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2015年8月15日土曜日

映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』text落合 尚之



『未来をなぞる』―― この詩的で想像力に富んだタイトルが全てを語っていると思います。未来は未だ来らざるもの。その到来が予想されながら眼前に見ることは叶わず、望んだような形で現れるとも限らない。多くの場合、希望と同義のように語られるが、そこに勿論不安というニュアンスを嗅ぎ取ることもできるでしょう。今いるこの場所からは見ることも触れることもできないものを、暗闇で手探りするように、砂場に埋もれた小さな欠片を探り当てようとするように、わずかな手がかりを、微かな感触を求めて指を這わせる。その輪郭を心に描こうとする。この映画に収められているのは、そのような気が遠くなる作業に根気強く取り組む、一人の芸術家の姿です。

 写真家・畠山直哉氏は岩手県・陸前高田市出身。都市と自然の関係などをテーマにした作品群で世界的に評価の高い芸術家です。しかし2011年3月の東日本大震災で故郷の実家と母を失ったことが、彼の創作活動に転機をもたらします。この映画は、2012年3月から2014年4月までの2年間、津波にさらわれた故郷の写真を撮り続ける畠山氏の姿を追ったドキュメンタリー作品です。


 映像中に都度差し挟まれる畠山氏へのインタビュー。一言一言慎重に言葉を選び、最も適切な表現を正確に探り当てようとするかのような氏の語り口が印象に残ります。そこから伝わって来るのは、彼が作品を作る時、あるいは芸術家として生きる上で、何か確たる思想なり哲学といったものを常に心に置いていて、自分の創作がその哲学に忠実であるかを常に自分に問い続けているのだろうということです。彼が震災以前に行なった数々の講演が本にまとめられ出版されていますが(*)、それによれば畠山氏は自らを「写真術は自然科学が生んだ技法である、と信じる者」だと言っています。そして「科学者が『世界をもっと知りたい』と思うのと同じような気持ちで」写真を撮っているとも。映画の中でも一部紹介されますが、彼が長いキャリアを通じて取り組んで来た様々な題材、石灰石鉱山やそこで行なわれる爆破作業の様子、大都市の俯瞰図や街中を流れる川などの写真には、情緒を排した非常に透徹した視線が見て取れます。世間一般に流布している「写真には心が写る」といった言説に対して、氏はナイーブに過ぎると苦言を呈します。「写真に心は写らない。心の動く方向を指し示す何かが写っているだけだ」と。

 一方畠山氏は、作品として発表するつもりのないごくパーソナルな写真を撮りためていました。故郷の陸前高田市の風物とそこに暮らす人々を写したスナップ写真。これらは本来作品と呼べるようなものではなかったと語る氏の言葉から察するに、これらの写真を撮った時の彼は、作家として作品を作る時のようには、コンセプトを突き詰めたり、自分を追い込んだりはしていなかったのだろうと思われます。それでもやはりプロの技術と美意識が介在しているため、どの写真も大変美しいのですが。そしてそれらは、科学者的な視点で撮ったクールな作品群に比べて、ずっと親密で情緒的な表現になっているように思えます。その中の一枚、畠山氏のお母さんが川辺の道で、川面に向けたカメラのファインダーを覗いている姿を捉えた写真には、特に見る人の心を打つ何かがあるような気がします。画面の中央に横を向いて立っている老母の半身。撮影者はその姿を少し距離を置いた立ち位置から捉えている。ピントは母の姿にだけ合っていて、母までの距離も、その向こうの遠景も、かすかに輪郭を甘くして小さな母の姿を包み込んでいる。この写真に被写体である母への思慕や追憶が写っている、つまり作者の心が写っていると我々素人が単純に思い込んでしまったとしても、無理はないように思えます。

 しかし、今それを見る我々がそこに何らかの情緒を見出してしまうのは、そこに写っている街や人がその後どうなってしまったかを知っているからなのかもしれません。地震が引き起こした津波によって、そこに写っていた何もかもが押し流され、失われてしまったことを我々は知っているからです。津波はこれらの写真の意味を全く別のものに変えてしまった。畠山氏の私的なコレクションに過ぎなかった一連の写真が、かつてそこに存在し、しかし一瞬にして歴史の外に奪い去られてしまった街と人々の、他に替えようのない重要な記録物になった。作家が本来意図しなかった意味が外部の出来事によって付け加えられ、同じ写真の見え方が全く変わってしまう。勿論そういった変質は大なり小なり日常的にも起こり得ることではありますが、このように劇的な形でそれが突きつけられることは、恐ろしく稀な事態だと言っていいでしょう。作品が作者を裏切るように、ふいに思いがけない相貌を帯びる。そんなことがあり得るのなら、作品にとって作者とは何なのか?また作家が作品を作るとはどういうことなのか?

