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2018年12月21日金曜日

映画『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』評text成宮 秋祥

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』に見る成瀬巳喜男の面影

 
感動は、後からついてくる。
 多くの場合、映画は感情を揺さぶる役割を担っている。映画を観始めてから、終わるまで、人は、その映画から無数の感情を引き出される。劇場を去る頃には、ある種の満足感を感じていることだろう。
 しかし、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、観ている間ずっと何かしらの感情が揺さぶられることはなかった。どちらかというと、ストーリーがどこに進んでいくのか、そこにばかり気を取られてしまい、映画が終わった瞬間には、まるで映画そのものから突き放されてしまったような途方もない状態だった。
 この映画を観て、感動したところはいったい何だったのだろうか? 実は、何も感動なんてしていなかったのかもしれない。何かしら、感情を揺さぶられるような場面を一切用意していなかったのかもしれない。では、この映画は失敗作だったのか? 決して、そうではない。
 鑑賞してから、数日が経過していくと、少しずつだが映画のイメージを思い出すようになった。そして、映画のストーリーが頭の中で何度も繰り返し映写されていき、暗い街に灯がともるように、映画を観ていた時に感じていた無数の感情を、今になって感じ始めたのである。まるで、失われた記憶を取り戻していくような独特な感覚を体験した。
 このような体験は、実は他にもある。成瀬巳喜男の『乱れる』(1964)で似たような体験をしたことがある。高峰秀子が演じる主人公は、加山雄三が演じる義弟に愛を告白されるが、亡夫のことが忘れられず、最終的には拒んでしまう。その夜、酒場で飲んだくれた加山は、電話で高峰に別れを告げる。翌朝、高峰は町人から加山が事故で死んだことを知らされる。運ばれていく加山の遺体を呆然とした表情で眺める高峰の顔を写したカットを最後に映画は唐突に幕を下ろしてしまう。
『乱れる』は、ある男女の許されぬ恋愛を描いている。そのため、この男女が愛し合い、憎み合い、付き添ったり、離れたりを繰り返していく過程を見守りつつ、最終的に結ばれるのか、それとも別れるのかを我々は目撃して、その間に感じていた感情に一応の決着をつけるのである。
 しかし、加山が死ぬ場面すら映さず唐突に死んでしまうので、我々はここにいたるまでの間に感じていた無数の感情を見いだせぬまま、劇中の高峰のようにただ呆然とすることしかできない。すると何か納得できない気持ちが起きて、この映画を観て感じていた無数の感情を、まるでなかったかのように記憶から忘れ去ってしまい、さもあの映画は何だったろうか? 何を描いた映画だったのだろうか? と自らに聞き返してしまうのだ。
 それでも、やはり数日も経てば、我々は『乱れる』が、ある男女の許されぬ恋愛の果てに待ち受ける悲劇を描いた映画なのだと納得するにいたる。それは例えば、気にかけていた義弟の加山を一人の男として認識してしまった高峰の心の揺れ動きや、高峰の愛欲しさに放蕩息子をやめて真面目に働こうとする加山の変化が、頭の中で何度も繰り返し映写されたことで、改めてその時に味わった無数の感情を思い出し、この二人の恋愛の果てには、逃げ場のない悲劇が待っていたことを、ようやく理解したためである。
 あまりに良い映画だったからこそ、『乱れる』のこの唐突な幕切れは大きなショックだったのだ。実のところ、このまま終わらなければいいという密かな思いを抱くほど、ストーリーにも映像にもどっぷりはまって観ていたのに、それが絶たれてしまった時の物悲しさが、映画を観ていた時に感じていたはずの感情を忘れさせていたのかもしれない。
 そういう意味でいえば、『乱れる』は観る者の心を打つ素晴らしく良い映画である。だからこそ、これと似た体験をした『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』も紛れもない素晴らしく良い映画であったといえる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』のストーリーはいたって単純である。
アメリカの田舎町にある一軒家に一組の夫婦が住んでいた。作曲家の夫C(ケイシー・アフレック)はこの家を気に入っていたが、妻M(ルーニー・マーラ)は別に街に移りたがっていた。ある日、Cが事故で亡くなってしまい、Mは悲しみに暮れる。Cは幽霊となってMの元に帰っていくのだが……。
 この映画は、幽霊を描いた映画である、と同時に、変化を望まない男と変化を望む女の愛と確執を描いた映画でもある。Mを愛するCは、幽霊となってC自身が気に入っていた家で悲しみに沈むMに寄り添い続ける。幽霊となったCの役割は、Mへの愛と、家への思いを守り続けることである。反対にいえば、この二つがCに残っているからこそ、幽霊で在り続けているのだといえる。
 しかし、変化を望むMはいつまでも悲しみ続けてはいられない。ある日、新しい恋人と出会った彼女は、壁の隙間に手紙を残して家を出ていってしまう。家に取り残されたCはただひたすら虚しく時間が過ぎていくのを待つことになる。
 ここで幽霊となったCの役割の一つであるMへの愛を守り続けることができなくなってしまった。もう一つの役割である家への思いを守ることも居住者が何度も移り変わっていく光景を目の当たりにし、次第に虚しさを感じ始めていく。
 いわゆる超常現象的な描写には、Cの苛立ちや怒りの感情が混在していると思われる。
例えば、新たに居住してきたヒスパニック系一家の団らんの席でCは心乱れたようにキッチンの食器類を破壊してまわる。ヒスパニック系一家の視点からすれば、超常現象による恐怖体験をしたと感じるだろうが、Cの視点からすれば、自分とMだけの家に別の居住者がいるという事実に対する苛立ちと怒りの感情が伝わってくる。しかし、Cの元にMが戻ってくることはない。居住者は変わり続け、時間はどんどん過ぎていき、やがて家は取り壊されてしまう。ついに家をなくしたCは幽霊となって果たすべき役割を全て失い、完全なる空虚感を味わう。
 愛するMと家を失ったCは、次第に時空を飛び越え、未来に、過去に、飛んでいき、そして再び現代に、CとMが家に住み始めた頃に飛んでいく。
 この時間旅行の場面は、Mと家という自分の心の拠り所を失ったCがあてもなく時間の流れをさまよっていくという悲しい場面に見える。しかし、Mと家を守ろうとしていたCは、Mと家に対する思いに自ら囚われていたともとれて、見方を変えれば、彼は自分自身の思いから自由になったとも見える。幽霊という特殊な存在になっても、時間の流れには逆らえないという現実的な残酷さが彼の思いを壊し、同時にその思いから解き放ったともいえる。
 CとMが家に住み始めた頃の時代に戻った幽霊は、まるでお別れでもするかのように、じっくりと静かに二人の様子を見守っていく。幽霊にとって、二人が過ごす日々は、かけがえのない思い出そのものである。その全てを再確認した時、彼はMが壁の隙間に隠した手紙を取り出し、読み上げ、消えていってしまう――映画はここで終わる。

『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』と、冒頭で紹介した『乱れる』の結末には、決定的な違いがある。
『乱れる』は、加山雄三という男の死によって終わる映画だ。そして加山が死んだことで、我々は加山の遺体の前で呆然と立ち尽くす高峰秀子と同じように、加山の唐突な最期を理解しきれないまま、複雑な思いを体験することになる。その後になって、じわじわと、加山が死んだことで、高峰と加山の男女の関係が完全に終わってしまったことを理解し、『乱れる』が真に悲劇的な映画だったことを受け入れざるを得なくなる。
反対に、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、Cという男の死によって始まる映画である。死んだCが幽霊となって愛するMと家に対する思いに囚われ、執着しながらも、やがて解き放たれ、そして自らの思いに決着をつけることで、幕を下ろしている。この幽霊の消失と、『乱れる』の加山の死とは意味合いが異なる。加山の死は、高峰との関係性の完全な断絶を意味する。だからこそ、悲劇的なのである。しかし、幽霊の消失には、多様な可能性を見出すことが可能である。悲しみの視点で見れば、無に帰ったかもしれないと捉えることも可能だが、前向きな視点で見れば、新しい命として生まれ変わっていったのかもしれないと捉えることも可能である。
 だからこそ、『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』は、悲劇的なストーリーであると同時に、多様な可能性を見出すことが可能な素晴らしく感動的なストーリーである――という事実を、我々は時の流れとともに理解していくだろう。

(text:成宮秋祥)


『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』
2017年/アメリカ/92分

監督/脚本/編集:デビッド・ロウリー
撮影:アンドリュー・D・パレルモ

キャスト:ケイシー・アフレック
     ルーニー・マーラ

公式ホームページ:http://www.ags-movie.jp/

劇場情報:新宿シネマカリテ他にて上映中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥(Akihiro Narimiya)

映画好きです。職業は介護福祉士です。映画ライターもしています。ことばの映画館、neoneo web、THE RIVERなどに寄稿しています。 2017年まで映画オフ会、映画を語る会を主催してました。

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2017年10月28日土曜日

映画『ミスムーンライト』評text成宮 秋祥

『ミスムーンライト』と『ムーンライト』に共通する“新しい魂”について


今年に発表された第89回アカデミー賞は、これまでのアカデミー賞とは比較にならないほど大きな話題を呼んだ年だった。最多となる14部門ノミネートを果たしたミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』(2016)が、当初は作品賞の最有力とされていたが、アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマに、オール黒人キャストで製作された低予算のインディペンデント映画『ムーンライト』(2016)が作品賞を受賞したからだ。

『ムーンライト』は、一人の黒人男性の少年期と青年期、そして成人期を3つの章として分けて、それぞれの時代での黒人男性の心理の行方を繊細に描いている。あまりにもこじんまりした小さな世界の出来ことをカメラに収めた『ムーンライト』は、ハリウッドのメジャー映画会社が製作する映画のような華やかなイメージとは無縁な、明らかにインディペンデント映画らしい雰囲気の小品である。

『ムーンライト』は、 本来はアカデミー賞と縁の遠い映画でもあったように思われる。アメリカ映画でもタブーとされている同性愛をテーマにしているのもその理由の一つだ。しかし、ここ数年続く白人俳優ばかりがアカデミー賞にノミネートされる、いわゆる“白すぎるオスカー”を払拭するように、『フェンス』(2016)や『ドリーム』(2016)など黒人俳優が出演する映画が複数好評を博したということと、反トランプを象徴するメッセージ性が第89回アカデミー賞には込められたこともあり、結果として、アカデミー賞とは一番縁の遠そうな『ムーンライト』が作品賞を受賞した。

インディペンデント映画の強みは、自由な発想で映画が製作できるところにある。資金繰りや宣伝なども限られた条件の中でやっていくので製作者側の負担が多い面も確かにあるが、何にも縛られることなく自由に映画製作ができること自体は、多くの映画作家が求める環境のように思われる。『ムーンライト』のアカデミー作品賞を受賞した同じ年に、日本でも自由な発想のもとに意欲的なインディペンデント映画が上映されることとなった。松本卓也監督による『ミスムーンライト』である。

『ミスムーンライト』の製作のきっかけは至極単純である。松本監督の『グラキン★クイーン』(2010)や『花子の日記』(2011) のプロデューサーから、「若手の女優やグラビアアイドルを多数キャストに起用した映画を水着ありで撮れないか?」という話を受けたのがことの発端だという。この条件が守られれば、あとは自由に創作してよいという状況にいたった松本監督は、オリジナル脚本を自ら執筆し、映画製作にとりかかった。

物語は、地方の高校に通う女子高生たちが、地元のPR映像を製作していくところから始まる。高校の映像部に所属するマキは、PR映像の出来が平凡で面白くないことに不満があり、撮り直すことにする。そして、新しい企画案を閃いたマキは、映像部員たちや顧問の教師を説得し、春休みの合宿で再撮影を行うことになる……。

