「新しい希望が植わる時」
一部、物語の結末の触れている箇所があります
家を飛び出したザンは、そこでエンと口づけを交わす。「私の身体、壊れかけてる」なんて言いながら。本当に壊れかけているのか、どうもメカニズムは不明なのだがザンはエンとキスしながら嘔吐する。本作の最も印象的な瞬間の一つだと思う。人がゲロを吐くシーンがある映画に悪いものはない、と誰かが言っていた。それはつまり汚いものや人が見たくないもの、綺麗ごとでないことを見せてくれるという担保のようなものだと思うけれど(ちなみにこの映画でエル・ファニングが吐くゲロは実際にはリンゴジュースとコーンフレークだったらしく 、それを知ったエル・ファニングのファンたちが喜んだり興奮したりしているらしい、というのはどうでもいい)、この映画では不思議と、あまり汚いもののように見えない。キスという甘美な「記号」が描かれる瞬間に脈絡なく差し挟まれるそれは、まだこの世界で言葉になっていない感覚、かけがえのない個人の感情が発露する瞬間のようで、愛しいと同時にとても狂おしい。ある種の美しさみたいなものを帯びているようにさえ感じられる。
エンはザンの身体に性的な興奮を覚えるけれど、ザンはエンの身体に興味津々ながらも性欲という感覚自体が覚束ないらしく、体を触り合ったり、顔を舐めたり、互いの口の中に向かって叫んだりする。口臭、体臭、排泄物……吐しゃ物以外は画面に映っていないはずのこうしたものの匂いが全部漂ってくるかんじがする。だからこれは褒めているのだけど、実際にそういう感覚を僕が抱いたのでそのまま書くと、本当に「気持ち悪くなる」映画だ。ザンはエンと「不完全な性交渉をした」と言う。その場面は描かれない。
「食べる」瞬間は劇中、セックスに代替、あるいは対極の行為として描かれる。旧時代的な家族の在り方や血の繫がりから脱出しようとする「アンチ・家族」な映画がいろいろなところで生まれてきていると思う(たとえば日本の『湯を沸かすほどの熱い愛』はそれをやろうとして上手くいかなかった映画なのではないか)。それと同時に、性交渉を介した関係の継続や、それを物語上の「ゴール」とする恋愛の形から脱却しようとする「アンチ・セックス」な映画が生まれてきているようにも感じている(たとえば『溺れるナイフ』では中学生の頃から互いを想い合っている二人が数年後にようやく……という場面があるが、このシーンはよく見ると「試みたけれど結局できなかった」ようにも見える)。それは何もプラットニックでウブな青春の恋、というような話ではなくて、そういう身体的・動物的な結び付き(もちろんそれだけではないとは思うけれど)ではない形で人と人が繋がるとはどういうことなのか、他に方法がないのか、もっと深く相手の中に入れる何かが……という模索ではないだろうか。ただ、それはどんなに切実であっても、新しい段階への踏み出しであるようなかんじもするけれど、強者からすれば「それじゃ人間は殖えないし死しかないじゃん」という話であって、それを言われたら手も足も出ないような脆さがあった。本作はそこに一つの禁断、あるいはドラッグ、魔法?をかけた。ザンが「妊娠」するのだ。ザンはエンに「あなたの子よ」と告げる。先にも書いたけれど、二人は「不完全な性交渉」しかしていないはずなのに。馬鹿げているけれど、僕はそこに新しい希望の種が植わる思いがした。
話は少しずれてしまうけれど僕は「その後」を描いた映画が好きだ。「~の続編」とか「2」「リミックス」「エピソード……」とかいう話ではない。多くの映画では、今まさに盛り上がりつつある「現在」が描かれる。その一方、こんな体験をしてしまった登場人物たちはこれからどうやって生きていくのだろう。そこが見たいのに……と思うことも少なくない。例えばニコール・キッドマンも出演した『ライオン 25年目のただいま』は、インドで迷子になった5歳の少年が故郷を探し出す話だが、故郷の母親と感動の再会を遂げたところで物語は閉じてしまう。自分を「わが子」として育ててくれた里親との関係はどうなるのか、とか(しかもこの里親を演じたのがニコールだった! そして彼女は実生活でも養子を迎えた経験を持つという)「その後」のことにいろいろ思いを巡らせてしまう。もっとも『ライオン』は実話ベースだからある程度は仕方ないのかもしれないが……。
『ラビット・ホール』では、子どもを撥ねた車を運転していた青年との対話と、彼が描いたコミック「ラビット・ホール」に登場する「並行宇宙」へと思いを馳せることで、主人公が傷を負ったまま、それでも少しずつこの現実の中で再生し始める。ミッチェル監督にとって『パーティで女の子に話しかけるには』は、「その後」を描いた『ラビット・ホール』の次の作品であり、そこで描かれたのが今回の「奇跡の子」だった。
