漢稼業(やくざ)の終い際
私の実家は自営のクリーニング業だった。新宿にほど近い地域だったせいか、夜の世界に身を置く人たちがよく品物を出しに来たのだが、その中に、明らかにその筋の一派が居た。弱小の洗濯屋相手に因縁をつけては代金を踏み倒そうとするチンピラもいれば、おおらかそうな振る舞いでも、時折義眼を光らせ威厳を張る親分も姿を見せたりしたことがあった。眉をひそめるようなこともあったが、大方は筋ものよりも気性の荒い私の母に一喝され、苦笑して帰っていくという、いわば根っこは気のいいあんちゃんばかりだったと記憶している。暴対法、暴力団排除条例が改正して苛烈に締めつける前の話である。昨年実家の店が廃業するよりも前に、誰も彼もあとかたなく姿を消してしまった。
こんな問わず語りを書いてしまったのは、『東京ノワール』でやくざから足を洗おうとする鳴海の背中に、昔見た面々を思い出したからだ。現実にやくざでいることの限界は、映画表現にも及んできている。北野武のアウトレイジ最新作『アウトレイジ最終章』が好例だ。ハンパな新参やくざに牛耳られ、昔気質の幹部連中は歯噛みする一方、主人公の大友は死んだ目で無闇な銃撃戦を展開させて最終的には自殺する。かつての任侠および実録やくざ映画がまとう、たぎるような空気はそこにはない。
「今どきやくざなんて流行らないっしょ」。鳴海の息子・龍一は、吐き捨てるようにそう言う。現実が闇社会を一層許容しなくなり、時代遅れになったせいかもしれない。そんな自分たちの盛衰を、社会制度が悪いという主張は一方で正しい。だが鳴海をはじめ、この映画でやくざを仕舞う男たちは、それをしない。尾羽うち枯らしつつも恨みつらみを呑み込み、最後まで無様であろうとする。これは新しい「滅びの美学」ではないか。
つるむことなく、目的もなく罪を犯す(全く巧くない万引き!)龍一の存在も、暴力が興奮と共感を呼ぶような時代をとうに過ぎ、往年のような抗うべきものがどこにもないことを浮き彫りにする。現代は「反社会勢力」など存在していなかったかのように、さも清浄そうに、無表情でいる。極道でいることは孤高ではなく、孤独なのだ。
『東京ノワール』は、アウトローで生きていくことのきりきりするほどの絶望がつらぬいている。最後すら任侠道らしくいられないには深い絶望しかない。願わくば、龍一の第二幕が見てみたい。劇中父子は互いに無味な視線を交わすだけだったが、ついにはふたりの血脈のドラマにシフトしていったと、私は感じた。龍一もまた、自身の運命を引き受けて生きざるを得ないだろう。殺伐としたドラマで、ふたたびこの男の眼差しが見たい。
東京ノワール/2017年/82分
2018年8月4日東京・K’scinemaにて2週間限定公開
http://www.ks-cinema.com/movie/tokyo_noir/
8月18日〜8月24日大阪・第七藝術劇場で1週間限定公開
http://nanagei.com/movie/data/1270.html
監督・脚本:ヤマシタマサ
撮影:田中一成
鳴海:井上幸太郎
山城:両國宏
金本組組長:大鷹明良
龍一:日下部一郎
青木:太田宏
島袋:河西裕介
カズハ:馬場莉乃
配給:彩プロ
あらすじ
引退を決意したヤクザ・鳴海は、最後の仕事と決めた拳銃密売取引の現場で拳銃が暴発、相手組員を装っていた潜入捜査官を死亡させてしまう。裏社会と警察からも追われる身となった鳴海は、運命に翻弄される。
ミ・ナミ
1984年生まれ。都内名画座勤務。
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