2017年9月27日水曜日

映画『散歩する侵略者』評text成宮秋祥

「奪うことしか知らない者がたどり着いた最も尊い概念とは?」


※こちらの文章では一部、映画の結末に触れている箇所があります。

宇宙人の侵略を描いた映画は、さほど珍しいとはいえない。21世紀に入ってからは、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』(2005)や、昨年に日本でも上映された J・J・エイブラムス製作の『10 クローバーフィールド・レーン』(2016)など、大作から低予算映画にいたるまで宇宙人の侵略を描いた映画はこれまでも数多く製作されている。
本作の見どころは、ジョン・カーペンターやトビー・フーパーといったアメリカB級映画の巨匠の作品から強く影響をうけた黒沢清が、宇宙人の侵略を描いた映画を撮るとどのような映画になるか? に尽きると思われる。特に、この映画の物語がカーペンターの『スターマン/愛・宇宙はるかに』(1984)の物語に類似している点なども、その期待に拍車をかけているといえる。
しかし、実際に映画を観てみると、たしかに宇宙人の侵略を描いたSFスリラー映画のような雰囲気は冒頭から十分に感じられるのだが、次第に、映画はSFスリラー映画のような雰囲気から乖離していき、この世とは思えない地平に我々を導いていく。これは黒沢清の映画にはよく見られる展開ではある。だが、黒沢清の映画は、画面から発する異様な引力を持って我々をぐいぐい引っ張っていきながら、最後には突き放し、困惑や混乱をもたらすのに対し、本作は優しく両手で包み込むような愛情の深さが感じられた。それは、この映画のテーマが“愛”であり、そして愛をめぐる夫婦の物語だからだ。

本作を観て、似たような方向性で撮られた黒沢清の映画に『岸辺の旅』(2015)を想起する人がいると思われる。あちらは幽霊を物語に取り入れ、幽霊となった夫とそれを迎える妻の奇妙な日常生活を描いている。単純に考えると、本作で松田龍平が演じる加瀬真治という夫は、『岸辺の旅』の幽霊となった夫を、宇宙人に憑依された夫に置き換えたに過ぎない。それだけだとすると、ただの焼き直しになってしまうのだが、それでも新鮮な感覚でこの宇宙人に憑依された夫である真治を、我々が観ることができるのは、真治の心が空っぽだからだ。生まれたての赤ん坊のように何も知らない状態で、長澤まさみが演じる妻、鳴海と出会う。しかし、二人の夫婦仲はすでに冷めきっていて、真治はそのような状況を理解できないまま、鳴海と奇妙な日常生活をおくっていくことになる。
心が空っぽであるがために、好奇心を輝かせ、鳴海の迷惑を顧みずあらゆる事柄に興味を示す真治。彼の奇妙な言動に苛立ちながらも、まるで母親のような態度で過保護に面倒を見る鳴海。二人のやりとりは、とても宇宙人の侵略を描いた映画とは思えないほどほのぼのと描かれている。このほのぼのとした描かれ方は、この夫婦の仲が完全には冷めきってはいないことをほのめかしている。人間関係が完全に冷めきった場合、お互いに無関心になり、自然と関係性が消滅していく。しかし、彼らはお互い離れたりはせず一緒に暮らしている。宇宙人に憑依された真治は人間を知ろうとする好奇心のため鳴海のそばにいるのかもしれないが、鳴海の場合はどこかに真治を再び愛したい、あるいは真治に再び愛されたいという願望があったのではないだろうか。そう思わせるほど、鳴海の言動は、苛立っているようでどこか真治に対して愛情深いものを感じさせる。
この映画の一番の特色は、宇宙人が人間の“概念”を奪う特殊能力を持っているという奇抜な設定にある。この人間の概念を奪うという行為自体がメインに描かれると、映画は途端に政治的な相貌に変容していく可能性がある。原作にあたる戯曲を書いた前川和大は、概念が奪われることで人が何かを理解することを失う恐怖を表現しようとした一方、概念が奪われたことで幸福になる場合――概念の喪失によって恐怖と幸福が背中合わせになって生まれてくるということ――を表現しようとしたと語る。この恐怖とともに生まれる幸福というのは、広い意味で例えると、国という概念が失われた場合、国という概念の理解が失われるため、国同士が争うという行為の意味が通らなくなるため、国家間の戦争がなくなる可能性が生まれる。これを幸福と捉えることもできるということである。
もちろん、本作でも“所有”の概念を奪われた満島真之介が演じる丸尾が、物を所有することで奪い合いや争いが起きてしまうことの愚かさを民衆の前で説く場面がある。これは明確な反戦メッセージといえる。概念を奪われたあとの丸尾の表情は異様に清々しい。断捨離やミニマリズムといった思想が流行っている現代日本において、丸尾の発言には強い説得力が感じられる。
ただし、こうした政治性を帯びた場面はごく一部であり、どちらかというと物語は、宇宙人に憑依された真治が人の概念を奪うことでどのように変化していくのか、そして真治と鳴海の夫婦生活はどのような展開を迎えていくのかが主軸になっている。

