2016年6月22日水曜日

【特別企画】映画『ひと夏のファンタジア』主演・岩瀬亮インタビューtext常川 拓也

 映画という共通言語があれば、あるいは、映画という創造行為の名の下にプロフェッショナルな人々が集まれば、言語の壁を超えて信頼関係を築くことができる。映画によって連帯が生まれ、信頼によって映画が生まれる。まるでひと夏のキャンプを楽しむかのように、韓国人と日本人が混成して奈良県五條市で撮影した映画『ひと夏のファンタジア』は、もしかするとそのような映画の可能性を思い出させてくれるかもしれない。

 映画『ひと夏のファンタジア』は2014年に韓国で公開されると、公開1ヶ月でインディーズ映画としては異例の3万人以上を動員した。きっとその多くは、「一部」のモノクロから、カラーへと一転する「二部」の淡いロマンスの余韻の美しさに虜になったに違いない。「二部」で岩瀬亮が演じる友助は、たまたま知り合った韓国人女性へジョンを和ませるために自虐っぽいことを言ったり、冗談を言う。本音を冗談で隠しながら、彼女の懐に一歩踏み込んでみるような人との距離感の取り方が、いかにも自然で微笑ましい。へジョンと友助の間の仄かなロマンスをカメラは慎み深く見守り、ささやかな郷愁とともに魔法のように甘美な雰囲気が包み込んでいる。

 岩瀬亮という役者の口から出る言葉は、まるでアドリブかのように、私たちの耳に馴染んで溶け込んでいく。彼が画面に現れると、自然で柔和な演技が、韓国からひとりやって来た女性の心から緊張を解くように、私たち観客に親密さとともに、どこか安心感を覚えさせる。彼は、いかにも演じている者として振舞うのではなく、実際に“そこにいる”と思わせる存在感なのである。

 その親しみやすい演技を生み出す秘密について、そしてものづくりにおける信頼関係について、岩瀬亮さんにお話を伺った。

(取材・構成・文:常川拓也)

*『ひと夏のファンタジア』公開に際して、インタビューの一部を先行公開いたします。なお、1万5千字に渡るインタビューの全文は7月上旬販売の映画冊子「ことばの映画館 第4館」に掲載予定です。



──昨年のPFF(ぴあフィルムフェスティバル)ではじめて観た時からすごく好きな作品だったので、今回、日本公開されることを嬉しく思っています。韓国人監督が撮ったとはにわかには信じがたいほど自然な日本の雰囲気に驚かされると同時に、夢見心地のようなまったりとした時間感覚にも魅了されました。撮影前にどの程度、全体像がわかっていたのでしょうか。

岩瀬亮 まず「一部」と「二部」があって、「一部」の方はセリフもちゃんと書かれていて、ほぼほぼ脚本ができていました。「二部」の方はプロットの前段階──こういうことが起こるぐらいのざっくりとした順番の並びだけしか決まってなくて、他のはっきりとしたことは与えられていませんでした。監督の頭の中にはイメージがあったとは思いますが、それしか知らせてはいませんでした。

──事前に聞いていたイメージと、実際にできあがった作品をご覧になって、印象の違いはありましたか。

岩瀬 撮影中は、どうなるのかはっきりとはイメージできてなかった部分があって、できあがったのを観て、「あ、こういう風につながるんだ」とかは結構ありました。というのは、「二部」の方は長回しで撮っていて、その中から会話を切り取っているんですよ。例えば、食堂でふたりでカレーを食べながら喋ってるシーンなんかは、30分以上回してる中のその何分かを切り取って使われています。なので、どこが使われるのかはわからず、「これ、このまま編集したら5~6時間の大作になるぞ」と思いながら撮影していたので、「あ、ここを使うんだ」というのはありました。「二部」はセリフ自体は決められてなく、状況の設定や言ってほしいセリフ、こういう話の流れにしてほしい、ということだけ与えられていました。だから(カメラを回す時間が)長くなっちゃうんですよね(笑)

──2009年バンクーバー映画祭で『イエローキッド』(2010、真利子哲也)が上映された際に、チャン・ゴンジェ監督と出会われたという理解でよろしかったでしょうか。

岩瀬 バンクーバーに行ったのは真利子監督だけで、そこでふたりは知り合って。その後に韓国でチョンジュ映画祭というのがあって、そこに真利子監督とぼくも行ったんですよ。そこでチャン監督を真利子監督から紹介されて、はじめて会いました。

