていたのでしょうか。

岩瀬 はい、それは聞いていました。

──「一部」では閑散とした街並みとともに住民たちのインタビューから五條市に過疎化が進んでいること、若者が都会に出てしまっていることが示されますが、一方の「二部」では、日本人と韓国人の若い男女の淡いロマンスが描かれます。と同時に、ドキュメンタリー調の白黒映像である前半から、後半では夏の日差しの暑さがじりじり伝わってくるような暖色系のカラー映像になります。映画の中でふたつの物語が互いに関連付けあいながら──同じ場所場所を巡っていきながらも異なる描写と表現を紡ぐことによって、差異が生まれていることもまた、独特な時間感覚につながっているように思いました。こういった構成自体に際して、役の演じ分けや世界観の違いは何か意識されましたか。

岩瀬 世界観の違いみたいなものは特に意識してはいなかったです。役としては、「一部」の友助と「二部」の友助は、単純に別のものとして演じていました。何せ脚本にセリフはなく、他の準備がなかなかできないので、「二部」の友助は、日焼けをして髪を切るなど見た目からできる限りの準備をしました。

──役作りは、外見から作っていくことが多いのですか。

岩瀬 いや、そういったことはなくて。むしろ外見は一番最後に考えることの方が多いですね。『イエローキッド』も外見から作りましたが──そういう作り方ももちろんありますが──、毎回外見から入っていくというわけではないです。

──今回の役作りはどのようなものでしたか。

岩瀬 今回は「一部」と「二部」があるちょっと特殊なケースだったので、単純にそれぞれに差をつけたいという思いがまずありました。違いを生むという意味で、日焼けをするというのと、話し方を少しだけ早くするよう意識しました。

──話し方を早くするというのは、「一部」と「二部」の友助の職業の違いからですか。

岩瀬 それもありますが、あと会話の性質の違いもあると思います。「一部」は、職員が韓国から来た映画監督とその通訳に町の説明をする、自分の生い立ちを語る、というもので、「二部」のように男性が女性に声をかけて話をしてロマンスが生まれる過程の会話とは、性質が違うものでした。

──岩瀬さんは、『イエローキッド』ではボサボサの髪とヒゲにメガネの陰気な漫画家を演じられていますが、本作では全く対照的な人物を演じています。ですが、どちらもセリフの中に、「まぁ」「えっ」「あっ」「あの」「なんか」などの間_が入っていることに気付かされます。そういったものを上手くナチュラルに取り込むことを意識されているのでしょうか。

岩瀬 結局、ない方がいいとは思ってるんですよ。なくていいんだったらなくていいとは思うんですけど、どうしても会話をつなげていく時に、それがあった方がつながりやすい瞬間がある時は入れるようにはしています。ですが、監督によってはそういうものを嫌いな方もいらっしゃるので、その辺りは臨機応変にやっています。でもできる限りは、基本的には入れないようにはしてるんです、これでも(笑)だって、入れないで成立するならその方がいいなと思うので。

──でもあれによって、日常会話のリズム感が生まれているように思えます。

岩瀬 ぼくもいいなとは思うんですけどね(笑)でも、それがなくても日常会話感とかリズム感というのはもしかしたら出せるかもしれなくて、それにチャレンジしないと、ただ「あ」とか「え」とかがいっぱい入っちゃって、ごちょっとした芝居になってしまう恐れもあるので、できる限り減らして、でも必要だったら入れるようなスタンスですね。

──「一部」ではそういうものが書き込まれていたわけではなかったのでしょうか。

岩瀬 なかったですね。ぼくが全部勝手に入れてるやつです。すみません(笑)

──いやいや、そうすることによって、セリフが、まるでその場のやりとりから生まれたアドリブかのように自然なものとして響いてくるように感じられました。本作を観た知人は、「普段聞き慣れている母国語のはずなのに、まるで外国語を聞いているかのように会話のやりとりが迫ってきた。その不思議な会話のリズムが五條市の景色と相まってなんとも気持ちがよかった」と言っていました。日本語がわからない監督が撮ったからこその良さは感じられたりしましたか。

岩瀬 どうなんだろう……いま聞いていてひとつ思ったのは、キム・セビョクさんは日本語を喋れるんですけど、いわゆるネイティヴではないので、ぼくがバーッと話してしまうと、わからない箇所が出てきてしまうと思うんですね。だから向こうがちゃんとわかるように話そうという風に友助もするから、それが独特の間になったのかなという気はちょっとします。

──たしかに身振りも含めて、友助が親切に、丁寧に伝えようとしてる感じが観客にも伝わってくるのが、見ていて好ましい気持ちになりました。「二部」でふたりが笑い合ったりしている瞬間というのは、本当にその場で笑っているということですよね。

岩瀬 そうですね、基本的にそういうことだと思います。

──だからこそ、あんなに真実味を感じたのですね。

岩瀬 「ここでこういう風に笑って」みたいなのはなかったですね。

──あまりに微笑ましくて、観ていてこちらも笑ってしまいました。

岩瀬 あら、いいところ尽くしじゃないですか(笑)


☆ものづくりにおける信頼関係☆

──ほかに外国人監督が日本を舞台に日本人で撮影した作品というと、アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)があります。

岩瀬 キアロスタミ監督は好きな監督です。

──あの作品でも日本語の会話の比重が大きかったですが、『ひと夏のファンタジア』も『ライク・サムワン・イン・ラブ』もどちらも話し言葉の中に不自然な感じが全然ないというのが、すごく興味深いことのように思えます。

岩瀬 それでひとつ思うのは、結局、監督は日本語がわからないわけじゃないですか。たぶん判断しようがないんですよね、それが言葉として硬いか柔らかいかとか。わからないから、言葉ひとつひとつというよりも、その時の全体の雰囲気や空気、ふたりの間で言語とは違うところで起こっているものを何とか見ようとしているのではないかと思います。それがOKな時って、たぶんちゃんと会話ができてる時だと思うので、そういう部分が切り取られていくのかなという気はしますね。

──監督は、「言葉がわからないから、感情を見ていた」とおっしゃっていました。

岩瀬 そういうことだと思いますね。

──言葉がわからなくても、そういうところが見抜けるってすごいですよね。

岩瀬 逆にわからないからこそ、そこに集中できるっていうのもたぶんあるんじゃないかなぁ。言葉がわかっちゃうと、言葉を聞いてしまうから、セリフが上手くいってるとそれでOKにしてしまう場合がありますが、言葉がわからないと違うところで何とかそれを掬い上げようとするから、逆に集中して見れるような気がします。

──日本語をわからない人に伝えようとすると、身振りも大きくなったり、表情も加えたりするので、そういうので監督自身もわかりやすかったりしたんですかね。

岩瀬 どうなんですかね、でもたしかにそうですよね(笑)

──昨年、PFFの一次・二次審査で様々な日本の自主映画を観たのですが、会話を自然な風にしようとして逆にセリフっぽく聞こえてしまう作品が多くありました。そういった中で、韓国人の監督が撮ったにもかかわらず、自然な日本語の会話が聞こえる本作はすごいなと思ったんです。セリフセリフしない感じっていうのは、どういうところに工夫があると思われますか。

岩瀬 自分の体験の中でもととなっているのは、ぼくは舞台もよくやっているのですが、舞台ではひとつのやりとりについて、何十回も何百回も同じように稽古をします。そうすると、このやりとりがどうやったら新鮮にできるのかとかをすごい考えるようになるんですね。そういうところで教わったというか、培ってこれたものがあったとしたら、役に立っているのかなと思います。難しいですよね、それって。フランクに喋ってますよという風に「~っぽく」話すと、「~っぽく」話すこと自体はすごい簡単なんだけど、そこにちゃんと血が通ってるところまで行くのがすごい難しいことだなといまでも思うので、そういう感想をいただけるとすごく嬉しいです。