 常に理性的な態度で主体として写真と関わって来た畠山氏にとって、このように自分の与り知らぬところで作品の価値が変質し、作者としての主体性を奪われるような事態は、作家としての思想・哲学を揺さぶられる出来事だったのではないでしょうか。震災以降、畠山氏は、それまで長年取り組んで来た都市と自然をテーマとする一連の仕事を中断し、失われた故郷のその後の姿を写真に収めるという作業に取り組んでいきます。それは決して単なる復興の記録などというものではないでしょう。失われた人と生活の面影をファインダー越しに探しながら、変わり果てた故郷の姿を見つめ、フィルムに定着させること。それは震災をきっかけに見知らぬ貌を顕した写真という表現形式と自分との関係を測り直し、再構築し、再び自分の掌中に取り戻すための手探りの試みでもあったのではないか。寡黙な探索者のように荒れ地を歩き、写真を撮り続ける畠山氏の姿から、あるいはきかん気の子供のようにいつも何か納得がいかないと言いたげなその表情から、そんなことを考えさせられます。




 監督・撮影・編集を一人で務めたのは畠山容平氏。同姓ですが直哉氏の縁者ではありません。父方が東北の同じ地域の出身で、この地方には多い名字だとのこと。手持ちのビデオカメラ一台で直哉氏の姿を追い続けています。直哉氏と共に被災した陸前高田の街を歩きますが、主に直哉氏の姿に注視し続け、自分のカメラで風景を捉えることはあまりありません。普通の映画で風景に語らせるような場面がある場合には、直哉氏の撮った写真を挿入して見せています。機材的にも技術的にも直哉氏の写真とでは勝負にならないという理由もあったかもしれませんが、写真を通じて直哉氏と主観を共有しているような感覚を見る者に起こさせるという意味において、非常に効果的だったと思います。またそんな中で、移動中の車窓の風景と共に直哉氏の故郷に対する思いが語られる下りなどが、ふと心に残る場面になってもいます。

 この映画は東日本大震災を題材の一部としながら、被災地の現状や復興支援を直接に訴えるような内容ではありません。一人の芸術家の創作の現場に寄り添い、その思想や哲学を掘り下げることに主眼があり、またその芸術家の視線を通して、家族を失った者、故郷を失った者の心の有り様に触れ、改めてあの震災がどういうものだったかを見る者に考えさせもするという作りになっています。この視点の持ち方は、直哉氏の語る「あまりに性急な言論や映像は、例え肯定的なものであっても、複雑になってしまった心をほぐしてくれない」という言葉にも呼応するものだと思います。震災後、多くのメディアが「頑張ろうニッポン」と言い「前を向こう」と言い、奪われた未来が今すぐにでも取り戻されねばならないとでも言うかのように、必死に人々を鼓舞して来ました。しかし当たり前のことですが、被災地の回復には気の遠くなるような時間が必要であり、そして以前と同じ姿に戻すことは決して出来ません。

 未来は未だ来らざるもの。今いるこの場所からは見ることも触れることも出来ず、どのくらい遠くにあるかも分からない。生き残った人間がこの状況で何か出来ることがあるとすれば、変わり果ててしまった大地にあり得たかもしれない未来の痕跡を探すこと、またゆっくりと、しかし確実に変わっていく風景の中に新しい未来の気配を嗅ぎ当てること、それしかないのではないか。三脚を担いで歩く足をふと止めて、じっと立ち止まって何かを考え込む。そしてまた歩き出す。陸前高田の町を往く直哉氏の足取りは、我々にそんな感慨を抱かせます。容平監督が『未来をなぞる』というタイトルに込めた思いもまた、そのようなものだったのではないでしょうか。