こうして振り返るとミッチェルが本作で辿り着いた場所は必然だったようにも感じられる。『ラビット・ホール』の主人公は「二人目の子供を作ろう」と持ち掛ける夫に嫌悪感を示していた。そしてその妻であり死んだ子どもの母親を演じたニコールは本作でパンクな若者たちの「マザー」的存在・ボディシーアを演じている。ボディシーアは「12回中絶して何の見返りもなかった」末、子どもを産むことを諦めた女でもある。ザンが子どもを宿したことで物語はまた転がり始める。食べられるだけの子どもではなく「親」の立場としてコロニー内で権利を持ったのだ。しかもザンの子どもはセックスの結果生まれる命ではない(もちろん、エンはしたかったのだろうが)。だからその奇跡は、絶滅に向かっていた彼ら一族を救う手立てになるかもしれない。そしてその奇跡は観客にとって、絶対に崩れないと思われた現実の壁が壊れる瞬間だ。何かが変わり、希望が灯る瞬間。彼女が吐いたゲロのように、まだ名前のついていない感情のような、誰も知らない希望がこの世界にあるかもしれないと思わせてくれる(この「奇跡の子」と通ずるような物語は2017年に公開されたある大作映画でも描かれていて、ネタバレになってしまうので作品名は伏せるけれど、それはとても重要なことだと思う)。
現実が全然ハッピーじゃない中で、「映画で何を描くか」はとても複雑で深刻な局面に来ていると感じる。現実が辛すぎるのにバッドエンドなんて見たくないし、かといってハッピーエンドは嘘っぽい。映像的に派手なことをやってももはや技術の進歩に慣れ過ぎて何を観ても驚かないし「誰かを傷つける可能性がある」と烙印を押された要素や表現は全部排除される。そして横行しているのが「エモい」と言われる扇情的で快楽主義的で、時としてあまり中身のない表現。別にそれが悪いと思っているわけではなくて、そういう類で面白い映画もたくさん生まれている。とても豊かな状態ではある。だけど最近思うのだ、もし自分が現代の高校生とかだったら、今のように映画に惹かれるようになっていただろうか、と。
「メチャクチャしても俺たちは生きてる。食べて、クソして、踊って、恋をする。親がブチ壊したものも直す」
ジャズミュージシャンで「左翼」で「無責任」だった「クール」な父親にエンは捨てられた。だけどその親でさえ自分を喰ったりはしなかった。生きることを押さえつけることなんてできないんだ、という叫びだ。そして一族とともに星へ帰り子どもを産むのか、地球でエンと暮らすのかを迫られたザンは、引き止めようとするエンに「アイ・ラブ・ユー」と告げる。その時ザンが流すのはゲロじゃなく涙だ。この二つのシーンでの二人の主人公の言葉には胸を締め付けられるような感覚がある。それはこのSFだかカルトだか分からない異常な世界の物語が、僕たちが今生きている2017年の世界と地続きであることに気付かされるからだ。多義的で含みのある会話が続いてきた中で、その言葉だけは真っ直ぐ、逃げずに相手に刺さっていく。そしてそれは巨大な怪獣でも宇宙人でもテロリストでも大統領でも何でもいいから敵に仕立てて感情を煽るような「エモさ」とは異なる、今を変えるため、自分を変えてくれた誰かのために発する「本当の気持ち」だ。ザンは結局、エンを振り切って星へ帰ってしまう。その別れは切ないが、もしこの映画が「エモさ原理主義」的に作られていたとしたらこういう結末になっていただろうか。ザンがエンを選んで地球に残って……という展開だったら、どちらが残酷なのだろうか。
エモーショナルでありつつ、安易な共感を誘わないのも本作の特徴だ。それは多分この時代設定に由来する。冒頭、エンたちがパンクバンドの演奏に狂ったように踊り狂う場面がある。それは異常なほど暴力的で狂騒的。でもこれは現代の物語ではなく今から40年前。描かれる若者たちは今50~60代ということになる。現代の若者にとっての親世代であり「敵世代」に当たるのかもしれない。そんな人たちが「大人」に抑圧され、中指を立てる時代。終盤、ザンを救うためにパンクな若者たちが宇宙人の家に攻め込む場面がある。対立は戦意を高揚させるが、この映画では一体何と何が対立しているかよく分からないので、観客はパンク側に寄り添いつつもどこか白けた目でその戦いを見守るだろう。この映画には「境界がない」と先に書いたけれど、そこで超える最も大きな壁は「世代」だと思う。俺たちの、私たちの「世代の」……という物言いは世の常だが、本当はそんなものさえ時代やカルトや社会や自分自身が作っているだけなのかもしれない。対立軸に入り込み切れないこのかんじは映画全体を覆っていて、だからこそたくさんのノイズの中から浮かび上がってくる普遍的な感覚は、ザンとエンの互いを想い合う気持ちだけなのだ。
エンが宇宙人たちの家に吸い寄せられるように近づいていく冒頭のシーンで、彼はそこから鳴る音楽に耳を澄ませている。それを聴いたことがあるような、未知の何かに触れているような感覚を抱いている。ノスタルジーと新しさの間にも壁はないのかもしれない。そうして出会った二人は40年前の若者たちがひしめくライブハウスでともにステージに立ち、歌い、音楽を奏で創造する。希望の種はきっと、その時に植わったのである。
(text: 彩灯甫 )
監督:ジョン・キャメロン・ミッチェル
公式ホームページ:http://gaga.ne.jp/girlsatparties/
劇場情報
12月1日より新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次ロードショー
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彩灯 甫:Saito Hajime
2017年8月に「沖田灯」という筆名を改めました。
小説、映像脚本、映画・音楽批評など書いています。
1989年生まれ。
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