2017年12月26日火曜日

映画『パーティで女の子に話しかけるには』評text彩灯 甫

「新しい希望が植わる時」


一部、物語の結末の触れている箇所があります

頭がくらくらして、おかしくなりそうな映画だ(もちろんいい意味で)。例えばデヴィッド・リンチの作品はいつもそうあり続けてきたかもしれないし、個人的に2017年のベストだと思っているポール・ヴァーホーベン監督の『エル ELLE』だって、典型的な人物描写をことごとくはねのけて観客を不安に陥れるような、頭を殴られたような気分になる映画だった。だから『パーティで女の子に話しかけるには』を観た時の感覚自体が「新しい」と言い張るつもりはない。過去にこんな映画があった、と類似した作品を挙げることもできると思う(個人的には『時計じかけのオレンジ』に似ていると思った。内容ではなくデザインが)。だけど本作は2017年現在の「映画」にとって、新しさの萌芽みたいなものを秘めている。あらゆる言葉と感情が息詰まって、対立して、ポリティカル・コレクトネスが本当に「正しい」もののような顔をして映画に横行し、「多様性」という言葉が権力を持った全然多様でない人たちに奪われてしまった時代。そんな地平に立って、フォースが覚醒した結果過去に対する新しさを主な対立軸に大論争が起きている(否定してません)某シリーズより一歩も二歩も前に進んだ、新しい希望を観た気がする。

舞台は1977年のロンドン郊外。現代ではない。パンクを愛し、憧れ、音楽のレビューと自分の漫画を載せたファンジン作りに夢中になっているボンクラで童貞でまだ何者でもない青年エン(アレックス・シャープ)は、パンクで繋がる友人二人とライブを観た後、ある一軒家に吸い寄せられる。そこでは赤、オレンジ、黄色、水色、紫、白の各「コロニー」の色の全身タイツみたいな服に身を包んだ人々が踊ったり体を触り合ったり超音波を発したり組体操のようなことをしている。奇妙過ぎる。パンクと恋と青春、みたいなメッキがすっかり剥げて観客は何を観ているのかよく分からなくなる。そしてその感覚は映画の終盤まで続く。エンは黄色の第4コロニーに属す少女ザン(エル・ファニング)と出会う。各コロニーはそれぞれ瞑想とか官能とか身体表現とか、それぞれの性質というか宗派? みたいなものを持っていて、多分それに基づいて謎に踊ったりしている。第4コロニーは個性を尊重することを大切にしていて、互いの顔を触り合って慈しみ感を出しているが、その実、本当の意味で個人の想いや衝動や渇望のようなものは全体の調和のためにソフトな手つきで抑制されている。それに対し反抗心を抱くザンはエンの「パンク」に反応し、一緒に逃げ出す。まるで本末転倒だけど、それは僕たちが生きている現代の状況を、撫でるようにして思い起こさせる。

「……もっとパンクして」

奇妙な家から抜け出した時、エンの仲間の一人ジョン(イーサン・ローレンス)は「あれは未来だった」と言う。劇中、ザンたちはどうも宇宙人であるらしいことがぼんやり示される。あるいは外国から来た旅行者、であるように見えなくもない。その曖昧さが終始、観客を不安にさせる。今、見ているのは神秘的で夢のあるSF・宇宙人・未来といった類のものなのか、それとも危険なカルト(その暴力性を観客は知っている)なのか。映画の中でそれがはっきりしないのは「いちばん大切なことではないから」としか言えないだろう。現実と虚構をついはっきりさせたがる傾向がある(「現実対虚構」というコピーの映画もあった)と感じるけれど、本作は「虚実入り乱れる」というニュアンスでもなくて、本当に境がない。だからある場面でエンのもう一人の友人ヴィックが、第5コロニーのオレンジの女がパンクの少女とアナルセックスみたいなことを始めて、少女は興奮しているのだけどオレンジの女の身体からはもう一人別の男が産まれてきて……という、自分でも何を書いているのかよく分からないことが起こっているのを目撃するのだが、そのシーン以外、直接的な描写で真に異常なことは意外と発生しない(なのでそのふんわりした感覚を残すためにもこのシーンは不必要だったのではないかと思ったりもする)。男と女、人種、国家、家族、コロニー、善と悪、やっていいことと悪いこと……などなど、いろんなところにはっきりした境界があるように思い込みながら僕たちは生きていて、社会はそういうふうにできている。だけどその考え方は実際には宗教というかカルトみたいなものかもしれなくて、本当ははっきりした線など多分どこにもない。本作は現実と虚構の間にさえ「そんな線ないよ」という曖昧な世界に観客を放り込んで、僕たちが「まっとうだ」と信じ込んでいる感覚をぐらぐら揺さぶってくる。

