2015年12月22日火曜日

第16回東京フィルメックス《特集上映》『ヴィザージュ』レビュー text 井河澤 智子


「6年寝かせたレビューと、極私的解説」


2009/11/24 初稿
2015/12/10 大幅改稿

 まず感じたのは、「これが最後の作品になるかもしれない」という懸念であった。
 ツァイ・ミンリャン監督の作品には「水浸し」「性への渇望」「死者の存在」などのモチーフが通奏低音の如く響いているのだが、今回はそこに「自らへのオマージュ」らしきものを感じてしまったのだ。
『青春神話』に見られる、家じゅう水浸しになる場面。
『Hole』『西瓜』『黒い眼のオペラ』に見られる、唐突に挟まるミュージカルシーン。
『河』に見られる、同性愛の(えらく具体的な)描写。
『ふたつの時、ふたりの時間』に見られる、窓をガムテープで塞ぐ場面、パリの公園の場面。また、トリュフォーへの傾倒。ここで『大人は判ってくれない』が引用されているが、トリュフォーが「アントワーヌ」という役名でジャン=ピエール・レオーを主演に製作した「ドワネルもの」と呼ばれる一連の作品群と、ツァイ・ミンリャンがリー・カンションを主演に撮影した作品(「シャオカンもの」、と仮に呼ぶ)は、一人の俳優の成長を、長いスパンでフィルムに収める、という大きな共通点がある。

 そして、(『楽日』を遺作に鬼籍に入った、父親役のミャオ・ティエン以外)それまで出演していた俳優が総動員される。映画そのものが、例えるならフェリーニの『8 1/2』のラストシーン——いや、あのように「人生は祭りだ」などと吹っ切れたような祝祭感は全く感じられないが——そのように感じてしまうものであった。

 さらに、「家族の映画」としての側面もあったこの一連の「シャオカンもの」、『ふたつの時、ふたりの時間』では父親が亡くなるが、この『ヴィザージュ』では母親が亡くなってしまう。
 監督はもう撮らないのではないか、という懸念を抱いても仕方あるまい。

 水道管が壊れ、水浸しになった台北のシャオカンの自室(これもまた『青春神話』からほとんどレイアウトが変わっていない)。部屋から溢れた水はパリへと流れ、導かれるように『ヴィザージュ』は始まってゆく。
 シャオカンはいつしか「シャオカン(カンちゃん)」から「カンさん」と呼ばれる映画監督となり、「アントワーヌ」という名のフランス俳優を主演に迎え映画を撮影しようとしている。アントワーヌを演じるのがジャン=ピエール・レオー。アントワーヌの行動に振り回されるプロデューサーを演ずるのは、晩年のトリュフォーのパートナーであったファニー・アルダン。
『ふたつの時、ふたりの時間』において『大人は判ってくれない』を初めて観た青年が、セールスマン、路上の時計売りを経てAV男優として映像の世界に入り(『西瓜』)、そこで得た映像の経験を糧に映画監督となったのかもしれない、と想像すると少し楽しい。
 ツァイ監督はさぞ嬉しかったのではないか。 
 自らの分身リー・カンションが、ジャン=ピエール・レオーと一枚の絵に収まるということが。
 ほぼ一方的に映画について喋るレオーの言葉を、固有名詞を拾いながら、じっと聞くリー・カンション。この絵が撮りたかったのではないか。
 明らかに作り物の冬景色の中、この場面は非常に美しい。

 しかし、ここで一つの懸念を覚えてしまった。
 アントワーヌを演じるジャン=ピエール・レオーの、まるで幼児のような言動は、演技なのか、それとも素の姿なのか?
 演技なのだとすると流石と舌を巻くしかないが、その素顔がほとんど報じられることがなく、稀に風の便りがあったと思うと「つきっきりで世話をされていた」というような若干心配になるようなもので、正直言って筆者の感想は「このヨイヨイを撮るとは監督も随分と残酷なことしなさる」というものであった。
 精神的に不安定な時期もあった、と聞くが、現在は大丈夫なのか。コンスタントに映画には出ているようだが、筆者は追い切れていなかった。

 さて、カン監督がどのような題材で映画を撮ろうとしているのか、当初ははっきりとは明かされない。
 林の中に鏡が何本も立てられたセットは、まるでルネ・マグリットの「白紙委任状」(http://www.renemagritte.org/le-blanc-seing.jsp)が冬景色となったようだ。カン監督とアントワーヌの支離滅裂な会話で言及される映画のタイトルは、オーソン・ウェルズ『上海から来た女』である。アントワーヌはこの鏡の場面と、『上海から来た女』のラストシーンを重ね合わせたのではないか。また、アントワーヌの役柄は「王」であること、そして舞台は冬であること、それ以外の情報はほとんどない。
 メイクのプランを練るシーンでも、カン監督は「半透明な冷たさを出したい」と、女優の顔に空き缶やら氷やらを押しつける。ここでも具体的な話は出ない。
 このカン監督、ちっとも監督らしい顔をしない。女優の長すぎる衣装の裾を抱えて右往左往したりしている。

 しかしこのあたりでやっと「なにを撮ろうとしているのか」がぼんやりと見えてくる。女優がカン監督に向かって「サロメ」のセリフをつぶやく。サロメが洗礼者ヨハネに向けて語っているかの如く。いつしかカン監督はサロメがその首を欲しがるほどに愛しい洗礼者ヨハネに同一視される。されるがままカン監督が女優に弄ばれる、日本語でいえば俎板の鯉、フランスではなんというのだろうか。家畜がなす術もなく枝肉となってぶら下げられるようなシーンがツァイ監督お得意の長回しで映し出される。あたかも首を切られた洗礼者ヨハネ、それに愛しげに口づけするサロメ、といった体で。丁度レヴィ・デュルメルの絵画「サロメ」と構図がほぼ一致していたので、ご興味のある方はお調べいただきたい。
 とするならば、アントワーヌが演ずるのは「ヘロデ王」である。

