2017年2月19日日曜日

映画『パリ、恋人たちの影』評text奥平 詩野

『パリ、恋人たちの影』/フィリップ・ガレル


男女の関係の中から取り出し得る無数のテーマのうち、たった一つを描こうと思えば、それは容易に愛についての物語としての権威を私達に示してくれるように思うが、フィリップ・ガレルの今作で私たち観客が投げ入れられるのは、ある愛への一つの解釈ではなく、物語として存在することも未だに出来ていないような、混乱して整理されていない体験そのものである。この映画は、物語的に一つの結果や解釈に向かって状況を直線的進行で表現するのではなく、時間がたつほど全ての無意味にすら見える状況が折り重なって、実感はあるが得体の知れない、いつかは誰かが物語にするかも知れない、自分が今生きている人生の全体の印象を増幅させ続けるものなのである。そして物語られる以前の男女の関係の中に見出し得るのは、愛の勝利や敗北でも愛への理解でもなく、ただ一人の男と一人の女が自らの欠陥を背負ったり投げ出したりしながら個人の内の不安定な足場に頼って手探りで立っていようとする様子のリアリティといった意味での残酷さではないだろうか。

映画の隅から隅までこの残酷な視線は注がれているように思う。日々が自分の手を逃れて勝手に進んで行ってしまっている漠然とした生活の営みの状況から逃れることなく、愛の容態も日々勝手に流れてしまって行き、なす術もない自分の人生を前に登場人物たちは辛うじて遅れないようについて行っているかのように、穏やかに、しかし慢性的に混乱し、解釈や物語といった精神的に自分の人生の歩みを支えてくれる足場を必死に探し求めているのである。

しかし、残酷さは物語の確固たる所有を終始一貫して認めない。何らかの愛についての法則を物語ってくれる神話は、たいてい、状況の渦中にある時に一人の誰かによって知覚されたものではなく、事の終わりに、いわばもはや関係者が一人もいない時に初めて、かつての関係者も含む他者の眼差しによって物語れ得るものではないだろうか。そういった機能を映画は担うことができるために、私たちも、何が物語られるかにいつも眼を開いて聞き耳を立てているように思う。しかし、一人の女と男が渦中にあって自らの物語を解釈しようとするとき、もう一方の中にある物語と相容れない状況が一時の休みもなく継続するため正しい物語を持つことができない彼らのリアルタイムに寄り添うように、本作も、決まった目的地も決まった教訓も持たず、まるで状況をどのように装飾して良いか分からないかのように、静かに、地味に、断固として判断的にならない、色味の無い視線を二人の男女の関係に注ぎ続けている。

本作は、どこにも向かうところのない彼らのように、物語る以前であるがために配分関係なく訪れる前触れのない物語上の起伏の平坦さをもって進行して行き、彼らから、そして私たちから、しがみつくべき物語を常に奪い、不安定さと惰性と混乱の中に投げ入れ続ける無慈悲な描き方している。最初からいきなりアパートを追い出されたかと思えばもう数分後にそのシーンが物語の筋とは何の関係もないと分かるほどいつも通りらしい暮らしに戻っているし、夫の浮気も唐突に、何の気無しに始まり、妻と愛人との別れさえ親しげだった割には、ただのことの次第と言うほど安易に静かに何の波風もたてずに行われるのである。しかし意に反してもっと事件性の少ない事が鮮烈に描かれている場合もあり、夫が出かける予定を無気力を理由に断る時や、妻と母親とのランチの描写などはもっと重要な腹の中の何かを顕現させそうなほどの緊張感を持っている。出来事としての一大事と感情としての一大事が合致してない様子が全編に渡ってところどころあり、それが物語られ得るものを物語性から遠く引き離しストーリーへの肉付けという意味では平坦さを与えるが、その代わりに掴みきれない心理的なものの機敏な迷える動きを豊潤に捉え続けている。そして揺れ動く感情の記録は、静かな漠然とした混乱の中で毎日を送る彼らの、凭れかかる場所もなく、愛というものが一般的に言われる行き着く先というものも存在しないかも知れないという、開け放たれた保証もない手探りの関係の途方もなさと虚しさと諦めきれないものへの諦めへの、迷いに満ちた抵抗を痛切に表現し続けている。

大家の不寛容でアパートを追い出される時、彼女が泣いているのは、これからの生活苦を思い、他人の不寛容な態度に傷付き、自分の生活状態が惨めに思った中で、生活というものの報われなさや他人や人生への当ての無さを感じたからではないだろうか。このちょっと出てくる大家という一般的には敵対的である他人の中にある、自分と決して融合する事の無い不寛容な残忍さが、結婚している男女の間でも永遠に拭えないかも知れないと思う時、それはより一層残酷に映るだろう。二人の別れのシーンでは、確かに結婚生活の終焉の危機だから話が盛り上がるだろうが、愛が傷付いた事への悲しみと言うよりは、選択してきたことが自分の期待を裏切り続ける理不尽な報酬を与え続ける状況をとうとう無視出来ずに、希望をもって無視してきた他人との軋轢がその存在をはっきり見せつけてしまう、日々の抵抗を無に帰してしまうような混乱も絶望も極まるただでさえ残酷なシーンだが、そこでも、男女関係にもがく彼らへの労いも慈悲も教訓もはっきりした理由も示さない無判断的で俯瞰的な視線が貫かれているので、より一層冷淡に感じられる。

しかし、眼差しが無判断的で物語的でなく、俯瞰的であるということは、観客を映画の中の出来事から感情面において分離するというのではなく、最後がハッピーエンドなのかどうかは物語性という意味では語れないこの映画に関してはあまり意味がないことだとは思うが、物語がないというまさにその点において、記録された男女も観客も誰一人、不快なまでに映画内の状況から逃れ出ているわけにはいかず、彼らが行き着く場所のない関係の中に未だにいる事の、結局物語られないまま終わる営みに、私達は虚しさと不安とそれへの迷える抵抗がまた続いてゆくのをただ、いずれ語り得る何かを期待して見つめるのだと思う。物語が未だに生み出されない、結末とは無縁の状況で、知らず知らずのうちに物語を何とかして選び取ろうと、そして意味を見つけ理解しようと、あるいは偽レジスタンスの兵士のように拠り所にしようする、人生そのものの中で誰もが行っている努力を、そのまま映画に映し取ってしまうフィリップ・ガレルによって、私たちは物語無き事実というリアリティを『パリ、恋人たちの影』において発見せざるを得ないのではないだろうか。

(text:奥平詩野)




『パリ、恋人たちの影』
2015年/73分/フランス

キャスト
マノン:クロチルド・クロ
ピエール:スタニスラス・メラール
エリザベット:レナ・ポーガム

スタッフ
監督:フィリップ・ガレル
製作:サイード・ベン・サイード、ミヒェル・メルクト
脚本:ジャン=クロード・カリエール、カロリーヌ・ドゥリュアス=ガレル

劇場情報
2月18日(土)~横浜シネマ・ジャック&ベティ
2月25日(土)〜シネマテークたかさき

公式ホームページ
http://www.bitters.co.jp/koibito/

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【執筆者プロフィール】

奥平詩野 Shino Okuhira
1992年生。国際基督教大学除籍。映画論述。

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