2016年8月9日火曜日

【特別寄稿】映画『走れ、絶望に追いつかれない速さで』評text成宮 秋祥

「世界を望む“心の喪失感からの解放”」

 
 観ている間も、観終わった後も心地よかった。映像が一気に駆け抜けていった。むき出しの毒気も過剰な痛みの描写も素っ気なく、あらゆる時代の青春映画が共通して持つ独自の甘い切なさが、静かに心に残った。

 中川龍太郎監督の映画を映画館で観るのは、これで3回目だ。初めて彼の映画を映画館で観たのは2014年に公開された『Plastic Love Story』(2013)だ。3人の少女の恋物語を並列的に描いた群像劇のような恋愛映画だ。岩井俊二の映画を彷彿させるノスタルジックで繊細な映像表現が魅力的だったが、対照的に各登場人物が内面に抱える葛藤や苦悩、純粋さ、邪悪さをむき出しに、ストレートに映像として描写している。こうした”人間感情のむき出し”を描く映画監督と言えば、真っ先に園子温が思い浮かぶ。しかし園子温の映画よりも感情のむき出し度合いは抑制されている(園子温の映画は、人間感情のむき出しが優先され、往々にして映画の世界観を一旦破壊する。そして、どこに行き着くか分からない無軌道な疾走感が映画を支配する。それが園子温の映画の魅力でもある)。故に映画の世界観を破壊するまでには至らず、むしろ映画の世界観を尊重しつつ、中川監督自身の作家性や思想性を映画の登場人物に込め、体現させているように思えた。

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」 (c)『走れ、絶望に追いつかれない速さで』製作委員会

 
 自主製作で作られた映画には自由がある、と私は捉えている。製作者たちが誰にも気を使わず好きなように映画を作れる。それは大変に魅力的な事ではあるが、中川監督は敢えてその自由を縛って映画製作に望んでいるように思う。彼の映画の一つひとつには、造形的な美しさを強く感じる。彼の映画には形が存在する。『Calling』(2012)という恋愛映画では、二人の男女の生活をたんたんと追いかけながら、互いの心理の機微や、時に見せる感情の爆発を繊細に描写しているが、『Calling』でも人間感情のむき出しは映画の外には出ず、自然の光が美しい映像世界の中で静かに終結していく。彼が作る“映画の形”とは、例えるならば“子どもを見守る母親”であり、彼が描く“人間感情のむき出し”は、“自己肯定できない子ども”といえるかもしれない。母親に見守られているからこそ、子どもは真剣に自身が抱える葛藤や苦悩と戦い、乗り越え、自己を肯定していく。このような人間の成長過程を再び映画に例え直すと、彼は自主映画製作における自由を自ら縛る事で、自身の映画作家としての暴走ではなく、成長を望んでいたのではないかと、私は想像する。結果として世に出た映画は、どれも自主製作映画の枠組みを超えたウェルメイドな良作になったといえる。
 
 ウェルメイドな良作という言葉は、本作『走れ、絶望に追いつかれない速さで』にもあてはまる。しかし本作は、どちらかと言えば、他の中川監督の映画とは肌触りが異なるように感じる。これまで彼の映画は、男女関係や家族を描いてきたが、今回は明確に”2人の男の友情”を描いている。ジャンルを分けるとすれば、青春映画で間違いないだろう。しかしこの青春映画には、どうにも悲しい雰囲気が画に漂っている。親友の”死”を受け容れられない主人公の”心の喪失感”が画を支配しているからだ。それでも決して重苦しい訳ではなく、ノスタルジックな美しさも同時に感じられもする。
 