ザンとエンに残された時間は48時間。そう、本作は小難しい社会派ドラマなどではなく、切なく胸キュンなラブストーリーなのだ。だけど臭う。とても臭い。「クサイ芝居だ」とかそういうレベルの話ではなくて、登場人物たちの体臭が、若い肉と汗の香しい感覚がスクリーンからはみ出してくるような、近づきすぎなほど人間に触っていくまなざし。
家を飛び出したザンは、そこでエンと口づけを交わす。「私の身体、壊れかけてる」なんて言いながら。本当に壊れかけているのか、どうもメカニズムは不明なのだがザンはエンとキスしながら嘔吐する。本作の最も印象的な瞬間の一つだと思う。人がゲロを吐くシーンがある映画に悪いものはない、と誰かが言っていた。それはつまり汚いものや人が見たくないもの、綺麗ごとでないことを見せてくれるという担保のようなものだと思うけれど(ちなみにこの映画でエル・ファニングが吐くゲロは実際にはリンゴジュースとコーンフレークだったらしく 、それを知ったエル・ファニングのファンたちが喜んだり興奮したりしているらしい、というのはどうでもいい)、この映画では不思議と、あまり汚いもののように見えない。キスという甘美な「記号」が描かれる瞬間に脈絡なく差し挟まれるそれは、まだこの世界で言葉になっていない感覚、かけがえのない個人の感情が発露する瞬間のようで、愛しいと同時にとても狂おしい。ある種の美しさみたいなものを帯びているようにさえ感じられる。
エンはザンの身体に性的な興奮を覚えるけれど、ザンはエンの身体に興味津々ながらも性欲という感覚自体が覚束ないらしく、体を触り合ったり、顔を舐めたり、互いの口の中に向かって叫んだりする。口臭、体臭、排泄物……吐しゃ物以外は画面に映っていないはずのこうしたものの匂いが全部漂ってくるかんじがする。だからこれは褒めているのだけど、実際にそういう感覚を僕が抱いたのでそのまま書くと、本当に「気持ち悪くなる」映画だ。ザンはエンと「不完全な性交渉をした」と言う。その場面は描かれない。

宇宙人たち(あるいはカルト集団)には「子どもを食べる」という風習があった。彼らは好き勝手にセックスしまくった結果、派閥主義、戦争、環境破壊に陥って資源を使い果たしてしまった。その反省から親が子どもを食べ、少しずつ人口を減らしているのだと言う。このまま元の星に帰ったら、ザンも食べられてしまう――。ちなみにザンたちが帰ることをエンは「集団自殺」と言ったりもする。
「食べる」瞬間は劇中、セックスに代替、あるいは対極の行為として描かれる。旧時代的な家族の在り方や血の繫がりから脱出しようとする「アンチ・家族」な映画がいろいろなところで生まれてきていると思う(たとえば日本の『湯を沸かすほどの熱い愛』はそれをやろうとして上手くいかなかった映画なのではないか)。それと同時に、性交渉を介した関係の継続や、それを物語上の「ゴール」とする恋愛の形から脱却しようとする「アンチ・セックス」な映画が生まれてきているようにも感じている(たとえば『溺れるナイフ』では中学生の頃から互いを想い合っている二人が数年後にようやく……という場面があるが、このシーンはよく見ると「試みたけれど結局できなかった」ようにも見える)。それは何もプラットニックでウブな青春の恋、というような話ではなくて、そういう身体的・動物的な結び付き(もちろんそれだけではないとは思うけれど)ではない形で人と人が繋がるとはどういうことなのか、他に方法がないのか、もっと深く相手の中に入れる何かが……という模索ではないだろうか。ただ、それはどんなに切実であっても、新しい段階への踏み出しであるようなかんじもするけれど、強者からすれば「それじゃ人間は殖えないし死しかないじゃん」という話であって、それを言われたら手も足も出ないような脆さがあった。本作はそこに一つの禁断、あるいはドラッグ、魔法?をかけた。ザンが「妊娠」するのだ。ザンはエンに「あなたの子よ」と告げる。先にも書いたけれど、二人は「不完全な性交渉」しかしていないはずなのに。馬鹿げているけれど、僕はそこに新しい希望の種が植わる思いがした。

