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2021年1月31日日曜日

映画『ミッドナイト・ファミリー』評text藤野 みさき

「Z-2」
© Family Ambulance Film LLC

 日本で新型コロナウイルスの初感染が確認されて一年が経過した。いま私の住む街では緊急事態宣言が発令されており、定時には市役所からアナウンスが流れ、広報車が毎日街を駆けまわる。
 医療崩壊・医療壊滅・病床数・変異種など、新型コロナウイルスの影響により多くのことばを見聞きするようになった現在。救急医療がこれほどまでに私たちの生活の身近な存在として切実に迫ったことはない。医療現場は逼迫し、毎日のように日本医師会をはじめ医療に携わる方々が警鐘を鳴らしているが、この切実な声は人々の心にどこまで届いているのだろうか。このままでは、いつ医療崩壊をしても、いつ私の命がついえても不思議ではない。
 
 本作『ミッドナイト・ファミリー』は、メキシコの首都メキシコシティを舞台に、文字通り市民の命綱となる民間の救急車を営むオチョア一家を追ったドキュメンタリー映画である。本作は過去にNHKの番組「BS世界のドキュメンタリー」にて《真夜中の家族〜密着メキシコ民間救急車〜》という題名で短縮版(46分)が放映されている。本作の配給をおこなうのは、イギリス・ロンドンに本社を構え、ドキュメンタリーの製作・配給をおこなっているMadeGood. Film社。『ミッドナイト・ファミリー』はMadeGood. Film社の日本初配給作品となる。

 
© Family Ambulance Film LLC

 映画の感想を綴る前に、まず説明をしなければならないのが、現在のメキシコシティの医療体制である。メキシコシティは人口900万人に対して公共の救急車がわずか45台にも満たない。そのため救急隊の訓練や専門知識もままならない無許可の私営の救急車が街には数多く存在し、それらは通称「闇ビジネス」と呼ばれている。
 本作で描かれるオチョア家族も、無許可で私営の救急車を生業にしている人々のなかの一家である。彼らは警察に一件につき300ペソ(日本円で約1,570円)の金額を払い警察からの無線を傍聴し、救急患者の情報を得るなり即座に現場に駆けつける。しかし、メキシコシティにはオチョア一家だけでなく、私営で救急車を営んでいる競争相手がおり、無線がはいるなり「我先に」とひとりの患者をめぐって民間の救急車同士の猛烈な争奪戦が始まる。その光景はまるで狩りの世界だ。そして運良く一番速くに現場に到着した者が収入を得ることができるのである。彼らの日々の糧となる収入源は、患者から受け取ることができる3,800ペソ(約19,800円)と、搬送した病院から得られるわずかな手数料のみ。患者のなかには貧困で高額な搬送料金を支払うことができないひともおり、必ずしも収入が確保できる保証はない。ひとことに「闇のビジネス」とはいえど、日本では到底考えることのできない過酷な世界がメキシコには存在しているのである。
 
 本作を監督したルーク・ローレンツェンは、1993年生まれの若き新鋭だ。米・スタンフォード大学を卒業したのち、友人を追って2015年の12月にメキシコシティにやってきた。移住した当初はまったくの違う映画を構想していたというが、毎日病院の門の外まで並んでいる何百人もの患者を目撃するうちに、メキシコシティの抱える深刻な医療事情の実態に深く関心を抱くようになったという。ローレンツェン監督は、のちの映画の主役となるオチョア一家との出逢いを、ディレクターズノートにこのように綴っている。
「オチョア家族と出会って伝えるべき物語が見つかったと思った。(中略)家族経営の救急車に好奇心を掻き立てられて、私は彼らに数時間でいいから一緒に乗せてもらえないかと尋ねた。彼らの父親、フェルはすぐに承知してくれた。私はその夜、唖然となるほどの驚くべき体験をした――これは撮らなければならない」と。こうして約半年間にわたりローレンツェン監督はオチョア一家の救急車に同乗し、この映画をつくりあげた。

 
© Family Ambulance Film LLC

 映画の主役となる救急車に乗っているのは主に4名。
 オチョア一家を支える、父・フェル、17歳になったばかりの長男のホアン、助手のマヌエルと、そんな3人の様子を後部座席からちょこんと見守る小太りの9歳の次男・ホセである。救急車のハンドルを握るのは長男のホアン。なんと弱冠17歳の青年がこの救急車の舵を取っているのだ。オチョア一家は、夜の勤務時間になると救急車内で待機をし、警察の無線がはいるなり夜の街へと救急車を疾走させる。無線から流れる「Z-2」「Z-4」とは、かれら救急隊の出動の合図だ。
 
 真夜中のメキシコシティは文字通りの深い闇が街に蔓延る。
 映画に登場する患者は6名。銃で太腿に負傷した18歳の男性、恋人に頭突きをされて鼻の軟骨を骨折した高校生の女の子、交通事故で負傷した母と息子、シンナーの匂いが漂う青年が抱いている意識不明の赤ちゃん、そしてマンションの4階(約10メートルの高さ)から誤って転落した女の子である。
 キャメラは救急車内に運ばれる患者の様子を臨場感溢れるタッチで映しだすが、同時に患者たちの背景から浮かびあがってくるのは、メキシコシティの現在抱えている社会問題そのものである。銃社会の恐さ、搬送費を支払うことも困難なほどの貧困問題、恋人から受ける暴力(ドメスティック・バイオレンス)、そして薬物。直接的には語らずしも、それらすべてが、かれらの暮らすメキシコシティの日常に存在していることを映画は見事に炙りだしている。
 
 なかでも胸に迫るのは、マンションの4階から転落し、必死の救急処置をおこなうも、搬送した民間の病院で死亡が確認された女の子の場面だ。母親は「こんなに遠い病院でなければ、もっと医療体制の整った近くの公共の病院に搬送していれば」と、民間の病院で、父・フェルを責める。
 フェルは、母親のことばに心を痛めながらも、弱々しい声で「1,500ペソでいいのです。搬送費をいただけないでしょうか」と嘆願する。私営の救急車を営むオチョア一家にとって、患者からの搬送費は文字通りのあすを生きるための命の糧だ。その搬送費の収入も得られなくなれば、今度は命を救う立場のオチョア一家の命が危ぶまれてしまう。そんなまさに「いまこの瞬間」を懸命に生き延びるための切実な会話が、観ている私たちの胸を一層締めつける。


© Family Ambulance Film LLC

 本作ではドキュメンタリーで使用されるナレーションやインタヴューがほとんどなく、如何してオチョア一家が私営の救急車を営むことになったのか、如何してこのような苦境に追いつめられながらも救急車を営み続けるのか、その動機や理由は劇中で説明されることはない。だが、長男のホアンは語る。
「どんな仕事にも理由があるんだ。病気がなければ医者はいらないし、誰も死なないなら葬儀屋は食えない。ゴミが出るから掃除屋がいる。それで仕事が生まれるんだ」と。ホアンのことば通り、どんな仕事にも理由があるのだ。たとえそれが「闇営業」であるとしても、私営の救急車を営むことができるのは、メキシコシティの人々がオチョア一家を含め私営の救急車を頼りにしているからに他ならない。
 私営の救急車を営む人々のなかには、患者に支払い能力がなく利益がないと判断した場合、病院に搬送しないことも悲しい現実として存在する。しかし、オチョア一家は患者がお金を支払えないからといって、目の前の尊い命を見殺しにしたりはしない。いまここに救える命があるのなら、オチョア一家はその手を伸ばすことをいとわない。そんな懸命に患者を助けようとするオチョア一家の姿をみて「ひとの命を救う」ことへの強い使命感を感じ、深く心をうたれるのである。
 
 救急車のサイレンの音がより身近になった現在。
 私はこの映画を観ていらい、救急車のサイレンの音を聴くと、いまメキシコでは新型コロナウイルスがどのような状態なのだろうか。多くの人々が新型のウイルスに苦しみ命をおとすなかで、オチョア一家は無事なのだろうか。と、想いを馳せずにはいられない。
 映画はオチョア一家が一日の仕事をを終えて床につき、太陽が照らすもとでたくさんの車が走る大都会の道路を捉えて幕をとじる。しかし、夜になればまた息もつけないほどのめまぐるしい闘いが始まるのだ。オチョア一家はきょうも人々の命を救うために、真夜中の街を駆るのである。

(text:藤野 みさき)


© Family Ambulance Film LLC

『ミッドナイト・ファミリー』
原題:Midnight Family
2019年/81分/カラー/アメリカ、メキシコ

サンダンス映画祭 米国ドキュメンタリー審査委員賞受賞

◉ あらすじ
メキシコ・シティには、人口 900 万人に対して公共の救急車が 45 台未満しかない。そのため、救急救命にあたる闇救急車の需要がある。オチョア家族も同業 の救急救命士らと競い合って急患の搬送にあたる私営救急隊だ。この熾烈なビ ジネスで生計を立てるため、オチョア家族は救助を求める患者から何とか日銭 を稼ごうと奮闘する。しかし、闇営業を取り締る名目で汚職警官に賄賂を要求 されるようになり、さらに家族は金銭的にも追い詰められていく。倫理的に疑 問視されるオチョア家族の稼業をヒューマニズムにあふれる視点で捉えつつ、 医療事情、行政機能の停滞、自己責任の複雑さといった差し迫った課題を描い たドキュメンタリー映画。

◉ キャスト
監督:ルーク・ローレンツェン
企画制作:ケレン・クイン、ルーク・ローレンツェン
プロデューサー:ダニエラ・アラトーレ、エレナ・フォルテス
撮影・編集:ルーク・ローレンツェン
共同編集:パロマ・ロペス・カリーリョ
編集協力:マリー・ランプソン
音響デザイン:マティアス・バルベリス
音楽:ロス・シャハトス

