2017年4月28日金曜日

映画『草原の河』text常川 拓也

『草原の河』/ソンタルジャ


©GARUDA FILM

日本ではじめて劇場公開されるチベット人監督(ソンタルジャ)による映画『草原の河』(2015)は、幼い6歳の女の子ヤンチェン・ラモの視点からチベット高原での牧畜民の生活を切り取っている。カメラは基本的にほとんど子どもの目線の高さに位置して寄り添い、澄んだ映像は純真無垢な彼女のまなざしそのままを表しているかのようだ。それは、私たちがこれまでに映画で触れてきたチベットとは同じでありながら、また異なる景色を提供する。ヤンチェン・ラモは子羊にジャチャと名付け、ペットのように愛しむが、ここではそれは放牧される存在だ。チベットの風景や文化をこれまでとは別の視点で、少女の無垢な視点で見つめることは新鮮な感触をもたらしている。

©GARUDA FILM

私は「ことばの映画館」vol. 4(*)でチベットを代表する映画作家で、本作の共同プロデューサーでもあるペマ・ツェテンについて執筆したが、その中で、彼の作品を観ることで、「チベットの伝統文化と中国の現代文明が衝突した、その相違の混乱の只中にいるチベットの今に私たちは触れることができる」と書いた。また、彼の作品が「ある種の寓話を通して、伝統文化と現代社会の狭間で適応に苦しむチベットの人々の姿や風景に対して」在ることに言及した。実際のところ、それらのことは、彼の盟友であるソンタルジャの作品にも見て取ることができるように思える(ソンタルジャはペマ・ツェテン『静かなるマニ石』(2005)、『オールド・ドッグ』(2011)の撮影監督を務めている)。ちなみに、ペマ・ツェテンは文学的な映画監督、ソンタルジャは映画的な映画監督であるとチベットでは評されることがあるというが、そのような印象を受けるとすれば、それはふたりの出自が前者が小説家、後者が美術家あるいは撮影監督であるというところが大きいだろう。

©GARUDA FILM

確かにチベットの今を見つめる彼らが描くのは、伝統文化と近代化の狭間でアイデンティティの拠り所を失くし、惑うチベットの男たちの姿である。
ソンタルジャの映画の男は、家族間に起きたある出来事を機に頑なに心を閉ざし、周囲に口を開かない。初監督作『陽に灼けた道』(2011)では主人公の男ニマは自身の起こした事故によって母を亡くしてしまったトラウマを抱えているが、監督二作目『草原の河』のグルは、自分の父が死にゆく母を無残に捨てたと考え、身勝手な彼に対してわだかまりを捨てきれずにいる。『草原の河』は視点こそ小さな少女ヤンチェン・ラモに立っているが、物語上の主人公に当たるのはむしろその父グルであると言っていいだろう。どちらにおいても、身近な人の死をどう受け入れるか、どう乗り越えるかということにソンタルジャは関心を寄せている。

©GARUDA FILM

映画は、冬の終わりに、酔っ払って「馬に乗るなら生きてるうち/死んだら駆ける場所がない/酒を飲むなら生きてるうち/馬に乗るなら生きてるうち」と歌いながらバイクを運転しているグルが転倒する場面からはじまる。歌の歌詞とは異なり、砂埃の舞う高原で男は馬ではなくバイク(チベットでは鉄の馬とも呼ばれる)に乗っている。以後、彼は自身のバイクの壊れたミラーを頻繁に気にかけ、タバコを吸いながらたびたびバイクを修理している姿が確認できる。

本作を観て、グルとバイクとの関係性が印象に残った。私たちが目にするのは、一家の中で言葉を発することなく虚無に覆われた父親グルの模様であり、マスキュリニティを喪失した男の姿だろう(ひび割れたミラーを覗き込むグルの顔がそこで分裂して見えるのは、彼の壊れたアイデンティティを確かに暗示している)。グルは自身のトラウマや家族の亀裂と向き合うことよりも、むしろバイクの修理にしか目がいっていないようにも思える。ある意味、グルはバイクと一体化しているのである(ある種ロードムービー的な趣も持つ『陽に灼けた道』では母の死でラサ巡礼の旅に出て荒野を歩き続けるニマがコケる場面が強調して描かれていたが、『草原の河』のグルはバイクに乗ったまま川に落ちたり転ぶ姿が印象に残る)。