──その後も、韓国に行った際はゴンジェ監督の家に泊まったりしていたと伺いました。

岩瀬 そうですね。逆にチャンさんが日本に来る時はぼくの家に泊まったりして、交流は続いていました。

──コミュニケーションはどのように取られているのですか。監督は、「普段から日本語でも英語でもないような言葉で」会話しているとおっしゃっていました。

岩瀬 そうですね、一応、ぼくの認識では英語なんですけど(笑)お互いの拙い英語でという感じですね。その中に日本語も韓国語も混じっています。

──もともと友人だった関係というのは、今回プラスに働いていると思われますか。

岩瀬 それは大きくあったと思います。たとえば映画の話もするし、どういうものを撮りたいと思ってるのかとか全部はわからないけれど、ざっくりと共通認識としてお互いにあったと思うので、それはすごくプラスに働きました。あと、たぶんいきなり外国人の監督のもとに呼ばれて行ったら、やっぱり色々な乗り越えなくちゃいけない壁があったと思うのですが、それがもともとない状態から撮影ができたので、それはかなりプラスでした。

──ゴンジェ監督の作風もある程度理解されていた上での出演だったかと思います。

岩瀬 そうですね。一個前の作品もたぶんセリフがちゃんと決まってない中で撮ってる瞬間があったように思いますし、それだけがすべてではないですが、要は、しっかり出てきた人物たちがお互いに人間としてコミュニケーションを取り合うという大前提をちゃんとしましょうね、というところが前の作品とも共通してると思いますね。

──監督とは、具体的にはどのような部分で考え方が近いですか。

岩瀬 セリフを渡さない意味、なぜセリフを書かなかったのか、そういったことを考えてみた時に、演出で大事にしているものが垣間見れると思います。もちろんセリフがあることはひとつの表現として大事なことですが、セリフのない中でふたりのコミュニケーションをいかに生み出すかということを大事にしているんだろうなという気がしました。セリフだけだと、セリフに引っ張られてそこが手薄になってしまうこともあるかもしれない。そうではない何かを撮りたいというのは、ぼく自身も同意できるので、その辺りは一致するところなのかなと思います。

──『ディストラクション・ベイビーズ』(2016、真利子哲也)にも出演されてますが、真利子監督とゴンジェ監督とではどのような演出の違いがありますか。

岩瀬 全然違いますね。基本的に全部違うと思うんですけど、逆に共通してる部分ってなんだろうと考えると、生の人間をちゃんと表現したいという感覚が、ぼくから見て共通してあるように思います。

──ゴンジェ監督の撮影の進め方や演出はどのようなものでしたか。

岩瀬 とにかくコミュニケーションを取ってくれる監督でした。1シーンを撮る前には必ずどういう場面かを詳しく話してくれて、1回テストをやるんですけど、その後に「ここがこうだったからこうして」ではなくて、まず演じた本人にどうだったかを訊ねるところから入り、「こうだった」と答えると、「ぼくもそう思ったんだ。じゃあ、少しこうしてみて」となるような進め方でした。とにかくコミュニケーションを取って、演じる側のことをすごく考えてくださる監督だなと思います。 



☆言葉を自然なものとして響かせるために☆

──本作は実際の五條の町の方々がインタビューに答え、ドキュメンタリーのようにしてはじまります。「一部」では、岩瀬さんと康(すおん)さんは彼らと同じようにインタビューに答え、同じように五條の住民として画面に現れます。その流れの中で違和感なく自然に登場するということは、とても難しいことではないかと想像するのですが、溶け込むための工夫みたいなことは何かされましたか。

岩瀬 「一部」に関しては、セリフがちゃんとあったので逆にそれを大事にしつつ、セリフを言うだけだとお芝居お芝居してしまうから、地元の人たちと比べた時にバレるだろうなと思いました。なので、自分の言葉にするように意識し、自分の中でちゃんと消化して喋るように気をつけました。

──友助は東京から来たという設定ですね。

岩瀬 あれは撮影前に監督とどうしようかいろいろ話しました。現地の言葉を使う人でもいいんじゃないかという話もありましたが、即席で付け焼刃的に方言を練習したところで絶対にボロが出てしまうと監督に話し、その結果、関東の言語を話す人になりました。打ち合わせで一度、奈良弁やってみましたが、全然うまくできませんでした。

──康さんは現地の言葉で登場しますね。

岩瀬 康さんはもともと大阪の方なので基礎ができてる方でしたが、それで満足されずに、撮影前や時間がある時は、とにかく地元の人を探して、会話をして、地元の言葉を習得しようとずっとやられていて、すごいなと思いました。

