2023年12月28日木曜日

東京国際映画祭2023〜『ポトフ 美食家と料理人』上映後Q&Aレポートtext藤野 みさき

左から、トラン・ヌー・イェン・ケーさん、トラン・アン・ユン監督、ブノワ・マジメルさん©️ 2023 TIFF

誰かのために料理を作ること。それは、ひとつの愛の告白ですーーブノワ・マジメル


『エタニティ 永遠の花たちへ』が公開されて、早くも六年の月日がたちます。トラン・アン・ユン監督の最新作『ポトフ 美食家と料理人』は、私たちの暮らしのなかで最も大切な「食」についてを描いた作品です。本作は第76回カンヌ国際映画祭において監督賞を受賞。東京国際映画祭のガラ・セレクション部門にてジャパンプレミアを迎えました。上映後の質疑応答では、監督のトラン・アン・ユン、衣装・アートディレクターの、トラン・ヌー・イェン・ケー、俳優のブノワ・マジメルが登壇。食についてはもちろん、愛と美について、それぞれが想いを語りました。ここに質疑応答の模様を記します。

(上映日:2023年10月24日(火)。東京国際映画祭2023 公式YouTubeアーカイヴ動画より。構成・文:藤野 みさき)


 久しぶりの日本について


ーー何度か日本にお越しかと思いますが、まずはひとことずつ、ご挨拶をいただけたらと思います。トラン・アン・ユン監督、カンヌ国際映画祭での監督賞受賞おめでとうございます。


トラン・アン・ユン監督(以下TAH):本日はみなさまお越しくださってありがとうございます。この素晴らしいスクリーンで観られたことはとても幸運なことだと思います。


ーーありがとうございます。続いて、ブノワ・マジメルさんです。


ブノワ・マジメル(以下BM):こうしてここに来られたことをとても嬉しく思います。この作品を皆さまに紹介できることを、信じられないくらい嬉しく感じております。この作品は、私たちが喜んで製作した作品ですので、皆さまが気にいってくださったらいいなと思っております。


ーーありがとうございます。そして、衣装とアートディレクターを担当していらっしゃる、トラン・ヌー・イェン・ケーさんです。


トラン・ヌー・イェン・ケー(以下TNYK):皆さま、本日は来てくださって本当にありがとうございます。とても嬉しい気持ちでいっぱいです。前回、東京にきたのは6年前。『エタニティ 永遠の花たちへ』のときでした。『エタニティ 永遠の花たちへ』では、衣装とアートディレクターを担当しました。この度も同じく衣装とアートディレクターを担当したのですが、時代は同じでも、今回はまったく違うやりかたで担当しました。皆さまに気にいっていただけるととても嬉しいです。


ーー大変素晴らしい映画を、ありがとうございます。皆さまのご質問の前に、私より代表質問を幾つかさせていただきます。昨日レッドカーペットに参加されましたが、久しぶりの日本はいかがでしたか?


TAH:とても素晴らしかったです。観客の方々との距離もすごく近く、感じが良かったです。


BM:これほど近い距離で観客の皆さまと交流ができて、皆さまが歓迎してくださったこと。そのような方々とふれあえることを、本当に素晴らしいなと感じました。そして長く敷かれたレッドカーペットでしたので、とても楽しかったです。


TNYK:昨日レッドカーペットを歩いたあと「なんて素晴らしいレッドカーペットなのだろう」と、私たちで話していたばかりでした。そのときのことを繰り返すことにはなるのですが、私のキャリアのなかで最も素晴らしいレッドカーペットだと思いました。非常にラグジュアリーな感じがしましたね。


 食べものを主題にしたきっかけ


ーー私たちはこの作品の素晴らしい美術や世界観を堪能しました。「食べもの」を主題に映画を作ろうと思った理由やきっかけはなんでしたか?


TAH:原作に出逢ったのがはじまりでした。原作のなかで、登場人物たちが食べものや料理について語っている場面が素晴らしかったのです。それを映画にしたいと思ったことがきっかけです。原作からはすこし離れるのですが、私が歳を重ねたことによって、長く続いている夫婦関係やカップルの関係を、しっとりと描きたいと思ったのです。実はうまくいっている夫婦関係を映画で描くことは難しいのです。ですので、ちょっとした「賭け」でした。


ーー奥さまは最初にこのお話を聞かれたときはどう思いましたか?


