2023年2月9日木曜日

映画『コンパートメント No.6』評text:藤野 みさき

「旅路のさきに」

 

© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY

 ロシアがウクライナに一方的な侵略戦争をはじめて、一年の月日が経過する。

 日々私たちのもとに届くのは、痛ましい写真や、映像で流れてくる現地の戦火だ。ウクライナ全土、ならびに首都キーウの街並みは、爆弾によって多くの建物が破壊され、いまこの文章を書いている瞬間も、命を脅かされている人々が、この空のしたに存在している。いつからだろうか。「苦しいときは、報道機関から適度な距離をとってください」と言われはじめたのは。胸の痛む報道ばかりが、日々私たちのもとに届けられる。気を病んだり、こころが悲鳴をあげて不安定になるのは当然のことだ。むしろ、気を病まず、痛みも感じずにいられるほうが、恐ろしいのではないだろうか。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 映画『コンパートメントNo.6』は、1990年代後半のロシアを舞台にした作品である。

 ものがたりは、モスクワに留学しているフィンランド人の女子大生ラウラの、列車の旅とこころの成長を描いている。モスクワより出発し、ロシアの最北西端ムルマンスク駅のさきにあるペトログリフをめざす、約2000kmの旅である。彼女の恋人のイリーナは大学で教授をつとめる考古学者で、ペトログリフ(石面彫刻)の研究をしている。ペトログリフとは、いまから約数千年前に、人々が後世に伝えようと岩や洞窟などの壁に刻んだ文字や壁画のことを示し、ギリシャ語で石を意味する「ペトロ」と、彫刻「グリフ」をつなげた造語である。ペトログリフを愛するイリーナは、ラウラにとっての「憧れ」、そのものであった。美しく、聡明で、自立した女性。彼女の周りには、おのずと知識人があつまり、機知に富んだ会話がとびかう。ラウラはイリーナとともに、ムルマンスクのさきにあるペトログリフをみにゆけることを楽しみにしていた。

 しかし、イリーナは急な仕事により、ラウラとの旅を断ってしまう。ひとり旅を余儀なくされたラウラは、モスクワで過ごした恋人との想い出のヴィデオカメラとともに、ひとり列車の旅をすることになる。傷心して列車に乗るラウラ。そんな彼女を待っていたのは、あらたな同席者である、若くて野蛮なロシア人男性のリョーハであった。

 

 異国の地をひとりで旅をするということは、旅をしたことのある観客なら、共感を覚えたり、旅をしたときの想い出を想起するだろう。主人公ラウラの戸惑いや、孤独、そして、旅をすることでさまざまな人々と出逢い別れてゆく過程は、人生と非常に似ているからだ。本作はその作風が高く評価され、第74回(2021年)カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で審査委員賞を受賞。おおくの観客の共感を呼び、日本公開へと至った。

 監督は、『オリ・マキの人生で最も幸せな日』(2016年)の、ユホ・クオスマネン。1979年生まれの、若きフィンランドの監督である。かれの初の長編作品となった『オリ・マキの人生で最も幸せな日』は、1960年代を舞台に実在したボクサーの人生をラヴ・ストーリーを交えて描き、第69回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で堂々のグランプリに輝いた。『コンパートメントNo.6』は、5年ぶりの長編第2作品目となる。

 

© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY

「列車の旅」という響きで胸がときめいてしまうのは、私が列車での長旅をしたことがないからだろうか。私の長距離の移動は新幹線に飛行機と、便利だが、近代的で無機質に思える。昔は何時間、何十時間もかけて長旅をしていたのだ。それこそ、昔の映画で描かれているように。私の祖母や父の年代の人々にとって、夜行列車は旅の醍醐味のひとつだったのだろうと、想いをはせる。

 もちろん列車の旅はそんなロマンチックなことだけとは限らない。

 本作の同乗人のリョーハは、第一印象はひどく野蛮で失礼極まりない男として描かれている。リョーハは泥酔しており、ラウラが部屋にはいるなり、「何しにきたんだ? 売春か?」と、言いはなつ。さらには、フィンランド語で「愛している」とはなんていうのかを訊かれたので、怒ったラウラは「ハイスタ・ヴィットウ(くそくらえ)」と、本来は違う意味のことばをかれに教えて部屋をでる。出逢いは、最悪のふたりだったのだ。しかし、長い列車の旅を通じて、リョーハは本当は野蛮なひとではない、ということが、すこしずつ明らかにされてゆく。

 

 本作の主題のひとつは、「ひとは見かけてはない」ということである。

 ラウラの恋人のイリーナは、リョーハと対照的に描かれている存在だ。考古学者で大学教授、知識人で、美しいイリーナ。一方で、炭鉱労働者の、野蛮で、礼儀しらずのリョーハ。「みかけ」や「肩書き」だけに眼を奪われていると、人間の本質をみうしなう。旅を通じて、イリーナとリョーハの立場は徐々に逆転してゆく。

 イリーナにとって、若きラウラは「興味の対象」であり、「恋人」ではなかったのだろう。モスクワに戻りたいと、サンクトペテルブルク駅で彼女に電話をかけるのだが、電話の奥からは別のひとの声が聴こえてくる。そこでラウラはすべてを察する。