──アドリブでその場でやってもらっているのをただ撮っていても絶対に観ていて違和感はあるじゃないですか。

岩瀬 そうですよね。

──それを成立させているというのは、本当に驚くべきことです。

岩瀬 セビョクさんの力もすごく大きかったと思います。超大変だったと思います、よくわからない日本語をずっと喋って芝居するんだから。

──「二部」でのアドリブに対応するぐらいの日本語力がセビョクさんにはあったのですか。

岩瀬 100%理解していたわけではなかったです。テストをやった時に「ちょっとさっき何て言ってるのかわからなかった」みたいなことはあって。韓国語じゃないから、セビョクにとっては外国語に自分のモチベーションを乗せなくちゃいけないわけで、それがたぶん難しいと思います。ぼくら日本人だったら「難しい」という言葉にその気持ちを乗せられるけど、「It's difficult」と言う場合には感情を込めて言うのが難しいじゃないですか。

──ちょっと恥ずかしいですし。

岩瀬 そうそうそう。それをちゃんと自分のできるところでやろうとしていたので、すごいなと。

──カメラの前で母国語ではない言葉で演じる恐怖、あるいは日本人にとっては日本語がわからない監督の前で演じる恐怖、そういうものがない現場だったということでしょうか。

岩瀬 あー、そういうのはなかったですね、たしかに。監督は俳優がやることをなるべく信じてくれていたし、そうすると、同じように監督が言うことをぼくらも信じられるようになるし、信頼関係はできていたんじゃないかなと思います。

──撮影前から信頼関係を築いていくような時間はあったのでしょうか。

岩瀬 そんなに多くはなかったです。そもそもそんなに時間をかけて撮れるような状況でもなかったので。でも、その中でできる限り多くそういったコミュニケーションは取るようにしてくれていたと思います。

──監督も遊びに来ているような感覚もあったとおっしゃっていました。

岩瀬 あ、そんなこと言ってたんですか。

──「密度の濃いものを撮らなければならない緊張感はある一方で、まるでみんなで知らない土地に遊びに行って、一緒に寝泊まりしながら作るような感覚もあった」と。

岩瀬 監督は、そのさじ加減がすごく上手で。本当にただ遊んでるだけだったら、できあがった作品のようにはならなかった。たぶん一個ちゃんとした緊張感を保った上で遊べるということが、監督のバランス感覚の素晴らしさだと思います。撮影の時にみんなで楽しく寝泊まりしたっていうのをそのまま引きずってしまうとたぶんダメで、「いい作品を作ろう」という緊張感は常にあったんじゃないかなと思います。

──そのオン/オフの切り替え時に、監督の態度などは変わらずに緊張感が出るんですか。

岩瀬 小さなことかもしれないけれど、ぼくと監督はもともと知り合いで友だちで、そのアドバンテージはいっぱい使うけれども、だからと言って、「友だちだから言わなくてもわかるでしょ」みたいな雑なことはしませんでした。ちゃんとその瞬間は俳優と監督として向き合っていました。友だちってだけでやっていたら成立しなかったと思います。そういう緊張感がありました。

*インタビューの全文は7月上旬販売の映画冊子「ことばの映画館 第4館」に掲載予定です。
 

『ひと夏のファンタジア』
2014/日本・韓国/96分/DCP

作品解説
<一部>
韓国から奈良県五條市に次回作のシナリオ・ハンティングのためやってきた映画監督テフン(イム・ヒョングク)は、助手兼通訳のミジョン(キム・セビョク)とともに、観光課の職員・武田(岩瀬亮)の案内で町のあちこちを訪ね歩く。古い喫茶店や廃校、ひとり暮らしの老人宅など、五條に暮らす人々をインタビューして回り、彼は花火大会の夜に不思議な夢を見る。
<二部>
韓国から奈良県五條市ひとりで旅行に来た若い女性へジョン(キム・セビョク)は、観光案内所で柿農家の青年・友助(岩瀬亮)と出会う。古い町を歩きながらともに時間を過ごす中で、友助は次第に彼女に惹かれていく。

出演
キム・セビョク
岩瀬亮
イム・ヒョングク
康すおん

スタッフ
脚本・監督:チャン・ゴンジェ
プロデューサー:河瀨直美、チャン・ゴンジェ

@Nara International Film Festival+MOCUSHURA

公式サイト

上映情報
6月25日(土)より 東京 ユーロスペースにてレイトショー
7月2日(土)より 大阪 シネ・ヌーヴォ、名古屋 シネマスコーレにてロードショー
7月9日(土)より 横浜シネマリン、8月以降 シネマテークたかさき ほか、全国順次公開予定

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岩瀬亮(いわせ・りょう)

1980年生まれ。茨城県出身。早稲田大学卒。2005年より「ポツドール」「ハイバイ」「サンプル」などの劇団公演に多数出演。主な出演作に映画『イエローキッド』(2010)がある。本作出演後、韓国映画『最悪の女』にもキャスティングされ、海外進出も果たす。


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【執筆者プロフィール】

常川拓也 Takuya Tsunekawa

映画批評。「Nobody」「neoneo」「リアルサウンド映画部」などで映画評を執筆。これまでに塚本晋也、ジョン・ワッツ、ペマ・ツェテン(「ことばの映画館」vol.4掲載予定)らへの個別インタビューを行う。「PFFアワード2015」セレクション・メンバー。Twitter:@tsunetaku


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フランス映画祭2016〜映画『ショコラ!(仮題)』評text大久保 渉

「共に脈を打つ心臓」

忘れられるはずがない。彼らが生きたそのすがたを。体中が覚えている。笑い疲れた口と頬。泣きはらした瞼と潤う瞳。緊張で力強く握った両のこぶし。小躍りしたくなる気持ちを抑えた両の足。彼らの動きに魅了され、彼らの言葉が耳に残り、彼らの人生の一端が体中をめぐってわたしの心臓を熱く激しく打ち鳴らす。

気難しげな痩せた白人とニンマリ笑った大柄な黒人。フティットとショコラ。1900年代初頭のフランスで大人から子どもまでたくさんの観客たちを笑わせた異色の芸人コンビ。映画は実在したふたりの生涯に光をあて、その歴史の淵に埋もれてしまった類まれなる軌跡を映しだす。

本作でショコラを演じたのは、『最強のふたり』(2011)でセザール賞主演男優賞を受賞したオマール・シィ。その後『サンバ』(2014)、『ジュラシック・ワールド』(2015)と続けてヒット作への出演を果たしてきた彼は、インタビューでこう語る。

「今後、みんなに覚えていてほしい。僕の前にショコラがいたことを――」。

画面から伝わってくるのは、全力の、ひたすら前に突き進むエネルギー。奴隷の息子として生まれたショコラ。黒人への偏見が強く残る当時のフランスで、出し惜しみなんかしちゃいられない。どれだけ喝采を浴びようとも、不当に牢屋にぶち込まれようとも、喜びも苦しみも焦りも怒りも、すべてを力に生きていく。そこに、俳優・オマール・シィの演技力が重なる。大きく口をあける豪快な笑顔。ギロリと目をむく怒りの形相。感情の爆発。ショコラのすべてが私の瞳をひきつける。自分をさらけだすことへの憧れと、留まることを知らない欲求への胸苦しさと。そうして道を切り開く男がいるということに、ただひたすら魅了させられてしまう。

Photographe Julian Torres © 2015 Mandarin Cinéma – Gaumont

そしてそれはフティット、ならびに彼を演じたジェームズ・ティエレにも同様のことが言える。古臭い芸でクビ寸前の熟練芸人・フティット。かの喜劇王チャールズ・チャップリンの実孫であるティエレ。自信と恐れがないまぜになったその瞳。成功か、どん底か。今この瞬間にできることをあますことなく出しつくす。

その偏狭な物腰は時にエゴのようにも見えるけれども、舞台に立っているその瞬間がただ楽しくて仕方がないのだろう。ショコラと共に舞台に立ち、観客を笑わせるそのひとときが。

張り裂けんばかりのわめき声。身体をふりまわすオーバーなアクション。ショコラのケツを蹴りあげる。蹴って、蹴って、笑いをとる。横柄な男の顔。ただその内にひそむ男の繊細な瞳。ふっと伸ばしたその手の平は、ショコラの頭を鷲づかみにしようとしていたのか。それとも何処にも行くなと追いすがっていたのか。器用な身体に不器用な心をもつその男の横顔が、私の瞳を捉えてはなさなかった。