*)『話す写真 見えないものに向かって』畠山直哉/小学館

(text:落合 尚之)


映画『未来をなぞる 写真家・畠山直哉』 

2015年/日本/87分

作品解説
写真家・畠山直哉。石灰石鉱山や炭鉱、密集したビルの隙間を流れる川や、都市の地下空間を写した写真などで知られ、2001年にはヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表の1人にも選ばれた、世界的な写真家だ。2011年の東日本大震災で岩手県・陸前高田市の実家が流され、母を亡くして以来、彼は頻繁に故郷に戻り、変貌する風景を撮影するようになった。まもなく震災から4年。カメラを手に被災地を歩く者の姿も少なくなってきたが、畠山は変わらず風景写真を撮り続けている。誰の為に何の為に、なぜ撮り続けるのか? これはある1人のアーティストが、故郷の山河を前に、否応なく震災と向き合わざるを得なかった長い記録の断片をまとめたドキュメンタリー。被災のはてに1人の写真家が見た未来への希望とは、なんだったのか?

出演:畠山直哉

スタッフ
監督/撮影/編集:畠山容平
プロデューサー:石橋秀彦

公式ホームページ:http://www.mirai-nazoru.com/

劇場情報:8月15日(土)〜シアター・イメージフォーラムほか、全国順次公開

2015年1月8日木曜日

映画『ジミーとジョルジュ 心の欠片(かけら)を探して』クロスレビュー

「君の部族では夢は“未来”を告げるが、精神分析では“過去”を表すと考える。だから興味深い」

 予告編にも引用されている精神分析医・ジョルジュのこの言葉から僕が想像した映画の内容は、「近代合理主義と伝統的神秘主義の相克」といったようなものでした。

 心という実体のないものを自然科学的な手法で解明しようとする精神分析の考え方は、何でも理屈で割り切れる筈だと考える近代合理主義の産物に他なりません。一方、夢を未来の暗示と捉えるアメリカ先住民の考え方は、科学的な視点からは不合理と見なされますが、彼らの生活文化の中ではこうした考え方が実際に有効で、暮らしの役にも立って来たという歴史があります。理屈に合わない筈の先住民の言葉が真理の一端を明かしていることを無視出来ず、価値観を揺さぶられる精神分析医……そういう内容の映画なら確かに「興味深い」。

 でも実際の話はそうじゃありませんでした。

 この作品がニューエイジ・ムーブメント以降の視点で作られたフィクションだったとしたら、そんな話になってた可能性もあったのでしょうが、これは西洋近代へのカウンターとしてニューエイジ思想が台頭した60年代より遥か以前、1940年代に実際にあった実話を元にした物語です。医師ジョルジュは自分の信じる精神分析の手法で迷うことなく患者ジミーの治療に当たり、(簡単にとまではいかないものの)着実に成果を上げていきます。心理療法やカウンセリングを題材にした作品ならありがちな、患者の医者への反発、それが信頼に変わり寛解へ至る、というような分かりやすいドラマもここにはありません。患者であるジミーは至って素直に治療への試みを受け入れますし、他の病院関係者も基本的には良心的かつ協力的。その波乱のなさが少し物足りなくも感じられましたが、それも仕方ない。実話なんだから。

 むしろ外界の穏やかさに反して、ジョルジュとの対話によって自らの幼少期へと記憶をさかのぼる旅をしたジミーの、その心の中にこそ波乱はあった訳ですが、のっぺらぼうを出してみたり、原野を花で埋めてみたりとそれなりに手の込んだことしてるにも関わらず、その語り口が大げさだったりサスペンスに傾きすぎたりしないのは、やはりフランス人監督のエスプリなのかなと思ったことでした。ジョルジュの愛人が、人間の心と魂と身体の関わりをマトリョーシカになぞらえて話す場面なども、機知に富み、かつ美しい場面として印象に残りました。


★★★★☆
(落合 尚之)

