2016年2月5日金曜日

【アピチャッポン特集】映画『真昼の不思議な物体』評 text奥平 詩野

「真昼の不思議な物体」


あまりにもきつい明暗のコントラストに眩しくなった目は、光景を光と闇、白いものと黒いものに二分し、その二つのもののうごめきが互いに寄り添いつつ反発しながらそれ自体がひとつの生命体の動きであるかのように息づき、そしてその動きが更に言葉の物語と寄り添いつつ反発するかたちで、またあるひとつの言葉無き物語を語っている。それは丁度、本作が物語の作られてゆくのを撮ると同時に作られる物語を撮るがために、まるで今私が撮っているかのように感じられるまでに観る事それ自体の行為の自由や生命力が強調され続ける本編の内容全体が与えるショックと通じている。観る者は物の自由の中で、物は観る者の自由の中であてもない散歩をしている。

空想が立ち現れるのはどこかと言うと、今でしかない。空想シーンと語りのシーンの場所や時代が違うからと言ってそれらが分かたれた次元のものであるのでは決して無い。魚売りの車のスピーカーや村の自然音は空想シーンでも途切れず、その事は今話している状況から空想が逃れ出ているのを表現していると言うよりはむしろ、逆にその生活音のリアリティが空想シーンの二色しかない画面の後ろで鳴り続けている事で、その平坦さに奥行きを与え、ある種の開かれた場を示唆し、空想も依然その場所における出来事なのだと感じさせている。劇団員は物語を話す代わりに、そしてそれを後に他者が演じる代わりに、自分達で演じて見せてしまうし、空想を再現する劇の中で役を得ていた人々さえも結局演技をしていないところを撮られている。

そういった場で私達が観ているのは物語だろうか、それともただの偶然の出来事だろうか、あるいは複雑にそれらが入り組んだ作為と偶然の混合物だろうか。私はどの質問も否定で返す事は出来ないが、しかし私が一番に観せられたものは、現実の時間、現実の場所に無限にある事物の持つ、もしくはそれらに私達が与える、物語性や物語の可能性である。それが誰々のこんな空想だというラベルを張れないからと言って無視できるものも、反対にこれは誰々の空想だといってそれ故に完全に意味を硬直させているものも、何一つこの映画には映っていない。もちろんある人が語る物語にはその人と分かちがたい個人性があるのだが、丁度手話で話す女子学生の空想と話している手の動作を一つの音楽で統合してしまうように、物語の性質(メロドラマ的だとか)と個人(劇団員だとか)を結びつけ、その関連性に新たなドラマ性を感じる観る側の能動的な物語制作意欲も、常に映画の音と映像の上に目を光らせているのを感じるだろう。この場合は劇団員だから「せいぜい楽しむがいいわ、覚えてらっしゃい」といったような演劇的なセリフと展開が生まれたのだなと想像させ、その物語が観客を喜ばせるだろうが、観客はいつも筋の通った言語的な物語ばかりを発見できるわけではない。


©Kick the Machine Films

インタヴューされる人と、その人とを取り巻くインタビューされている状況は、彼らが何かを語るという目的のためにある沈黙した場であるのでは無く、木々や動物や学校の騒めきや羊の群れのようにモコモコした子供の群れの動きそれ自体が、私達に何かを語らせる為に存在しているようなのである。二色のヤギが藪を切り開いて現れたかのようにスクリーンを裂いて現れた時、そのヤギに対する視覚が、ヤギのイメージを急速に捉え、未だいかなる意味も受肉していないヤギそのもののあまりにも透明でそれ故に私達を際限無く期待させる物語の可能性を捉えるのだ。そして空想も依然それと同じ場にあり、だから空想内の出来事や物事も誰かに語られたものであると同時に、多分それ以上に私に何かを語らせようと一瞬一瞬動いているのである。先生を二人の子供が布製の衣装ケースに詰めようとしているシーンは、想像される心境としては、急に死んだ先生を取り敢えず見えない所に隠してしまおうと試みながら、大人の女性の重さに手間取る動転か焦りなのかも知れない。しかし、実際観られる映像はもっと思考的ではない原初的な事の成り行きと、シンプルだからこそ鮮明でエグくさえある印象を与えている。布ごしに黒いぶよぶよしたものの力ない重量感がもたれかけてきたり押し込まれたり時々布の裂け目から飛び出して来たりする気味の悪いイメージそのものが語られているのである。

その言葉無き物語においては、それが私以外の対象から私に向かって語られているのか、それとも私が自分の内で語っているものなのか、もはや定かではない。一瞬一瞬の時間の中に、選びようも無く常に目の前にある物事から何かを紡ぎ出そうとする視線の活動を、普段多くの場合私が映画の言語的物語が指示する視線に同化して任せてしまいがちなその活動を、観客に自分のものとしてありありと意識させる本作は、そうした意識によって逆説的にも明かされる全ての対象物の私からの自由さと、私の全ての対象物からの自由さに気づかせ、だからこそ目前で私の精神活動を占めている映画と私との結びつきを切らない為にほとんど神経質に私が行っている一秒も途切れないような努力を明かしてしまうのである。そしてその努力とは言葉無き物語を発見し続けなくてはならないという、いわばイメージに対する異常な執着なのではないだろうか。

子供は呆気なく「主人公は死にました。」と言ってしまうがやはりそこには悲しげな避難の声があがる。「死んじゃうの?」と不安に駆られて訊く級友のその不安こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。そしてやはり主人公は死なない事になり物語は続くのである。続くと言うよりも、続く可能性を残すのである。最後の虎の話も同じで、魔法の虎はその滅亡によって物語を閉じる事を思い直し、森へ消え去る事で物語の可能性を残す。その可能性が私達の眼差しを強く鋭くスクリーンへ向けさせているのだ。子供達が車のおもちゃを犬の首を括りつけて遊ぶシーンで本作は終わるのだが、犬が困惑しながら走る運動に添って車が転がり跳ねながら引かれているそのままのイメージが子供に歓喜の声を上げさせる。その歓喜こそが私達に映画を観せているものなのではないだろうか。


(text:奥平詩野)


『真昼の不思議な物体』
英語題:Mysterious Object at Noon

2000年/タイ/モノクロ/35mm/83 分

作品解説
監督はタイの国中を旅し、出会った人たちに物語の続きを創作してもらう。画面には、マイクを向けられるタイの地方の人々と、彼らによって語られた「不思議な物体」の物語が、交錯して描かれる。話し手により物語は次々と変容する。

スタッフ
監督:アピチャッポン・ウィーラセタクン
脚本:タイの村人たち
撮影:プラソン・クリンボーロム
編集:アピチャッポン・ウィーラセタクン、ミンモンコン・ソーナークン



配給:ムヴィオラ

公式ホームページ

劇場情報

「アピチャッポン・イン・ザ・ウッズ2016」
アピチャッポン・ウィーラセタクン監督の旧作長編+アートプログラムを特集上映!

期日:2016年1月9日〜2月5日
場所:シアター・イメージフォーラム

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