一時代を築き上げたフティットとショコラ。お互いを認め合い、競い合い、笑い、罵り、涙を共にしたふたり。たとえ困難な状況にぶつかっても、ふたりの心臓は共に脈を打ちつづける。

そして、力の限り生き抜いたふたりの生涯は、時代を超えて、世界を超えて、再び歴史の奥底から立ち現れる。そう。それは必然なのだろう。華やかに燃えた火花のくすぶりが、そう簡単には消えないのと同じように。やがて風を受け、再燃する。そして観る者の心を熱くたぎらせ、刺激する。

「今日をよりよく生きるためには、過去を知ることがとても大切だと、僕はいつも思っている」。

インタビューでこう語っていた本作の監督 ロシュディ・ゼムもまた、胸を熱くたぎらされたひとりなのだろう。

(text:大久保渉)




『ショコラ!(仮題)』
原題:Chocolat
2015年/フランス/119分
(上映日時:6/26(日)14:10、会場:有楽町朝日ホール)

作品解説
物語の舞台1900年初頭フランスで、ショコラという愛称で親しまれたフランス史上初の黒人芸人と、かつて名声を博した白人芸人、フティットの黒人・白人デュオが巷を騒がせていた。デュオ結成後、パリの名門ヌーヴォー・シルクのステージに立ち、順調にキャリアを積み上げる2人。しかし、当時は未だ人種差別が根強く、ショコラもその標的となってしまう。奴隷の子として生まれ、育ち、そしてその努力と勇気で夢を叶えたショコラと、その成功の陰で彼を見出し、支え、共に苦難と名声を分かち合ったフティットの2人を描いた感動の実話。ドキュメンタリー映画の元祖、リュミエール兄弟作品に出演し、名実ともにフランスを代表する芸人だった2人を、『最強のふたり』のオマール・シィとチャップリンの実孫、ジェームス・ティエレが演じ、俳優としても活躍するロシュディ・ゼムが監督を務めた。

キャスト
オマール・シィ(ショコラ)
ジェームス・ティエレ(フティット)
クロティルド・エスム
 
スタッフ
監督:ロシュディ・ゼム

配給:東北新社 STAR CHANNEL MOVIES

劇場情報
2017年、シネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショーにて公開予定

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【執筆者プロフィール】

大久保渉 Wtaru Okubo

ライター・編集者・映画宣伝。フリーで色々。執筆・編集「映画芸術」「ことばの映画館」「neoneo」「FILMAGA」ほか。東京ろう映画祭スタッフほか。邦画とインド映画を応援中。でも米も仏も何でも好き。BLANKEY JET CITYの『水色』が好き。桃と味噌汁が好き。
Twitterアカウント:@OkuboWataru 

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フランス映画祭2016



 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

フランス映画祭2016〜映画『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)』評text井河澤 智子

「インドの空の下、ガンジスは流れる」
 
 クロード・ルルーシュ監督とフランシス・レイの音楽による名作『男と女』。
 あれから50年。この名コンビによる、新たな大人の恋物語が生まれた。

 半世紀後の舞台はフランスから遠く離れ、インド。
 インドに傾倒していたフランス人女性が初めてインドを訪れ、荷物を一切合切盗まれて大使館に駆け込む。この女性はインド好きのインド知らずというべきか、おっちょこちょいというべきか。
 かくして、大使に見初められた彼女はそのまま駐印フランス大使夫人となる。

 映画の国インド。同じく映画の国フランス。
 インド映画の劇伴を依頼された作曲家は、恋人であるピアニストをフランスに残し、インドを訪れる。なんだか頭が痛い。
 大使との晩餐会なんて行きたくもなさそうな顔である。しかし義理は欠かせぬ。
 かくして、フランス大使の妻と作曲家は出会う。

 フランス大使夫人、アンナ。作曲家、アントワーヌ。
 よくしゃべり、よく笑い、またしゃべり続けるアンナ。インドの思想について滔々と語るアンナ、ただ呆然と聞くしかないアントワーヌ。その顔はおしゃべりを聞き疲れたのか頭が痛いのか、もしくはその両方か。
 話はあっちこっちに飛躍する。アンナは、愛する人の子どもが欲しいので、南インドの聖者アンマに会いに行き、願いを聞いてもらうという。ニューデリーからムンバイを経て南インド・ケーララへ。遠い。
 アンナは一人で出かけるという。どういう経緯でアントワーヌが同行することになったのか。彼の頭痛のタネが原因なのかもしれない。インドの奇跡を信じる、という能天気なアンナに、ちょっと乗ってみたのかもしれない。もしくは、飛行機などで直行するならまだしも、いたって普通に電車やバスや船で行くというアンナが心配になったのかもしれない。どこか危なっかしく、放っておけない雰囲気を醸し出すアンナである。
 かくして、旅は道連れ世は情け、フランス人男女ふたりのインド縦断がはじまる。

 さて。あくまでもこのふたり、恋人同士というわけではない。という建前である。女は男に惚れ、積極的に口説きにかかり、男は若干腰がひける。しかし男のほうもまんざらではなく、ガンジス川で身を清める女の美しさに目を奪われたことを隠そうともしない。もっとも、それは自分が誘惑された、という都合のいい解釈で片付けられたが。彼は、勝手に寄って来る女たちを拒まない性質なのだろう。うらやましい限りである。
 かくして男と女の距離はどんどんと近くなっていく。

 とはいっても、このふたりにはお互いパートナーがいる。常に携帯電話は手放せない。アンナとアントワーヌ、共に優雅なひと時を過ごしながらも携帯電話の向こうにいるのは別の愛する人である。電話の向こうで待つ人に「ひとりでいる」と言うのは嘘である。なぜだろうか。携帯電話は鎖のように彼らをつなぎ、また一方で「騙す」道具にもなり得る。
 彼らはなぜこんなにも堂々と、愛する人に嘘をつくことができるのだろうか?

©2015 Les Films 13 - Davis Films - JD Prod - France 2 Cinéma

監督はこうコメントする。

「愛はこの映画の唯一のテーマだ。
 愛に限界はない。
 誰かが誰かを深く愛していても
 別の人間を好きになることもあるということを描きたかった。
 私にとって愛とは、あらがうことのできない麻薬のようなものだ。」

 あらがうことのできない麻薬。なんという甘美な響きであろう。
 愛に満たされた人生を楽しむということは、一時の火遊びと、満たされた日常、その両方を味わい尽くすという貪欲さなのだろう。「大人の恋」という美しい言葉は、己の欲望にどこまでも忠実であることと、ここではほぼ同義である。
 アンナは、今まで全てを手に入れてきた。ただ一つ手に入れていないものは「愛する人の子ども」。それを手に入れるために、南インドまでやってきた。さて、仮にこの欲望を本能のなせるものとするならば、はたして「愛する人」とは誰なのか。
 一方アントワーヌは一体何を欲しがっているのか。名声も恋もすでに手の内にある彼は、どこまでアンナを愛しているのか。彼の軽やかさは、その本心を隠しているようでもある。むしろ自らが欲していない諸々から自由でありたいように見えるのだが。

 さて、この物語は、美しい言葉の裏の「嫉妬」にも視線を送る。非常に現代的な方法で、ふたりの愛、嫉妬に阻まれた愛は暴き出される。この上なく甘美で、あらがうことのできない麻薬の快楽は、どうしようもない苦しみを伴う。ひょっとしたら、ひと時の苦しみを経て、なお次の快楽を求めるのかもしれないが。

 全てに満たされているように見える人々の物語である本作とは対照的に、『男と女』は、喪失感を抱え、なお愛を求める人々の物語である、ということを忘れてはならない。どんなに満たされていても、また、苦しみを経験していても、どちらにしても人は愛を求める生き物なのだろう。
 酒と産に懲りたものはいない、という。愛も同じだ。

 子どもが欲しいアンナと、頭痛のタネを抱えたアントワーヌ。
 欲しいものは欲しいと態度に表しても、欲しいものを全て手に入れることはなかなか難しい。
 南インドの聖者アンマの奇跡はどのように顕現するのだろうか。