 これは個人的な見解になるが、本作の物語は2つのパートに分けられると思う。1つは、親友が生きていた頃の過去編、もう1つは、親友を失った後の現代編。昨年に劇場公開された『愛の小さな歴史』(2014)も過去編と現代編の2つのパートに分けられる。『愛の小さな歴史』は、壮絶な人生を経験した二人の男女が互いに大切な存在を失い、その後互いが奇跡的に出会うまでを話の核にあたる過去編として描き、その過去編の話が、現代編の主人公の少女(過去編の主人公である二人の男女の娘)の絶望を救済するというドラマティックな物語だった。本作の物語は、それとは似て非なる描き方がなされている。青春時代を共に過ごした親友の“薫”を失って、心に喪失感をおった主人公の“漣”の心情は絶望にまみれて今を生きる感覚を失っており、その状態は前作の現代編の主人公と共通している。しかし前作とは異なり、過去編の話が彼を救う訳ではない。映画を観ていると、薫と過ごした青春時代の記憶が、漣の生きる支えになっているように見えなくもないが、薫との記憶にしがみつこうとする漣の行動を見る限り、薫との記憶によって生きているのではなく、“生かされている”とも見えてくる。しかし、過去編の話が主人公の“生”を足止める楔としてだけ、あてはめられたとは言い難い。後半、数多くの出来事を通じて薫の死を受け容れた漣は、ハングライダーに自分の“生”を見出すのだが、このきっかけとなったのは、過去編で薫と漣が無断でビルの屋上に侵入した際に、薫が空に見たという“鳥”にあった事は容易に想像できる。要するに、漣は過去を受け容れた際に、自分の“生”の発見を悲しい想い出でもあった過去から得るという自立的な選択をしたのだ。結果として、過去の記憶は漣への救済として変容したのであるが、そこまでの話の筋運びが実に自然で違和感を抱かせない。また、妙な方向にぶれず、映画は一気に物語を駆け抜けていく。この確かな仕事ぶりに、ウェルメイドな映画を作り続けようとする中川監督の成長を強く感じた。
 
 本作では、各登場人物の人間感情のむき出しが素っ気なく、そこに物足りなさ(中川監督によく描かれる“踊り”のシーンも少ない)を感じてしまう。主人公の漣の人間感情のむき出し(心の喪失感からの解放)にじっと寄り添う演出が原因に思うが、もしかすると、むしろそこを重要視していたのかもしれない。なぜなら、本作で描かれる自己肯定できない子どもが、実は中川監督自身を指しているのではないかと思えるからだ。
 
 この映画は、中川監督自身の映画作家としての葛藤と苦悩を描いた映画だ。主人公の漣を、中川監督の生き写しと仮定すると、妙に腑に落ちる。絶望を乗り越えた漣はどうして最終的に空を望むのだろうか、それは世界の映画と真剣に向き合おうとする中川監督の決意表明だからだ。東京国際映画祭にて、史上初の2年連続入選を最年少で果たした事実がそれを証明しているように思う。自身の作家性と真剣に向きあいながら、世界を望む中川龍太郎監督の今後の活躍を、私は全面的に期待する。


(text:成宮秋祥)




『走れ、絶望に追いつかれない速さで』
2015年/83分/日本



作品解説
青春時代を共有した親友・薫の死を受け入れられないでいる漣。描き遺された絵には薫の中学時代の同級生「斉木環奈」の姿があった。薫にとって大切な存在であり続けた彼女に薫の死を知らせるべく漣は単身、彼女の元へ向かう決意をする……。この映画で描かれているのは「死」を通して新たに発見される「生」の煌めきである。主人公の漣が親友の死を受けて、悲しみのあまり感情を動かすことができないでいる姿や、ふとした瞬間に溢れ出す感情。ひとりの死が多くの生を翻弄する、そんな瞬間。実力派として注目の若手俳優、太賀、小林竜樹、黒川芽以が織りなす繊細な感情の機微は見所。


キャスト
漣:太賀
薫:小林竜樹
理沙子:黒川芽以

スタッフ
監督/脚本 : 中川龍太郎
製作総指揮 : 木ノ内輝
プロデューサー : 藤村駿
ラインプロデューサー : 佐藤宏
撮影監督/編集 : 今野康裕
録音指導 : 井手翔平
録音 : 伊豆田廉明
衣装/メイク : 平方さつき
音楽 : 酒本信太

公式ホームページ
http://tokyonewcinema.com/works/tokyo-sunrise/

★第28回(2015年)東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門上映作品。


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【執筆者プロフィール】

成宮 秋祥 Akihiro Narimiya

1989年、東京都出身。専門学校卒業後、介護福祉士として都内の福祉施設に勤める。10歳頃から映画漬けの日々を送る。これまでに観た映画の総本数は5000本以上。キネマ旬報「読者の映画評」に掲載5回。ドキュメンタリー雑誌『neoneo』(neoneoWeb)に寄稿。映画イベント「映画の“ある視点(テーマ)”について語ろう会」主催。その他、映画解説動画「映画観やがれ、バカヤロー!」を定期的に実施。将来の夢、映画監督になる。

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