◉ 出演
ホアン・オチョア
フェル・オチョア
ホセ・オチョア
アンドレス・サンチェス

◉ 配給:MadeGood. Films

◉ 公式ホームページ

◉ 劇場情報
1月16日(土)より渋谷ユーロスペースにて上映中。29日(金)より豊岡劇場、30日(土)より、横浜シネマリン・大阪シネ・ヌーヴォで上映開始。他全国順次公開予定。

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。
映画のほかでは、美容・セルフネイル・自分磨き・お掃除・断捨離、洋服や靴を眺めることが趣味。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークなどのメロドラマを敬愛しています。最近は美容院の月一トリートメントに癒されております。

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2021年1月23日土曜日

映画『ミッドナイト・ファミリー』評text今泉 健

 「パワフル、タフ、生命力≠幸福」
 
© Family Ambulance Film LLC

 私営の救急車ビジネスという驚きのドキュメンタリーがあると聞いて、すぐに思い浮かんだのは、アメリカンドラマ『サード・ウォッチ』。ニューヨーク市の救急隊員のドラマでした。タイトルの意味は「第3勤務シフト」、PM3時~11時が最も事件事故が多発する救急車が大忙しの時間帯ということです。放映の時期は9.11を挟んでいて、エンタメ故に家族はもちろん恋も友情もあるとはいえ3Kで安月給、精神衛生上も良くない時もある過酷な職場で、働く人の職業倫理が支えている体でした。
 人口900万人に45台未満の救急車しかないメキシコシティ。営利目的の私営の救急車をビジネスにしている人たちがいて、いわば、救急車版の白タク、決定的な社会インフラ不足社会のニッチな生業(なりわい)。オチョア一家は90年代末からこの仕事、アメリカのオクラホマから中古の救急車を買いました。医療崩壊どころか慢性的に不足が当たり前の異常な状態が放置されていることになります。主な登場人物は男性4人、若きハイティーンのオチョア家の当主的存在ホアン、朴訥な父フェル、やんちゃなホアンの9歳の弟ホセ、助手的なマヌエル・エルナンデスです。救命士の資格があるわけでもなく当然公的な許可もなく、主な稼働時間帯もサードウォッチの後半から深夜という文字通りのいわゆる「闇営業」。なのに料金表があったり、必要な装備の情報が入ったりで、行政から表向きではなくても事実上認められた必要悪的な商売と捉えられているのでしょう。

© Family Ambulance Film LLC

 撮影クルーはオチョア一家の救急車に6か月も同乗しているので、家族の視線からみたメキシコシティの状況が映されることになり、犯罪や暴力や汚職や賄賂やドラッグやネグレクトや様々な社会状況が垣間見えます。駆けつける現場の情報は車中で賄賂で確保した警察関係のネットワークからとりますが、地理的状況、自分たちの手に負える負えないとか、お金になるか判断を含めて、自分たちの家計状況、周囲との競争を加味して自然と取捨選択しているのでしょう。上手くいくいかないに関わらずAIでも到底無理なようなスピーディーにえらく高度な判断を要求されるような気がします。商売としての難しさは上手くいかなくても料金を請求しないといけないこと。安い公立病院は混んでいるし、通報される恐れもあるから、たぶん付き合いのある、(どうやら彼らに料金の立て替え払いをしてくれる)私立の病院に運ぶことが多く、時間がかかることもあるのでしょう。それが極限状態の「お客様」でも半ばクレームの不満な点になります。強みは、実際待っていても行政の救急車はまず来ないと言い切れること。なんとこの一家、職業倫理観を持っていて、この街には自分たちが必要という考えもあるから、お金を持っていなさそうな人も助けてボランティアみたいな仕事が続くこともあり、そうなれば途端に家計は逼迫するようです。もっとも、当然ながら同業者にはドライに割り切っている人たちもいて、悲しいことですが、オチョア一家の方が少数派なんだろうと思います。
 
 
© Family Ambulance Film LLC

 作品から社会問題が垣間見えはしますが、それを浮き出して、問題として捉えるというより、そこで懸命に生きる家族を追っています。まさにタイトル通りで、あくまで深夜帯の暗闇での必要悪的仕事を生業にする家族の物語です。訓練も受けていないのに、エグイけが人を見たら卒倒しないのかとか、けが人の血液を浴びて何らかの感染症にならないかとか、様々なギモンや懸念は浮かびますが、この一家、基本、なんかタフでパワフルで感心してしまいます。現場に向かったりする時はほんとに同業者と、病院に向かうときもカーチェイスしていて、これは迫力があって撮影クルーも命がけです。オチョア一家を取り巻く状況はどうみても厳しく余裕などなさそうで、心がくじけたら待っているのは自滅、でもホアンもカノジョと思われる人物とスマホで話している様子も映っていて将来なんか考えている雰囲気もあって、このあたりに生きる上での力強さ、逞しさ、生命力を感じます。目の前で起きていることが正しいだとか間違いだとかで頭がいっぱいになったり、将来を悲観して不安に思い悩んだりするのは、今、それなりに得ている満足があるからと改めて気づかされます。食べるのに汲汲として考える時間も余裕もなく、大して良かったあの頃という戻りたい昔もなければ、希望は未来にしかないから自ずと前だけを見て生きることになるのかしれません。ただし、それは幸福からはかけ離れ過ぎで、とてもあるべき姿とはいえないのも事実、そもそも本人達も現状が幸福とは思っていないでしょう。

 

 (text:今泉 健)



 

『ミッドナイト・ファミリー』
原題:Midnight Family
2019年/81分/カラー/アメリカ、メキシコ

サンダンス映画祭 米国ドキュメンタリー審査委員賞受賞

◉ あらすじ
メキシコ・シティには、人口 900 万人に対して公共の救急車が 45 台未満しかない。そのため、救急救命にあたる闇救急車の需要がある。オチョア家族も同業 の救急救命士らと競い合って急患の搬送にあたる私営救急隊だ。この熾烈なビ ジネスで生計を立てるため、オチョア家族は救助を求める患者から何とか日銭 を稼ごうと奮闘する。しかし、闇営業を取り締る名目で汚職警官に賄賂を要求 されるようになり、さらに家族は金銭的にも追い詰められていく。倫理的に疑 問視されるオチョア家族の稼業をヒューマニズムにあふれる視点で捉えつつ、 医療事情、行政機能の停滞、自己責任の複雑さといった差し迫った課題を描い たドキュメンタリー映画。

◉ キャスト
監督:ルーク・ローレンツェン
企画制作:ケレン・クイン、ルーク・ローレンツェン
プロデューサー:ダニエラ・アラトーレ、エレナ・フォルテス
撮影・編集:ルーク・ローレンツェン
共同編集:パロマ・ロペス・カリーリョ
編集協力:マリー・ランプソン
音響デザイン:マティアス・バルベリス
音楽:ロス・シャハトス

◉ 出演
ホアン・オチョア
フェル・オチョア
ホセ・オチョア
アンドレス・サンチェス

◉ 配給:MadeGood. Films

◉ 公式ホームページ

◉ 劇場情報
1月16日(土)より渋谷ユーロスペースにて上映中。他全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

今泉 健:Takeshi Imaizumi

会社員 1966年生 東京在住 名古屋出身

映画好きが高じてNCW、上映者養成講座、シネマ・キャンプ等受講。青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラム修了。映画館を作りたいという野望あり。


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2020年7月3日金曜日

映画『タッチ・ミー・ノット』評text藤野 みさき

「わたしがわたしで在るために」


© Touch Me Not - Adina Pintilie

 うつ病、統合失調症、双極性障害、摂食障害、適応障害、アスペルガー症候群、アルコール依存症、強迫性障害、パニック障害、境界性人格障害、自己愛性人格障害、身体表現性障害、身体醜形障害、心的外傷障害(PTSD)。

 精神医学の研究が進歩をするにあたり、私たちの生きるこの世界では、上記に並べたような病名に溢れ、ことばでは表現することのできない私たちの繊細な感情を、強制的にあてはめようとする専門用語ばかりが増えた。もっとつけ加えると、あてはめようとする医師たちもまた増えた。病院を受診する人々を「普通とはすこし違うから」という理由や、たったの数十分の診察だけで精神病だと診断をしたり、安易にお薬を処方することに、私は疑問を抱きつづけてきた。なぜなら、人間の魂ほど、複雑で、繊細で、そしてなによりも、簡単に「治せる」ものではないと信じているからである。
 私は思春期のとき、ある聡明な主治医と出逢った。私は愚かにも「答え」をもとめるように訊ねた。「私は他のひととは違うのでしょうか? 私はなんの病気なのでしょう」。肩をすくめる私に、かれは私の瞳をみつめて静かにおっしゃった。「貴女は病気ではありません。いまの貴女はただ心のエネルギーがしぼんでいるだけなのですよ」と。

 本作『タッチ・ミー・ノット』の主人公であるローラは、強迫性障害をもち、入院をする父親との関係、そして他者から触られることに極度の恐れを抱いていることに悩んでいた。彼女はそんなとき、父親の入院する病院先で、ある光景を目にする。真っ白にひろがる空間とガラス張りのひとつのカウンセリングルーム。そこでは真っ白の服を着た、さまざまな障がいを抱えた、十数名の患者(と一時的にそう呼ばれる)人々が、身も心も解放し、肌と肌とを触れあわせながら、それぞれが対話をおこなっていた。
 ローラはそこに参加をしてみたいと願うが、彼女の心は追いつけない。ローラは他者から触れられることに恐れを抱くあまり、そのカウンセリングルームの傍観者としてみつめることしかできなかった。そこで彼女は別の方法で自分自身と向きあうことを試みる。そんなローラのもとに現れたのは、五十代で性転換をし、現在は女性として生きながら、自身の経験をもとにセックスワーカーとして活動をしているトランスジェンダーのハンナであった……。