 さて。50年前に想いを馳せる。
『男と女』。思い出すと即座にテーマソングを口ずさんでしまうという方も多いのではないだろうか。それほど印象的な楽曲である。
 この『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲』でも、「音楽」は大きな役割を担う。
 若い男女の恋物語を彩る音楽。現地のオーケストラが奏でる。作曲はアントワーヌ。
 また、広大なインドの風景をより旅情豊かなものとする壮大な劇伴。懐かしい、古き良き時代の香りが漂う。

 さて。フランシス・レイは飛行機が嫌いなのだと聞く。海外にも滅多に出ることがないと聞く。あくまでも聞いた話である。が、しかし。

 クロード・ルルーシュは映画音楽家アントワーヌにフランシス・レイを重ね合わせ、彼を旅に出したのかもしれない。飛行機に乗ってインドに飛び、異国の光景を見、列車の中で美しい女性と恋に落ちる、そんな「いたかもしれないもう一人のフランシス」をそこに存在させたのかもしれない。
 そう考えると少し楽しい。

(text:井河澤智子)




『アンナとアントワーヌ 愛の前奏曲(プレリュード)』
原題:Un + Une
2015年/フランス/114分
(上映日時:6/26(日)10:30、会場:有楽町朝日ホール)

作品解説
映画音楽作曲家のアントワーヌは、自分が曲を書いてきた映画の主人公のように、人生を謳歌していた。ある日、映画音楽のためにインドを訪れたアントワーヌは、フランス大使の妻アンナに出会う。愛する夫との間に子供を授かりたいと願うアンナは伝説の聖母アンマに会うためにインド南部の村まで旅に出る。多忙なアントワーヌもしばしの休養を求め、アンナを追って2日間の旅に出かけることを決めたが……。
男女の恋愛の機微を描く名手クロード・ルルーシュ監督と作曲家として世界的名声を得ているフランシス・レイ。その名コンビが作り上げた大人の恋愛映画。

キャスト
アントワーヌ:ジャン・デュジャルダン
アンナ:エルザ・ジルベルスタイン
サミュエル:クリストファー・ランバート
アリス:アリス・ポル

スタッフ
監督/原案/脚本:クロード・ルルーシュ
音楽:フランシス・レイ

配給:配給:ファントム・フィルム

公式ホームページ
http://anna-movie.jp/

劇場情報
2016年9月3日(土)~Bunkamuraル・シネマほかにて公開予定

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【執筆者プロフィール】

井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

元図書館員。セミナー影ナレ・会議司会・選挙ウグイス・謎のアプリ声優・婚礼司会(修業中)など、こっそりと声の仕事をしつつ、映画との関わりを模索中。

図書館勤務だった頃
「候孝賢」で蔵書検索してもヒットしない
という相談に即答できたときは
「映画好きでよかった」と思いました。

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フランス映画祭2016



 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

フランス映画祭2016〜映画『モン・ロワ(原題)』評text長谷部 友子

「愛の末路」


十年間愛した人とは一体何者だったのだろう。

弁護士のトニーはスキー事故で膝に大けがを負い、長期間リハビリセンターに入院することになる。「膝というのは後ろにしか曲がることのない関節で、そこを怪我したということは、過去に何か原因があるのでは?」と医師は謎めいたことを言う。その言葉を契機にトニーは過去を、つまり元夫ジョルジオとの波乱に満ちた関係を振り返りはじめる。これほどまでに愛憎を覚えた男とは一体何者であったのか。

十年前、トニーは憧れていたレストラン経営者のジョルジオとクラブで再会し、激しい恋に落ちる。瞬く間に意気投合し、電撃的に結婚を決め、トニーは妊娠する。しかし幸福な時間はあまりに短く、妊娠中から漂いはじめる不穏な空気は今後の数々の苦難を予感させる。

ジョルジオには精神が不安定な元恋人がいて、自殺未遂をしてはジョルジオの気をひく。ジョルジオは自分には責任があると言って、元恋人との行き過ぎた関係をやめようとはしない。女性問題に限らず金銭問題、派手な友人たちとの遊び、一人になりたいと勝手に別居を決める身勝手さ、ここまでくればあっぱれというしかないダメっぷりに周囲は離婚を勧めるが、トニーは「結婚とはそういうものではない。子どもをつくって別れるために何年も待ったわけではない」と長く待ち続け、ようやく見つけた愛する人に見切りをつけることができない。しかし次第に自身も精神を病み、生活もままならなくなる。

モデルのような華やかな人間とばかりつきあい遊んでいるジョルジオと弁護士であるトニーは火と油、あまりに相性の悪い者同士なのだろうか。
ジョルジオは華やかな世界でモデルのような女性たちと浮き名を流しながらも、結婚をして子どもをもうけるのはトニーだと思い、即座に結婚を決める。有能で出来のよい妻に子育てをはじめ生活の一切を任せ、自分は好き勝手をすればいいというずるい打算ゆえともとれるが、それにしては相手が悪すぎる。トニーは情熱的すぎるし、ジョルジオを諦めない。そしてジョルジオもまた、自分は好き勝手をし続けるくせにトニーを手放す気はないらしい。それは生活のための打算というより、彼女の確実さを頼っているようにも見える。ジョルジオは自分の弱さや矛盾をトニーにだけは知られたくないと思いながらも、彼女に見透かされていると怯え、破滅的な生き方をやめられない。
一方トニーは、リハビリセンターで若い青年たちと親しくするようになるが「どうして自分たちと仲良くするのだ」と尋ねられる。性別も年齢も仕事や所属する世界が違うのに何故なのだと。楽しいからだとトニーは言う。弁護士という固い仕事をしていながらも、トニーは刺激的なものを好み、享楽的な振る舞いをする。ジョルジオという不運に出会ったことが間違いだったのか。いや、たとえジョルジオと出会わなくとも、トニーには同じようなことが起こるのだ。これほど呪わしく激しいものではなかったかもしれないけれど。
愛も憎しみもいらない。平らな人生がいいと離婚を切り出すトニーに、そんな男であったなら惹かれなかっただろうとジョルジオは言う。そんなことはトニーがジョルジオ以上に知っている。そしてそんな自分を受け入れろとジョルジオは言う。

© 2015 / LES PRODUCTIONS DU TRESOR - STUDIOCANAL

人は別れることによってしか思い知ることはない。緩く繋がっているなどという生ぬるさは現実から目を背けているだけで、詰まるところ別れこそが真に人を成長させる。潔く断ち尽くせ。一方、一度出会った人とは別れることはできない。たとえこの先一生会うことがなくとも、誰かと別れ尽くすことはできないのだと。この別れについての相反する二つの解釈。
あなたは私と別れられるが、私は私と別れられない。人生とはその絶望の繰り返し。最も愛する人とは、別れることのできない自分に限りなく近い人なのかもしれない。相手の何かを見咎めるとき、それはおそらく自分に含まれている部分だ。あなたが相手に苛立ち、なじるとき、それは自分に向けられた言葉だ。

何故人を愛するのだろう。愛とは執着に過ぎないのだろうか。執着は大抵、本当の愛情ではないと非難され、とかく最近は断捨離やらリセットやら、執着しない生き方が推奨される。
あなたを諦めない。あなたが私を諦めていないとわかる限り、私はあなたを諦めない。どれほど傷つけられ、苦しむことになろうとも。それは執着やエゴで愛ですらないと責め立てられるかもしれないけれど、この諦めなさこそが愛であり、そして愛の末路はいつだって悲惨だ。

十年という歳月の果てに、こたえはあるのだろうか。
一体この人の何にそれほど惹かれたのだろう。
いやそもそも、そんな人は本当にいたのだろうか?