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精神分析医を名乗る(元々は人類学者)ジョルジュが、第二次大戦中の戦傷による頭痛や視力障害、難聴などに悩まされている「アメリカ・インディアン」であるジミーの夢診断をするのだが、その解釈が楽しい。観客はこのジョルジュという人物の視点(解釈)に誘われることで、次第に明らかになっていくジミーのトラウマと向き合っていくこととなる。

淡々とした単調な対話劇にもなりかねないこの映画が私にとって思いのほか好ましく感じられたのは、ジョルジュがジミーを分析しようと向き合うこの態度というものが、我々が映画を観るという行為あるいはスタンスに近いように思えたからかもしれない。ここでいう我々とは、映画と接することで何かを見出そうとする人たちのことだ。つまり、画面に映る(他者により表現された)事象を自分なりに解釈するという「観る」行為も、ジョルジュがジミーの語る夢から彼の深層心理に隠されているかもしれない心の傷を診断分析する行為も、提示されたイメージから何か意味を見出すことであるはずで、それを通して学び、自己を見つめ直すことにつながる経験であるのではないか(と考えていたら、フランス語で俳優が演技することを意味する“interpreter”には、解釈する、精神分析をする、映画批評をするなどの意味もあるそうだ)。

ジミー(インディアン)とジョルジュ(ハンガリー系ユダヤ人)という、デコボコで血のつながっていない二人が対話と解釈により互いに学び合い、友情を育み、擬似家族のようなつながりを構築する過程には、彼らが自身のルーツ(映画オリジナルの登場人物であるという、ジョルジュの愛人マドレーヌが人類博物館━━人類のルーツを語り継ぐ場所━━の職員であることも見逃せない)を見つめ直していく姿が映されている。だからこそ、ジミーが下すにいたる晴れ晴れとした決心は、さりげなくも味わい深い余韻をもたらすのである。


★★★☆☆
(常川 拓也)

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原作は本作にてマチュー・アマルリックが演ずる文化人類学者”ジョルジュ・ドゥヴルーの著作による「夢の分析・或る平原インディアンの精神治療記録」を元にした実話である。

第二次世界大戦に於いて負傷し、退役したインディアンである元軍人”ジミー”(ベニチオ・デル・トロ)は戦後アメリカのモンタナに住み、原因不明の病に悩まされていたが、州の病院では治療できないと判断された為、カンザス州にあるメニンガー・クリニックへ赴き治療する事となった。「頭蓋骨の骨折」にからくる精神病と判断されるが、メニンガー・クリニックでは、治療方法が見つからず、インディアンを研究する文化人類学者であるジョルジュがジミーの専任医師として召喚される。ジョルジュはジミーの生い立ちから最近見る夢に至るまで、毎日一時間ずつカウンセリングを行う。ジミーとジョルジュは病の原因の糸口すら、はじめは全く掴めずにいた。しかし、夢の話や、互いの心に抱える闇を徐々に共有していく過程で、互いに心を通わすようになっていく。

「頭蓋骨の骨折」からくる外的要因による病気と判断され、治療を施す病院に対し、ジョルジュは「夢」やジミーが描く「絵」、そして何よりも、話し合いを重ねていく事でジミーを自然に病から解放していく様に心を動かされる。ジミーは恐ろしい夢にうなされ続けるが、次第に美しい草原に広がる、色とりどりに咲き乱れる花の景色を見るようになる。青白く、そこに居るだけで気が滅入ってしまいそうな病院から、感情の動き=色彩を取り戻したのだ。


本作が鑑賞者の胸を打つのは単に「ジミーの苦悩からの解放」を描いた「記録」だけに留まらず「ジミーとジョルジュの魂の交流」を丁寧に描いている所にある。特に二人の微細な気持ちの変化を、ゆっくりと流れる時間と共に描写していく点が最も興味深い。


★★★★☆
(小川 学)