© Touch Me Not - Adina Pintilie

 ローラは強迫性障害と語られてはいるが、この映画に登場する人々は、精神的な病というよりも、《マイノリティ(少数派の意)》と呼ばれるひとを中心に描かれている。脊髄性筋萎縮性(SMA)をもつクリスチャン、無毛症のトーマス、そしてトランスジェンダーのハンナ。私が感銘をうけたのは、かれらはとても自然体で、そして自らの心と身体に誠実であるということだ。私の体験になるのだが、良い精神科医に出逢えなかったとき、私は病名を診断され、その色眼鏡をもとに対話(カウンセリング)が進められてきたように思う。「私はうつ病だから」と自分を責め、そして他者からも「貴女はうつ病だから」と言われ、深く傷ついたこともあった。
 しかし、すべてのひとではないが、本作の出演者たちは、患者でも、トランスジェンダーでも、「これがありのままの私(僕)だよ」という誇りをもっている。それは、むやみに病名にしばられることなく、そのひと自身のもつ世界でひとつの「個性」や「尊厳」が、カウンセリングのなかで最も大切にされていることだと感じられたからである。勿論、出演を承諾した出演者たちは、本作を撮るアディナ・ピンティリエ監督への厚い信頼もあるだろう。信じることができないと思うひとの前では、たとえ演技であっても(あるいは俳優や出演者自身のことばであっても)裸になることも、素直な感情やことばを伝えることも、難しいことなのだから。

 クリスチャンは言う。「僕には重い身体障がいがある。だけどそれで苦しんだりはしない。ひとはよく言うよね。“障がいに苦しんでいる”って。大嫌いなことばだよ。(中略)僕は自分のことを魅力的な男だと思っている。ひととは違うし、一般的な意味で美しいとはいえない。普通の意味ではね。でも“普通”なんて知ったことではないよ。僕はこの身体に感謝している。贈りものなんだ。人生とはそれを理解するための旅なんだよ」と。
 映画のなかでは、どうしてローラが強迫性障害と診断されたのか、どうして他者から触れられることを極度に恐れるのか。その理由は明確に語られることはない。むしろ原因が安易にわからないからこそ、この映画が製作される意味があるのではないだろうか。クリスチャンのことばの通り、人生とは生涯を通して、自らの心を理解するための長い旅なのだから。

 もしも、自分はどこかひととは違うのではないか。どうして人生はこんなにも生きづらいのだろう。と、他者と自分を比較したり、思い悩むことがあったら、さまざまな価値観がひろがる本作の世界に触れてみてほしい。この映画のカウンセリングルームの扉は、いつも、私たち観客にも開かれている。

(text:藤野 みさき)


『タッチ・ミー・ノット 〜ローラと秘密のカウンセリング〜』
原題:TOUCH ME NOT
(2018 年/125 分/英語/ビスタサイズ/5.1ch/DCP/R18
製作国:ルーマニア、ドイツ、チェコ、ブルガリア、フランス
© Touch Me Not - Adina Pintilie

キャスト
ローラ・ベンソン、トーマス・レマルキス、クリスチャン・バイエルライン、グリット・ウーレマ ン、アディナ・ピンティリエ、ハンナ・ホフマン、シーニー・ラブ、イルメナ・チチコワ、レイナ ー・ステッフェン、ゲオルギ・ナルディエフ、ディルク・ランゲ、アネット・サヴァリッシュ

スタッフ
監督・脚本・編集:アディナ・ピンティリエ
撮影監督:ジョージ・チッパー゠リールマーク
録音:ヴェセリン・ゾグラフォフ
美術監督:アドリアン・クリステア
衣装デザイン:マリア・ピーテオ

作品解説
父親の介護ての為に日々通院しているローラは、自身も人に触れられることに拒否反応をおこす精神的な障がいを抱えていた。ある日、ローラは病院で患者同士がカウンセリングする不思議な療養を目撃する。病により全身の毛がないトーマス、自由に四肢を動かせない車椅子のクリスチャンなど様々な症状を抱える人びとが、互いの身体に触れ合うことを通して自分自身を見つめていく。ローラは彼らを興味深く観察するうちに、 自分と同じような孤独感を抱えたトーマスに惹かれていく。街でトーマスに導かれるように秘密のナイトクラブへ入ったローラは、欲望のままに癒し合う群衆を目の当たりにするのだった。

2018年ベルリン映画祭金熊賞受賞作品

配給宣伝:ニコニコフィルム
クラウドファンディング実施中
https://motion-gallery.net/projects/TMN_Movie

公式ホームページ
http://tmn-movie.com

劇場情報
・渋谷シアター・イメージフォーラムにて7月4日(土)公開 
・仮設の映画館(6月6日よりオンライン先行配信中)
 http://www.temporary-cinema.jp/

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【執筆者プロフィール】

藤野 みさき:Misaki Fujino
1992年、栃木県出身。シネマ・キャンプ 映画批評・ライター講座第二期後期受講生。F・W・ムルナウをはじめとする独表現主義映画・古典映画・ダグラス・サークをはじめとするメロドラマが大好きです。拙いながらも、自分自身に素直な文章を書けるようにと心掛けています。
Twitter:cherrytree813

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2020年5月27日水曜日

映画『タッチ・ミー・ノット』評text奥平 詩野

『タッチ・ミー・ノット』/アディナ・ピンティリエ


 無機質な建物、生活感の無いアパートメント、真っ白な衣装とセラピールーム、息づかいや叫び、ささやきしか聞こえない無音な空間という無臭無菌なフレームの中で、他者との肉体の触れ合いを通したカウンセリングは、結局のところ他者への境界線の超越や解放をもたらしたというよりは、むしろ私達に、他者に対するぬぐい切れないよそよそしさを感じさせるに留まったと言える。そしてそのよそよそさに染み付いているのは、それを乗り越えようという渇望がもはや私達の凝視という行為には含まれていないという事実である。


 登場人物個人個人の、特に何かを閉じ込めたり抑制したりするものとしての肉体を通してのカウンセリングは、映画の始めから終わりまで一貫して続いてゆくが、当事者が多くの気づきを得て自己を発見してゆく言葉を聞くと、一見カウンセリングは何かしらの精神的効果を生み出しているように思える。しかし、画面から伝わるイメージは依然として冷たく、無関心で、情動的な生々しさを排除したものになっている。それは一体なぜだろうか。なぜ私達は、日常生活ではなかなか体験しないくらい他人の肉体を細部に至るまで凝視し、他人の心理カウンセリングでの叫び声を赤裸々に聞き、他人のアブノーマルなセックスを観察したのにも関わらず、それらの事を肉感的に体験出来なかったのだろうか。
 恐らくそれは、登場人物達が実際何らかの経験をしたか否かに関わらず、彼らが囚われていた自らの肉体=フレームを乗り越えようとしていたのと違って、私達観客は対象の物事を凝視するようには操作されているが、それと同時に、確固としたフレームを意識させ続けられたからだろうと考えられる。冒頭から、遠隔での映像を通して主人公のローラが話し合う相手はフレームの中に閉じ込められていたし、グループセラピーの行われる部屋は、ローラにとって常に大きな四角いガラス越しに覗き見られるものであった。また、背景が極度に無音であり、特定の息遣いや発話にのみ音声が集中する事や、温度も分からず淡々として手垢の付いていないような部屋であまり運動しない人物が画面に対してほとんどいつも「正面」や「真後ろ」といったような方向感覚が正確に湧き上がるふうに配置されているといった、言い換えれば極度の「意味」に対する潔癖性が、フレーム内で起こっている事柄への接近に対する欲望よりも、距離の維持に観客を向かわせている。
 このような距離の維持によって、対象への凝視にも関わらず、私達は物語に対する一種の非現実 的な感覚を獲得する事になるだろう。共感無くして知覚の対象化された登場人物について知ったのは、彼らの肉体と言葉であった。それらは凝視のあまり、人間の内面を指し示す何かとは乖離してゆき、彼らの身体は個別性や特有性を脱ぎ捨てて、こういういう形をした「体」という奇妙な普遍性を獲得してゆくようになる。もはや、体や言葉を通しても彼/彼女が何者であるかを直感するのが困難になるのである。


 しかし、距離の維持によってもたらされたこの身体と個人性の乖離の感覚は、映画のテーマにとって否定的な意味を持っていたとは言えない。凝視の強度と反比例して起こる内面に対する 「見えない」という感覚は、他者や自分の、普通とは言えないかもしれない特異な身体との関係を、重々しく深刻なものとして捉えようとする努力から人々を解放するし、より軽薄で楽しむ余地のある「ゲーム」として扱う可能性を示している。最後にローラが解放的に自分の身体をダンスを通して楽しむ時、距離故にその開放感を感動的に観客も自らに同化して体験する事は出来ないかもしれないが、そこにはローラの肉体に対するジャッジも、心理や精神性を覗き見たいという 欲望も存在しないがために、ローラの楽しみそれ自体のためだけに彼女の身体が存在する瞬間が現れている。

(text:奥平詩野)


『タッチ・ミー・ノット 〜ローラと秘密のカウンセリング〜』
原題:TOUCH ME NOT
(2018 年/125 分/英語/ビスタサイズ/5.1ch/DCP/R18
製作国:ルーマニア、ドイツ、チェコ、ブルガリア、フランス )
©Touch Me Not - Adina Pintilie