本作は、アイディアありきの映画である。つまり、水着を着た女優やグラビアアイドルを出演させることが先んじていて、物語や登場人物の設定は、後からつけ足されたものといえる。そのため、登場人物の行動はどこかぶっ飛んでいる。主人公のマキが、なぜ地元のPR映像に水着を着た人たちを撮ることに拘ったのだろうか。具体的な目的やビジョンが不透明で、何となくマキが狂った人にしか見えない。また、マキたち映像部の撮影に協力する元映像ディレクターの博和も、海辺で水着を着た女性の幻にうろたえたり、叫んだりと様子がおかしく描かれる。マキにしても博和にしても、そのような行動をとる理由があるにはある。しかし、ことの真相が分かってもドラマのボルテージは一向に上がっているようには思えず、むしろ緩いムードのままである。ほとんど確信犯的に一貫して緩いムードのまま、映画は大勢の水着の女優をスクリーンに映す方向に持っていく。ドラマなんてあるようでない。あくまで、水着の女優たちの視覚的なインパクトで魅せようとする映画となっている。

これでは、大勢の水着の女優を眺めるのを楽しむ映画に過ぎないように思えてくる。観客に娯楽を提供するという意味では、その試みは間違ってはいないといえる。では、映画としての見応えはないのかというと、必ずしもそうとは言えない。思わず感動を覚える映画には、ある共通点が存在する。それは、映画に信念が込められているかどうかだ。この映画には信念がないのだろうか。しかし、マキたちの行動に一貫した信念があることに気づく。彼女たちは、地元のPR映像のために水着の女優たちを撮るのではなく、自分たちが面白いという映像を描くために水着の女優たちを撮っているということだ。

マキたちの面白い映像を撮ろうとする信念は、自由な発想によってオリジナリティ溢れる映画を撮ろうとする松本監督の信念の投影といえる。過去のインタビューにおいて、松本監督は、予算のある商業映画に対抗できるのは、自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画だと語っている。こうして考えてみると、一般にいう地元のPR映像が予算のある商業映画で、水着の女優たちを集めた映像が自由な発想で生み出されたオリジナリティのある映画であると、対比して観ることもできる。マキたちのぶっ飛んだ行動は、ある意味で松本監督の生き様そのものなのかもしれない。

何者にも縛られずに自分たちの面白いと思った映像を最後まで撮り上げたマキたちの笑顔には、このまま上手くいくかもしれないという根拠のない希望が漲っている。役所から水着の女性を出すことを強く批判されたり、地元の人たちから水着で出ることを拒否されたりしながらも、自分たちの面白い映像を撮りたいという思いを貫いて、プロの女優を呼び出して、地元の人たちを再説得して、誰もやりそうにない周囲から驚かれる企画を最後まで諦めずにやり切ったのだから、良いも悪いも関係なく、マキたちの意志の強さに、只々凄いと、思わず唸ってしまう。冒頭でも述べたが、インディペンデント映画は予算もないし、製作者側の負担が大きいながら、色々な縛りが存在する形式の完成された商業映画の枠(本作でいうところの地元のPR映像)に縛られず、自分たちの撮りたいものを撮れる。それこそが商業映画のように感動の図式が完成された映画ではなく、作り手の自由な発想によって生み出された、思わず感動してしまう可能性を秘めたオリジナリティのある映画である。このような映画には、生命力に満ち溢れた新しい魂を感じる。この新しい魂を持った映画は、時に大きな奇跡を起こすことがある。アカデミー賞向きではなかった『ムーンライト』が作品賞を獲ってしまったように。『ミスムーンライト』もまた、この新しい魂を持った映画だ。今後どのような奇跡が起きてしまうのか、期待が高まる。

(text:成宮秋祥)



『ミスムーンライト』
 2017年/120分/日本

監督:松本卓也

公式ホームページ:http://miss-moonlight.weebly.com/

劇場情報
全国順次公開中

シネマート新宿にて、11月4日(土)~11月10日(金)レイトショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akihiro Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneo web、映画みちゃお!、THE RIVER寄稿)。

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2017年9月27日水曜日

映画『散歩する侵略者』評text成宮秋祥

「奪うことしか知らない者がたどり着いた最も尊い概念とは?」


※こちらの文章では一部、映画の結末に触れている箇所があります。

宇宙人の侵略を描いた映画は、さほど珍しいとはいえない。21世紀に入ってからは、スティーヴン・スピルバーグの『宇宙戦争』(2005)や、昨年に日本でも上映された J・J・エイブラムス製作の『10 クローバーフィールド・レーン』(2016)など、大作から低予算映画にいたるまで宇宙人の侵略を描いた映画はこれまでも数多く製作されている。
本作の見どころは、ジョン・カーペンターやトビー・フーパーといったアメリカB級映画の巨匠の作品から強く影響をうけた黒沢清が、宇宙人の侵略を描いた映画を撮るとどのような映画になるか? に尽きると思われる。特に、この映画の物語がカーペンターの『スターマン/愛・宇宙はるかに』(1984)の物語に類似している点なども、その期待に拍車をかけているといえる。
しかし、実際に映画を観てみると、たしかに宇宙人の侵略を描いたSFスリラー映画のような雰囲気は冒頭から十分に感じられるのだが、次第に、映画はSFスリラー映画のような雰囲気から乖離していき、この世とは思えない地平に我々を導いていく。これは黒沢清の映画にはよく見られる展開ではある。だが、黒沢清の映画は、画面から発する異様な引力を持って我々をぐいぐい引っ張っていきながら、最後には突き放し、困惑や混乱をもたらすのに対し、本作は優しく両手で包み込むような愛情の深さが感じられた。それは、この映画のテーマが“愛”であり、そして愛をめぐる夫婦の物語だからだ。

本作を観て、似たような方向性で撮られた黒沢清の映画に『岸辺の旅』(2015)を想起する人がいると思われる。あちらは幽霊を物語に取り入れ、幽霊となった夫とそれを迎える妻の奇妙な日常生活を描いている。単純に考えると、本作で松田龍平が演じる加瀬真治という夫は、『岸辺の旅』の幽霊となった夫を、宇宙人に憑依された夫に置き換えたに過ぎない。それだけだとすると、ただの焼き直しになってしまうのだが、それでも新鮮な感覚でこの宇宙人に憑依された夫である真治を、我々が観ることができるのは、真治の心が空っぽだからだ。生まれたての赤ん坊のように何も知らない状態で、長澤まさみが演じる妻、鳴海と出会う。しかし、二人の夫婦仲はすでに冷めきっていて、真治はそのような状況を理解できないまま、鳴海と奇妙な日常生活をおくっていくことになる。
心が空っぽであるがために、好奇心を輝かせ、鳴海の迷惑を顧みずあらゆる事柄に興味を示す真治。彼の奇妙な言動に苛立ちながらも、まるで母親のような態度で過保護に面倒を見る鳴海。二人のやりとりは、とても宇宙人の侵略を描いた映画とは思えないほどほのぼのと描かれている。このほのぼのとした描かれ方は、この夫婦の仲が完全には冷めきってはいないことをほのめかしている。人間関係が完全に冷めきった場合、お互いに無関心になり、自然と関係性が消滅していく。しかし、彼らはお互い離れたりはせず一緒に暮らしている。宇宙人に憑依された真治は人間を知ろうとする好奇心のため鳴海のそばにいるのかもしれないが、鳴海の場合はどこかに真治を再び愛したい、あるいは真治に再び愛されたいという願望があったのではないだろうか。そう思わせるほど、鳴海の言動は、苛立っているようでどこか真治に対して愛情深いものを感じさせる。
この映画の一番の特色は、宇宙人が人間の“概念”を奪う特殊能力を持っているという奇抜な設定にある。この人間の概念を奪うという行為自体がメインに描かれると、映画は途端に政治的な相貌に変容していく可能性がある。原作にあたる戯曲を書いた前川和大は、概念が奪われることで人が何かを理解することを失う恐怖を表現しようとした一方、概念が奪われたことで幸福になる場合――概念の喪失によって恐怖と幸福が背中合わせになって生まれてくるということ――を表現しようとしたと語る。この恐怖とともに生まれる幸福というのは、広い意味で例えると、国という概念が失われた場合、国という概念の理解が失われるため、国同士が争うという行為の意味が通らなくなるため、国家間の戦争がなくなる可能性が生まれる。これを幸福と捉えることもできるということである。
もちろん、本作でも“所有”の概念を奪われた満島真之介が演じる丸尾が、物を所有することで奪い合いや争いが起きてしまうことの愚かさを民衆の前で説く場面がある。これは明確な反戦メッセージといえる。概念を奪われたあとの丸尾の表情は異様に清々しい。断捨離やミニマリズムといった思想が流行っている現代日本において、丸尾の発言には強い説得力が感じられる。
ただし、こうした政治性を帯びた場面はごく一部であり、どちらかというと物語は、宇宙人に憑依された真治が人の概念を奪うことでどのように変化していくのか、そして真治と鳴海の夫婦生活はどのような展開を迎えていくのかが主軸になっている。

宇宙人が人の概念を奪うという行為は、言いかえれば一方通行のコミュニケーションと捉えることができる。これは悲しいことである。宇宙人たちは人から概念を奪うという行為でしか物事の意味を理解することができない。それと同時に、彼らは誰かに何かを与えるという行為を知らない。これは与えるという概念を知らないだけだということは明白である。そして彼らは“与える”の対になる“奪う”という概念も知らないのだが、奪うという行為そのものは実行できるのである。
これには2つの意味があると思われる。1つは任務のため。もう1つは自分たちの知的好奇心を満たすめである。任務だからやっているという動機は、言いかえると思考停止の状態を指す。また、受け身の状態でもあり、本人の意思は存在していない。しかし、真治のように人の概念を奪っていくにつれて、人間に興味を抱くようになっていき、次第に、鳴海を愛するようになっていった行動の根底には、純粋に人間のことを知りたいという知的好奇心を強く持つ彼の本能的な欲望が関係しているといえる。
宇宙人に憑依された真治は、生まれたばかりの赤ん坊のように空っぽの心を持ったイノセントな存在として位置づけられている。そして、イノセントな存在として描かれる真治が人の概念を奪っていく行為は、やはり悲しいのである。これは人の概念を奪ったあと、その概念を持ち主に返すことが不可能だからである。人の概念を奪うという一方通行のコミュニケーションを行い、自分自身の人間に対する理解力が増しても、概念を奪われた持ち主は別の人格に変容しているため、真治が概念の持ち主と良好なコミュニケーションを図ることはそもそも困難なのだ。
奪うことでしか相手を理解できず、奪ったとしても相手が急激に変わってしまい、結局お互いに理解しあえない。真治と人間とのコミュニケーションには、越えることの難しい、見えない“壁”が存在している。この壁が劇中で崩れることはなく、あくまで真治は、人から概念を奪い続けることで人間を理解し、鳴海を深く愛するようになっていく。そして真治は、“愛”という概念を理解したいと思うようになり、最終的に、ある事情から鳴海の愛の概念を奪ってしまう。
鳴海から愛の概念を奪うまで、真治は愛の概念こそ理解できないでいたが、決して愛の行為がなかったとはいえない。例えば、二人で食事を食べる場面では、宇宙人に憑依される前の真治は嫌いな食べ物を絶対に食べなかったが、宇宙人に憑依されたあとの真治は、鳴海が作った食べ物は何でも食べるようになっていた。これは概念を奪い続けるうちに真治の記憶を獲得した宇宙人が、心の開いた状態の真治を真似たのか、それとも宇宙人と真治の意識が統合され、鳴海を愛する新しい真治が無意識にとった行動なのかは明確には示されない。ただし、少なくともこの真治の態度の変化には間違いなく愛があったといえる。
愛という行為自体は行えているのに、愛の概念を理解していない真治は、鳴海から愛の概念を奪うことで、愛することの本質を知る。愛の概念を奪われた鳴海は感情の豊かな性格が変容し、無情の人となってしまう。そんな鳴海に対して愛を理解した真治は、ずっと鳴海のそばにいることを選択する。本作が描こうとした愛とは、“償い”という愛である。