──役作りの上で、監督から何か意識するよう言われたことなどはありますか。

岩瀬 キャラクターについてこうしてくださいというのは特にありませんでしたが、例えば「二部」の農家の役を演じるにあたっては、チャンさんがもともとリサーチで五條に来た時に会った柿農家の人を呼んでくれて、実際にその方とお話したりはしました。

──「一部」は監督自身のお話のようですね。

岩瀬 そうですね、監督が調査に来た時の話がかなりもとになってるのではないかと思いますね。

──二部構成というのは、最初から意図として聞かされていたのでしょうか。

岩瀬 はい、それは聞いていました。

──「一部」では閑散とした街並みとともに住民たちのインタビューから五條市に過疎化が進んでいること、若者が都会に出てしまっていることが示されますが、一方の「二部」では、日本人と韓国人の若い男女の淡いロマンスが描かれます。と同時に、ドキュメンタリー調の白黒映像である前半から、後半では夏の日差しの暑さがじりじり伝わってくるような暖色系のカラー映像になります。映画の中でふたつの物語が互いに関連付けあいながら──同じ場所場所を巡っていきながらも異なる描写と表現を紡ぐことによって、差異が生まれていることもまた、独特な時間感覚につながっているように思いました。こういった構成自体に際して、役の演じ分けや世界観の違いは何か意識されましたか。

岩瀬 世界観の違いみたいなものは特に意識してはいなかったです。役としては、「一部」の友助と「二部」の友助は、単純に別のものとして演じていました。何せ脚本にセリフはなく、他の準備がなかなかできないので、「二部」の友助は、日焼けをして髪を切るなど見た目からできる限りの準備をしました。

──役作りは、外見から作っていくことが多いのですか。

岩瀬 いや、そういったことはなくて。むしろ外見は一番最後に考えることの方が多いですね。『イエローキッド』も外見から作りましたが──そういう作り方ももちろんありますが──、毎回外見から入っていくというわけではないです。

──今回の役作りはどのようなものでしたか。

岩瀬 今回は「一部」と「二部」があるちょっと特殊なケースだったので、単純にそれぞれに差をつけたいという思いがまずありました。違いを生むという意味で、日焼けをするというのと、話し方を少しだけ早くするよう意識しました。

──話し方を早くするというのは、「一部」と「二部」の友助の職業の違いからですか。

岩瀬 それもありますが、あと会話の性質の違いもあると思います。「一部」は、職員が韓国から来た映画監督とその通訳に町の説明をする、自分の生い立ちを語る、というもので、「二部」のように男性が女性に声をかけて話をしてロマンスが生まれる過程の会話とは、性質が違うものでした。

──岩瀬さんは、『イエローキッド』ではボサボサの髪とヒゲにメガネの陰気な漫画家を演じられていますが、本作では全く対照的な人物を演じています。ですが、どちらもセリフの中に、「まぁ」「えっ」「あっ」「あの」「なんか」などの間_が入っていることに気付かされます。そういったものを上手くナチュラルに取り込むことを意識されているのでしょうか。

岩瀬 結局、ない方がいいとは思ってるんですよ。なくていいんだったらなくていいとは思うんですけど、どうしても会話をつなげていく時に、それがあった方がつながりやすい瞬間がある時は入れるようにはしています。ですが、監督によってはそういうものを嫌いな方もいらっしゃるので、その辺りは臨機応変にやっています。でもできる限りは、基本的には入れないようにはしてるんです、これでも(笑)だって、入れないで成立するならその方がいいなと思うので。

──でもあれによって、日常会話のリズム感が生まれているように思えます。

岩瀬 ぼくもいいなとは思うんですけどね(笑)でも、それがなくても日常会話感とかリズム感というのはもしかしたら出せるかもしれなくて、それにチャレンジしないと、ただ「あ」とか「え」とかがいっぱい入っちゃって、ごちょっとした芝居になってしまう恐れもあるので、できる限り減らして、でも必要だったら入れるようなスタンスですね。

──「一部」ではそういうものが書き込まれていたわけではなかったのでしょうか。

岩瀬 なかったですね。ぼくが全部勝手に入れてるやつです。すみません(笑)

──いやいや、そうすることによって、セリフが、まるでその場のやりとりから生まれたアドリブかのように自然なものとして響いてくるように感じられました。本作を観た知人は、「普段聞き慣れている母国語のはずなのに、まるで外国語を聞いているかのように会話のやりとりが迫ってきた。その不思議な会話のリズムが五條市の景色と相まってなんとも気持ちがよかった」と言っていました。日本語がわからない監督が撮ったからこその良さは感じられたりしましたか。