TNYK:そのお話を聞いたときは挑戦だなと思いました。前作『エタニティ 永遠の花たちへ』と同様に、この作品も舞台が19世紀末のフランスだからです。私たちはベトナムの出身なので、驚いたこともありました。ですが、驚きと同時に、かれの描きたい「感情」というのは、文化を超越するのではないかと私は理解したのです。もちろん舞台はフランスですから、文化もフランスです。ですが「感情」というものは、世界共通のものだと思います。ですので日本の皆さまにも、この作品で描かれている感情を我がことのように感じてくださっていたら嬉しいです。


Ⅲ 役作りについて


ーー演じることは大変だったと思います。美食家で、料理をする場面では手元も映っていました。最初にお話を聞かれたとき、ブノワさんはどのように感じられましたか?


BM:私は実生活でも料理を作るタイプです。料理を誰かのために作るということは、それはひとつの愛の告白だと思うのです。それは好きな女性のために、あるいは友人のために。料理を作るということは、愛情の告白です。とはいえ(私は)皆さまがご覧になられたドダンのようなアーティストではありません。ですが、できるだけ、料理をする動作に「こころ」を込めようと思いました。そうしますと、直感的かつ自然に演じることができたのです。そして素晴らしい製作スタッフに囲まれていましたので、思っていたよりもシンプルに演じることができました。皆さまもご覧になられたように、冒頭の料理を作る長いシーンは、私も「素晴らしい」と思っております。まるでトラン・アン・ユン監督が振り付けをしたかのように、素晴らしいリズム感が生みだされていました。本当に、皆で作りあげた共同作業でした。


ーーこのシーンは本当に素晴らしかったです。ラストも含め、流石トラン・アン・ユン監督のカメラワークだなと感じました。


ここで代表質問は終了し、マイクは観客へと渡りました。


Ⅳ 音楽を使用しないこと


Q.1 すてきな映画をありがとうございます。料理は、芸術でもあり、エロスでもあり、希望でもあるのだなと感じました。映画のなかで、あえて音楽を使用せず、キッチンの音、風、鳥のさえずりなどの効果音だけだったのが印象的でした。その意図をお聞かせいただけますか?


TAH:音楽を使わないということは、確かにこのような映画ではレアだと思います。料理をするときというのは連続して動作がありますよね。その料理をするときの様々な音というものが非常に豊かなのです。ですから「料理をするときは音楽を排除するのだな」と自然と思えました。編集のときに音だけを聞いてみますと、「ここにはすでにこの作品のものがたりを想像するような音楽性がある」と判断したので、音楽を排除し、音の音楽性を強調しました。そして、愛の話を語っているときに音楽がないというのも、非常にレアなことですよね。


 ピエール・ガニェールの料理監修より学んだこと


Q.2 すてきな映画をありがとうございました。大変感動しました。ブノワ・マジメルさんに質問があります。料理をする仕草が非常にお上手でしたが、事前に何か練習をなされましたか? もうひとつ質問なのですが、昨夜ご自身のInstagramに銀座を歩いている写真をアップされていましたが、(お食事などに)どこか行かれましたか?


BM:そうですね。この作品には、ピエール・ガニェールという素晴らしい料理監修がついておりました。ですが、かれに逐一教えを請うたのではなく、かれの言っていること、話していることを聞き、どのようにするのかを観察しました。そして監督と一緒に、かれが話している素材の使いかたや、さわりかたを見ていたのです。そこに「気取り」はなく、「誠実」に素材と向き合っている姿勢を感じました。そして、素材をあつかうときの「リズム」というものを、かれは作り出されていました。そのリズムを学ぼうと、私は思ったのです。実は撮影のとき、かれの右腕の方がガイドをしてくださいました。「チキンのしたにトリュフを忍ばせる」なんてことはプロではないとできない業ですので、その仕草を見ながら、私も行ってみました。