キャスト
ローラ・ベンソン、トーマス・レマルキス、クリスチャン・バイエルライン、グリット・ウーレマ ン、アディナ・ピンティリエ、ハンナ・ホフマン、シーニー・ラブ、イルメナ・チチコワ、レイナ ー・ステッフェン、ゲオルギ・ナルディエフ、ディルク・ランゲ、アネット・サヴァリッシュ

スタッフ
監督・脚本・編集:アディナ・ピンティリエ
撮影監督:ジョージ・チッパー゠リールマーク
録音:ヴェセリン・ゾグラフォフ
美術監督:アドリアン・クリステア
衣装デザイン:マリア・ピーテオ

作品解説
父親の介護ての為に日々通院しているローラは、自身も人に触れられることに拒否反応をおこす精神的な障がいを抱えていた。ある日、ローラは病院で患者同士がカウンセリングする不思議な療養を目撃する。病により全身の毛がないトーマス、自由に四肢を動かせない車椅子のクリスチャンなど様々な症状を抱える人びとが、互いの身体に触れ合うことを通して自分自身を見つめていく。ローラは彼らを興味深く観察するうちに、 自分と同じような孤独感を抱えたトーマスに惹かれていく。街でトーマスに導かれるように秘密のナイトクラブへ入ったローラは、欲望のままに癒し合う群衆を目の当たりにするのだった。

2018年ベルリン映画祭金熊賞作品

配給宣伝:ニコニコフィルム
クラウドファンディング実施中
https://motion-gallery.net/projects/TMN_Movie

公式ホームページ
http://tmn-movie.com

劇場情報
・渋谷シアター・イメージフォーラムにて7月4日(土)公開予定  
・仮設の映画館(6月6日よりオンライン先行配信)
 http://www.temporary-cinema.jp/

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【執筆者プロフィール】

奥平 詩野:Okuhira Shino

1992年生。国際基督教大学除籍。慶應義塾大学在籍。映画論述。

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2017年1月13日金曜日

映画『ブラインド・マッサージ』評text長谷部 友子、今泉 健、井河澤 智子、佐藤 奈緒子


「揺れる欲望」


揺れるのだ。ゆらゆらと。ロウ・イエ監督の映画はいつも画面が揺れる。見ると船酔いのような気分になる。それなのに今回は揺れない。奇妙な確かさをもって南京の盲人マッサージ院を舞台に巻き起こる人間模様を描いている。そして代わりと言ってはなんだが、めまいのような光のグラデーションが画面を支配している。
盲人というと一律に目が見えないと思いがちだが、生まれながらに見えない者、事故で見えなくなった者、病気でこれから見えなくなる者と様々だ。そして盲人たちのひそやかな欲望の行方もそれぞれだ。見えなくなる前に伴侶を得ようとする者、自身が盲人でありながら全盲の人との結婚を両親に反対され駆け落ち同然で家を出た者、盲人であるため自らは見ることができないのに美人と言われる女性に執心する者。
獲得したい、敬意を払われたい、安心したい、愛されたい。懸命に日々を生きる彼らの喜びと悲しみ、善意と悪意。彼らの欲望は大それたものではなく、ひそやかなものなのかもしれないが、それゆえに切実で苛烈だ。
在るか在らぬかを私たちは気にする。見えるか見えないか。けれど多くは二者択一でも二項対立でもなく、グラデーションなのかもしれない。各々が抱える事情も、欲望も、そして決断する勇気すらもグラデーションだ。何かが圧倒的に在って、何かが圧倒的にないのではなく、そのグラデーションの中で弱く惑い、時に大胆に人生を賭す。
見えるものと見えないものの狭間を泳ぐ。ゆらゆらとけれど苛烈に。やはりロウ・イエ監督の映画は揺れている。揺れ続ける生は苦しい。

(text:長谷部友子)


「「昼メロ」な「ソープ・オペラ」」


群像劇でエロ・グロ・ナンセンスとくれば、ソープ・オペラである。米国には放送50年超のドラマもあるが、近年の日本でも知られてそうなのは、『デスパレートな妻たち』だろうか。基本はコメディタッチで、時に社会事象も絡めながら、だいたい不倫とか殺人事件がご近所を「ハイテンション」に巻き込んでいく。一方日本では「昼メロ」である。日本はシリアスを装い男女や人間関係のドロドロに重きを置く。かつては、東海テレビ制作の『華の嵐』等のシリーズが人気を呼んだが、放送枠自体が終了している。最近の『昼顔』はこの類だ。なお、韓流ドラマは因果応報が重視される。
ロウ・イエ監督の『ブラインド・マッサージ』は、日米の中間、「昼メロ」な「ソープ・オペラ」ともいうべきか。設定に大きな特徴があり、南京のマッサージ院を舞台にしているが、主要出演者はマッサージ師を中心に一人を除き盲人である。盲人独特の生活習慣がドラマのアクセントになっており、(たぶん)狙ってないのに笑えるシーンもある反面、重みのあるセリフが飛び出す上質感も併せ持つ。
盲人といっても様々で先天的か後天的かだけでも、人生のスタンスに違いが出てくる。健常者との距離感、関係のとり方などもある。盲人にとって美貌は意味を持つかという興味深い問いかけもある。最大関心事はやはり恋愛であり、カノジョがいる、いない等様々だが、そこは健常者となんら変わりはない。また一人っ子政策の影が垣間見える展開もあり、西島秀俊似の先生のピンチの切り抜け方は必見で、果たしてこれが通用するのか興味深かった。時に絡み合いながらも各人の物語がオムニバス的に進み続けるが、終盤の展開はあっと驚く唐突な事件の連続だ。さあこれからどうなるの? と思っていると、突然の幕引き。まるで、ワケありで急遽打ち切りが決まった連続ドラマみたいに「えーっ」というカットアウトで話は終わる。でも後日談でしっかりフォローされる。絶望して、自暴自棄になり風俗嬢に入れ込んだ若者のその後は必見の物語だ。人生一寸先は闇、思いもよらぬことで躓いたり、その逆もある。何が奏功するか分からない、まさに、「上質な」ソープ・オペラで、映画序盤の重さとは予想もつかない気分の良さで劇終となる。登場人物の人間模様を描きながら、物足りなさもなく、飽きることもなく、良い具合に締めくくられた115分だった。

(text:今泉健)


「ひとことで言えば、官能」


視覚に障害がある人が「色彩」について語るのを、聴いたことがある。空の青さ。水の透き通った色のない色。
彼は5歳の頃に視覚を失った。彼は「視えていた」経験を持つ人であった。

この『ブラインド・マッサージ』で「美しい」と評される女性には、視えていた経験がない。そもそも美という概念がないので自らの美しさなど無価値である。しかし、同じく視えた経験がほとんどない、診療所の若き院長は、彼女によって「美には価値がある」ことを理解した。
視えなくなることに絶望し、自殺を試み、生き残った者がいる。子供のような彼の衝動を癒す「場所」へ誘う陽気な男がいる。そして、駆け落ちのように彼らのもとにたどり着いたカップルがいる。
「五感」のひとつが欠けている人々が集う場所。彼らは「匂い」に心を動かされ、あるいは誰かの異変を察知し、「触れる」ことによって生計を立て、あるいは美の形を知り、「食べる」ことによって共同体の形を強固にする(それは擬似家族的でもある)。声、会話、賑やかな(時には喧嘩にもなる)食卓、呼ばれる名前、それらを「聴く」。
特筆すべきは「触れる」−−触覚−−であろう。触覚は雄弁である。診療所を訪れる人々の身体に、的確に触れることが彼らの仕事だ。また、若者の衝動を受け入れるのは娼婦の仕事だ。「からだに触れることを生業とする人々」の物語がここにある。
「君の美しさを知りたい」、その手段は「指先で撫でること」。愛し合うことも文字通り真の闇の中では肌の感覚が頼りだ。時折パチンパチンとクリップで指先を挟む仕草は、痛覚を通し、自らの触覚を研ぎ澄ませるようにも思える。あるいは痛覚によって自らがそこに「在る」ことを確認するようにも。
触れられる肌。しっとりと湿り気を帯びた肌。とにかくよく雨が降る。雨の音に包まれる。映画に湿度は関係するのだろうか? 
そういえば、ロウ・イエ監督の映画では、よく雨が降り、水が流れる、そんなイメージがある。
彼らの世界ははっきりとした形をとって立ち現れることはない。映像は彼らに寄り添うように、にじみ、揺らぎ、ぼける。彼らに「視えている」世界は曖昧なものである。匂い、指先の感覚、共に食べるご飯の味、すぐに消えてしまう声。
しかし、それを傍観している私たちの世界は明確なのだろうか?
彼らに視えている世界より明確であると、誰が言えるのだろうか?

