2016年9月30日金曜日

映画『過激派オペラ』評text 井河澤 智子

「劇団」という閉じられたコミューンの、栄枯盛衰。
同じ酒を酌み交わし、共に泣き、笑い、同じ目標に邁進する。構成員は全員若い女性。
というと一見ピースフルな関係性を思い描くが、とんでもない。

その小さな小さな共同体は、野心と自己顕示欲と嫉妬がささやかな規模でうごめくカオスであった。もちろん当人たちにとってはちっともささやかなものではない。
そして、その閉じられたコミューンを率いるリーダーは、もっと大きな社会に打って出ようという「革命精神」を持っていた。自分は、この劇団を率いて、名を挙げたい。

(c)2016キングレコード

このコミューン、劇団の主宰である重信ナオコは、重たい眼光と威圧感をもってそこに佇む。
劇団という、明確なヒエラルキーがある集団では、リーダーの意向は絶対である。劇団員は常にナオコの顔色を伺い、気に触らないよう細心の注意を払う。
劇団員はナオコに何かを語りかける時、その圧力にまず怯える。そして、語りかける。ナオコは視線を重たげに向け、数秒黙り……そして返事する。あっさりと。軽く。「いいよ〜」「は〜い」。
存在感の重さと、軽い口調のギャップ。おそらく、その数秒の間、語りかけた劇団員の気持ちは緊張感で張り詰めていたのではないか。それが一気にほぐれていく。ああ、受け入れられた。存在そのものが飴と鞭のようなナオコ。「女たらし」。
とはいえ、若い女性しか存在しないコミューンにおいては、男も女もない。ジェンダーは無意味だ。女たらし、というより、人たらし。
そんなナオコの前に、岡高春が現れる。ただの女優ではなく、本気で主演女優になりたい、と公言する野心の塊。
春は、かつての交際相手と思われる、かつての所属劇団の主宰である男に、こう言い放つ。

「お前よりこの人のほうが才能あるんだよ」。

この言葉を聞いてときめかない劇団主宰はいるだろうか。ナオコはまんまと春にたらし込まれるのである。あるいは、春を見出した自分の目に狂いはなかった、と満足しただろうか。春をたらし込むことに成功した、と思っただろうか。
お互いが自らの心理的欲求を満たし合う関係性がここに成立した。あとは肉体的欲求を満たすだけである。それは熱量を持て余す者たちには不可欠であった。

劇団主宰者と主演女優という、お互いの作品に欠かせないふたりの間にあったのは、恋愛感情だったのだろうか。むしろ、狭い世間の最上位にある者同士、一目置かれる必要性があったのではないだろうか。私たち付き合ってます。そう言えば他の劇団員も納得する。主演は春である、ということに。
彼女たちの生態は劇団の中で全て完結している。「食うこと、眠ること」それらの描写が削ぎ落とされているために、その「愛に満ちた生活」のようなものは現実離れした、まるでファンタジーとしか思えないものとして描かれる。
「生活」は、演劇に全てを捧げた彼女たちのおまけなのだ。

「食うこと、眠ること」がほとんど描かれないのと対照的に、「セックス」の描写は驚くほど多い。これは、食と睡眠は個人のものだが、対してセックスはコミュニケーション、という理由もあるのかもしれない。ナオコは交際相手の春のみにとどまらず、劇団員の多くを、そのカラダで籠絡する。のみならず、彼女のセックスは、現実に劇団を維持するために必要な「場所」や「カネ」をも引きずり出す。セックスは有り余る熱量をぶつける行為、そして、必要なものをつなぎとめる行為でもあるのだ。

(c)2016キングレコード

ナオコの劇団の旗揚げは、その界隈に衝撃を与えた。それ自体は彼女たちにとって喜ばしいことだ。同時に、彼女たちの閉じられた社会に、外部から介入する者も現れる。
結界に、綻びが生じた。
客演を迎えての次回公演。迎えられたのは、より名のある劇団の女優である、と思われる。
彼女によって、それまでの劇団の秩序は見事に破壊される。

上下関係に混乱が生じるとこれほど脆いものなのだろうか。絶対的な存在であったナオコがその地位をあっさりと開け渡したことにより、これほどの阿鼻叫喚に陥るものなのか。
ナオコ自身は「地位を開け渡した」とは思っていないかもしれない。が、確実に彼女の重みはなくなっていった。客演女優、ゆり恵の女王然とした振る舞いに、完全に飲み込まれていた。
それまで共に過ごしてきた劇団員の扱いはナオコの中で軽くなる。一応女優であり、それなりの自己顕示欲を持ち合わせているであろう劇団員たちはナオコをこちらに向かせようとあらゆる手を尽くす。泣く、喚く。まるで子どものように。
しかしナオコは完全にゆり恵に振り回されていた。春ですら愛想をつかすほど。
いや、春は「自分を重く扱ってくれない劇団主宰」に対して愛想をつかしたのかもしれない。