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『ジミーとジョルジュ 心の欠片(かけら)を探して』

監督
アルノー・デプレシャン

脚本
アルノー・デプレシャン

原案
ジョルジュ・ドゥブルー

エグゼクティブプロデューサー
モリー・コナーズ 、 ベン・リンバーグ 、 クリストファー・ウッドロー

プロデューサー
パスカル・コーシュトゥー 、 ジェニファー・ロス 、 グレゴリー・ソーラ

撮影
ステファーヌ・フォンテーヌ

プロダクション・デザイン
ダイナ・ゴールドマン

音楽
ハワード・ショア

編集
ロランス・ブリオー

衣裳デザイン
デイヴィッド・C・ロビンソン

キャスティング
アヴィ・カウフマン

キャスト
ジェームズ(ジミー)・ピカード : ベニチオ・デル・トロ
ジョルジュ・ドゥヴルー : マチュー・アマルリック
マドレーヌ : ジーナ・マッキー
メニンガー医師 : ラリー・パイン
ホルト医師 : ジョゼフ・クロス


作品情報:「クリスマス・ストーリー」のアルノー・デプレシャンが、実話を基にアメリカで撮影したヒューマンドラマ。心に傷を負ったネイティブアメリカンとフランス人精神分析医の親交が導く静かな奇跡を描く。出演は「チェ 28歳の革命」「チェ 39歳別れの手紙」のベニチオ・デル・トロ、「さすらいの女神(ディーバ)たち」のマチュー・アマルリック、「ひかりのまち」のジーナ・マッキー。


公式ホームページ:http://kokoronokakera.com

2015年1月10日(土)より、渋谷シアターイメージフォーラムにて公開。

2015年1月2日金曜日

映画『ベイマックス』text落合 尚之





僕はことシネメンバーの中でも年長組に入るので、若い人たちの知らなさそうな話をしましょう。今年更に一歩アラフィフに踏み込んだおじさんが、年齢一桁台のころ愛してやまなかった特撮テレビドラマ『ジャイアントロボ』。原作は『鉄人28号』の横山光輝先生で、少年が操る巨大ロボが、悪の組織が繰り出す怪獣・怪ロボットと毎回激しい闘いを繰り広げていました。腕時計型の音声入力デバイスで少年が命令を与えると、ロボは奇怪な声を発してその鋼鉄の拳を振るうのです。ストイックな鉄の面差しと無骨でぎこちない動きの重厚感・重量感は、正に「巨大ロボ」という名のロマンの具現、そのものでした。ロボはあくまで少年の命令によってのみ動作し、自分でものを考えたりはしないのですが、そのロボが一度だけ少年の命令に背いて独自の行動をとる場面があります。それがドラマの最終回。悪の首領・ギロチン帝王を倒すため、ロボは帝王を抱きかかえたまま宇宙へ飛び立ちます。少年の涙ながらの静止命令を無視して、人類を救う為に帝王もろとも自ら隕石に突っ込んでいくジャイアントロボ。心を持たない筈のロボットが見せた自己犠牲の精神は、多くの視聴者の涙を誘いました。純真な子供だった僕も、勿論この場面でダダ泣きです。

この『ジャイアントロボ』の最終回は多くのロボ好き少年達の心に消えない刻印を刻み込み、以降「ロボットの自己犠牲」というモチーフはSFアニメ・特撮の歴史の中で連綿と受け継がれ、繰り返し語り直されていくことになります。その2014年時点での最新版が、アメリカからやって来たこの『ベイマックス』です。子供の頃の僕はジャイアントロボの自己犠牲を、ロボに心が芽生えたからだと信じて疑いませんでしたが、今にして思えばあれは単なるシステムエラーだったのかも知れない。機械に心があるかのように感じるのは、それを見ている人間の側が無意識にそこに心を求めてしまうからです。『ベイマックス』のスタッフはその点大変クレバーで、ベイマックス自身は終始プログラムされた行動をとっているだけなのに、見る側の気持ちによって、あたかもそこに心があるかのように見える、という描き方を最後まで一貫して守り続けています。ケアロボットとしてのプログラムを取り除くと一転して破壊兵器になってしまうという描写も、「使う人によって善にも悪にもなる力」という『鉄人28号』以来のテーマをちゃんと踏まえている。「ロボットもの」というジャンルに対するリサーチの行き届いた、模範解答のような脚本だなと感じました。またそれは、ロボットというテーマを突き詰めていくと結局この形に行き着くということなのかもしれません。

日本版タイトルについての問題ですが、少年とロボットの関係に主眼を置いた構成になってるので、むしろ『ベイマックス』で正解だと僕は思います。

百点満点だけど、なおプラスαが欲しい。★★★★☆
(落合 尚之)