(text:井河澤智子)


「(意外にも)素直に感動 」


ロウ・イエの映画を見るともやもやする。愛の渇望や性衝動があまりに自分本位で浅はかで不器用、そんなちっとも共感できない人達の織りなすメロドラマを見せられたあげくサラっと終わって肩すかしを食らうのだ。フランス映画ばりのややこしい恋愛模様にはくたびれてしまう。そんな心のねじくれた私にとって、新作『ブラインド・マッサージ』は期待を裏切る快作だった。
舞台は南京のマッサージ院。そこで働く目の見えないマッサージ師たちはそれぞれの事情や思いを抱えながら、愛を求めては打ち砕かれ、それでも前を向いて生きている。職業選択の余地がない彼らにとって、愛という目に見えないものだけは小さな夢を見させてくれる。声を聞き分け、触れ合い、においを嗅ぐ行為が優位にある世界。相手を求めまさぐり合う人間達が直接的に訴えかけてくるのは、見ているうちに自然と感性が研ぎすまされるからなのか。盲人の心の中で健常者は「一級上の目を持った動物」だとナレーションは言う。これが残酷な現実だとしても、取り立て屋の前で自身の体を斬りつける行為や暴漢に挑んで殺されかけることには、見える者と見えない者の力関係を無にする激情と暴力がある。金銭を介在した逢瀬や不確かな未来しかないカップルには、盲目的な官能と依存がある。それらはみな『春琴抄』にも似た美しい狂気だ。見たことのない「美」にとらわれ、見ることのない記念写真を撮り続ける、“見えないもの”を求める衝動は光への執着であり、愛への渇望と同義とも言える。
脇のキャストはみな実際の盲人が演じているが、メインキャストではコン役のみ、目の不自由なチャン・レイが演じている。素朴すぎるルックスの割に幼い色香を放ち意外なほど男慣れしている。おそらくそれは演じる彼女自身がまとっている空気であり、ごく普通の女達の持つ神秘であろう。コンの存在こそがこの映画の説得力を格段に引き上げ、愛のごたごたを人間のひたむきな営みに昇華させているのだ。
焦点のあわないショットはぼんやりと明滅しながら、まるで視覚に頼る観客を試すかのように予測不能に移ろう。それはロウ・イエの描くたゆたう人々そのものでもあり、心もとない人間関係や先の見えない社会と重なる。その粗い粒子の光と影に目を凝らすと何かが浮かび上がってくる。そう思いたいと思わせるものが見えるのだ。その感覚の後にくるラストには確かなものが見える。その不確かで確かな結末を信じる自分を信じられそうになる。
たゆたう人々がようやく地に足をつける瞬間の絶望を超えた人間讃歌。それを勝手に自己肯定にすりかえて素直に感動していいのではないだろうか。 

(text:佐藤奈緒子)




『ブラインド・マッサージ』
原題:推拿
2014年/中国、フランス/115分

作品紹介
シャーとチャンが経営する南京のマッサージ院では多くの盲人が働いている。若手のシャオマーは、幼い頃に交通事故で視力を失った。医師の診断は「いつか回復する」というものだったが、その日は一向にやってこない。
生まれつき目の見えない院長のシャーは結婚を夢見て見合いを繰り返すが、視覚障害者であることが理由で破談してしまう。それでも懲りずにパートナーを探し続ける明るい男だ。客から「美人すぎる」と評判の新人ドゥ・ホンもまた、生まれつき目が見えない。彼女は自分にとって、何の意味のもたない“美”に嫌気がさしていた。そのことを耳にしたシャーは、彼女の“美”が一体どんなものか知りたくて仕方がなくなる。
そんなマッサージ院に、シャーの同級生ワンと恋人のコンが駆け落ち同然で転がり込んできた。まだ幼さの残るシャオマーは、コンの色香に感じたことのない強い欲望を覚えはじめる。
ある日、爆発寸前の欲望を抱えたシャオマーを見かねた同僚が風俗店へと誘った。そこで働くマンと出会いによって、 大きく動き出した運命の歯車。己を見失いもがき苦しむ中で見つけた一筋の光とは……。

キャスト
シャオマー:ホアン・シュエン 【『空海-KU-KAI-』2018公開】
シャー ・フーミン:チン・ハオ【 『 二重生活 』 、『 スプリング・フィーバー』】
ワン:グオ・シャオトン【『天安門、恋人たち』】
ドゥ・ホン:メイ・ティン
マン:ホアン・ルー
コン:チャン・レイ

スタッフ
監督:ロウ・イエ
脚本:マ ー・インリ ー
原作:ビー・フェイユィ著「ブラインド・マッサージ」(飯塚容訳/白水社 刊)
撮影監督:ツォン・ジエン【『二重生活』『スプリング・フィーバー』】
録音:フー・カン
作曲:ヨハン・ヨハンソン
編集:コン・ジンレイ、ジュー・リン
衣装:チャン・ディンムー
メークアップ:シー・ホイリン
美術:ドゥ・アイリン

配給・宣伝
アップリンク

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/blind/

劇場情報
2017年1月14日(土)より、アップリンク渋谷、新宿K’s cinemaほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。


今泉健 Takeshi Imaizumi

1966年生名古屋出身 東京在住。会社員、業界での就業経験なし。映画好きが高じて関連の講座を受講。現在はUPLINK配給サポートワークショップを受講中。映画館を作りたいという野望あり。2016年のベスト1は『スポットライト~世紀のスクープ~』。


井河澤 智子 Tomoko Ikazawa

門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし
初詣、みなさま行かれましたか?
神社仏閣に、よく「形代」ってございますね、紙のヒトガタに体のよくないところを移して水に流す、と。あたしもこの際どっか悪いところを流していこうかね、と何の気なしにヒトガタ取ったら、うっかり2枚取っちゃった。まぁ、いけないところは1箇所じゃないわな、てんでオデコにしっかり当てて、水に流してきたんですが、あれですかね、2枚のヒトガタの内訳は、どえらい寝つきの悪さと酒の飲みすぎでしょうかね。
なんの話でしたっけね。
あ、ロウ・イエ監督の作品は『ふたりの人魚』が一番好きですな。


佐藤奈緒子 Naoko Sato

映画を通して世界を学びながら少しずつ大人になっています。2016年に見た映画のマイベストは『怒りのキューバ』です。

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2016年11月24日木曜日

映画『エヴォリューション』評text大久保 渉、長谷部 友子


「分からなくもない」


諸星大二郎先生の漫画の一編に、「美しいもの」を見たら死ぬ(自殺する)人たちがいた。死ぬほど感動したから、幸せなまま死にたいから。分からなくもない。
 ただそうすると、「不気味なもの」「おぞましいもの」を見た時に、彼らはどんな感情を抱くのか。「死」の逆だから、「生」を思うのか。行き場のない暗闇に閉じ込められた瞬間、光を求めてあてどなく手足を振り回してしまう気持ちは、分からなくもない。
 ただ暗闇から抜け出て光にあたり幸せを築き上げた瞬間、もうこのまま死んでもいいかもと思ってしまう気持ちも、分からなくもない。今が絶頂と手に入れた幸せがいつか失われてしまうかもしれないことへの漫然とした恐怖がふいに頭をよぎるから。
 「幸福」から「死」を。「恐怖」から「生」を。人の性のなんと煩わしいことか。それならばいっそ、感情など排して生きていけばいいのだろうか。
 ただ、この映画を見て感情が波打たない人間などいるのだろうか。美しくもおぞましい物語。未だかつてない美と醜の映像の世界を前に、沸き立つ感情を留めることがどれだけ不可能なことかを思い知らされてしまうのも、分からなくもない。

(text:大久保渉)

「心地よい恐怖」


映画の基本はホラーとミステリーだと思っている。恐怖と謎解き。恋愛映画はどうなんだと言われそうだけど、恋愛だって恐怖と謎解きに翻弄される行いだ。
その両者がまざまざと、そして圧倒的な映像美で示されたのが『エヴォリューション』だ。少年と女性しかいない島。母と暮らす10歳のニコラは、自身の身体に奇妙な医療行為を施される。なにかがおかしい、その理由を見つけようと夜中に出かける母を尾行した先にあったものは、悪夢のような光景だった。
おどろおどろしさと得体のしれなさの先にあるものを探しながら、何故そうなったのかと考えずにはいられない。これは一体どういうことなのか。しかしいかに論理的に考えてみても、その解はわからず、わからなさとおぞましさに身を委ねるしかない。謎は解かれぬまま、おどろおどろしさはいつしか心地よい恐怖となり、海の中に沈んでいく。

(text:長谷部友子)





© LES FILMS DU WORSO • NOODLES PRODUCTION • VOLCANO FILMS • EVO FILMS A.I.E. • SCOPE PICTURES • LEFT FIELD VENTURES / DEPOT LEGAL 2015
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『エヴォリューション』

原題:Evolution
2015年/フランス/81分

作品解説
『エコール』の監督が贈る、最も美しい“悪夢”。
少年と女性しかいない、人里離れた島に母親と暮らす10歳の二コラ。その島ではすべての少年が奇妙な医療行為の対象となっている。「なにかがおかしい」と異変に気付き始めた二コラは、夜半に出かける母親の後をつける。そこで母親がほかの女性たちと海辺でする「ある行為」を目撃し、秘密を探ろうとしたのが悪夢の始まりだった。“エヴォリューション(進化)”とは何なのか…?ギャスパー・ノエの公私にわたるパートナーであり、森で暮らす少女たちを描いた『エコール』のルシール・アザリロヴィック監督が贈る、最も美しい“悪夢”。映画祭で上映されるや否や「初期クローネンバーグを思わせる!」「ルイス・キャロル、グリム兄弟、アンデルセンの死体を掘り起こした」等大きな反響を巻き起こした。

キャスト
マックス・ブラバン
ロクサーヌ・デュラン
ジュリー=マリー・パルマンティエ

スタッフ
監督:ルシール・アザリロヴィック
配給:アップリンク

公式ホームページ
http://www.uplink.co.jp/evolution/

劇場情報
2016年11月26日(土)より、渋谷アップリンク、新宿シネマカリテ(モーニング&レイト)ほか全国順次公開

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【執筆者プロフィール】

大久保渉 Wataru Okubo

ライター・編集者・映画宣伝。フリーで色々。執筆・編集「映画芸術」「ことばの映画館」「neoneo」「FILMAGA」ほか。東京ろう映画祭スタッフほか。邦画とインド映画を応援中。でも米も仏も何でも好き。BLANKEY JET CITYの『水色』が好き。桃と味噌汁が好き。
Twitterアカウント:@OkuboWataru 