黒沢清が尊敬するアメリカ映画の巨匠サミュエル・フラーの初期の作品に『地獄への挑戦』(1949)という西部劇がある。これは実在した西部のアウトロー、ジェシー・ジェームズを暗殺したボブ・フォードの悲しい末路を描いた映画である。富や名声、愛する女性との幸せな生活のために丸腰のジェシーを背後から暗殺したボブは全てを手に入れたかに見えたが、すぐに落ちぶれ、彼を暗殺したことを後悔し続けた挙句、自らも無残な最期を遂げる。実は、ジェシーを心から尊敬し愛していたボブは、死ぬ間際にジェシーへの愛を呟いて果てる。
人から概念を奪うことしかできない真治は、『地獄への挑戦』のボブのように、愛する鳴海の愛の概念を奪うという取り返しのつかないことをしてしまう。ジェシーとは違い、鳴海は死んでいないが、その愛の概念は失われている。愛を理解した真治にとって、鳴海のその変容はとてつもない悲劇である。しかし、『地獄への挑戦』のように救いようのない悲劇とは言い難い。なぜなら、愛というのは内面から湧き出てくるものであり、そして人に与えられるものであることを真治は理解しているからだ。そこまでの理解を促したのは、鳴海の愛に対する理解の賜物である。彼は奪うという行為と対になる“与える”という行為を理解した。だからこそ、真治は償いという愛をもって鳴海のそばに居続ける。鳴海の愛の再生を信じて。
本作は、奇抜なアイデアによって彩られたSFスリラーの仮面を被った、一組の男女のあまりにも純粋な“愛”の喪失と再生を描いた美しいロマンスである。

(text:成宮秋祥)




『散歩する侵略者』
2017/129分/日本

監督:黒沢 清

公式ホームページ:http://sanpo-movie.jp/

劇場情報
9月9日より全国ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月19日火曜日

映画『パターソン』評text成宮秋祥

「自分の時間を生きること。そこから見えてくる気づきと愛の感情」 


『パターソン』の主人公は、アメリカのニュージャージー州パターソン市に住む、バス運転手のパターソンという男性だ。パターソンに住むパターソンのごく平凡な1週間の日常をたんたんと日記のように簡潔に描いている。映画は最後まで物語らしい物語を描かないまま、人が夜になると眠るように、ここで終わりとばかりに自然と幕を閉じてしまう。しかし、鑑賞後には何とも言えない余韻が残る。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れている。そして、平凡な日常の中に何かしらの意義を持って生活することの大切さを微笑ましいユーモアを交えて描いていることに気づかされる。

パターソンの1日は決まっている。朝6時に目を覚まし、妻ローラにキスをする。朝食を食べ、職場に向かう。バス運転手としての仕事をこなし、休憩時間に詩をノートに書く。帰宅するとローラと夕食を食べ、その後は愛犬と夜の散歩に出かける。行きつけのバーに顔を出し、ビールを1杯飲む。そして家に帰り、ローラと共に眠る。
映画の中で描かれるパターソンの1週間の日常は、基本的にこの一連の生活習慣の繰り返しである。しかし、確かにパターソンがとる1日の行動はいつも同じであるが、周囲の状況は常に変化している。例えば、パターソンがいつも立ち寄るバーでは黒人のカップルの喧嘩が日を追うごとにエスカレートしていく。他にも、妻ローラがギターを買ってきて「線路の歌」を歌いだしたり、ケーキを作って市場に出かけていったりする。パターソン自身も詩を書く少女と出会ったり、尊敬するW・C・ウィリアムズを好きな日本人の詩人と出会ったりする。
パターソンの行動パターンは常に一貫しているため、一見すると彼がおくる日々に全く変化がないように感じられるが、実際には周囲の状況は日を追うごとに変化していき、それを刺激としてパターソンは詩を書いていく。パターソンは意識的か無意識的か分からないが、一貫した行動パターンを送りながら、日々変化する日常をじっくり体感し、自分だけの詩を生み出す習慣を確立しているといえる。

パターソンのこのような生き方は、忙しい日常をおくる現代人には縁が遠いものに映るだろう。自分で好きに忙しく生きている人はピンとこないかもしれないが、自分の時間を犠牲にしてまで忙しく生きている人には、パターソンの生き方は新鮮に感じられる可能性が高い。なぜなら彼は日々変化する日常を体感することで自分の時間を生きているからだ。それだけの余裕や落ち着きがあるからこそできる行為でもある。パターソンは日々変化していく日常を一分一秒ごとに体感している。映像のそこかしこに人間に対する確かな愛情が溢れているように感じられるのは、日々変化する日常をパターソン自身が愛しく思っているからだ。
1日の流れの端々に描かれる些細な出来事にも独特なユーモアが感じられるのは、パターソン自身がその些細な出来事が起きている時間さえも体感している証拠といえる。余裕がなく忙しく生きていればその些細な出来事は無関心によって省略され、なかったことにされる。知らぬ間に自分の時間が失われていく虚しさを味わうこともある。しかし、余裕を持ってその些細な出来事に関心を持てば、新しい視点や新しい気づきを発見することがある。今まで見えてこなかったもの、知らなかったものに出会える瞬間は誰しもありがたいと感じるのではないだろうか。そのため、自分の時間を生き、自分の時間を確かに体感している人たちは、例えそれが代わり映えしない日常だったとしても、愛しさを抱きながら日々をおくる。パターソンもその一人だといえる。

『パターソン』のパターソン市に住むパターソンが送る日常は、自分の時間を体感することを省略して生きている現代人に良く生きるヒントを与えたといえる。それはその人たちが忙しさを理由に忘れてしまった自分の時間を体感する意義や、そこから見えてくる気づき、新しい何かを発見あるいは生み出す生産的な発想。そしてそれらを愛しく感じる人間の、愛の感情である。

(text:成宮秋祥)




『パターソン』
2016/118分/アメリカ

脚本/監督:ジム・ジャームッシュ

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月26日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年9月10日日曜日

映画『草原に黄色い花を見つける』評text成宮秋祥

「ベトナムの大地から広がる人間の深い愛」


美しい映画を観た。ただ美しいのではない。1980年代のベトナムで、貧しさと共に生きる人々の中に、確かな人間の愛を実感できたからだ。あらゆる国の人たちが共感できる青春の息吹、初恋の香り、そして人間への深い愛情が本作には溢れている。観る者を幸福にする美しさがそこかしこに鏤められていた。

思春期を迎えたティエウは、近くに住む少女ムーンが気になっている。ティエウにはトゥオンという純粋な心を持った弟がいて、いつも仲良く暮らしている。ある日、ムーンの家が火事になり、ムーンはティエウとトゥオンの家で暮らすことになる。次第にムーンに恋心を募らせるティエウだったが、ムーンと仲良く遊んでいるトゥオンに嫉妬心を抱いてしまい……。

本作を観ると、岩井俊二の映画を思い浮かべてしまう。映像はノスタルジックでそれでいてどこか脆さがあって美しく、登場する子どもたちは純粋さと邪悪さの間で悩み苦しみながらそれぞれの青春を生きている。この映画でも岩井俊二の映画に共通する子どもの純粋さと邪悪さが、時に繊細に、時に禍々しく交錯して描かれている。
それはティエウの視線で表現されている。ムーンに惹かれ、心を奪われたような儚い表情でムーンを見つめるティエウの視線には、人を思うことに目覚めたティエウの純粋さが感じられる。また、ムーンがトゥオンと仲良くしているところを陰で見つめるティエウの冷たい視線には、戦慄を覚えるような禍々しさが感じられる。
思春期の子ども特有の複雑な心の揺れを、この映画はベトナムの広大な大地を舞台に、素朴に自然な形で表現していて味わい深い。

この映画は人間の深い愛を描いた映画だ。ティエウとトゥオンの関係は、聖書におけるカインとアベルの関係を彷彿とさせる。神に愛されたアベルに嫉妬した兄のカインは、憎しみのあまりアベルを殺してしまう。ティエウもまた、ムーンと仲良くしているトゥオンに嫉妬し、強い怒りを抱きトゥオンを傷つけてしまう。
深く後悔するティエウは、ムーンと仲良くなっていくトゥオンが許せず冷たく接したり、意地悪したりしたことを思い出す。しかし、純粋なトゥオンは傷つけられてもティエウを愛し続けていた。トゥオンの純粋な愛情に心を打たれたティエウは、思春期の複雑な心理状態から人を思いやる大人の心に目覚めていく。
物語の後半は、ティエウの初恋の物語からトゥオンへの贖罪の物語に移り変わり、映画の風情もノスタルジーからファンタジーの色合いにシフトしていく。この突然の変容も自然で違和感なく、観る者を魅せて飽きさせない。

監督を務めたヴィクター・ヴーは、アメリカ・ハリウッドで映画製作を学んだ。そのためか、ベトナムの貧しい村の人々の映像描写にはどこか都会的な洗練されたものが感じられる。より現実に近い土着的な風情を出す方法もあるが、この都会的なキラキラした映像感覚の方が、ある種の幻想性を秘めた本作には適していたと思われる。
映画の最先端を行くハリウッドで映画製作を学んだヴー監督は、間違いなくベトナム映画界に新鮮な風を呼んだといえる。かつてアメリカ映画がフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与え、フランス映画の時代が進展したように、ベトナム映画も新しい時代に進もうとしているのかもしれない。『草原に黄色い花を見つける』は、新しい時代に力強く進もうとする意志に溢れながらも、その内面は人間の深い愛を描き抜いた真に美しい映画だ。

(text:成宮秋祥)


『草原に黄色い花を見つける』
2015/103分/ベトナム

監督:ヴィクター・ヴー

公式ホームページ:http://yellow-flowers.jp/

劇場情報
8月19日より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Akiyoshi Narumiya

1989年、東京都出身。映画オフ会「映画の或る視点について語ろう会」主催。映画ライター(neoneoweb、映画みちゃお!、ORIVERcinema寄稿)。

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2017年3月20日月曜日

映画『ホース・マネー』評text成宮 秋祥

「決して忘れてはいけない、悲しいほど美しい絵画だ」


 観る前から、勇気がいった。居心地の悪い胸苦しさが続き、身体の震えが止まらなかった。映画を観ようとして、そのような状態に陥る事など初めてだった。意を決して、本編を最後まで観終えると、そこはかとない悲しみが胸の底から込み上げた。そして、魂が地に伏してしまいそうな程の重苦しい衝撃が全身を襲った。数日、何も考えられなかった。

 すでに分かりきっていた事ではあるが、『ホース・マネー』は、何度も観られる映画ではない。余裕のある場面は微塵もなく、ただ巨大な隕石のようなれっきとした迫力ある画の塊がそこにあった。その画から迸る力強いイメージに、私は完全に圧倒されてしまった。この映画は、観客のための映画では決してない。映像あるいは物語から、何かしらの快楽を観客が得られる要素は全くない。聳え立つ壁に挑むように観る映画といえる。

 この映画の主人公は、ヴェントゥーラという年老いた黒人男性である。ヴェントゥーラは、仄暗い廃墟のような病院内をひたすら彷徨っている。地下への階段を下り、古い下水道のような道や研究所のような人工的な通路などを。途中、白衣の男に止められ、エレベーターに乗せられた彼が辿り着いたのは、小さな病室だった。彼は、心を病んでいるのだろうか。あるいは脳を病んでいるのだろうか。詳細不明。しかし、彼が“歩く”という事実は残る。

