2017年9月29日金曜日

フランス映画祭2017『エタニティ 永遠の花たちへ』上映後トークショー text藤野 みさき

© Rumi Shirahata/UniFrance

愛とは学ぶことであり、与えられるものではない
――『エタニティ 永遠の花たちへ』劇中の台詞より

 ヴェネツィア国際映画祭へ出品された『ノルウェイの森』から早7年。トラン・アン・ユン監督待望の最新作は、19世紀から現代へと紡がれる女性たちの生命の足跡を綴った美しい人生賛歌である。ものがたりの始まりでもあり、映画の中心のヴァランティーヌ役をつとめるのは、『アメリ』でおなじみのオドレイ・トトゥ。その他にメラニー・ロラン、ベレニス・ベジョと仏映画界の実力派女優たちが、婚約者の恋人、その親友であり親に決められた結婚を乗り越えてゆく女性の姿を演じる。
 名撮影監督マーク・リー・ピンビンが映し出す、自然や花々の色彩豊かな映像美とともに、台詞をできるかぎり排除し、人物の顔や表情、映像や音楽でものがたりを描くことを試みたというトラン・アン・ユン監督。質疑応答では、その撮影秘話や、俳優たち自身の人間性・映像に託した思い、そして監督自身の大きなテーマでもある「美」についてを語った。

(2017年6月25日(日)有楽町朝日ホールにて 取材・構成・文:藤野 みさき)

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Ⅰ ものがたりの誕生に至るまで

矢田部吉彦(以下矢田部):トラン・アン・ユン監督、お迎えできて本当に光栄です。ものすごく美しい映画をつくってくださって感謝申し上げます。まず観客の皆さまに一言ご挨拶のお言葉を頂戴できますでしょうか。

トラン・アン・ユン(以下TAH):皆さま、本日はこの映画の上映にお越しくださって本当にありがとうございます。朝、というフレッシュな時間に皆さまにお見せできたことを嬉しく思っております。
そして、いま客席の中に『ノルウェイの森』時代の友人が来てくださっています。今回の映画『エタニティ 永遠の花たちへ』では「子どもが産まれる」ということがもちろんテーマになっていますので、この上映に来てくださり、子どもさんが産まれた友人に「おめでとう」と申し上げたいと思います。

会場:拍手

矢田部:ありがとうございます。いまおっしゃった『ノルウェイの森』が2010年ですから、7年ぶりの作品になるわけですけれども、『ノルウェイの森』とはまったく違う世界の物語で、どのようにしてこの映画の着想を得られたのか、映画の誕生のいきさつを教えていただけますか。

TAH:実は『ノルウェイの森』を終了して1年後には、今回の『エタニティ 永遠の花たちへ』のシナリオができていたのですが、資金を集めるのに時間が掛かりました。

矢田部:お金……は、このキャストを見るとお金は集まるのではないか、と思ってしまうのですが、そういうものでもないのでしょうか。

TAH:そのことにつきましては、出演してくださった俳優さんたちがいつもよりも低いギャラでこのオファーを受けてくださったのです。おそらく、平均としていつもの彼等の10分の1ほどではないかと思われるギャラで承諾してくださいました。

矢田部:ありがとうございます。

 矢田部さんから会場へと質問のバトンが渡される前に、トラン・アン・ユン監督は観客の皆さんにこのような質問をされました。

TAH:皆さんは、この映画をご覧になられて、涙を流されましたか? 私は映画を撮りながら何度も泣きました。

 そして、その質問に答えるかのように、会場からはあたたかな拍手がトラン・アン・ユン監督へと送られました。

© Rumi Shirahata/UniFrance


Ⅱ 主演女優・俳優たち ベレニス・ベジョとの逸話

Q1. 素晴らしい映画を、本当にありがとうございました。この映画では登場人物の台詞というものが極端に少なく、表情や動き、映像と色彩の映画だなと感じました。そして質問は、おそらくこれは多くの方々が訊きたいのではと思うのですが、主演のオドレイ・トトゥさん、メラニー・ロランさん、ベレニス・ベジョさんの起用についてです。特に、ベレニス・ベジョさんですけれども、個人的にとても注目をしている女優さんの一人で、『アーティスト』(第84回アカデミー賞作品賞受賞作品)でも主演女優賞にノミネートされましたよね。それから『ある過去の行方』(2013年、アスガー・ファルハディ監督)にてカンヌ国際映画祭でも主演女優賞を受賞されました。すごく注目をしている女優の一人なので、ベレニス・ベジョさんの起用の過程についてをお伺いしたいと思います。