皆さまに告白しますと、私は日本の洗練された料理に恋をしている、と言ってもいいと思うのです。実は何年も前に映画の撮影のために三ヶ月間日本に滞在したことがあります。そのとき東京、および日本には、ミシュランガイドの星つきレストランがたくさんあることを知り、堪能いたしました。Instagramでご覧になった写真は、「あそこも、ここも」という、あらゆるレストランに夢見心地な私の心情を象徴した写真ではなかったでしょうか。

もうひとつ、告白をしてもいいですか? この作品のお話をいただいた当時、私はほっそりとしておりました。ですので、トラン・アン・ユン監督に聞いたのです。「料理家という人物を体現するとき、俳優は頑丈で身体もふくよかにと要求されるのです」と。トラン・アン・ユン監督は「ほっそりしていてもいいよ」と、おっしゃいました。ですが、この作品の準備のために、料理を作り、ときには友人のために料理を振る舞い、さらに作っては食べて作っては食べてを繰り返しているうちに……撮影時にはいつのまにか私が10kgも太ってしまいました。私の提案は有限不実行になってしまったのです。トラン・ヌー・イェン・ケーさんが衣装を担当してくださっていたのですが、私の衣装はきつくなってしまい、何度も何度もお直しをしなければならず、本当に申しわけなく思っております。


Ⅵ 過酷な日数でのアートディレクションと衣装について


ーーその流れで、トラン・ヌー・イェン・ケーさんにお伺いしたいのですが、衣装からお部屋の内装まで大変素晴らしかったです。今回はどのようなところにこだわってお仕事をされたのですか?


TNYK:ひとつ、申しあげておきたいことがございます。実は、わずか25日しか準備期間をいただいていなかったのです。現代映画であっても、25日しか準備期間がないというのは大変にも関わらず、この作品はコスチューム・プレイでした。25日、私にとって、それは信じられないような挑戦でした。私に求められていたことは、シンプルかつ的確に、求められていることを提出するということでした。結果として、出来あがった衣装やインテリアをみてみましたら「とても豊かなものになっているな」と、思うことができました。衣装についてなのですが、コンセプトとして、衣装は白黒のモノトーンにしようと思いました。そして料理の部分に色彩を豊かに使っていこうと考えました。コスチューム劇で衣装を作ることの難しさというのは、「古めかしいな」と思われないこと、そこに「モダンさがある」ということを考慮しました。20年後、30年後に観てくださる観客のことを意識し、「全然古びていないな」と思ってほしかったのです。

先程「美しい映画ですね」と言っていただきました。それは大変嬉しいことですが、私たちが求めていたもの、それは美しい映画ではありません。正確に的確に仕事をしてゆけば、おのずと映画に美しさが宿る。そのように考えて制作しておりました。例えば、様々なシーンで的確に、あるいは的確な俳優の演技で。それらが積み重なってこそ、最後に美しさは生まれるのです。


Ⅶ メッセージ


最後にトラン・アン・ユン監督から観客に向けてメッセージが贈られました。


TAH:この作品は「愛する歓び」「食べる歓び」に満ちています。本作を通じて、日本の観客の皆さまに、「愛する歓び」「食べる歓び」を再確認していただけたら嬉しいです。


(text 藤野 みさき)

『ポトフ 美食家と料理人』© Carole-Bethuel © 2023 CURIOSA FILMS – GAUMONT – FRANCE 2 CINÉMA

『ポトフ 美食家と料理人』

原題:The Pot-au-Feu [La passion de Dodin Bouffant]

136分/カラー/フランス語/2023年/フランス/ビスタ/5.1ch/字幕翻訳:古田由紀子/©️ 2023 CURIOSA FILMS-GAUMONT-FRANCE 2 CINEMA/Unifrance French Cinema Season in Japan 特別助成作品