 ヴェントゥーラが宛てもなく病院内を歩き続ける目的はいったい何であろうか。そもそも目的などあるのだろうか。ヴェントゥーラは、自分の意志で歩いているのだろうか、あるいは誰かに操られているのだろうか。明確な回答は、劇中では示されない。はっきり分かるのは、やはり彼がただ“歩く”という事実である。映像から分かる彼の事実は、その他にも、“定まらない視線”や“手の震え”の2つが上げられる。

 劇中に映されるヴェントゥーラの視線は、実は定まっていないといえる。ヴェントゥーラが誰を見ているのか本当のところは分からないのだ。例えば、病院のベッドで甥や元同僚と会った際、全員が映った場面では、彼は全員を見ているように思えるが、この時彼の意識は、自らの過去の記憶にあり、彼らの存在を認識しているとは言い難い。しかし、カメラが彼の甥や元同僚の顔を一人ひとり映していくため、まるで彼が誰かを見ているように思わせる。

 また、病院の一室らしき所で、ヴェントゥーラが医師から質問を受けている場面では、医師の声は確かに聞こえるが、画面にはヴェントゥーラ一人しか映っていない。四角い画面の中で彼は確かに誰かを見ているように思えるが、その相手が医師かどうかは分からない。医師の顔が画面に映らないまま、場面は切り替わってしまう。彼の意識の中で彼らが存在しているのか、それとも彼らの意識の中で彼が存在しているのか、映画を観ている側は混乱を覚える。

 始まりから終わりまで、ヴェントゥーラの手は震えている。劇中で、手の震えが収まる事はない。ずっと震え続けている。私は、ヴェントゥーラの手の震えがいつか収まる事を次第に期待していた。しかしその期待が叶う事はない。私は、彼の手の震えが収まる事に、救済のイメージを想像していた。小さな病室での彼の甥と元同僚との会話から分かる通り、彼の意識は、何かの原因によって過去の記憶を彷徨っている。

 ヴェントゥーラが宛てもなく廃墟のような病院内を歩くのは、過去の記憶を歩く事で巡っているからだ。それゆえ、物語の帰結としては、ヴェントゥーラが何かのきっかけを経て、病らしきもの(過去のトラウマから来る精神的な病か、あるいは脳の病か)を克服し、回復する事が望ましいように思えた。その回復の証明として、手の震えが収まる事を私は期待していた。しかし、そのような劇的な如何にもありふれた奇跡は起こらないのだ。

 むしろ、物語はヴェントゥーラの心の闇に深く入り込み、ヴェントゥーラが過去の記憶を巡りながら苦悩する様子を黙するように堅実に形ある姿として描いているだけなのだ。あるいは1本のドキュメンタリーとして、彼の“歩き”や“定まらない視点”、“手の震え”を捉え、彼が行き着く先までを克明に記録しているとも取れる。

 一度観て分からなくても、二度観てみると、『ホース・マネー』がヴェントゥーラの過去の記憶を巡る物語を持っている事が分かってくる。しかし同時に、奇妙な感覚を覚える。それは時系列が無作為に配置され、今、映画がどの時代の場面にあたるのか分からないのだ。ヴェントゥーラの記憶も過去を巡っている。はっきりとした年月日は少なくとも観客には分からない。まるで時間だけが止まっているかのように物語は静かに進む。

 また、物語は時系列が無作為に配置され、時に過去の時代らしき場面に切り替わる事があるが、不思議な事に、映像の流れは、常に現在の出来事のように連続的に繋がっているように見える。例えば、現在と過去の場面を描き分ける場合、過去を白黒にしたり、靄をかけたりし、2つの時代の描き分けを行う事がよく見られるが、本作はそのような描き分けは行わず、現在も過去も同じ時間軸として繋がっている。

 しかし、その独特な描き方から、これといった違和感を映像から受ける事はない。全ては現在に起きている出来事にしか見えないのだ。ヴェントゥーラの過去の回想場面であっても、それはヴェントゥーラ自身が、今、現在において回想している出来事が映像の中で具体的に表出しているからであり、よくよく考えれば特別に不思議な事とは思えなくもない。ただ、やはり一般の映画とは異なる差異を映像の繋がりから感じてしまう私がいるのも事実だ。

 このように映像の描かれ方は、真実性に違和感を持たせながら、同時にその無作為に配置された時系列の出来事が、現在において実際に起きているリアルな真実性を浮き上がらせている。そこに映画だからこそ描ける独自性があった。また、物語はヴェントゥーラの過去にあった実際の話に基づいてはいるが、時に切ない詩情を感じさせる言葉の数々に浮遊感を覚え、現実と非現実の区別がつかなくなり、記録映画と嘘の映画の境界を曖昧にする。

 そして、ヴェントゥーラや廃墟のような病院を撮るカメラは、少ない照明と星一つない夜の相乗効果により、カラヴァッジオのバロック絵画を彷彿させる濃厚な画をスクリーンに映し出し、ヴェントゥーラやそこかしこに映る建物の存在を芸術絵画の領域にまで高めている。重苦しくも確かに記憶に残るその画は、彼の過去と現在を巡りながら、私たちに彼の苦悩とその悲劇的な体験から襲い来る恐怖を強烈に見せつける。

 ヴェントゥーラの“歩く”という行為は、過去の記憶を巡るという行為であり、廃墟のような病院の地下道や病院内の通路を歩くヴェントゥーラの姿によって、道自体が彼の記憶の迷宮であるという表現となっている。彼の“定まらない視線”は、過去の記憶を観ているためであり、その視線は映像の中で出てくる人物に向けられている訳ではないといえる。彼は過去の記憶に視線を送り続け、その記憶の奥底にある苦悩と恐怖の正体に迫っていく。

 後半になり、ヴェントゥーラが鉛色のペイントを全身に塗りたくった全く喋る事のない兵士と対峙するエレベーターの場面は、ヴェントゥーラの過去において最も忌まわしい記憶を、断片的ながら鬼気迫る緊張感を持って呼び覚ましていく。その記憶とは、カーネーション革命(1974年にポルトガルで起きた軍事クーデター)による戦争のトラウマである。彼の“手の震え”は、このエレベーターの場面で最高潮に達する。

 このエレベーターの場面におけるエレベーター内の塗装や喋らない兵士は銀色や鉛色など冷たい金属の色に統一され、鮮やかな色彩を失っている。それとは対照的にヴェントゥーラの肌やパジャマの色が一際目立って見え、これらは描き分けられているとも取れる。過去と現在の場面はカラーの違いによって描き分けられる事もあると先に述べたが、この場面には、その過去と現在の描き分けが唯一成されていると、私には思えた。

 このエレベーターの場面は現在でも過去でもなく、現在と過去が完全に混ざりあった混沌とした小宇宙であり、そこにヴェントゥーラが遭遇した過去の忌まわしき戦争時代の怨念が、現在を生きるヴェントゥーラの心身を貪り食おうとしているように、私には思えたのだ。喋らない偶像のような兵士は、彼の過去の忌まわしき戦争時代の怨念そのものを表現しているといえる。それゆえに、彼が過去の記憶を巡るうちに垣間見せる苦悩や恐怖という抽象的な観念を立体的に私たちに明示し、そのリアルな造形を持って圧倒してくる。

 このエレベーターの場面では、ヴェントゥーラは苦悩と恐怖に足掻く事はあっても、決して救われる事はない。ヴェントゥーラの手の震えは、病院を出る事になった後の場面においても、ずっと震えたままだ。映画の最後に映されたガラスケース越しに見えるナイフには、死を予感させる。彼は自殺するのか、それとも彼が知っている誰かを、あるいは知らない誰かを殺めるのか。分かる事は一つだけだ。彼らは、いずれ死ぬのだ。

 廃墟のような病院でヴェントゥーラが巡る記憶の旅は、ポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの貧困や過酷な労働、戦争の悲劇を呼び起こした。カメラは、決して救われる事のないヴェントゥーラを含めたアフリカ系の黒人移民たちの顛末まで徹底して記録するように描き、同時に彼らの悲しい記憶を今この現在を生きる絵画として描いた。ありふれた救済を差し挟まなかったからこそ、彼らの存在は確固たる輪郭を形成していた。

 ペドロ・コスタは、かつて自身が手がけた『ヴァンダの部屋』(2001)においても、ポルトガルの貧困に喘ぐ移民たちが住む街で麻薬に溺れる主人公ヴァンダの生活風景を、救うでもなく、見放すでもなく、ただ静かに記録し続け、芸術絵画の領域にまで高めた映像を持って、ヴァンダや街に住む人々の生きる姿を一つの絵画として現在に残した。本作では、彼ら移民たちの過去と現在を、ヴェントゥーラを代弁者として描き抜いた。

 この映画は、途方もなく美しい映画ではあるが、その内実にポルトガルに住むアフリカ系の黒人移民たちの決して救済される事のない壮絶な歴史があり、ぼろぼろになりながらも今この現在を生きているヴェントゥーラたちの記憶に寄り添った悲しい映画でもある。観る者の心が受容しきれない切実な重みがそこにある。ひたすら意義深い芸術絵画である本作は、まさしくヴェントゥーラたちのための映画である。

(text:成宮 秋祥)



『ホース・マネー』
2014年/104分/ポルトガル

作品解説
『ヴァンダの部屋』『コロッサル・ユース』などでリスボンのスラム街を描いてきたポルトガルの鬼才ペドロ・コスタ監督が、再び同地区を舞台に撮りあげたドラマ。主演にも『コロッサル・ユース』のベントゥーラを続けて起用した。山形国際ドキュメンタリー映画祭2015インターナショナル・コンペティション部門大賞受賞作。ポルトガルのカーネーション革命やアフリカ諸国の独立といった近代史を背景に、ポルトガルで暮らすアフリカ移民の苦難の歴史と記憶を、虚実入り混ぜた斬新なタッチで描き出す。ポルトガルの首都リスボンのスラム街で、年老いた移民の男が人生を終えようとしている。数十年前にアフリカの火山の島からやって来た彼は、レンガ工場などで日銭を稼ぎながらどうにか暮らしてきた。記憶が途切れ途切れになりながらも、男はかつて故郷で飼っていた1頭の馬のことを思い出す。

キャスト
ベントゥーラ
ビタリナ・バレラ
ティト・フルタド
アントニオ・サントス

スタッフ
監督:ペドロ・コスタ
製作:アベル・リベイロ・シャービス
脚本:ペドロ・コスタ
撮影レオナルド・シモンイス、ペドロ・コスタ

公式ホームページ
http://www.cinematrix.jp/HorseMoney/

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【執筆者プロフィール】

成宮秋祥:Akihiro Narumiya

1989年生。東京在住。本職は介護福祉士。「キネマ旬報」(読者の映画評)に2年間で掲載5回。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」(neoneo web)や「映画みちゃお!」に映画記事を寄稿。映画交流会「映画の”ある視点”について語ろう会」主催。

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2017年2月21日火曜日

映画『エリザのために』評text成宮 秋洋

「“我が子のために”という親の無関心」


 ある朝、ルーマニア・クルージュの静かな団地の一角に住む医師ロメオの自宅の窓を何者かが石を投げて割った。辺りは静々としており、割れた窓の破裂音だけが強烈に響いた。ロメオは犯人を捜索するも見つけられず断念する。

 この映画の出だしは、こんな不穏な気配を画面に漂わせながら始まる。

 その後、ロメオは娘のエリザを学校まで車で送っていくが、途中でエリザを車から降ろし歩いて登校させる。ロメオには愛人である英語教師のサンドラがいて、エリザを車から降ろしたのはサンドラと密会するためだった。