どんなに閉じられた社会でも、外部と関わろうとする時、必要なのは「カネ」である。その描写は当初徹底して排除されていたが、いよいよ万策尽き、決定的なものとしてようやく、現実を見せるように現れる。カネが、ないということについて。
ナオコはそれまで、自らのカラダでそれを引きずり出してきた。人間関係も、自らのカラダでつなぎとめてきた。
しかし、それが通用しない局面にぶつかったのだ。
最後まで彼女の側に残ったのは、彼女と寝ることがなかった劇団員、桃実だったことは、興味深いことである。

(c)2016キングレコード

自らの世界が瓦解した時、必要なことは、自分の知らない世界を見ることなのかもしれない。未知の世界に飛び込むことには恐怖を伴う。
劇団員は既に外へ飛び出していった。最後まで足掻いていたのはナオコ自身だった。しかし、彼女も、自らの、一人とり残された自らの社会から、放り出される時が来た。

打った芝居はたった一本。その高揚感が、彼女を激しく突き動かす。
彼女は、止まぬ演劇への想い、その熱量を、どのように放射するのだろうか。
まだ若い、何者でもない、そしてこれから何者にもなれる可能性を秘めた、「演出家」ナオコは。

さて、これまで筆者は、ナオコたちの劇団を「コミューン」とあらわしてきた。
単に「劇団」でもよかったのである。しかし、筆者はこの映画を観て、この劇団のあり方に、かつての社会運動に近いものを見たのである。例えばヒッピームーヴメント。例えば70年代安保闘争。アンダーグラウンド演劇。
それはタイトルの『過激派オペラ』に引きずられたということは否定しない。しかし、主人公の名前が「重信ナオコ」であるということや、作中で上演される芝居、そして、彼女たちの関係性の持ち方に、筆者も知らぬはずのその時代の空気感を感じたのである。
その時代、共通の思想・文化をもつ自主管理的な共同体を「コミューン」と呼んだという。今も細々とその流れは続いていると聞く。
「セクト」「細胞」それらの言葉も思い浮かんだが、今の時代から見ると、言葉が意味を持ちすぎている。それよりももっと、緩やかで、生活感があり、しかし閉じられた共同体。

この映画は、一人ひとりの人間が交錯する「群像劇」というより、ひとつの「コミューン」の蠢き、死、そして再生を描いているのではないだろうか?

(text:井河澤智子)


『過激派オペラ』
2016年/90分/日本

作品解説
2000年に劇団「毛皮族」を旗揚げして以来、国内外でセンセーショナルな作品を発表し続ける演劇界の奇才・江本純子が、自伝的小説『股間』を遂に映画化。 舞台演出で培われた演出方法は細部にまで行き届き、スクリーン狭しと表現される過激な表現に圧倒させられずにはいられない、初監督作とは思えない圧巻のデビューとなった。そして、かつて見たことのない衝撃的な愛の表現により本作は幕を開ける―。
“女たらし”の女演出家・重信ナオコが、一人の女優・岡高春と出会い、劇団「毛布教」を立ち上げ、成功し挫折していく様を、辛辣にときにユーモラスに描く。二人の女性の出会いと別れの物語であり、狂熱的な主人公を取り囲む女優たちの嫉妬や欲望、剥き出しの感情が交錯する青春群像劇となっている。『百円の恋』の早 織と、『ゾンビアス』の中村有沙のダブル主演。2人の感情も肉体も全て剥き出した演技がこの作品を一層本気に仕上げている。

キャスト
重信ナオコ:早 織
岡高 春:中村有沙
出水 幸:桜井ユキ
工藤岳美:森田涼花
寺山田文子:佐久間麻由
麿角桃実:後藤ユウミ
松井はつね:石橋穂乃香
三浦ふみ:今中菜津美

スタッフ
監督:江本純子
製作:重村博文
プロデューサー:梅川治男、山口幸彦
原作:江本純子『股間』リトルモア刊
脚本:吉川菜美、江本純子
音楽:原田智英

配給
日本出版販売

劇場情報
10/1(土)よりテアトル新宿 他にて全国順次公開

(c)2016キングレコード

公式サイト
http://kagekihaopera.com

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