長谷部友子 Tomoko Hasebe

何故か私の人生に関わる人は映画が好きなようです。多くの人の思惑が蠢く映画は私には刺激的すぎるので、一人静かに本を読んでいたいと思うのに、彼らが私の見たことのない景色の話ばかりするので、今日も映画を見てしまいます。映画に言葉で近づけたらいいなと思っています。

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2015年10月13日火曜日

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』textくりた

「マックスとその亡霊たち」 


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の主人公であるマックスは、「フュリオサに比べるとちょっと目立たない」というイマイチな評判をしばしば目にします。しかしこの作品は非常に多くの観客に観られ、そして様々な考察がされる中で取りざたされている興味深い一説に「マックス精神病んでる説」があります。それを裏付ける主な着目ポイントとして「他人と目を合わせられない」「単語しか話さない」「同じ言葉を繰り返す」等々いくつか不自然な点が挙げられています。

© 2014 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED


またその中でも最も分かりやすく、顕著な症状として幻覚・幻聴があります。主な幻覚として現れる少女はクレジットで“Glory the Child”となっているのですが、では彼女は一体何者なのか?何者なのかって、まぁご覧になった方はお分かりでしょうが、クライマックス前に「Come on Pa!(急いで!パパ!)」と呼びかけるので恐らくマックスの娘なのだろう、という事が分かります。

しかし彼女はそれより以前は、彼に向かって「マックス」と、呼びかけているのです。
観ている間その呼びかけの違いに違和感を感じていたので、これがどういうことを意味するかを考えていました。

先述にもある通り、マックスが精神を患った状態であるという考察は多いですし、きっとそれが正しい認識なのだろうと思います。その結果としてマックスは“Glory the Child”を始めとする過去に救えなかったであろう人物達の幻覚が見えているのですが、マックスはずっとその幻に責め立てられているのです。そして“Glory the Child”は出てくるたびに同じ台詞を繰り返しています。

「Where are you?(何処にいるの?)」「You promised to help us!(助けてくれるって約束したのに!)」と。

この2つの台詞はマックスにとってどんな意味があるのでしょうか?

© 2014 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED

まず「Where are you?」ですが、これは物語の冒頭で「I am the one who runs from both the living and the dead.(生者からも死者からも逃げている)」とマックス自身が語っていたところを見ると、死者から「逃げている」という意識はすなわち、「死者が自分のことを探し回っている」、という妄想の表れだとも言えます。その妄想が「何処にいるの?」という幻聴として聞こえてきているのだろうと推察できます。

また、それらの症状はフュリオサ達と出会ってからは現れる回数が劇的に減っています(忙しくて幻覚を見てる暇すらないということもありますが!)。それは戦いを通してマックスが少しずつ癒され、精神が安定していっているであろう事を表しています。

それから後にフュリオサ達と別れ、荒野に1人で佇んでいるシーンでまたあの“Glory the Child”が現れ、そして再度「Where are you?」とマックスに囁きかけます。つまり、ここでフュリオサ達と共に歩むこと(戦うこと)から「逃げた」というマックスの自責の念が、やはり「Where are you?」という台詞に投影されているのだと考えられるのです。

また、その一方で「You promised to help us!」という台詞はさらに直接的に、マックスを責め立てる台詞ですがこれはまた別の重要な役割を果たす一文でもあります。

先ほどの別れのシーンにおいて繰り返されるその2つの台詞の他に、“Glory the Child”が泣きながら「Monny!」と呼びかける声が聞こえ、その直後に子供ではない女性の声で「You promised to help us!」という台詞が続きます。この2つの台詞の前後関係を考えると、「You promised to help us!」と言ったのは“Glory the Child”の母親、つまりはマックスの妻と考えることも出来るのです(妻かどうかはものすごい飛躍かも知れませんが)。

© 2014 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED

おそらくですが、フュリオサ達と出会うそれ以前は幻覚に現れる少女が誰なのかマックス自身も分からなくなっていた、もしくは認識したくなかったのではないかと思うのです。それほどまでに心を病んでいたのではないかと。しかし、フュリオサ達と共に戦いながら癒され、立ち直りつつあったマックスはその時になって、ようやく“Glory the Child”が自分の娘だったという事を認識できた(思い出せた)のではないか?またその娘を、妻をも救うことが出来なかったことと向き合えたのではないかと思うのです。

だからこそ、先のシーンで“Glory the Child”の呼びかけが「マックス」から「パパ」へと変化したのではないでしょうか。

そこでようやくアイデンティティ(父親であり、夫であった自分)を取り戻した彼は、自らが今しなければならない事を改めて認識し、フュリオサ達のもとへ向かうシーンへと繋がっていくのです。かつて救えなかった人たちの面影を胸に、しかし二度と同じことは繰り返すまいと覚悟を決めたマックスは、その前夜にフュリオサに向かって「希望を持つな」と告げた時の彼とは明らかに違います。自分自身を取り戻した彼は、フュリオサに向かって「可能性にかけろ」と諭すのですから。

© 2014 WARNER BROS. ENT. ALL RIGHTS RESERVED

「もしかしたら駄目なのかも知れない」、それでもマックスは(恐らく)また以前のように、自分以外の人間のために、虐げられた人々のために命をかけることを選択するのです。それは真の英雄的行為、究極の自己犠牲の精神であるわけなのですが、しかし彼はそれをただ「人のためだから」と行っているわけではない筈です。その行為自体が、他ならぬマックス自身のためでもあるから戦っているのです。過去に助けを求めてきた人たち、自分の大切な人たちを守れず、1人生き残ってしまった自分と向き合えずに崩壊してしまった心。それを取り戻すことは、再び他人のために命をかけることでしか為し得ないのです。そうやって生きていくこと自体がマックスたる所以、それが彼のアイデンティティの根幹にあるのです。

こんなにも尊い行いを何も言わずに、見返りすら求めずに最後までやり遂げる男を観てこれが泣かずにいられますか?
もう正直言って涙しかないです!
そうやってまた繰り返し観てしまうのが『マッドマックス』なのです。

(text:くりた)

関連レビュー:
映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 【鉄と血と、怒れる女神の物語】text:くりた






『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

2015/アメリカ/120分

『マッドマックス』(1979)のシリーズ第4作。石油も水も尽きかけた世界。主人公は愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官のマックス(トム・ハーディ)。荒野をさまようマックスは、資源を独占し恐怖と暴力で民衆を支配する凶悪なイモータン・ジョーに捕えられる。そこへジョーの右腕の女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、配下の全身白塗り男ニュークスらが現れ、マックスはジョーへの反乱を企てる彼らと協力し、奴隷として捕われていた美女たちを連れ、決死の逃走を開始する。追いつめられた彼らは、自由と生き残りを賭け、決死の反撃を開始する!

出演
マックス:トム・ハーディ
フュリオサ:シャーリーズ・セロン
ニュークス:ニコラス・ホルト
イモータン・ジョー:ヒュー・キース=バーン
トースト:ゾーイ・クラビッツ

スタッフ
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラザリウス
撮影:ジョン・シール
美術:コリン・ギブソン
衣装:ジェニー・ビーバン
編集:マーガレット・シクセル
音楽:ジャンキー・XL
制作:ダグ・ミッチェル、ジョージ・ミラー、P・J・ボーデン
製作総指揮:イアイン・スミス、グレアム・バーグ、ブルース・バーマン

公式ホームページ:http://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuryroad/

blu-ray&DVDレンタル/発売日:2015年10月21日(水)

2015年7月3日金曜日

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』text高橋 雄太

「バイオレンス駅馬車」


ゴダールは「男と女と自動車があれば映画ができる」と言ったという。
本作はそのテーゼを具現化した。しかも「目的地を目指す」と「追いかけっこ」という最も単純な形で。
男:マックス(トム・ハーディ)、ニュークス(ニコラス・ホルト)
女:フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、妻たち
この男女の一団と、イモータン・ジョーなどの敵とが、追いかけっこをする。

アイアンマンが空を飛び、自動車がロボットにトランスフォームし、X-MENが超能力でバトルする21世紀。
生身の人間が改造車でカーチェイスするなど時代錯誤とも思える。
だが、単なる光の点にしか見えない弾丸やミサイル、光線を出すだけの超能力では、本作の迫力は得られない。
人が傷つけば血が出る。車がクラッシュすれば破片が飛び散り、砂煙が舞う。
『マッドマックス』では、そんな当たり前のことが画面狭しと繰り広げられる。
画面いっぱいに散乱するモノから、物質の体積や質量、materialとしての物質の存在感が伝わってくる。

おバカ映画、低IQと言うなかれ。
横と縦、近さと遠さの切り替えが、メリハリを生んでいる。
自動車の猛スピードの水平移動。そこにバイクがジャンプして爆弾投下。
さらに、棒飛び隊が上空で振り子運動する。
全編通じての横移動に、縦のアクションが加わるのだ。
クラッシュ時の目が飛び出る超クローズ・アップなど、過剰なまでの接近がある一方で、空撮による車列のロングショットもある。
遠近の視点で、状況説明と激しさを両立させている。

そしてシンプルさ。
冒頭に述べたように、乗り合わせた乗客が敵の追跡を振り切って目的地を目指すことが、本作のほぼ全て。
乗客に妊婦がいる。大切な荷物(本作では種子)を抱えている。
また、乗り物から乗り物へと飛び移る曲芸のようなアクションもある。
まるでジョン・フォードの『駅馬車』だ。
遠近の視点の使い分けも共通。
そこで、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を21世紀に生まれた「バイオレンス駅馬車」と勝手に認定しよう。

シンプル・イズ・ベスト度:★★★★★ 





『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

2015/アメリカ/120分

『マッドマックス』(1979)のシリーズ第4作。石油も水も尽きかけた世界。主人公は愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官のマックス(トム・ハーディ)。荒野をさまようマックスは、資源を独占し恐怖と暴力で民衆を支配する凶悪なイモータン・ジョーに捕えられる。そこへジョーの右腕の女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、配下の全身白塗り男ニュークスらが現れ、マックスはジョーへの反乱を企てる彼らと協力し、奴隷として捕われていた美女たちを連れ、決死の逃走を開始する。追いつめられた彼らは、自由と生き残りを賭け、決死の反撃を開始する!