 ロメオがサンドラとの密かな関係を楽しむ中、衝撃の連絡が届いた。エリザが暴漢に襲われ怪我を負ったというのだ。ロメオが病院に着くと、先に着いていた妻のマグダからどうしてエリザを途中で車から降ろしたのか詰問される。二人の夫婦仲は前々から芳しくなかった。

 奇跡的に重症を免れたエリザだったが、強姦未遂という出来事にショックを隠しきれず失意に陥る。エリザはイギリス留学を控えており、留学を確定するには学校の卒業試験に合格しなくてはならなかった。試験は翌日。しかし彼女はとても試験を受けられる精神状態とはいえなかった。

 エリザのイギリス留学を望むロメオは、なんとしてもエリザを試験に合格させようと、あの手この手と自らのコネやツテを利用し卒業試験に関係する人物たちを説き伏せていくが……。

 物語の流れだけを辿っていくと、心に傷を負ってしまった娘のために父親が奔走する話に見える。表面だけをなぞれば素直な感動を呼ぶ物語に思えるだろう。しかし、実際に映画を観ながら物語を辿っていくと、どうにも素直に感動できない。ロメオのエリザに対する感情に娘への愛以上に親としてのエゴを強く感じたからだ。

 そもそも娘の卒業試験を合格させるために汚職に走る主人公に共感を覚える人はそれほどいないのではないだろうか。卒業試験を受けるか受けないかを決めるのはエリザ次第であり、ロメオに決定権はない。

 しかし、本作ではエリザの方にこそ決定権がないように描かれている。ロメオとエリザの会話は常にロメオ主体でエリザは受け身のままである。この場面があまりに自然に描かれている様子からして、強姦未遂に遭う前からすでにロメオの家庭ではエリザに何かを選ぶ権利はなかったのだと推量できる。

 本作は、“我が子のために”という親の無関心を描いている。

 映画は、ロメオの主観によって進行していく。ロメオは、エリザを試験に合格させるため、副市長や試験管、警察署長、さらには仲の悪い妻のマグダや愛人のサンドラ、そしてエリザに将来の選択肢を与えるように諭す自身の母親に至るまで、理屈を詰めて説き伏せていく。

 その危うい情熱を秘めた弁舌ぶりには、エリザへの愛とは異なる何かに取り憑かれたような執念を感じる。そこにはエリザを含め、他人への関心はないのだ。実際に、愛人のサンドラの息子のマテイを初めて見た時もロメオは無関心を示し冷たく対応してしまい、サンドラの顰蹙を買ってしまう。

 こうした“我が子のために”という動機で起こしたロメオの一連の行動には、真の動機が存在するのは明らかである。それは娘への愛を隠れ蓑に、ロメオ自身の不安を解消しようとする個人的な動機である。それは祖国ルーマニアへの絶望から来る将来の不安である。

 第二次世界大戦後、ソビエト連邦の圧力を受け共産化したルーマニアは、ニコラエ・チャウシェスクによる長い独裁政権が続いた。1966年に妊娠中絶を禁止した法律をチャウシェスクが作ったことで、子どもが増え続け、経済的な支援が困難となった多くの子どもたちは路頭に迷い、治安が悪化。彼らは物乞いや買春などによって日々の生活を凌いだ。

 また、チャウシェスクは西側諸国からの対外債務を返済するために憲法を改正し、自国の生産品や工業品の強引な大量輸出を行い、物資不足を招いた。そのため、1980年代のルーマニアでは飢餓が発生し、多くの人々が貧困に喘ぐことになった。

 本作の監督を務めたクリスティアン・ムンジウが2007年に手掛けた代表作である、妊娠中絶をテーマとした『4ヶ月、3週と2日』は、このチャウシェスク独裁政権によって混乱に陥った1980年代のルーマニアを舞台としている。

 やがて、チャウシェスク独裁政権は1989年12月に勃発したルーマニア革命により崩壊し、チャウシェスクは処刑され、非共産党政権が樹立、民主化が進むことになった。ロメオは、このルーマニア革命後に祖国に戻ってきた人々の一人であり、チャウシェスク独裁政権以後のルーマニアを生きる人々の一人でもある。

 ロメオが祖国であるルーマニアに抱く絶望は、結局のところルーマニアが血で血を洗う革命を経た後も根本的な変化がなかったことにあると思える。ある調査によると、ルーマニアはEU加盟国の中でも汚職が蔓延しているとされ、失業率も高く賃金も低い。前述したチャウシェスク独裁政権時代の課題も残り続け、ある意味でルーマニアは未だ混乱した状態にあるとロメオには見えたのかもしれない。

 ロメオは、副市長や警察署長、試験官など公的な組織に属する人たちにエリザが試験を合格できるように説き伏せていくのだが、個々のこれといった葛藤もなく自然にあっさり話が通ってしまうのも汚職が蔓延したルーマニアの実態を明らかにしているといえる。

 表面的には見えることのないこのルーマニアの実態はロメオ自身も間違いなく見てきた実態であり、深い絶望の証といえる。そのため、自分の家族であっても堂々と自分の想いや考えが正しい(今回の場合は、“やむを得ない時は不正を行ってもいい”)と理屈を詰めて説き伏せられるのだ。

 しかし、世の中は絶えず変化するものである。ロメオの生き方や価値観も同じだ。その変化のきっかけはロメオ自身が招いたものだった。彼が行ったエリザの卒業試験を有利に進めるための一連の裏工作が順調に進んでいく最中、協力者だった副市長宛に検察官の捜査が入った。

 ロメオは焦った。自らが行った汚職行為が露見するかもしれないという恐怖を覚えた。しかし、ロメオの恐怖は自分が守ろうとしていたエリザのおかげで辛うじて免れた。エリザは卒業試験で不正を行わなかったのだ。この行為は、間違いなく彼女自身が選んだことである。

 本作は、子どもに対する親の無関心の他、もう一つテーマがあるように思う。“子どもの親への抵抗”である。これは推測に過ぎないが、子どもの親への抵抗の兆しは、冒頭で描かれたロメオの自宅の窓に石が投げ込まれる場面にある種の暗喩として込められていたのではないだろうか。

 石を投げたのは、“我が子のために”という親の想いによって抑圧された子どもの家庭からの解放を意味している。追いかけても石を投げた犯人が見つからないのは、子どもは親が知らない間に大きく成長していくためである。やがて羽ばたいていくから、見つけられるはずがないのだ。

 人は、一人では生きていけない。そして、人に無関心でも生きていけない。自らの汚職行為を通じて、エリザの変化を感じ取ったロメオは次第に他者に関心を示していく。マグダに家を追い出されたロメオは、暗い面持ちでサンドラの家に泊まらせてもらう。

 翌朝、ロメオは無関心を示していたサンドラの息子のマテイと公園に遊びに行く。そこでマテイは遊具の列に並ばない子供に石を投げつけてしまう。彼は冷静にマテイを諭す。この場面に他者に関心を示し始める彼の心理的な変化がうかがえた。つまり、彼は“人を傷つけてはいけない”という正しい説得をしているのである。

 クリスティアン監督は、インタビューにおいて、本作がルーマニア・ブカレストで実際に起きた女性強姦事件から影響されていることを語っている。その女性は白昼に襲われ30分以上も市中を引きずり回されていたという。この時、現場に居合わせた人々は誰もその女性を助けようとしなかった。クリスティアン監督は、この事件から現代人の他者への無関心を感じ、これからの未来のため、そして次代を担う子どもたちのために、人が人に関心を寄せ合い助け合える社会とは何かを、我々に考えさせるために本作を作り上げた。

 本作の会話場面はとにかくリアルである。二人の登場人物の姿を会話中ずっと撮り続ける。画面の変化がその間まったくないため空気が張り詰め、画面は重い緊張感を表出している。また、会話中ずっと人の気配が辺りにあることが、会話の生々しさを引き立てている。完全な密室ではない場所で行われる密談により一層のリアリティを感じてしまう。それだけにロメオの心理的変化やエリザの勇気のある選択にも強いリアリティが感じられ、最後には清々しい風が肌を撫でるような心地よさに満たされた。

(text:成宮秋洋)


『エリザのために』
2016/128分/ルーマニア、フランス、ベルギー

作品解説
医師ロメオの娘エリザはイギリス留学を控えている。しかしロメオには愛人がいて、家庭は決してうまくいっているとは言えない。ある朝ロメオは娘を車で学校へ送るが、校内に入る手前で降ろした後、娘は暴漢に襲われてしまう。大事には至らなかったが、翌日の留学を決める卒業試験に控えていた娘は大きく動揺する。ロメオはツテとコネを駆使し、娘を試験に合格させるために奔走するが……。

キャスト
ロメオ・アルデア:アドリアン・ティティエニ
エリザ:マリア・ドラグシ
警察所長:ヴラド・イヴァノフ

スタッフ
監督/脚本/製作:クリスティアン・ムンジウ
共同製作:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
撮影:トゥドル・ブラディミール・パンドゥル
美術:シモナ・パドゥレツ

劇場情報
シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか、公開中

公式ホームページ
http://www.finefilms.co.jp/eliza/

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【執筆者プロフィール】

成宮秋祥:Akihiro Narumiya

1989年生。東京在住。本職は介護福祉士。「キネマ旬報」(読者の映画評)に2年間で掲載5回。ドキュメンタリーカルチャーマガジン「neoneo」(neoneo web)や「映画みちゃお!」に映画記事を寄稿。映画交流会「映画の”ある視点”について語ろう会」主催。

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2016年9月25日日曜日

【特別寄稿】映画『ケンとカズ』評text成宮 秋祥

「 逃れられない友情 」


 今年は邦画が熱い。それは多くの映画人が認めている事だろう。その中でも特に記憶に残る映画に、この夏偶然にも出会ってしまった。それが『ケンとカズ』である。監督を務めた小路紘史は全くの無名であったが、本作のずば抜けた完成度の高さもあって、瞬く間に注目を集める事となった。

 現代社会の裏側で麻薬密売を行う二人の若いチンピラを描いた至極シンプルな物語ながら、観る者が思わず圧倒される緊張感あふれる映像に視線が釘付けとなった。低予算の映画ではありながら、画面に頻繁に描かれる暴力表現が非常にリアルで恐ろしいのだ。登場人物が殴られた時の顔の腫れ具合や血の流れ方が何とも本物らしく見える。これは生々しい音響の臨場感や役者の迫真の演技が関係しているように思う。そして時が止まったか如く、逃れようのない緊張感漂う役者たちの目眩くクローズ・アップの連続に、裏社会に生きる人々の本物のやりとりを疑似体験している感覚に陥る。

 初めはその徹底したリアルな暴力表現や作りこまれた裏社会に生きる人々のやりとりに度肝を抜かれ、物語に集中ができなかったが、次第に明らかになる二人の主人公ケン(カトウシンスケ)とカズ(毎熊克哉)の過去。二人が背負っているもの。お互いに啀み合い、罵倒し合いながらも、離れられず腐れ縁のように繋がり続ける男同士のどうしようなく濃い友情に、目頭が熱くなる。

 この映画の一番良いところは、友情の真実を描いていた事だ。お互いに離れられないからこそ、二人はお互いに助け合い、罵り合い、許し合う。そこに友情の美しさがある。しかし逆を言えば、真の友情とは、その密な関係から逃れられない事を意味する。ケンとカズが背負う重要な何かは、お互いの内に知らぬ間に育まれたその密な関係を引き裂こうとする。それが二人にとっては、言いようもないほど地獄なのだ。そしてその地獄を引きずりながら、映画は怒涛のクライマックスを迎える。演出には情け容赦などない。だからこそ、この映画は一つの悲劇として完成されている。