TAH:キャスティングは割とシンプルに進行いたしました。一番大切だったことは、もちろんその時スケジュールが空いている方を探す、ということだったのですが、その他で重要視をしたのは、その人たちの顔からヒューマニティ、人間性が感じられるということでした。今回の映画では顔を見せる映画にしたいと思っていたのです。つまり、その人の人生や人間性というものが、なにかその人の顔を見ただけで感じられるような作品にしたいと思いました。そして本作はストーリーらしいストーリーはなく、シーンらしいシーンはなく、心理描写を排除しているのですけれども、だからこそ、俳優が場面に現れた時にそこに人間性が現れている、という風にしたかったのです。
そして、私はこの作品の原作を読んですごく感動しました。その時に私が覚えた感動、エモーションというものを伝えたいと思いました。そのために特別な映画の表現方法、それはとても大胆なものだったのですけれども、さきほど申し上げましたように、ストーリーらしきストーリーがない、心理描写がない、シーンらしいシーンもないというものでしたが、この手法があの感情を伝える唯一の方法だと思ったのです。私が原作を読んだ時に感じたのは、「時の流れの偉大さ、雄大さ」というものだったからです。

矢田部:いま会場のお客さまが、ベレニス・ベジョさんにとても注目をされているということだったのですが、彼女と仕事をなされて、どのような女優さんであったのか。その印象をお聞かせいただけますか。

TAH:楽しかったです! 彼女は出演をする女優さんの中で唯一私に“イラついていた”女優さんでした。

会場:(笑)。

TAH:撮影中、最初から彼女は「率直に言って、私は何をやっているのか分からないわ!」と言いました。そして、撮影前に私は役者さんたちを集めましてミーティングを行ったのですが、そこで一つ約束をしました。私自身、確信はなかったのですけれども。実はその時点で、私がどのように映画を撮ろうか、どのような映画になるのか。ということが分かっていなかったのです。その時に私が皆さんに言ったことというのは、「恐らく撮影期間中あなたたちは途方にくれたり、不満を覚えたり、フラストレーションを感じたりするかもしれません。でもここで約束できるのですが、この映画は、終わったらば、完成したらば、そこに見られる豊かな表現というのは、いまあなたたちが想像している以上のものに必ずなります」と言いました。……でも、私自身、本当はその自信はなかったのですけれども。でも「撮影はしなければならないので、俳優さんたちを安心させなければならないのです」とも言いました。
(ベレニス・ベジョが劇中着ている、ウェディングドレスに列なる袖のボタンを外す動作をしながら)新婚初夜のシーンで、ここのボタンを一つ一つ外さなくてはならず、それが彼女にとってはなかなか難しかったのです。なので、私が例を何度かやって見せました。ですが、お手本を見せてもらうにも拘らずできないということに彼女が苛立ちまして、「私はあなたの操り人形じゃないのよ!」と怒ったのです。「そのようなことをされて、私が下のように感じるわ」と言って怒ったので、私のほうで謝りました。撮影を続けなくてはならなかったので。でも、そのようなことがあったからこそ、そのあとすごく仲良くなることができました。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅲ 女性視点である印象・感性について

Q2. とても美しかったです。お花のある暮らしというものがこんなにもすてきで、幸せな感じが映画の中から伝わってきて、それが自らの家の中にあったらすごくすてきだろうなって思いました。いま(結婚初夜の)お袖のシーンの話しが出ましたが、あのシーンもすごく美しいなと思ったのです。全体的に女性の視点で描かれた、女性の感覚が盛り込まれたもので、男性の監督が撮られているということが不思議に思う部分もあるのですが、監督としましては、あえて女性視点で撮られていったのでしょうか? それとも監督自身の男性的な部分を折り込んだところもあったりするのでしょうか?

TAH:この原作のお話に私は感動をしたので、何か女性的なものを目指したというより、原作の世界を、如何に、どのようにして映画的言語に置き換えるのか。そして、洗練された映画表現に移し換えるのか、ということをまず目指しました。なので女性的な感覚、とおっしゃってくださいましたけれども、自分の感性・感覚というのがどこから来るものなのかというのは、自分では意識しておりません。ただ一つ面白いのは、私の1本目の映画であります『青いパパイヤの香り』がカンヌ国際映画祭で紹介された時に、私の、このアジア風の名前「トラン・アン・ユン」というのは欧米の人にとっては男性なのか女性なのかわからないということで、女性だと思われた方が多いらしく、私が登場したところ、男性であるということを見て驚いた人がたくさんいらっしゃったそうです。ですから、私はしばしば冗談を言うのですけれども、自分はカンヌで性転換をしたんだ。という冗談を言います(笑)。