出演
マックス:トム・ハーディ
フュリオサ:シャーリーズ・セロン
ニュークス:ニコラス・ホルト
イモータン・ジョー:ヒュー・キース=バーン
トースト:ゾーイ・クラビッツ

スタッフ
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラザリウス
撮影:ジョン・シール
美術:コリン・ギブソン
衣装:ジェニー・ビーバン
編集:マーガレット・シクセル
音楽:ジャンキー・XL
制作:ダグ・ミッチェル、ジョージ・ミラー、P・J・ボーデン
製作総指揮:イアイン・スミス、グレアム・バーグ、ブルース・バーマン

劇場情報:TOHOシネマズ、ユナイテッド・シネマ、MOVIX、ピカデリーの各劇場他にて絶賛公開中

2015年6月25日木曜日

映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』textくりた

「鉄と血と、怒れる女神の物語」 

※ネタバレしている箇所があります

Diorの広告塔としても有名なシャーリーズ・セロン。
177cmの長身にすらりとした長い手足、健康的な肌にブロンドヘア。 そして形の良いアーモンド型の目にはブルーグリーンの繊細な瞳がはまっている。 彼女の持つまばゆいばかりの美貌は人々を惹きつけ、魅了してありあまる。

 その彼女が美しい風貌をかなぐり捨てて、丸坊主&黒塗りヘッドの、片腕で挑んだ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。
本作でのシャーリーズ・セロンは「美しい風貌」を捨てているかもしれないが、それでもやはり彼女は美しく、神々しかった。
砂埃と血とオイルにまみれ、身も心も傷だらけになりながらデス・ロードを爆走する彼女のその姿は誰よりも気高く、そして誰にも支配されない戦いの女神さながらだ。
正直言ってマックス役のトム・ハーディの影も薄くなるほどの苛烈さで、一体どちらが主人公なのか観るものを惑わせる。
いや、どちらかというと彼女が演じるフュリオサこそ真の主人公だといって差し支えないのかもしれない。

 「マッドマックス」シリーズの主人公・マックスの象徴である黒の革ジャケットとソード・オフ・ショットガン、そしてインターセプターは確かにハーディ演じるマックスの持ち物であったが、ショットガンは不発、インターセプターはほとんどウォーボーイズの1人に乗り回されて最終的にはフュリオサが運転するウォータンクに押しつぶされて大破する。

  マックスがマックスとしての象徴を1つずつ取りこぼしていく(ジャケットだけは取り返すが)その一方で、シャーリーズ・セロンが演じるフュリオサはどうか?

 まずフュリオサ(Furiosa)という名前。 これはポルトガル語で「激怒する」等の意味合いがあり、原題の「Fury Road(フューリーロード)」とはまさに、彼女そのものを表しているかのようだ。
また『マッドマックス2』でメル・ギブソン演じるマックスは物語後半で左目を負傷するのだが、本作のクライマックスシーンではフュリオサが右目を負傷し、同じような傷を負っている(トム・ハーディ=マックスの顔面は無傷)。
これは監督であるジョージ・ミラーが意図的に彼女をメル・ギブソン=マックスの対となるキャラクターとして考え、真の意味での主人公として位置づけていると言っても良いのではないだろうか。

 フュリオサはボロボロになりながら老女ばかりの「鉄馬の女たち」を率い、イモータン・ジョーの5人の妻たちを守りながら「怒れる道(Fury Road)」をひた走る。
自らの命を燃やし尽くさんばかりのその勇姿は、イモータン・ジョーの焼印よりも強烈に、観る者たちの胸に深く刻み込まれるに違いない。

 そして忘れてはいけない「鉄馬の女たち」の戦い振りも鮮烈かつエモーショナルだ。 劇中ではあまりのスピードの速さに状況を把握するだけで精一杯だが、鑑賞後のクラクラした頭の中で、ひとつひとつ彼女たちの戦いや表情を思い返すと、ふいに胸が詰まるのを感じる。
観終わった後に泣けてくるなんてそんな映画はいまだかつてなかった。しかもこんなハイテンションのバイオレンス映画で涙する日がくるなんて一体誰が想像しただろう?

 ハイスピードのカーアクションにド派手なクラッシュ、異形のキャラクターが破壊の限りを尽くすだけのバイオレンス作品かと思いきや(確かにそれも見物だが)、決してそれだけではない。
奪われてばかりだった女たちが反旗を翻し、そして自分以外の誰かを守るために立ち上がるこの映画は、女神が人々を再生へと導く神話なのである。

シャーリーズ・セロンの女神度:★×MAX!!!!!
(text:くりた)

関連レビュー:
映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』text高橋 雄太
映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』 「マックスの亡霊たち」textくりた




『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

2015/アメリカ/120分

『マッドマックス』(1979)のシリーズ第4作。石油も水も尽きかけた世界。主人公は愛する家族を奪われ、本能だけで生きながらえている元・警官のマックス(トム・ハーディ)。荒野をさまようマックスは、資源を独占し恐怖と暴力で民衆を支配する凶悪なイモータン・ジョーに捕えられる。そこへジョーの右腕の女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン)、配下の全身白塗り男ニュークスらが現れ、マックスはジョーへの反乱を企てる彼らと協力し、奴隷として捕われていた美女たちを連れ、決死の逃走を開始する。追いつめられた彼らは、自由と生き残りを賭け、決死の反撃を開始する!

出演
マックス:トム・ハーディ
フュリオサ:シャーリーズ・セロン
ニュークス:ニコラス・ホルト
イモータン・ジョー:ヒュー・キース=バーン
トースト:ゾーイ・クラビッツ

スタッフ
監督:ジョージ・ミラー
脚本:ジョージ・ミラー、ブレンダン・マッカーシー、ニコ・ラザリウス
撮影:ジョン・シール
美術:コリン・ギブソン
衣装:ジェニー・ビーバン
編集:マーガレット・シクセル
音楽:ジャンキー・XL
制作:ダグ・ミッチェル、ジョージ・ミラー、P・J・ボーデン
製作総指揮:イアイン・スミス、グレアム・バーグ、ブルース・バーマン

劇場情報:TOHOシネマズ、ユナイテッド・シネマ、MOVIX、ピカデリーの各劇場他にて絶賛公開中

2015年6月19日金曜日

映画『サンドラの週末』text加賀谷 健

「サンドラに魅せられて」


 映画は、ベッドに身を沈める一人の女性の寝顔を捉えたショットから始まる。携帯電話が鳴り出すと、その女性は気だるそうな表情を浮かべながらも起き上がり、電話を片手にキッチンで子どものためだというタルトの焼き具合を確認する。だが、その様子を捉えたロング・ショットはどこか不吉な雰囲気を漂わせている。女は、電話先の相手から職場を解雇されるかもしれないという報せを受け、再びベッドに身を沈める事となる。すると、家の中には夫らしき男性が慌ただしく駆け込んでくる。男は、鍵のかけられた部屋のドアをノックしながら「サンドラ」と何度もその名を呼び続ける。日常の中にふと訪れる環境の変化。ダルデンヌ兄弟の作品に相応しい導入部である。

 かくして「サンドラの週末」はこれからの生活を左右する重大な二日間となるのだが、ダルデンヌ兄弟はあらゆる映画的細部を「失業」という現代ベルギーがかかえる社会問題を暴き立てるために構築しようとはしない。専ら、一人の女性の魅力ある姿を捉える事に徹しているのである。

 例えば、サンドラが職場の同僚の住むアパートを訪れる場面。インターフォンを押したサンドラは、アパートの上層へ視線をむける。激しい日光に照らされた彼女の額からは汗が流れ落ちる。その一粒一粒、さらには汗を流す彼女自体が言葉では言い表せぬ感動を観る者に喚起する。サンドラがあちこちを歩き回ったり、水を呑んだり、ふとどこかへ視線をすべらせたりするだけで、我々観客の頭からは、時折、画面をちらつく現代ベルギーの「失業問題」が嘘のように消え去るのである。そう人に思わせる何かが「サンドラ」という美しい響きの名を持つフランス人女性にはあるのだ。

 実際、サンドラが訪ね回る同僚達は皆そろって、その美しい響きを必ず口にする。説得しに行った相手の反応の善し悪しに関わらず、決まって彼らは立ち去ろうとする女性に「サンドラ」と一声かけるのである。呼び止められた彼女は無論、声の主の方へ振り返るのだが、その瞬間の彼女の何気ないかに見える表情は、まるで時が止まり重力に逆らうかのようにして観る者の瞳に肉迫する。ことによったら、それは、この映画で最も感動的と言える瞬間かもしれない。

  だが、冒頭でタルトを焼き上げていた女性は結局の所、その職を失ってしまう。こうなるであろう事は初めから予想しなかったでもないが、映画の終わりで放浪者チャプリンさながらに遠くまでのびる道を進んでゆくサンドラの姿を見て、観客は何を感じるのだろうか。この映画に感動を覚えたのであれば、心の中で「サンドラ」と思わずその名を呟いて、いや叫んでしまうはずである。