 一人の無名監督が成し遂げた偉業は、血よりも濃い感動にあふれ、観る者の心を深く突き刺した。

(text:成宮 秋祥)




映画『ケンとカズ』
2016/日本/96分

作品解説
2015年・第28回東京国際映画祭(日本映画スプラッシュ)作品賞を受賞した、20代の新鋭・小路紘史監督の長編デビュー作。
裏社会でしか生きられない男たちの哀しい運命を、現代の社会問題である覚醒剤密売を舞台にリアルに描きだす。ケンとカズの二人は郊外の自動車修理工場を隠れみのに、覚醒剤の密売を行っている。ケンの恋人の早紀が妊娠し、カズは認知症である母を施設に入れる金が必要なことをお互いに言えずにいた。そして敵対グループと手を組み密売ルートを増やしていくが、ヤクザの追い込みもあり二人は次第に追いつめられていく……。

キャスト
ケン:カトウ シンスケ
カズ:毎熊 克哉
早紀:飯島 珠奈
テル:藤原 季節
藤堂:髙野 春樹

スタッフ
監督:小路 紘史
撮影監督:山本 周平

劇場情報
7月30日よりユーロ・スペースにて公開後、全国順次上映中。
関東では、10月8日よりトリウッド、シネマ・ジャック&ベティにて公開予定。

公式ホームページ
http://www.ken-kazu.com/

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点”について語ろう会」主催。その他、最新映画のラジオ・トーク会を定期的に実施。

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2016年8月9日火曜日

【特別寄稿】映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』評text成宮 秋祥

「世界を望む“心の喪失感からの解放”」

 
 観ている間も、観終わった後も心地よかった。映像が一気に駆け抜けていった。むき出しの毒気も過剰な痛みの描写も素っ気なく、あらゆる時代の青春映画が共通して持つ独自の甘い切なさが、静かに心に残った。

 中川龍太郎監督の映画を映画館で観るのは、これで3回目だ。初めて彼の映画を映画館で観たのは2014年に公開された『Plastic Love Story』(2013)だ。3人の少女の恋物語を並列的に描いた群像劇のような恋愛映画だ。岩井俊二の映画を彷彿させるノスタルジックで繊細な映像表現が魅力的だったが、対照的に各登場人物が内面に抱える葛藤や苦悩、純粋さ、邪悪さをむき出しに、ストレートに映像として描写している。こうした”人間感情のむき出し”を描く映画監督と言えば、真っ先に園子温が思い浮かぶ。しかし園子温の映画よりも感情のむき出し度合いは抑制されている(園子温の映画は、人間感情のむき出しが優先され、往々にして映画の世界観を一旦破壊する。そして、どこに行き着くか分からない無軌道な疾走感が映画を支配する。それが園子温の映画の魅力でもある)。故に映画の世界観を破壊するまでには至らず、むしろ映画の世界観を尊重しつつ、中川監督自身の作家性や思想性を映画の登場人物に込め、体現させているように思えた。

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」 (c)『走れ、絶望に追いつかれない速さで』製作委員会

 
 自主製作で作られた映画には自由がある、と私は捉えている。製作者たちが誰にも気を使わず好きなように映画を作れる。それは大変に魅力的な事ではあるが、中川監督は敢えてその自由を縛って映画製作に望んでいるように思う。彼の映画の一つひとつには、造形的な美しさを強く感じる。彼の映画には形が存在する。『Calling』(2012)という恋愛映画では、二人の男女の生活をたんたんと追いかけながら、互いの心理の機微や、時に見せる感情の爆発を繊細に描写しているが、『Calling』でも人間感情のむき出しは映画の外には出ず、自然の光が美しい映像世界の中で静かに終結していく。彼が作る“映画の形”とは、例えるならば“子どもを見守る母親”であり、彼が描く“人間感情のむき出し”は、“自己肯定できない子ども”といえるかもしれない。母親に見守られているからこそ、子どもは真剣に自身が抱える葛藤や苦悩と戦い、乗り越え、自己を肯定していく。このような人間の成長過程を再び映画に例え直すと、彼は自主映画製作における自由を自ら縛る事で、自身の映画作家としての暴走ではなく、成長を望んでいたのではないかと、私は想像する。結果として世に出た映画は、どれも自主製作映画の枠組みを超えたウェルメイドな良作になったといえる。
 
 ウェルメイドな良作という言葉は、本作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』にもあてはまる。しかし本作は、どちらかと言えば、他の中川監督の映画とは肌触りが異なるように感じる。これまで彼の映画は、男女関係や家族を描いてきたが、今回は明確に”2人の男の友情”を描いている。ジャンルを分けるとすれば、青春映画で間違いないだろう。しかしこの青春映画には、どうにも悲しい雰囲気が画に漂っている。親友の”死”を受け容れられない主人公の”心の喪失感”が画を支配しているからだ。それでも決して重苦しい訳ではなく、ノスタルジックな美しさも同時に感じられもする。
 
 これは個人的な見解になるが、本作の物語は2つのパートに分けられると思う。1つは、親友が生きていた頃の過去編、もう1つは、親友を失った後の現代編。昨年に劇場公開された『愛の小さな歴史』(2014)も過去編と現代編の2つのパートに分けられる。『愛の小さな歴史』は、壮絶な人生を経験した二人の男女が互いに大切な存在を失い、その後互いが奇跡的に出会うまでを話の核にあたる過去編として描き、その過去編の話が、現代編の主人公の少女(過去編の主人公である二人の男女の娘)の絶望を救済するというドラマティックな物語だった。本作の物語は、それとは似て非なる描き方がなされている。青春時代を共に過ごした親友の“薫”を失って、心に喪失感をおった主人公の“漣”の心情は絶望にまみれて今を生きる感覚を失っており、その状態は前作の現代編の主人公と共通している。しかし前作とは異なり、過去編の話が彼を救う訳ではない。映画を観ていると、薫と過ごした青春時代の記憶が、漣の生きる支えになっているように見えなくもないが、薫との記憶にしがみつこうとする漣の行動を見る限り、薫との記憶によって生きているのではなく、“生かされている”とも見えてくる。しかし、過去編の話が主人公の“生”を足止める楔としてだけ、あてはめられたとは言い難い。後半、数多くの出来事を通じて薫の死を受け容れた漣は、ハングライダーに自分の“生”を見出すのだが、このきっかけとなったのは、過去編で薫と漣が無断でビルの屋上に侵入した際に、薫が空に見たという“鳥”にあった事は容易に想像できる。要するに、漣は過去を受け容れた際に、自分の“生”の発見を悲しい想い出でもあった過去から得るという自立的な選択をしたのだ。結果として、過去の記憶は漣への救済として変容したのであるが、そこまでの話の筋運びが実に自然で違和感を抱かせない。また、妙な方向にぶれず、映画は一気に物語を駆け抜けていく。この確かな仕事ぶりに、ウェルメイドな映画を作り続けようとする中川監督の成長を強く感じた。
 
 本作では、各登場人物の人間感情のむき出しが素っ気なく、そこに物足りなさ(中川監督によく描かれる“踊り”のシーンも少ない)を感じてしまう。主人公の漣の人間感情のむき出し(心の喪失感からの解放)にじっと寄り添う演出が原因に思うが、もしかすると、むしろそこを重要視していたのかもしれない。なぜなら、本作で描かれる自己肯定できない子どもが、実は中川監督自身を指しているのではないかと思えるからだ。
 
 この映画は、中川監督自身の映画作家としての葛藤と苦悩を描いた映画だ。主人公の漣を、中川監督の生き写しと仮定すると、妙に腑に落ちる。絶望を乗り越えた漣はどうして最終的に空を望むのだろうか、それは世界の映画と真剣に向き合おうとする中川監督の決意表明だからだ。東京国際映画祭にて、史上初の2年連続入選を最年少で果たした事実がそれを証明しているように思う。自身の作家性と真剣に向きあいながら、世界を望む中川龍太郎監督の今後の活躍を、私は全面的に期待する。


(text:成宮秋祥)




『走れ、絶望に追いつかれない速さで』
2015年/83分/日本



作品解説
青春時代を共有した親友・薫の死を受け入れられないでいる漣。描き遺された絵には薫の中学時代の同級生「斉木環奈」の姿があった。薫にとって大切な存在であり続けた彼女に薫の死を知らせるべく漣は単身、彼女の元へ向かう決意をする……。この映画で描かれているのは「死」を通して新たに発見される「生」の煌めきである。主人公の漣が親友の死を受けて、悲しみのあまり感情を動かすことができないでいる姿や、ふとした瞬間に溢れ出す感情。ひとりの死が多くの生を翻弄する、そんな瞬間。実力派として注目の若手俳優、太賀、小林竜樹、黒川芽以が織りなす繊細な感情の機微は見所。


キャスト
漣:太賀
薫:小林竜樹
理沙子:黒川芽以

スタッフ
監督/脚本 : 中川龍太郎
製作総指揮 : 木ノ内輝
プロデューサー : 藤村駿
ラインプロデューサー : 佐藤宏
撮影監督/編集 : 今野康裕
録音指導 : 井手翔平
録音 : 伊豆田廉明
衣装/メイク : 平方さつき
音楽 : 酒本信太

公式ホームページ
http://tokyonewcinema.com/works/tokyo-sunrise/

★第28回(2015年)東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門上映作品。


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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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2016年6月20日月曜日

【特別寄稿】『海よりもまだ深く』評text成宮 秋祥

「実体と精神諸共の“父親探し”」


 是枝裕和の映画で主役として描かれる父親は、どれも“良多”という名前だ。『歩いても 歩いても』と『そして父になる』に続き、三回目の登場となる良多。前二作の良多は、経済的に成功し家族も築いているが、本作の良多はその真逆である。彼は、貧乏で生活に行き詰まり、妻とも離婚している。さらに賭博に溺れ、亡くなった父親の遺品を質に出すような情けない男として描かれ、今までの是枝作品で描かれてきた良多の人物造形と大分異なっている。

 こうした駄目な男を描いた映画は、戦後初期の邦画にも多く作られてきた。中でも、成瀬巳喜男の傑作、『浮雲』(1955)の森雅之が、その筆頭と言える。森の駄目男ぶりは、敗戦によって“喪失した日本人の魂”を象徴していると言えるが、本作の良多の駄目男ぶりにも、森と同じく“何かしらの魂の喪失”を感じる。その原因は、是枝監督が常々テーマとして描いてきた“父親”にある事は間違いない。

 そうであるならば、本作は前二作に比べて分かりやすく観る事ができる。前二作で描かれた良多は、実体面として父親にはなっているが、精神面では自身の父親との関係性が原因で、真に父親になりきれずにいる。本作の良多は、精神面でも実体面でも父親になりきれていないので、自分を作っていない(もしくは作れない)分、感情移入しやすい。

 分かりやすく観られる分、映画としての質が落ちているという意見もありそうだが、本作にそれは当てはまらない。登場人物たちの自然な振る舞いや言葉の掛け合い、飲食物や食器類などの装置を会話の合間に巧みに画として挟み込み、屋内や家庭内の雰囲気を静かにリアルに描写する手腕は、ドキュメンタリー調の演出を得意とする是枝の面目躍如と言える。

 このように、しっかり画作りが施された映像の中で、父親になりきれない良多の実体と精神諸共の“父親探し”が描かれるのだが、物語の方向性は、実は前二作と何ら変わりはない。要するに、“自身の父親との関係性を見直し受容していく”までを描く事にある。
 先に述べた通り、良多の父親は既に故人で、良多自身も妻との離婚で家族と別れている。この良多の置かれた状況こそが本作独自の特徴であり、それをどのように見直し受容していくのかが見どころと言える。

