2016年6月24日金曜日

フランス映画祭2016〜映画『太陽のめざめ』評text岡村 亜紀子

「うちがわに在る不可視な光」


人間の身体は太陽を求める。「体内時計」ということばがあるけれど、太陽に照らされていないと身体機能が狂ってしまうらしい。かくいう深夜帯で働くわたしにとっても、陽に照らされた世界はいろんな意味でまぶしいので、それには多少の実感がある。人は太陽を求めている、と。


 大女優カトリーヌ・ドヌーヴ演じる判事と、愛に飢えた非行少年の物語だと思っていた。そうした“主役”が辿る物語の軌跡が描かれているのだと。映画はその鑑賞前の印象を良い形で覆してくれた。映画が映していたのは“世界”だった。物語の中で生を営む人々の生活だった。そこに宿る感情が、もちろん現れる。クローズ・アップされる。しかし、やはり描かれていたのは世界だと感じる。その世界の中で、感情は生活に添えられたもののように映されていくのと反比例して、世界の一部である物語の住人たちは感情を自らから離さない。手放せない。割り切らない。誰だって、その苦しさに覚えがあると思う。


 少年・マロニー(ロッド・パラド)は愛に飢えていた。若くしてシングル・マザーになった母親(サラ・フォレスティエ)は、まだまだ人生を謳歌したい。子供も可愛いけれど、自分の人生も大切といった風で責任感に乏しく育児を放棄しがちで、6歳のマロニーは2ヶ月も学校に行かず、母親と共にフローランス判事(カトリーヌ・ドヌーヴ)に裁判所に呼び出されてしまう。母に「くれてやる!」と置き去りにされたマロニーは傷ついた。回りが想像するより、きっと深く。物語はマロニーを軸に時間を進め、少年は問題を起こしては、判事と再会する。

 検察官に少年院に入れられそうになっては、頼りない様子の弁護士がマロニーを弁護する弁に説得力はあまりないが、判事は、監督する教育係をつけて様子を見る、少年院ではなく更生施設に入れるなどしてマロニーを擁護する選択を繰り返す。期待を裏切られ続けた判事は、なぜマロニーに温情を与え続けたのだろうか?


© 2015 LES FILMS DU KIOSQUE - FRANCE 2 CINÉMA - WILD BUNCH - RHÔNE ALPES CINÉMA – PICTANOVO

 少年は親元を離れ、本能のおもむくままに行動しているような少年たちとそこで働く指導係たちに囲まれて過ごす。マロニーは、反発していた教育係であるヤン(ブノワ・マジメル)の電話番号を素直に聞く。
「ここにかければ、あんたと話せるの?」と。相手が大人でもひるまず、構わずその顔に唾を吐く。差し伸べられた手を取ることもしない。でも時には自分から手を伸ばす。少年は愛情に飢えていたと同時に怯えていた。彼は世界を憎んでいたけれど、欲しいものはちゃんとわかっていた。それを与えてくれない世界を憎んでいた。少年は6歳の時に失われたものを取り戻したかったのだ。それは強い、強い渇望。

 少年を演じるロッド・パラドはこの作品がスクリーンデビューだがそれが信じられないほどに、繊細な面立ちと細身の体躯で、痛みや悲しみ、いらだちが暴力的な言動のうちに揺れ動くさまを表している。更生施設から電話をかけ家族との絆・母親の愛情を必要とする様子などのいたいけな子供の部分と、自分の損得や後先を考えずに行動してしまう刹那的な少年の姿、世間に対する容赦のない振る舞いやシビアな態度と母親や弟を守ろうとする大人の部分を抱える、マロニーとういう人物に圧倒的な現実感を与えている。ロッド・パラドの身体は演じる年齢によって変化してさえ見える。


 怯えた子供に対する指導員や教育係のヤン、判事といった大人たちは、少年に失われた世界ではなく、そこにある世界の可能性を示そうとする。世界には優しい大人だけではない。マロニーを少年院に入れようとする検察官、再入学を目指すマロニーに向けられた面接官の否定的なまなざし。揺らいでいる大人もいる。マロニーの母親は、マロニーと同様失ったなにかを求め振りまわされ続ける少女のようだし、指導員のヤンもいらだちをマロニーにぶつけて行きすぎた指導をしてしまう。