「世界で一番美しいひとよ。私はそんな人生の一部になりたかったの」。ラウラはイリーナと過ごした想い出をリョーハに語る。しかし、ほんとうに、イリーナはラウラの憧れだったのだろうか? 約束をやぶり、平気で浮気をするひとを、人間として尊敬できるだろうか? ラウラはまだ女子大生だ。尊敬からイリーナを美化し、彼女の幻影をみていたのではないだろうか。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 途中に下車した駅で、リョーハはラウラをひとり暮らしの老婦人の家にまねく。

 三人で食事をしたあと、老婦人はラウラに語りかける。「女性は賢い生き物よ。それを信じることが大事なの。こころの声に従って生きるのよ」と。彼女は旅人のラウラに「乾杯しましょう」と提案し、「内なる自分に乾杯」とラウラと旅を祝福してくれた。一期一会の出逢いでありながらも、旅人を歓待し、人生を祝う、美しいシーンである。翌朝、彼女はラウラに「いいひとをみつけたわね」という。彼女はラウラのことをリョーハの恋人か友人だと思ったのだろう。リョーハはなんとかして、ラウラの旅の目的である「ペトログリフをみにゆくこと」を実現させようと奮闘する。

 

 一緒に旅をするにつれて、ラウラは、リョーハの人間の本質が視えてくる。

 それは、初めて列車で逢ったときとは、まったく違う人物像である。かれはただ自分を表現する「術」を知らないだけなのだ。知的に振舞ったり、ことばの表現が豊かだったり、ラウラの周囲の人々は、元恋人のイリーナを含め表現力に長けているひとたちばかりだった。優しくなくても、笑顔をつくることはできる。ことば巧みに相手を手のひらで転がすこともできる。でも、それはあくまで「術」を知っているだけであり、人間性とは比例しない。リョーハは「術」こそ知らない、不器用な男だ。気遣いができるわけでも、機知に富んだ会話ができるわけでもない。でも、ラウラのためにペトログリフをみにゆこうと奮闘する姿は、どんなことばや知性も無力なほどに、誠実だ。ことばを巧みに、振る舞いを上手にできるひとが多いいまの社会に、本作から「人間の本質をしっかりと見極めること」を、教えられる。


© 2021 - Sami_Kuokkanen, AAMU FILM COMPANY


 ラウラは、念願であったペトログリフの地に辿り着く。

 波のうちつける、地の果て。かつての恋人、イリーナの愛する古代の遺跡。彼女は、遺跡の地をみて歩き、その光景を瞳にこころに焼きつける。短い旅を通じて、憧れの恋人を手放し、新しい一歩を踏みだしたラウラ。つぎにむかう駅はわからない。なぜなら、彼女の人生という旅は、まだはじまったばかりなのだから。

 そして、思うのである。

 私たちは、いつかラウラのように、ロシアの地を歩ける日が来るのかということを。

 

text:藤野みさき)

 

© 2021 - AAMU FILM COMPANY, ACHTUNG PANDA!, AMRION PRODUCTION,CTB FILM PRODUCTION


『コンパートメントNo.6(読み:コンパートメントナンバーシックス)

原題:Hytti nro 6 英題:Compartment Number 6

2021年/フィンランド=ロシア=エストニア=ドイツ/ロシア語、フィンランド語/107分/カラー/シネスコサイズ/映倫区分:G/後援:フィンランド大使館

© 2021 - AAMU FILM COMPANY, ACHTUNG PANDA!, AMRION PRODUCTION, CTB FILM PRODUCTION

 

あらすじ

モスクワから世界最北端駅ムルマンスクにあるペトログリフ(岩面彫刻)を見に行く予定だったラウラ(セイディ・ハーラ)は、大学教授の恋人イリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)にドタキャンされ、ひとりで旅立つことに。恋人がもう自分に興味がないことを薄々感じる失意の中、出発した寝台列車の同じ6号客室に乗り合わせたのは炭鉱労働者の男リョーハ(ユーリー・ボリソフ)。リョーハは出発早々に酒に酔いタバコをふかす粗野な振る舞いで、傷心のラウラにとって最悪な旅のはじまりとなる。しかし、旅を共にするうちに、お互いの不器用な優しさや魅力に気付いていく(プレス資料より)。


キャスト

監督・脚本:ユホ・クオスマネン

脚本:リヴィア・ウルマン、アンドリス・フェルドマニス

製作:ユッシ・ランタマキ、エミリア・ハウッカ

撮影:J=P・パッシ

編集:ユッシ・ラウタニエミ

 

原案

ロサ・リクソム

フィンランディア文学賞受賞「Compartment No.6

 

出演者

ラウラ:セイディ・ハーラ

リョーハ:ユーリー・ボリソフ

イリーナ:ディナーラ・ドルカーロワ

車掌:ユリア・アウグ

リョーハの養母:リディア・コスティナ

ギターを持ったフィンランド人の男:トミ・アラタロ



配給

アットエンタテインメント

 

宣伝

プレイタイム

 

公式ページ

comp6film.com

 

劇場情報

2023210日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開

 

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【執筆者プロフィール】

藤野みさき:Misaki Fujino
1992
年、栃木県出身。シネマ・キャンプ映画批評・ライター講座第二期後期受講生。

映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。FW・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。


Twittercherrytree813

 

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