宇宙人が人の概念を奪うという行為は、言いかえれば一方通行のコミュニケーションと捉えることができる。これは悲しいことである。宇宙人たちは人から概念を奪うという行為でしか物事の意味を理解することができない。それと同時に、彼らは誰かに何かを与えるという行為を知らない。これは与えるという概念を知らないだけだということは明白である。そして彼らは“与える”の対になる“奪う”という概念も知らないのだが、奪うという行為そのものは実行できるのである。
これには2つの意味があると思われる。1つは任務のため。もう1つは自分たちの知的好奇心を満たすめである。任務だからやっているという動機は、言いかえると思考停止の状態を指す。また、受け身の状態でもあり、本人の意思は存在していない。しかし、真治のように人の概念を奪っていくにつれて、人間に興味を抱くようになっていき、次第に、鳴海を愛するようになっていった行動の根底には、純粋に人間のことを知りたいという知的好奇心を強く持つ彼の本能的な欲望が関係しているといえる。
宇宙人に憑依された真治は、生まれたばかりの赤ん坊のように空っぽの心を持ったイノセントな存在として位置づけられている。そして、イノセントな存在として描かれる真治が人の概念を奪っていく行為は、やはり悲しいのである。これは人の概念を奪ったあと、その概念を持ち主に返すことが不可能だからである。人の概念を奪うという一方通行のコミュニケーションを行い、自分自身の人間に対する理解力が増しても、概念を奪われた持ち主は別の人格に変容しているため、真治が概念の持ち主と良好なコミュニケーションを図ることはそもそも困難なのだ。
奪うことでしか相手を理解できず、奪ったとしても相手が急激に変わってしまい、結局お互いに理解しあえない。真治と人間とのコミュニケーションには、越えることの難しい、見えない“壁”が存在している。この壁が劇中で崩れることはなく、あくまで真治は、人から概念を奪い続けることで人間を理解し、鳴海を深く愛するようになっていく。そして真治は、“愛”という概念を理解したいと思うようになり、最終的に、ある事情から鳴海の愛の概念を奪ってしまう。
鳴海から愛の概念を奪うまで、真治は愛の概念こそ理解できないでいたが、決して愛の行為がなかったとはいえない。例えば、二人で食事を食べる場面では、宇宙人に憑依される前の真治は嫌いな食べ物を絶対に食べなかったが、宇宙人に憑依されたあとの真治は、鳴海が作った食べ物は何でも食べるようになっていた。これは概念を奪い続けるうちに真治の記憶を獲得した宇宙人が、心の開いた状態の真治を真似たのか、それとも宇宙人と真治の意識が統合され、鳴海を愛する新しい真治が無意識にとった行動なのかは明確には示されない。ただし、少なくともこの真治の態度の変化には間違いなく愛があったといえる。
愛という行為自体は行えているのに、愛の概念を理解していない真治は、鳴海から愛の概念を奪うことで、愛することの本質を知る。愛の概念を奪われた鳴海は感情の豊かな性格が変容し、無情の人となってしまう。そんな鳴海に対して愛を理解した真治は、ずっと鳴海のそばにいることを選択する。本作が描こうとした愛とは、“償い”という愛である。

黒沢清が尊敬するアメリカ映画の巨匠サミュエル・フラーの初期の作品に『地獄への挑戦』(1949)という西部劇がある。これは実在した西部のアウトロー、ジェシー・ジェームズを暗殺したボブ・フォードの悲しい末路を描いた映画である。富や名声、愛する女性との幸せな生活のために丸腰のジェシーを背後から暗殺したボブは全てを手に入れたかに見えたが、すぐに落ちぶれ、彼を暗殺したことを後悔し続けた挙句、自らも無残な最期を遂げる。実は、ジェシーを心から尊敬し愛していたボブは、死ぬ間際にジェシーへの愛を呟いて果てる。
人から概念を奪うことしかできない真治は、『地獄への挑戦』のボブのように、愛する鳴海の愛の概念を奪うという取り返しのつかないことをしてしまう。ジェシーとは違い、鳴海は死んでいないが、その愛の概念は失われている。愛を理解した真治にとって、鳴海のその変容はとてつもない悲劇である。しかし、『地獄への挑戦』のように救いようのない悲劇とは言い難い。なぜなら、愛というのは内面から湧き出てくるものであり、そして人に与えられるものであることを真治は理解しているからだ。そこまでの理解を促したのは、鳴海の愛に対する理解の賜物である。彼は奪うという行為と対になる“与える”という行為を理解した。だからこそ、真治は償いという愛をもって鳴海のそばに居続ける。鳴海の愛の再生を信じて。
本作は、奇抜なアイデアによって彩られたSFスリラーの仮面を被った、一組の男女のあまりにも純粋な“愛”の喪失と再生を描いた美しいロマンスである。

(text:成宮秋祥)




『散歩する侵略者』
2017/129分/日本

監督:黒沢 清

公式ホームページ:http://sanpo-movie.jp/

劇場情報
9月9日より全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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