 そう思うとドヌーヴ演じる判事は、世界の中で始めから太陽のように揺るぎない存在として在るように見える。施設でマロニーが共に過ごす少年たちが「あんたは好きだよ」というように、大人を信用できないマロニーも、判事の信頼を自分は裏切りながら、どこか判事だけは信用している様子を見せる。
 カトリーヌ・ドヌーヴの身体は年齢とともにふくよかになった。彼女がどんな役を演じても、その気品や気高さ美しさはどこかに現れている。それは優美な面立ちに感じられたものには違いないかもしれないが、年齢とともにドヌーヴの纏う美しさは、素晴らしい風景に出逢った折に感じるような、星や絵や音楽や、そういったものに触れた時に自然に心に生まれるものへと進化している。
 ドヌーヴの面立ちは涼やかで冷たくも感じるほど整っているけれど、判事を演じる彼女のおおきな身体からは、安心感や暖かさがにじみ出ている。それは“お母さん”のようだ。揺るぎなく思える彼女も、マロニーや教育係・ヤンやその他の少年たちに手を妬き、時に“育児”に悩むことがあるのかも知れない。しかしその揺らぎを映画は映さない。


 曇りなき眼、という表現を聞いたことがある。多分曇ってしまうから、このことばがあるのだろう。晴れの日も曇りの日も、雨の日も台風の日もある。それが世界。どういう日が好きか、人によって違う。どんな環境に在るのかも。それでも自分を信じてくれる人の存在は、太陽の光線のように必要なのだと思った。
 本フランス映画祭の上映作品『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』で高校教師・アンヌが生徒に向けていったことば「あなたたちを信じているのはわたしだけ?」が、生徒たちの心へ一石を投じたように、判事は時に優しく、時に厳しく、「手に負えないわ」と突き放したりもしながら、少年の心に投げかけ続けている“あなたを信じている”というメッセージは、少年の心に陽の光の様に照り、栄養を与えていたのだろうか。
 心にも養分が必要だ。愛情や優しさというものは持って生まれることはきっとなく、己の心や身体を通して知っていくものなのだと思う。人はその与えられた愛情や優しさを、他の誰かにあげることのできる生物である。ある日、マロニーが打ちひしがれるヤンの手をすっと握るように。自分の弱さによって物事が悪しき方向へ進むように、自分の強さによって物事が好転するとは限らない。しかしその強さを他人にぶつけるのではなく自分に向けた時になにかが生まれる。そのなにかを誰かのために使えたら、誰かのために強くなれたら、陽に照られた時に世界が姿を現すように、誰かの眼に光を与えて、色々なものを見せることのできる太陽になれるのかもしれない。


 ラストシーンで映画が映していた雑踏のシーンから、カメラが空中に消えたような感覚を受けた。そしてスクリーンとこちら側との境を失ったように思える。この映画が世界を映していると書いた。その住人を演じた俳優たちの素晴らしい演技について、最後に書き添えておきたい。
 フランスを代表する名女優、カトリーヌ・ドヌーヴの美しい瞳に宿る暖かさ、少年マロニーを演じたロッド・パラドの新人と思えぬ深み、マロニーの教育係・ヤンを演じたブノワ・マジメルの役柄すべてを含んでいるような面立ち、マロニーと親しくなる更生施設の指導員の娘テスを演じたディアーヌ・ルーセルの少年のような身体と瞳のいたいけさ、そしてマロニーの母親役のサラ・フォレスティエがシングル・マザー役のうちに感じさせた悲哀、どれも過剰さのない素晴らしさだった。
 マロニーがある施設を脱走した際にたいしたおとがめを受けなかった時、同じ施設の少年たちは、それはマロニーが「フランス人」だからだといった。スクリーンに映される光景からは、その場にある物体の質感や空気の温度、食べ物の匂いが感じられるようなこちら側への浸透があった。けれどそれは意図的に演出された構図などからではなく、この映画が持つどこにも属さない距離感なのだと思う。それはフランスという国が抱えるある問題を映しながら、客観的にそれを捉え、そして物語の住人たちの描き方にも徹底され、遠くて近い絶妙な距離感をわたしにもたらし、物語との境を取り払った。


 ラストシーンで感じた揺らぎは、スクリーンのこちら側に意識を戻しても、物語を世界の住人たちを忘れさせてはくれないだろう。世界には揺らぎがある。でもその揺らぎの中で映画が示した揺るぎなく必要とされる感情に名前を付けるなら、愛だと思う。そしてそれは世界の誰しもが欲し、世界のどこでも共通する認識なのではないだろうか。

(text:岡村亜紀子)





『太陽のめざめ』
原題:La Tête haute
2015年/フランス/119分
(上映日時:オープニング 6/24(金)17:00、会場:有楽町朝日ホール)