 そして、アントワーヌとプロデューサー――あるいは、ジャン=ピエール・レオーとファニー・アルダン——二人の場面。ともにトリュフォーに愛された者同士が、「どこかで会ったような気がする」という。役柄と私生活が曖昧になる場面である。
 アントワーヌは鏡に口紅でメモを残して消える。「君を愛することはできない、僕は去る。」と。彼らはトリュフォーという存在を「奪い合う」間柄なのかもしれない、と深読みもできる。かつて自分を愛した人間が、後に別の人間を愛したという喪失感。
―—そういえば、トリュフォーの描くアントワーヌは、常に愛を欲し、愛に向かって駆けずり回るような青年だった——

 唐突に場面は切り替わる。ルーブル美術館、レオナルド・ダ・ヴィンチが展示された部屋。まさに「洗礼者ヨハネ」の絵画の真下、大理石の壁面がゴトッと外れる。そこから現れたのはヘロデ王の衣装を纏ったアントワーヌ。彼はその場を立ち去る。
 ここではじめて、観客は「舞台はルーブル美術館だったのだ」と気付く。

  実はこの映画はルーブル美術館の依頼によって製作された映画なのだという。
 しかし撮影はほとんど配管部分や下水管などで行われており、外の場面はルーブルの西に隣接するテュイルリー公園かと思われる。明らかに「ルーブル美術館です」とわかる場面はラスト5分やそこらであった。なんという壮大な無駄遣い。
 たとえルーブル美術館からの依頼でも、撮りたいものしか撮らないツァイ監督なのであった。

『ふたつの時、ふたりの時間』ではカメオ出演であったジャン=ピエール・レオーと本格的に組むことが出来て、さらにトリュフォーのパートナーであったファニー・アルダンの援護も得て、ツァイ監督は本懐を遂げてしまったのではないか。『ヴィザージュ』で台北を訪れたファニー・アルダンが、カンの部屋でトリュフォーの顔写真と「再会」する場面には落涙を禁じ得ない。ここに、ツァイ・ミンリャンのモチーフ「死者の存在」を見ることが出来る。(また、亡くなったカンの母親が旅立つ直前に共にリンゴを食べるのも、ファニー・アルダンである。)
 やはり、ツァイ・ミンリャンは撮りたいものを撮り切ってしまったのではないだろうか。

 また、ジャン=ピエール・レオーの健康状態(諸々の意味で)に関する筆者の要らぬ懸念は、『ヴィザージュ』初見から5年後の2014年秋、有楽町角川シネマにて開催された「没後30年 フランソワ・トリュフォー映画祭」において初来日した彼の舞台挨拶を観て、すっかり解消されることとなる。彼は、明晰に、茶目っ気たっぷりに思い出を語り、共に仕事をしてきた監督たちを語り、「Voila ! 」となんども楽しげに口にする、堂々たる名優であった。

2009年公開の『ヴィザージュ』の後、ツァイ監督は劇場映画を長らく撮影しなかった。

2013年。『郊遊 ピクニック』が公開され、監督は引退を宣言した。

2014年。新作『西遊』が東京フィルメックスで公開。

2015年。最新作『あの日の午後』が東京フィルメックスで公開。
また、劇場映画を撮影していなかった時期に撮っていた実験的な映像を含めた特集上映が行われる。

 引退宣言はどこへやら、とほっとしている。ツァイ監督、まだまだ撮りそうである。

唐突なマチュー・アマルリックに吹き出した度:★★★★☆
(再見時に気付いたけど何故あの役?)

(text:井河澤 智子)

『ヴィザージュ』(原題:臉)

フランス、台湾、ベルギー、オランダ / 2009 / 141分

作品解説

ツァイ・ミンリャン監督がヌーベルヴァーグの名匠フランソワ・トリュフォーにオマージュを捧げた作品。台湾人監督(リー・カンション)が、ルーヴル美術館を舞台に「サロメ」をモチーフにして映画を撮ろうとする。主人公を取り巻く撮影時に起こる様々な出来事が、夢幻的な世界観で描かれていく。第10回東京フィルメックス(2009)のオープニング作品であ理、日本劇場未公開作品。

出演者

リー・カンション
ジャン=ピエール・レオ
ファニー・アルダン
ジャンヌ・モロー

スタッフ

監督:ツァイ・ミンリャン 
配給:ユーロスペース

第16回 東京フィルメックス

2015年11月21日(土)〜29日(日)まで開催(会期終了)。「映画の未来へ」--いま世界が最も注目する作品をいち早く上映する国際映画祭。アジアの若手によるコンペ部門、最先端の注目作が並ぶ特別招待作品の上映。特集上映のひとつはフランスのピエール・エテックス。

公式ホームページ


特集上映 ツァイ・ミンリャン

『郊遊 ピクニック』(2013)で、長編映画の製作からの突然の引退を宣言してファンを驚かせたツァイ・ミンリャン監督。世界に衝撃を与えたデビュー作『青春神話』(1992)とキャリア初期の傑作に加え、日本での劇場未公開作品『ヴィザージュ』(2009)、および日本初上映の短編作品などが上映された。


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