岩瀬 どうなんだろう……いま聞いていてひとつ思ったのは、キム・セビョクさんは日本語を喋れるんですけど、いわゆるネイティヴではないので、ぼくがバーッと話してしまうと、わからない箇所が出てきてしまうと思うんですね。だから向こうがちゃんとわかるように話そうという風に友助もするから、それが独特の間になったのかなという気はちょっとします。

──たしかに身振りも含めて、友助が親切に、丁寧に伝えようとしてる感じが観客にも伝わってくるのが、見ていて好ましい気持ちになりました。「二部」でふたりが笑い合ったりしている瞬間というのは、本当にその場で笑っているということですよね。

岩瀬 そうですね、基本的にそういうことだと思います。

──だからこそ、あんなに真実味を感じたのですね。

岩瀬 「ここでこういう風に笑って」みたいなのはなかったですね。

──あまりに微笑ましくて、観ていてこちらも笑ってしまいました。

岩瀬 あら、いいところ尽くしじゃないですか(笑)


☆ものづくりにおける信頼関係☆

──ほかに外国人監督が日本を舞台に日本人で撮影した作品というと、アッバス・キアロスタミ『ライク・サムワン・イン・ラブ』(2012)があります。

岩瀬 キアロスタミ監督は好きな監督です。

──あの作品でも日本語の会話の比重が大きかったですが、『ひと夏のファンタジア』も『ライク・サムワン・イン・ラブ』もどちらも話し言葉の中に不自然な感じが全然ないというのが、すごく興味深いことのように思えます。

岩瀬 それでひとつ思うのは、結局、監督は日本語がわからないわけじゃないですか。たぶん判断しようがないんですよね、それが言葉として硬いか柔らかいかとか。わからないから、言葉ひとつひとつというよりも、その時の全体の雰囲気や空気、ふたりの間で言語とは違うところで起こっているものを何とか見ようとしているのではないかと思います。それがOKな時って、たぶんちゃんと会話ができてる時だと思うので、そういう部分が切り取られていくのかなという気はしますね。

──監督は、「言葉がわからないから、感情を見ていた」とおっしゃっていました。

岩瀬 そういうことだと思いますね。

──言葉がわからなくても、そういうところが見抜けるってすごいですよね。

岩瀬 逆にわからないからこそ、そこに集中できるっていうのもたぶんあるんじゃないかなぁ。言葉がわかっちゃうと、言葉を聞いてしまうから、セリフが上手くいってるとそれでOKにしてしまう場合がありますが、言葉がわからないと違うところで何とかそれを掬い上げようとするから、逆に集中して見れるような気がします。

──日本語をわからない人に伝えようとすると、身振りも大きくなったり、表情も加えたりするので、そういうので監督自身もわかりやすかったりしたんですかね。

岩瀬 どうなんですかね、でもたしかにそうですよね(笑)

──昨年、PFFの一次・二次審査で様々な日本の自主映画を観たのですが、会話を自然な風にしようとして逆にセリフっぽく聞こえてしまう作品が多くありました。そういった中で、韓国人の監督が撮ったにもかかわらず、自然な日本語の会話が聞こえる本作はすごいなと思ったんです。セリフセリフしない感じっていうのは、どういうところに工夫があると思われますか。

岩瀬 自分の体験の中でもととなっているのは、ぼくは舞台もよくやっているのですが、舞台ではひとつのやりとりについて、何十回も何百回も同じように稽古をします。そうすると、このやりとりがどうやったら新鮮にできるのかとかをすごい考えるようになるんですね。そういうところで教わったというか、培ってこれたものがあったとしたら、役に立っているのかなと思います。難しいですよね、それって。フランクに喋ってますよという風に「~っぽく」話すと、「~っぽく」話すこと自体はすごい簡単なんだけど、そこにちゃんと血が通ってるところまで行くのがすごい難しいことだなといまでも思うので、そういう感想をいただけるとすごく嬉しいです。

──アドリブでその場でやってもらっているのをただ撮っていても絶対に観ていて違和感はあるじゃないですか。

岩瀬 そうですよね。

──それを成立させているというのは、本当に驚くべきことです。

岩瀬 セビョクさんの力もすごく大きかったと思います。超大変だったと思います、よくわからない日本語をずっと喋って芝居するんだから。

──「二部」でのアドリブに対応するぐらいの日本語力がセビョクさんにはあったのですか。

岩瀬 100%理解していたわけではなかったです。テストをやった時に「ちょっとさっき何て言ってるのかわからなかった」みたいなことはあって。韓国語じゃないから、セビョクにとっては外国語に自分のモチベーションを乗せなくちゃいけないわけで、それがたぶん難しいと思います。ぼくら日本人だったら「難しい」という言葉にその気持ちを乗せられるけど、「It's difficult」と言う場合には感情を込めて言うのが難しいじゃないですか。