作品解説
2015年カンヌ国際映画祭で、『太陽のめざめ』で女性監督史上2度目のオープニング作品を飾り、主演した『モン・ロワ(原題)』で女優賞を獲得したエマニュエル・ベルコの監督最新作。主演には大女優カトリーヌ・ドヌーヴ。少年マロニーを演じたロッド・パラドは、フランスの2大映画賞リュミエール賞、セザール賞で新人賞を受賞した。親の愛を知らず人生に迷う少年と、引退間近の判事が出会い、新たな道をみつけるまでを描く感動の物語。家庭裁判所の判事のフローランスは、母親に置き去りにされた6歳の少年マロニーを保護する。10年後、16歳となったマロニーは、母親の育児放棄により心に傷を負い、学校にも通えず非行を繰り返していた。マロニーと再会したフローランスは、彼が人生をみつけられるように優しく手を差し伸べるが……。

キャスト
フローランス判事:カトリーヌ・ドヌーヴ
マロニー:ロッド・パラド
ヤン:ブノワ・マジメル
マロニーの母親:サラ・フォレスティエ
テス:ディアーヌ・ルーセル

スタッフ
監督/脚本:エマニュエル・ベルコ
脚本:マルシア・ロマーノ
撮影:ギヨーム・シフマン
編集:ジュリアン・ルルー

配給:アルバトロス・フィルム/セテラ・インターナショナル

公式ホームページ
http://www.cetera.co.jp/taiyou/

劇場情報
2016年8月、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開予定

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【執筆者プロフィール】

岡村 亜紀子 Akiko Okamura

1980年生まれの、レンタル店店員。勤務時間は主に深夜。
2007年のフランス映画祭の団長はカトリーヌ・ドヌーヴでした。
信じられない気持ちで会場へ行くと、当たり前ですがそこにドヌーヴがいました。
その時上映された『輝ける女たち』について語る彼女は、
想像よりも気さくで飾らない人のように思え、その記憶はわたしの中で
朧げになりながらも、美しいイメージとして残り続けています。

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フランス映画祭2016




 毎年初夏に開催され、⼤勢の観客で⼈気を集めているフランス映画祭。2012年より地方でも開催され、今年も福岡、京都、⼤阪で開催されます。今年はキャッチコピーに「フレンチシネマで旅する4日間 in 有楽町」を掲げ、多様なシチュエーションの中を旅するような、13作品のラインナップとなっていますが、ほぼ半数の6作品が⼥性監督によるものであることが特徴的です。オープニング作品は、カトリーヌ・ドヌーブが主演を 務める『太陽のめざめ』。その他、10年振りの来日となる今年の団⻑・イザベル・ユペールの出演作『愛と死の谷』と『アスファルト』や、今年亡くなったジャック・リヴェット監督の追悼上映として、デビュー作『パリはわれらのもの』が デジタルリマスター上映されます。
 映画祭に花を添える⼒強いゲスト陣は、オープニング 作品『太陽のめざめ』の監督であり『モン・ロワ(原題)』の主演⼥優でもあるエマニュエル・ベルコ、今年のカンヌ映画祭の オープニングの司会を務める予定となっている俳優ローラン・ラフィット、など多彩で豪華な顔ぶれが揃います。24日に行われるオープニングセレモニーでは、来日するゲストに加え、今年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉に『海よりもまだ深く』が正式出品された是枝裕和監督と、最新作『淵に立つ』が同部門の審査員賞に輝いた深田晃司監督が登壇します。その他、作品上映時に行われるトークショーでもゲストとの交流を楽しむことが出来ます。
 また、アンスティチュ・フランセ日本では「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」と題して、恋愛にまつわる作品を特集し、20〜30年代から現在にいたるまで撮られた恋愛映画の特集上映が7月まで行われています。
 是非、素敵なフランス映画と出会いに劇場に足を運んでみてください。

〈開催概要〉
開催日程:6/24(金)〜27(月)
会場:有楽町朝日ホール、TOHOシネマズ 日劇
公式サイト:www.unifrance.jp/festival
Twitter:@UnifranceTokyo
Facebook:https://www.facebook.com/unifrance.tokyo

*上映スケジュール
http://unifrance.jp/festival/2016/schedule

主催:ユニフランス
共催:朝日新聞社
助成:在日フランス大使館/アンスティチュ・フランセ日本
協賛:ルノー/ラコステ/エールフランス航空
後援:フランス文化・コミュニケーション省-CNC/TITRA FILM
特別協力:TOHOシネマズ/パレスホテル東京
Supporting Radio:J-WAVE 81.3FM
協力:三菱地所/ルミネ有楽町/阪急メンズ東京
運営:ユニフランス/東京フィルメックス
宣伝:プレイタイム


特集上映「恋愛のディスクール 映画と愛をめぐる断章」
会場:アンスティチュ・フランセ東京
http://www.institutfrancais.jp/tokyo/events-manager/cinema1604150709/

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