『陽に灼けた道』
  ©"A Day in the Life of Tibetan Pastoralists" Production Team  

とりわけ、俯瞰気味のロングショットで捉えられた風景の中、グルが妻と娘にはじめて自身の父親との確執の理由──4年前、病床に伏した彼の母親が最期に父と会うこと希望するも、「行って何の役に立つ? 死ぬのは避けられない。それよりも祈り。お経を読むのが一番だ」と河を渡らず、母親の些細な望みすら叶えなかったことを憎んでいたこと──を告白するとき、彼は二人の周りをバイクで駆けている。増村保造『濡れた二人』(1968)をどこか彷彿とさせるダイナミックな演出がなされた最も印象的な場面である。

なお、第16回東京フィルメックスで来日したペマ・ツェテンに『タルロ』のインタビューをした際(「ことばの映画館」Vol.4に掲載)、彼は文化大革命について、「その時期を経験した人にとっては、(中略)“人民のために働く”ということをすごく洗脳されていた時代であ」り、その時代の人たちは「“自己のためではなく他人のために何かをする”ということが、一種の善であると植え付けられて生きて」きたのだと語っていた。おそらくこのことは、チベットの古い世代であるグルの父の思考を考える上で有益だろう。

©GARUDA FILM

後半、グルは娘とともに町の病院に入院した父を訪ねるため高原から都市部へと向かう。病院を出た後、彼のバイクのミラーが直っていることに注目したい。修繕されたミラーには、彼の父と娘が病院の向かいで座って話しているのが映っているのだ。そして、三人はともにグルのバイクに乗ってロードを駆ける。『草原の河』においては、バイクが荒野と都市を繋げ、そして家族の和解/再生の物語へと接続させている。

一行は、河を前にして水が引くまでその場で待つこととなる。自身の娘と父が和やかな会話をする中、タバコを吸いながらひとり離れて横になるグルに光が差し込み、彼はひっそりと涙を流す。目の前に流れる河は、ただ彼の苦悩と傷を静かに受け入れている。

(text:常川拓也)

*…映画冊子「ことばの映画館」Vol.4

♦Vol.4の内容紹介記事
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『草原の河』
2015/98分/中国

原題:河|英語題:River|チベット語|DCP|ビスタサイズ|ステレオ


作品解説
長編デビュー作『陽に灼けた道』(2011)でバンクーバー国際映画祭ヤング・シネマ賞グランプリに輝いたソンタルジャの長編二作目にして、日本で初めて劇場公開されるチベット人監督作品。チベットの雄大な自然の中で暮らす遊牧民の一家の姿を幼い少女の目を通して描かれる。2015年ベルリン国際映画祭ジェネレーション部門でのワールド・プレミアを皮切りに、世界各国の映画祭で上映され、峻烈な映像美が高い評価を受けた。チベット高原で牧畜を営む一家の幼いひとり娘は、母が新しい命を授かったことを知り、やがて生まれてくる赤ちゃんに母を取られてしまうのではないかと不安になっている。村人たちと接することなく暮らしている父のグルは、4年前のとある出来事をきっかけに自分の父親をいまも許せないでいる。それぞれがぎくしゃくした関係のなかで生きる娘とその父、そして祖父。家族三代の関係が変化する時がやってくる。撮影当時6歳だった娘役のヤンチェン・ラモは、第18回上海国際映画祭アジア新人映画部門で最優秀女優賞を史上最年少で受賞。日本では2015年、第28回東京国際映画祭のワールド・フォーカス部門にて『河』という原題で上映された。なお、ソンタルジャ監督作品が中国以外で劇場公開されるのは初となる。

キャスト
ヤンチェン・ラモ:ヤンチェン・ラモ
ルクドル(母):ルンゼン・ドルマ
グル(父):グル・ツェテン

スタッフ
脚本・監督:ソンタルジャ
撮影:王 猛 
共同プロデューサー:ペマ・ツェテン

配給
ムヴィオラ

劇場情報
4月29日(土・祝)より岩波ホールにてロードショーほか全国順次公開

公式ホームページ
http://moviola.jp/kawa/

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【執筆者プロフィール】

常川拓也:Takuya Tsunekawa

新潟県生まれ。映画批評。「NOBODY」「neoneo」「INTRO」「リアルサウンド映画部」等へ寄稿。Twitter:@tsunetaku

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