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特撮『ジャイアントロボ』

悪の組織BF団と世界的な防衛組織ユニコーンの戦いを通し、BF団の操る怪獣およびロボット対ユニコーンの一員となった少年・草間大作の命令のみで動く巨大ロボット・ジャイアントロボ(GR1)の戦いを描く。

仮面の忍者 赤影』に続く東映制作・横山光輝原作の特撮作品。日本の特撮巨大ロボット作品の代表格であり、後年の作品に大きな影響を与えている。

『ジャイアントロボ最終回』
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http://www.dailymotion.com/video/xn83ba_ジャイアントロボ-最終回-2-2_shortfilms

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監督 : ドン・ホール / クリス・ウィリアムズ

製作 : ロイ・コンリ

製作総指揮 : ジョン・ラセター

脚本 : ロバート・L. ベアード / ダニエル・ガーソン

ヘッド・オブ・ストーリー : ポール・ブリッグス

プロダクション・デザイン : ポール・フェリックス

音楽 : ヘンリー・ジャックマン

作品情報:かけがえのない大切な人を失った時、ぽっかりと胸にあいた穴はどう治せばよいのだろうか。最愛の兄を失い心に深い傷を負った14歳のヒロの前に現れたのは、何があっても彼を守ろうとする一途な<ケア・ロボット>ベイマックスだった。

 日本とサンフランシスコからインスピレーションを得た架空都市サンフランソウキョウを舞台に、壮大なスケールで描かれる二人の絆の物語は問いかける―「優しさで世界を救えるか?」と。素晴らしい奇跡が起こるその瞬間を、ぜひ大切な人と一緒に・・・。

ディズニー史上いまだかつてない優しすぎるロボットと少年ヒロの絆を描いた感動のアドベンチャー『ベイマックス』が、日本中を限りない優しさと感動で包み込む。

公式ホームページ:http://www.disney.co.jp/movie/baymax.html

2014年12月22日月曜日

映画『アオハライド』クロスレビュー


冒頭と終盤で、「青春」に関するモノローグを背景に、本田翼が真逆の方向に走るシーンが出てくる。冒頭は明るい春の登校風景だが、終盤は真っ暗な夜道。青春=アオハルとは、きらびやかに見えて、闇の中を駆け抜けるようなものなのだ。
 5人の男女の恋愛と友情が描かれるが、どうしてこの5人が結びつき、友情を育くんでいくのかきちんと描けていないようにも見える。たとえば、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』だったら、いがみ合う者たちが仲間になる過程が紛れもないものとして描かれていたからこそ、結束に説得力があった。本作の序盤で、本田翼が東出昌大に「これでも友だちごっこだと思うの?」と、反語的な意味で問いかける場面があって、僕は「完全に友だちごっこだろ!」と思ってしまったのだけど、考えてみると、それこそがノスタルジーでない現在進行形の友情とか青春の姿なのかもしれない。オトナ同士が仲間や友だちになるためには、桃太郎のようにエサを与えたり、『ガーディアンズ~』のように痛みや境遇を共有しなければならないけれど、青春にはそんなもの必要ないのだから。偶然同じクラスになったというだけで、かけがえのないものを形成したり失ったりする特別な時間なのである。トラウマを抱えた東出が、現在を共に生きる人=本田翼と、過去の痛みを共有する人=高畑充希の間で揺れる物語でもある。友情は大切だけど、5人の輪の外にいる人たちのことも、物語上のスパイスとしてではなく描いてほしかった。

高畑充希の迫力:★★★★★
(沖田 灯)
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「これも友達ごっこ?」と訊かれれば「うん、そうだね」としか言えないし、主人公一派による修学旅行の私物化はいくら何でも酷すぎると思う。変更前のルートを楽しみにしてた生徒だっているだろうに…。この映画の八割方を僕は首を傾げつつ見ざるを得ませんでしたが、にも拘らずトータルでの感想を訊かれれば、残り二割の為に嫌いになれない、むしろ好き。
その二割とは、長崎の風景、そして主演の東出昌大くんです。