監督のジョン・キャメロン・ミッチェルは、自身のフィルモグラフィーの中で何度も、「まっとう」な人からすれば不安定な心を、湿っぽくないポップな手触りでスクリーン上に燃え上がらせてきた。性転換した結果男性器が中途半端な盛り上がりとして残ってしまったロック歌手を主人公に据え自ら演じた『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』に続き、2作目『ショートバス』では、セックスという行為にある種カルト的に癒され、支えられ、狂わされる人々を描いた。『ショートバス』と本作はセックスへの距離感が対極でありつつも、より深い他者との通じ合いを渇望する点で双子のような作品にも見える。そして『ショートバス』との間に位置する3作目『ラビット・ホール』(『パーティで~』は監督4作目)では、ニコール・キッドマンとアーロン・エッカート演じる、子どもを交通事故で亡くした夫婦の「その後」を描く。一生拭えない悲しみを背負ってしまっても、それでも生きていくための「再生」の物語。 
話は少しずれてしまうけれど僕は「その後」を描いた映画が好きだ。「~の続編」とか「2」「リミックス」「エピソード……」とかいう話ではない。多くの映画では、今まさに盛り上がりつつある「現在」が描かれる。その一方、こんな体験をしてしまった登場人物たちはこれからどうやって生きていくのだろう。そこが見たいのに……と思うことも少なくない。例えばニコール・キッドマンも出演した『ライオン 25年目のただいま』は、インドで迷子になった5歳の少年が故郷を探し出す話だが、故郷の母親と感動の再会を遂げたところで物語は閉じてしまう。自分を「わが子」として育ててくれた里親との関係はどうなるのか、とか(しかもこの里親を演じたのがニコールだった! そして彼女は実生活でも養子を迎えた経験を持つという)「その後」のことにいろいろ思いを巡らせてしまう。もっとも『ライオン』は実話ベースだからある程度は仕方ないのかもしれないが……。
『ラビット・ホール』では、子どもを撥ねた車を運転していた青年との対話と、彼が描いたコミック「ラビット・ホール」に登場する「並行宇宙」へと思いを馳せることで、主人公が傷を負ったまま、それでも少しずつこの現実の中で再生し始める。ミッチェル監督にとって『パーティで女の子に話しかけるには』は、「その後」を描いた『ラビット・ホール』の次の作品であり、そこで描かれたのが今回の「奇跡の子」だった。
こうして振り返るとミッチェルが本作で辿り着いた場所は必然だったようにも感じられる。『ラビット・ホール』の主人公は「二人目の子供を作ろう」と持ち掛ける夫に嫌悪感を示していた。そしてその妻であり死んだ子どもの母親を演じたニコールは本作でパンクな若者たちの「マザー」的存在・ボディシーアを演じている。ボディシーアは「12回中絶して何の見返りもなかった」末、子どもを産むことを諦めた女でもある。ザンが子どもを宿したことで物語はまた転がり始める。食べられるだけの子どもではなく「親」の立場としてコロニー内で権利を持ったのだ。しかもザンの子どもはセックスの結果生まれる命ではない(もちろん、エンはしたかったのだろうが)。だからその奇跡は、絶滅に向かっていた彼ら一族を救う手立てになるかもしれない。そしてその奇跡は観客にとって、絶対に崩れないと思われた現実の壁が壊れる瞬間だ。何かが変わり、希望が灯る瞬間。彼女が吐いたゲロのように、まだ名前のついていない感情のような、誰も知らない希望がこの世界にあるかもしれないと思わせてくれる(この「奇跡の子」と通ずるような物語は2017年に公開されたある大作映画でも描かれていて、ネタバレになってしまうので作品名は伏せるけれど、それはとても重要なことだと思う)。
現実が全然ハッピーじゃない中で、「映画で何を描くか」はとても複雑で深刻な局面に来ていると感じる。現実が辛すぎるのにバッドエンドなんて見たくないし、かといってハッピーエンドは嘘っぽい。映像的に派手なことをやってももはや技術の進歩に慣れ過ぎて何を観ても驚かないし「誰かを傷つける可能性がある」と烙印を押された要素や表現は全部排除される。そして横行しているのが「エモい」と言われる扇情的で快楽主義的で、時としてあまり中身のない表現。別にそれが悪いと思っているわけではなくて、そういう類で面白い映画もたくさん生まれている。とても豊かな状態ではある。だけど最近思うのだ、もし自分が現代の高校生とかだったら、今のように映画に惹かれるようになっていただろうか、と。