(text:長谷部友子)




『モン・ロワ(原題)』 
原題:Mon Roi
2015年/フランス/126分
(上映日時:6/25(土)17:10、会場:有楽町朝日ホール)

作品解説
『美女と野獣』のヴァンサン・カッセルと『太陽のめざめ』の監督エマニュエル・ベルコが共演した、10年間にわたる男と女の激しい愛の物語。エマニュエル・ベルコは体当たりの演技が絶賛され、2015年カンヌ国際映画祭で『キャロル』のルーニー・マーラーとともに女優賞を受賞。監督は『パリ警視庁:未成年保護部隊』(11)でカンヌ映画祭審査員賞を受賞した自身も女優であるマイウェン。
弁護士のトニーはスキー事故で大けがを負いリハビリセンターに入院し、リハビリを続ける中、元夫ジョルジオとの波乱に満ちた関係を振り返る。これほどまでに深く愛した男はいったい何者だったのか。なぜ、ふたりは愛し合うことになったのか……。

キャスト
エマニュエル・ベルコ(トニー)
ヴァンサン・カッセル(ジョルジオ
ルイ・ガレル
イジルド・ル・ベスコ

スタッフ
監督:マイウェン

配給:アルバトロス・フィルム /セテラ・インターナショナル

劇場情報
2017年春、YEBISU GARDEN CINEMA、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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フランス映画祭2016



 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

2016年6月20日月曜日

【特別寄稿】『海よりもまだ深く』評text成宮 秋祥

「実体と精神諸共の“父親探し”」


 是枝裕和の映画で主役として描かれる父親は、どれも“良多”という名前だ。『歩いても 歩いても』と『そして父になる』に続き、三回目の登場となる良多。前二作の良多は、経済的に成功し家族も築いているが、本作の良多はその真逆である。彼は、貧乏で生活に行き詰まり、妻とも離婚している。さらに賭博に溺れ、亡くなった父親の遺品を質に出すような情けない男として描かれ、今までの是枝作品で描かれてきた良多の人物造形と大分異なっている。

 こうした駄目な男を描いた映画は、戦後初期の邦画にも多く作られてきた。中でも、成瀬巳喜男の傑作、『浮雲』(1955)の森雅之が、その筆頭と言える。森の駄目男ぶりは、敗戦によって“喪失した日本人の魂”を象徴していると言えるが、本作の良多の駄目男ぶりにも、森と同じく“何かしらの魂の喪失”を感じる。その原因は、是枝監督が常々テーマとして描いてきた“父親”にある事は間違いない。

 そうであるならば、本作は前二作に比べて分かりやすく観る事ができる。前二作で描かれた良多は、実体面として父親にはなっているが、精神面では自身の父親との関係性が原因で、真に父親になりきれずにいる。本作の良多は、精神面でも実体面でも父親になりきれていないので、自分を作っていない(もしくは作れない)分、感情移入しやすい。

 分かりやすく観られる分、映画としての質が落ちているという意見もありそうだが、本作にそれは当てはまらない。登場人物たちの自然な振る舞いや言葉の掛け合い、飲食物や食器類などの装置を会話の合間に巧みに画として挟み込み、屋内や家庭内の雰囲気を静かにリアルに描写する手腕は、ドキュメンタリー調の演出を得意とする是枝の面目躍如と言える。

 このように、しっかり画作りが施された映像の中で、父親になりきれない良多の実体と精神諸共の“父親探し”が描かれるのだが、物語の方向性は、実は前二作と何ら変わりはない。要するに、“自身の父親との関係性を見直し受容していく”までを描く事にある。
 先に述べた通り、良多の父親は既に故人で、良多自身も妻との離婚で家族と別れている。この良多の置かれた状況こそが本作独自の特徴であり、それをどのように見直し受容していくのかが見どころと言える。

 劇中での良多は、実に情けなく描かれている。演じる阿部寛の熱演もあり、その情けなさは奇妙に画になっている。それは例えば豊田四郎の名作、『夫婦善哉』(1955)の森繁久彌のような愛嬌ある情けなさではない。ただ単純に情けないのであり、そのオーバーアクトな情けない風貌に、不思議と画を見出してしまう。競輪で大負けした時の阿部の情けない悔しそうな顔はちょっとやそっとでは忘れられないだろう。

 その良多の”情けなさ”は最初から最後まで一貫しており、特に変化する事もない。彼の情けなさを支えているのが、彼が連発する根拠の無い”嘘”にある。嘘をつき続ける事で、彼は情けなく生き続ける事ができている。そして、その嘘が得意だったのが彼の父親であり、嘘という特技は間違いなく父親から受け継いだものだ。

 良多は、父親のようになりたくないと思いながら、父親のようになってしまい、反対に父親のようになってしまったからこそ、父親が得意だった嘘によって現在も生き長らえているともいえる。台風の夜に、離婚によって別れてしまった元妻と一人息子と共に、久しぶりに一つ屋根の下で過ごす事ができたのも、元はといえば彼の嘘が原因である。その夜、公園で彼ら三人が慌ただしく宝くじを探し合うという”短い家族の再生”を生み出したのも彼の嘘が火種である。

 父親から受け継いだ嘘を、良多は肯定も否定もしない。嘘という特技は、無意識レベルで彼に備わってしまったため、それを表に出して考える事はないのだろう。では、彼は父親の何を受容する必要があったのだろうか。それは、自身と異なる父親の資質だ。彼にとって最も価値のないものは、自身の資質に関係のないものだ。それは父親も同じだ。その資質の違いを彼が受容する場面は特に印象に残った。

 後半、良多は父の遺品である硯を質に出してしまう。字が汚い彼にとって書道は価値のないものだったが意外に高値がついた。その時、父親が彼自身の文才を認めていたという旨を、彼は質屋から聞いた。父親は文学に関心がなかったと彼は思っていたが、それが覆った。家族の品を質に出す事で、家族の絆を手放してしまった彼は、皮肉な事に質を通じて、家族の絆を知った。最終的に硯を売らなかった彼の眼差しは、温かい。

 最後まで良多は、実体と精神諸共に父親になれたとは言い難い。借金だらけで仕事も不安定なのも変わらない。恐らく今後も彼は嘘をつき続けるだろう。彼は何も変化していない。しかし何かを受容したのは事実だ。だからこそ、父親の遺品である硯を見つめる彼の眼差しは温かいのだ。

 そして、良い父親になるという行動レベルでの変化を敢えて描かなかったからこそ、今後の良多の変化に自然と期待できる。その方がリアルだ。彼は、駄目男なりに自分を見直し、嫌っていた父親を見直し、父親の資質を受け継いだ自分と、自分と異なる資質を持った父親を受容した。駄目男が駄目男のまま父親としての自分を受容していく過程を静かに丁寧に描いた映画は珍しい。しかし、そのアプローチの珍しさに負けず、“父親”というテーマをぶれずに描き抜いた是枝裕和の堅実な手腕は、すでに巨匠の域にある

(text:成宮秋祥)

『海よりもまだ深く』

2016年/117分/日本

作品解説

15年前に文学賞を一度受賞したものの、その後は売れず、作家として成功する夢を追い続けている中年男性・良多。現在は生活費のため探偵事務所で働いているが、周囲にも自分にも「小説のための取材」だと言い訳していた。別れた妻・響子への未練を引きずっている良多は、彼女を「張り込み」して新しい恋人がいることを知りショックを受ける。ある日、団地で一人暮らしをしている母・淑子の家に集まった良多と響子と11歳の息子・真悟は、台風で帰れなくなり、ひと晩を共に過ごすことになる。

キャスト
良多:阿部 寛
白石響子:真木 よう子
中島千奈津:小林 聡美
山辺康一郎:リリー・フランキー

スタッフ
原案・脚本・監督・編集:是枝 裕和
撮影:山崎 裕
主題歌・音楽:ハナレグミ

公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/umiyorimo/

劇場情報
丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほか全国公開中

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【執筆者プロフィール】


成宮 秋祥 Akihiro Narimiya
1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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2016年6月14日火曜日

【特別寄稿】映画『マクベス』評text村松 健太郎

「神話を具現化する男 マイケル・ファスベンダー 」

「マクベス」(吉本興業初の配給外国映画だそうだ)が映画化されるという話を聞いた時、今更?という思いが出た。
いうまでもなく「ハムレット」などの4大悲劇や「ロミオとジュリエット」で知られる16世紀の劇作家ウィリアム・シェイクスピアの代名詞的な代表作である。
日本でも年に数回は公演がある。
しかし、それをストレートに映画化するとなるとどうなのかと思った。
「ロミオとジュリエット」などは極端な例だが、シェイクスピア的要素は様々な形で映画の物語の中に取り込まれている。要は、「マクベス」や「ハムレット」というタイトルではないけれど、そのアダプテーション作品として多くの形で世に出ている。
そこに改めて「マクベス」を「マクベス」というタイトルで映画にすることにそこまでの意味を見いだせなかった。
ところが、主演がマイケル・ファスベンダーということで一気に興味を引いた。