◉ スタッフ

監督:トラン・アン・ユン

脚本・脚色:トラン・アン・ユン

アートディレクション:トラン・ヌー・イェン・ケー

撮影:ジョナタン・リッケブール

編集:マリオ・バティステル

美術:トマ・バクニ

衣装:トラン・ヌー・イェン・ケー

料理監修:ピエール・ガニェール

製作総指揮:クリスティーヌ・ドゥ・ジェケル

製作:オリヴィエ・デルボス


◉ 出演者

ジュリエット・ビノシュ

ブノワ・マジメル

エマニュエル・サランジェ

パトリック・ダスンサオ


◉ 配給

ギャガ


◉ 宣伝協力

ミラクルヴォイス


◉ 公式ホームページ

https://gaga.ne.jp/pot-au-feu/


◉ 劇場情報


『ポトフ 美食家と料理人』は、12月15日(金)より、Bunkamuraル・シネマ渋谷宮下、シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館ほかにて上映中です。



【第36回東京国際映画祭】


開催期間:2023年10月23日(月)~11月1日(水)※会期終了

会場:

【日比谷】東京ミッドタウン日比谷/日比谷ステップ広場/BASE Q/TOHOシネマズ 日比谷 スクリーン5/TOHOシネマズ日比谷 スクリーン12・13/TOHOシネマズ シャンテ/東京宝塚劇場/帝国ホテル

【有楽町】ヒューマントラストシネマ有楽町/丸の内ピカデリー/丸の内ピカデリードルビーシネマ/ヒューリックホール東京/有楽町駅前チケットセンター/有楽町micro FOOD & IDEA MARKET/b8ta Tokyo

【丸の内】丸ビルホール

【銀座】シネスイッチ銀座/丸の内TOEI

【その他】国立映画アーカイブ/三越劇場/コレド室町テラス1F大屋根広場


公式ホームページ:https://2023.tiff-jp.net/ja/


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【執筆者プロフィール】

藤野みさき:Misaki Fujino
1992
年、栃木県出身。シネマ・キャンプ映画批評・ライター講座第二期後期受講生。

映画のほかでは、お掃除・断捨離、美容や自分磨きが趣味。FW・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。

 

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2023年2月9日木曜日

映画『コンパートメント No.6』評text:藤野 みさき

「旅路のさきに」

 

© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY

 ロシアがウクライナに一方的な侵略戦争をはじめて、一年の月日が経過する。

 日々私たちのもとに届くのは、痛ましい写真や、映像で流れてくる現地の戦火だ。ウクライナ全土、ならびに首都キーウの街並みは、爆弾によって多くの建物が破壊され、いまこの文章を書いている瞬間も、命を脅かされている人々が、この空のしたに存在している。いつからだろうか。「苦しいときは、報道機関から適度な距離をとってください」と言われはじめたのは。胸の痛む報道ばかりが、日々私たちのもとに届けられる。気を病んだり、こころが悲鳴をあげて不安定になるのは当然のことだ。むしろ、気を病まず、痛みも感じずにいられるほうが、恐ろしいのではないだろうか。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 映画『コンパートメントNo.6』は、1990年代後半のロシアを舞台にした作品である。

 ものがたりは、モスクワに留学しているフィンランド人の女子大生ラウラの、列車の旅とこころの成長を描いている。モスクワより出発し、ロシアの最北西端ムルマンスク駅のさきにあるペトログリフをめざす、約2000kmの旅である。彼女の恋人のイリーナは大学で教授をつとめる考古学者で、ペトログリフ(石面彫刻)の研究をしている。ペトログリフとは、いまから約数千年前に、人々が後世に伝えようと岩や洞窟などの壁に刻んだ文字や壁画のことを示し、ギリシャ語で石を意味する「ペトロ」と、彫刻「グリフ」をつなげた造語である。ペトログリフを愛するイリーナは、ラウラにとっての「憧れ」、そのものであった。美しく、聡明で、自立した女性。彼女の周りには、おのずと知識人があつまり、機知に富んだ会話がとびかう。ラウラはイリーナとともに、ムルマンスクのさきにあるペトログリフをみにゆけることを楽しみにしていた。

 しかし、イリーナは急な仕事により、ラウラとの旅を断ってしまう。ひとり旅を余儀なくされたラウラは、モスクワで過ごした恋人との想い出のヴィデオカメラとともに、ひとり列車の旅をすることになる。傷心して列車に乗るラウラ。そんな彼女を待っていたのは、あらたな同席者である、若くて野蛮なロシア人男性のリョーハであった。

