2015年8月7日金曜日

映画『この国の空』試写text加賀谷 健

「この国の空 荒井晴彦的野心に感動!」


「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」

 終戦70周年を迎えた今年2015年、終戦の知らせとなった昭和天皇の「玉音」を心にとどめている者も数少なになりつつも、多くの戦争映画、戦争ドラマが8月15日に向け制作された。そのどれもが「反戦」を謳うものであったが、日本を代表する脚本家である荒井晴彦の18年ぶりの監督作である『この国の空』では、「反戦」が叫ばれるどころか、「非戦争体験者」である作家の様々な戦争問題との「戯れ」さえ感じられた。

 結核で父親を亡くし、母親と二人で暮らす里子(二階堂ふみ)が、隣に住む妻子を疎開させ一人暮らしをする銀行家の市毛(長谷川博己)と近しくなり、しまいには体をあずけてしまい、女としての目覚めを戦時下に経験する。『この国の空』の物語をかなり大雑把に説明するとこんな感じになるだろうか。上映後、『共喰い』でタッグを組んだ青山真治監督と共にスクリーン前に登壇した荒井監督は、「ある女が隣の男とできちゃう。安倍批判でもなんでもない。ある意味で不謹慎な作品」と自作を短く説明されていた。

 長谷川博己が二階堂ふみからもらったトマトを頬張るシーンに同行したという青山監督は、冗談まじりに荒井晴彦の現場での監督ぶりを語って会場をわかせつつ、「これは、大変珍しい映画。ヴィシー政権の頃を描いたフランス映画のようで、あまり日本では、戦争はこういう描かれ方はされていない」と、この映画の「不謹慎さ」を肯定的に評価する。

 試写会終了後、外で青山監督と煙草をふかす荒井監督に「反戦映画」について伺ったところ、「反戦映画はやりたくない。いつも思うのは、そのたぐいの映画って誰に責任があるのって思っちゃう。で、いつも感動の悲劇みたいになってしまう。だから、そういう事はやりたくなかった」と、「戦争責任」に触れながら、終戦後から現在までの「天皇問題」について熱く語っていただけた。

 『この国の空』は、「8月15日」を描く事なく終わる。「反戦」の象徴とも言える「玉音放送」はやりたくなかったと言う荒井監督は、映画のラストに終戦前夜、夜雨に顔を濡らす里子のクロース・アップを選ぶ。それもただのクロース・アップではない。トリュフォーの『大人は判ってくれない』と見まがうほどの、ストップ・モーションへのゆるやかなズーム・アップなのだ。「映画だなという素晴らしい雨。雨を降らしたなという美しい雨」と、青山監督は静かな口調でラストシーンに触れ、トークショーのしめくくりとした。
 
 被写体に最後まで粘り強く向き合い続ける事。多くの演出家が戦争映画を作る時にその事を忘れてしまい、ついつい政治的イデオロギーに走ってしまう中で、「反戦」の一文字に縛られる事なく、「映画的なまなましさ」を露呈させる「映画作家」としての荒井晴彦の野心と強い意志を映画館で是非感じ取ってもらいたい。そして、劇場から出た後、その感動を「声高に」語ってもらいたいと切に思う。

(text:加賀谷 健)


映画『この国の空』

2015/日本/130分

作品解説
『さよなら歌舞伎町』『海を感じる時』『共喰い』などの脚本を手がけたベテラン脚本家・荒井晴彦の18年ぶりにメガホンをとった監督作。谷崎潤一郎賞を受賞した高井有一による同名小説を原作に、戦時下を生きる男女の許されない恋を、二階堂ふみと長谷川博己の主演で描いた。終戦も近い昭和20年。東京・杉並の住宅に母と暮らす19歳の里子は、度重なる空襲におびえながらも、健気に生活していた。隣家には妻子を疎開させた銀行支店長の市毛が暮らしており、里子は彼の身の回りの世話をしている。日に日に戦況が悪化し、自分は男性と結ばれることのないまま死ぬのだろうかという不安を覚えた里子は、次第に女として目覚めていくが……。

出演
二階堂ふみ
長谷川博己
富田靖子
利重剛
上田耕一

スタッフ
監督/脚本:荒井晴彦
原作:高井有一『この国の空』(新潮社)
ゼネラルプロデューサー:奥山和由
プロデューサー:森重晃
撮影: 川上皓市
美術: 松宮敏之
照明: 川井稔
録音: 照井康政
編集: 洲崎千恵子
助監督: 野本史生
制作担当: 森洋亮
ラインプロデューサー: 近藤貴彦
制作:『この国の空』製作委員会
制作プロダクション:ステューディオスリー
製作幹事・配給:KATSU-do
協賛:大和ハウス工業
配給:ファントム・フィルム

公式ホームページ:http://kuni-sora.com/index.html

劇場情報:8月8日(土)よりテアトル新宿ほかにて全国ロードショー

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