──ちょっと恥ずかしいですし。

岩瀬 そうそうそう。それをちゃんと自分のできるところでやろうとしていたので、すごいなと。

──カメラの前で母国語ではない言葉で演じる恐怖、あるいは日本人にとっては日本語がわからない監督の前で演じる恐怖、そういうものがない現場だったということでしょうか。

岩瀬 あー、そういうのはなかったですね、たしかに。監督は俳優がやることをなるべく信じてくれていたし、そうすると、同じように監督が言うことをぼくらも信じられるようになるし、信頼関係はできていたんじゃないかなと思います。

──撮影前から信頼関係を築いていくような時間はあったのでしょうか。

岩瀬 そんなに多くはなかったです。そもそもそんなに時間をかけて撮れるような状況でもなかったので。でも、その中でできる限り多くそういったコミュニケーションは取るようにしてくれていたと思います。

──監督も遊びに来ているような感覚もあったとおっしゃっていました。

岩瀬 あ、そんなこと言ってたんですか。

──「密度の濃いものを撮らなければならない緊張感はある一方で、まるでみんなで知らない土地に遊びに行って、一緒に寝泊まりしながら作るような感覚もあった」と。

岩瀬 監督は、そのさじ加減がすごく上手で。本当にただ遊んでるだけだったら、できあがった作品のようにはならなかった。たぶん一個ちゃんとした緊張感を保った上で遊べるということが、監督のバランス感覚の素晴らしさだと思います。撮影の時にみんなで楽しく寝泊まりしたっていうのをそのまま引きずってしまうとたぶんダメで、「いい作品を作ろう」という緊張感は常にあったんじゃないかなと思います。

──そのオン/オフの切り替え時に、監督の態度などは変わらずに緊張感が出るんですか。

岩瀬 小さなことかもしれないけれど、ぼくと監督はもともと知り合いで友だちで、そのアドバンテージはいっぱい使うけれども、だからと言って、「友だちだから言わなくてもわかるでしょ」みたいな雑なことはしませんでした。ちゃんとその瞬間は俳優と監督として向き合っていました。友だちってだけでやっていたら成立しなかったと思います。そういう緊張感がありました。

*インタビューの全文は7月上旬販売の映画冊子「ことばの映画館 第4館」に掲載予定です。
 

『ひと夏のファンタジア』
2014/日本・韓国/96分/DCP

作品解説
<一部>
韓国から奈良県五條市に次回作のシナリオ・ハンティングのためやってきた映画監督テフン(イム・ヒョングク)は、助手兼通訳のミジョン(キム・セビョク)とともに、観光課の職員・武田(岩瀬亮)の案内で町のあちこちを訪ね歩く。古い喫茶店や廃校、ひとり暮らしの老人宅など、五條に暮らす人々をインタビューして回り、彼は花火大会の夜に不思議な夢を見る。
<二部>
韓国から奈良県五條市ひとりで旅行に来た若い女性へジョン(キム・セビョク)は、観光案内所で柿農家の青年・友助(岩瀬亮)と出会う。古い町を歩きながらともに時間を過ごす中で、友助は次第に彼女に惹かれていく。

出演
キム・セビョク
岩瀬亮
イム・ヒョングク
康すおん

スタッフ
脚本・監督:チャン・ゴンジェ
プロデューサー:河瀨直美、チャン・ゴンジェ

@Nara International Film Festival+MOCUSHURA

公式サイト

上映情報
6月25日(土)より 東京 ユーロスペースにてレイトショー
7月2日(土)より 大阪 シネ・ヌーヴォ、名古屋 シネマスコーレにてロードショー
7月9日(土)より 横浜シネマリン、8月以降 シネマテークたかさき ほか、全国順次公開予定

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岩瀬亮(いわせ・りょう)

1980年生まれ。茨城県出身。早稲田大学卒。2005年より「ポツドール」「ハイバイ」「サンプル」などの劇団公演に多数出演。主な出演作に映画『イエローキッド』(2010)がある。本作出演後、韓国映画『最悪の女』にもキャスティングされ、海外進出も果たす。


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【執筆者プロフィール】

常川拓也 Takuya Tsunekawa

映画批評。「Nobody」「neoneo」「リアルサウンド映画部」などで映画評を執筆。これまでに塚本晋也、ジョン・ワッツ、ペマ・ツェテン(「ことばの映画館」vol.4掲載予定)らへの個別インタビューを行う。「PFFアワード2015」セレクション・メンバー。Twitter:@tsunetaku


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