 

 異国の地をひとりで旅をするということは、旅をしたことのある観客なら、共感を覚えたり、旅をしたときの想い出を想起するだろう。主人公ラウラの戸惑いや、孤独、そして、旅をすることでさまざまな人々と出逢い別れてゆく過程は、人生と非常に似ているからだ。本作はその作風が高く評価され、第74回(2021年)カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で審査委員賞を受賞。おおくの観客の共感を呼び、日本公開へと至った。

 監督は、『オリ・マキの人生で最も幸せな日』(2016年)の、ユホ・クオスマネン。1979年生まれの、若きフィンランドの監督である。かれの初の長編作品となった『オリ・マキの人生で最も幸せな日』は、1960年代を舞台に実在したボクサーの人生をラヴ・ストーリーを交えて描き、第69回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で堂々のグランプリに輝いた。『コンパートメントNo.6』は、5年ぶりの長編第2作品目となる。

 

© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY

「列車の旅」という響きで胸がときめいてしまうのは、私が列車での長旅をしたことがないからだろうか。私の長距離の移動は新幹線に飛行機と、便利だが、近代的で無機質に思える。昔は何時間、何十時間もかけて長旅をしていたのだ。それこそ、昔の映画で描かれているように。私の祖母や父の年代の人々にとって、夜行列車は旅の醍醐味のひとつだったのだろうと、想いをはせる。

 もちろん列車の旅はそんなロマンチックなことだけとは限らない。

 本作の同乗人のリョーハは、第一印象はひどく野蛮で失礼極まりない男として描かれている。リョーハは泥酔しており、ラウラが部屋にはいるなり、「何しにきたんだ? 売春か?」と、言いはなつ。さらには、フィンランド語で「愛している」とはなんていうのかを訊かれたので、怒ったラウラは「ハイスタ・ヴィットウ(くそくらえ)」と、本来は違う意味のことばをかれに教えて部屋をでる。出逢いは、最悪のふたりだったのだ。しかし、長い列車の旅を通じて、リョーハは本当は野蛮なひとではない、ということが、すこしずつ明らかにされてゆく。

 

 本作の主題のひとつは、「ひとは見かけてはない」ということである。

 ラウラの恋人のイリーナは、リョーハと対照的に描かれている存在だ。考古学者で大学教授、知識人で、美しいイリーナ。一方で、炭鉱労働者の、野蛮で、礼儀しらずのリョーハ。「みかけ」や「肩書き」だけに眼を奪われていると、人間の本質をみうしなう。旅を通じて、イリーナとリョーハの立場は徐々に逆転してゆく。

 イリーナにとって、若きラウラは「興味の対象」であり、「恋人」ではなかったのだろう。モスクワに戻りたいと、サンクトペテルブルク駅で彼女に電話をかけるのだが、電話の奥からは別のひとの声が聴こえてくる。そこでラウラはすべてを察する。

「世界で一番美しいひとよ。私はそんな人生の一部になりたかったの」。ラウラはイリーナと過ごした想い出をリョーハに語る。しかし、ほんとうに、イリーナはラウラの憧れだったのだろうか? 約束をやぶり、平気で浮気をするひとを、人間として尊敬できるだろうか? ラウラはまだ女子大生だ。尊敬からイリーナを美化し、彼女の幻影をみていたのではないだろうか。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 途中に下車した駅で、リョーハはラウラをひとり暮らしの老婦人の家にまねく。

 三人で食事をしたあと、老婦人はラウラに語りかける。「女性は賢い生き物よ。それを信じることが大事なの。こころの声に従って生きるのよ」と。彼女は旅人のラウラに「乾杯しましょう」と提案し、「内なる自分に乾杯」とラウラと旅を祝福してくれた。一期一会の出逢いでありながらも、旅人を歓待し、人生を祝う、美しいシーンである。翌朝、彼女はラウラに「いいひとをみつけたわね」という。彼女はラウラのことをリョーハの恋人か友人だと思ったのだろう。リョーハはなんとかして、ラウラの旅の目的である「ペトログリフをみにゆくこと」を実現させようと奮闘する。