象徴的なハリウッドデビュー進出作

アイルランド系ドイツ人(母方の先祖にはアイルランド独立運動の闘士マイケル・コリンズがいる)のマイケル・ファスベンダーはイギリスでのTVドラマなどを経てザック・スナイダー監督・フランク・ミラー原作のアメリカンコミックの映画化『300 スリーハンドレッド』でハリウッドデビューを果たした。
『300 スリーハンドレッド』では決して大きな役ではなかったものの、彼のその後のフィルモグラフィーを見ていくと、端的に彼を表す作品だと思う。
ヘロドトスの「歴史」に記されたペルシア軍の侵攻に対抗するスパルタ軍の勇猛ぶりを描いたアメリカンコミック(グラフィックノベル)を基にした映画である。
“神話的な歴史的事象を描いたアメリカンコミック”。ここまで神話的、寓話的と言っていいもののもないだろう。


神話・寓話の世界を具現化する男 

今年日本では3本の作品が公開されるオスカーレースに絡んだ『スティーブ・ジョブズ』、本作『マクベス』、そして人気アメコミシリーズの集大成『X-MEN:アポカリプス』。
まるで『300 スリーハンドレッド』の構成要素を三分割したような映画である。
『スティーブ・ジョブズ』は実在の人物を描いた物語ではあるけれど、スティーブ・ジョブズ本人の世界的なとらえ方、そして映画での描き方ともにアメリカの歴史上の偉人・アップル史・IT史おける伝説的な人物を描いた物語になっている。
本作『マクベス』は前述通り世界の演劇史を代表する劇作家シェイクスピアの代表作の映画化である。
そして、『X-MEN:アポカリプス』は長い歴史を持つアメリカンコミックシリーズの映画化シリーズの最新作である。
これ以前にも『X-MEN』では悲しい過去とX-MENの創設者プロフェッサーXとの愛憎半ばの関係を持ち、物語の一方の牽引役でもあるマグニートー=エリックを2度演じ。
『FRANK フランク』では着ぐるみ・張りぼて人形の巨大のお面をかぶり続けるバンドマンFRANKを演じた。
『SHAME シェイム』ではSEX依存症に苦しむ男が日常を崩壊していくさまを演じた。
そして来年待望の新作が公開予定の『エイリアン:コヴナント』では『プロメテウス』に続いて出演している。
アメリカンコミック、シュールなコメディドラマ、そして長い歴史の中で神話的に膨れ上がったSFと神話・寓話が続く。
このような物語は、演じ手のやり方次第では途端に空虚なものになる。あくまでも架空の物語ではあるもののどこかで我々と地続きの部分を感じさせてくれないと、一気に物語との距離感を感じ、感情移入がしにくくなる。
これをファスベンダーが演じるとなると、要所要所で地に足をつけて、我々にはない話であると分かっていながらも、どこか物語の中に自分と重なる部分を感じさせてくれることがある。


そして、『マクベス』

監督のジャスティン・カーゼルがファスベンダーの出演がなければ映画の撮影自体がなかったかもしれなかったと語っているが、それは彼のこれまでの出演作品とその成功の度合いを見ていけば、納得のコメントである。
相手役マクベス夫人を『エディット・ピアフ』『ミッドナイト・イン・パリ』『ダークナイト ライジング』と、どこかファスベンダーのフィルモグラフィーと重なる部分のあるマリオン・コティヤールが演じているのも良い。
下手に現代劇にアダプテーションしたりせず、ストレートに映像化した本作。
21世紀のシェイクスピアを劇場で堪能してみよう。

(text:村松 健太郎)







映画『マクベス』
原題:『Macbeth』
2015年/113分/イギリス

作品解説
「ハムレット」「オセロー」「リア王」と並ぶ、シェイクスピアの4大悲劇のひとつとして知られる「マクベス」を映画化。中世スコットランドを舞台に、勇敢で有能だが、欲望と野心にとらわれた将軍マクベスが、野心家の妻とともに歩んだ激動の生涯を描き、2015年・第68回コンペティション部門に出品された。

キャスト
マクベス:マイケル・ファスベンダー
レディ・マクベス:マリオン・コティヤール
マクダフ夫人:エリザベス・デビッキ
バンクォー:パディ・コンシダイン
マクダフ:ショーン・ハリス

スタッフ
監督:ジャスティン・カーゼル
製作:イアン・カニング、エミール・シャーマン、ローラ・ヘイスティングズ=スミス
製作総指揮:テッサ・ロス

配給:吉本興業

劇場情報
TOHOシネマズシャンテ他全国公開中

公式ホームページ
http://macbeth-movie.jp


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【執筆者プロフィール】

村松 健太郎 Kentaro Muramatsu

脳梗塞との格闘も10年目に入った映画文筆屋。横浜出身。02年ニューシネマワークショップ(NCW)にて映画ビジネスを学び、同年よりチネチッタ㈱に入社し翌春より06年まで番組編成部門のアシスタント。07年初頭から11年までにTOHOシネマズ㈱に勤務。12年日本アカデミー協会民間会員・第4回沖縄国際映画祭民間審査員。15年東京国際映画祭WOWOW賞審査員。現在NCW配給部にて同制作部作品の配給・宣伝、イベント運営に携わる一方でレビュー、コラム等を執筆。

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2016年6月13日月曜日

映画『オオカミ少女と黒王子』評text加賀谷 健

「オオカミ少女と黒王子〜空前のラブコメ装置として」
 
 少女マンガが原作で、内容が恋愛ものとくれば、映画を未見のうちにもうすでに主人公の男女が、最終的には結ばれるということが容易に想像される。そして、それが空前のマンガ実写化ラッシュの中で「再現」されたのなら、もちろん感情を高ぶらせて、大泣きする者もいれば、出来すぎた結末を「きれいごと」として回収してしまう、穿った見方をする者も必ずいることだろう。どうもこの類いの映画作品がある一部の層からしか支持されないのも自ずと合点がゆく。がしかし、それはそれで、「ラブコメ」というジャンルに何だか不当な評価を与えてしまっている気もしてくるのだ。そろそろ、ラブコメ映画を歴史的に俯瞰した時に、批評的文脈が意識されて論じられるべき決定的な作品はないものだろうか。そんなことを思っていると、この度公開された『オオカミ少女と黒王子』(2016)がとうとうその煮え切らぬ感を拭い去ってくれたのだった。

 監督は、廣木隆一。主演は、二階堂ふみと山崎賢人。これが面白くならないはずもない。廣木監督は、マンガ実写化に際して、原作のキャラクターが持つ記号性を見事に消化して、主人公たちを「現実存在」として画面上に生々しく刻み付けている。例えば、冒頭で彼氏をすぐにでも「でっち上げ」なければならない二階堂がカフェから飛び出して、周りがイケメン、イケメンと騒ぎ立てる、その人(山崎)をスマホにパシャりとおさめるまでの長回しや、二階堂と山崎がいよいよ「主従関係」を結び、雨の中を下校する時、二階堂に傘を持たせる山崎が突然、走り始める、何か青春の情動がぱっと花開くような遊び心に溢れたワン・ショットなど、忘れがたい瞬間はいたるところに散りばめられている。

 だが、何よりこの映画で興味深いのは、監督である廣木隆一の「抑制」の利いた演出である。それは、ついつい「悲劇的」な側面を強調しがちな恋愛譚をあまり「深刻」に描こうとはしないことであり、『L・DK』(2014)、『ヒロイン失格』(2015)、『orange-オレンジ-』(2015)と続くマンガ原作ものの中で、「過去に何かを背負った男」というキャラクター設定を常に付与されてきた山崎賢人の、その「過去性」も、ここでは深刻な方向へと傾斜することなく、ほどよいバランスが保たれている。今までの作品には、山崎演ずる主人公にヒロインが愛の告白でもしたものなら、男は、たちまち態度を翻して、女を拒絶するという流れがあったが、『オオカミ少女〜』では、二階堂が素直な気持ちを伝えても、山崎がそれに怒り、感情的に退けるということはない。それどころか、劇的展開での観客たちの過剰な感情移入をはねつけでもするかのように、キャメラは、突然、かなりの引きの位置に据えられたりする徹底ぶりである。この「抑制」は、観客に対する感動の「押し売り」と、その地続き上で結果的に拵えられてしまう「きれいごと」を巧みに回避するだけでなく、映画全体に、ある「品格」を纏わせることにも成功している。