本作もまた、とてもエモーショナルな作品ではある。「食べることの倫理」を語って聞かせるPT(保護者)たちにエンは「BOLLOCKS(ふざけんな)!」と叫ぶ。
「メチャクチャしても俺たちは生きてる。食べて、クソして、踊って、恋をする。親がブチ壊したものも直す」
ジャズミュージシャンで「左翼」で「無責任」だった「クール」な父親にエンは捨てられた。だけどその親でさえ自分を喰ったりはしなかった。生きることを押さえつけることなんてできないんだ、という叫びだ。そして一族とともに星へ帰り子どもを産むのか、地球でエンと暮らすのかを迫られたザンは、引き止めようとするエンに「アイ・ラブ・ユー」と告げる。その時ザンが流すのはゲロじゃなく涙だ。この二つのシーンでの二人の主人公の言葉には胸を締め付けられるような感覚がある。それはこのSFだかカルトだか分からない異常な世界の物語が、僕たちが今生きている2017年の世界と地続きであることに気付かされるからだ。多義的で含みのある会話が続いてきた中で、その言葉だけは真っ直ぐ、逃げずに相手に刺さっていく。そしてそれは巨大な怪獣でも宇宙人でもテロリストでも大統領でも何でもいいから敵に仕立てて感情を煽るような「エモさ」とは異なる、今を変えるため、自分を変えてくれた誰かのために発する「本当の気持ち」だ。ザンは結局、エンを振り切って星へ帰ってしまう。その別れは切ないが、もしこの映画が「エモさ原理主義」的に作られていたとしたらこういう結末になっていただろうか。ザンがエンを選んで地球に残って……という展開だったら、どちらが残酷なのだろうか。

エモーショナルでありつつ、安易な共感を誘わないのも本作の特徴だ。それは多分この時代設定に由来する。冒頭、エンたちがパンクバンドの演奏に狂ったように踊り狂う場面がある。それは異常なほど暴力的で狂騒的。でもこれは現代の物語ではなく今から40年前。描かれる若者たちは今50~60代ということになる。現代の若者にとっての親世代であり「敵世代」に当たるのかもしれない。そんな人たちが「大人」に抑圧され、中指を立てる時代。終盤、ザンを救うためにパンクな若者たちが宇宙人の家に攻め込む場面がある。対立は戦意を高揚させるが、この映画では一体何と何が対立しているかよく分からないので、観客はパンク側に寄り添いつつもどこか白けた目でその戦いを見守るだろう。この映画には「境界がない」と先に書いたけれど、そこで超える最も大きな壁は「世代」だと思う。俺たちの、私たちの「世代の」……という物言いは世の常だが、本当はそんなものさえ時代やカルトや社会や自分自身が作っているだけなのかもしれない。対立軸に入り込み切れないこのかんじは映画全体を覆っていて、だからこそたくさんのノイズの中から浮かび上がってくる普遍的な感覚は、ザンとエンの互いを想い合う気持ちだけなのだ。
エンが宇宙人たちの家に吸い寄せられるように近づいていく冒頭のシーンで、彼はそこから鳴る音楽に耳を澄ませている。それを聴いたことがあるような、未知の何かに触れているような感覚を抱いている。ノスタルジーと新しさの間にも壁はないのかもしれない。そうして出会った二人は40年前の若者たちがひしめくライブハウスでともにステージに立ち、歌い、音楽を奏で創造する。希望の種はきっと、その時に植わったのである。

(text: 彩灯甫  )


 『パーティで女の子に話しかけるには』
2017年/103分/イギリス、アメリカ

監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル

公式ホームページ:http://gaga.ne.jp/girlsatparties/

劇場情報
12月1日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー

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【執筆者プロフィール】

彩灯 甫:Saito Hajime

2017年8月に「沖田灯」という筆名を改めました。
小説、映像脚本、映画・音楽批評など書いています。
1989年生まれ。

Twitter:@Akari_Okita
Blog:http://hamintia.blog.fc2.com/

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