 

 一緒に旅をするにつれて、ラウラは、リョーハの人間の本質が視えてくる。

 それは、初めて列車で逢ったときとは、まったく違う人物像である。かれはただ自分を表現する「術」を知らないだけなのだ。知的に振舞ったり、ことばの表現が豊かだったり、ラウラの周囲の人々は、元恋人のイリーナを含め表現力に長けているひとたちばかりだった。優しくなくても、笑顔をつくることはできる。ことば巧みに相手を手のひらで転がすこともできる。でも、それはあくまで「術」を知っているだけであり、人間性とは比例しない。リョーハは「術」こそ知らない、不器用な男だ。気遣いができるわけでも、機知に富んだ会話ができるわけでもない。でも、ラウラのためにペトログリフをみにゆこうと奮闘する姿は、どんなことばや知性も無力なほどに、誠実だ。ことばを巧みに、振る舞いを上手にできるひとが多いいまの社会に、本作から「人間の本質をしっかりと見極めること」を、教えられる。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 ラウラは、念願であったペトログリフの地に辿り着く。

 波のうちつける、地の果て。かつての恋人、イリーナの愛する古代の遺跡。彼女は、遺跡の地をみて歩き、その光景を瞳にこころに焼きつける。短い旅を通じて、憧れの恋人を手放し、新しい一歩を踏みだしたラウラ。つぎにむかう駅はわからない。なぜなら、彼女の人生という旅は、まだはじまったばかりなのだから。

 そして、思うのである。

 私たちは、いつかラウラのように、ロシアの地を歩ける日が来るのかということを。

 

text:藤野みさき)

 

© 2021 - AAMU FILM COMPANY, ACHTUNG PANDA!, AMRION PRODUCTION,CTB FILM PRODUCTION


『コンパートメントNo.6(読み:コンパートメントナンバーシックス)

原題:Hytti nro 6 英題:Compartment Number 6

2021年/フィンランド=ロシア=エストニア=ドイツ/ロシア語、フィンランド語/107分/カラー/シネスコサイズ/映倫区分:G/後援:フィンランド大使館

© 2021 - AAMU FILM COMPANY, ACHTUNG PANDA!, AMRION PRODUCTION, CTB FILM PRODUCTION

 

あらすじ

モスクワから世界最北端駅ムルマンスクにあるペトログリフ(岩面彫刻)を見に行く予定だったラウラ(セイディ・ハーラ)は、大学教授の恋人イリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)にドタキャンされ、ひとりで旅立つことに。恋人がもう自分に興味がないことを薄々感じる失意の中、出発した寝台列車の同じ6号客室に乗り合わせたのは炭鉱労働者の男リョーハ(ユーリー・ボリソフ)。リョーハは出発早々に酒に酔いタバコをふかす粗野な振る舞いで、傷心のラウラにとって最悪な旅のはじまりとなる。しかし、旅を共にするうちに、お互いの不器用な優しさや魅力に気付いていく(プレス資料より)。


キャスト

監督・脚本:ユホ・クオスマネン

脚本:リヴィア・ウルマン、アンドリス・フェルドマニス

製作:ユッシ・ランタマキ、エミリア・ハウッカ

撮影:J=P・パッシ

編集:ユッシ・ラウタニエミ

 

原案

ロサ・リクソム

フィンランディア文学賞受賞「Compartment No.6

 

出演者

ラウラ:セイディ・ハーラ

リョーハ:ユーリー・ボリソフ

イリーナ:ディナーラ・ドルカーロワ

車掌:ユリア・アウグ

リョーハの養母:リディア・コスティナ

ギターを持ったフィンランド人の男:トミ・アラタロ



配給

アットエンタテインメント

 

宣伝

プレイタイム

 

公式ページ

comp6film.com

 

劇場情報

2023210日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開

 

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【執筆者プロフィール】

藤野みさき:Misaki Fujino
1992
年、栃木県出身。シネマ・キャンプ映画批評・ライター講座第二期後期受講生。

映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。FW・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。


Twittercherrytree813

 

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