Ⅳ ベトナム戦争 大家族への想い

矢田部:ありがとうございます。いま『青いパパイヤの香り』のお話しが出ましたけれども、『夏至』でも姉妹のしっとりとした関係が描かれていて、とてもこの作品にも繋がるなと思ったのですが。

TAH:そうですね。自分で分析をしたことはないのですけれども、常に私の映画では家族が出てきます。私の家族というのは、ベトナム戦争のこともあり、とても少人数なのです。私の家族というのは、両親と弟しかいないと。そして、私は家族が少人数であるということを、とても“脆い”と感じていたのです。何かあったら家族がいなくなってしまうのではないか。そのようなことを思っておりましたので、この原作本で描かれている大家族、家族がいっぱいいる、ということに非常に感銘を受けたのです。そしてこの映画でも、最後に二つの家族が合体をして、16人の子どもが一つのテーブルの周りに集まって食事をするシーンというのがあるのですけれども、あの場面などが私がとても感動してしまうところなのです。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅴ 人間は自然の一部であるということ 永遠から見た視点

Q3. ありがとうございます。夢のような2時間でした。僕は監督の作品、この映画もそうなのですけれども、『青いパパイヤの香り』からずっと見てきて、一番の魅力というのは、人間と風景の調和された映像と言いましょうか、風景ととても一体感があるということです。それはただの映像の美しさというよりも、そのことを描くことによって、毎回人間は自然の一部であるという、当たり前のことにハッと気付かされます。特に今回の場合のような大家族の何年もの時の流れの中で、生と死が循環されてゆく。その中には理不尽な死も含まれていたりするわけですけれども、それでも、その生と死の循環というのは自然の摂理の中の一つの風景として世界の中で調和をしている、その美しさのようなものをとても強く感じました。これは僕の勝手な監督の作品の魅力なのですが、監督ご自身の世界観、その根底にあるものというのは、既に持たれているものがありましたら、教えていただきたく思います。

TAH:いまおっしゃっていただいたことをまさしく感じております。映画作家といたしましては、もちろん人生に対するビジョンというものを映画で見せてゆく、つまりはスクリーンを通して人生というものを表現してゆくことを目指しているのですが、その点において自然というものは私にとって一つの方法、一つの手段でありました。何の手段かと言いますと、人間が感じる感情を視覚的なものに表す、そのクォリティというものを表すというのに自然が私の映画において重要な役割を果たしております。
もう皆さまお気づきだと思うのですけれども、この映画は“永遠”から見た視点というもので語られています。そして、永遠から見た場合にどうなるのかと言いますと、人生のディテールというものはすべて消えてしまうと。本当でしたら描かれる戦争の詳細ですとか、家族の問題の詳細ですとかはすべて消えてしまって、そこで繰り返されるのは、婚約・結婚・出産・死といったものがどんどん流れてゆく。そしてこのような方法、このような見せ方というのが、時の流れを表す唯一の方法だと思ってこのような手法をとっています。つまり長い時の流れから見れば、残るものは思い出だけなのだ、ということです。

© Rumi Shirahata/UniFrance

Ⅵ 音楽の効果~観客自身が物語りを紡ぐということ~

Q4. 映像とそれから表情と、ということを先ほどの方もおっしゃられていたのですが、もう一つ、僕は非常に音楽が(登場人物たちの)表情の説明をしてくれているような気がしたのです。例えば、不安感を煽ったり、これから訪れるであろう死であったりということを、とてもピアノが表しているなと思ったのですが、監督の中でシーンを撮っていらっしゃる時にあの音はなっていたのか、それとも、映像を編集した時に「この音だ」という風に思われたのか。その辺の意図をお伺いできたらと思います。

TAH:コメントをありがとうございます。おっしゃられたように、こうした音楽の使い方というのは、これまでの私の映画の中では無かった手法で、このような音楽の手法は今回初めてやってみました。ご覧のように、この映画においては映像というのがナレーション的な繋ぎ方はしていないと。なのでむしろ、音楽によって物語りを語らせるということを試みてみたのです。そしてもっと正確に言いますと、音楽がお話しを語っているのではなく、観客の皆さんご自身でお話しを紡ぐその手助けを音楽がしているのだと思います。つまり、まるで観客の皆さんが作家になったような気持ちで映画を見ながらお話しを紡いでいる。そのような仕掛けになっています。それはまさに音楽が、観客がもっている美の意識を刺激することにより、そうした状態が生まれるのです。
そしてこの映画で流れている音楽というのは、私がよく知っている、いつも聞いている音楽を選んでいるのですけれども、これは編集段階で映像に音楽をテストをしていってつけたものです。驚いたことに4分間あるような長い曲、例えばフランツ・リストのピアノ曲というのは、画に合わせることがとても難しいのですけれども、今回の映画は驚くほど編集した画に音楽がぴったりと合ったのです。そこであまりにも音楽と画が一致するので、編集担当者が一つの仮説を立てて私に話してくれたのですが、その方の仮説いわく、私があまりにもその曲をよく知っているので、撮影をしながら音楽が私を導いていたのだろう、と。それがゆえに映像にあとから音楽をつけたら、こんなにも長い曲でもぴったりと合うのだろうと言いました。