 劇中での良多は、実に情けなく描かれている。演じる阿部寛の熱演もあり、その情けなさは奇妙に画になっている。それは例えば豊田四郎の名作、『夫婦善哉』(1955)の森繁久彌のような愛嬌ある情けなさではない。ただ単純に情けないのであり、そのオーバーアクトな情けない風貌に、不思議と画を見出してしまう。競輪で大負けした時の阿部の情けない悔しそうな顔はちょっとやそっとでは忘れられないだろう。

 その良多の”情けなさ”は最初から最後まで一貫しており、特に変化する事もない。彼の情けなさを支えているのが、彼が連発する根拠の無い”嘘”にある。嘘をつき続ける事で、彼は情けなく生き続ける事ができている。そして、その嘘が得意だったのが彼の父親であり、嘘という特技は間違いなく父親から受け継いだものだ。

 良多は、父親のようになりたくないと思いながら、父親のようになってしまい、反対に父親のようになってしまったからこそ、父親が得意だった嘘によって現在も生き長らえているともいえる。台風の夜に、離婚によって別れてしまった元妻と一人息子と共に、久しぶりに一つ屋根の下で過ごす事ができたのも、元はといえば彼の嘘が原因である。その夜、公園で彼ら三人が慌ただしく宝くじを探し合うという”短い家族の再生”を生み出したのも彼の嘘が火種である。

 父親から受け継いだ嘘を、良多は肯定も否定もしない。嘘という特技は、無意識レベルで彼に備わってしまったため、それを表に出して考える事はないのだろう。では、彼は父親の何を受容する必要があったのだろうか。それは、自身と異なる父親の資質だ。彼にとって最も価値のないものは、自身の資質に関係のないものだ。それは父親も同じだ。その資質の違いを彼が受容する場面は特に印象に残った。

 後半、良多は父の遺品である硯を質に出してしまう。字が汚い彼にとって書道は価値のないものだったが意外に高値がついた。その時、父親が彼自身の文才を認めていたという旨を、彼は質屋から聞いた。父親は文学に関心がなかったと彼は思っていたが、それが覆った。家族の品を質に出す事で、家族の絆を手放してしまった彼は、皮肉な事に質を通じて、家族の絆を知った。最終的に硯を売らなかった彼の眼差しは、温かい。

 最後まで良多は、実体と精神諸共に父親になれたとは言い難い。借金だらけで仕事も不安定なのも変わらない。恐らく今後も彼は嘘をつき続けるだろう。彼は何も変化していない。しかし何かを受容したのは事実だ。だからこそ、父親の遺品である硯を見つめる彼の眼差しは温かいのだ。

 そして、良い父親になるという行動レベルでの変化を敢えて描かなかったからこそ、今後の良多の変化に自然と期待できる。その方がリアルだ。彼は、駄目男なりに自分を見直し、嫌っていた父親を見直し、父親の資質を受け継いだ自分と、自分と異なる資質を持った父親を受容した。駄目男が駄目男のまま父親としての自分を受容していく過程を静かに丁寧に描いた映画は珍しい。しかし、そのアプローチの珍しさに負けず、“父親”というテーマをぶれずに描き抜いた是枝裕和の堅実な手腕は、すでに巨匠の域にある。

(text:成宮秋祥)

『海よりもまだ深く』

2016年/117分/日本

作品解説

15年前に文学賞を一度受賞したものの、その後は売れず、作家として成功する夢を追い続けている中年男性・良多。現在は生活費のため探偵事務所で働いているが、周囲にも自分にも「小説のための取材」だと言い訳していた。別れた妻・響子への未練を引きずっている良多は、彼女を「張り込み」して新しい恋人がいることを知りショックを受ける。ある日、団地で一人暮らしをしている母・淑子の家に集まった良多と響子と11歳の息子・真悟は、台風で帰れなくなり、ひと晩を共に過ごすことになる。

キャスト
良多:阿部 寛
白石響子:真木 よう子
中島千奈津:小林 聡美
山辺康一郎:リリー・フランキー

スタッフ
原案・脚本・監督・編集:是枝 裕和
撮影:山崎 裕
主題歌・音楽:ハナレグミ

公式ホームページ
http://gaga.ne.jp/umiyorimo/

劇場情報
丸の内ピカデリー、新宿ピカデリーほか全国公開中

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【執筆者プロフィール】


成宮 秋祥 Akihiro Narimiya
1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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2016年6月11日土曜日

【特別寄稿】映画『緑はよみがえる』評text成宮 秋祥

「忘却の雪解け」


 この映画に出会えてよかった。日本公開から2、3日して数少ない上映館の一つ、都内の岩波ホールで本作を初めて鑑賞してから、大分月日が経過した。この映画について何か書きたいと思いつつ、何も書けないでいた自分に苛立ちと焦りを感じながら時が流れてしまった。すでに映画のストーリーがどのようなものであったか朧げになり、詳細な部分を思い出す事が難しくなった。しかし、不思議なもので本作は映画の全体像が時間と共にぼやけてくるにも関わらず、初鑑賞後に身体の内側からこみ上げてきた感動は、変わらないどころか、より一層熱くなるばかりだ。

 エルマンノ・オルミの作品を初めて観たのは、19歳の頃だった。当時、学生だった私は、その頃から映画に熱を上げていて、年代や国、ジャンルを問わず数多くの映画を観るようになっていた。私の初めてのエルマンノ・オルミ体験は『木靴の樹』(1978)だった。イタリアの貧しい農家の生活を約3時間、たんたんと描いただけの映画に関わらず一分たりとも退屈する事のない不思議な映画だった。もっと不思議な事に、『木靴の樹』をDVDで何度も観返しているはずなのに、私は映画のストーリーをまだ確かに憶えていない。映画を観て味わった深い感動とは反対に、その映画の中の出来事をもの凄い速度で忘れていくのだった。しかし、今回観たオルミの新作『緑はよみがえる』と同じく、鑑賞後に私の身体の内側にこみ上げた感動は、まだ熱いままだ。

 オルミの作品は、『木靴の樹』もそうだったが、どこかこの世ならざる世界をスクリーンに映し出す。もちろん、映像はイタリアで撮られ、その土地の雰囲気や情緒が濃厚に漂っているのだが、時に無国籍風な空気(つまり、どこかわからない世界の空気)がスクリーンのそこかしこに漂い、この世ならざる世界を観る者の心に記憶させる。本作の冒頭に映し出される画面一杯の雪景色とそれを覆う藍色の空にも、そうした無国籍風な空気が漂っている。朝なのか夜なのかもわからない、現実世界かあるいはこの世ならざる世界なのかもわからない、その独自の世界に心を引き寄せられる。

 かつて、似たような映像体験を私はした事がある。ギリシャのテオ・アンゲロプロスの作品『狩人』(1977)がそれだ。アンゲロプロスの作品は、詩情豊かな映像作品が多いが、作風は極めて政治的で難解だ。しかし、アンゲロプロスもまた、無国籍風な空気を漂わせる映画作家だと、私は思う。『狩人』の冒頭も雪景色で始まる。そこで仲の良い狩人たちが謎の死体を発見した事により、彼らはそれぞれの過去の記憶を巡る不思議な体験をする事になる。『緑はよみがえる』は、そういった幻想的なストーリーを持ってはいないが、夢なのか現実なのか判然としない過去の記憶を巡る映画としては共通している。

『緑はよみがえる』は、第一次世界大戦下のイタリアを舞台にしている。ストーリーの背景にはオルミの父親の存在が関係している。オルミの父親は強い愛国心を持ち、19歳で前線(後に“アジアーゴの戦い”と言われた)に出たが、過酷な戦場での体験により、心に深い傷を負った。本作は、オルミの父親の記憶を辿る映画だったといえる。

 薄暗い空と雪に覆われたイタリア・アルプスのアジアーゴ高原を、列をなして歩く無数のイタリア兵。彼らは一様に雪を掘り、塹壕を作る。夜、イタリア兵がナポリ民謡を歌うと、敵であるオーストリア兵から賞賛の声がどこからか響き渡る。時が止まったような束の間の静寂。しかし観る者の心が癒える事はない。戦火の気配がスクリーンに立ち込める。塹壕の中で餓えや寒さに苦しむ傷病兵たち。これからとてつもなく悲しい出来事が起こる、そう予感させる物悲しい詩情と、凍てついた緊張の混在する濃密な画に、胸の内側が痛くなる。

 やがて、兵士たちに上層部の命令を伝えに、ベテランの少佐と実戦経験に乏しい若い中尉が塹壕にやってくる。命令の内容は、現場の実情を無視した現実的に無茶なものであり、現場を指揮する大尉は強く反対するが聞き入れられない。結局、命令を実行に移すが犠牲者を出し、大尉は軍位を返上してしまう。後を託されたのは、実戦経験に乏しい若い中尉だった。

 この映画を観ながら、第一次世界大戦を題材にした映画を何本か思い出そうとすると、私の場合、二本を思い出す。一本目はフランスのジャン・ルノワールの名作『大いなる幻影』(1937)だ。『緑はよみがえる』の画は、『大いなる幻影』の格調高い詩情豊かな画に迫っていた。しかし戦争場面の描き方は『緑はよみがえる』の方が残酷だった。次に思い出される二本目の映画がアメリカ・ハリウッドの戦争映画の名作『西部戦線異常なし』(1930)だ。『西部戦線異常なし』は詩情豊かとは言わないまでも、戦争の残酷性を見事に描いた古典だ。『緑はよみがえる』の作品としての雰囲気は、詩情性を高めた『西部戦線異常なし』だといえる。

 米国アカデミー賞の作品賞を受賞した『西部戦線異常なし』のストーリーは、愛国心に燃える主人公が自ら志願して戦場に赴くも、その惨たらしい実情に絶望していく過程をたんたんと描いたものだ。『緑はよみがえる』のストーリーは、愛国心に燃える若人が主役である事、その若人の想いが実際の戦争体験を通して打ち砕かれ、戦争が招いた残酷な現実に絶望し、心に深い傷を負うという点で『西部戦線異常なし』と共通している。劇中で戦闘指揮を託された若い中尉は、『西部戦線異常なし』の主人公の立場によく似ている。この若い中尉のモデルは、間違いなくエルマンノ・オルミの父親である。

 愛国心に燃える若い中尉は、実戦経験に乏しいながら冷静に部隊を指揮しようとするが、結果として敵の砲撃の前に為す術もなく惨敗してしまう。残っていたのは、絶望に飲まれ暗い涙に歌を失った兵士たちと、無残に散乱した戦死者の山。若い中尉は、憎しみと悲しみに襲われ、ただ立ち尽くすばかり。『西部戦線異常なし』の主人公は、憎い敵国の兵士と塹壕にて一対一で対面するも、その敵兵に愛すべき家族がいる事を知り、愕然とする。また、『大いなる幻影』においてもドイツ人将校とフランス人将校が共に貴族であった事から懇意になるも、最終的には脱走したフランス人将校をドイツ人将校が撃ち殺してしまう。互いの国の兵士たちは、どこかで通じ合う事ができたはずなのに、戦争という名の悪魔は、全てを惨たらしくあっさりと奪ってしまう。

 『緑はよみがえる』で、最も戦争の残酷性を意識したのは、砲撃の音だ。そもそもの始まりの画は、無国籍風のどことも知れない世界を表したかのような幽玄の詩情に満ちている。ナポリ民謡を歌うイタリア兵士やそれを賞賛するオーストリア兵士、一心不乱に塹壕を掘る兵士たちの動き、飢えと寒さに苦しむ兵士たちの様子、上官たちの心の葛藤にしても、そこかしこに独特の詩情があった。つまり、オルミの綴った“一つの詩世界”がそこにあった訳だが、塹壕を破壊し、若い中尉の部隊の兵士を死に至らしめた砲撃の轟音は、その一つの詩世界に相容れない不協和音を生じさせていた。まるで別世界から魔物が侵入してきたかのように、その一つの詩世界は崩壊してしまった。