母親の死と共に自分の人生を生きられなくなってしまった少年・洸は、事実上死んでいるに等しい、謂わば冥界の住人であり、彼を愛する少女・双葉は彼の魂が留まっている冥界=長崎へ赴き、彼を生ある世界に連れ戻そうとする。この話はイザナギ・イザナミの神話や、オルフェウスとエウリュディケーの伝説と同じく、死んだ恋人を現世に連れ帰ろうとする冥府下りの物語の系譜に連なります。映画に描かれた長崎の街景、無数の家々が斜面を埋め尽くす、どこか非現実的で異世界めいた光景は、実は彼岸の光景なのであり、二人が登った長い坂道は、あの世とこの世を繋ぐ黄泉平坂に他ならない。イザナギもオルフェウスも共に男で、恋人の救出に失敗しますが、この作品の主人公は少女であり、まんまと少年を救い出す。それがこの新しい神話の現代性であり、少年が彼女を「ヒーロー」と呼ぶ所以もそこにあります。
ただし作劇的にも人物造形的にも、主人公を「ヒーロー」として成立させられているかという点については疑問が残ります。むしろ映画は「ヒロイン」としての少年・洸=東出昌大の可憐さによってのみ支えられている、といっても過言ではない。冒頭、神社での雨宿りの場面。「急に降って来たよね」の言葉とともに、無表情を装いながらも分かるか分からぬか程度にうっすら緩められる表情筋の動き。かつての少年が鉄面皮の下に今も息づいていることを知らせるその笑みに、一瞬で心を掴まれます。以降ひたすら東出くんの男の色気に当てられ続ける120分。こんな色っぽい高校生がいてたまるかとは思いつつ、彼の一挙手一投足にキュンキュンさせられっ放し。教会の場面ではベタだとは分かっていながらも落涙を禁じ得ず……母子ものの泣かせの手段としてはベタもベタですが、ベタであるとは即ち普遍的で強いということ。そしてやはりここでも胸を打つのは、必死に一人で重荷を抱え込んで来た洸の孤独や自責や強がりがぼろぼろと崩れ落ち、柔らかい少年らしさが露になる、その健気さといじらしさです。それらは歴史上長らくヒロインの資質と見なされて来たものではないでしょうか。東出くんの好演あってこそ、ベタでも素直に泣けました。

かっこいいけどさすがに高校生には見えないので:★★★★☆
(落合 尚之)
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「どうしても『アオハライド』見て、チューしたくなったらぁ、お前にチューする」。そんな高校生男子のやりとりが上映前に隣から聞こえてきた。『アオハライド』は、青春(アオハル)にライドしたいティーンエイジャーのための映画である。さて、本田翼が猛烈にかわいいという一点のみで興味を持ったが、過剰なまでのわかりやすさで作られた、何か解釈する余白がゼロの映画だと思う。本田翼が何を考えているか、心の声は懇切丁寧にモノローグで語られ、過去にどういうことがあったか回想で親切に教えてくれる。全員セリフで思っていることを説明してくれる(ウジウジ悩んだりしない!)。本田翼の前から急に姿を消した中学時代の初恋相手(東出昌大)は空白の4年間に何があったのか──それについても次から次へと明かしてくれ、どうも物語にサスペンスの働きが作用せず求心力を持たない(故に、まだ終わらないのかと長く感じる)。全編において脇役は都合のよい脇役でしかなく、すべての人物は極めて一面的である。主人公の美男美女のためにここでの世界はあり、主に本田翼に共感、感情移入させるために全員その引き立て役を演じているのである。高校という狭いコミュニティでの共感でストーリーを引っ張っているのだ。共感の時代で求心力を持つのは共感の映画なのだなぁと思わざるを得ない。同級生との薄っぺらい人間関係の中で本田翼が本音を言う場面では、教室にいる全員が凍りつき静かになる。みんなこの陳腐なラブストーリーを成立させるためにそれぞれの役割を演じているため、観客は安心して感情移入する。安心したい、共感したい、そんな時代の映画なのだろう。人物が多面的に描けてないし、モブは棒立ち、セリフも棒読み(特に東出昌大はひどい)で演技を引き出せていない、物語だってご都合主義でしかないだろう。頭のお固い年寄りはこれらを批判するかもしれないけれど、そんなものは本田翼の超絶キュートな笑顔の前では無意味だ(かわいい子ばっかり出てくるよ)! というか、薄っぺらいことの何がいけないと言うのだ!  そもそも「青春(アオハル)」の恋愛にまつわることなんて薄っぺらく恥ずかしいものじゃないか。ノスタルジーに浸ったジジババは置いておいて、アオハライダーたちでこの青臭くチープなお伽噺めいた少女映画を楽しもうじゃないか。上映前や後にあちこちで見られた場内で自撮りする十代男女たちの光景はまさしくちょっとした「アオハライド」だった。ティーンのためにある映画において、人懐っこい笑顔で魅了する「FINE  GIRL」には、いつだって予めハッピーエンドが用意されていなくちゃいけないのである。