矢田部:ということは、撮影中でも監督の無意識下で音楽が流れていたのかもしれない、ということですね。

TAH:はい、そうなのです。

矢田部:ありがとうございます。

Ⅶ 愛する人への思い出 美しさこそが残るもの

Q5. この映画はナレーションがとても魅力的だったと思うのですが、前半に比べて、後半になるにつれて要所要所に(ナレーションが)入ることの回数が減っていったように気がするのですが、何か理由がありましたら教えてください。あとは、映像ですね。人が亡くなったあと、(亡くなった人物の)回想シーンが流れている気がするのですが、神の視点と言いますか、時間の流れに抗うような、断ち切るように入ってくるのがすごくすてきだと思いました。

TAH:これは“思い出”についての映画です。死のあとに見えてくる映像というのは、生きている人の死者に対する思い出の映像なのです。でも、神の視点ではありません。そして、ナレーションの入れ方の密度と言いますのは、自分では意識したところはありません。私は(ナレーションの)入れ方というのはいつも勘で選んでおりますので、ここが必要、ここが良い、というところに随時入れております。
いま、皆さんのお話しの中でも「美」ということばがたくさん出てきましたけれども、私は美こそが残るものだと思っています。それは映画においてもそうですね。そして、映画における美、映画が美しいと感じる時は、その伝わり方が正しい時にしか美しさを感じないと思うのです。どんなに美しい映像を撮っても、それがそこに在る息というものがなければ、人々はインパクトを感じないのです。私は映画作りにおいて常に映画館を出る観客の方に、何かしらの美を残し、その人に残る美を与えて、映画館をあとにしてもらいたいなと思いながら、作品づくりをしています。そして、そのために観客の方々がそれぞれ持っている美の、美意識の潜在的な力を呼び覚ますような、そのような作品づくりを心掛けているのです。

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 思い返すと、この映画では「愛してる(ジュテーム)」ということばがなかったことに気がつく。
 でも、妻が夫を、夫が妻をみつめるまなざしに、ことばはなくとも、ただその交される瞳だけで、ふたりは愛し合っていることが充分に伝わってくる。甘く、優しい口づけ。ふたりの恋が始まった花園。花園にある小道を走り、振り返ったときの彼女の笑顔と、その美しい髪を揺らした風。その瞬間こそが永遠に息づき、大切な想い出としてのこるものであるのだと。
 愛情はおたがいが想い合えることもあれば、一から育んでゆくこともある。親の決めた結婚では、夫が「君のことを、僕はまだ愛していると言えない。でも、これからふたりで学んでゆこう」とつげる。「愛とは学ぶことであり、与えられるものではない」という劇中の美しいことばがあるように、相手に求めること、愛されたいと受動的に願うことだけでは、愛情を育むことは難しい。恋愛の美しいところに想いをはせるのではなく、ふたりで「学んでゆこう」と。おたがいを想いあい、すこしずつ相手を知りながら、育まれてゆく愛があることを映画はあたたかく映し出す。

 本編上映前、トラン・アン・ユン監督はこれから映画を観る私たち観客の様子を、朝日ホールの扉の傍で、そっと見守っていた。そのときの監督の優しさに満ちた笑みと、身の振る舞いから滲みでる知性を忘れることができない。質疑応答でも述べていた「観客の皆さんに、(何かしらの)美を残し、与えたい」というトラン・アン・ユン監督の願いが、この映画を通して多くの方の心へと届くことを願っている。そして、劇場をあとにしたときに感じた映画の息遣いを、私も心のなかで大切に育んでゆきたい。

(text:藤野みさき)


 『エタニティ 永遠の花たちへ』
原題:Éternité/2016年/1時間55分/フランス=ベルギー合作

監督:トラン・アン・ユン

公式ホームページhttp://eternity-movie.jp

劇場情報
9月30日(土)、シネスイッチ銀座ほかロードショー


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『フランス映画祭2017』               
   
開催日程:2017年6月22日(木)~25日(日)※会期終了 
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
オープニング作品:カトリーヌ・ドヌーヴ主演『The Midwife』(邦題:ルージュの手紙)
主催:ユニフランス
公式サイト:www.unifrance.jp/festival