 オルミの描いた詩世界への考察から再びルノワールの『大いなる幻影』を思い出したのだが、『大いなる幻影』は、始まりから終わりまで全てに温かいユーモアと儚い切なさが混在した詩情があった。このルノワールが描いた画の中(一つの詩世界)に、戦争を感じ、悲劇を感じ、人間の愚かさを感じた。だからこそ、映画に芸術を感じた。しかし『緑はよみがえる』は、砲撃という戦争が生み出した暴力を加える事で、作り上げていた一つの詩世界を途中で壊してしまったのだ。戦争は、芸術を無残に破壊する行為なのだ、とオルミは伝えようとしているのかもしれない。砲撃という轟音によって――その単純な暴力的な響きによって、一つの詩世界(芸術)は崩壊してしまう。自身の繊細な一つの詩世界を無残に破壊してみせる事で、戦争がもたらす残酷性を彼は表現していたように思えた。

 しかし、この映画を見つめるオルミの眼差しは不思議と温かいように感じる。それを強く意識したのは、その一つの詩世界の崩壊後だ。戦闘に惨敗し、多くの死傷者を出してしまった若い中尉は、「この世で一番難しい行為は人を赦す事です。しかし人が人を赦せなければ人間とは何なのでしょう」と、そんな内容の手紙を母親に書いた。彼は、戦争で敵を憎む事を考えながら、同時に敵を赦す事も考え、戦争で人を赦す事の難しさに苦悩しているのが伝わった。若い中尉のモデルであるオルミの父親が、このような苦悩を本当にしたのかはわからない。それでも戦争が憎しみを生み、その憎しみが戦争を育て、そしてまた新たな憎しみが生まれ、戦争の悲劇が肥大化してしまうという、戦争の本質が十分に伝わってくる。そしてそれを止める手段が人を赦す事だという事も、若い中尉の、心の痛みに震えたその眼差しから確かに伝わってくる。

 戦争がもたらした悲劇を、私たちは忘れてはいけない。また、『緑はよみがえる』はそれだけではなく、“人を赦す”事も、忘れてはいけないと温かく語りかけてくる。

 この映画は、エルマンノ・オルミ監督が父親の体験した第一次世界大戦の記憶を巡る映画であるが、同じように戦争の悲しい記憶を巡る映画に、今年の米国アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した『サウルの息子』(2015)がある。『サウルの息子』は、主人公への徹底した主観視点による撮影で、観る者に戦争の疑似体験をさせる作りになっている。そのため、戦争への恐怖や憎悪を、強烈に視覚に記憶させる。しかし『サウルの息子』は、その徹底した映像表現への拘りに、戦争の実態を全て描こうとする監督の執念を感じ、激しく動揺させられ、どこか居心地の悪さがあった。そこには戦争の本質だけがあったように思えてならなかった。

 エルマンノ・オルミの『緑はよみがえる』は、『サウルの息子』にはなかった戦争がもたらす憎悪を超えた先にある人間の高潔な心のあり方を描いていたように、私には思えた。世界に戦争の火花が絶えない現代において、人間はどう生きるべきかを、イタリア映画の巨匠エルマンノ・オルミは、自身の父親の戦争の記憶を巡って、その問いを見事に導き出したといえる。

 私たちは戦争を忘れてはいけない、そして同時に、人を赦す事も忘れてはいけない。それが人間にできる最大にして、あまりに人間らしい行為なのだから、と。

(text:成宮 秋祥)





『緑はよみがえる』
2014年/76分/イタリア

作品解説
「木靴の樹」「ポー川のひかり」の巨匠エルマンノ・オルミ監督が、第1次世界大戦開戦から100年にあたる2014年に平和を願って撮りあげた戦争ドラマ。1917年、冬。北イタリアの激戦地アジアーゴ高原では、オーストリア軍と対峙する前線のイタリア兵たちが、大雪で覆われた塹壕の中にこもっていた。飢えや病気で次々と倒れていく中、司令部から不条理な指令が下され、兵士たちは追いつめられていく。さらに、オーストリア軍の激しい攻撃が彼らを襲う。

キャスト
少佐:クラウディオ・サンタマリア
若い中尉:アレッサンドロ・スペルドゥーティ
大尉:フランチェスコ・フォルミケッティ

スタッフ
監督:エルマンノ・オルミ
製作:ルイジ・ムジーニ、エリザベッタ・オルミ
脚本:エルマンノ・オルミ
撮影:ファビオ・オルミ

配給:ムヴィオラ

劇場情報
岩波ホールほか全国公開

公式ホームページ
http://www.moviola.jp/midori/


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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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2016年3月4日金曜日

【特別寄稿】映画『サウルの息子』評text成宮 秋祥

「負の歴史に奪われた生命に対して、私たちが唯一できる事」


 無力感が暫く続いた。席を立つ事が中々できなかった。全身から精気が抜けてしまったようだ。映画が終わって、画面の幕が下り、劇場が明るくなっても、私は暫く席を立てなかった。得体の知れない無力感に打ちのめされていた。

 映画の冒頭、画面にゾンダーコマンドについての簡単な文が挿入される。ゾンダーコマンドとは、ユダヤ人の死体処理を行う特殊部隊の事である。構成員は全員、同胞のユダヤ人であり、彼らはわずか数か月間の延命と引き換えに、その過酷な任務に従事していた。主人公のサウル・アウスランダー(ルーリグ・ゲーザ)もゾンダーコマンドの一員だ。

映画は、サウル自身を、まるで「観察する」ように映し進行する。「観察する」とは一体どういう事か? この映画はサウルの肩から顔の辺りまでだけしか映さない。まるで自画像のようなこじんまりした画面が、映画の始まりから終わりまで延々とサウルを映し続ける。

サウルは、収容所の死体処理場に黙々と同胞のユダヤ人を連れて行き、彼らの衣類を脱がし、ガス室に詰め込み、扉を閉める。すぐに中で複数の壮絶な悲鳴が響く。サウルは表情を落として、ひたすら耐えている。サウルの沈黙した表情とガス室内の悲鳴が、観ている者の視覚と聴覚を刺激し、ガス室内の地獄の光景を想像させる。恐ろしく居心地の悪い気にさせる。しかし実際の映像は、焦点がぼやけていたり、サウルの身体に隠れていたりと非常に断片的でよくは分からない。不穏な空気感だけが画面に持続している。それは終始一貫して徹底されている。

 その後も、サウルが何処かに移動し、何か作業をしているらしい事は想像できるが、実際に何をしているかは分からない。また、周囲で何か恐ろしい出来事が起こっているらしい事は想像できるが、これも実際に何が起きているかは分からない。明らかに全体を見せまいとする意図が感じられる。その意図に従って映画を観ていくと、次第にサウルの傍に自分がいるような不思議な感覚を覚える。自分も映画の中にいる。しかし映画の全体は分からない。観客それぞれが想像した恐ろしい世界の中で、ただサウルの傍に寄り添っている自分がいるだけなのだ。

 サウルを映すカメラは一体何を意味するのか? 誰がサウルを観察しているのか? 恐らく「神」であり、そして確実に私たち「現代人」である。神の視点を通じて、私たちはサウルの二日間の過酷な生活を観察する。しかし、私たちは神ではない。ただの人間だ。サウルに対して何もする事はできないし、起こってしまった悲劇を変える事もできない。サウルや奪われてしまった他のユダヤ人の魂に対して、私たちは徹底的に無力である事を痛感させられる。ただ、そこで起こった事象を、視覚や聴覚など、五感を通じて全身で体感し、忘れないように記憶する事しかできない。

 サウルを映すカメラは、時折サウル以外の被写体にも注目する。それはサウルの息子と思われる少年であったり、遺体を解剖しようとする医師であったり、作業着の背中に赤い×印を施された同胞のユダヤ人であったり、不気味に微笑むナチスの将校であったり。彼らを眺める視線は、映画のほぼ全編を貫くサウルを観察する視線とは異なっているように思う。実際にはサウルの後方から捉えた諸々の事象なのかもしれないが、どうしてもその被写体への深い注目は、サウル自身の視線から捉えているように思えてならない。サウルを観察する神の視線は、時にサウル自身の視線にも変化し、私たちに逃れようのない臨場感を持たせる。そこには、確実に命を奪われた人々がいて、また反対に、命を奪った人々がいた。そうした事実を、当事者の視線から私たちに再認識を促しているかのようだ。しかし、そこにもやはり途方もない無力感が湧き起こってくる。既に起こってしまった悲劇は変えられない。その事実を観察する事しかできない私たちは徹底的に無力でしかない。ただ、知られなかった事実を受け止める事しかできない。

 やがて、ナチスの残虐な殺戮が続く中、武装蜂起したゾンダーコマンドが死体処理場を爆破し、その混乱に乗じて収容所を同胞と共に脱走したサウルは、息子と思われる少年の遺体を川で流してしまい、埋葬に失敗する。生きる目的を失ったサウルは仲間と小屋に隠れるが、そこに一人の少年がやってくる。少年に微笑むサウルのショットを最後に、カメラはサウルの傍を離れ、小屋から走り去る少年の後を追いかける。これ以降、カメラは完全にサウルを映さなくなる。神はサウルを見捨てたのだろうか? 否、むしろ見捨てたのは私たちの方ではなかろうか? そこに、確かにゾンダーコマンドとして同胞をガス室に送って虐殺を手伝わされ、わずかに生き長らえるも無残に殺された、人間の尊厳を奪われた彼ら(ユダヤ人)が存在した。その事実から目を背けるように、カメラは遠くに走り去る少年の後ろ姿を追いかける。その最中、けたたましい機関銃の音が私たちの聴覚を直撃した。サウルは殺されてしまったのだろうか? 恐らくそうだろうが、その実際がカメラに映される事はない。私たちがその痛ましい最期を想像するしかない。まるで既に起こってしまった負の出来事について目を背けたり、忘れようとしたりした事への罰を、私たちは受けているかのようだ。そして、私たち現代人は、この映画に映された真実に対して、どうしようもなく無力なのだ。私たちに唯一できる事は、人間の尊厳を奪われた彼らが存在した事実を、忘れないように記憶するしかない。悲しい歴史を繰り返さないために。

(text:成宮 秋祥)




『サウルの息子』
英題:SON OF SAUL
2015年/107分/ハンガリー/カラー/スタンダード

作品解説
2015年、第68回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したハンガリー映画。アウシュビッツ解放70周年を記念して製作され、強制収容所で死体処理に従事するユダヤ人のサウルが、息子の遺体を見つけ、ユダヤ教の教義に基づき葬ろうとする姿や、大量殺戮が行われていた収容所の実態を描いた。

キャスト
サウル:ルーリグ・ゲーザ
アブラハム:モルナール・レべンテ
ビーダーマン:ユルス・レチン
顎鬚の男:トッド・シャルモン
医者:ジョーテール・シャーンドル

スタッフ
監督:ネメシュ・ラースロー
脚本:ネメシュ・ラースロー、クララ・ロワイエ
撮影:エルデーイ・マーチャーシュ
音響:ザーニ・タマーシュ

配給:ファインフィルムズ

公式ホームページ
http://www.finefilms.co.jp/saul/

劇場情報
新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか公開中

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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥:Narimiya Akiyoshi

映画交流会「映画の゛ある視点(テーマ)゛について語ろう会」主催。本業は介護福祉士。映画ライターとして、ドキュメンタリー専門誌neoneo(neoneo web)に映画レビューを寄稿。

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