本田翼のかわいさ:★★★★★

(常川 拓也)

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「青春はいつだって間違える、でもだからこそ青春なんだ。」

文字化して改めて見るとなかなか?な台詞だが、鑑賞後は妙に清々しく、納得できると思った。
ところで?「セイシュン」って?なんだっけ?とも。。。。
とにかく全てがボヤけている映画である。カメラのピントが合う先にはただ一人。洸(東出昌大)だけが静かに佇んでいる。洸を見つめているのは双葉(本田翼)、この映画においては彼女の視界だけが拡がっていくのみだ。双葉の視線に気付かないフリを装い、巧妙に双葉を蜘蛛の巣に引っ掛けるぶっきら棒な男、洸。君は確かにかっこいい。かっこいいぞ!「①背が高い②正義感に溢れる③常に遠くの空を見つめている」それだけで、十分なのだ。演技も、長い台詞も、派手な立ち回りも必要ない。でも、洸の視線の先の空は、常に空っぽのようにみえる。それを空虚と言う人がいるかも知れない。雲は水蒸気である。
身長が高い、無口、猫背、且つ、その無言の背中に謎を醸し出している男には、何故だか決まって教室の窓際に席が用意されている。そして、まるで約束されたかのように、彼等は窓の外をボンヤリと見つめている。遠い目をして肩肘なんか付いていたら尚のこと最高である。そんな洸が双葉はいつも気になって仕方がない。学校、屋上、校庭、部活、夏祭り、浴衣、全ては彼等、彼女たちに用意された方程式なのである。あとは、彼らがいかに答えを導き出していくか、さて、そこがテストの問題である。
青春とはなんぞや?そんなことを考えてしまったら途方もない。「そういう事はジジババになってから考えればいい」という台詞があった。「なるほど、そうなのか。じゃ、俺はまだ考えなくていいのだろうか?」などと考えながら兎に角ビールでも飲んで早く酔っ払いたい気持ちになった。いや、実際こそばゆいっすよね。青春って恥ずかしいっすよね。
上映後の場内を見渡すと、観客ほぼ全てが10代と思しき若人ばかりであった。彼等は月末月初の支払いも、年末の忘年会での接待役に頭を悩ます必要もない。目の前にただ広がる「青い空」を見つめていれば良いのだ。
「青春はいつだって間違える、でもだからこそ青春なんだ。」

東出嫉妬:★★★★

(小川 学)
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  • 監督 - 三木孝浩
  • 脚本 - 吉田智子
  • 音楽 - 林ゆうき
  • 主題歌 - いきものがかり「キラリ」
  • 製作 - 市川南、岩田天植、渡辺直樹、弓矢政法、吉川英作、高橋誠、宮本直子
  • エグゼクティブプロデューサー - 山内章弘
  • 企画プロデュース - 臼井央、春名慶
  • プロデューサー - 川名尚広、大西孝幸
  • プロダクション統括 - 佐藤毅
  • 撮影 - 山田康介
  • 美術 - 花谷秀文
  • 録音 - 豊田真一
  • 照明 - 川邊隆之
  • 編集 - 坂東直哉
  • 助監督 - 府川亮介
  • 製作担当 - 藤原恵美子
  • 製作プロダクション - 東宝映画
  • 配給 - 東宝
  • 公式ホームページ: http://www.aoha-movie.com/index.html