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期、未来の映画館を作るワークショップ第一期受講生。映画のほかでは、自然・お掃除・断捨離・セルフネイル・洋服や靴を眺めることが趣味。この秋は、敬愛する作家、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の特集上映をとても楽しみにしています。

Twitter:@cherrytree813

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2017年9月27日水曜日

映画『散歩する侵略者』評text成宮秋祥

「奪うことしか知らない者がたどり着いた最も尊い概念とは?」


※こちらの文章では一部、映画の結末に触れている箇所があります。

宇宙人の侵略を描いた映画は、さほど珍しいとはいえない。21世紀に入ってからは、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』(2005)や、昨年に日本でも上映された J・J・エイブラムス製作の『10 クローバーフィールド・レーン』(2016)など、大作から低予算映画にいたるまで宇宙人の侵略を描いた映画はこれまでも数多く製作されている。
本作の見どころは、ジョン・カーペンターやトビー・フーパーといったアメリカB級映画の巨匠の作品から強く影響をうけた黒沢清が、宇宙人の侵略を描いた映画を撮るとどのような映画になるか? に尽きると思われる。特に、この映画の物語がカーペンターの『スターマン/愛・宇宙はるかに』(1984)の物語に類似している点なども、その期待に拍車をかけているといえる。
しかし、実際に映画を観てみると、たしかに宇宙人の侵略を描いたSFスリラー映画のような雰囲気は冒頭から十分に感じられるのだが、次第に、映画はSFスリラー映画のような雰囲気から乖離していき、この世とは思えない地平に我々を導いていく。これは黒沢清の映画にはよく見られる展開ではある。だが、黒沢清の映画は、画面から発する異様な引力を持って我々をぐいぐい引っ張っていきながら、最後には突き放し、困惑や混乱をもたらすのに対し、本作は優しく両手で包み込むような愛情の深さが感じられた。それは、この映画のテーマが“愛”であり、そして愛をめぐる夫婦の物語だからだ。

本作を観て、似たような方向性で撮られた黒沢清の映画に『岸辺の旅』(2015)を想起する人がいると思われる。あちらは幽霊を物語に取り入れ、幽霊となった夫とそれを迎える妻の奇妙な日常生活を描いている。単純に考えると、本作で松田龍平が演じる加瀬真治という夫は、『岸辺の旅』の幽霊となった夫を、宇宙人に憑依された夫に置き換えたに過ぎない。それだけだとすると、ただの焼き直しになってしまうのだが、それでも新鮮な感覚でこの宇宙人に憑依された夫である真治を、我々が観ることができるのは、真治の心が空っぽだからだ。生まれたての赤ん坊のように何も知らない状態で、長澤まさみが演じる妻、鳴海と出会う。しかし、二人の夫婦仲はすでに冷めきっていて、真治はそのような状況を理解できないまま、鳴海と奇妙な日常生活をおくっていくことになる。
心が空っぽであるがために、好奇心を輝かせ、鳴海の迷惑を顧みずあらゆる事柄に興味を示す真治。彼の奇妙な言動に苛立ちながらも、まるで母親のような態度で過保護に面倒を見る鳴海。二人のやりとりは、とても宇宙人の侵略を描いた映画とは思えないほどほのぼのと描かれている。このほのぼのとした描かれ方は、この夫婦の仲が完全には冷めきってはいないことをほのめかしている。人間関係が完全に冷めきった場合、お互いに無関心になり、自然と関係性が消滅していく。しかし、彼らはお互い離れたりはせず一緒に暮らしている。宇宙人に憑依された真治は人間を知ろうとする好奇心のため鳴海のそばにいるのかもしれないが、鳴海の場合はどこかに真治を再び愛したい、あるいは真治に再び愛されたいという願望があったのではないだろうか。そう思わせるほど、鳴海の言動は、苛立っているようでどこか真治に対して愛情深いものを感じさせる。
この映画の一番の特色は、宇宙人が人間の“概念”を奪う特殊能力を持っているという奇抜な設定にある。この人間の概念を奪うという行為自体がメインに描かれると、映画は途端に政治的な相貌に変容していく可能性がある。原作にあたる戯曲を書いた前川和大は、概念が奪われることで人が何かを理解することを失う恐怖を表現しようとした一方、概念が奪われたことで幸福になる場合――概念の喪失によって恐怖と幸福が背中合わせになって生まれてくるということ――を表現しようとしたと語る。この恐怖とともに生まれる幸福というのは、広い意味で例えると、国という概念が失われた場合、国という概念の理解が失われるため、国同士が争うという行為の意味が通らなくなるため、国家間の戦争がなくなる可能性が生まれる。これを幸福と捉えることもできるということである。
もちろん、本作でも“所有”の概念を奪われた満島真之介が演じる丸尾が、物を所有することで奪い合いや争いが起きてしまうことの愚かさを民衆の前で説く場面がある。これは明確な反戦メッセージといえる。概念を奪われたあとの丸尾の表情は異様に清々しい。断捨離やミニマリズムといった思想が流行っている現代日本において、丸尾の発言には強い説得力が感じられる。
ただし、こうした政治性を帯びた場面はごく一部であり、どちらかというと物語は、宇宙人に憑依された真治が人の概念を奪うことでどのように変化していくのか、そして真治と鳴海の夫婦生活はどのような展開を迎えていくのかが主軸になっている。