 とは言うものの、この二人の「蜜月関係」の平衡は、一度とりあえずは崩されなければならない。しかし、それはあくまでも「抑制」を利かせてである。黒王子の相も変わらぬ冗談と戯れが、乙女の心を遂に傷つける。けれども乙女は、涙一つ流すことなく、目の前に置かれたコップをほとんど無意識的につかみ取り、黒王子めがけて水を浴びせかける。胸をしめつけられるどころか、一種爽快とも言える場面である。飼犬にはじめて手を噛まれた主人(黒王子)は、ここにきて、かけがえのない「愛犬」の存在を実感する。それは、山崎のことをライバル視している、同じバスケ部員の鈴木伸之との女性観の違いとしても示される。鈴木にとって周囲にいる女性は、皆、自分に好意を持つ者たちであるが、それは全て、他と代置(交換)可能な存在でしかない。だが、山崎にとって、「愛犬」は、他と代置不可能、交換不可能な「かけがえのない」、唯一無二の存在なのである。そうして、ラスト近く、フランソワ・トリュフォーの映画さながらに、プリミティブな躍動の軌跡が息づいた、黒王子の疾走シーンを目にして、わたしたちは、深いため息を漏らしつつ、これまで目撃してきた画面上の「抑制」の数々を、もはや「意味」へと回収せずにはいられなくなっている。

 では、最終的に、オオカミ少女と黒王子が結ばれたとして、人はそれをどのように受け止めるのだろうか。それはあくまでも「ラブコメ」に忠実であろうとした当然の結果であるし、物語への安易な「同化」に対して警鐘を鳴らす、「異化」のプロセスが踏まれていることももう一度強調しておきたい。この映画の裡に、何か「ブレヒト的」なものを見出すことも辞さないのは、「ラブコメ」というジャンルが、いよいよ映画史の文脈の中で、その歴史と拮抗して行けるだけの可能性を、今強く感じているからである。興奮冷めやらぬとは言え、わたしとしては、ひとまずほっと胸を撫で下ろすばかりだ。

やっと、やってくれた。度:★★★★★

(text:加賀谷健)




『オオカミ少女と黒王子』
 2016年/日本/116分

作品解説

八田鮎子の同名人気コミックを、廣木隆一監督が実写映画化。恋愛経験ゼロだが見栄を張り、友達に架空の彼氏との恋愛話を語る「オオカミ少女」の篠原エリカ。街で見かけたイケメンの盗撮写真を彼氏だと偽ってしまうが、なんと彼は女子から絶大な人気を集めている同級生・佐田恭也だった。エリカは恭也に事情を打ち明け、彼氏のフリをすることを承諾してもらうのだが、条件は恭也の「犬」となることで……。人気者で人当たりのいい恭也の本性は、腹黒で超がつくドSの「黒王子」だったのだ。

キャスト
篠原エリカ:二階堂ふみ
佐田恭也:山崎賢人
神谷望:鈴木伸之
三田亜由美:門脇麦
日比谷健:横浜流星

スタッフ
監督:廣木隆一
原作:八田鮎子『オオカミ少女と黒王子』
脚本:まなべゆきこ
製作:福田太一、中山良夫

主題歌:back nunber『僕の名前を』

配給 ワーナー・ブラザース映画

公式ホームページ

劇場情報
5月28日よりTOHOシネマズ系列他にて全国公開中
http://www.eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=485

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【執筆者プロフィール】

加賀谷 健  Ken Kagaya

1995年生まれ。北海道札幌市出身。
日本大学芸術学部映画学科監督コース在学中。
最近は、映画制作より映画批評の日々。
「渋谷でもゴダール」から「シネフィルでもラブコメ」にシフト。
Twitterアカウント:@1895cu

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2016年6月11日土曜日

【特別寄稿】映画『緑はよみがえる』評text成宮 秋祥

「忘却の雪解け」


 この映画に出会えてよかった。日本公開から2、3日して数少ない上映館の一つ、都内の岩波ホールで本作を初めて鑑賞してから、大分月日が経過した。この映画について何か書きたいと思いつつ、何も書けないでいた自分に苛立ちと焦りを感じながら時が流れてしまった。すでに映画のストーリーがどのようなものであったか朧げになり、詳細な部分を思い出す事が難しくなった。しかし、不思議なもので本作は映画の全体像が時間と共にぼやけてくるにも関わらず、初鑑賞後に身体の内側からこみ上げてきた感動は、変わらないどころか、より一層熱くなるばかりだ。

 エルマンノ・オルミの作品を初めて観たのは、19歳の頃だった。当時、学生だった私は、その頃から映画に熱を上げていて、年代や国、ジャンルを問わず数多くの映画を観るようになっていた。私の初めてのエルマンノ・オルミ体験は『木靴の樹』(1978)だった。イタリアの貧しい農家の生活を約3時間、たんたんと描いただけの映画に関わらず一分たりとも退屈する事のない不思議な映画だった。もっと不思議な事に、『木靴の樹』をDVDで何度も観返しているはずなのに、私は映画のストーリーをまだ確かに憶えていない。映画を観て味わった深い感動とは反対に、その映画の中の出来事をもの凄い速度で忘れていくのだった。しかし、今回観たオルミの新作『緑はよみがえる』と同じく、鑑賞後に私の身体の内側にこみ上げた感動は、まだ熱いままだ。

 オルミの作品は、『木靴の樹』もそうだったが、どこかこの世ならざる世界をスクリーンに映し出す。もちろん、映像はイタリアで撮られ、その土地の雰囲気や情緒が濃厚に漂っているのだが、時に無国籍風な空気(つまり、どこかわからない世界の空気)がスクリーンのそこかしこに漂い、この世ならざる世界を観る者の心に記憶させる。本作の冒頭に映し出される画面一杯の雪景色とそれを覆う藍色の空にも、そうした無国籍風な空気が漂っている。朝なのか夜なのかもわからない、現実世界かあるいはこの世ならざる世界なのかもわからない、その独自の世界に心を引き寄せられる。

 かつて、似たような映像体験を私はした事がある。ギリシャのテオ・アンゲロプロスの作品『狩人』(1977)がそれだ。アンゲロプロスの作品は、詩情豊かな映像作品が多いが、作風は極めて政治的で難解だ。しかし、アンゲロプロスもまた、無国籍風な空気を漂わせる映画作家だと、私は思う。『狩人』の冒頭も雪景色で始まる。そこで仲の良い狩人たちが謎の死体を発見した事により、彼らはそれぞれの過去の記憶を巡る不思議な体験をする事になる。『緑はよみがえる』は、そういった幻想的なストーリーを持ってはいないが、夢なのか現実なのか判然としない過去の記憶を巡る映画としては共通している。

『緑はよみがえる』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台にしている。ストーリーの背景にはオルミの父親の存在が関係している。オルミの父親は強い愛国心を持ち、19歳で前線(後に“アジアーゴの戦い”と言われた)に出たが、過酷な戦場での体験により、心に深い傷を負った。本作は、オルミの父親の記憶を辿る映画だったといえる。

 薄暗い空と雪に覆われたイタリア・アルプスのアジアーゴ高原を、列をなして歩く無数のイタリア兵。彼らは一様に雪を掘り、塹壕を作る。夜、イタリア兵がナポリ民謡を歌うと、敵であるオーストリア兵から賞賛の声がどこからか響き渡る。時が止まったような束の間の静寂。しかし観る者の心が癒える事はない。戦火の気配がスクリーンに立ち込める。塹壕の中で餓えや寒さに苦しむ傷病兵たち。これからとてつもなく悲しい出来事が起こる、そう予感させる物悲しい詩情と、凍てついた緊張の混在する濃密な画に、胸の内側が痛くなる。