サンドラの魅力度:★★★★☆
(text:加賀谷 健)




映画『サンドラの週末』

2014/ベルギー=フランス=イタリア/95分

作品解説
体調を崩し、休職していたサンドラ。回復し、復職する予定であったが、ある金曜日、サンドラは上司から突然解雇を告げられる。 解雇を免れる方法は、同僚16人のうち過半数が自らのボーナスを放棄することに賛成すること。 ボーナスか、サンドラか、翌週の月曜日の投票に向けて、サンドラが家族に支えられながら、週末の二日間、同僚たちにボーナスを諦めてもらうよう、説得しに回る。

出演
サンドラ:マリオン・コティヤール
マニュ:ファブリツィオ・ロンジォーネ
エステル:ピリ・グロワーヌ
マクシム:シモン・コードリ

スタッフ
監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
助監督:カロリーヌ・タンブール
撮影監督:アラン・マルコアン(s.b.c)
カメラマン:ブノワ・デルヴォー
カメラマン助手:アモリ・デュケンヌ
編集:マリ=エレーヌ・ドゾ
音響:ブノワ・ド・クレルク
ミキシング:トマ・ゴデ
美術:イゴール・ガブリエル
衣装:マイラ・ラムダン=レヴィ
メーキャップ:ナタリ・タバロー=ヴュイユ
ロケーション・マネージャー:フィリップ・トゥーサン
ユニット・プロダクション・マネージャー:フィリップ・グロフ
スチール:クリスティーヌ・プレニュヌ

制作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、ドニ・フロイド
エグゼクティヴ・プロデューサー:デルフィーヌ・トムソン
共同製作:ヴァレリオ・デ・パロリス、ピーター・ブッケルト
製作協力:アルレッテ・ジルベルベルク

公式ホームページ:http://www.bitters.co.jp/sandra/

劇場情報:Bunkamura ル・シネマ、他、劇場にて公開中

2015年6月17日水曜日

映画『サンドラの週末』text長谷部 友子

「サンドラという名の災難」

病ゆえに休職していたサンドラは、復職することになった矢先の金曜日、解雇を言い渡される。解雇を免れる方法は、16人の同僚のうち過半数が自らのボーナスを諦めること。ボーナスか、サンドラか。月曜日の投票に向け、週末の2日間サンドラは同僚たちを説得に回る。

サンドラという弱き者が困難に立ち向かう。ある意味、王道の物語なのだろう。しかし本当にそうだろうかとふと思った。説得という困難に彼女は立ち向かったが、16人の同僚にすれば、サンドラという災難におそわれる週末でもあったわけだ。

ある者は、妻の失業によりボーナスがなければ自分たちも生活ができないと言い、ある者は仕事で得る賃金だけでは足らず休日に別の仕事をしていることが判明し、ある者はサンドラを裏切るような形になっていたことに罪悪感を持っていた。サンドラの突然の訪問は、リトマス試験紙のように彼らの生活と価値観を浮き彫りにする。予期せぬ唐突さで問うてくるサンドラは、はたして弱き者なのだろうか。

サンドラは16人に等しく、ボーナスを諦め自分を選んでほしいと求めるが、16人はそれぞれの対応をする。居留守を使い話すら聞こうとしない者、泣いて謝る者、サンドラのみが理由ではないものの離婚を決意してまで彼女に味方しようとする者。そう、理由はいつだって問うてくる相手ではなく自分の側にある。サンドラという災難は常に訪れる。それはある者にとっては厄災であり、しかしある者にとっては好機ですらある。凡庸とみえる日々の生活の中、多分私たちはいつも問われている。あなたはどんな選択をし、いかなる人間であるかと。サンドラは彼らのその選択を炙り出していく。


サンドラの唐突度:★★★☆☆
(text:長谷部 友子)


映画『サンドラの週末』


2014/ベルギー=フランス=イタリア/95分

作品解説
体調を崩し、休職していたサンドラ。回復し、復職する予定であったが、ある金曜日、サンドラは上司から突然解雇を告げられる。 解雇を免れる方法は、同僚16人のうち過半数が自らのボーナスを放棄することに賛成すること。 ボーナスか、サンドラか、翌週の月曜日の投票に向けて、サンドラが家族に支えられながら、週末の二日間、同僚たちにボーナスを諦めてもらうよう、説得しに回る。

出演
サンドラ:マリオン・コティヤール
マニュ:ファブリツィオ・ロンジォーネ
エステル:ピリ・グロワーヌ
マクシム:シモン・コードリ

スタッフ
監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
助監督:カロリーヌ・タンブール
撮影監督:アラン・マルコアン(s.b.c)
カメラマン:ブノワ・デルヴォー
カメラマン助手:アモリ・デュケンヌ
編集:マリ=エレーヌ・ドゾ
音響:ブノワ・ド・クレルク
ミキシング:トマ・ゴデ
美術:イゴール・ガブリエル
衣装:マイラ・ラムダン=レヴィ
メーキャップ:ナタリ・タバロー=ヴュイユ
ロケーション・マネージャー:フィリップ・トゥーサン
ユニット・プロダクション・マネージャー:フィリップ・グロフ
スチール:クリスティーヌ・プレニュヌ
制作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、ドニ・フロイド
エグゼクティヴ・プロデューサー:デルフィーヌ・トムソン
共同製作:ヴァレリオ・デ・パロリス、ピーター・ブッケルト
製作協力:アルレッテ・ジルベルベルク

公式ホームページ:http://www.bitters.co.jp/sandra/

劇場情報:Bunkamura ル・シネマ、他、劇場にて公開中

2015年6月14日日曜日

映画『サンドラの週末』text高橋 雄太

※文章の一部で、結末に触れている箇所があります。



「和をもって貴しとなす」

ロードムービーであり選挙映画であり足し算映画である。

金曜日、サンドラ(マリオン・コティヤール)は解雇の危機にあった。
月曜日にサンドラの解雇に関する同僚たちの投票が行われる。解雇を免れるためには、同僚の過半数から支持を集めなければならない。会社の同僚たちに、ボーナスかサンドラの雇用かの二択を選んでもらうのだ。
彼女は、支持を取り付けるため、週末を使って同僚たちを訪問する。

集めるのは票であり、人の善意である。その「集めること」の裏に、実は「分けること」がある。
1000ユーロのボーナスを放棄してサンドラを復職させることは、富の分配と言える。票を集めることは、富の分配と善意の積分である。

サンドラは一人で同僚の家に向かい、同僚と会う。そして、また一人で去っていく。この一連の過程が繰り返される。
ここで人数を数えれば、一人、複数(二~三人)、一人。このように、同僚の票を集めることは、人を集めることと対応している。
カメラはこの人数を正確に記録する。歩くときサンドラは一人という孤独な画面。サンドラが同僚と会うとき、複数の人が同じフレーム内に収まる。

本作は集めることと分けることのせめぎ合いの作品でもある。
分けることは、冒頭のタルト、ピザ、富の分配、サンドラが一錠ずつ服用する薬に表れている。
また、サンドラは薬を大量に集めて服用し、自殺を図る。分けるべきものを集めてはいけない。
集めるべきは、やはり人なのだ。

月曜日の投票後、サンドラの反対者は画面から退場し、賛同者は残る。サンドラが八人の賛同者とハグする様子が、やはりワンショットで捉えられる。
一人から二人、二人から三人、三人から九人へ。サンドラが作る人の和は、画面内の人の足し算の和として表現される。
文字通り、人の足し算と友情の「和」である。
結局、失業してしまったサンドラは、再び一人になって歩く。結果だけ見ればサンドラの敗北だ。
だがこの映画では、一人で歩くことは、他の人と集まるための動作である。
最後のサンドラの向こうに人の絆がある。再び人は足し算される。そうして「和」が生まれるはずだ。

★★★☆☆
(text:高橋 雄太)






映画『サンドラの週末』

2014/ベルギー=フランス=イタリア/95分

作品解説
体調を崩し、休職していたサンドラ。回復し、復職する予定であったが、ある金曜日、サンドラは上司から突然解雇を告げられる。 解雇を免れる方法は、同僚16人のうち過半数が自らのボーナスを放棄することに賛成すること。 ボーナスか、サンドラか、翌週の月曜日の投票に向けて、サンドラが家族に支えられながら、週末の二日間、同僚たちにボーナスを諦めてもらうよう、説得しに回る。

出演
サンドラ:マリオン・コティヤール
マニュ:ファブリツィオ・ロンジォーネ
エステル:ピリ・グロワーヌ
マクシム:シモン・コードリ

スタッフ
監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
助監督:カロリーヌ・タンブール
撮影監督:アラン・マルコアン(s.b.c)
カメラマン:ブノワ・デルヴォー
カメラマン助手:アモリ・デュケンヌ
編集:マリ=エレーヌ・ドゾ
音響:ブノワ・ド・クレルク
ミキシング:トマ・ゴデ
美術:イゴール・ガブリエル
衣装:マイラ・ラムダン=レヴィ
メーキャップ:ナタリ・タバロー=ヴュイユ
ロケーション・マネージャー:フィリップ・トゥーサン
ユニット・プロダクション・マネージャー:フィリップ・グロフ
スチール:クリスティーヌ・プレニュヌ

制作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、ドニ・フロイド
エグゼクティヴ・プロデューサー:デルフィーヌ・トムソン
共同製作:ヴァレリオ・デ・パロリス、ピーター・ブッケルト
製作協力:アルレッテ・ジルベルベルク

公式ホームページ:http://www.bitters.co.jp/sandra/

劇場情報:Bunkamura ル・シネマ、他、劇場にて公開中