宇宙人が人の概念を奪うという行為は、言いかえれば一方通行のコミュニケーションと捉えることができる。これは悲しいことである。宇宙人たちは人から概念を奪うという行為でしか物事の意味を理解することができない。それと同時に、彼らは誰かに何かを与えるという行為を知らない。これは与えるという概念を知らないだけだということは明白である。そして彼らは“与える”の対になる“奪う”という概念も知らないのだが、奪うという行為そのものは実行できるのである。
これには2つの意味があると思われる。1つは任務のため。もう1つは自分たちの知的好奇心を満たすめである。任務だからやっているという動機は、言いかえると思考停止の状態を指す。また、受け身の状態でもあり、本人の意思は存在していない。しかし、真治のように人の概念を奪っていくにつれて、人間に興味を抱くようになっていき、次第に、鳴海を愛するようになっていった行動の根底には、純粋に人間のことを知りたいという知的好奇心を強く持つ彼の本能的な欲望が関係しているといえる。
宇宙人に憑依された真治は、生まれたばかりの赤ん坊のように空っぽの心を持ったイノセントな存在として位置づけられている。そして、イノセントな存在として描かれる真治が人の概念を奪っていく行為は、やはり悲しいのである。これは人の概念を奪ったあと、その概念を持ち主に返すことが不可能だからである。人の概念を奪うという一方通行のコミュニケーションを行い、自分自身の人間に対する理解力が増しても、概念を奪われた持ち主は別の人格に変容しているため、真治が概念の持ち主と良好なコミュニケーションを図ることはそもそも困難なのだ。
奪うことでしか相手を理解できず、奪ったとしても相手が急激に変わってしまい、結局お互いに理解しあえない。真治と人間とのコミュニケーションには、越えることの難しい、見えない“壁”が存在している。この壁が劇中で崩れることはなく、あくまで真治は、人から概念を奪い続けることで人間を理解し、鳴海を深く愛するようになっていく。そして真治は、“愛”という概念を理解したいと思うようになり、最終的に、ある事情から鳴海の愛の概念を奪ってしまう。
鳴海から愛の概念を奪うまで、真治は愛の概念こそ理解できないでいたが、決して愛の行為がなかったとはいえない。例えば、二人で食事を食べる場面では、宇宙人に憑依される前の真治は嫌いな食べ物を絶対に食べなかったが、宇宙人に憑依されたあとの真治は、鳴海が作った食べ物は何でも食べるようになっていた。これは概念を奪い続けるうちに真治の記憶を獲得した宇宙人が、心の開いた状態の真治を真似たのか、それとも宇宙人と真治の意識が統合され、鳴海を愛する新しい真治が無意識にとった行動なのかは明確には示されない。ただし、少なくともこの真治の態度の変化には間違いなく愛があったといえる。
愛という行為自体は行えているのに、愛の概念を理解していない真治は、鳴海から愛の概念を奪うことで、愛することの本質を知る。愛の概念を奪われた鳴海は感情の豊かな性格が変容し、無情の人となってしまう。そんな鳴海に対して愛を理解した真治は、ずっと鳴海のそばにいることを選択する。本作が描こうとした愛とは、“償い”という愛である。