 やがて、兵士たちに上層部の命令を伝えに、ベテランの少佐と実戦経験に乏しい若い中尉が塹壕にやってくる。命令の内容は、現場の実情を無視した現実的に無茶なものであり、現場を指揮する大尉は強く反対するが聞き入れられない。結局、命令を実行に移すが犠牲者を出し、大尉は軍位を返上してしまう。後を託されたのは、実戦経験に乏しい若い中尉だった。

 この映画を観ながら、第一次世界大戦を題材にした映画を何本か思い出そうとすると、私の場合、二本を思い出す。一本目はフランスのジャン・ルノワールの名作『大いなる幻影』(1937)だ。『緑はよみがえる』の画は、『大いなる幻影』の格調高い詩情豊かな画に迫っていた。しかし戦争場面の描き方は『緑はよみがえる』の方が残酷だった。次に思い出される二本目の映画がアメリカ・ハリウッドの戦争映画の名作『西部戦線異常なし』(1930)だ。『西部戦線異常なし』は詩情豊かとは言わないまでも、戦争の残酷性を見事に描いた古典だ。『緑はよみがえる』の作品としての雰囲気は、詩情性を高めた『西部戦線異常なし』だといえる。

 米国アカデミー賞の作品賞を受賞した『西部戦線異常なし』のストーリーは、愛国心に燃える主人公が自ら志願して戦場に赴くも、その惨たらしい実情に絶望していく過程をたんたんと描いたものだ。『緑はよみがえる』のストーリーは、愛国心に燃える若人が主役である事、その若人の想いが実際の戦争体験を通して打ち砕かれ、戦争が招いた残酷な現実に絶望し、心に深い傷を負うという点で『西部戦線異常なし』と共通している。劇中で戦闘指揮を託された若い中尉は、『西部戦線異常なし』の主人公の立場によく似ている。この若い中尉のモデルは、間違いなくエルマンノ・オルミの父親である。

 愛国心に燃える若い中尉は、実戦経験に乏しいながら冷静に部隊を指揮しようとするが、結果として敵の砲撃の前に為す術もなく惨敗してしまう。残っていたのは、絶望に飲まれ暗い涙に歌を失った兵士たちと、無残に散乱した戦死者の山。若い中尉は、憎しみと悲しみに襲われ、ただ立ち尽くすばかり。『西部戦線異常なし』の主人公は、憎い敵国の兵士と塹壕にて一対一で対面するも、その敵兵に愛すべき家族がいる事を知り、愕然とする。また、『大いなる幻影』においてもドイツ人将校とフランス人将校が共に貴族であった事から懇意になるも、最終的には脱走したフランス人将校をドイツ人将校が撃ち殺してしまう。互いの国の兵士たちは、どこかで通じ合う事ができたはずなのに、戦争という名の悪魔は、全てを惨たらしくあっさりと奪ってしまう。

 『緑はよみがえる』で、最も戦争の残酷性を意識したのは、砲撃の音だ。そもそもの始まりの画は、無国籍風のどことも知れない世界を表したかのような幽玄の詩情に満ちている。ナポリ民謡を歌うイタリア兵士やそれを賞賛するオーストリア兵士、一心不乱に塹壕を掘る兵士たちの動き、飢えと寒さに苦しむ兵士たちの様子、上官たちの心の葛藤にしても、そこかしこに独特の詩情があった。つまり、オルミの綴った“一つの詩世界”がそこにあった訳だが、塹壕を破壊し、若い中尉の部隊の兵士を死に至らしめた砲撃の轟音は、その一つの詩世界に相容れない不協和音を生じさせていた。まるで別世界から魔物が侵入してきたかのように、その一つの詩世界は崩壊してしまった。

 オルミの描いた詩世界への考察から再びルノワールの『大いなる幻影』を思い出したのだが、『大いなる幻影』は、始まりから終わりまで全てに温かいユーモアと儚い切なさが混在した詩情があった。このルノワールが描いた画の中(一つの詩世界)に、戦争を感じ、悲劇を感じ、人間の愚かさを感じた。だからこそ、映画に芸術を感じた。しかし『緑はよみがえる』は、砲撃という戦争が生み出した暴力を加える事で、作り上げていた一つの詩世界を途中で壊してしまったのだ。戦争は、芸術を無残に破壊する行為なのだ、とオルミは伝えようとしているのかもしれない。砲撃という轟音によって――その単純な暴力的な響きによって、一つの詩世界(芸術)は崩壊してしまう。自身の繊細な一つの詩世界を無残に破壊してみせる事で、戦争がもたらす残酷性を彼は表現していたように思えた。

 しかし、この映画を見つめるオルミの眼差しは不思議と温かいように感じる。それを強く意識したのは、その一つの詩世界の崩壊後だ。戦闘に惨敗し、多くの死傷者を出してしまった若い中尉は、「この世で一番難しい行為は人を赦す事です。しかし人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょう」と、そんな内容の手紙を母親に書いた。彼は、戦争で敵を憎む事を考えながら、同時に敵を赦す事も考え、戦争で人を赦す事の難しさに苦悩しているのが伝わった。若い中尉のモデルであるオルミの父親が、このような苦悩を本当にしたのかはわからない。それでも戦争が憎しみを生み、その憎しみが戦争を育て、そしてまた新たな憎しみが生まれ、戦争の悲劇が肥大化してしまうという、戦争の本質が十分に伝わってくる。そしてそれを止める手段が人を赦す事だという事も、若い中尉の、心の痛みに震えたその眼差しから確かに伝わってくる。

 戦争がもたらした悲劇を、私たちは忘れてはいけない。また、『緑はよみがえる』はそれだけではなく、“人を赦す”事も、忘れてはいけないと温かく語りかけてくる。

 この映画は、エルマンノ・オルミ監督が父親の体験した第一次世界大戦の記憶を巡る映画であるが、同じように戦争の悲しい記憶を巡る映画に、今年の米国アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した『サウルの息子』(2015)がある。『サウルの息子』は、主人公への徹底した主観視点による撮影で、観る者に戦争の疑似体験をさせる作りになっている。そのため、戦争への恐怖や憎悪を、強烈に視覚に記憶させる。しかし『サウルの息子』は、その徹底した映像表現への拘りに、戦争の実態を全て描こうとする監督の執念を感じ、激しく動揺させられ、どこか居心地の悪さがあった。そこには戦争の本質だけがあったように思えてならなかった。

 エルマンノ・オルミの『緑はよみがえる』は、『サウルの息子』にはなかった戦争がもたらす憎悪を超えた先にある人間の高潔な心のあり方を描いていたように、私には思えた。世界に戦争の火花が絶えない現代において、人間はどう生きるべきかを、イタリア映画の巨匠エルマンノ・オルミは、自身の父親の戦争の記憶を巡って、その問いを見事に導き出したといえる。

 私たちは戦争を忘れてはいけない、そして同時に、人を赦す事も忘れてはいけない。それが人間にできる最大にして、あまりに人間らしい行為なのだから、と。

(text:成宮 秋祥)





『緑はよみがえる』
2014年/76分/イタリア

作品解説
「木靴の樹」「ポー川のひかり」の巨匠エルマンノ・オルミ監督が、第1次世界大戦開戦から100年にあたる2014年に平和を願って撮りあげた戦争ドラマ。1917年、冬。北イタリアの激戦地アジアーゴ高原では、オーストリア軍と対峙する前線のイタリア兵たちが、大雪で覆われた塹壕の中にこもっていた。飢えや病気で次々と倒れていく中、司令部から不条理な指令が下され、兵士たちは追いつめられていく。さらに、オーストリア軍の激しい攻撃が彼らを襲う。

キャスト
少佐:クラウディオ・サンタマリア
若い中尉:アレッサンドロ・スペルドゥーティ
大尉:フランチェスコ・フォルミケッティ

スタッフ
監督:エルマンノ・オルミ
製作:ルイジ・ムジーニ、エリザベッタ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:ファビオ・オルミ

配給:ムヴィオラ

劇場情報
岩波ホールほか全国公開

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/midori/


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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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