黒沢清が尊敬するアメリカ映画の巨匠サミュエル・フラーの初期の作品に『地獄への挑戦』(1949)という西部劇がある。これは実在した西部のアウトロー、ジェシー・ジェームズを暗殺したボブ・フォードの悲しい末路を描いた映画である。富や名声、愛する女性との幸せな生活のために丸腰のジェシーを背後から暗殺したボブは全てを手に入れたかに見えたが、すぐに落ちぶれ、彼を暗殺したことを後悔し続けた挙句、自らも無残な最期を遂げる。実は、ジェシーを心から尊敬し愛していたボブは、死ぬ間際にジェシーへの愛を呟いて果てる。
人から概念を奪うことしかできない真治は、『地獄への挑戦』のボブのように、愛する鳴海の愛の概念を奪うという取り返しのつかないことをしてしまう。ジェシーとは違い、鳴海は死んでいないが、その愛の概念は失われている。愛を理解した真治にとって、鳴海のその変容はとてつもない悲劇である。しかし、『地獄への挑戦』のように救いようのない悲劇とは言い難い。なぜなら、愛というのは内面から湧き出てくるものであり、そして人に与えられるものであることを真治は理解しているからだ。そこまでの理解を促したのは、鳴海の愛に対する理解の賜物である。彼は奪うという行為と対になる“与える”という行為を理解した。だからこそ、真治は償いという愛をもって鳴海のそばに居続ける。鳴海の愛の再生を信じて。
本作は、奇抜なアイデアによって彩られたSFスリラーの仮面を被った、一組の男女のあまりにも純粋な“愛”の喪失と再生を描いた美しいロマンスである。

(text:成宮秋祥)




『散歩する侵略者』
2017/129分/日本

監督:黒沢 清

公式ホームページ:http://sanpo-movie.jp/

劇場情報
9月9日より全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月19日火曜日

映画『パターソン』評text成宮秋祥

「自分の時間を生きること。そこから見えてくる気づきと愛の感情」 


『パターソン』の主人公は、アメリカのニュージャージー州パターソン市に住む、バス運転手のパターソンという男性だ。パターソンに住むパターソンのごく平凡な1週間の日常をたんたんと日記のように簡潔に描いている。映画は最後まで物語らしい物語を描かないまま、人が夜になると眠るように、ここで終わりとばかりに自然と幕を閉じてしまう。しかし、鑑賞後には何とも言えない余韻が残る。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れている。そして、平凡な日常の中に何かしらの意義を持って生活することの大切さを微笑ましいユーモアを交えて描いていることに気づかされる。

パターソンの1日は決まっている。朝6時に目を覚まし、妻ローラにキスをする。朝食を食べ、職場に向かう。バス運転手としての仕事をこなし、休憩時間に詩をノートに書く。帰宅するとローラと夕食を食べ、その後は愛犬と夜の散歩に出かける。行きつけのバーに顔を出し、ビールを1杯飲む。そして家に帰り、ローラと共に眠る。
映画の中で描かれるパターソンの1週間の日常は、基本的にこの一連の生活習慣の繰り返しである。しかし、確かにパターソンがとる1日の行動はいつも同じであるが、周囲の状況は常に変化している。例えば、パターソンがいつも立ち寄るバーでは黒人のカップルの喧嘩が日を追うごとにエスカレートしていく。他にも、妻ローラがギターを買ってきて「線路の歌」を歌いだしたり、ケーキを作って市場に出かけていったりする。パターソン自身も詩を書く少女と出会ったり、尊敬するW・C・ウィリアムズを好きな日本人の詩人と出会ったりする。
パターソンの行動パターンは常に一貫しているため、一見すると彼がおくる日々に全く変化がないように感じられるが、実際には周囲の状況は日を追うごとに変化していき、それを刺激としてパターソンは詩を書いていく。パターソンは意識的か無意識的か分からないが、一貫した行動パターンを送りながら、日々変化する日常をじっくり体感し、自分だけの詩を生み出す習慣を確立しているといえる。

パターソンのこのような生き方は、忙しい日常をおくる現代人には縁が遠いものに映るだろう。自分で好きに忙しく生きている人はピンとこないかもしれないが、自分の時間を犠牲にしてまで忙しく生きている人には、パターソンの生き方は新鮮に感じられる可能性が高い。なぜなら彼は日々変化する日常を体感することで自分の時間を生きているからだ。それだけの余裕や落ち着きがあるからこそできる行為でもある。パターソンは日々変化していく日常を一分一秒ごとに体感している。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れているように感じられるのは、日々変化する日常をパターソン自身が愛しく思っているからだ。
1日の流れの端々に描かれる些細な出来事にも独特なユーモアが感じられるのは、パターソン自身がその些細な出来事が起きている時間さえも体感している証拠といえる。余裕がなく忙しく生きていればその些細な出来事は無関心によって省略され、なかったことにされる。知らぬ間に自分の時間が失われていく虚しさを味わうこともある。しかし、余裕を持ってその些細な出来事に関心を持てば、新しい視点や新しい気づきを発見することがある。今まで見えてこなかったもの、知らなかったものに出会える瞬間は誰しもありがたいと感じるのではないだろうか。そのため、自分の時間を生き、自分の時間を確かに体感している人たちは、例えそれが代わり映えしない日常だったとしても、愛しさを抱きながら日々をおくる。パターソンもその一人だといえる。

『パターソン』のパターソン市に住むパターソンが送る日常は、自分の時間を体感することを省略して生きている現代人に良く生きるヒントを与えたといえる。それはその人たちが忙しさを理由に忘れてしまった自分の時間を体感する意義や、そこから見えてくる気づき、新しい何かを発見あるいは生み出す生産的な発想。そしてそれらを愛しく感じる人間の、愛の感情である。

(text:成宮秋祥)




『パターソン』
2016/118分/アメリカ

脚本/監督:ジム・ジャームッシュ

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月26日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月10日日曜日

映画『草原に黄色い花を見つける』評text成宮秋祥

「ベトナムの大地から広がる人間の深い愛」


美しい映画を観た。ただ美しいのではない。1980年代のベトナムで、貧しさと共に生きる人々の中に、確かな人間の愛を実感できたからだ。あらゆる国の人たちが共感できる青春の息吹、初恋の香り、そして人間への深い愛情が本作には溢れている。観る者を幸福にする美しさがそこかしこに鏤められていた。

思春期を迎えたティエウは、近くに住む少女ムーンが気になっている。ティエウにはトゥオンという純粋な心を持った弟がいて、いつも仲良く暮らしている。ある日、ムーンの家が火事になり、ムーンはティエウとトゥオンの家で暮らすことになる。次第にムーンに恋心を募らせるティエウだったが、ムーンと仲良く遊んでいるトゥオンに嫉妬心を抱いてしまい……。

本作を観ると、岩井俊二の映画を思い浮かべてしまう。映像はノスタルジックでそれでいてどこか脆さがあって美しく、登場する子どもたちは純粋さと邪悪さの間で悩み苦しみながらそれぞれの青春を生きている。この映画でも岩井俊二の映画に共通する子どもの純粋さと邪悪さが、時に繊細に、時に禍々しく交錯して描かれている。
それはティエウの視線で表現されている。ムーンに惹かれ、心を奪われたような儚い表情でムーンを見つめるティエウの視線には、人を思うことに目覚めたティエウの純粋さが感じられる。また、ムーンがトゥオンと仲良くしているところを陰で見つめるティエウの冷たい視線には、戦慄を覚えるような禍々しさが感じられる。
思春期の子ども特有の複雑な心の揺れを、この映画はベトナムの広大な大地を舞台に、素朴に自然な形で表現していて味わい深い。

この映画は人間の深い愛を描いた映画だ。ティエウとトゥオンの関係は、聖書におけるカインとアベルの関係を彷彿とさせる。神に愛されたアベルに嫉妬した兄のカインは、憎しみのあまりアベルを殺してしまう。ティエウもまた、ムーンと仲良くしているトゥオンに嫉妬し、強い怒りを抱きトゥオンを傷つけてしまう。
深く後悔するティエウは、ムーンと仲良くなっていくトゥオンが許せず冷たく接したり、意地悪したりしたことを思い出す。しかし、純粋なトゥオンは傷つけられてもティエウを愛し続けていた。トゥオンの純粋な愛情に心を打たれたティエウは、思春期の複雑な心理状態から人を思いやる大人の心に目覚めていく。
物語の後半は、ティエウの初恋の物語からトゥオンへの贖罪の物語に移り変わり、映画の風情もノスタルジーからファンタジーの色合いにシフトしていく。この突然の変容も自然で違和感なく、観る者を魅せて飽きさせない。

監督を務めたヴィクター・ヴーは、アメリカ・ハリウッドで映画製作を学んだ。そのためか、ベトナムの貧しい村の人々の映像描写にはどこか都会的な洗練されたものが感じられる。より現実に近い土着的な風情を出す方法もあるが、この都会的なキラキラした映像感覚の方が、ある種の幻想性を秘めた本作には適していたと思われる。
映画の最先端を行くハリウッドで映画製作を学んだヴー監督は、間違いなくベトナム映画界に新鮮な風を呼んだといえる。かつてアメリカ映画がフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与え、フランス映画の時代が進展したように、ベトナム映画も新しい時代に進もうとしているのかもしれない。『草原に黄色い花を見つける』は、新しい時代に力強く進もうとする意志に溢れながらも、その内面は人間の深い愛を描き抜いた真に美しい映画だ。

(text:成宮秋祥)


『草原に黄色い花を見つける』
2015/103分/ベトナム

監督:ヴィクター・ヴー

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月19日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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